「中学生でもできる哲学的思考」というメルマガが忘れていた状態で唐突に届いた。 「あと50分くらいで発行しないと廃刊になってしまうので」なんて断り書きがしてある。 たぶん、数ヶ月発行せずに来たのだろう。 こういう、他者と契約を結んで発行しているメルマガでもこれだけさぼるのだから、 私の日記が1週間くらいさぼるなんてのはかわいいものである。 (書くことがないときに昔書いたものを加筆訂正しつつ転記する人もあるようだが、 私はリアルタイムを重んじるので、今のところはそういうことはしていない)
さて、そのメルマガは、今回は「愛について」書かれていた。 前置きは省略して、筆者の本題のところだけ引用しておくことにしよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そこで最近、「自分と同じように思えるもの、これが 『愛している』ということなのじゃないだろうか?」と思っています。 つまり、自分と分離している感じがしない、一体感、のようなもの。 これが愛じゃなかろうか、と。
あくまでも一般に、ですが、親は子を、自分の命に代えても守り抜こうとします。 子供が殺されそうになったら、「代わりに私を殺してください!」と叫びます。 これが愛じゃないだろうか。 この図式において親子の間にVSは存在しません。 親子は同じチームで、VSが存在するとすれば、その外に向けてなのです。 その場合、親にとって子供はある意味『自分』であるのです。 自分が殺されるのと子供が殺されるのとは同じなのです。
友人の交際していた男性が、「愛っていうのはねぇ、一番うまいと思ったものを 好きな人にあげることが出来るかどうかなんだよ」と冗談のように話していたそうです。 何年も前に聞いたにもかかわらず、その言葉はずっと私の中に残っていました。 自分にとってものすごく美味しいと思うものを、自分は食べなくていいから この人に食べてもらいたい、と思える、うーむ、愛かも、と最近実感してます。 食べ物のことは根源的で本能的ですから、私にとってはかなり難しいことなので…(笑)。
そこで今度は、「『自分』と思える範囲が人によって違う」ということに気がつきました。 つまり、ある人は文字通り『自分自身』しか自分と思えないのに対し、 ある母親は家族5人全員を自分と同様に考えられる。 またある教師は、クラス全員の教え子40人を自分だと思える。 そしてマザーテレサやガンジーなどは、世界の人間すべてを 自分と同じように尊び、大事にすることが出来る(のかな?)、と。
相手を自分と同様にとらえるということは、相手を愛しているということ。 逆も真で、愛するとは、相手を自分と同じように感じられること。 つまり、自分がほしいものを与える、自分がされたくないことはしない、 自分が言って欲しいことは言ってあげること。
世間一般でイヤというほど言われている、これが「愛」の正体なのでは なかろうかと、私は現在行きついたわけです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
愛とは「自分と同じように思えること」? 新しい表現かも。。。 なーるほど、、、こう考えれば、単に「べき」の領域でないことがよくわかる。 「自分と同じように思える範囲が人によって違う」? なーるほど、、、こう考えれば、愛にさまざまな相があることもよくわかる。
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