LOVE*LOVE*LIFE
瞳を閉じれば あなたが
まぶたのうらにいることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私もそうでありたい

2002年01月25日(金) 死。

急ですが、今日1月25日午後2時7分、最愛の祖父が亡くなりました。

昨日容態が急変して夜病院から「危篤」の電話が入りました。
母と病院に行くと、酸素マスクをしても肺に酸素が40%程度しかいかない状態で
とても苦しそうでした。
母が先生から話を聞いてる間、あたしはおじいちゃんのベットの横に座って、
手をつないで、あまりの呼吸の荒さにずれてしまう酸素マスクを直しながら
今までの事を振り返っていました。
おじいちゃんは今年の3月で89才です。
あたしは小さい頃からおじいちゃんが大好きでした。
優しいし、楽しいし、小さい頃はよく荒川に釣りに行きました。
ピアノの時はおじいちゃんの自転車のうしろに乗って毎週通いました。
そんなおじいちゃんが12年前、あたしが12才の時に脳硬塞で倒れました。
右半身麻痺。言語障害。
この時からおじいちゃんは言葉を発する事が出来なくなりました。
かといって、文字にする事もできません。
おじいちゃんが必死に訴えてる事がわからない事が何度もあり、つらかった。
でも、昔は自分でトイレも行けたし、ごはんも食べれてたんです。
それが徐々に動かなくなって、寝たきりになって、おしっこは管を入れて。
去年あたりから段々と弱っているのが目に見えて分かってきました。
去年の夏頃から、段々食欲がなくなって、食べてもむせてしまうようになった為、
秋になって、直接食事を胃に送る胃ろうの手術をする事になりました。
しかし、そんな話が進む中、肺炎になって入院する事になってしまったのです。
それがおじいちゃんにとって最後の入院でした。

先週末にお見舞いに言った時は、1万円札を見せると手に取って見るほど元気だったのに。
昨日はとても苦しそうで、見ているだけで涙があふれました。
そうして手を握りながら、なんで?おじいちゃんは何も悪い事してない。
戦争に行ってお国の為に戦ったし、いつでもあたしと母の味方でいてくれた。
母が離婚する時も、おばあちゃんは「恥ずかしい」と言ったのに
おじいちゃんは、この家を出て行こうと決めた母に「お前が出て行く必要はない。
お前がこの家を出てしまったらチーコ(あたしの事)を育てられないだろう。
せめてチーコだけは大学まで行かせてやりたい。その為にもここにいなさい。
将来、お前が年をとった時に、チーコとチーコの旦那と3人でここで暮らしなさい。
その為にこの家は建てたんだから。」って言ったそうです。
それから少ししておじいちゃんは倒れてしまって、言葉が話せなくなってしまったんです。
これはあたしが結構大きくなってから聞かされた話だけど、何度聞いても泣きます。
ありがたい。しあわせです。

そういう事思い出すと、涙が止まりません。
おじいちゃんの手はまだまだあったかくて、きっと元気になる、そう思えば思うほど
涙があふれるんです。
それから12時くらいまでは病院にいたけど、とりあえず家に戻って連絡を待つ事にしました。
今朝まで電話は鳴らず、あたしは仕事へ向かいました。
昨日充分、ちゃんとお別れしたから大丈夫です。
でも…。
仕事場で接客をしているとバイトが「お母さんから」って電話を持っています。
ついに来てしまったか…とあたしは息を整えました。
母は落ち着いていました。「2時7分に亡くなったから…」
あたしはただ、「うん…」としか言えなかった。
それから今日の流れを聞いて、お通夜と式の日程を店長に伝えて急いで帰った。
今日はこのままおじいちゃんに会えないと分かっていても急いでしまった。
帰りの電車の中で、ごく親しい有人とYにだけメールで知らせた。
みんなあたしがおじいちゃん大好きだったのを知ってるから、すぐ返事が来た。
Yは夜電話くれた。だいぶ落ち着いてたんだけど、「大丈夫?」って言われたら
また泣いてしまった。
Yは日曜日スノボだから「楽しんできてね」って言って切った。

あたしはまだ身内を亡くした事がなくて、おじいちゃんが初めてで、
人が死ぬっていう事が全然理解できてないけど、こんなにもつらいものだとは
正直、思ってなかった。
明日、おじいちゃんの体を拭きに行ってきます。
泣かないように、泣かないように。おじいちゃんに笑顔を見せるように、行ってきます。


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