ケイケイの映画日記
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2025年02月28日(金) |
「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」 |

面白い!面白過ぎ!武侠ではない、カンフーアクションの作品を観たのは、何時以来だっけ?やっぱカンフーは香港だよ、本家本元だよ!と、興奮しまくった125分です。監督はソイ・チェン。
1980年代の香港。密入国してきたチャン(レイモンド・ラウ)は、身分証欲しさに、賭けの格闘技に出場。優勝するも、黒社会の大ボス(サモ・ハン・キンポ―)と諍いを起こし、大ボスも手出しできない九龍城に逃げ込みます。そこで九龍城を統治するロン(ルイス・クー)や、右腕であるソンヤッ(テレンス・ラウ)、闇医者のセイジャ(ジャーマン・チョン)、サップィー(トニ―・ウー)と出会い、九龍城の中で、確かな居場所を見つけ出すのですが・・・。
劇中2/3は、あの技この技、キレキレのカンフーアクションの嵐です。香港の男性は、みんなカンフー出来るのか信じていた、大昔を思い出しました(笑)。そしてゴリゴリのワイヤーアクション。香港の男性は、ビルから落ちても窓ガラスけ破っても、死なないし、かすり傷くらいなんだと信じていた、大昔を思い出します(笑)。素晴らしい馳走感と躍動感です。久しぶりに観たので、アクションで感動しちゃった。
こうなると、ドラマなんかどうでも良くなるんですが、これがなかなかの塩梅で熱いのですね。無法者や訳アリの人ばかりが住み着く九龍城。麻薬や犯罪が蔓延り、魔窟のようです。しかしスラムはスラムなりに、秩序を保ち、配慮するロン。彼も黒社会の人間のはずが、聖職者のように見える。
「ここで初めてぐっすり眠れるようになった」というチャンに、「それはここだからではなく、初めて人間らしい暮しをしているからではないか?」と答えるロン。底辺は底辺なりの、心豊かさを感じます。
今は亡き九龍城は、香港では恥部であり暗部であったはず。水は低きに流れ、その低い湿った場所でしか、生きられない人々もいるはず。この巨大な要塞のような廃墟のような魔窟は、そうした貧しき人々にも、生きる場所を与えていたんだと、この作品では描いています。眼差しが暖かい。そこへ、九龍城への、貧しき人々への敬意と郷愁を感じ、この作品を優れたアクションだけではない、奥行きを与えています。
ルイス・クーが、惚れ惚れするような渋さです。侠客って、こういう事だわねー。人格高く人望も厚く、これも大昔の日本の任侠映画に見かけたキャラです。
レイモンド・ラウも、坊主頭が良く似合い、実年齢が40代半ばには見えない若々しさで、ソンヤッたち三人と、堅い友情を結ぶ姿など、実直で清々しいチャンを好演しています。
そしてサモ・ハン!始まってすぐ出て来て、あっ、悪役だーと、ニヤニヤしてしまった(笑)。「仁義なき戦い」の金子信雄みたいな食えない親父で、相当悪党なのに、超絶チャーミング。少しですが、往年の実力を見せるカンフーシーンもあります。型のキレなんて本当に流石で、そんじょそこらの爺さんとは、別物の風格でした。
とにかくこの感激は、何をどう書いても伝わらん。大好評で、あちこち地方も公開予定みたいなので、是非ご覧ください!

邦題は嘘八百の作品。と、鑑賞直後はそう思いましたが、主人公のケーレンは、長い長い開拓の道程で、自分の中の愛を見つけ出したのだから、妥当な題名なのかも?と思い直しました。足るを知る事は、自分だけではなく、周囲の人にも安寧をもたらすものかもなぁと、深く感じ入りました。監督はニコライ・アーセル。
18世紀のデンマーク。貧しい退役軍人のケーレン大尉(マッツ・ミケルセン)は、長年の不毛の地である荒野を開拓する事を、宮廷に願い出ます。報奨は大金と貴族の称号を賜る事。それを聞きつけた地主の有力者デ・シンケル(シモン・ベンネビヤウ)は、自分が土地の所有者だと因縁をつけ、ケーレンの開拓の邪魔をします。屈せずに励むケーレンに、牧師のアントン(グスタフ・リン)は、デ・シンケルの凄惨な拷問から逃亡して来た夫婦者のアン・バーバラ(アマンダ・コリン)とヨハネスの夫婦を紹介。ケーレンは雇い入れますが、この事がデ・シンケルの知る所となり、二人の戦いの火蓋が、切って落とされます。
原題は「私生児」。実はケーレンは、貴族が使用人に手をつけて、産ませた子供です。デ・シンケル曰く、当時のデンマークの貴族は、そのような出自の男子は、みんな軍隊に放り込んだのだとか。ケーレンが貴族の称号に固執するのは、自分の出自からです。母への想いというより、自分を捨てた父親に、同じ立場に立つ事で、復讐したかったのでしょう。
25年かかって大尉まで上り詰めたケーレンは、大層頑張ったのだとの他者の台詞もあり、ケーレンのような男性の多くは、途中で退役したり朽ち果てたのでしょう。これらの事から、彼が不屈の人だと解かる。デ・シンケルのやり口は、差別・暴言・殺戮・暴行など、あらん限りの蛮行ですが、それでもケーレンは屈しない。
ケーレンは不屈なだけではなく、超が付くほど頑固で、嫌味な孤高の人です。当初アン・バーバラから「何様なの?」と、陰口を叩かれる。頑なで人を寄せ付けない。それが変化していったのは、残忍な方法で、ヨハネスがデ・シンケルに処刑されてからです。アン・バーバラに謝罪するケーレン。己の人生でこれでもかの辛酸を舐めたはずの彼ですが、哀悼や詫びという感情は、初めて感じたのではないかな。成り行きで引き取った、タタール人のアンマイ・ムス(メリーナ・ハーグベリ)や、自然に妻のように自分に添うアン・バーバラの存在は、彼に人間らしい、血の通った心を呼び覚まします。
しかし、止まないデ・シンケルの悪行に対抗するため、ケーレンは一つ一つ、その愛たちを手放し、そして人は離れていく。どこかでデ・シンケルと和解という方法があったのではないか?和解は、屈服する事とは違うと思います。心から国を想い、荒涼とした土地を愛するがための信念なら、貫けば良いと思う。しかしケーレンは、貴族の称号を得る事に執念を燃やしている。自分の出自に愛憎を向ける代償のように、彼から大切なものが失われるていくのです。彼が貴族の称号に固執せず、自らの人生を豊かにする愛を選択すれば、こんなにたくさんの人は死ななかったはずです。
一方、デ・シンケルは、何故こんなに残忍なのか?執拗にケーレンを貶める様子は、彼のコンプレックスの裏返しのように感じます。地位も財産も、親から受け継いだもので、貴族の称号も父親が買ったもの。それ故に貴族が本来備わるべき教養や知性も見識もない、サディスティックな男に成り下がったのではないか。残忍さで人々を怖れさせる以外、自分を大きく見せる方法が、解らないのです。だから、ケーレンのように、地位にも金にも屈しない男が現れると、何をどうすれば良いか解らず、どんどん残忍さが増大する。従兄妹で婚約者のエレル(クリスティン・クヤトゥ・ソープ)が言う、「ごめんなさい、従兄弟は敬意を学び忘れたの」の台詞は、デ・シンケルを的確に表していると思います。
滑稽だというには恐ろし過ぎる、足るを知らない男たちの戦いは、アン・バーバラの手によって終止符が打たれます。そこにはデ・シンケルへの怒り、夫であったヨハネスや、娘同然のアンマイ・ムスへの想いだったと思います。ケーレンへの愛もあると思いますが、彼女は認めたくなかったでしょう。
全てが終わり、ケーレンは何を得て何を失ったのか?彼が欲して止まなかった貴族の称号は、本当は彼には必要が無かったと意味するラストは、あの壮絶な戦いを観た後なので、深い含蓄があります。
やっぱりマッツは母国のデンマークの作品がいいです。イケオジ風のダンディズムが前面にでるようなハリウッド作品も良いですが、信念の男を深追いすれば、滑稽で愚かな男が浮かび上がります。こんな実は情けない男が、自分なりの真を見つける、そんな役柄を演じる時のマッツは、天下一品なんですよ。私は情けないマッツの方が好きだなぁ。
デ・シンケルを演じたシモン・ベンネミヤムもとても良かった。憎悪とコンプレックスにまみれた中に、卑小さを隠し持ったデ・シンケルを、振り切った演技でお見事でした。
当時の宮廷の腐敗ぶりや、タタール人への差別、黒い肌への偏見なども、きちんと消化されていました。伝え聞くところによると、この時代のデンマークの王様は、アルコール依存気味だったとか。高校生が、ビール10杯とか平気でいっちゃうお国柄なので、納得でした。壮絶な経験の中、荒涼とした自分の心に、愛を耕したケーレンに、穏やかな余生が訪れますように。それが血を流した全ての人々への鎮魂になると思います。
2025年02月14日(金) |
「リアル・ペイン〜心の旅〜」 |

祝!本年度アカデミー賞、助演男優賞(キーラン・カルキン)、脚本賞(ジェシー・アイゼンバーグ)ノミネート!ジェシーは以前から好きな俳優で、彼の初監督作は見逃してしまったので(「僕らの世界が交わるまで」)、今回それだけを目的に観たのですが、小品ながら珠玉の秀作で、本当に感激しました。監督・脚本はジェシー・アイゼンバーグ。
ユダヤ系アメリカ人の従兄同士、ベンジー(キーラン・カルキン)とデヴィッド(ジェシー・アイゼンバーグ)。幼い頃は仲良く接していたけれど、いつの間にか疎遠に。二人の祖母の遺言で、祖母の故郷であるポーランドのアウシュビッツの史跡を訪問するツアーに参加します。
まず従兄という設定が良いです。数日違うだけで同じ年の二人。兄弟のような上下関係もなく、親族であっても程ほどの関係で、友達以上の血縁ではあります。確執こそありませんが、お互いが相手に対して思うところがあります。でもこれも兄弟や他人とは、間柄の濃淡が違うので、憎しみまでは行かない。気安さもわだかまりも、絶妙に従兄感が表現されています。
人の気を反らさず、いつもグループの中心でコミュニケーション抜群のベンジー。しかしデヴィッドにとってのベンジーは、自己中でいつも振り回されてばかりで、苦々しい。彼といると自分の気持ちを押し殺しています。しかし、地味な自分より、常に華やかなベンジーへの憧れもある。
ベンジーは多分、何か精神疾患を患っている。感受性は繊細で、いつも軽躁状態。そして大麻をスパスパ。そんな自分を持て余し、堅実に家庭を築いているデヴィッドが羨ましい。
そのデヴィッドも、強迫神経症を患っている。父方同士の従兄の彼ら。お祖母ちゃんは、孫たちの生き辛さや生き苦しさを、知っていたのでしょう。死に逝く自分は、可愛い孫たちに成す術もなく、自分たちのルーツであるユダヤ人の軌跡を二人で辿る事で、生への意味を見出して欲しかったんだなと思いました。祖母は、アウシュヴィッツの生き残りなのです。
歴史の足跡を辿る中、神妙になったりハイテンションになったり怒ったり。様々な感情の発露を見せるベンジーより、私はデヴィッドの台詞が深々と心に残りました。アウシュビッツの生き残りとして、子供の頃ポーランドからアメリカに渡ったお祖母ちゃん。生来の頭の良さを武器に、メキメキ頭角を現します。デヴィッドはお祖母ちゃんのような一世を、「一世はがむしゃらに働き、二世にはその金で教育を受けさせ、三世は地下でハッパを吸う」と言います。三世のハッパは、「それ、俺の事?」と、ベンジーが言う通り、彼への皮肉ですが、犯罪ではなく真理も籠っている。三世になると、その国にほぼ同化し、先達の苦悩や苦労は慮らない、というところでしょうか?
これはユダヤ人に限らず、国籍の違う国に根を張る人々の、共通の話しです。自身もユダヤ系アメリカ人であるジェシーの、本心であり憂いであるのかと、思います。このツアーは、様々な境遇を生きるユダヤ人たちの集まり。普段自分の「血」には無関心のはずの二人が、この旅で、自分たちの「リアル・ペイン=本当の痛み」は、どこから来るのか?ルーツから遡りなさいという、祖母心だったのでしょう。兄弟はいない(多分)二人には、二人しか解り合えない感情があるはずだから。
旅を終え、家まで送るというデヴィッドに、ベンジーは丁寧に断ります。熱く抱擁する二人。私は、また二人の付き合いは無くなると思います。でも何となく疎遠になった今までとは違い、心の拠り所にお互いが存在するはずです。
様々なプロットを詰め込んで、みんな綺麗にまとめて、何と90分!ジェシー、やるなぁ。アメリカの様々なアワードでも、脚本と助演男優賞に受賞&ノミネートされているようです。色々な角度から、自分に重ねて観られる作品です。お祖母ちゃんの、素敵な置き土産でした。
2025年02月09日(日) |
「阿修羅のごとく」(Netflix) |

いやー、面白かった!一話目こそ、やっぱりオリジナルが良いなと思いつつ観ていましたが、回を追うごとに前作を思い出し懐かしかったり、あぁこの感情は若過ぎて解らなかったんだなと、改めて感じ入ったりで、一気見しました。全部知っている内容なのに、観終わったら、もう寂しくて。昭和50年代の女性史として、当時を鑑みるにも最適で、今描く意義も感じます。リメイク大成功の作品だと思います。監督は是枝裕和。
竹沢家の四姉妹の綱子(宮沢りえ)、巻子(尾野真千子)、滝子(蒼井優)、咲子(広瀬すず)。今日は夫の鷹男(本木雅弘)と息子と娘と住む、巻子の家に集まります。呼び出したのは、滝子。70歳を迎える父(国村隼)が、子連れの女性(戸田菜穂)と浮気をしていると言うのです。母(松坂慶子)に知らせるべきか否か、四人は各々の思いを吐き出します。
時代設定は元作と同じ、1979年から80年。昭和54〜55年です。私は当時高3〜短大の一年生で、面白くて食い入るように観ていました。私は女子校育ちで、同級生で一人娘や姉妹だけの子も多く、「婿養子」という言葉が、頻繁に聞かれました。お金に困らない家の子が多かったですが、別に「普通の家」で、婿養子て・・・何で?!。というのが、当時の私の胸の内でした。莫大な財産があるわけじゃなし、大きな会社を経営しているでもない、別に特段継がすものがない家で、婿養子が簡単に来ると思っていた、そんな時代だったんだか、出身校がそうだったのか。そう思うと、姉妹の誰にも婿養子をと言わなかった、この両親は潔かったと思います。子供の人生に口出ししなかったのよね。
綱子は絶賛料亭の亭主(内野聖陽)と不倫中。お花の先生で生計を立てられるんだろうか?今より需要は多かったろうけど、後家さんの生活苦がないです。早逝した夫は、幾つくらいで亡くなったんだろう?遺影では、判りません。それなりの金額の保険をかけていたんだろうか?遺族年金もあるしね。このお金には困っていません感で、それまでの生活レベルもそこそこだと、感じました。息子も育て上げた今、きっと一人寝の寂しさが込み上げたんでしょう。このまま「女」を忘れるのは嫌だったんですね。艶やかな宮沢りえが演じるので、納得してしまいますが、当時の女50なんて女の前線からは、とうにお引き取り願う年齢。ずっと年上ではなく、相手が同年齢の男性であったことが、女の残り火に火をつけたんだよね。泥沼不倫も愚かに見えず、納得です。当時お母さんは女には非ず、お母さんと妻としてしか望まれない時代に、この綱子の造形は、ある意味天晴だったかも。
巻子は姉妹唯一の夫持ち。その夫はそれを自覚しているのか、何くれとなく妻の実家を気遣い、巻子は鼻が高い。そういえば夫の身内は全然出てこない。夫持ちは自分だけなので、心の中では他の姉妹より優越感を抱いているけれど、夫は不倫しているかも知れないと、心中穏やかではない。黙っているのが得策で、それが賢い妻だと、当時は思われていたんですね。今なら証拠集めて、二方慰謝料突き付けるんだろうな。でも黙っている本音は、家庭を守りたいだけじゃない。「あの人、お姉さんの事を気に入っているの」とは、華やかで色気のある女性が夫は好き、という意味です。地味で如何にも良妻賢母の自分は、妻として必要だから結婚したんじゃないか?女性として愛して貰っているのだろうか?という、彼女の不安が黙らせている。
滝子は図書館司書として自活しており、堅物で、全身から男は近寄るなビームが出ている。父の浮気調査を依頼した縁で結ばれた勝又(松田龍平)と深い関係に踏み込めないのは、自分に女としての魅力が無いからだと、悲痛さを漂わせている。正義感強く不器用。三女の自分は、今度こそ男だと意気込んでいたはずの、親を落胆させた事は、咲子だけではなく滝子も同じでしょう。。彼女の頑なな性格は、その事が起因しているようです。勉強が出来たのも、親に認めて貰う手段だったのかも。
咲子はお人形さんのような容姿を自覚し、子供の頃からそれを利用して生きている。勉強がダメでもへっちゃら。だって男にモテモテだもん。でも実のところ、自分の取り柄は容姿しかないのを知っている。愛した男には一途で、実は四人姉妹で一番情が深い。傍若無人と天真爛漫を行ったり来たりしながら、実は自己肯定感が低いのも、期待されていた男に生まれなかったことが、最大の起因。
そして母。夫の不倫を黙って見過ごしていたのは、ミニカーを鬼の形相で投げつけるところに、集約されています。男が産めなかった悔しさが、これでもかと表されている。それと同時に、夫に男子を抱かせることが出来なかった申し訳なさもあるのですね。浮気相手の連れ子が女子だったなら、子供がいなかったなら、また態度は違ったかもしれない。
なので、同じ「黙っている」を選択した母と次女は、家庭を守るためという大義名分に隠された本音は、私は違うと思います。
いやいやいや。元作当時は私も女として、まだまだひよっこでね、というか、卵だったんだと、今回のリメイクを観て痛感しました。ストーリーが面白くて観ていただけで、姉妹のキャラなんて、こんなに深く味わえませんでした。それだけでも観た意義がありました。何というか、みんながみんな、「男」という存在に振り回されている。自分軸では生きられない、その辛さを、男側からは「阿修羅」と表現されます。当時はこの見下される辛さ哀しさ必死で生き抜く姿を、女は強かだの魔物だのと言われていたんですよ。「男」にね。自己を確立して自分軸で生きても、人(意識の低い女も含む)からは、表立って(そう、裏ではまだ陰口言われるよな)悪くは言われません。あぁ、良き時代になってきたんだと、この作品の母に近い年齢になった私は、本当に感慨深いです。
キャストは、これ以上ないんじゃないかと思う程、ドンピシャの好演でした。特に私が期待していなかった面々の大活躍に目を見張りました。広瀬すず、こんなに上手かったっけ?鉄火肌の亜種みたいな咲子が、実は昭和の女の哀歓を一番漂わせていてる。男次第の人生のアップダウンを、本当に懸命に生きている様子を、体当たり的な好演でね、感激でした。
モックンなんて、この役は荷が重いと思っていたのに、昭和の上質な出来るサラリーマン感が満載でした。何が出来るってね、仕事も家庭も上々の納め、秘書も摘まみ食いしちゃうという、当時の男性の理想だったはずの姿に(笑)、全然違和感なかったです。
モックンの愛人疑惑の秘書役の瀧内公美も、スゲーのなんの。出て来た瞬間、世の人が想像する昭和の美人秘書そのもの。真実は明かされませんが、多分モックンと出来ている(笑)。婚約者もいるのにねー。こういう女性が魔性なんだよ。瀧内公美、この頃どんどん綺麗になってお芝居にも磨きがかかり、ファンとしては嬉しい限りです。
国村隼の父も感激しました。私は今の役者では見当たらない重厚さの、佐分利信の父がとても印象強く、映画版の仲代達也にして、私的には超えられませんでした。それが重厚とは違うアプローチで演じており、飄々とした中に、断ち切れぬ男の性も、器の大きさも、娘たちへの想いも感じさせて、大成功だったと思います。
触れていないキャストにも何一つ文句ないです。そして一番良かったのは、元作へのリスペクトが十分に感じられた事です。当時は時代と同時進行でしたが、その時代をそのまま使い、筋を変えず、印象深いシーンはそのまま再現して、なお新たな感想を引き出すなんて、本当に凄い。是枝監督とネトフリには、感謝申し上げます。観られる環境の方は、是非ともご覧ください。
2025年02月02日(日) |
「どうすればよかったか?」 |

本作の監督、藤野知明の実家の20年を映したドキュメンタリー。観る前も観た後も、「どうすればよかったか?」のタイトルの問いに対しての私の感想は、同じでした。しかし、そこには監督も含めて、懸命に精神疾患を発病した長女であり姉のために何が出来るか、力いっぱい介護し続けた家族の姿があり、予想した以上に胸打つものがありました。以下の感想は、たかが六年間ですが、精神科の医療事務経験のある者の感想です。
監督の8歳違いの姉・雅子は、医学部在学中に統合失調症と思われる症状が現れます。しかし、医師で研究者である両親は、姉の病を認めず、精神科に受診させませんでした。進学や就職で、18年間実家を離れた監督ですが、映像作家の専門学校を卒業した事を切欠に、その後の20年、姉と両親を撮り続けます。
撮影前の家族の様子は、写真と監督のナレーションで語られます。現在90代の父ですが、当時としても現在であっても、医師としてエリート同士の結婚であると思われます。当初は父の教え子である精神科医に娘を診せるも、統合失調症(当時は分裂症と呼ばれた)は、否定されたと語る母。以降、一貫してその言葉を信じたようです。
いや、信じたというより、信じたかったんでしょう。精神科受診に繋がらなかったのは、私は両親が医師だったからだと思います。20代に発症、その後の30年近くは受診に繋がらなかったのですが、それまでに病気一つしない訳はない。なまじっか、親が医師であるため、内科的な疾患は、治療出来てしまったのではないか?この状態の患者を診て、他の医師なら、一様に精神科受診を勧めるはずです。
それぐらい、姉の様子は尋常ではない。支離滅裂で何を話しているか、解らない。極端な早口で独特の語り口。虚ろな眼差し。硬く表情の乏しい顔。昼夜を問わず、突然激しく怒り出し暴れ姿は、獣じみている。同居していた当時の事を、監督は「殺すか殺されるか」と表現していましたが、私のように身近に患者を見ていた者でなくても、その表現に納得するはずです。多分この様子は、世間的に想像する、統合失調症の状態だと思います。
ですが、私はこんなに凄い人は、六年間見た事がありません。クリニック勤めだという事もあるでしょう。こんなに凄けりゃ、即入院ですから。何故見た事がないのか?患者さんたちは、薬を服用していたからです。
映像の2/3は、一人でアメリカに行ってしまい、連絡が有り迎えに行った豪快な話から、姉の言うまま、親は怪しげな団体に献金した話などを織り交ぜながら、凄まじい姉の症状を映し続けます。それが、母の認知症により、劇的な展開を迎えるのです。父が母の介護に手がかかることで、雅子は精神病院に入院となります。
ここからの姉の様子は、私には見知った様子でした。。処方された薬が合い、穏やかで落ち着いた様子です。「写真撮るから、お姉ちゃん笑って」との監督の言葉に、お茶目なポーズを取る姉。ですが、家に刃物を持った人がいると、コンビニに駆け付け、警官(勿論本物)が数人で自宅を訪れるシーンも。治ってはいません。
治ってはいないけど、彼女なりの安定した生活が始まって、心から良かったと思いました。あのままで老いていくなんて、哀し過ぎるもの。監督が何度も受診を勧めていたのに、もっと早く受診していればと思う私に、その後、監督は別の想いを抱かせたのです。
母の妹さんへのインタビューでした。「姉(二人の母親)は世間体で雅子の状態を隠したのではない。子供を思っていたからだ」との言葉が、引き出されたのです。あーと、意表を突かれるも、腑に落ちました。隠したのは、身内の恥との意識ではなく、世間の偏見から、娘を守った。そういう意味だと取りました。
そして父。息子である監督から、様々に姉に対しての質問が飛ぶ。「統合失調症だとは思っていた。でもママが否定した」。入院したら、もう退院出来ないと思ったからでは?との問いには、暫く考えた後、「そうではない」と、答えた父。でも私は図星だったのでは?と感じます。昔は精神病院に入院したら最後、二度と出られないと、私も思っていました。
姉にも質問しています。親に不満はなかったのかとの問いに、答えない姉。姉は4浪して医学部に入学。親の願いだったと、想像に難くない。でも何も言わない姉。ここで私はお互いを思い合う、親子の姿を痛烈に感じました。親は自分たちのせいで娘は発病したと後悔し、娘は小康を得て、親の人生を奪ってきたと申し訳なく思っていたのではないか?
そして父から、娘との生活は不幸ではなく、それなりに充実した毎日だったとの言葉が、引き出されると、思わず涙が出ました。前半の大変な介護を、当たり前のようにこなしてきた両親の姿が、思い起こされます。両親が娘を守りたかったとの気持ちに、嘘偽りはなかったと思います。
映画友達で、親しくさせて頂いている牧師さんから、受援力という言葉を教えて貰いました。助けてと言える力です。精神科勤務時代、仲の良かった子供くらいの年齢のPSW(精神保健福祉士)から、「障害や病を得た人は、社会資源を使って下さい。そうすれは、必ず救われます」と教えて貰いました。福祉、医療、行政に繋ぐという事です。繋ぐにはまず、「助けて」と言わなければ。
この一家で、その役割を担ったのは、誰あろう監督であったと思います。姉を福祉と医療に繋いだのは、親ではなく弟だと思う。
冒頭、「この作品は、姉が何故統合失調症になったかや、統合失調症に理解を深めて貰う作品ではない」と、出ます。どうすればよかったか?を一緒に考える作品です。
苛烈な姉の様子を映す中、何度も思ったのが、誰かに助けを求める事です。それは勇気の必要な事だと、この親子を見て、改めて思いました。堅い思いで結ばれた姉と両親に、監督は疎外感を感じた事は、数知れずあったはずです。その思いを、一家を撮り続ける事で払拭してきたのでしょう。監督は立派だと思います。自分の親を毒親と呼ばせたくない、可哀想な精神病患者として、姉の一生は終わったのではないと、その思いが詰まった作品だったと思います。
監督の意図とは外れますが、この作品を観て、病に対する偏見が、少しでも減ると良いなと、本当に思います。精神疾患は、きちんと受診して服薬すれば、決して他害のある病気ではないと、後半の雅子さんを見て感じて下されば、嬉しいです。
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