山育ちで川育ちではあるが、もちろん海も好きである。 蒲郡と知多に勤めていた時期もあるから、そのあたりの海はよく眺めている。 東京にいた学生時代には、横浜や鎌倉や伊豆の海を眺めに行った。 修学旅行などで瀬戸内海や萩の海はたびたび眺めさせてもらえた。 3、4年前には、能登半島まで2泊で出かけたりもした。 道路を走っていて海岸沿いの道に入り、海の大きな光景が目に入った瞬間は感動的だ。 海岸に立って、または座って、眺める光景も、いつまでも飽きさせない。 フランス語では、海は la mer 母は la mere だと言って海の母性を説いた 評論家もいたけれど、確かに海の眺めは心を癒してくれる。
しかし、川もまたいいものである。 海のような大きさも広さも懐の深さも望めないけれど、川には川のよさがある。 私はこの近辺の長良川の川面を見るのが好きである。 もっと上流の郡上方面の川を眺めるのも好きだし、長良川でなくても、 チョロチョロ流れるような山の中の小さな流れを眺めるのも好きなのだが、 時折ふらっと散歩に出て、何気なく眺めることのできる近所の川もが好きである。 あまり深くなく、川底の石が見えるほどの、大して大きいとも言えぬ川である。 けれども、その流れを見、ぽちゃぽちゃ言うような音を聞き、 潮の臭いとはまた違う生臭いようなにおいを感じているうちに、 つまらんことでウジウジしている自分がばかばかしくなったりもするわけである。
川を眺めて楽しむときによく思うのだが、川は水際で流れを眺めて楽しむものである。 そうして、不思議な感覚に襲われる。 今目の前に見ている水は、さっき見ていた水ではないという、鴨長明的感覚である。 目の前の光景はさっきとほとんど変わりないのに、さっきの水はもうここにはない。 常に上流から新たに現れ、そして下流へと去って行く。
我々は、海を眺めるとき、その大きさを見、広さを見、水平線を見、水の深い色を見、 寄せては返す波のダイナミックな動きを見て、心を広く大きくする。 海が与えてくれるものは、空間的な感動である。 それに対して、川の与える感慨は、多分に時間的なものである。 我々が川の光景に見るものは、究極のところ、流れである。 黄河や長江にまで行かずとも、長良川のごときちっぽけな川でも、 悠久の流れを感じることはできる。
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