う、う、、、つ、、疲れた、、、、、で、パタッと倒れたい気分だったが、 夕食でいつものようにビールを飲んでも、眠いような意識が遠いような感じがしても、 菜々まつ様を見ないわけにはいかないし、洗い物はしなきゃいけないし、 明日の朝のご飯を炊く用意はしなきゃいけないし、それだけやっても まだ多少余力はありそうだから、書けるだけは書いておこうかな、、、と。。。
きょうは、2週間前の日曜と同じく、市吹の強化練習日だった。 定演前の最後の練習日なので、2回の通し練習をした。 9:30〜11:30に全体の通し、1時から部分練習をして、 2:00〜4:00に2回目の通し練習をした。 実にハードな練習日程である。もう許してよ〜、と団員から悲鳴が聞こえそうである。
中・高時代には、長期休暇中や日祝日の1日練習が当たり前だった連中でも、 社会人になった今では、週1回たった1時間半の練習がやっとである。 週1回継続的に守れるものは少なくて、仕事の都合などで月1回の者もいる。 そんな習慣の中での1日練習は、口にも負担がかかるし、 指、というか、指を動かす腕の筋肉への負担も大きい。 団の音楽監督としては、いろいろと気遣いながらも、はい次、とか言って、 練習へと拍車をかけるわけだけれど、あぁたいへん、とか、もうダメ、というような 表情を見せながらも、いざ曲を吹き始めると、真剣な表情で 約束した表現をちゃんと再現しようとしてくれるのだから、エラいものである。
合奏の楽しみを覚え始めて、33、4年目になる。 私はこういう、おおぜいでひとつのものを作り上げる活動が好きなのだ。 性格も考え方も感じ方も違う、でも、できあがるものはひとつである。 それは、われわれの子どもである。 その子どもは、生まれると同時にどこかに行ってしまうけれど、 できるだけ表情豊かで感性豊かな子どもを生みたいという気持ちは同じである。 練習の間は、胎内に子どもがいるようなものである。 時には、ひどい陣痛に襲われる。 ステージで生まれる子どもには、時には不細工な子も生まれるけれども、 どれもこれも、苦楽の結晶としてかわいいものである。
きょうの2度の通し練習で、今まで混沌としていた定演の音楽の流れが ようやく明らかになり、何とかなりそうなめどがついた。 立ちっぱなしで、歩いたり走ったり踊ったり、たいへんな1日ではあったけれど、 癒しがたい疲れも、やっぱり快さを伴っている。 そうして、これから1週間、団員の体調を気遣うことになる。 風邪、花粉症、怪我、、、などなどの心配はもちろんのことであるが、 一般の人にはなかなか想像がつかない心配というものがある。 きょうの練習がもとで、腱鞘炎になりはしないかとか、 口元にできものができはしないかとか、悩みの種は数え切れないほどある。
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