| 2002年01月14日(月) |
「恋におちて」を見た |
前々から見たいような見たくないような映画だった。 恋愛ものが好きだということは周囲の人間に着実にバレつつあるけれど、 不倫ものとか嫁vs姑ものなどは、修羅場を過度に見せつけられる傾向があって、 見るのをためらってしまうのである。 でも、今回橋本さんの推薦があったので、信じて見ることにしたのである。 昨夜、寝る前に見た。
やはりまず、メリル・ストリーブの演技に魅せられるのである。 それに、各家庭での破局が最小限に描かれているのが実にみごとである。 そして、ヒロインにはさんざん悩み苦しませる。いい映画である。
最初のあたりにちょっと類型的なにおいを感じた。 2人とも家族のためにクリスマスプレゼントを買いあさっている。 その合間に会う友人は、不倫の恋のために家庭不和である。 当の2人は、不倫なんて思いも寄らない、なんて生活をしている。 ただし、互いの家庭の状況が微妙に描き分けられているのがいいところ。 男の方は、2人の子どもにも恵まれ、実に円満な家庭である。 女の方は、夫と2人きりで、いささか気持ちのすれ違いもある。 何かいたわり合っているような、危うい雰囲気もあるな、、、と思ってたら、 最初の子を出産後病気で亡くした痛手が夫婦関係に影響しているようである。
お互いの気持ちが深まってきたころ、それぞれの友人がけしかける。 この場面はない方がよかったな、と見ながら思ったものだった。 この映画の最大のキズのような気がする。
家庭的にはよりうまく行っているはずの男の方が身体の関係に性急で、 子どもも失い、家庭的にはちょっとテンション低いはずの女の方が それにブレーキをかける、それでいて余計に深く苦しむあたりなど、 実に緊密な構成になっている。 男が仕事で旅立つ前に少しでも会いたいと、夫の制止を振り切って 雨の中を猛スピードで飛ばし、遮断機の下りようとする踏切を突破しようとして、 我に返って急ブレーキ、、、その後の心の葛藤の場面などはすばらしい。 「マディソン郡の橋」の信号待ちの場面に匹敵する、緊張感ある場面。 毎度のことながら、メリル・ストリーブの微妙な表情の演技には、 画面を食い入るように見つめながら感心してしまう。 この映画では、監督も、その点安心して長いカットを多用しているようだ。
・・・で、昨日、きょうと、こんなコメントを橋本さんちに書いた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− さあ、しかし、この先2人は? なんてね、僕は考えません。 先々まで願い永久にすべてを、と願いつつも先々を考えないのが〈恋〉の本性で、 先々のことや周囲のことをあれこれ考えるのが〈理性〉の役割です。 こうしてみると、やっぱり〈恋〉は劣等生みたいですが、 だれだって、〈好き〉という感情の威力は知ってるじゃないですか。 仕事でも、趣味でも、勉強でも。。。 「好きこそものの上手なれ」という諺レベルにとどまらず、 好きなら結果なんて考えずに挑戦してみろ、とまで言うじゃないですか。 〈恋〉だけ罪悪視するのはやっぱりおかしいと思うのです。 〈恋」と〈理性〉とがうまくバランス取れれば最高ですけどね。(きょう)
理性の力が及ばないだけでなく、恋に落ちてしまうと、 どうするのが本当にいいかは、倫理的価値、愛情論的立場では 判定できなくなる、というのがtensei 流恋愛論です。 当の本人の心の中にはそれほど大きな世界が作られてしまうのに、 倫理的判断は単に「狂った心」「心の迷い」として一蹴しようとします。(昨日) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
不謹慎な意見と批判されようが、これが心の真実である。 そうじゃなくてこうであって欲しいというのは、別の次元の問題であって、 まずは、ありのままの姿を記述することだ。 その上で、どう判断するかは、生身の個人の問題だ。 他者がどれだけ罪悪だと罵る恋をしたって、それが幸か不幸かを決めるのは、 当の本人でしかない。 「ロミオとジュリエット」を喜劇めいた悲劇にしたのは、 彼らの恋が幼かったからである、などと決めつけるわけには行かない。 〈好き〉よりも〈憎い〉〈嫌い〉を絶対的価値にした 両家の稚拙な価値観が、喜劇めいた悲劇を生んだ、とは明言できるけれど。
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