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予告編 - 2001年09月02日(日) わたしはドクターにあの人を重ねてる。 チャイナタウンでごはんを食べて、イタリー街を歩いて、 あの人を連れて来てあげたいと思いながら 一緒にいるドクターに、遠いところにいるあの人を感じてる。 ブックストアーの中のスターバックスでコーヒーを飲みながら、 ドクターが抱え込んできたタイと日本のガイドブックを一冊づつ手にして、 ドクターはときどき「見てこれ。すごいよね」って言いながら、美しい絵が彫られたタイの古代の金の刻版の写真をわたしに見せる。 わたしは「観光客が知っておくべき日本の事実」のページの嘘だらけに吹き出しては、「ねえ、ここ読んで。これ嘘ばっか。ほんとはねえ」って教えてあげる。 そんな、ものすごくくつろいだ気の休まる時間を、 まるであの人と過ごしてるような錯覚に陥りそうになる。 あの人が突然ここに現れて、 もう彼女なんかいなくて、わたしにも日本に戸籍上だけの夫なんかいなくて、 苦しかった時間が全部飛んで何もかも忘れて、 はじめから恋人だったみたいに一緒に過ごせたらきっとこんなふうなんだろうなって思う。 わたしがずっと信じてる、百年か千年か二千年後にまた出会えるあの人とわたしの未来の、これは予告編なのかもしれないと思う。 ブックストアーから地下鉄の駅まで歩きながら、ドクターが話す。 3ヶ月前に恋人と別れたこと。それはこの前聞いていた。その別れが彼にとってものすごい痛みで、そのあとの3ヶ月間、まるで痛みを癒すためだけみたいにたくさんの女の子と出会っては別れたこと。一晩だけの関係もあったこと。行きずりの相手なのかなと思って、わたしは聞く。 「一晩だけって、どういうの?」 「きみと先週デートしたみたいな。それであのままおしまいになったみたいな。あの時きみはガールフレンドじゃなかったろ?」 「今は? あたしはガールフレンドなの?」 少し黙ったあとで、ドクターは答える。 「慎重になってると思う。あの失恋が大きすぎたせいだと思う。」 地下鉄の、人が溢れる夜遅いプラットフォームで、どちらからともなく抱き合いながら、そんな話を続ける。決して深刻にではなく。 「あなたはあたしから何が欲しいの? 何を求めてる? セックスの関係?」 「きみとのセックスは好きだよ。だけどそれだけじゃない。なんでそんなこと聞くの?」 「あたしはあなたがあたしに何を求めてたとしても、ちゃんとそれを知っておいて、はじめからそのつもりでいたいって思うから。」 「きみはセックスの関係が欲しかった?」 「No! No, no, ・・・no. そうじゃない。絶対違う。」 なぜかとても、安心した。セックスを求め合ってるんじゃない、ってことにじゃなくて、抱き合ったからそのまま繋がっていたいわけじゃないってことに。お互いの求めてるものが同じようなものだということに。ふたりとも早急ではなくて、慎重にこの関係を見つめてることに。お互いに、何も約束なんか出来ないってことに。 ドクターは10月に休暇でタイに行ったら、そのあと別の病院で働く。そして来年の7月には、こことは方角が正反対のところであと3年レジデントをする。「10ヶ月のあいだにきみを出来るだけ連れ出してあげるよ。ここのこと、きみはまだなんにも知らないからさ」。 それでいいと思う。ドクターはそのあいだに、今まで癒せなかった痛みをきっと癒してくれる。わたしの痛みは消えそうにはないけど、居心地のいい場所が出来る。うんと遠い未来の、わたしだけのあの人を想いながら過ごせる場所。 来年の7月。 あの人はもう結婚してるんだろうか。 わたしがまたひとりぼっちになってしまうときに。 -
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