一橋的雑記所 目次&月別まとめ読み|過去|未来
時間軸:祭り後。 - Ver. N - 深い水の底から浮き上がる。 取り戻した意識が激しい目眩と息苦しさに晒されて。 もがいて足掻いて苦しんで。 それから、再び落下する。 全てが拠り処をを失い予測の付かない力に引きずり回されていく。 酷く、目が回る――。 もういい。 沢山だ、もうこんな――。 「……なつきっ!」 はっ、と目を瞠る。 薄闇に覆われた視界の中。 酷くくっきりと浮かび上がるのは、血の色にも似た、真紅。 それは、この身体の上に圧し掛かるようにしてこちらを覗き込んでいる彼女の瞳。 からからに乾いた唇を開き、その名を呼ぼうとする。 けれども声は、掠れて形を成さなかった。 「どないしたん……えらいうなされて」 静かな、けれども切迫するものを湛えた彼女の声が耳朶を打つ。 「……なんでも……」 何故だろう。 泣き出しそうだと思った。 自分では無く、彼女が。 「何でもない……夢を、」 そう。 夢を見ていた。 暗く冷たく苦しい、夢。 けれども何処から説明したものか少しも分からなくて、ただ大きく息を吐くと、頬に冷やりと触れるものがあった。 彼女の、細い、指。 優しい、けれども、少し震える冷えた指。 暗闇に慣れ始めた目にようやく、彼女の不安定な表情か映った。 違う。そうじゃない。 おまえとの記憶が見せた夢じゃない。 そう言い掛けた言葉を、どうしてだか躊躇いと共に飲み込んで。 遠慮がちに頬に添えられたその指に、自らの掌を重ね、頬を寄せてみる。 「……なつき……」 戸惑うように、彼女の声が揺れる。 そこに色濃く滲む不安の色を、どうにか消してやりたい。 でも、どうすれば良いのか分からない。 じりじりと炙られるような胸の痛みに押され、彼女の首筋に腕を差し伸べる。途端にびくりと震えたその身体を、ゆっくりと引き寄せる。 「夢を……見た……いつもの、昔の、夢だ」 まだかすかに震える彼女の身体を抱きかかえるように回した両腕に、力を籠める。 「暗かった、冷たかった。沈んでゆく時は、本当に苦しかった……それなのに、そこから引き上げられる時はもっと、苦しかった」 「なつ……」 「今でも思い出せる位だ。息が出来るようになった瞬間が一番、苦しかった」 もの問いたげな彼女の声を遮って一息に続けると、その髪に頬を押し付ける。 「だから時々、夢に見る。私にとって恐らく、一番辛い記憶だからだ……ただそれだけだ」 「……堪忍」 「……なんで、あやまる?」 搾り出すような声音を漏らした彼女がそっと、シーツの上に両腕を突いて身体を引き剥がす。逸らされた顔は柔らかな髪に覆われ、そこにある表情を伺わせてはくれない。 「辛いこと、言わしてしもた……」 「まて、私にとって辛い記憶なのは確かだ。でも、」 背けられたその頬を捉えて、こちらを向かせる。 案の定、目をあわそうともしない彼女の横顔に、思わず溜息を零す。 「これはもう、私の一部だ。言葉にしようがしまいが、消える事はない」 「………」 「こうして夢を見たり、思い出したりする事は止められない。でも、おまえが……そんな風に、私にあやまったりする必要は、ないんだ」 言い募りながら、自分でも。 何を話しているのか、何を話したいのか、分からなくなっている事に気付く。 今説明するべきことと本当に話したいことの境目が、咽喉元を今もなお圧するがごとき記憶に引き摺られ、曖昧になってゆく。 そのもどかしさの中で目にするのはただ、切なげな彼女の、横顔。 「静留」 呼べども応えない、その引き結ばれた唇の色が。 逸らされたままの、瞳の色が。 伝えたい全てを拒むかのように、何処までも遠く見える。 だから。 「…………っ」 気がつけば。 強引に、ぶつけるように。 彼女の唇に自分のそれを重ねていた。 「な……」 その声が、自分の名を呼ぶその響きが好きだった。 けれども今は。 何かに怯えるように自分を拒もうとするその声が。 「……つ、き……」 小さく呻くようなその声が胸の奥深く突き刺さるように切なくて、その唇ごと、塞ぎ止める。 伝わる熱が、少しずつ、頭の中に染みてゆくようだった。 痺れるような感覚の中、一方の掌で彼女の頭の輪郭を捉え、もう一方の腕全体で、彼女の腰の曲線を捉える。 どんなに拒まれても。 分からせたい。 伝えたい。 言葉にさえならない想い全てを、分かち合う事など絶対に不可能だと分かっていて、それでも。 行き場を失う前に、こみ上げる気持ちをその衝動のままに身体ごと、彼女に押し付ける。 「………っ」 声にならない彼女の声が、唇伝いに頭の中に直に響く。 初めてあった頃は、分からない、分かりたくないとまで、思っていたのに。 だのに、この心は、身体はこんなにも、彼女に近づきたくて。 触れたくて、分からせたくて。 ああ。 そうか。 これが。 うっすらと熱を帯びた脳裏に何かが過ぎった、その瞬間だった。 ぐい、と強い力が肩を押し、身体を引き剥がされた。 乱れた息、そして。 少し遅れて、彼女の柔らかな髪と指先が、頬に落ちてきた。 「なつき……」 泣き出しそうだった。 苦しそうだった。 溺れ苦しむ夢をみた自分なんかよりも、余程。 「なんで……なんでこないなこと……」 悲しげにすら聞こえるその声音が耳に触れた瞬間。 沸騰するほどの熱を帯びた胸が、瞬時に冷える。 「……駄目か?」 そう。 かつて、拒絶したのは、自分の方だった。 彼女の温もりを否定したのも、自分だった。 それもまた、消せない事実で。 だけど、でも。 「私の方から触れるのは、許せないか?」 「……! そないなこと……!」 驚いたように叫ぶ彼女に、こめかみの血流が凍りつくのを感じる。 一度口にした叫びは、取り返しがつかない。 彼女の差し伸べた手を振り払った、あの時の痛みが、どうしたって消え去らずこの掌の何処かに残されているように。 彼女の心に刻み付けられただろう痛みも、無かった事には出来はしない。 分かっている。 それでも。 「静留……」 囁いて。 静かに、もう一度。 腕に力を込め、引き寄せる。 この心をいつも、身体ごと受け止めてくれた彼女を。 抱き締めたくて、引き寄せる。 逃げないでくれ、と、心から願う。 悲しいほどの想いに、今更気付く。 「おまえが……居てくれて良かった」 悪夢から目覚めた瞬間。 目にした真紅。 どれほど激しい痛みや悲しみが胸に刻み付けられていても、どうしても泣けないでいる自分の心を映し出したように。 泣き出しそうだった、彼女の瞳が。 そこにある事が。 怖い位に、嬉しかったのだ。 それは決して、彼女が抱く想いとは違うとしても。 分かって欲しい。 分からせたい。 同じだ。 おまえと、同じ強さで、私も。 遠い過去。 冷たい水の底に置き去りにしてきた何かが浮かび上がる。 彼女の、悲しい程に一方通行だった心が、それと重なる。 触れ合う頬につめたい滴が伝い、互いの体温で温められて流れ落ちて行く。 「私は、おまえが、好きだ。静留……」 空気を光を温度を失って。 沈むばかりだった自分を。 再び、地上へと引き戻した何か……それは。 空気を光を温度を取り戻した瞬間に覚えた。 生きる事への目眩と苦痛の先に。 こんなにも切ない温もりがもたらされることを。 知っていたのだろうか。 「なつき……」 「だから、泣くな……」 呟く頬に流れ続けるものが。 彼女のものなのか自分のものなのかも分からないまま。 ただ、ひたすらに求めていた。 彼女と共に迎える明日が続くことを。 彼女と共に重ねる、新しい思い出を。 たとえ二人の想いが決して。 同じ形を描くことがなくとも。 いつまでも求め合う、そんな日が続くことを、何処かで。 ― 了 ― 相変らず、リハビリ継続中(何々)。
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