日常的に物の値段に不思議なものを感じることは多い。 まず、家電機器などはどんどん安くなるものである。 私などは新しい物好きというか、新しいものが出たらすぐ使いたがる方なので、 ビデオデッキ、CDプレーヤー、LDプレーヤー、CDRレコーダー、、、など、 1、2年後だったらもっと高性能なのが3〜5台も買えそうな投資をしたものだ。 ケータイだって、7、8年前は、新規契約に数万円かかった。 それでも、電話引くよりはうんと安いじゃん、と思ったものである。 ところが、それから2、3年もするうちに、0円契約なるものが現れた。 ホントにもう、なんてことでしょ、、と恐ろしいばかりの変わりぶりである。 ま、しかし、安くなるまで待ってもよかったのだけれど、 いろいろと機器の恩恵もあって、早々に感動の時間を得られたり、 便利さに助けられたりしたことも多いわけだから、金銭的には損したようでも、 実際の生活的観点にはその価値を認めてやらなければならない。
それは日常の話であるが、非日常的な、値段の不思議が2つ、きょうの新聞にあった。 ゴッホの絵とケータイ番号の話である。
1〜2万円で売られるはずだった絵が、ゴッホの真正作とわかって、 オークションでは500万円からのスタートとなり、6600万円で落札した。 すごい出世である。 「作者不詳」なら1万円、「ゴッホ作」なら6600万円である。 大切なのは、ゴッホ作であっても「作者不詳」なら1万円であり、 その絵を見ただけなら1万円でも、つまり、見ただけならそんな価値しかなくても、 「ゴッホ作」というだけで6600万円である。 北さんが雑記帳で憤慨しているように、実にばかばかしいからくりである。 落語の枕での話に、茶碗か壺の展示を見て、その値段が驚くほど高いので、 見に来た「通」らしい年寄りが、何もわからんという同行者にいろいろ説明していると、 展覧会の係がやってきて、間違えたと言って壺を取り替えていく話がある。 きっと、ゴッホ作ということで、これからその価値ある部分が説明されて行くのだろう。 こういうからくり自体にばかばかしさを感じずにはいられないけれど、 落札したのは美術館である。 個人の趣味でなく、美術館としての蔵品価値の問題だから、そう批判はできまい。 何としても我が美術館に収めたい、何としても手に入れたい、そうしたら、 6600万円でしか落札できなかったというだけのことである。 絵の値段というよりも、入手権利金と言うべきなのかも知れない。
それより驚きなのは、ケータイ番号の売買である。 部分的にでも同じ番号が並んだものや、連番が並んだものは売れるそうである。 しかも、何十万、何百万という値段で売れるそうである。 買う人があるということに不思議を覚えるのだが、甚だしいところでは、 090-の後が全部同じ番号だったものは、3000万円で売れたという。。。 永田町の宝飾店社長は、37台もの「良番」ケータイを集めたという。 全部で1000万円を投じたが、段ボールにしまってあって使っているわけではない。 ある人(内装業者、とあるから、そう裕福ではあるまい)は、 右上がりに数字の並んだ番号を、サラリーマンの年収ほどの大金かき集めて手に入れ、 結局、頻繁ないたずら電話に悩まされて使い物にならなくなった。 当てずっぽうのいたずら電話の格好の標的になったわけである。 何百万円もの大いなる自慢の品が、疫病神になってしまったということだろう。 車のナンバーもケータイ番号も、な〜んでもかまわない、 車は快適に走ればいいし、ケータイは緊急連絡できさえすればいい、という人間には、 想像もつかないようなことが世間ではくり広げられてるんだなぁ、、と、 実にあっと驚く記事であった。
ま、少なくとも自分は、ものごとの本質をしっかり見つめて生活したいな、 という思いを改めて確認したわけである。
|