無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月31日(金) 嗚呼、アニメ三昧の日々が……/『名探偵コナン特別編』17巻(阿部ゆたか・丸伝次郎)/『できるかな』(西原理恵子)

 角川大映の第一作が『妖怪大戦争』のリメイクに決まったそうな。
 『大魔神』復活とか、『ゴジラ対ガメラ』とか角川歴彦社長がぶち上げてたけど(この人も春樹前社長に負けず劣らずのラッパ吹きだな……大映の社長の伝統かねえ)、現実には期待していいんだか悪いんだかよく分らない路線できちゃったねえ。「意表をつく」とはこういうことを言うのであろう(^o^)。
 企画の仕掛人は雑誌『怪』の連中だそうな。
 水木しげる・宮部みゆき・京極夏彦・荒俣宏の4人が再映画化を熱望して、自らプロデューサーに名乗りを上げたってな話だけど、こういう浮世離れしたヒトたちが集まっても、どれくらい宣伝に効果を上げられるものか。もう一つ宣伝のキモになるようなものがないと、ヒットは難しいんじゃないかなあ。
 今現在、シノプシスを書いてるのは荒俣さんだそうだけど、「大人たちには見えない妖怪を少年と老人が協力し、妖怪によって引き起こされた事件を解決する物語」になるんだって。
 元映画と全然違うじゃん(^_^;)。ダイモンは出るのか、油すましは青河童は二面女はどうなるのか。いや、そういう旧ファンの想いよりも、そもそもこういうありきたりなストーリーラインに興味を惹かれる若い人たちがイマドキどれだけいるというのか。「少年」を「鬼太郎」に、「老人」を「目玉親父」や「砂かけ婆・子泣き爺」に置き換えたら、そのまんまではないの。
 荒俣さんに脚本書かせるってのは、『帝都物語』の実績を買ってのことだろうけれど、アレの面白さってのは、実在の人物をムリヤリ「帝都の怨念」物語の中にぶちこんだ曼陀羅図としての面白さであって、ドラマとしての面白さ、小説としての面白さじゃないんだよねえ。
 水木さんはもうお話書けまいし、京極さんはウンチク書き過ぎるだろうし、あの中で原案書くとしたら宮部さんしかいないと思うんだけど、どうなんでしょう。


 CS放送J−COMネットの放送チャンネルに、今日から新たにアニマックスと日本映画専門チャンネルが追加。
 これは私に死ねということなのかも(^_^;)。
 気がついたら、『とんでもラッキーマン』『幽遊白書』『キテレツ大百科』『魔法の天使クリィミーマミ』『ドラゴンボール』『花より男子』『ルパン三世』『鎧伝サムライトルーパー』『PiNMeN』『サイボーグ009』『宇宙海賊キャプテンハーロック』『忍空』『中華一番!』『機動戦士ガンダム』と立て続けに見ている。
 ……こんなん全部感想書いてられるか(-_-;)。


 マンガ、青山剛昌原案・平良隆久プロット・阿部ゆたか・丸伝次郎漫画『名探偵コナン特別編』17巻(小学館/てんとう虫コミックス・410円)。
 バカミス『コナン』に関しては、もうネタバラシでツッコミ入れるんで、まぁだ『コナン』をミステリとして見ようなんて奇特な人は以下の文は腹立つだけだと思うんで読まないように。

 『さまよえる銃弾』、被害者はハンター、鹿を撃つフリをして、人間を撃つのが楽しいという既知外である。実際に何度もそういう事件を起こしておきながら、これまで警察は全部事故で済ませてたっていうんだから、この地方の警察は痴呆が揃ってるんだろう。
 犯人はその男に孫を殺された老人で、パイプ式のガードレールに銃弾を撃ちこみ、その銃弾がパイプを伝って男を撃ち殺す、というのがトリック。できるか、そんなん(-_-;)。
 で、それ以上に何がバカかって、その爺さん、被害者を殺したあと、死んだ孫のところに行こうと自殺しようとするのね。それなら、わざわざトリックを弄して自分が犯人であることを隠そうとする必然性がないじゃん。さっさと殺して死にゃあいいだけの話。
 『密室の人体爆発事件』、被害者は科学者で、阿笠博士の親友。犯人も同じく科学者。自分の研究の成果を横取りされたので殺害を計画、エレベーターにマイクロ派を出すマグネトロンを取り付け、内部を電子レンジ状態にして爆死させる。なんでそんなハデな殺し方をせにゃならんのか。証拠のマグネトロンも天井に残したままだし。
 『湖はんペンション殺人事件』、「湖畔」ってちゃんと両方漢字で書けよな。
 えー、もうツッコミどころ満載で、どうしたらいいやらっつて出来。
 双子の姉妹が一人の男を好きになり、先に男と結婚した方を、もう一人が殺して入れ代わろうとする。殺された方にはソバカスがあるので、ファンデーションでごまかそうとするって……バレまんがな、そんなん(-_-;)。で、男のほうも女に「一緒になってくれなければ死ぬ」って脅されて協力してやんの。その男さあ、蘭からも尊敬されてる先生なんだよ。そんな人格者なら、犯人を説得して自首させろよ。
 ほかの短編はめんどくさいのでツッコミ省略。いいよなあ、こんなテキトーなお話で原稿料貰えるんだからさあ。


 西原理恵子『できるかな』(角川文庫・650円)。
 単行本持ってるけど、描き下ろしマンガが付いてたので購入。それにしてもカラーページが多くて紙質がいいせいなんだろうけれど、このウスさ(140ページ)でこの値段というのは高い。それに描き下ろしっても巻末に3ページだけだったしなあ。
 もはや若い人にはNHK教育で『できるかな』という番組があったことを知らない人もいるかもなあ。「でっきるっかな、でっきるっかな♪」って音楽に乗って、身近な材料でちょっとした工作を作ってみせるってだけの他愛ない番組だったけれど、結構な長寿番組で、「終わる」ってことが信じられないのに終わっちゃったって感じの番組であった。基本的に全てマイムで演じられるので、最終回で出演者のノッポさん(高見映)が喋ったということで反響を呼んだりした。
 こういうNHKの良心みたいな番組をタイトルにして、ガイガーカウンター作って放射能漏れ直後の「もんじゅ」んとこで試し計測するなんてことするから、西原さんの性根はマックロクロスケなのである。これではマンガで一発アテて左団扇とは行くまいて(^o^)。
 前に読んだ時も思ったが、このレポートマンガ(と言っていいのかどうか)中の最高傑作は「バンコク編」である。
 どこまで真実なんだかわかんないが、「テレビで『本日の死体』という番組をやってる(結構転がってるものらしい)」とか、「玉(もちろんあのタマです)マッサージの店がある」とか「普通の銭湯のイスがなぜか全てスケベイスで湯舟からインド人のタマが丸見え」とか、「マンション買ったら、工事に来たタイ人の家族がそのまま住みついてた」とか、「車で人撥ねたけど10ドルで警察が手を打たせた」とか、イヤハヤ、外国には行きたくないものである。
 で、これをのんきにマンガに描けるんだから、やはりサイバラ女史はスバラシイ。土佐の女のイメージって私ゃ西原さんと鬼龍院花子と『海がきこえる』の三つでできあがっちゃってんだけど、これは正しいんですか、土佐の人。
 くらたまさんは百年経ってもサイバラさんには追い付けまいなあ。追いついたら人生ちょっと大変なとこに言っちゃうんだけど。(2003.2.21)

2002年01月31日(木) 血管をタテに切る女/アニメ『七人のナナ』第4話/『ガウガウわー太』2巻(梅川和実)ほか
2001年01月31日(水) そうか、最近匂いに敏感になったのはそのせいか/『鉄甲軍団』(横山光輝)


2003年01月30日(木) なんでも食うよ/『ブラックジャックによろしく』4巻(佐藤秀峰)/『プリズム』(貫井徳郎)ほか

 「人生の一大事は食うことである」とはしげの行動原理だが、もう私はしげに逆らうことはしない。
 「今日の食事はどこにする? 『王将』? いいよいいよ」
 なぜしげがそこまで「王将」に拘るか、などという疑問はとうに捨てました。

 姉の娘さんがここで働いてることは前にも書いたが、案外出会うことがない。今日はちょうどいて、目線で挨拶をかわす。働き始めてもう3年くらいになるだろうか、随分背も伸びた。おそらくそろそろ高校も卒業じゃないかと思うんだが、幸いなことに学校の方に無断アルバイトしていた件はバレていないようである。
 だいたい、たかが学校フゼイが、法で禁止されてるわけでもないのに、人んちの家庭事情に立ち入ってアルバイトをさせない、というのが言語道断横断歩道なのである(このギャグ最初に言い出したの誰だったかなあ)。あたら10代の若い時期を、机上の勉強だけさせててなんの社会常識が身につくもんかね。
 13歳過ぎたら、世の中はもっともっと子供をバイトさせたほうがいいと思ってる親、多いと思うぞ。いや、バイト禁止の学校があってもいいんだが、少なくともどこも一斉に同じじゃなくて、許可してるとこと禁止してるとこが半々なのが公平でいいと思うんだが、このへんの学校、みんな「右へ習え」だからねえ。その方が「教育したフリ」ができていいんだけろうけどさ。

 壁のポスターを見ると、「新製品」と銘打って「トントロラーメン定食」ってのがあったので、そいつを注文。ラーメンもトンコツなので多少、臭みはあるが、歯応えはあって美味い。


 NHKBS2で『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』。
 LDも持ってるし、多分そのうちDVDも買いそうだ。けれどこうやって放映してるとつい見ちゃうんだよねえ。今さらこんな有名な映画を解説したってしょうがないよな、とは思うが、私の文句なしフェイバリット・ムービーの一つだから、そうもいかないのである。
 原題は“DR. STRANGELOVE. Or:How I Learned To Stop Worrying And Love The Bomb.”つまり正確に訳すのならこれは「ストレンジラブ博士」という人物名なのであって、「博士の異常な愛情」ってのは意訳なのだけれど、こちらの方が日本人には通じやすかろう。
 実際、このドイツから亡命してきた既知外博士は、核戦争が起きれば「選ばれた民」のみをシェルターに隔離し、男一人に女数人をあてがえ、と主張するのだが、これがナチスの「優良種」思想に基づくことは明白である。
 冷戦構造が崩壊しても、戦争の火種はなくならない。
 そういう現実を見れば、狂気と疑心暗鬼と事故が戦争のスイッチを押してしまうこのブラックユーモアに満ちたSF映画は、時代を経ても普遍的にイントレランスな世界観を描いた作品として生き残っていくのではないか。
 ……と、一応、マジメな解説はここまでにしといて、やっぱりスバラシイのは、キューブリック映画においてもピーター・セラーズがちゃんとピーター・セラーズ演技を見せてくれてるってところだね。狂ったジャック・リッパー将軍(スターリング・ヘイドン)からなんとか攻撃中止命令の暗号を聞き出そうと、マンドレーク大佐(セラーズ)が懸命に媚を売りまくるのだが、人類滅亡が迫っているだけにその切迫した事態とのギャップが激しくて笑えるのである。
 マフリー大統領とストレンジラブ博士もセラーズが演じているから、彼の出番は最後まであるのだが、人類滅亡の瞬間にマンドレークにもう一つくらいギャグをトバしてほしかったと思う。


 マンガ、佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』4巻(講談社/モーニングKC・560円)。
 違和感がどんどん増してきている。
 その違和感の正体がなんだか、これまではあまりうまく言葉にできなかったのだが、ようやくハッと気がついた。
 これ、やっぱ医療マンガじゃないのだ。
 確かに、これは現実に存在している病気を扱っている。
 作品中で描かれている医療現場での様々な問題も本当のことが多いのだろう。
 それでもこれは「ただのフィクション」なのであった。
 しかも極めてステロタイプのドラマ。
 扱われている題材に惑わされてしまったが、「感動の仕掛け」がどうなってるかってことだけに注目すれば、このマンガ、そんなに出来のいいマンガだとは言えなくなる。

 「問題」を語るのはいい。作者も、恐らくは真剣に取材をし、このマンガを描いているのだろう。作者は読者に切実な問題を突きつけている。「生まれた子供に障碍があることを知ったら、親としてあなたはどうしますか?」
 こういった質問を突きつけられれば、ガキはともかく、とりあえずマットウに生きてるオトナなら真剣になって考える。
 果たして、自分はその子を育てられるだろうか。
 差別だらけの世の中に子供を放りこんで、その責任が取れるのだろうか。
 いや、たとえどんなに子供が苦しんでも、やはり親としてその子をこの手で抱きしめたい、それは親のエゴなのだろうか。
 思いは錯綜し、答えは容易に出ない。
 そんな、答えが簡単に出せるとも言えない状況に読者を追いこんでおいて、このマンガが何を描いたか。
 “生まれてくる新生児に意志があり、自らの命を死にかけた双子の兄弟に分け与える”という“ファンタジー”である。
 「リアルなマンガ」を読んでいた気になっていた人は、ここでコケちゃったんではないか。いや、実際に障碍を持つ子供の親である人で、このシーンに激怒した人もいたんじゃないかと勝手な想像もしたくなるくらいにこの「演出」はヒドイ。
 赤ん坊だって1個の人間である。それは事実だ。
 しかし、『ベイビートーク』じゃあるまいし、彼らにオトナ並の意志・判断力があるかのように読者に錯覚させようというのは「詐欺」でしかない。
 子供に「意志がない」からこそ、親はその子を育てるべきか否か迷うのではないか。赤ん坊が「障碍があっても生きたいよ」という意志を持っていると分っていたら、それを見殺しにする親がいるものか。
 こういう作者自身のファンタジーを読者に無条件に押しつけるような演出は、私は大嫌いである。こんなふざけたマンガ、読まんでもよろしい。

 なんだかなあ、何かに似てるよなあ、この演出、と考えていて思い当たったのが「つかこうへい」。登場人物がやたらと眉間にシワ寄せたり絶叫したり、ひところはそんなんばっかりやってたもんな。絶叫系の演出って、私は好きじゃなかったんだな。 
 

 貫井徳郎『プリズム』(創元推理文庫・672円)。
 帯に「『慟哭』の作者が放つ究極の推理ゲーム」とか書いてるけど、なかなかよく出来たアイデア小説ではあるけれど、誇大広告はよくないな。基本アイデアの先行作は、作者があとがきで紹介しているものの他にもいくつもある。
 小学校の女性教師が自宅で死体となって発見されるが、その真相を4人の人間が全4章の各章で4通りの推理を披露して見せる、というのがミソ。
 ……なんだけれど、目次を見ちゃうとそのトリックがバレてしまうという珍しい作品。まあフェアプレイではあるけれど、もう少しネタ隠しした方がよかったんじゃないかなあ。おかげで、2章読み終わった時点で「もしかしてこれって……ってこと?」って思ったけど、かえってまさかそんな単純な結末にはしないよなあ、と混乱しちゃったよ。
 各章の登場人物が語る被害者の「真の」姿ってのが全然違ってるってのも、よくあるアイデアだし、解説氏が誉めるほどではない。こないだ見た『You are the Top』も同じアイデアだったしね。
 『慟哭』、評判が高いんで読んでみようかと思ってたんだけど、『プリズム』がこの程度だと、あまり過剰な期待は抱かない方がいいかもなあ。(2003.2.21)

2002年01月30日(水) どうしてくれよう。/『マジンガーバイブル 魔神全書』(永井豪とダイナミックプロ)ほか
2001年01月30日(火) 昨日・今日・明日/『火の接吻』(戸川昌子)


2003年01月29日(水) 雪がとっても白いから/『あひるの王子さま』5巻(森永あい)

 夕べから冷えこんでいたので、さて、雪でも積もってたら厄介だな、と思って外を見てみたのが朝の5時頃。寒くて目が覚めてしまったのである。
 でも外は別に地面が白いというほどでもなく、ヤレヤレ、とヒト安心した。
 ところが7時を過ぎるころ、しげが外を覗いて「積もっとうよ!」。
 ……わずか2時間ほどの間に積もったのか、それとも未明の私は眼がどうかしてたのか。
 どっちにしろ、雪が降ってるとしげは怖がって職場まで送ってくれない。
 仕方なく、タクシーで出勤。今年は珍しくしょっちゅう雪が積もる。

 タクシーの運ちゃんとの他愛のない会話。
 運「今年は珍しく雪が積もりますねえ」
 私「最近にしちゃ珍しいですねえ」
 運「最近は2年にいっぺんも積もればいい方でしょう」
 私「2年前にはちょっと積もりましたけどね」
 運「そうでしたかねえ」
 私「坂道が滑って車が登れなくて大変でしたよ」
 運「私らが子供のころには毎年のように積もってましたがねえ」
 私「雪合戦とかしてましたねえ。雪だるまも必ず作ってました」
 運「やってましたねえ」
 私「このトシになると、雪なんて鬱陶しいだけでしょう」
 運「そうでもないですよ、やっぱリ子供に返って雪だるま作ってみたくなるとき、ありますよ」

 ふと、思い出した。
 私が雪だるまを最後に作ったのは、多分、高校生のときである。
 ウチの店の真正面に、飾りのつもりで作っておいた。
 そこへ通りかかった小学生が、急に「ええい! ええい!」と叫んで、手に持っていたカサで雪だるまを殴り出したのである。
 私は外に出て、子供を「コラッ!」と叱った。
 子供はビックリしてピョン、と飛びあがり、向こうへ逃げて行った。だが、しばらくして立ち止まり、不思議そうにこちらを振り返った。
 「なぜ自分が叱られたかわからない」、そんな顔だった。

 ムシャクシャして道端の壁やらポストやら地蔵やらを蹴飛ばすオトナも世の中にはいるし、こういう子供も決して珍しくはないのかもしれない。
 ただ、私には道端に作ってある「雪だるまを壊す」という発想が昔も今もない(そう言えば道端のものを蹴ったりした経験も全くないな)。目鼻が落ちてた雪だるまを直してやった経験ならある。
 あの時の子供の行為は、ちょっと蹴飛ばすなんて程度ではなかった。
 よっぽど腹に据えかねたことでもあったのか、いきなり傘を振り上げ、骨も折れんばかりに雪だるまを殴りつけていた。
 そこは往来だし、歩いている人もいた。店のガラス戸から外は丸見えだから、ちょっと中を覗けば、私の存在にも気づいたはずである。
 だが、彼には眼の前の「壊すべき」雪だるま以外には何も見えていなかった。興奮して明らかに我を忘れていたのである。
 なぜ、彼は大声を張り上げ、あそこまで雪だるまに自らの憎しみをぶつけなければならなかったのだろう?
 私の眼からは、あの時の子供はやはりどこかが狂っていたのではないか、としか思えない。キレる子供なんてのは、別にここ最近になって生まれてきたわけではない。確実に、昔から、どこにでもいた。
 私だって、決して精神が常に安定していたわけではない。雪だるまを壊しこそしなかったが、「別の何か」を壊してきていたのかもしれないのだ。
 ただ、それは自分自身には決して見えない。見えないから狂っていられるのだ。
 私は何を壊してきたのだろうか。
 あの時の子供のように、私は今もなお狂ったまま、キョトンとしているだけだ。

 桜は人を狂わせるっていうけど、雪にもちょっとそんなところがあるのかな。……って、だったら北の方に住んでる人はやたら狂っちゃうじゃんかよ(^_^;)。

 帰りはさすがに雪も溶けた。
 しげも駐車場まで来てくれたので、ホッとする。
 暖かいものが食べたいようにも思ったが、うどん屋の類にしげはあまり行きたがらない。マルショクで弁当や焼鳥を買って帰る。


 しげに、円谷君からメールが送られてきて、「今回の演出を降りる」とのこと。
 やっぱリケツ割ったか、とは思ったが、一応、「理由はなんて言って来たん?」と聞いてみる。
 「うん、これから試験で勉強が忙しくなるからとか……」
 「そんなん、最初からわかってたんじゃない?」
 「だから、みんなにそのまま転送できなくて」
 円谷君も、決して責任感がないわけではないと思う。やる気だってあるだろう。ただ如何せん、彼は客観的に状況を把握する能力に著しく欠けている。演出にはトコトン向いていないのだ。まあ、芝居に関わって1年も経っていないというのに、演出をやりたいと言い出すこと自体、自分が見えていないということであるのだが。
 「ゴロちゃん(=円谷君)、文章ヘンやん」
 「知らんよ」
 「……ヘンなんよ、前にもヘンなメール送って、○○さんを怒らせたことあるし」
 それだけじゃ状況が分らない。なんだか円谷くんがイタズラメールを送ったみたいではないか。どうも言葉遣いが馴れ馴れし過ぎたとか、そんな感じらしいのだが。
 確かに円谷君は私が知る限りでもしょっちゅうトンチンカンなことをやらかしている。理由は、たいていの場合、先入観に振りまわされて早合点を起こしているのだ。だから自然、「人の話を聞いちゃいねえ」とか「言い訳ばかりしてる」と受け取られることになる。本人に悪気がない分、かえって始末に悪い。
 「じゃあ、なんで、演出させるかね、向いてないってわかるやろ」
 「本人がしたいって言ったから」
 「言えばやらせるって問題じゃないだろ。それだから、真剣に芝居しようとしてないって思われるんだよ」
 これにはしげも反論はできない。
 「で、演出はどうすんの」
 「鈴邑さんになると思うけど……」
 「引き受けてくれるんかね?」
 鈴邑君が本気で取り組んでくれるんなら、こんなありがたい話はないが、子供二人抱えて生活もタイヘンだろうに、大丈夫なんだろうか。


 またもやしげの噂話。
 女は噂話が好きだなあ、というのは古今東西を通じての真理かもしれないが、全く、「人の口に戸は立てられない」の「人」ってのは女のことだよなあ、と思っちゃうのである。
 というのも、最近、鴉丸嬢が其ノ他君からキツク叱られたそうなんだね。
 「おまえ、しげさんになんでも話し過ぎるよ」
 其ノ他君と鴉丸嬢の間にあった出来事が、逐一しげに筒抜けになっているのである。でしげがまた私にそれを筒抜けにする。だから私は鴉丸嬢と其ノ他君の「あんなことやこんなこと」も全部知っちゃってるのである。
 鴉丸嬢は当然、「これはここだけの秘密よ」と言って、しげに話をするのだが、女の「ここ」というのはたいてい「地球上」という意味なので、秘密にもなんにもなりはしない(^_^;)。
 まあ、聞いてる私は「ふ〜ん」ってなもんなんだけれど、其ノ他君も「あんなことやこんなこと」が全部私の耳に入ってると知ったら、居たたまれないだろうなあ(^o^)。
 もちろん、女同士の情報は常にインタラクティブである。
 ゆえに、私の「あんなことやこんなこと」も、全部鴉丸穣&其の他君にも筒抜けになっているのだが、私はそういうのを特に気にもしない。けれど、聞かされる其ノ他君のほうはやっぱり居たたまれないだろうと推測する。
 ……最近、この日記覗いてるか? 其ノ他君。女性ってのはそういうものなんだから、早々にあきらめちゃった方がいいよ。
 大丈夫。私はキミの秘密を他人に漏らしたりはしないから(^o^)。


 帰宅して、『ヒカ碁』を見ようと思ったが、しげが「『スライドショー』を見ると!」と駄々をこねて、仕方なく付き合わされる。
 そうとう疲れてたんだろう、全部見終わる前にそのまま落ちてしまった。
 薬もちっとも効かないし、体力増強する手段、何かないかなあ。


 マンガ、森永あい『あひるの王子さま』5巻(角川書店/あすかコミックス・420円)。
 鈴木君とゆみこちゃん別れちゃいましたね〜。
 これで麗一君にも希望が出て来たってことなんだろうけれど、まだまだヒト波瀾もフタ波瀾もありそうだから見逃せませんね〜。3歩進んで2歩下がるじゃないけど、希望が出てくると麗一くんの煩悩も開放されちゃうわけで、そうなるとブサイク好みのゆみこちゃんには嫌われてしまうことになる。
 まあ、そう簡単にハッピーエンドにはさせられないっつーか、ここまで人間関係がドロドロと錯綜しちゃうと、誰かが不幸になるしかないような感じなんだが、ちゃんとギャグマンガとしてラストまで通せるのか、森永さん!
 そしてついに! ミスターが犬から人間に戻った!
 ……でも、犬のカラダじゃなきゃ、ゆみこちゃんの側にいられないんじゃないのかな。(2003.2.20)

2002年01月29日(火) 休み過ぎだって自覚はあるのよ。一応。/DVD『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』/『西岸良平名作集 蜃気郎�供戮曚�
2001年01月29日(月) 癒し癒され恋焦がれ。/アニメ『地球防衛企業ダイ・ガード』13巻ほか


2003年01月28日(火) 肉は飲みこめ!/『トレイル・オブ・ピンクパンサー』/『機動戦士ガンダム THE ORIGIN ランバ・ラル編 �機Ν供戞憤舵�良和)ほか

 昨日行き損なった「すし大臣」で豪勢に食事。
 この店、もうすぐ改装して店名が変わるらしい。改装中、しばらくはここの寿司も食べられめえ、ということなのだろう、しげはいつも以上に回転するすしに目を光らせている。
 ともかくここはネタがいい。
 牛ステーキを見つけるや否や、まるごと頬張ったしげ、どこにつかえたか咳込みそうになる。それでも吐き出さずに飲みこんだしげを見ながら、「お前さあ、いくら肉がもったいないからって、そんな『絶対に吐き出さないぞ』って顔して、無理して飲みこむことはないだろう」と言ったら、「なんでオレの考えてることがわかるん!?」と驚かれた。
 ……わかるもなにも、まんまそういう行動取ってたじゃないか。


 NHKBS2で『トレイル・オブ・ピンクパンサー』を見る。
 この『ピンク・パンサー』シリーズと言えばいいのか、『クルーゾー警部』シリーズと言えばいいのか、ピーター・セラーズがドジな警部を演じた、ブレイク・エドワーズ監督によるコメディシリーズ、これが実に数え方が厄介なのである。
 ずっと昔に日記に書いたような気もするが、改めてその全貌を紹介すると、

 � 悒團鵐�の豹』The Pink Panther(1964)
�◆悵徹任妊疋奪�リ』A Shot in the Dark(1964)
��『クルーゾー警部』Inspector Clouseau(1968)※
�ぁ悒團鵐�・パンサー2』The Return of the Pink Panther(1975)
�ァ悒團鵐�・パンサー3』The Pink Panther Strikes Again(1976)
�Α悒團鵐�・パンサー4』Revenge of the Pink Panther(1978)
��Trail of the Pink Panther(1982)
�─悒團鵐�・パンサー5 クルーゾーは二度死ぬ』Curse of the Pink Panther(1983)
��『ピンク・パンサーの息子』Son of the Pink Panther(1993)※

 ※��のみ、クルーゾーをアラン・アーキンが演じている。監督はバッド・ヨーキン。

 この�Г世韻鮓饗蠅里泙泙砲靴燭里蓮⊆造鰐い世貌�本劇場未公開……というより、今回が初公開だからだ。
 ピーター・セラーズが1980年に死去して、このシリーズも終わりかと思われたが、監督のエドワーズ、なんとセラーズが出演している没フィルムをツギハギし、三たび盗難にあった宝石ピンクパンサーをクルーゾーが追う、という物語をでっち上げたのだった。……『死亡遊戯』のパターンだね。
 �Г鉢┐倭宛緤圓砲覆辰討い董↓Г納鷺�したクルーゾーを、�┐妊�ルーゾー並のドジ刑事、クリフトン・スレイ(テッド・ワス)が捜索する、という展開になっている。つまり、�┐世韻鮓�ても前半の事情がわからないのだが、どういうわけだか日本では�Г詫�入されず、�┐世韻�公開された。だもんで、実際の順番とタイトルの番号にズレが生じているのである。
 �Г�未公開に終わった事情はわからない。しかしこれが正真正銘、最後のクルーゾー=セラーズ映画であることは確かで、ファンは名のみ聞くこの映画を見たくてたまらなかったのだ。
 それだけ渇望されてた映画だってえのに、NHKもたいした宣伝もなくサラッと放映してくれるよなあ。
 
 『ピンクパンサー』シリーズのオープニングと来れば、あのアニメーションが楽しみ、という方も多かろうが、第1作からアニメ監督を担当しているリチャード・ウィリアムスは降りて、アーサー・レオナルディというわけの分らぬやつに代わっている。ゲームのパックマンを取り入れただけのパロディにも何にもなっていない下品なギャグの連続は、期待が大きかっただけにガックリであった。

 冒頭、怪しい骨董屋(?)アウグスト・ボールズ教授(ハーベイ・コーマン)の店に、新たな変装用具を買いつけにやって来るクルーゾー。まるまるシークエンスがカットされているが、どうやらこれは『ピンク・パンサー3』で使用される予定のものがカットされたもののようだ。
 というのも、クルーゾーが「警部じゃない、主任警部だ」と言い張っているのは、『2』で精神病院に叩きこまれたドレフュスの後任として、『3』ではクルーゾーが「主任」になったことを何度も強調するギャグがあるからだ。それに、次作『ピンク・パンサー4』にもボールズ教授は登場するのだが、役者がグレアム・スタークに変わっている。本来なら、ボールズ教授の初お目見えは『3』の予定だったが、シークエンスがカットされた結果、『4』にまでずれこんだ形になった、ということのようだ。でも、これが『5』ではまたコーマンに戻るのだからややこしい。
 クルーゾーが捜査のためにルガーシュ王国行きを警視総監から命じられるシーンも同じく『3』での未使用カット。総監を演じたマーン・メイトランド、新たにドレフュス役のハーバート・ロムと絡むシーンも追加撮影しているが、ドレフュスと会話しているときはハゲなのに、そのあとのクルーゾーとの絡みでは髪がフサフサになっている。3歩歩いたら髪が生えるとはスゴイ増毛剤でも使ったのか。ツギハギ映画の苦しい事情がこのあたりで露呈してしまうのは仕方のないことなんだけどさ。
 ルガーシュに行くはずのクルーゾー、なぜかロンドンに向けて出立。犯人が怪盗ファントムと目星をつけての行動だが、ファントムことチャールズ・リットン卿(デビッド・ニーブン)は南仏にいるのである。これはもちろん『3』の舞台がロンドンであるための齟齬だが、それを「クルーゾーがトンチンカンなため」と言い訳するのは、さすがに苦しい。更にロンドンでクルーゾーはスコットランドヤードのドラモンド刑事(コリン・ブレイクリー。なぜか本作ではクレジットなし)に「初めて」会うのだが、これも『3』でクルーゾーは既に彼に会っているのだから再度初めて会うのもおかしな話である。
 ホテルのフロント係(ハロルド・ベレンズ)とクルーゾーがトンチンカンなやりとりをするシーンも『3』の未使用カット。クルーゾーが「マッサージは来てるか?」「……メッセージ?」「だからそう言っておろう!」フランス語訛りだとメッセージがマッサージになるのだろうか。
 しかしこうして見ると、ほとんどの未公開カットが『3』からのものだということが分る。未公開シーンを寄せ集め、というから、たいした量はなかろうとタカを括っていたのだが、どうしてどうして、前半40分ほどはクルーゾーは出ずっぱりだ。『3』は1時間43分の作品だから、これだけのカットシーンを復活させたら2時間20分もの大作になってしまう。そりゃカットされるわなあ。
 『3』はシリーズ中でも一番予算がかけられ、シリーズを通じても最も面白いものの一つなので、これだけ未使用カットも存在しているのだろう。

 後半は、失踪したクルーゾーの行方を求めて、女記者マリア・ジュヴェ(ジョアンナ・ラムレイ)が、かつてのクルーゾーの関係者を訪ね歩く展開。旧作からの名シーンも挿入されて、シリーズを通して見てきたファンにはなかなかのサービスになっている。
 ドレフュス署長(ハーバート・ロム)、ケイトー(バート・クォーク)、エルキュール・ルジョイ(『ドッキリ』以来のグレアム・スターク……と言いたいところだけれど、別の役を何役もやってるのである)、チャールズ・リットン卿(『ピンクの豹』以来のデビッド・ニーブン。『2』ではクリストファー・プラマーに変わったが再び復帰)、シモーヌ・リットン(キャプシーヌ。この美しき方が男とは……)、ブルーノ・ラングロワ(ロバート・ロジア。『4』に引き続いての出演だが役名が違う)、クルーゾー・シニア(リチャード・マリガン。『小さな巨人』のカスター将軍)。
 ラストは「クルーゾーは本当に海の藻屑と消えたのでしょうか?」とマリアが結んで、「『ピンクパンサー5』に続く」のクレジットが出てチョン。
 
 セラーズが死んでもなお、映画を作り続けることに意味があったかどうかは今さら言うまい。
 もしも、今からこのシリーズを見てみようか、という人には、とりあえずは『3』をオススメする。クルーゾーのために気が触れたドレフュスが、クルーゾーを殺すためだけに最終兵器を使って世界を脅迫するというトンデモなくデタラメなギャグ巨編である。本作で死んじゃったドレフュスが次の『4』では何の説明もなくいけしゃあしゃあと生き返ってるあたりも思いっきりデタラメだ(^_^;)。
 もちろん一作目からきちんと見たい、という人には、『ピンクの豹』は古典的なロマコメとして楽しめるし、『暗闇でドッキリ』は上質のミステリコメディだ。とりあえずこの三本だけ押さえておけば、見て損した気分にはならないと思う。 

 ついでの豆知識。
 �┐如叛扱舛靴拭疋�ルーゾーを演じたのは、字幕では「ターク・トラスト二世」となっているが、3代目OO7のロジャー・ムーア。
 ��でクルーゾー・ジュニアを演じたのは、『ダウン・バイ・ロー』『ナイト・オン・ザ・プラネット』などジム・ジャームッシュ映画で有名なロベルト・ベニーニである。


 DVD『みうらじゅん&いとうせいこう ザ・スライドショー ほぼ完全版!』。
 1999年2月、渋谷公会堂で行われたライブを、WOWOW版よりもちょっとだけ長く収録。謎のゲストは泉麻人。いや、出てただけだけど。
 みうらじゅんという人はやはりどこか壊れてる人だと思う。
 だからこの人を面白く見せるためにはいとうさんのようにツッコミどころを心得ている人がいないとどうにも持たない。
 みうらさんの映し出すスライド、実はそんなに面白くはない。面白くないんだけど、みうらさんはそれを面白いと思っている。その面白がり方が常人とは違っているので、そこをいとうさんに突っ込んでもらわないと、見ているほうはどうしたらいいのかわからない。みうらさんを単体で見て面白がるのは、見る側によっぽど悪趣味な感覚がないと難しいのだ。
 これを好きになるかどうか、これには好みの問題が絡んでくるだろうなあ。


 『ガンダムエース』2003年3月4月合併号 No.009(角川書店・650円)。
 巻頭ポスターが生頼範義とさいとうちほ。生頼さん、ジオン軍の後ろにでっかい顔を描いてるけど、あれ、ギレンなんだろうな。パッと見たらロバート・デ・ニーロに見えるんだが。
 さいとうさんはシャアとララア。ララアはどう見ても眼鏡を外した姫宮アンシーである。どうせならシャアも仮面を外して鳳暁生にしちゃえばよかったのに(^o^)。
 さて、安彦良和さんの『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』、「ランバ・ラル編」の開始。
 ブライトとマチルダさんとの会話を盗み聞きしていたアムロが自分の部屋に戻ってきたとき、待ち構えていたフラウ・ボゥがコートをはおっているんだけど、大学時代、某友人は「あの下は素っ裸にちがいない」と頑強に主張していた。つまりフラウ・ボゥはアムロに夜這いをかけに来たというのである。……んなわけあるかい(^_^;)。今回マンガの方を見ると、ちゃんとコートの下にスカートが見えている。てゆ〜か、アニメの方でもそうだったと思うんだが。ヒトって、いろんな妄想を抱きたがるものなんだなあ。
 そしてついに出ました、私の大好きなイチオシキャラ。
 そうっ!
 クランプさんです!
 ……ああ、そこのヒトこけないように。てっきりランバ・ラルか、クラウレ・ハモンなんて言うと思ってたでしょ。いや、ハモンさんも好きだけどね、ガンダムシリーズじゃ私、たいてい「副官」をひいきしちゃいたくなるのよ。縁の下の力持ちっつーか、ドレンもそうだったけど、「いかがいたしましょう?」って上官にお伺いを立てながらも毅然としてる態度とか、任務をキチンと果たそうって姿勢が好きでね。
 それにしてもランバ・ラル、痩せたね〜。しばらく出演がなかったから、その間、カラダがなまっちゃイカンとトレーニングしてたのかも(^o^)。
 ギレンの演説(カラー!)が終わって、これで映画第一作までを消化した形だね。

 ああ、トニーたけざきさんは今月もトニーたけざきさんでした。18ページなんてケチ臭いことしないで、こっちにもドーンと100ページ与えて早いとこ単行本出そうよ。
 あさりよしとおさんの巻末マンガはあまり面白くありませんでした。まる。


 どうもグズグズと体調が芳しくない状況がもうひと月も続いている。
 今日も疲れて寝てしまい、日記が書けなかった。どこかで爆走しなきゃならんのだが、そうしようと思うと書きたいことが出てくるのである。いや、別に書かなくてもいことでも、つい書いちゃうから長くなるのである。短く簡潔に要点だけ書く技術がないものか。(2003.2.19)

2002年01月28日(月) 多分、しょっちゅう見ている夢/『おせん』其之三(きくち正太)/『END ZONE』1巻(えんどコイチ)ほか
2001年01月28日(日) 宴のあと


2003年01月27日(月) 歴代1位?/『グランサー』1巻(長谷川裕一)/『寄生獣 完全版』1・2巻(岩明均)/『アンナさんのおまめ』1巻(鈴木由美子)ほか

 1月26日の日記の続き。
 
 DVD『帰ってきたウルトラマン』5巻。
 前巻ラストの16話『大怪鳥テロチルスの謎』と今巻の17話『怪鳥テロチルス東京大空爆』も前後編。
 『ウルトラマン』のころはほとんどなかった前後編、『帰ってきた』ではやたらとあるが、怪獣が2体以上出る時にはゴージャスな気がしたものの、本作のようにテロチルスしか出ない時には一本の作品を二本に水増ししたような印象がして、あまり嬉しくなかった。
 今話のゲストは当時青春スターのトップを走っていた石橋正次であったが、こいつと彼女の悲恋物語など、怪獣少年の私にはクソ面白くもなんともなかったのである(^o^)。翌昭和47年、『飛び出せ!青春』や『アイアンキング』に石橋さんが出演するようになってファンになり、ようやく心のワダカマリは解けたのであった。
 この2話放送、『帰ってきたウルトラマン大全』では「より高い視聴年齢層の獲得に向けて」のテコ入れであった、とあるが、ドラマを青春路線にシフトするのは大きな勘違いだったと思う。見ていた方は「ああ、高いギャラ取る役者使ってるから2話に水増ししたんだな」なんて思ってたんだから(←つくづくかわいくない小学生である)。
 しかし、テロチルスも2話もかけてウルトラマンと戦ったわりにはあっけなくやられるねえ。空から落ちて死ぬだけって倒され方、どうなんですか。やっぱ怪獣ってのはやられる時もハデにドドゥッ!と倒れて、ババーン!と爆発したりジョワワッ!と溶解したりしてほしいものである。

 第18話『ウルトラセブン参上!』。
 コメンテーター(^o^)市川森一の初参加作。
 うーん、ベムスターのデザインは好きだったんだがなあ。どうもテコ入れ臭さが強くてオハナシとしてはなんかチグハグなところが目立つんだよなあ。
 こういう新参の脚本家入れるとさ、これまでのシリーズとの整合性が崩れることよくあるんだけど、そういう面もあるんだよね。
 冒頭、加藤隊長とマットステーションの梶キャプテン(南廣!)がロスタイムなしで衛星通信を行ってるのには目をつぶろう(^_^;)。これが宇宙怪獣ベムスターにステーションごと食われちゃうんだけど、梶の死ぬカットってのが描かれなくて丸飲みされちゃうから、案外、救出ポッドとかに隠れてて助かるんじゃないかって、見てる方は思うわけよ(宇宙怪獣に食われてるのに助かるかい、というツッコミは意味なし。ちゃんと死んだカットがなきゃ、正義側が助かることはよくあることだ)。でもやっぱりラストまで死んだままだから、どうもドラマに乗り切れない。
 これまでのシリーズで優柔不断にすら見えるくらいに慎重派だった加藤隊長が、親友を殺されたからって錯乱するのも違和感があるし、みっともない。
 でもやっぱり、納得いかないのはウルトラセブンが助けに来るとこだよな。なんでわざわざウルトラセブンが飛んで来なきゃならないのか、脈絡も必然性もないし、唐突な印象がするばかりだ。それに『ウルトラセブン』の最終回が印象に残ってる身にとっては、「おまえ、カラダ治ったんなら、自分が地球守れよ!」とか「わざわざ地球の近くに来たんならアンヌに会ってやれよ!」とか言いたくなっちゃうんである。
 もっとも、このウルトラセブン、声が村越伊知郎だったから(これもクレジットなし)、実は本人じゃなくて、よく似たセブン上司の一人だったのだろう(^o^)。
 しかも、セブンからもらったウルトラブレスレット、新兵器ってほどのもんじゃないしなー。八つ裂き光輪(ウルトラスラッシュなんて言いたくねえ)使えよスペシウム光線も効かないから光輪もダメってことなんだろうけど、安易な武器の増強はウルトラマンの超人性を低めるだけの話だ。

 19話、20話は簡単に行こう。
 19話『宇宙から来た透明大怪獣』の忍者怪獣サータン、このへんから怪獣のデザインが「なんじゃこりゃ?」ってのが増えてくるんだけど、初期の怪獣をデザインしていた池谷仙克さん、1クール13話で降りてたんだね。こいつのデザイン、初代ゴジラの雛形を作った利光貞三さんなんだけど、なんかどっかの妖怪画で見たことあるんだよなあ。あの、『妖怪大戦争』に出てた「二面女」にも似てるし、どこかに元ネタがあるんじゃないか。
 20話『怪獣は宇宙の流れ星』、タイトルでオチをバラしているという、トンデモナイ話(^_^;)。磁力怪獣マグネドンを倒せないMATが、佐竹参謀から「無能」だのなんだのケチョンケチョンに言われた末に「解散」まで言い渡される。なんだかほかのウルトラシリーズに比べても、一般庶民から防衛軍まで、ことあるごとに「MATは何やってんだ」と言われてる回数がメチャ多い気がするんだけど、「解散」したら、誰が怪獣と戦うんですか。
 このアタマの悪い脚本を書いたのは、サヨク脚本家で元大島渚組の石堂淑郎。権力側のアタマの悪さを強調するあまり、脚本自体のリアリティが消えちゃったことに気づいてないのね(^_^;)。
 なんかいろんな人が絡んでたんだねえ、このシリーズ。
 

 DVD『ジャングルはいつもハレのちグウ デラックス』6巻(完結)
 封入パンフの金田一蓮十郎さん(今さら言わなくてもいいと思うがうら若き女性である)の書き下ろしマンガ、ハレの「最終巻のジャケットはこれでいいのか? てゆうか内容もさぁ…もっとこう…」という呟きが笑える。
 ダマと銀行強盗の2ショットで、主役陣は陰に……っつーか、ハレ、ハレの形してないし(^_^;)。
 いや、でも前後編でこれまでで最高の脚本、作画と演出レベル。やっぱもう、ハレグゥはダマっすね。\(^^\) (/^^)/ア、ソレソレソレソレ。


 マンガ、長谷川裕一『クロノアイズ グランサー』1巻(講談社/マガジンZKC・560円)。
 『クロノアイズ』シリーズ第2弾。
 前作で提示された「時空間が枝分かれして行く」というパラレルワールドに関するSF設定(いわゆる「ハックルベリーの無限大」だね)、それ自体は前作をシメるアイデアとしてはよかったんだけれど、となると、救える未来は救えるし救えない未来は救えないってことになって、なんかスッキリしなくなる。『ドラゴンボール』もそれで失敗してたし。
 というわけで、「監視者」としての「クロノアイズ」ではなく、「視線者」=「グランサー」の登場。これで歴史の「修正」が可能になったってわけやね。SF的にどうこう、ってのも大事だけどさ、読者がキモチヨクなれるかどうかって視点をちゃんと長谷川さんが理解してくれてるのが嬉しいね。
 新シリーズともなれば当然、新キャラも加わる待ってましたの展開。
 でもって、やっぱりロリキャラかい、ってとこにはあまり突っ込まないよーに。長谷川さんのマンガだもの、一方にアナみたいなグラマーだけどじゃじゃ馬ってタイプがいれば、ビメイダーP……じゃなくて、サイボーグ・ヒルダのような○○で○○なタイプがいないとバランスがとれないではありませんか(何のバランスやねん)。ああ、もちろんちゃんとあ〜ゆ〜シーンやこ〜ゆ〜シーンもありますから、ご安心を(〃∇〃)。

 ああ、それにしても今回の「コミケ破壊指令」編、オタクで読んでてイタくなっちゃう人、多いだろうな。……え? なんですか? 私は別に痛くありませんよ?“あのころは”コミケにゃ参加してませんでしたから(^o^)。
 未来から来た考古学者、ナスターシャ・キンスキー(猫のコスプレつき)、ジャパニメーションの隆盛が世界戦争を回避したと固く信じる彼女は、グランサーに、時空犯罪者による「1980年」のコミケ破壊を阻止してもらうよう、依頼にやってくる。
 この「1980年(昭和55)」ってのがキモだね。いやもう、会場見るとあっちこっちにラムがいるわ、えーっと、トチロー(鳥さんつき)、ソルジャー・ブルー(デブ)、クラリス、セイラさん、仮面ライダー、V3、ゴレンジャー、メーテル、デスラー、バルタン星人、グレンダイザーなんてのが闊歩闊歩してんである。ヒルダの「この国はくるっています!」というコトバが、なんと説得力のあることか(^_^;)。アメリカが銃社会となって狂ってしまったのに対して、日本はオタク社会となることで象牙の塔となりつつあるのではないか(テキトーなこと言ってるだけだからマジで受け取らないよーに)。
 うっかり若き日の両親(ラム&シャア)に会って、その結び付きをジャマしてしまったタイキ、時間犯罪者を探すだけでなく、「ばっくとぅざふゅーちゃー」もしなければならなくなる。
 よくあるネタだと軽んずるなかれ。なんとタイキの両親、犯罪者に「現代」に誘拐されてしまうのだ。このときの父さんのリアクションがまた楽しい。
 ビッグサイトを見て、「み、みらいとし!」(そう言えば10年前、しげが初めて福岡の天神イムズの中に入った瞬間、全く同じセリフ言ってたな)、ゲームボーイを見て「最低でも100年は経っているっ!!」、あのへんにあるよく分らないノコギリのモニュメントを見て(私もこないだ初めて見た)「モビルスーツが実用化されているんだ!!」。
 ……まあ、1980年の人間がホントにタイムスリップしてきたらそう思うわな。江戸時代の侍が現代に、って思いつきなら誰でもするが、「1980年のオタクが現代に」なんてアイデア、長谷川さん以外の誰に考えつけよう(^o^)。
 はい、もちろんオチもSFのセオリーに則っております。マンガでSF読むなら長谷川裕一。できればこの第2部も長く続いてほしいな。
 

 マンガ、岩明均『寄生獣 完全版』1・2巻(講談社/アフタヌーンKCDX・各900円)。
 『スラムダンク』以来、なんだかはやりだしたねえ、完全版。
 カラーページを再現して、大判にしたってだけなんだけど、同じ企画があっちこっちで立つってことは、結構売れてるのか。最初の単行本買ってた人の中にも、改めて買うって人、いるだろうしね。
 『寄生獣』はネットカフェで読んでたんで、現物は持ってなかった。二度買いにならずにラッキーである(『ドラゴンボール』は買ってたけど、誰かに貸しっぱなしになってるらしく、手元にない)。
 BSマンガ夜話で、以前いしかわじゅんがこのマンガに関しても「絵がヘタ」発言をして物議を呼んでたみたいだったけど、確かにデッサンが随分「固い」。現実以上にキャラクターが骨と関節に支配されていて、あれでは登場人物はみんな肩凝りと関節炎に悩まされてしまうだろう。
 骨格自体がそんな感じだから、口なんかが崩れて、「骨格に合わない」動きをしてしまうと、ひどく不自然になってしまうのである。
 要するにマンガ表現としてまだまだコナレていない。これは近作の『ヘウレーカ』などが随分「コナレてきている」のと比較すれば一目瞭然だろう。もちろん、そのぎこちない表現が逆に「骨格にとらわれない」寄生獣の動きと好対照をなしているので、これ、決して欠点になっていない。絵の荒さがかえって安穏とした人間たちの愚かさぶりを表している部分もある。
 そういうところを指して、「絵はヘタだけれどマンガとしては正しい」という言い方がされていたのだと思う。いしかわじゅんの批評も、的ハズレなことばかりではないのだな(^o^)。
 しかし、今回読み返して思ったのは、このマンガのルーツに『デビルマン』があることは確か岩明さん御本人も述べられてたと思うけど、ほかに『風の谷のナウシカ』もあるのだね。「人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか」なんて、宮崎駿が言いそうなセリフだ。いや、あの人なら半分なんて中途半端なことは言わないかな(^_^;)。
 寄生獣はまさしく王蟲たちである。大海瀟と救世主の物語だったわけだ。



 さて、ここから1月27日。

 24日放送の『千と千尋の神隠し』、平均視聴率が46.9%で、劇場用映画としては『キタキツネ物語』(1979)の44.7%を抜いて、歴代最高記録を更新したんだって。瞬間最高視聴率は52.3%。
 日本テレビが宣伝にも随分力を入れていたからそこそこは行くかと思ってたけど、そこまでとは正直、驚きである。ビデオの売り上げもダントツだし、まだ見てない人ばかりがテレビに見入ってたってわけでもないだろうな。多分リピーターも結構な数がいたと思う。しかし、そんなに何度も見たくなるものなのかね。宮崎駿本人も言ってるぞ、「アニメ見てるヒマがあったら外で遊べ」(^o^)。いや、夜だから遊べないけど。
 このままアカデミー賞取ったら、多分凱旋リバイバル公開するんだろうね。そのときには英語版の公開もあるだろう。『もののけ姫』のときには英語版はそれほどヒットしなかったようだけれど、この分だと英語版もそれなりにヒットしそうである。今年はジブリの新作がないけれど、これでまた充分オカネが稼げちゃいそうだね。もう、『ハリー・ポッター』が何作続こうと、『千と千尋』を抜きさることはほぼ不可能だろう。
 でまあ、ここまで売れてるもんにイヤゴト言うのもなんだけどさあ、やっぱリどうにも「宮崎駿ファン」としてはヒトコト愚痴をこぼしたくもなるんだよねえ。……「おまえら、宮崎駿の映画、たいして見てないじゃん」。
 すげえ不遜な言い方だってことは承知してる。けどさ、別に宮崎さんが一スタッフだったころの初期作品まで見ろって言ってるわけじゃないよ。「宮崎作品が好き」とか言ってる連中の中でさ、『未来少年コナン』を見てないとか、『ルパン三世 カリオストロの城』を見てないとか、『風の谷のナウシカ』を見てないとか、そういうやつって結構いるんだよ。
 映画は作家で見るものではなくて、作品で見るものだ、という反論は言えるだろう。けれど、そのデンで行くなら、役者目当てで映画見るのも邪道だってことになるんだよ? 現実には、「こんなスバラシイ映画を作る人の、ほかの作品を見てみたい」という気持ちになってもいいと思うんだけど、それがなぜか「トトロどまり」になっちゃってる人って多いんだよね。

 どうもねえ、そういう人たちの見ている「宮崎駿」と、私の見ている「宮崎駿」って違うような気がするんだよ。いや、どっちかがホンモノの宮崎駿ってことじゃなくて、そりゃどっちもニセモノなんだろうけれど、彼らがどういう「宮崎駿」を見たがっているか、それがよく分らないのだ。
 宮崎駿に何を見てる? ヒューマニズムなの?
 「生きる力」なんか喚起してる? ただキャラがかわいいから好き?
 ここまでバケモノになってしまった宮崎作品なんだけど、なぜそこまでの存在になってしまったのか、どうもそれを表すためのコトバが未だに現われてはいないように思えてならないのだ。これが「ただの」愛とか優しさとか環境保護(^o^)とかを語ってるだけのアニメなら、こんなバケモノになりはしない。いったい「宮崎駿」って何なの?
 もちろん私にも全然、答えは思いつかないのだが、疑問自体が浮かんでこない今の「宮崎ブーム」が、私には得体の知れない妖怪が側でニヤニヤ笑ってるように感じられて。およそキミが悪いのである。
 
 
 晩飯は「しーじゃっく」で回転ずし。
 すし大臣に寄ろうと思ったら、休みであった。
 明日は寄ろう……なんてこと書くと、なんかすげえ豪勢な生活をしてるように見えるかもしれないが、貯金は全くないぞ(威張るな)。


 マンガ、鈴木由美子『アンナさんのおまめ』1巻(講談社/講談社コミックスKiss・410円)。
 しげはなぜか鈴木由美子の新刊が出るたびに買ってきてるんだが、多分私に隠れて読みながらべそべそ泣いているに違いない(^o^)。
 『白鳥麗子』も『音無可憐』も、鈴木由美子の描くヒロインってのは全部「勘違い少女」で、その勘違いがいつ壊れるかも分らないっていう、綱渡り状態にある。そこから落っこちちゃうんじゃないか、あっ、ちょっと落ちかけたぞ、そこへ現われたヒーローが、そっと手をさしのべる。に助けられる、そのタイミングがウマイから、女の子は涙するのである(須らく、モテナイ男子諸君は鈴木由美子を読んで、女性を研究すべし)。
 本作もそんな感じの出だしで、超絶美人のアンナは、街を歩いていると必ずと言っていいほどナンパされる。ところがそれをアンナの親友、サカナ顔のリリは、自分が注目されてると思いこんでいるのである。
 さあ、ここまではこれまでの鈴木マンガと一緒。順当に行けば、リリはそのうち「もしかして私ってブスだったの?」と不安に思う瞬間が来る展開になるところである。
 ところが全然そんなふうにならないんだよねえ。リリの「自分がかわいい」という錯覚にはいささかも揺らぎがないのである。「ブース」と言っても聞こえない、地球上の男は全て自分に注目すると思っている(ブス過ぎて注目されているのだが)。アンナの彼氏の恭太郎が、つい「こんなブスにはオレが側にいてやらなくちゃいけないかも」と血迷って言い寄っちゃったときも、「しつこくしないでもね、超ウザイしー」ってな反応である。、ここまで来ると、これまでの鈴木マンガと違って、リリに感情移入はしない。絶対にしない。
 しないけれど、もう、リリにはどんどこ勘違いしまくって、エスカレートしてほしくなるのである。もちろんそれは、リリのために周りの人間が(特に恭太郎が)不幸になっていくためである。人の不幸は蜜の味♪ 全く、ヒロインの彼氏でもないのに勝手に不幸にされていくって、こんな理不尽な話はないが、意外と運命ってそういうものかもしれないよ(^o^)。
 ハッキリ言って大同小異のマンガはか描いてこなかった鈴木由美子の、ようやくやってきた新境地ってとこだろうか。(2003.2.19)

2002年01月27日(日) 寝ててもDVDだけは見る(^_^;)/アニメ『コメットさん』第43回(最終回)/DVD『マジンカイザー』3巻/『キカイダー01』3巻ほか
2001年01月27日(土) 祭りの前


2003年01月26日(日) 短いほど分らない話/DVD『帰ってきたウルトラマン』4巻/『プリンセスチュチュ』2巻ほか

 1/25日の日記の続きです。

 帰宅して、DVD『帰ってきたウルトラマン』の4巻を見る。
 13話「津波怪獣の恐怖 東京大ピンチ!」、14話「二大怪獣の恐怖 東京大龍巻」の前後編は、名作の呼び声も高い、津波怪獣シーモンス&竜巻怪獣シーゴラス登場の巻……と言いたいところだけれど、ちょっとこの怪獣の「分類」に違和感があるのである。
 昔から気になってたんだけどさ、シーモンスって、津波起こしてないじゃん? 起こしてたのは、シーモンスを追っかけて来たシーゴラスの方であってさ。竜巻はシーモンスとシーゴラスが一緒に起こしてるんで、「竜巻怪獣」と言ったら両方になってしまう。
 今回、DVDを見返して確認したのだが、本編のナレーションでは、シーモンスを「伝説怪獣」、シーゴラスを「津波怪獣」と言っているのだ。こっちのほうが正しいんじゃないか。これも脚本と実際の制作過程での混乱があったんじゃないかと思うけど、あくまで本編主義で行くなら、オープニングの字幕は間違いだ、ということになる。もっとも、そういう細かいことを言い出すと、ウルトラマンが津波をはじき返した「ウルトラバリアー」も、ナレーションの名古屋章さんは「ウルトラバーリア」って発音してるんだけどね。
 字幕のミスは他にもあって、高村船長役の小林昭二や娘役の西村恵子、後編にはなんとクレジットがない。いくらなんでもひどすぎないか。

 ドラマ自体も、実のところ、決してそんなに名作と言うほど完成度の高いものではない。
 シーモンスはなぜ海を渡ってくるのか。
 それがドラマのキモになってはいるんだが、前編ではそのことに全く触れられていない。南洋の西イリアン島に伝わる歌に「シーモンスが海を渡る時は気をつけろ」という警告が含まれていることをMATは知るのだが、そのとき誰も「なぜシーモンスは海を渡って来るんだ?」と気にしないのか不思議だ。怪獣を攻撃することにばかり気をとられて忘れてたのか(^_^;)。
 でもって、後編でそれはシーモンスが産卵をするためだった(カメか)、と明かされるのだが、結局ウルトラマンとの対決に破れた二大怪獣は、そのまま海に帰ってっちゃうんである。……子供どこで産むのよ(ーー;)。
 二大怪獣の謎を握る高村船長、物語の冒頭でシーモンスに襲われて記憶喪失になるのだが、記憶が戻ったら、怪獣撃退の方法くらい思い出してくれるんじゃないかと期待するじゃない? けど実はそんなもの何も知らなかったのである。
 ……結構脚本雑だぞ、上原正三。
 あと、嵐のシーンで、『空の大怪獣ラドン』や『三大怪獣地球最大の決戦』の町が破壊されるシーンをそのまま使ってるんだけど、東京に中洲があっちゃマズいでしょう(^_^;)。

 いや、アラはやたらとあるんだけれど、それでもやはりこの作品は圧倒的に面白い。
 それはひとえにゲスト陣の名演によるところが大きい。
 高村船長の小林氏の痴呆演技もすばらしいが(こらこら)、それを支える娘のヨウコ(これがまた困ったことに、『帰ってきたウルトラマン大全』では「陽子」、DVD解説書では「洋子」と表記が違うのである。船長の娘なら「洋子」の方がふさわしい感じがするんだけど、断定はできないし)役の西山恵子の健気さ。ウルトラシリーズ中でも屈指の名演と呼んでいいのではないか。
 ほかにもこの前後編のキャストは超豪華である。藤田進(岸田長官)・菊池英一(川崎操舵士)・幸田宗丸(保険会社員・木島)・西本裕行(工場長・赤城……スナフキン!)・向井淳一郎(自衛隊指揮官)。これで胸が踊らぬオタクはいまい。

 そして、小林昭二・西山恵子の二人の歌う『シーモンスの歌』!
 これが当時の怪獣少年たちの心をいかに揺さぶったか。
 今でもハッキリ覚えているが、翌日学校に行ったら、男子がみんな「ケナケナ、シーモンス」♪と歌っていたのである(そこしか覚えていない)。
 この伝奇色溢れる歌の作曲は、小林昭二本人! うおおお、燃えるぜい!
 以下に、私が耳コピした歌詞を挙げるので、当時燃えた少年たちはもう一度燃えていただきたい。
 いやね、正確な歌詞を書きたいけどさ、『帰ってきたウルトラマン大全』にもDVDの解説書にも、この歌詞が載ってないのよ。『大全』なんて言ってるワリに各話のキャスト表もきちんと調べてねえし、クソの役にも立ちゃしねえぞ、あの本。
 口の動きも含めて確認したから、そう間違ってはいないと思うよ。

 ヌレクハ ヒーウーモ
 ケナケナ シーモンス
 ヨードサ ハーウーコーム
 メウラー シーモンス

 (シーモンスは島の守り神 シーモンスは気立ての優しい怪獣 だがシーモンスが海を渡るときは気をつけろ 恐ろしいことが起こる)

 トルメジ イーウーシ
 ハウコム シーモンス
 ソルトラ シーリーカース
 リラベラ シーゴラス

 (シーモンスを苛めるな シーモンスを苛めると角光る 角光ればシーゴラスも怒り 海も天も地も怒り この世は地獄となる)

 原語にもとネタあるんかな。なんだか訳と一致してないような気がするんですが(^_^;)。正確な歌詞カード持ってるって方は教えてください。
 でもこの手の歌詞っていい加減なこと多いからなあ。『モスラの歌』とかも伊福部昭音楽全集とカラオケの字幕とじゃ全然違ってるもんなあ。

 15話の『怪獣少年の復讐』、ビッコで貧乏で孤独で(あんまりな設定だな)差別されている少年が、父親を殺した怪獣にかえって世間に対する復讐を望んでしまうという実に複雑な心理を描いた名編。脚本は田口茂光。上原さんより実力は上なんじゃないかな。
 でもこの脚本も、字幕では怪獣が「エレドー“タ”ス」となっているのに、本編では「エレドー“ダ”ス」。どうすりゃいいのよ。
 史郎少年を演じたのは、これまでは次郎の親友役を演じていた高野浩幸。名演なんだけれど、同一シリーズで別の役を演じるってのはちょっとねえ。ほかの人が見つからなかったのかな。


 DVD『プリンセスチュチュ』2巻。
 わっ本放送のときは気づかなかったけど、プリンセス・クレールのフィックス音楽、「ジムノペディ」だったんだ。どうして気づかなかったんだろう。アタマ寝てたのか。
 気づかないと言えば、チュチュに出て来るキャラクターの名前もいったいどこから取って来てるんだかわかんないものが多い。いかにも原典がありそうなんだけれど。
 私が気づいてるのは、ドロッセルマイヤーだけだな(~_~;)。これはもちろんバレエ組曲『くるみ割り人形』の登場人物……というより、原作『くりみ割り人形とねすみの王様』に出てくる語り部の名前。あの物語は実際に作者のE.T.A.ホフマンが女の子たちに語って聞かせてあげた話がもとになっているから、ドロッセルマイヤーはホフマン自身だということにもなる。
 アニメのドロッセルマイヤーはあまり優しいおじさんって感じはしないが(^o^)。
 『夢見るオーロラ』に出て来たパウラモニとパウロの二人も、いかにもなにかに出て来てるっぽい名前なんだけどなあ。
 で、このパウラモニ、ゲストで1回こっきりしか出てて来ないのがもったいないくらいのキャラである。「夢見ることに恐怖を覚える」って複雑な心理を演じなきゃいけないんだけど、その要求に見事に答えた声優さんは勝生真沙子さん。今さら説明するのが野暮なくらいの大ベテラン(いや、古狸ということではなくて)である。
 世間的には勝生さんと来れば海王みちる(セーラーネプチューン)なのかもしれないが、私にとっては絶対的に北島マヤ&四方田麿子。マイナーだなあ(^_^;)。
 みちるファンの女の子なんかは勝生さんのクールビューティーぶりがステキ!みたいな感じだったみたいだけれど、私はあの方のキレてるっつーか、イッちゃってるっつーか、妄執に捕われてるっつーか、ともかくいきなり甲高い声上げて包丁振りかざしそうな女の演技させたら天下一品なところが大好きなんである(なんか誉め言葉に聞こえんな)。
 もちろんキャリアのある方だから、普通の役もされてるんだけどさ、そっち方面の演技ができる女の人って意外と少ないから。これって、女性の声優にいかにもアニメアニメした作り声を要求してきた弊害なんかじゃないかと思う。勢い、『The八犬伝』の玉梓や『スケバン刑事』の海槌麗巳なんて役があると、勝生さんに振られることになるのである。
 あ、『羊たちの沈黙』『ハンニバル』のクラリス(ジョディ・フォスター&ジュリアン・ムーア)の吹替えも勝生さん。いかにもでしょ?

 物語が折り返し地点に来たせいか、今巻はゲストキャラが少ない。
 さすがに前巻のアリクイ美みたいな強烈なキャラはそうそう出せまいが、巡業バレエ団エレキ座の団長が電気ウナギだったりと、まあ、細かいギャグキャラはちょこちょこ登場。どうも金冠町に来るまではこのエレキ座も普通の劇団だったらしいので、この町に入るとどうやら普通の人でもおとぎ話の世界に取りこまれてしまうらしい。「団長ってウナギだっけ?」「この町に付くまでは……?」「ま、いっか、電気代浮くし」って、そういうもんか(^_^;)。



 ハイ、ここから26日(^o^)。

 朝、なんとか起きて『仮面ライダー555』の第1話と、『おジャ魔女どれみどっか〜ん』の最終回を見る。
 『555』は設定に凝り過ぎ、ハッタリのかましすぎ。まあいつものことだけど。でも主役が誰だかわかんないような出だしってのはどんなもんかね。
 竹井みどりさんがチラッとだけ出てすぐ死んでしまった。……もちょっといい使い方しようよ。
 『大鉄人17』や『多羅尾伴内(小林旭版)』で、「ホクロがセクシーでキレイなおねえさんだなあ」とか思っていたのだが(小学生だろ?)、『くれないものがたり』でなんだかヘンな世界に行かれてしまった(-_-;)。もっともっと使われていい女優さんだと思う。
 『どれみ』はまあ、普通の終わり方かな。4年も続いた番組のラストとしてはあっさりしすぎてはいるが。作画がいいので、ありきたりって印象がだいぶ薄れているのはいい。でも、今さら「みんなと別れたくない」くらいのことで引きこもるか、どれみ、とか思いはするけどね。
 未来さんのエピソードとの関連性は全くなかったみたいだね。多分そういうことになるだろうと思っちゃいたけど。あれはやっぱり突発的な番外編みたいなものだったのである。

 で、眠くて昼は寝てました。

 夜、しげがいきなり「ドンキに行くよ」と言い出す。
 なんのことやらわからず、「ドンキってなに?」と聞く。
 「ドンキホーテ!」
 何やら買い物があるらしいのだが、「ドンキホーテ」くらい、省略して言わなくてもいいんじゃないのかなあ。
 本当に長い単語を省略するのならともかく、なんでもかんでもとりあえず省略してみるっての、はっきり言って「若気のいたり」なんである。流行語と同じで、トシ食ったら「あんな言葉使ってた」って恥ずかしくなるぞ。私もムカシよくやったからわかるんだが、『長靴をはいた猫』を『長猫』とか、『どうぶつ宝島』を『ど宝』とか、『カリオストロの城』を『カリ城』とか(アニメばっかりかい)、自分では意識してなくても、いかにもマニアな言葉使って自分たちのステイタスにしてるつもりになってるんだね。
 「だってぼくたち若いんだから、自分たちの言葉使ったっていいじゃん、オジサンは相手してないし」とか言い訳するやつもいるが、だったらオトナの前でそんな言葉を使うもんじゃない。使い分けできてないだろ?
 そういった相手に対して無自覚に甘えた言葉ってのは、不快感を与えるばかりでなく、使ってる本人がアタマ悪そうに見られちゃうんだけどね。それって損だと思うけど、どう?
 おかげで、こちらも「今の言葉、何?」って聞いたときに、その実物を知らないと、その中身を理解するのにえらく手間がかかるのである。
 「ドンキ」だけで通じる、知らないほうがおかしい、という判断は「鈍器」という単語を知らない人間の発想だろう。単語の発音が短くなれば、必然的に同音異義語となる確立が増える。「マック」がパソコンを指すのかハンバーガー屋を指すのか混乱した例を考えてみればよい(関西は「マクド」で混乱する必要はなかったようだか)。
 「ロッテ」と言えば私にとっては「歌のアルバム」である。
 「ケンタ」と言えば、深作である。
 「ファミマ」と言えば「あ〜み〜ま〜、ゆ〜や〜ゆ〜」を連想してしまう。
 たかだか2、3文字を省略しなきゃならんほど、今の若い人たちはめんどくさがりになってるのか? でも、「ファーストキッチン」なんかは特に省略なんかしてないだろうが。それともあれは「ファッキン」とでも言うのか?
 こうなると店の名前を新しくつけるんなら、最初から「ポプラ」とか「ガスト」とか、3文字以内にしてくれと、頼みたくなってくるね。

 ともかく車に乗せられて、香椎まで出かける。外はちょっと雨。
 腹が減っていたので、食事をまず先に『びっくりドンキー』(これも「ドンキ」になるじゃんかよ)ですます。
 ハンバーグスパゲティに、イカ焼き。ちょっと味が濃いが、ここのイカ焼きは美味い。しげにも少し分けてやるが、もっと欲しそうな顔。しげはしげでハンバーグを食っているのだから、そんなには食べ切れないのだが。でも追加でデザートを頼んだら、やっぱり半分取ってペロリと平らげたのであった。
 そのあと、「ドンキホーテ」の中をうろつく。初めて知ったけど、あそこ、お茶のサービスまであるのね。紙コップ持って店内をうろつくのはちょっと動きにくかったけど。
 しげがフライパンだのトイレットペーパーだのバレンタイン用の道具らしきものだのを買ってる間に、私もシャツだのパンツだの靴下だのを買う。なんだか日用品を買うのって久しぶりのような気がするなあ(^o^)。


 帰宅してネットを開いたら、山本弘さんとこの『SF秘密基地』で600000のキリ番をゲット。そういうのが全く話題にならないサイトだから、特に書きこみをする気はないが、ちょっと嬉しかったのでここにだけ記録しておこう(^o^)。


 マンガ、金田一蓮十郎『ジャングルはいつもハレのちグゥ』10巻(エニックス/ガンガンコミックス・410円)。
 最終巻とか言っときながら全然終わってない。『ガンガン』本誌ではタイトルを『ハレグゥ』(省略やんけ……)として、連載継続中である。このタイトルでまたテレビアニメ化してほしいな♪
 それにしても、この作品の原作とアニメの関係は極めて幸福な関係にあったのではないか。
 原作ももともとギャグのキレがよかったのだが、アニメがそれに拍車をかけるように暴走した。その様子を見て、原作マンガが負けじと暴走し始める。その変化が顕著なのがダマばあさんの存在で、最初はもっと普通のババアだった気がするが、もうこの10巻になると完全にこのマンガのヒロインである。って言っていいのか、オイ。
 えー、説明するだけでタイヘンなんですけどね、財産争いに巻き込まれたウェダを殺しに、刺客が送り込まれてくるわけですよ。スッゲェ美女の。でも実はそいつ、ダマだったんです。……なんで? って、理由なんてないです(-_-;)。
 いやもう、それ以上、説明を求めないで……。次回からはまた都会編のようです。
 
 
 マンガ、城平京原作・水野英多作画『スパイラル 〜推理の絆〜』8巻(エニックス/ガンガンコミックス・410円)。
 未だにこのマンガは「読み」切れないなあ。
 いやホントに面白いんだかつまらないんだかわかんないのね。キャラクターの誰一人として、感情移入できるやつがいない。それも当然で、背景となる設定が全然見えてこないからなんだけれど、キャラクター同士の腹の探り合いというか、いかにして敵のウラをかくかって権謀術数はオモシロイのである。
 ……私事だけどさ、実は私が今回劇団のために書いた戯曲、『スパイラル』の影響受けちゃってるんだねー(^_^;)。いやね、この「いかに敵のウラをかくか」ってのをあまりクドくならないようにやってみたくなったのよ。成功するかどうかは芝居が出来あがってからのお楽しみなんだけど。
 で、書いてみて確かに思うのは、この「権謀術数」やってる間って、純粋な思考ゲームになっちゃうから、「キャラクター」がすっごくジャマになるのね。『スパイラル』のキャラクターの背景が未だに描かれないのは、もしかしたらそのあたりに理由があるのかもしれないけれど、今後の展開を見てみないと、今はまだ簡単に判断が下せないんだよね〜。
 考えてみれば、ミステリーが傑作かどうかってのは、完結してみなけりゃわからない。面白いかつまらないかわからないまま読んでくってのも仕方のないことなのかもなあ。

 そこで気になるのは、鳴海清隆の存在だ。
 『機動警察パトレイバー』の帆場英一を彷彿とさせる、「全ての事件の鍵を握る男」。帆場は結局、最後の未来を読み切れなかったが、鳴海兄はいったいどこまで未来を読んでいるのか。
 いや、そもそも「人間」はどこまで「先」が読めるものなのだろう?
 全てが読めるとしたら、それは限りなく「神」に近いのではないか?
 その「神」はまた、「ラプラスの悪魔」とも呼ばれる。
 果たして城平さんはこの物語の支配者を「神」「悪魔」どちらの視点で描いていこうとしているのだろうか。
 囲碁・将棋の世界における名人クラスになると、最初の数手で終局までが見通せるそうだ。本作の「全ては鳴海清隆の手の上で踊るものたち」という設定に疑問を覚えるのは、未だに姿を見せぬ彼に、既に見通している未来などというものがありえるのだろうか、ということが気になるからである。
 全てが自分の仕掛けた通りに人間たちが動いていくとすれば、それは恐怖につながらないだろうか。不確定要素のない未来など、私は見たくもないのだが。

 巻末のあとがきで、城平さんがエドワード・ゴーリーのファンであることを知る。有名人でゴーリーファンを表明してるのは、私が知る範疇では江國香織さんに続き二人目。でももっともっと知られてほしい作家さんである。
 新刊の『ウェスト・ウィング』まだ見つけてない。早く買わねば。


 マンガ、和田慎二『神恭一郎事件簿� ^Δ隼爐虜住�計』(メディアファクトリー/MFコミックスフラッパーシリーズ・620円)。
 神恭一郎シリーズの短編はまとめると一冊にしかならないんだが、それを三分冊して売ろうってアコギなやり口。
 ミステリコミックが流行してるから、今、再販したら売れるだろうってハラで出し始めたんだろうと思うけど、あの、ハッキリ言ってさ、イマドキ通用するレベルの話じゃないのよ。
 昔はミステリ作品が少なかったから、仕方なくこんなもんでも読んでたけどさ(1973年!)、もうこれがアイリッシュの『幻の女』の稚拙な模倣作でしかないってことは知れ渡ってることなんだからね。
 ……このマンガをこれから読もうって人は、先に『幻の女』を読んでおいてくださいね。でないと評価の仕方を間違えます。
 考えてみたら、「神恭一郎」って名前も高木彬光の「神津恭介」をモジってるんだものなあ。まあ、昔のマンガ家さんって節操ない人多かったから、和田慎二一人を責められはしないんだけどね。さすがに最近はここまで露骨なパクリはしてないみたいだから。


またもや字数オーバーになっちゃったので、続きはまた翌日。(2003.2.18)

2002年01月26日(土) 食事中には読まないで下さい。/『ラーゼフォン』1巻(百瀬武昭)/『増量・誰も知らない名言集』(リリー・フランキー)ほか
2001年01月26日(金) 夢の通い路


2003年01月25日(土) 海馬って記憶中枢のことだよ/DVD『ガリバーの宇宙旅行』/『わんわん忠臣蔵』/『あずまんが大王』三年生(完結)ほか

 体調崩したままなので、映画見に出かける予定だったけれど中止。
 気がついたら、今年はまだ映画館に一度も足を運んでない。こういうのも珍しいなあ。もっとも相変わらずDVD買いまくりはしてるんで、映画見てないわけじゃないんだけど。
 朝、ウッカリ早く起きちゃったので、昨日買ったばかりのDVDを立て続けに見る。東映動画系の長編作品はできるだけ全部揃えたいんだけど、量が多いのでチビチビとしか買えない。
 それにしても、版権の関係なんだろうけれど、アニメ版『ひょっこりひょうたん島』が未だにソフト化されてないってのは、歴史的損失だと思うぞ。権利関係には厳密に、って各方面の意向が分らないわけじゃないけど、作品ってそもそも誰のものだ。客のものじゃないのか。


 DVD『ガリバーの宇宙旅行』。
 昭和40年制作の東映長編動画シリーズ第8弾にして、初の宇宙冒険モノ。
 本公開のときには見に行ってなくて、3、4年後にどこぞの公民館かどこかで巡回上映やってたのを見たのが初見。おそらくは昭和43、4年頃。幼稚園か小学1年生くらいだったろう。
 今、これを見た人がテンポがたるいなあ、とか感じるかもしれないが、当時の小学生の感想でもそんなもんだった。名作『長靴をはいた猫』を見たあとだったから、余計にそんなふうに感じたのかもしれない。
 だいたいタイトルに『ガリバーの』と付いているが、ガリバーは脇役で、主役は孤児のテッド少年なのである。「カンバンに偽りアリじゃん」と、小学生からバカにされていたのだから、やはり子供をナメたような映画造りをしちゃいけないのである。

 いや、「子供騙し」なのはタイトルだけの問題ではないんだね。
 夢をなくして心の荒んでいる孤児・テッド(なんだかありがちだけれど、決して非現実的な設定ではない。戦後20年が経ってはいたが、まだまだ駅前の靴磨き少年などがギリギリ生き残っていた時代であった)は、警察に追われて、遊園地に逃げこむ。
 花火に乗って脱出するテッドだったが、あえなく墜落した転がりこんだ先は、なんとあのガリバーの家。すっかり老人になってしまっていたガリバー博士だったが、冒険への夢は捨てていなかった。宇宙船ガリバー号に乗って、未知の世界へと旅立つ。
 ……と、ここまでで、小学生当時の私はもうすっかり萎えてしまっていた。
 それまでの東映動画は一種のおとぎ話だったから、多少荒唐無稽な描写が出てきてもたいして文句はない。けれど花火でそんな高く人間が飛べるかよ、とか、ガリバーがまだ爺さんで生きてるって、時代離れすぎじゃん(『ガリバー旅行記』の出版は1726年である。当時そこまで正確に年月を知ってたわけではないが、当然、その風俗描写からガリバーの時代がはるか過去であるくらいのことはわかる)、第一、元船乗りがなんで科学者になってて、しかも宇宙船をたった一人で作れるんだよ、とかツッコミどころが満載だったのである。
 ……小学生にそんなとこまで突っ込めるなんてヘンだって思いますか?
 当時の小学生はみんなそんなもんだったんですよ。それくらい、「大阪万博」前のコドモたちは「科学の子」で、「宇宙」に対してはおとぎ話とは違う「リアルな夢」を見ていたものだったんです。
 『オトナ帝国』での「万博」への拘りに涙する気持ちが、昭和40年以後に生まれた人間にはわかるまい、というのは偏屈なことを言ってるわけでもなんでもなく、そういうことなんです。
 もちろん、このトシになった今なら、小学生の自分に向かって、「いいじゃん、それくらい眼をつぶってやっても」と言ってやりたくなりますが。それに、今のオトナの眼で見ても、宇宙空間の静謐な描写や、時間の逆流、宇宙船の牽引ビーム、地平線を埋め尽くすロボット兵の恐怖感など、SF的描写のオモシロさを全く探せないってわけでもない。

 なにより、例の「アレ」。
 紫の星の住人たちが、ロボットを作り出した末に、自らもロボットの中に身を包むようになってしまった、というのは、いささかストレート過ぎる嫌いはあるにしても、鋭い文明批評である。何よりそれを過剰なセリフで説明することを避け、ロボットの王女がパックリと避け、そこから生身の少女(描写されてはいないが当然ヌードである)が現われるという衝撃の展開で見せる演出のスバラシサは、やはり「天才的」という言葉ででもなければ表現しきれない。
 裸の王女(少女と言ってもいい)は、テッドに優しく上着をかけられる。
 「寒いわ……」と呟く少女は、確かに冷たい風を感じていたのだろう。しかし、それは夜明けの風であり、彼女がこれから踏みしめて行くであろう、苦悩と希望の両方を象徴するものでもあるのだ。また、ヌードは当然「性」の謂であるが、これがまた「生」を表すものであることも容易に理解できよう。
 この設定は、脚本にはなかった。
 監督や作画監督の変更でもない。
 当時、原画マンですらない、ペエペエの一動画スタッフが、「勝手に」そのシークエンスを作画し、それを通してしまったのである。
 侃侃諤諤の言い合いはあったらしい。しかし、誰が見ても、王女をロボットのままにしておくより、その動画マンの主張する設定に変更したほうが圧倒的に面白かった。生意気を通りこして不遜とも言える動画マンのこのゴリオシを通した監督の黒田昌郎もエラいが、やはり称賛すべきは、その動画マンの一頭地を抜いた才能のヒラメキであろう。
 彼の名を、「宮崎駿」と言う。
 ……まあ、当時からいささか説教臭かったとは言えるかな。同時にスケベでもあった(^_^;)。

 けれどやっぱりこれはちょっと……と首を傾げたくなるのは、そのオチなんだね。
 これを書くのはややしのびないんだが、この物語、実は全部テッドの「夢」なんである。……これだけドラマ盛り上げておいて、今さら夢オチかよ! と、当時も今も叫びたくなりますね。テッド本人は自分の勝手に見た夢で気持ちよくなったのかもしれないけれど、客は現実逃避の他人の夢に1時間半付き合わされただけじゃん(ーー;)。
 脚本は東宝特撮映画シリーズの重鎮、関沢新一である。
 ……そう言えば、やっぱりたった一人で豪天号作った『海底軍艦』とか、苛められっ子が現実逃避して怪獣島の夢を見る『オール怪獣大進撃』とか書いてたな。宮崎駿がいなければ、ホントに腑抜けた駄作になっていたとこだ。

 内容的にはあまり誉められたもんでもないんだけど、それでもこの映画は簡単に見逃していものではない。宮崎駿が最初にその才覚を表した記念碑的作品であると同時に、今や考えられないほどに豪華なのは、その声優陣なのである。以下を見ていただきたい。

 テッド少年 ........... 坂本 九
 紫の星の王女 ......... 本間千代子
 ガリバー博士 ......... 宮口精二
 ノラ犬マック ......... 堀 絢子
 人形の大佐 ........... 小沢昭一
 夢の使者キューピット . 岡田由紀子
 紫の星の王様 ......... 大泉 滉
 紫の星の科学者たち ... ダニー飯田とパラダイスキング
 青い星のロボット ..... 今西正男
 からすのクロー ....... 伊藤牧子

 ……ウソみたいである。
 長いアニメの歴史の中でも、これだけの豪華キャストに匹敵するのは『もののけ姫』くらいのものであろう。
 いやアナタ、坂本九がこの映画の中ではパラダイスキングに復帰してるんですよ! ってなんのことだかわかんない若い人も多いかなあ。「こっの世っでいっちばん、たっのしぃこぉとは、すってきなタイミングっ♪」って、知らない?
 でも、残念ながら、坂本九の声は少年の声には全く合っていない。当時も今もそう感じていたが、しげもやっぱりそう感じたそうだし、多分同じ意見の人は多いだろう。
 劇中、歌を歌ってもらうための起用だろうが、残念ながらたいした名曲はない。メロディーラインに「キモ」がないのである。音楽の富田勲、この映画ではあまり本領を発揮したとは言えない。坂本九のファンならばともかく、普通の音楽ファンにはちょっと音楽シーンは特にタルく感じちゃうんじゃないか。
 主役の演技より、ワキの人々の渋い演技を堪能したほうがいい感じである。

 予告編を見ると、これだけの声優のクレジットが全くなく、声もアテられていない。どうやらキャストのスケジュール調整に時間がかかったものと見える。いい宣伝になったろうに、もったいない話だ(坂本九は子どもにも人気があった)。
 

 DVD『わんわん忠臣蔵』。
 昭和38年制作、『ガリバー』の前作で、東映長編動画第七弾。
 本公開は私が0歳のときなので、さすがに劇場に間に合ってはいない。
 最初に見たのはテレビ放映のときで、昭和47年、系列はNET(現テレビ朝日)、福岡では九州朝日放送(1チャンネル)での正月放映である。
 ……なんでそんなに細かく覚えてるかっていうと、前年までやってた三船敏郎主演の『大忠臣蔵』の最終回で、『わんわん忠臣蔵』の予告が流れたからなんだね。しかしNETのスタッフ、『大忠臣蔵』のファンが『わんわん』も見ると考えたんだろうか(^_^;)。

 クレジットにはないが、東映動画に入社したばかりの宮崎駿が、動画マンとして初参加。つまりこれが「宮崎駿デビュー作」である。
 オープニングで犬たちが横一線に並んで行進するのを見てニヤリとする人は多かろう。後に『どうぶつ宝島』、『アルプスの少女ハイジ』のエンディング、『となりのトトロ』でも見られたイメージだからである。
 この映画の原案構成は手塚治虫。構成とは絵コンテのことだから、このオープニングのアイデアも手塚治虫の手によるものかもしれない。「しれない」、と微妙な書き方をしたのは、前々作『西遊記』で、手塚さんのコンテは、現場スタッフに「使いモノになるか」と、散々「直し」を食らっているからである。
 けれど、手塚さんは『マリンエクスプレス』などでも「キャラクターの行進」を使っているから、やはりこれは手塚さんのアイデアそのままか。となると、手塚さんの没後、「手塚治虫がアニメでやってきたことは全て間違いです」と痛烈な批判をした宮崎駿も、やはり「アトムの子ら」……手塚治虫チルドレン的要素はあった、ということになるか。
 なんにせよ、本作が唯一無二の「手塚治虫と宮崎駿の同一スタッフ作」である。あまり意味はないが。映画公開時には手塚治虫は既に東映動画を離れて「虫プロ」を設立し、『鉄腕アトム』をテレビに送り出していた。

 冒頭、キツネの赤耳が小鹿のロンを追いかけるシーン。ワンカットだけだがここでなんと水彩画をそのままアニメーションにするという(しかも奥への動き!)モノスゴイことをやっている。当時の東映動画スタッフの気概が伺われるシーンだ。
 『忠臣蔵』とタイトルにあるが、筋立てはシンプルなもの。
 森の動物たちを食い殺しまくっている寅のキラー(^o^)に、母親を殺された少年犬ロック(「大石」ですな)が、野良犬四十七匹とともに敵討ちをする、という話。ロックの恋人のスピッツがカルー(「お軽」だね)というほかはあまり忠臣蔵キャラクターとの類似性はない。
 まあ、客観的に見て傑作とまでは言えないが、私は悪巧みをするキツネの赤耳のキャラが大好きなので、これから本作を見ようって人には、声をアテてる加茂喜久氏の憎々しい名演を堪能してもらいたいものである。……この人、モノクロ版『パーマン』で初代パーやんの声もアテてる人なんだけど、恐竜のイラストレーターで有名な「かもよしひさ」氏とは別人だよねえ?
 あ、もちろん、キラーの声アテをしている西村“水戸黄門&マモー”晃氏にも注目。実写とアニメの両方で吉良上野介を演じたのは西村さんだけであろう(^o^)。


 DVD『あずまんが大王』三年生(完結)。
 ちよちゃんたちも卒業である。ボックスに3巻まとめて入れると、各ケースの背に描かれたちよちゃんが、冬服、夏服、卒業の和服(あの昔の女学生がよく来てた長いスカートの和洋折衷服、なんて名前なんだ?)とオトナになって(?)いくのがわかる仕掛け。ちょっとしたことだけど、これだけで書架に並べておくと楽しく感じる。
 更にケースの裏表紙は残る五人の体操服・文化祭の衣装・修学旅行の私服のお色直し(^^)。

 テレビシリーズとしてはよくまとまってるし、好きな演出も多かった。
 おーさかのなんかいつもふらついてるような不安定な動き、リアルだなあ、と感心しちゃうんである。靴を履こうとして倒れそうになってちよちゃんに支えられる描写の「重み」の描写や、神楽が校庭でストレッチしているときの筋肉の「緊張と弛緩」の描写のうまいことよ。
 原作が4コマだと、アニメ化した場合に空間表現が単調になることも多いんだけど(昔の『タブチくん』とかね)、微妙にアングルを変えたカットの積み重ねがちゃんとドラマを紡ぎ出している。
 原作にはなくて、付け加えられたシーン、例えばちよ父がアメリカでギャングのタマをはね返すシーンなんか、まさか『あずまんが大王』でこんな爽快なアクションシーンが見られるとは思わなかった、という楽しい出来である。なんたって、若本規夫さんの「いつもの」ハイテンション演技、ただひたすら「イイ!」としか言えない(^o^)。
 「待て〜い!」
 「フ〜ン!」
 ……これだけで笑わせてくれるというのは、若本さん以外にできる演技ではあるまい。

 けど、原作で気に入ってるエピソードのアニメ化では、ここはもうちょっと演出に凝ってほしかった、ってとこも結構あるのだ。特にヤママヤー関係のところでは、最初の出会いのところも、榊さんが手をかざしてマヤーが出てくるまでの間が長過ぎるし、東京にやってきたマヤーが榊さんを守ろうと飛び出してくるあたり、BGMが過剰だ。あそこは音楽をダラダラ流すんじゃなくて、メリハリの効いたSE(効果音)だけでやってほしかった。作画自体はいいんだけどなあ。
 プラスマイナスで、まあまあの佳作ってとこかなあ。

 ちなみに、ちよちゃんは「イリオモテヤマネコ」と「ヤマピカリャー」と「ヤママヤー」は同じものだと言うが、地元の人の中には「ピカリャー」と「マヤー」は別物、と考えている人もいるらしい。つまり「ヤママヤー」は普通の山猫だけれど、「ヤマピカリャー(山で光るもの)」は、体長1メートル以上の大型動物で、未だに得体の知れぬ、未発見のUMA(Unidentified Mysterious Animal=未確認動物)だそうな。まあ、どっちゃでもよろしい。

 あずまさんの新作、『よつばと!』も『電撃大王』で連載開始。ホームページ「A−ZONE」もリニューアルである。ギャグのわかんないアホがトラブルを起こして消えていたFAQも復活。数は少ないけれども、新しい質問も付け加わっている。
 「メールの返事がきません」に対して、あずまさんの返事は、ともがよみを殴るカットで「軟弱者!」。
 いいなあ。あずまさんの今後にはまだまだ期待しちゃうんだけど、これでまたトンデモさんが「読者を殴るような返事の仕方はよくないと思います」とか苦情のメールを寄せたりしないか、それがちょっと心配である。。あほとほもはどこにでもいるからねえ(ーー;)。

 
 少し調子がよくなったので、今度は天神まで出かけて行って、予約していたDVDを取りにいく。用事がそれだけだと、しげも外出をしぶるので、本屋にも誘う。ちょうど探したい本があるということだったので、都合がいい。
 LIMBとジュンク堂を回ったあと、久しぶりにインド料理専門店の『ナーナック』で夕食。お高いけれど、やはりそのへんのカレー屋とは味の深みが段違いである。以前はこの店のCM、映画館に行くと必ずといっていいほど流れてたんだが、最近はついぞ見ない。もっとも、一番よく流れてた東宝系の映画館に足を運ぶことが少なくなったせいかもしれないが。
 あのCM、福岡限定だと思うんだが、怪しいインド人がでっかいバーベキュー持って「お待ちしてマ〜ス!」とにこやかに微笑みかけてくるんで、子供のころはマジでちょっと怖かった。街中で外人さんを見かけることも珍しくなくなった福岡の街だけれど、30年くらい前は、インド人が街にいるだけで異空間がそこに生まれたような錯覚を覚えていたのである。……って、そんな昔から「ナーナック」、続いてるんだよなあ。あのインド人、トシいくつだ。

 すっかり満腹してアタマがほんやらや〜になっちゃったせいか、買ったばかりのDVDの袋を店に忘れてしまう。100メートルくらい歩いて気がついたんで、慌てて取りに帰るが、しげに「ここでちょっと待ってて」と言うと、あからさまにイヤそうな顔。
 まあ、夜の天神の町に、ほんの数分とは言え、女一人ほったらかしにしようってんだから、夫としてはちょっとヒドイ行為ではあるんだが、かと言って、一緒に付いて来いって言うと「横暴だ」とか「めんどくさい」とか言い出すに決まっているのである。
 それに、まかり間違っても、天地が裂けようと恐怖の大王が今ごろ降りてこようと、しげが(以下自粛)。
 袋を取って戻ってくると、しげが「一回戻って損した?」と聞いてくる。
 「……損って何が?」
 「距離が」
 「……別に。よくわからないんだけど、そういうのって、損得で考えるのか?」
 なんだかなあ、10年一緒に暮らしてても、未だにこのしげの間をはずした質問には戸惑うことが多いのである。「帰る時間が遅れちゃったわね」とか、その時間のロスを確認する、というのならまだわかるのだが(それにしたってたいした時間じゃない)、わざわざそれを私に質問するというのはどういう心理であるのか。
 よくしげが私に聞くのは、「ねえ、オレはこれからどうすると思う?」という質問なんだが、そんなことわかるわけがない(ーー;)。おそらくしげは、些細なことでも「これって正しい行動なのかな?」と迷ってしまって、自信が持てなくなるのであろう。
 自分の取るべき行動を、まず私に確認してもらった上で、「よし、これからしようとしてることが間違ってないんだな」と自分でも納得している様子だ。
 あいつどうもねー、今、何をしようとしてたのか、本気でしょっちゅう忘れているらしいんだよねー。本気で3秒前のことも忘れてたりする。
 今回の場合も、「自分はここに待たされて、時間が損した気になってるけれども、それは確かなことなのかそれとも気にしないでいいことなのか」とかなんとか迷っちゃって、上記の質問になったものだろう。
 まあ、こんな不安に駆られるのは、トリアタマかトコロテンアタマ(懐かしのドクター・カオス♪)のしげだからこそであろうが、日頃から海馬にはちゃんとエサをやってほしいものだ。肉ばっかり食ってるからだよ、馬には草だ。
 ……とか言いながら、気がついたら私も、渡らなくていい信号を「青だから」とうっかり渡っていた。エサをやり過ぎると、海馬も働いてくれないようである。


 字数オーバーになっちゃったので、続きはまた翌日。(2003.2.17)



<訂正>
 宇津見様より以下の指摘がありました。誤った情報を書いてしまったことを謹んでお詫び申し上げます。
 ……「轟天」の漢字も間違えてるものなあ(^_^;)。
 論旨そのものにはさほどの影響はありませんので、本文はそのままとさせていただきます。


> 海底軍艦が建造されたいきさつは、終戦時に、神宮司大佐率いる、海底軍艦轟天号の開発建造の轟天建武隊が、丸ごと脱走し、鉱物資源豊富な無人島に拠点を構えて、20年かけて建造したというものです。
> 実際の作中にも轟天建武隊の隊員は、建造スタッフや轟天号のクルー、白兵戦部隊、日本本土の視察に派遣した部下など多数登場していますので、「たった一人で豪天号作った」というのは、もうしわけないですが完全な間違いでしょう。

2002年01月25日(金) 遊び倒す病人夫婦。バカである。/映画『修羅雪姫』
2001年01月25日(木) 思い出したが私は電話恐怖症だった/映画『アヴァロン』ほか


2003年01月24日(金) そのうち隔離されるかな/アニメ『ユキの太陽』(宮崎駿)/『カルト王』(唐沢俊一)

 結局、三日も仕事を休んでしまいました。
 やっと出勤してみたら凄いことになってましたねえ。
 職場に風邪引きさんが続出してるんだもの。
 私とコンビ組んでる同僚で、叩いても刺しても死なないと評判の(死ぬってば)ヒトまでが風邪引いちゃってたことはこないだも書いた。今日、職場に着くなり、休んでたお詫びをしようと彼のところに行って、その背中に咳込みながら、「げほげほ、どうも、長らぐ休びばじで、申し訳ありばせん」と声をかけたところ。
 振り返りざまに私よりもはるかに異常な鼻声で、「だい゜じょう゜ぶです゜か゜?」。
 いや、いくらなんでもここまでひどくはないが、すごいカスレ声である。大丈夫かって、こちらが言いたい(^_^;)。
 「……ばだ、治られでないんですか?」
 「ごどじの、がぜわ゜、なか゜びぎばずね゜え……」
 いや、もうそれ以上は喋らないでほしい。
 ちょっとビックリしながら自分のデスクに向かうと、隣席の女性の同僚が、眼まで隠れそうなデカいマスクをしている。
 「……あなだぼ、お風邪?」
 「え゜え゜、な゜んが、ごえ゜が出な゜ぐな゜っぢゃっ゛で……けふっ」
 そりゃ聞いててわかります……(・・;)。
 そこへ、私の所属する部署の上司の女性がツカツカと近づいて来た。
 「あ゜の゜、き゜ょう゜のれ゜んら゜ぐな゜んでずげど……ずずっ」
 ひ、ひええええ! わ、私の関係者が軒並みみんな風邪を引いているうううう! \((;◎_◎)/!
 これはもう、明らかに病原は私だ。
 なんだか、ポーの『赤死病の仮面』にでもなったような気分である。
 あるいは星野之宣の『幼女伝説』かな。「カンタレッラ!」ってやつ。……シャレにならんわ(ーー;)。
 考えてみたら、病気慣れしている私(^_^;)をこれだけ苦しめてる風邪だもんなあ。日頃丈夫な人たちまで罹っちゃうのは当たり前なのかもしれない。
 日頃は厚顔無知な私であるが、ここ最近、こんなに身の置き所に窮したことはない。すみません、移すつもりなんてなかったんですよう、許してください。m(j◇j)m
 三日も休んだのだから、仕事の面で迷惑をかけた相手は同僚は10人を下らない。もう午前中はずっと平謝りしまくりである。
 プロジェクトの中には、最後の詰めを、責任者である私が放棄したものまである。
 「……何とかやっときましたから」
 と言われた時の同僚の唇の端が微妙にケイレンしていたように見えたのは気のせいかしら。そうよ私は木の精。……現実逃避してんじゃねえ(ーー;)。

 とかなんとか言いながら、結局半ドンで帰っちゃいました(人でなし)。
 久しぶりに仕事に出て来たんだし、ちょっとがんばろうと思ったんだけれど、午後になったらまた咳が止まんなくなっちゃったし、目眩と吐き気で苦しくなっちゃったのよ。
 午後は会議がある予定だったのだが、とても持ちそうにない。
 検査結果も聞かねばならないし、病院に行くことにして、また各方面に頭下げ。


 先日、博多駅の紀伊國屋から電話連絡が入っていた。
 「DVDの『あずまんが大王』の3巻と、『プリンセスチュチュ』の2巻が入荷しておりますが……」
 当然、取りに行かなきゃならないんだが、カラダがきついんで来月回しにしようかとちょっと考える。けれどこれをやると、来月予約しといたブツとかち合っちまうのである。しかも、来月には『黒澤明ボックス』3巻&『必殺仕掛人ボックス』1巻という大物が控えているのだ。
 なんでそんな無謀な予定を立てていたかというと、来月はボーナスが支給される予定だったからである。けれどこの不況で、先日ボーナスカットが通達されている。……予約入れたあとでいきなり、ンなことするなよう(T∇T)。……と怒ったところでそりゃ会社の責任じゃない。いや、経営不振は上司のアホのせいなんだが。でも、結局は零細企業に勤めた私が悪いってことなんだよな。来月は生活を切り詰める予定。とりあえずは昼飯抜きだ(;_ _;)。

 ……てなわけで、紀伊國屋に向かったんですが。
 しげは昼間は寝ているので、車を呼びつけるわけにはいかない。仕方なくバスに乗って博多駅に向かうが、ウチの職場、マジで田舎にあるので、博多駅まで乗り換えて1時間かかるのである。
 病み上がりで田舎道をガタゴト揺られてたら、病状が悪化するのは当たり前であろう。紀伊國屋に着いた時には息は上がり、髪は乱れ、なんかすごいことになっていた。
 「ず、ずびばぜん、ぶ、ぶりんぜずぢゅぢゅをぐだざい」
 ……よく警察に通報されなかったものである。

 病院の診察結果、やはり喉が炎症を起こしていたらしい。
 「これから治っていきますよ」と医者が軽く言ってくれたが、ほんまやろか。
 なんか医者に行くほど病状が悪化してるような気もするんですけど。


 さて、今日はアニメオタクにはぜひとも見逃せないテレビ番組がある。
 『千と千尋の神隠し』……じゃなくて、その直前の特番で、宮崎駿の幻の監督作『ユキの太陽』のパイロットフィルムが放映されるのだ。
 宮崎駿のフィルモグラフィーにはしっかり記載されているのだが、さて、長年眼にする機会はなかった。パイロットだから、そんなに長いものは期待できないが、それでも見られるものは画面に齧りついて見る。
 紹介のところで、「宮崎監督のデビュー作は一般には『未来少年コナン』と言われていますが……」と説明してたのはちょっと舌足らず。
 名前は出していないが、『ルパン三世』の旧テレビシリーズを宮崎さんが高畑勲さんと「Aプロダクション演出グループ」の名で監督していたのは今や有名である。監督デビューという意味でなら、こちらの方が早い。ちゃんと確認しとけよなあ。
 で、『ユキの太陽』の出来である。
 原作はちばてつやであるが、内容は日本版『アルプスの少女ハイジ』といった趣。もともと孤児が明るく元気に生きるってのは、庶民派のちばさんの世界なんだけど、同じ庶民派でも宮崎さんの世界とはやはり肌合いが違う印象である。ちばさんには独特の泥臭さがあるんだけど、それが消えちゃってて、やっぱり表現にキレイゴトが混じっちゃってるのね。キャラデザインがすぐに崩れて、東映動画顔になってしまうんだけど、ちばキャラは子供でもそんな媚びた笑顔は見せねえぞ、もっとたくましいやって感じかな。
 大塚康生さんの作画監督なら、こうもナマヌルイ感じにはなってないんじゃないかと思って、スタッフリストを調べてみたけど、やっぱり大塚さんはこれには噛んでなかったみたいである。いや、ユキがちょっと「ルシファー飛び」っぽい動きしてたからね。
 大塚さんも、そういう宮崎さん的なマンガチックな動きを描くこともあるが、もともと『わんぱく王子の大蛇退治』のアクル対スサノオのようなシャープでキレのいいアクションの作画が得意なのだ。どっちかと言うと、作画的にはこれ、大塚さんが監督した方がよかった企画なんじゃないかなあ。まあ、大塚さんは根っからの職人だから、なかなか監督は引き受けなかっただろうけれど(あれだけの仕事をこなしていながら、監督作は『草原の子テングリ』と『東海道四谷怪談』の2本しかないのである)。
 もしもちばてつやのファンがこれを見たら、イメージの違いに愕然としちゃうんじゃないかなあ。もしかしてこれがパイロットフィルムだけで終わったのは、スポンサーの中にちばさんのファンがいたせいかもね(^o^)。

 続けて、『千と千尋の神隠し』も見てみたけど、どうですか、赤かったですか。私にはよくわかんなかったんですが。

 晩飯は精力をつけようと、「さかい」で肉を食う。
 ここ数日、うどんばかり食ってたから、胃の方もやや重たいモノを欲している感じだ。今日ばかりはしげの趣味に付き合う形である。


 映画監督の松田定次氏が、20日に老衰のため死去していたことが判明。享年96。
 年齢的には大往生。ていうか、死因が「老衰」っての、久々って気がする。宇野千代さんも確かそうだったような気がするが、有名人ではそれ以来じゃないかな? 
 子供のころ、土、日の昼から夕方にかけて、テレビで『○曜時代劇』なんて番組があってたが(最近は『サスペンス劇場』の類に圧されて、あまりやってない)、監督のクレジットを見ると、たいてい松田定次であった。いったい、今までに何度『水戸黄門』(1960)を見たか知れやしないが、その割りにストーリーの大半を忘れてしまっているのである。
 弟さんのマキノ雅弘さんの映画には、どこかギラギラとした才気が感じられたものだったが、松田さんの場合は悪く言えば大味ってことになるんだろうけれど、いかにも映画を堪能したって感じの「大作」感を味わえたものだった。
 オールスターキャスト映画を任されることも多く、「東映創立○○年記念映画」の類は、たいてい松田さんが監督していた。

 しかし、私にとって松田さんは「時代劇の人」というより、「ミステリの人」の印象が強い。理由は言わずもがな、『多羅尾伴内』シリーズと『金田一耕助』シリーズの二つを立ち上げたのが松田さんだったからである。もっとも、その映画の存在自体は情報として知ってはいても、実際に現物にお目にかかれたのは随分トシを食ってからであったが。
 「あるときは片目の運転手……」って多羅尾伴内の名ゼリフ、林家木久藏のものマネでしか知らない人も多いんだろうなあ……。いやいや、そのものマネ自体、木久藏さん、やらなくなって久しいからもう、なんのことやら(-_-;)。
 かろうじて、小林旭によるリメイクや、小池一夫・石森章太郎によるマンガ化で、多羅尾伴内の存在を知っている人もいるかもしれない。しかし、本家本元の『多羅尾伴内』とはやはりテイストがかなり違っている。

 映画史的な説明としては、『多羅尾伴内』シリーズは、戦後しばらく、GHQの検閲によって時代劇映画の製作が禁じられたために、戦前の時代劇映画の制作者たちが「“現代”を舞台に“時代劇”を作った」とされている。
 多羅尾伴内は丸メガネに口ヒゲ、いつも背中を丸めてヨチヨチ歩いている見た目はいかにも頼りなげなしがない老私立探偵である。事件が起こっても右往左往、まるで役に立っているようには見えない。しかし、実は彼の正体はかつて帝都を騒がした怪盗・藤村大造である。今は改心し、自分の汚れた魂を救ってくれた恩人の警官が殺された事件の謎を追って、自ら「正義と真実の使徒」と名乗る。
 事件を追う間、様々な変装をし、最後は自らの正体を明かして、犯人たちを逮捕し、警察に引き渡す。確かにそれらのケレンぶりを見れば、まるで『遠山の金さん」であって、「時代劇現代版」と言われるのもわかりはする。
 しかし、松田定次監督による『多羅尾伴内』の初期4作品、『七つの顔』『十三の眼』『二十一の指紋』『三十三の足跡』を見てみると、巷間言われるように、時代劇のプロットを現代劇に持ちこんだためにかなり荒唐無稽な内容になってしまった、との批評が必ずしも当たってはいないことに気がつく。
 例えばよく槍玉に挙げられる「主演の片岡千恵蔵がいくら変装したって、見りゃ一発で千恵蔵本人って分るじゃないか」というツッコミ。でもその七変化、観客から見れば毎回千恵蔵だってことは一目瞭然なんだけれども、ストーリーの上では、その変装した姿の伴内に出会うのはそのときが初対面の人間ばかりなんである。つまり映画の中の七変化は「多羅尾伴内の正体を隠すため」であって、「片岡千恵蔵の正体」を隠すためのものではない。
 演技の質も、確かにラストのキメの部分では千恵蔵御大、大仰な演技をしてるんだが、普段は実に落ちついた、リアルな演技を披露している。千恵蔵さんの演技力って過小評価されてるって思うんだけど、いっぺん『赤西蠣太』や『血槍富士』、『十三人の刺客』あたりをを見てみたらどうか。

 松田さんから話が離れてしまったが、言いたいことは時代劇の監督と言っても決してパターンに流されただけの人ではなくて、細かい描写をきちんと積み重ねていくタイプの人だったってことだ。
 だからこそ、アニメ『佐武と市捕物控』に「監修」として迎えられたのだと、今にして思う。


 唐沢俊一『カルト王』(幻冬社文庫・600円)。
 単行本は持ってるけど、また買いました(^^*)。
 単行本の出版は1997年だし、この日記に感想を書いたことはないから、まあいいでしょ。
 唐沢さんも文庫版あとがきで書かれている通り、これは唐沢さんが「ライター」から「作家」に移行して行く過程の原稿が集められている。要するに、雑誌の注文に応じて原稿を書いていた時期から、その注文は注文として、自分の志向を原稿に反映させられるようになった時期への転換の様子が見られる、ということである。
 もっと簡単に言っちゃえば、「ネタ中心」から、「ネタを自分の眼で分析」へ変化していったってところだろうか。いや、もちろん初期に分析がなかったわけではないが、それは編集者の「こう書いてほしいだろう」という意向を察したような文章なのだ。

 例えば、冒頭にある1992年以前の原稿であろう「僕の周りにやってきたアヤシゲな心霊家たち」にはこんな文章がある。
 「心霊家の人々は自分を見ない。多分、欠点だらけの自分に面と向かうのが恐ろしいのだと思う。そして、何があろうと決して自分を責めない。(中略)これは卑怯な生き方である、と思うのである。オカルトとは自分の心の中にある本当の自分自身と出会う道だ、とよくいわれる。しかし、人間である限り、どんな高僧、聖人であろうと、本当の自分の姿は多分正視に堪えないほどに汚れていて醜いにちがいない。神とは、その自分の姿に向き合う勇気を与えてくれる存在でなくてはいけないと思うのだが。(中略)僕が怒りを感じるのは、自分への正当化の手段としてオカルトを使い、それを悪用している連中である。」
 この分析・批評が、「ウソ」だと言いたいのではない。実際に唐沢さんが出会ってきた心霊家の人々がトンデモさんだらけだったのは事実だろうし、信仰のあるベき姿を当時の唐沢さんがこのように考えていた、というのもそのまま出ていると思う。義憤も当然あったろう。
 ただ、同時に、唐沢さんの心の中に、この自分の書いた文章に対する「自己批判」もあったにちがいないと思うのだ。
 なぜならこの文、あまりにストレート過ぎるのだ。
 芸がない、とか若書き、と言ったら失礼かもしれないが、しかしそれがおそらくは掲載誌の編集者の「意向」でもあったのだろう。「あまりふざけないでくださいね」という雰囲気を漂わせていたものであろうか。駆け出しのライターであれば、それに逆らって「おれの書きたいのはこんなんじゃないんだ!」とか言って卓袱台をひっくり返し(そんなものはなかったろうが)仕事をフイにするわけにはいかない。

 これが、数年経つとガラリと変わる。
 例のオウム真理教事件に絡めて日本のホモ文化を評した「やおい少女たちがオウム真理教に恋をする理由」では、それこそ「オカルトを悪用」しているあの団体について、唐沢さんは怒るどころか、「あやしげなものファンにとって、オウムはまことに魅力的に見えた団体だった」「オウム真理教という団体は、その悪趣味性ゆえに、すべての、日常に対し不満を持っている人間にとって、すさまじくオモシロイものであった」と書くのである。
 これは変節ではない。ましてや、唐沢さんがオウムのような犯罪組織を正当化するようになったわけでは決してない。自らの道徳観を優先するあまり、人間の「悪趣味」に惹かれる感覚を無視していけば、いつかそれは、人間の本性を否定し、自らの正義のみで他者を峻別し断罪するようなファシスト(藤子・F・不二雄の『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』ですな)になってしまいかねない。唐沢さんは、それを「作家」として「回避できるようになった」ということなのだ。

 あのとき(もう8年前だ)、日本中の人間がテレビに齧り付いた。
 そのときの我々は義憤だけであの事件を見ていたか?
 唐沢さんが言うように、みんな「オモシロ」がっていたのではないか?
 なにしろ私もあのときはついウッカリ江川紹子のファンになってしまい、著書を買い求め、更には自分の書いた戯曲の登場人物に江川さんの名前をモジって名前を付けてしまったくらいである(あほや)。
 まあ、私がファンになったのはオウム追究側の人だったから、なんとか人倫に反する形にはならなかったが、当時、「ジョーユーさんってちょっとステキ?」とか言ってたやおい少女たちは確かに存在していたのだ(私の前だから、少し遠慮気味な言い方ではあったが)。
 我々は「悪趣味」に惹かれる。
 「オウムと我々は、対極にいて、そして実はつながっている」という唐沢さんの言葉を、もっと多くのヒトが実感してくれないと、世の中「正義漢」ばかりじゃ息が詰まっちゃうのである。

 あと、江戸川乱歩について書いた「江戸川乱歩は本当に『猟奇的』な作家だったか?」は、乱歩を未だに読んだことがない人が、「乱歩ってどんな人?」と知りたくなった時に、まず読んでもらいたい名文である。
 作品そのものに当たるんならともかく、ヘタに映像化されたやつとか、文庫の巻末についてるような他の人の評論に先に当たっちゃうとねえ、乱歩の作品の表層だけしか見えないってことになりかねないんだよねえ。
 乱歩の二面性を作品から指摘することだけなら誰にでも出来るが、ちゃんと乱歩のハゲコンプレックスや、横溝正史の『犬神家の一族』を、乱歩が作品を読まずにタイトルだけで貶したエピソード(これは正史の『真説金田一耕助』で語られる実話であるが、これをネタにして乱歩を批評したのは、私の知る限り唐沢俊一さんただ一人である)に触れて分析を試みる、という視点は唐沢さんの独擅場である。
 ……創元推理文庫さん、っつーか戸川安宣さん、今度『乱歩』の20巻を出すことがあったら、唐沢さんに文庫解説頼んでよ。

 『カルト王』読んでたら、ほかにも書きたいこといっぱい出てくるんだけど、これもキリがないからこのへんで。
 ああ、時間の余裕があったら、マジで『唐沢俊一論』単行本一冊分くらいは軽く使って書きたいぞ。別に唐沢俊一信者ってことではなくて、現代思想史において唐沢さんが占める位置は正当に評価されなければならないと思うからなんだけどね。

2002年01月24日(木) オタクのハマリ道/アニメ『七人のナナ』第3話/『山本弘のハマリもの』(山本弘)ほか
2001年01月24日(水) せがた三四郎、落つ。/映画『疾風! 鞍馬天狗』


2003年01月23日(木) アニメの実写企画って……/『ロケットマン』4巻(加藤元浩)/『はじめてわかる国語』(清水義範)ほか

 宇多田ヒカルの旦那さんが映画監督デビュー……って、これが『新造人間キャシャーン』ってんだから、ちょっと意表を突かれたね。
 旦那さまの名前はダーリン……じゃなくて、紀里谷和明さんと仰るそうだが(すまんねえ、最近芸能ネタには弱いもんで)、小学生のころに『キャシャーン』を見て、「いつかこれを絶対に映画化するんだ!」と心に決めていたそうな。
 『キャシャーン』の本放映は昭和48年だから、現在34歳の紀里谷さんが見ていたとしたら、4、5歳のころで、「小学生のころに見てた」という記述に合わない。となれば再放送だろうが、そんなにしょっちゅうやってたのかな。
 でもなぜに『キャシャーン』?
 「ヤルッツェ、ブラッキン!」とか実写キャラに言わせるの?
 いや、それ以前に、客が着くのか、その企画。
 同じタツノコヒーローなら、まだ『ガッチャマン』の方が……とかなんとかどーでもいーことが頭の中を経巡ってるのだが、まあ、監督自身が「好き」と言ってるんだし、なぜかスポンサーも付いちゃったみたいだから、首を捻ったってしょうがないな。
 けど、これが「宇多田ヒカルの夫だから、何を映画化させても話題になるからいいや」ってな発想で決まっちゃった企画だったら、もしかして大変なことになってたかもしれないのだ。
 もし、『キャシャーン』以外のアニメを好きになって、映画化しようとしたら? 『破裏拳ポリマー』や『宇宙の騎士テッカマン』になってた可能性もあるかも知れない。『ドカチン』や『ハクション大魔王』実写版。誰が演じるんだ。大平透か。
 いや、タツノコ系にとらわれる必要はないな。
 『魔法使いサリー』実写版。演じるのはもちろん、宇多田ヒカルである。カブはえなりかずきを呼ぼう。よっちゃんは倉木麻衣で、三つ子は白木みのるをCGで三人に増やす。なーに、まだ子供で通るわ。サリーのパパは内藤剛志がいいな。トンガリヘアーが似合うと思うぞ。サリーのママは美輪明宏だ。おお、これは怖い!
 『ど根性ガエル』実写番。
 ヒロシは藤原竜也である。となれば京子ちゃんは前田亜季かというと、これはやっぱり宇多田ヒカルだ(^o^)。ゴリライモは松村邦弘。梅さんは役所広司。ヨシコ先生は吉岡美穂。ピョン吉は青空球児、もちろん声の出演ではなく、実写でシャツに張りついてもらうのである。
 『天才バカボン』実写版。
 バカボンパパは赤塚不二夫。ほかにいないだろう(^o^)。
 ママは宇多田ヒカル(こればっかりや)。バカボンは内山君(としか知らないんだが、下の名前なんて言うんだ?)。ハジメちゃんはクリスティーナ・リッチ(^o^)。
 『ガンバの冒険』実写版。
 ……全部ネズミじゃん。

 どうですか、こんなもんまで、「作るぞ」と紀里谷さんが言ったら作られちゃうんである(いや、ウソだけど)。でもいいのか、そんな企画の立てかたで。
 それにしても、サンスポのタイトル、「ヒッキー夫はアニメ実写版で映画監督デビュー」だよ。いくらなんでも「ヒッキー夫」はないんじゃないのか(^_^;)。


 咳止まらず。
 今日でもう三日連続で仕事を休む。……医者に行った意味ないじゃん。
 注射打っても薬を飲んでも全然状況が変化しないというのはいくらなんでもおかしすぎる。
 もう一度医者に行ったら、「エンショウを起こしてるのかも知れませんね」だと。
 ……何、円生。
 つまらんボケはともかく、肺炎ってことにでもなってたら、マジで入院じゃないの。とりあえず血液検査をしてもらって、とりあえず炎症を押さえる薬にかえてもらうが、果たしてこれが効くものやら。


 マンガ、魔夜峰央『パタリロ!』75巻(白泉社/花とゆめコミツクス・410円)。
 『パタリロ西遊記』と合わせれば、これで通産80巻。
 少女マンガとしてはもう最長不倒距離を達成することは間違いないだろうな。それにしても私もよくぞここまで付き合ってきたものである。なんたって10代のころから読み続けてるんだものなあ。たしか初掲載は昭和53年だっけ。
 ここまで時間が経っちゃうと、パタリロ自身は10歳のままだけれど、マンガの中の事物にはやはり時代の変化が反映してくるのである。『怪奇倩々女』に「オープンリールのテープ」が出てくるが、もう若い人は知らないのである。私が中学生のころくらいまでは、まだまだカセットテープよりもオープンリールの方が主流だったんだが。……多分、カセットテープも、もうじきなくなっちゃうんだろうなあ。
 初期は随分ハードでストーリーの骨子もしっかりしてたもんだったが、ここまで来ると落ちのつけかたもなんでもありである。
 『パタリロ娘』、CIAのヒューイットの久々の登場編で、女の子との付き合い方を知らないパタリロのために、タマネギたちは小間使いを募集することにする。その選定にヒューイットが呼ばれるのだが、王宮に入りこんでいたメイドは実は妖怪万年娘であった。ヒューイットはロリータ道の尊師の導きに従って、万年娘の妖術を破って倒す。
 ……って、これ、どういうストーリーなのよ。しかもロリータ道の尊師って……(^_^;)。


 マンガ、加藤元浩『ロケットマン』4巻(講談社/KCGM・410円)。
 前巻より、『トゥルー・アイズ』の情報員となった水無葉、この巻から「第2部」ってことになるわけだが、作品内容も陰謀アクションものから本格ミステリに移行したって印象。
 あああ、エピソード11、12の密室トリック、昔、私も考えてたやつだ。先に使われちゃったな……って、そのトリック自体はたいしたものじゃ無いんだけど。ちょっとひねった設定にしないとモノにはならんなあ、と思ってたんだけど、こういうふうに使ったのね。なるほどなるほど。
 うーん、困ったなあ。ミステリ仕立てになった途端、筋の説明もしにくくなっちゃった。けれど、『Q.E.D.』とはやはりちょっと違ったハードな設定が楽しめるシリーズではある。逆にハードな設定なせいで、葉みたいな世間知らずが情報員としてやって行けるのかって疑念が湧きはするけれど。


 清水義範(え・西原理恵子)『はじめてわかる国語』(講談社・1785円)。
 理科、社会科、算数、に続いて、ついに国語だ。これで完結になるのかな。サイバラさんの挿絵のラストも「いなくてもいい二人」って、清水センセとサイバラさんが無人島にいるし(^o^)。

 学生時代、国語が嫌いだった人で、清水さんの『国語入試問題必勝法』を読んで溜飲が下がったって人、多いんじゃないか。
 何たって、あの四択とか五択とか、ヒドイのになると七択、八択なんていう選択肢問題、見てるうちに「どれだっていいじゃん、長い文章のごく一部を読み間違えてたって、たいした影響があるか」って気になったこと、ありませんか。清水さんも書かれてたが、あれは「出題者の意図を読み取れるかどうか」で点が取れちゃうんであって、文章読解力とは何の関係もないのだ。
 選択問題の実例がいかに適当なものかってのを紹介してくれて、「ああ、オレが間違えたのはバカだったからじゃないんだなあ」と安心させてくれたのである。
 で、今回も清水さんは「国語入試問題必“敗”法」と題して、いくつかの「なにこれ?」って感じの問題を紹介されている。先に言っとくが、正解しても威張れる問題ではないし、間違ったからって恥じる問題じゃないよ。

 問 次の� 銑Δ諒犬涼罎如∋�実を述べている文には○、意見や感想を述べている文には×をつけなさい。

 � ,錣燭靴燭舛僚擦狠狼紊蓮△澆匹蠅凌∧�で覆われ、美しい花が咲き乱れているすばらしい星です。(�◆銑Δ泙任藁�)

 さて、清水さんはこれに「×」をつけた。私も同意見だ。
 清水さんは「サウジアラビアの砂漠はどうなる」とユーモアエッセイなのでわざとツッコミを入れているが、まあ、そういうところで揚げ足を取らなくても、「美しい」「すばらしい」という形容詞は感覚を表したものである。どう考えても「×」だと思うんだけど、これが正解は「○」なんだよね。
 なんでそうなるかというのを清水さんは推理するのだが、つまり「すばらしい」と論考するための前提となる「事実」が書かれているから、ということなんだそうな。
 えー、みなさま、納得されましたでしょうか。いや、しようがしまいが正解は「○」なんで、文句言ったって仕方がないんですけどね。でも、どうですかね、これを「×」にしたからって、論理的にモノを考えていくのに何か支障を来たすってんでしょうかね。しかもこれ、小学生用の問題なんである。こんな問題をコドモのころに解かされてたら、人間が歪まないか。
 清水さんはコトバの専門家である作家である。しかも教育大卒で国語教師の免状を持っている、というオマケまでついている(^o^)。でもこれが解けない。よく言われてることだが、作家が自分の小説が問題に取り上げられて、それを自分が解いてみようとしてみたら全然解けなかった、というのは笑い話でなく事実なのである。文学の解釈なんて、百人いれば百通りあるだろう。解釈をぶつけ合って考えた結果を採点するってんならともかく、自分の解釈をいちいち他人の解釈に従わせるののどこが学問だと言うのか。
 って、学問なんか学校じゃ教えてないんだよな、この国じゃ。

 ほかの章の紹介もしたいとこだが、キリがないので、サワリだけ。
 今回、これまでのシリーズと違って、特別ゲストが呼ばれている。あの『文章読本さん江』の著者、斎藤美奈子さんである。
 清水さんとの対談の中で、斎藤さんが「国語教育はなかば道徳教育ですから」と指摘してる点、国語関係者はちったあ肝に銘じた方がよかないか。「個性教育がどうのこうの」とか言っときながら、やってることは「優等生的作文の強要」じゃないのか。
 「チャップリンなんて私生活じゃロリコンオヤジじゃん」とかガクセイが書いちゃダメなんである。「ですます体」と「だである体」が一文の中に混在してちゃダメなんですのよ。「デタラメの効用」ってのをテンから認めないのだな。
 もちろん、「基礎が出来てこそ、デタラメも書ける。学生のうちは基本的な、正しい文章が書けるように勉強させるべきだ」って意見もあろう。
 ……けど、その「正しい文章」ってのを高校生、大学生になってもずーっとずーっと、書き続けさせられてるんだよ? 自由な作文ってのはいつになったら書けるようになるのよ。
 同じようなことを小学生のころから何十回も何百回も繰り返し書かされてたら、作文自体がイヤになるだろうに。

 最終章の「日本語は滅んでしまうのか」で、清水さんは、滅んだりはしないが、「美しい日本語から背骨を抜くようなことはしてはいけないと思う」と書く。「すみません」を「すいませ〜」とか発音するな、と言うのだ。
 ムリだよなあ、とは思うが、気持ちは分る。私もいい加減、レストランの「よろしかったですか?」攻撃には腹が据えかねているのだ。しげがちゃんと「よろしいでしょうか?」と言ってるのを聞いてるだけで、こいつは日本最高のウェイトレスだ、と思うくらいなのである。
 言葉は変わる。それは仕方がない。けれど、かつての言葉がどんなものであったか、それを知ろうとしない態度は、人をただの傲慢な人間に貶めることになる。

 清水さんが「歌舞伎と落語は民族の教養」と書かれているのを読んで、いつぞや岡田斗司夫さんが、「歌舞伎ファンはエリート主義に陥っている」という趣旨の意見を主張されていたのを思い出した。確かに、「若い人」の中には「こんなゲージュツを理解できる俺ってアタマいい?」とか勘違いしてるアホもいるかもしれない。……アナタね、昔の人なら、歌舞伎も落語も「庶民の誰もが楽しむ娯楽」だったんだけど、知らない?
 若い人にはホントにわからないのかもしれないが、ほんの30年ほど前までは、オトナたちの日常会話の端々に、歌舞伎の、落語のセリフが頻繁に引用されていたのだ。一時期、ガンダムオタクが何かって言うと「醜いものだな」とか「坊やだからさ」とか口にしてたみたいに(エヴァ世代だったら「逃げちゃダメだ」とか「あんたバカぁ?」かな)、「知らざあ言って聞かせやしょう」だの「こいつァ一分じゃ帰られめェ」だの、口にしてたんである。
 私だって、たまにこの手のセリフを使うことがあるが、こんなもん、いちいち「勉強」して覚えたわけじゃないよ。いつの間にか覚えちゃってたくらいに、世間に歌舞伎コトバ、落語コトバは氾濫していたのだ。
 ……昔、満員電車やバスの中を通りぬけようとして、「ハイ御免、ハイ御免」って言ってたオヤジもよくいたもんだけど、最近は全然見かけなくなったなあ。
ああいう人たちはどこへ行っちゃったのかなあ。
 歌舞伎や落語を基礎教養だと思ってる世代は、もしかしたら昭和40年生まれあたりを境に、途絶えてしまっているのかもしれない。

 これはもう、若い人たちへの「お願い」に近くなってしまうが、もっと「ホントウの」勉強をしてほしいんである。
 昔の本を読む。昔の映画を見る。昔の芝居を見る。
 今やたいして苦労しなくても、レンタルビデオやCSで、そういうものをいつでも見られる時代になっているのだ。
 学校なんかサボれ。週に一んちくらい休んだって落第はしない。今週は月曜、来週は火曜、と曜日をズラせば特定の教科ばかり休むって状況も回避できる。その方がずっと「自分の」勉強ができるぞ。
 成績が落ちたっていいじゃないか、偏差値高い大学に入ったって、今どきゃ就職できるとは限らないよ。

 ……なんかもーね、私らトシヨリのコトバがホントに通じなくなって来てるなって感じるのよ。これでも私、この日記の文章もできるだけ若い人に違和感ないようにね、固っ苦しいコトバ避けようって思いながら書いてんだけど、まだまだピンと来てないかなあって気がして……。(T-T) グスッ。

2002年01月23日(水) 風邪まで引いちゃったよ、どうすりゃいいんだ/『西洋骨董洋菓子店』1〜3巻(よしながふみ)ほか
2001年01月23日(火) ハードな日/『時の果てのフェブラリー』(山本弘)


2003年01月22日(水) 役者が名前を出すということ/DVD『You Are The Top 〜今宵の君〜』/『一番湯のカナタ』3巻(完結/椎名高志)ほか

 朝のニュース番組に、中村彰男さんという文学座の舞台俳優の方が出演していらっしゃる。この方、実は『千と千尋の神隠し』で、カオナシの声を担当されていた方だとか。
 映画公開当時はその名前が非公開だったのだけれど、昨年から一般にも知られるようになっていったそうで、そのときの苦労を「『あ……あ……』だけで感情を演じ分けなければならなくて、宮崎監督に何度も注意された」と語る。
 そういう演技指導があったってことは、たとえ「あ……」だけでもちゃんと役者として扱ってるってことだろ? だったら、どうして最初から名前を出さなかったのかなあ。
 まあ、昔も『月光仮面』とか『少年探偵団』の怪人二十面相とか、クレジットの役者名に「?」が出るものが多かったけれど、ああいうのは謎ってことにしてても、ちゃんと視聴者にはわかってたんである。『千と千尋』であえてカオナシをノンクレジットにしなきゃならない理由なんてないんじゃないか。
 いずれこういう形で明かすつもりだった、というのなら最初から明かしといてもなんの問題もなかったと思うぞ。結局、これって「あのカオナシの声の人って誰なのかしら」ってウワサを使った「宣伝」臭いんだよな。なんとなれば、一時期、あのカオナシの声は「宮崎監督自身である」というウワサがマコトシヤカにネットに流れていたんである(そういうウワサが流れたんで発表したのかもしれないが)。
 役者が字幕にクレジットされるのは当然の権利だ、と大上段にモノを言わずとも、その演技をした人がどういう人なのかってことを知りたくなるのは、客の方に自然に起こる心理だ。役者が好きで、その映画を見に行くってのは、ほんのチョイ役の人に対しても起こることだ。
 というわけで、私はその点では『どれみ』もあまり好きじゃないのでした。結局、女王さまの声優さん、誰だったんだよ。


 俳優、田中明夫氏が19日、肝不全のため死去。享年76。
 もう30年近く昔、私が初めて上京したときに帝国劇場で見た舞台が、蜷川幸雄演出・平幹二朗の『ハムレット』であったが、そのときポローニアス(オフィーリアの父ね)を演じていらしたのが田中さんだった。
 悲劇とは言っても、シェークスピアの作品は合間にギャグが差し挟まれて緩急がつけられており、『ハムレット』で言えば、ポローニアスが飛ばすオヤジギャグ(^o^)が前半の見所でもあったのだ。昔の芝居って、今は古くなって見られないんじゃないか、とお考えの方もいらっしゃるかもしれないが、シェークスピアはそう簡単に古びない。実際、田中さんの芝居は会場に大きな笑いを生んでいた。悪役専門、と思われているが、舞台では実に幅広い役を演じられていたのである。
 時代劇の悪役が多かった田中さんのこととて、訃報もまたそれに触れたものが多い。けれど、アニメオタクとしては、まず真っ先に『空飛ぶゆうれい船』の黒汐会長の声を挙げるべきだろう。ボアーの手先として暗躍しながら、結局粛清される、というのは中ボスの運命なのだが、つまりはこいつ、『サイボーグ009』のスカールの原型なのだな('o'=)(原作は『009』よりも以前に描かれている)。そう言えば、時代劇でも本当の巨悪の悪大名より、その手先の悪徳商人を演じることの方が多かったね。
 忘れちゃいけないのはNHK少年ドラマシリーズの『幕末未来人』の大津屋役。歴史を改変、本来あるべき明治の時代をなくして、光文の時代にしちゃったんだから、田中さんが演じた悪役の中でも最高の巨悪であろう。あと、『ウルトラマン前夜祭』ではモンスター博士を演じてたらしいが、確実に見てるんだが古すぎて記憶に残ってない。ビデオ、残ってないんだろうなあ。
 でも、田中さんに善玉役が全くなかったわけでもない。実写版『鉄腕アトム』の初代お茶の水博士は田中さん(2代目は森野五郎)。残念ながら付けバナはされていなかったが。
 田中さん一番の善玉役は、何と言っても映画版エルキュール・ポアロの吹替えであろう。『オリエント急行殺人事件』でポアロを演じたのはアルバート・フィニーであったが、『ナイル殺人事件』のときにはフィニーが降りたので、ピーター・ユスティノフに代変わりしていた。けれどテレビの吹替えのときにはそのまま田中さんが引き継いでくれたので、少しはイメージのギャップが埋められた気がしたものである。田中さんはちょっと舌が絡むところがあるので、それがかえってベルギー人・ポアロの雰囲気を出していて(まあ日本語なんだけど。「モナ〜ミ!」って感じね)、実はデヴィッド・スーシェの熊倉一雄より好きだった。田中さんはこのあと、『地中海殺人事件』『死海殺人事件』と、都合四本の作品でポアロを演じている。
 ユスティノフは更に『エッジウェア卿殺人事件』『死者のあやまち』『三幕の殺人』とテレビムービーでポアロを演じているが、私は字幕版しか見ていないので、吹替版があるかどうか、声をアテているのが田中さんかどうかは確認していない。もしあるのなら、それも見てみたいのだが。


 えーっと、私、あまり感心なかったんで見てなかったんですけど、NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』の5日分第1話に、黒澤明監督の『七人の侍』そっくりのシーンがあったそうですね。具体的には「ほかの侍と協力して野武士から屋敷の一家を守るシーン」だそうで。
 本日、板谷駿一放送総局長が、「アイデアを借りた。事前に関係者にあいさつすればよかった」と釈明。
 ……ってつまりパクリを認めたってことじゃん(^_^;)。
 脚本、鎌田敏夫だろ? ホントにそんなシーンあったのか?
 と思って、NHK出版の『NHK大河ドラマ・ストーリー 武蔵 MUSASHI』を読んでみる(ドラマ見るかどうかを確認するためにとりあえず買っといたんである)。
 ああ、なるほど、「あらすじ」のところに屋敷の主人に武蔵たちが雇われて、盗賊を迎え撃つってエピソードがあるわ。もちろん、こんな話は原作の吉川英治の『宮本武蔵』にはない。「人を斬ることだけに生きてきた男」とか、「雨の中の対決」とか、「切れなくなった刀を捨てては死体から奪って戦う」とか、『七人の侍』を彷彿とさせる描写は確かにある。
 ……これを「オマージュ」と言って済ませるってのは、いい度胸してるな。野盗から村を守るために百姓が浪人を雇った、というのは歴史上の事実である。だからその設定はパクリとは言えない。けれど、キャラクターや状況設定まで同じってのは言い訳はきかないよなあ。つい似ちゃったってことじゃないんだもん。
 民放のテレビ番組って「バレなきゃいいじゃん」式の盗作が横行してるから、鎌田さん、長らくその習慣に馴らされてて、別に批判なんて出ないんじゃないかと高を括ってたんじゃないか。
 『武蔵』もいろんなバージョンの名作が過去にありすぎるくらいあるからねー、差別化を図ろうとしての失敗って感じだね。

 そう言えば、『七人の侍』もハリウッドでリメイクの予定だそうな。『荒野の七人』みたいに西部劇にするのでなくて、現代を舞台にするってことだけど、今のアメリカで「侍」にあたるのっているんか。退職刑事たちがノースダコタあたりの田舎街をギャングから守るとか、そういう話にするんか。
 どうやったって、『疾風の用心棒』の二の舞になっちゃうぞ。やめときゃいい企画があっちこっちで進んでるよなあ。


 今日こそは仕事に出かけるつもりが、咳が昨日以上に悪化。というわけで不本意ながら(ホントだよ)今日も仕事を休む。
 クスリも飲んでおとなしくしてるのに、どうして治らないのだ。
 ウチがウィルスの巣にでもなってるのか、それともなんかに取り憑かれてるのか。
 

 DVD『You Are The Top 〜今宵の君〜』。
 三谷幸喜作・演出の舞台のDVD化。
 コピーに「深夜のリハーサル室 ピアノの前に集まったのは作詞家と作曲家と
一人の死んだ女……」とあるから、てっきり幽霊モノかと思ったら、戸田恵子は「回想の中の人物」として出てくるのだね。
 キャストは作詞家・杉田吾郎に市村正親。作曲家・前野仁は浅野和之。女優・笹目にしきには戸田恵子。
 本公演では加賀丈史が作曲家の役にキャスティングされていたが、急性虫垂炎でいきなり代役になっちゃったそうである。役造りにも浅野さん、いきなりで相当苦労したらしく、収録DVDではメガネにヒゲを生やしているが、これも公演中に少しずつ変わっていったのだそうな。
 それにしてもいつもいつも思うことだが、キャラクターのネーミングはもうちょっと考えたらどうか。いくらなんでもササニシキから取って「笹目にしき」はないだろう。観客もちょっとは笑ってたが、少し引いてた気がするぞ。

 深夜のリハーサル室で、ピアノを間に争い合う二人の男。
 一人は作詞家の吾郎、もう一人は作曲家の仁。
 二人は親友だったが、性格は全く逆。おっちょこちょいだけれど社交家の吾郎、芸術化気取りで融通の効かない仁。けれどそんな二人が仲違いせず、ここまでやってこれたのは、間で仲を取り持っていた女性歌手のにしきだった。
 三人は次々とヒット曲を飛ばす。彼らの姿は、まさしくゴールデントリオの名にふさわしかった。
 二人は、ともににしきに恋をする。けれどにしきが結婚した相手は二人とは別の男。失意の底に落とされる二人。トリオはやがて自然解消に……。
 にしきが離婚したとき、二人の男は再び夢を見た。
 けれどその矢先、にしきが交通事故で死ぬ。
 そして、7年が過ぎた……。
 7周忌追悼コンサートのために、吾郎と仁は再び顔を合わせる。今夜中に、彼女を偲ぶ新曲を作らなければならないのだ。けれど、二人の打ち合わせは、いつの間にか、彼女がどちらを好きだったのか、という話にスライドして行く……。

 時間経過に従ってあらすじを書いてみたが、実際には回想シーンが随所に挿入されるために、過去はあるときは10年前、あるときは20年前と、行ったり来たりする。そのたびににしき役の戸田恵子が衣装を替えての七変化を見せるのだが、これがなんと魅力的なことか。
 あるときは少女のように(でも12歳のフリにはムリがあるぞ)、あるときは少年のように(時々鬼太郎のイメージが混じりますな)、あるときは魔性の女のごとく、あるときは聖母のごとく、二人の視点を変えるごとに同じ日同じ時の出来事でありながら全く別の顔を見せるにしき。
 映画でも、一人の女の過去をいろんな男が語るってネタは結構あるけど、このネタは舞台の方が絶対に生きるんである。

 そして、ついに最後には「回想でない」にしきが現われる。
 彼女の正体はいったい……?
 という結末のところがちょっとヨワイのだけれど、やっぱり三谷さんは舞台をやってるのが一番いいなあ、と思わせる佳作であった。
 音楽は井上陽水。最後は三人のダンスと歌をたっぷり見せる(忘れてる人もいるかもしれないが、戸田恵子さん、もともと歌手なんだよ)。
 三谷さんの舞台を見たことないって人にまず最初に勧めるんなら、この一本がいいかな。


 外食ができないので、またピザを頼む。
 前回持って来てもらったチラシに、「丼物もやってます」だと。既にピザ屋の範疇を越えてるな、ピザ・カリフォルニア。
 でもって頼んでみたカルビ丼、配達ものにしては美味い。でもやっぱりちょびっと割高。

 帰宅したしげと、DVD『名探偵ポワロ』を見る。
 今日は第6巻の『ベールの女』。
 ……やっぱり、クリスティーは長編の方がいいわ。トリックそのものもつまらないが、ラストの「追っかけ」はクライマックスのつもりかどうか知らないが、出来の悪いバラエティなみ。このシリーズが途中から長編スペシャルに移行していったのは正解だろう。


 マンガ、あだち充『KATSU!』6巻(小学館/少年サンデーコミックス・410円)。
 さわやかラブコメに見えながら実は昔ながらの「因縁もの」ってのがあだちマンガの特徴なんだけれど、活樹の父ちゃん、昔、試合で殺した相手の婚約者と結婚してたんですか。……って、ちょっとありがちすぎるんじゃないかなあ。
 いや、その間の事情がくだくだと描かれることはあまりないとは思うけれど、なんかこういう「過去のあるキャラ」を出して来ないとドラマが持たないっていうのは、ちょっと先行き不安なんだけど。
 だって、活樹と香月と紀本の関係だけでドラマは充分進めていけるんだからね。あだちさん、「今度こそアテねば」って、ちょっと「不安」になってないかな。


 マンガ、椎名高志『一番湯のカナタ』3巻(完結/小学館/少年サンデーコミックス・410円)。
 椎名さんのホームベージにも書いてあったけど、テコ入れも虚しく、3巻で打ち切り。でも作者自身が「これで終わったと思うなよ」宣言されてるから、いつかどこかで再開されることを期待しよう。
 ……でも、いったん打ち切られたマンガがそのあと再開された例って、あまりないんだけどね。ムリヤリ再開してもまた打ち切りの目に遭うし。『21えもん』が切られて、設定を変えて『モジャ公』を始めたけどまた打ち切られたっていう藤子・F・不二雄さんの例を思い出すなあ。

 ドラマ自体は悪くなかったと思うんである。
 けれど、やはり絵的にも人物描写としてもキャラクターを掘り下げ損なったかなあ、という印象が強い。
 ハッキリ言っちゃえば、なんとかキャラ立ちしてたの、セイリュートくらいのもんじゃなかったか。ワネットもカロー側に寝返るくらいの極悪キャラにしてくれたら、ねずみ男的役割を果たせたと思うんだけど。
 あと一回くらいはサンデーもチャンスをくれると思うんで、椎名さんには起死回生を願いたい。


 マンガ、橋口たかし『焼きたて!! ジャぱん』5巻(小学館/少年サンデーコミックス・410円)。
 えー、もう私、このマンガに何をどう突っ込んでいいんだかわかりません(^_^;)。
 カメパン食って美味かったら、回転して宇宙怪獣ガメラになるそうです。なんのことだかわかりませんか。私も自分でなに書いたらいいかわかんないので、もう責めないでください(T∇T)。代わりに踊ります。
 L(・_L)ズン(ノ_.)ノドコL(・_L)ズン(ノ_.)ノドコ

 料理マンガの中に、『ミスター味っ子』路線ができてるってことなのかな、これ。

2002年01月22日(火) 探偵小説の終焉/渡辺啓助『亡霊の情熱』/『サトラレ』1巻(佐藤マコト)
2001年01月22日(月) 月曜の朝は仕事に行きたくないのよ/『キノの旅3』(時雨沢恵一)


2003年01月21日(火) 「アニメ」ってだけで通じるアメリカ人、どれだけいるんだ/『モーツァルトは子守唄を歌わない』4巻(完結/森雅裕・有栖川るい)ほか

 米ディズニーグループが、17日に、アメリカほか日本国外でのテレビ放送向けに、日本のアニメや特撮番組などのコンテンツ(情報内容)を取得する事業を本格的に開始する、と発表。ディズニーがアメリカで配給した宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』がヒットして、日本の作品に海外からの関心が高まっているため、というのがその理由。
 全く同時に、アメリカ&カナダの放送映画批評家協会が、『千と千尋の神隠し』を最優秀アニメ賞に選出。これでいったい、いくつめだ。
 なんだか「世界の注目を集める日本アニメ」って印象だけれども、厳密に言えばこの「世界」っての、ほとんど「アメリカ」だけなんだよねえ。
 何度となくこの日記でも書いてるけど、宮崎駿の世界でのキャリアはこの数年でいきなり上がったわけじゃない。日本の評論家は『ナウシカ』以後のことしか知らないでハンチク言ってるんだけれど、東映動画時代、スタッフとして参加していたころから、その作品は海外、特に「ロシア」や「ヨーロッパ」で賞を取りまくってたのだ。海外のアニメーターたちが仰天してた作画パートが宮崎さんの担当だったってことも多い。「MIYAZAKI,WHO?」ってのはもう30年も前に言われてたことで、それをイマドキ言ってる連中は、アニメをテンからバカにしてたヤツラばかりで、今になって自分たちの「見識の低さ」を糊塗しようと慌てふためいてる。
 『未来少年コナン』『ルパン三世カリオストロの城』『名探偵ホームズ』などはディズニーのスタッフだって確実に見ている。だったらとうの昔にディズニーは宮崎作品のアメリカ配給に向けて尽力しててもよかったはずだが、20年近くも無視をしつづけてたんである。ディズニーが「質的には」いかにアニメ界では後進であるか分ろうというものだ。
 その「見る目のない」ディズニーに、日本の「宮崎以外の」アニメがどう映るんだろう、と心配になるのだが、相変わらず「中身」を見てるようには思えないんだね。
 ウォルト・ディズニー・テレビジョン・インターナショナル・ジャパンのポール・キャンドランド上席代表によると、アメリカでは「デジモン、遊戯王、ドラゴンボールなどが人気がある」んだとか。……宮崎アニメとの共通項はどこにあるのよ。

 集英社が『マンガ生活応援マガジン mangaオモ!』ってのを出してたけど(マンガと言ってもほとんど集英社のマンガだけを応援してる感じだが)、そこでも「ジャパニーズ・マンガはハリウッドを越えた?」という特集で、『ドラゴンボール』や『アキラ』のハリウッド映画家を例に挙げて(『鉄腕アトム』の映画化は結局中止になったようだ)、「『もはや日本人にしか分らない』マンガは存在しない」とかぶちあげている。
 もちろんそんなのは大ウソで、だったら『サザエさん』だってアメリカでヒットするはずである。日本人だって、『スパイダーマン』や『X‐MEN』の映画には駆けつけるが、原作のコミックまで見てる人は少ないし、第一アレがSFX映画だから見に行ってるんで、アニメ化されたものだったら客が集まってたかどうか、はなはだ疑問だ。『アイアンジャイアント』も『タイタンAE』も『パワーパフガールズムービー』も、日本じゃコケてるんだよ(向こうでもそうでもなかったみたいだが)。
 映画だろうがアニメだろうが、なにかを「見る」のにはそれ相応の「素養」が必要になる。これ言い出すとすぐ「アタマのいい悪いの問題か」と怒る人が出てくるんだけど、そんなこと言い出すことの方がよっぽどアタマが悪い。文化の違うものを理解しようと思ったら、相手の文化を予め少しでも理解しておくことが
必要になるってだけの話である。もちろん完全に相手の文化が理解できるなんてこともありえないから、その分は想像力で補って楽しむことになる。
 言い換えれば、異文化を楽しむためには勉強して素養を「想像力」だということだ。アメリカ人の中に日本アニメを楽しむ人が増えたということは、本来「ナンデスカ、アレハ? ワケワカリマセーン」って怒る人よりも「ナンダカワカリマセンガ、オモシロイデース」って人が増えたってだけのことじゃん。もちろんその「想像力」を喚起させるだけの力をその作品自体が持ってることが絶対に必要で、最近のディズニーのアニメにはもうその力がなくなっていた、その焦りが日本アニメに目を向けさせたってことだと思う。
 ディズニーランドに「トトロの森」とかが造られるようになるのも、そう遠い未来じゃないかもね。
 

 ついにまたダウンして、仕事を休む。
 咳が止まんなくなっちゃったし、吐くし、とても仕事ができる状態じゃない。
 クスリも切れてたので、しげに医者まで連れてってもらったら、「まだ治ってないんですか!」と言われた。
 とりあえずまた注射をしてもらう。念のため、レントゲンを撮ってもらうが、肺には以上はない。相変わらず肝臓が肥大してるだけである(だけってそれだけでも命に関わってくるんだが)。
 ともかく熱が出ないってのがネックなんだよなあ。
 もしかして私のカラダん中の免疫とか抗体とか、仕事サボってるんじゃないのか。主人に似てるのか?(^_^;)

 医者帰りに知り合いの本屋に寄る。
 ご主人がいらっしゃらないで、奥さんがカウンターにいらっしゃる。
 なんで仕事もしないで、と思われないように、と自分から「風邪で、ゲホゲホ」なんて言い訳しているのが情けない。でも言っとかないと、あの本屋さん、オヤジにすぐ話しちゃうし(ー∇ー;)。
 銀行に寄っておカネを卸す。
 今月からまた給料が下がってるんだよなあ。不況なんだから仕方ないけど、今まで払ってた給料も過去に遡って1年分ボーナスからさっぴくってのは、ちょっとアコギすぎねえか。去年まで昇給を三年もストップさせといたときには、「これ以上の減給はしない」とか言ってたの、ウソじゃん。リストラされないだけ感謝しろってか。
 謝罪のヒトコトもなくって、これで労働意欲を出せって?
 ウチの商売がどんどん傾いてくのも自業自得ってもんだ。

 夜になっても咳止まらず。
 料理を作る元気も外食する体力もないので、晩飯はピザを頼む。ピザ・カリフォルニアに注文するのは初めてだが、チラシを見るとここのメニューにはスパゲティも付いているので、頼んでみる。
 チキンとベーコンのトマトソースパスタ、値段は張るが美味い。咳き込んでたんで、鼻にちょっとミートソースが入っちゃったけど。


 マンガ、森雅裕原作・有栖川るい作画『モーツァルトは子守唄を歌わない』4巻(完結/エニックス/ステンシルコミックス・580円)。
 ううむ、結局モーツァルトを殺したのはあの人でしたね。困ったなあ、これ以上のコメントは犯人をどうしてもバラしちゃうことになるので、面白かったかつまんなかったかすら言えない。
 代わりに文句をつけるなら、フリースの子守り歌の暗号、ドイツ語を知らないと解けないってのは、ちょっと卑怯じゃないのよ(^_^;)。いや、そういうのを作っちゃダメってことはないけどさあ、やっぱ作者との知恵比べをしたいってのはミステリファンとしての楽しみなんで、最初から勝負が付いてるってのはちょっと腹立つぞ。ただ、卑怯とは言ったが、ミステリとしてアンフェアではないのね、これ。だってドイツ語喋れないのはあくまで読者の問題で、作者が忖度しなきゃならないことじゃないから。
 というわけで、この本を読もうと思ってる方は、最終巻を読む前にまずドイツ語が話せるように勉強しておきましょう。……誰がするんだ(^_^;)。

 そういうトリックの経緯よりも、この作品が「物語」として面白いのは、その真犯人がわかったあとでの関係者の身の振り方なのだね。
 ベートーヴェンは、チェルニーは、シレーネは、コンスタンツェは、サリエリは、シューベルトは、そして真犯人がいかに「その後」を過ごしたか。
 もちろん、史実の「モーツァルトの死の謎」は未だに解かれてはいない。だからこそ、それはなぜかってことが最後の謎として解明されていくのだけれど、人間の妄執の底知れなさを感じさせるいいラストである。しかしそれをも否定するチェルニーの小悪魔ぶり、これが実にいい。私が見てきた「ワトスン役」の中でも、このチェルニーは最高の一人だろう。

 チェルニー「報いなんてものが本当にあるんですかね」
 ベートーヴェン「さあな。でも少なくともおまえは……」
 チェルニー「なんです?」
 ベートーヴェン「少なくともおまえは信じないだろうな」
 チェルニー「なるほどね」

 それから、少年時代はツブレ大福みたいに描かれてたシューベルトがラストでいきなリ美青年に成長するのは、まるでパタリロである(^o^)。


 マンガ、加藤元浩『Q.E.D.証明終了』14巻(講談社/月刊少年マガジンコミックス・410円)。
 ミステリマンガ界の良心、加藤さんでもまあ毎回上質の作品は作れない。
 『夏休み事件』編、アリバイトリックの成立のさせ方には工夫があるけれど、ちょっとムリがありすぎである。実際、目撃証言一つで崩れちゃうしね。
 それに比べれば、『イレギュラーバウンド』編のほうは、うまく「仕掛け」てある。このトリック、前例は『刑事コロンボ』の一編にあるのは知ってたけど、途中まで引っかかってた。ミスディレクションというのはこういうふうにやるもんである。
 うう、ホントに面白いミステリは筋も簡単に紹介できない……(T∇T)。

2002年01月21日(月) 妻の寝相と丈夫な膀胱/『夜と星の向こう』(今市子)ほか
2001年01月21日(日) 日曜の夜は出たくないのに/『トガリ』(夏目義徳)1巻ほか


2003年01月20日(月) 貴乃花引退/『探偵学園Q』8巻(天樹征丸・さとうふみや)/『魔法遣いに大切なこと』1巻(山田典枝・よしづきくみち)ほか

 貴乃花がついに現役引退。
 30歳での引退、と言ってもこの2年ほどはほとんど死に体であったから、実質、20代での引退と変わりない。いくら相撲取りの寿命が短いとは言っても、これはいくらなんでも早過ぎる。怪我に泣かされたとか、一般的に相撲取りの大型化が云々、とか言われてるけれど、怪我に苦しめられてたのは別に貴乃花に限らないし、鍛え方次第でアンコ型の力士もある程度はソップ型にできる。やはり引退の遠因は稽古不足ってことになるんじゃないのか。
 更に言えば、早い段階でライバル曙はリタイアしてたんである。上位陣には同部屋も多かったから、本当なら貴乃花はもっともっと優勝しててよかったはずだ。
 事実、これまでだって、マスコミは散々「何やってんだ貴乃花」って罵倒を浴びせてきてたのである。それが引退となると、いきなり「平成の大横綱」だ。これって典型的な判官贔屓じゃないのかね。
 つまり「貴乃花は弱かった」ってこと。それをムリヤリ褒め称えなきゃなんないんだから、大相撲の未来もあまり明るくないんじゃないかね。

 ついでに言えば、この「大横綱」って言い方、屋上屋を重ねるもので日本語としてはおかしい。
 もともと力士の最高位は「大関」で、「横綱」ってのは大関の中でも特に強いってことで、「名誉会長」的な意味合いで使われていたものだ。それに更に「大」をつける感覚って、しっくりこないというより滑稽にすら感じるんだが、相撲協会はヘンだとは思わないのか。柔道家を「大黒帯」とか言わんだろう。
 更に、みんなこれを「だいよこづな」って読んでるけど、「おおよこづな」の方が訓読み続きでしっくり来ると思うんだがなあ。重箱読みがいけないとは言わないけれど、ムリヤリ作った言葉だからどこか不自然なものになっちゃってるって感じるのはやっぱりオジサン的感覚なのか。


 寝てると咳も収まってるんだが、仕事に出ると一気にノドが苦しくなる。
 ここまで風邪が長引くと、ちょっとかないません。確かにもともとカラダ悪いことは悪いんだけれど、こんなに長引くっての滅多にないぞ。
 しかも、仕事に出てみたら、コンビ組んでる同僚が風邪で欠勤していた。根性なしの私と違って、熱が出ようが槍が降ろうが仕事一筋ってヒトである。これはタダゴトではないなあ。インフルエンザの猛威はニュースでも伝えられてるけど、今年の風邪そのものも、近来になくシツコイものなんじゃなかろうか。
 同僚の分まで仕事をしたので、もうクタクタである。
 明日私は生きているのだろうか。


 マンガ、天樹征丸原作・さとうふみや漫画『探偵学園Q』8巻(講談社/マガジンKC・440円)。
 フロクに「スクラッチQ」ってクイズとミニリバーシブルポスターが付いて、お値段がちょっと割高。フロクに凝るより、本編の質を上げてほしいもんだが。
 前巻より続いてた『殺人コレクター』編が終了。殺人トリック自体は結局ありきたりだった。っつーか、もう原典がどれか断定できないくらいに使い古されてるんですけど。だもんで、今さら「盗作」とも言えないわなあ。
 「動機」については一応現代っぽい「工夫」があるんだけれど、キャラクターに深みがないせいで、犯人に対して同情よりも失笑したい気分になってしまう。コドモ向けマンガだからって、人物描写に手を抜いていいってもんじゃないんだけど。
 『家庭科室の謎』編、バカトリックの典型。誰でも思い付くけどバカバカしくて書かんやつだねえ、こんなん。
 『アリバイ列車で行こう』編、タイトルは『A列車で行こう』のパロのつもりかな? 中途半端なモジリは作者のセンス疑われるだけだと思うな。
 倒叙ミステリとしてもチャチすぎる。犯人がアホまるだしで、シラケるばかりね。それに犯人のドジを笑う話にするつもりなら、ヘンに犯人に同情的な設定を付与するのは余計だわ。なんかもー、ドラマ造りの基本からしてまるでドシロウトなんだけど、もちっとマトモな原作者付けられんのかねえ。
 なんかねー、だんだん疑問に思えて来たんだけど、このマンガの作者たち、ホントにこれを子供向けのつもりで描いてんのかね? いったい何歳くらいを読者に設定してる? トリックのレベルから行けばせいぜい小学校高学年くらいなんだけれど、のワリには事件の描写なんか安易に残酷なんだよね。
 まあ、小学生に残酷描写を見せちゃイカン、なんて教条的なことを言いたいわけじゃないけどさ、なんか無意味に煽情的で、「節度」っつーか、「気品」がないのよ、このマンガ。カゲの組織が暗躍するような設定も、明らかに『コナン』を意識してるしなあ。
 新キャラ(?)の遠矢邦子のキャラも、「外見コギャルで中身ネクラで合気道の達人」って、作り方間違えてないか。ギャグにもなってないしなー。

 
 マンガ、たまご・やき『OH! スーパーミルクチャン』(講談社・1500円)。
 オールカラーのせいかバカ高いんでやんの。
 でまあ面白いかどうかってことになると、アニメみたいなテンポがない分、どうにも読みづらい。とりあえずファンなら揃えとくアイテムって感じかね。
 で、作者の「たまご・やき」って誰よ。


 マンガ、山田典枝原作・よしづきくみち作画『魔法遣いに大切なこと』1巻(角川書店/ドラゴンコミックス・777円)。
 「魔法少女もの」ってジャンルが確立している以上、お話を面白くするためには、そこでどれだけの工夫ができるかってことになると思うんだけれど、タイトルの「魔法つかい」の「使い」を「遣い」にしただけって印象。
 主役が田舎から出て来た魔法遣い見習い、ってのも特に心惹かれる設定じゃないし(田舎ってなるとなんでみんな東北から出て来るかね)、魔法が一応は実在しているけれども、魔法遣い自体は一般人から偏見の目で見られてるってのも、どうも説得力に欠ける。もう長い歴史の中で人間と共存してるんなら、もう少し人間の方も「したたか」になってるんじゃないかって気がするが、なんかまだまだ造りが「甘い砂糖菓子」だなあって思っちゃうのね。
 掲載誌が『なかよし』とか『りぼん』ならともかく、『コミックドラゴン』の読者はどんな感覚でこのマンガ読んでるんだろうか。
 いやまあ、絵はかわいいっスよ、なんか藤島康介と貞本義明を足して2で割ったような感じだけど。

2002年01月20日(日) それでもアニメだけは見る/DVD『名探偵ポワロ エンドハウスの怪事件』/『フルーツバスケット』3・4巻(高屋奈月)ほか
2001年01月20日(土) 英雄、果つる島/映画『アヴァロン』ほか


2003年01月19日(日) S(エス)の悲劇/DVD『みんなのいえ』/『ブレーメン�供截幹�(川原泉)

 早朝、何の番組だか、テレビで怪しい外人(アメリカ人らしい)が、オーストラリアで「カンガルーの陰嚢」を探しているのを見る。
 なんじゃそりゃ、と思わず居住まいを正して画面に見入る。ンなもんで見入るのもアホみたいだが。
 「陰嚢って……つまりアレだよな? そんなもん売ってるのか? 何に使うんだいったい」
 矢継ぎ早にしげに問いかける。けれど、しげだって別に陰嚢の専門家というわけではない。
 「……小物入れにでも使うっちゃないと?」
 そう答えるのが関の山であったが、更に畳み掛けるように問い質す私。
 「小物入れって……ホンモノの陰嚢を? 別にナニをかたどっただけってわけじゃなくて? ホンモノの陰嚢をなめして作ったの?」
 「知らんよ!」
 しげが突き放すのもムリはあるまい。あまり陰嚢陰嚢言われて、返事ができるものでもあるまい。とりあえずそのままテレビを見ていると、件の外人、聞きこみの末、見事某ショップで陰嚢をゲット。潰れた風船か袱紗みたいな形をしたものが四つほどパックに入っている。どうやらホントに陰嚢を小物入れにしているらしい。
 うーん、感覚的にはやはり首肯しがたい面があるが、アチラの人たちの感覚では屈託がないんだろうなあ。


 咳に悩まされながら、それでも「映画を見てやるんだ!」と、しげが芝居の練習に出かけている間に、三谷幸喜監督の第2作『みんなのいえ』のDVDをかける。
 『ありふれた生活』を読んだときの感想にも書いたが、これが三谷幸喜初のオリジナル脚本の映画化、というのは真っ赤なウソである。
 東京ヴォードビルショーの公演ために書いていた『アパッチ砦の攻防』の初稿がその原作。舞台版の方は完成寸前で初稿が破棄され、全く違う脚本が渡された。
 出演者の佐藤B作も伊東四朗も、公演一週間前に台本を渡されて大変だったってことを、『アパッチ砦の攻防』のパンフレットで語っている。パンフには制作記録も細かく掲載されてるから、三谷さんがどれだけ周囲に迷惑かけまくったかがバレバレである。あの人もエラくなって、段々井上ひさしみたくなってきたな。
 当時は「初稿がうまくまとまらなかったのかなあ」って考えてたけど、こうして映画が作られて、しかも三谷さんがオリジナル脚本があったことをキチンと説明してないところを見ると、あの「原稿落とし」はワザとだな。「これは舞台より映画向き」と判断して、寝かせることにしたんだろう。やっぱりあの人、性格は結構悪辣であるな。

 小林信彦はどうやら三谷幸喜を嫌っているらしい。
 『週刊文春』の『人生は五十一から』で、三谷さんが自作のテレビ番組『HR』について「日本初のシットコム(=シチュエーション・コメディ)」と標榜している発言を引いて、「『スチャラカ社員』があるじゃないの」と、その無知・不勉強を「静かに」怒っている。
 なんで「怒ってる」と判るかっていうと、文中に一切「三谷幸喜」の名を出していないのである。「脚本家は」という言い方だけだ。
 まあ、小林さんから見れば、三谷さん程度のコメディはとても評価できるものではあるまい。三谷さん自身が言ってることだが、「私が売れてるのはほかにコメディの書き手がいないから」というのは「今は」事実だ。もっともそれは、即物的なクソバラエティしか作ろうとしないテレビ局に責任があることなんだが。
 そのことを自覚せずに「ほかのコメディ作家はなにやってるんだ」と言ってるようにも取れる発言をしてちゃ、業界内で腹を立てる人も現われて当然だろう。
 実際、何かにつけ、三谷さんの知識にはやたら偏りがあるのを感じる。私より一つ年上なのに、なぜか『スチャラカ社員』も『てなもんや三度笠』も見てなかったらしい。関西喜劇だけれど東京進出を果たして、視聴率を5、60%も取ってたのになあ。昭和30年代にそれだけの視聴率を取ってたということは、「誰もが見てた」ってことだ。
 いや、見てなかったにしても話くらいは聞いてておかしくない。小林さんは控え目に『スチャラカ社員』だけを挙げているが、吉本新喜劇をガキのころから見続けている者なら、「日本初のシットコム」なんて発言は不遜過ぎてできるものではないのである。全盛時の『あっちこっち丁稚』のギャグに次ぐギャグは、「土曜の昼は吉本」って習慣を関西以西の人間に刷り込んでいた(いやマジ)。
 少なくとも「シットコム」なんて、腐るほど見てきているのである。どうも関東生まれの人間というのは、自分たちの文化にしか目が向いていない悪いクセがある。好き嫌いならそれも仕方がないが、文化全体を捉えて論考する場合、それは余りにも大事なものを見落としてしまうのではないか。
 無知は場合によっては、文化を殺し、人を殺すのである。三谷さんの「思い上がり」に対しては、そろそろクギを刺す人たちが出て来たほうがいい。演劇界にはそういう人もちょこちょこいるんだが、テレビ界では今のところそれが小林さんだけに留まってるように思う。ヌルイ批判は受けてるけど、もっとハッキリと「テレビ向きじゃないよ、アンタの才能は」と言ってやったらどうだ。

 ……てな言い方もまだ軽いか。
 三谷さんには耳がイタイかもしれないが、実は三谷さんのテレビコメディのほとんどは視聴率を取っていないのだ。なのになぜ次々と脚本の依頼が来るかというと、やっぱり「三谷幸喜神話」みたいなものができあがっているせいなんである。
 そういった信仰ができたのは、実は『やっぱり猫が好き』『古畑任三郎』の2作品のヒットが大きい。舞台公演のいくつかは確かに出来がいいが、それらは一般の目には余り触れていない。私の勧める三谷幸喜の舞台ベスト3は『12人の優しい日本人』『出口なし!』『笑いの大学』だが、さて、どれだけの人がこれを見ていることか。
 テレビシリーズは概してギャグのレベルが低い、あるいはテレビ向きではない、という点でつまらない。舞台に比べて、役者の使い方がヘタってのもあるだろう。

 と長々と前置きをしといて、ようやく『みんなのいえ』の話になるのだが、設定の面白さにキャラクターがついて行っていない。まさしく「役者の使い方がヘタ」なんである。

 娘夫婦が新居を建てようとする。
 娘にはデザイナーの先輩がいて、娘の父親は大工である。娘は二人に自分たちの家を作ってもらおうと考えるが、昔気質の父親と、前衛的な先輩とではどうにも話が噛み合わない。
 さあ、果たして家はちゃんと建つのか?

 面白い設定だが、このドラマには一つの危険要素がある。
 つまり、二人の争いは初めから勝敗が決まっている、ということだ。だって、結局「家を建てる」のは大工なんだから。
 実際、ドラマは終始デザイナーの劣勢に次ぐ劣勢、途中、娘が中に入って父親をたしなめるが、それは決してデザイナー自身の力によるものではない。このあたりにこの物語を「舞台」にかけることに躊躇した理由がありはしないか。舞台では二人の力が拮抗したものでないとまるで映えないのである。
 さて、この「盛りあがらない」ドラマをいかにカタをつけるか、と思ったら、三谷さん、実は昔気質に見えた父親のほうが職人魂を忘れていて、デザイナーの方が職人としての矜持を持って仕事に当たっていた、ということが判明する。
 二人の立場が逆転するアクロバットな展開だ。このアイデアは実に秀逸であった。

 でも、この映画で秀逸なところはそこんとこだけなんである。
 最初に書いたように、役者の使い方が頗る悪い。
 実はここまで、デザイナーである唐沢寿明、父親の田中邦衛、娘の八木亜希子には触れているが、ほかのキャストには一切触れていない。見せ場がないのである。チョイ役キャストならともかく、実は主役である娘婿のココリコ田中直樹に、見せ場がないとはどういうことか。
 いや、三谷さんもなんとか田中直樹のシーンを作ろうとして、ラスト近くに嵐が来て家のことが心配になった娘婿、父親、デザイナーが集まるシーンを入れているのだが、これが逆に娘婿の存在がジャマにしかなっていないのである。
 こんな「主役を目立たせるいいアイデアが思いつかなかった」ことが露骨に判るくらいなら、そんなシーン、カットした方がマシだ。

 ほかのキャストにも触れよう。
 野際陽子・吉村実子・清水ミチコ・山寺宏一・白井晃・伊原剛志・江幡高志・井上昭文・榎木兵衛・松本幸次郎・松山照夫・八名信夫・香取慎吾・中井貴一・布施明・近藤芳正・遠藤章造・田口浩正・梶原善・真田広之・戸田恵子・梅野泰靖・和田誠・小日向文世・松重豊・佐藤仁美・大塚範一・エリカ・アッシュ・明石家さんま。
 なんだなんだ、この豪華キャストはって感じだが、ほとんどがワンカットだけの特別出演である。
 ところが問題なのは、ほとんど出ずっぱりの職人たちにマトモなセリフ、マトモなドラマが与えられていないのだ。江幡さんはそれでもある重要なシーンを任されているが、榎木さんに至っては全くセリフなし。いや、セリフがなくても、この職人たちがいろいろデザイナーに「絡む」シーンがあれば、当然ドラマは盛りあがるのだ。それがない。おかげでチョイ役出演の香取慎吾や明石家さんまのほうが印象に残ってしまう始末だ。これはもう三谷さんは「間違ってる」と判断するしかない。
 野際陽子と吉村実子の二人のお母さんだって、もっともっとドラマに絡めることができたはずだ。キャラクターは「風景」じゃないんだよ。

 クダクダ書いちゃったけど、もしかしたらほとんどの人がこの映画、冒頭のギャグシーンで見る気なくしちゃうんじゃないか。
 主人公の娘婿は放送作家、という設定である(ドラマに関しては全く必然性がない)。
 その作家が考えたスケッチが、冒頭で流れるのだ。

 マンションの一室の前で、管理人や住人が集まって一人の男を責めたてている。
 「何かヘンなもの飼ってるでしょ!」「ここはペット禁止なのよ!」
 男はドアに張りついて「何も飼ってません!」と否定する。
 中を覗いた住人の一人が叫ぶ。「アっ何か動いた! トカゲのシッポだ!」
 誰かがカメラのフラッシュを炊く。
 男が悲鳴を上げる。「やめてくれ! 光は嫌いなんだ!」
 突然、中から何かが飛び出して逃げて行く。
 それは一匹のゴジラだった。

 ……何かコメントが必要ですか?


 今日はしげ、早目に練習から帰宅。
 いつもはたいていどこかをふらついて帰ってくるのに、珍しいことだ。少しは私の体を気遣ってくれてるのかなあ、と思ったが、別に看病しようって気配も見せない。
 要するに自分もからだがキツイから帰って来ただけか。

 練習の様子を聞いてみるが、どうも私の書いた脚本、「説明し過ぎ」とのことである。
 第一稿の段階で「意味不明だ」と言われたから、仕方なく説明のセリフを増やしたのに、ワガママなことである。
 それぞれのキャラクターにも見せ場を増やしたのに、「あるキャラクターがあるキャラクターだけに関わりすぎてるのではないか」という文句も出たそうな。それがバレないように前の脚本では「さりげなく」書いてたのに、「説明」をしちゃえばどうしてもそうなるのである。
 でも、意味さえ通れば「このセリフ、説明し過ぎだから削ろうよ」ってことにもなろうから、こういう過程がどうしても必要になるのである。

 穂稀嬢、前回「ヤマさん」のことがわからなかったと書いたが、「アベサダ」も知らなかったそうな。いや、そういうセリフ書いたんだけどね。どういうシーンで使われているかはまだヒミツだ(^o^)。
 でもなあ、私の脚本にもともと「古いネタ」が多いことは自覚しちゃいるけどさあ、「アベサダ」を知らないってのは、いくらトシが若いからって、ただの無知じゃないの?(若いと行ってもハタチは過ぎてるんである)
 いや、もうずっとセンから、穂稀嬢がまれに見る無知女だということは聞かされてたんで、実は脚本でも「まれに見るモノ知らず」役を振ってるんだが、もちろんこれは地で演技できることを狙ってるからである。全く、脚本家とか演出家って類の人間は極悪人である。

 けれど、脚本中にあった「S」というセリフは、全員から「意味伝わらないからやめようよ」ということになったらしい。
 これだけじゃ何のことかわかんないから、ちょっとだけ中身をバラしちゃおう。

 女の子どうしが絡んでいて(もちろん「うっかり」である)、それを見たもう一人がちょっとドキドキして、「まあ、S?」って呟くシーンを書いたのよ。(〃∇〃) てれっ☆

 これでもよく分らない人のために説明しておくと、この「S(エス)」っていうのは「Sister」の頭文字なんですね。昔、女学校なんかで、女の子どうしなのになんだかすごく仲よさそうなカップルを見たら、「ねえねえ、あの方たちって、もしかして“S”なんじゃないかしら」とか言ってたんですね。
 まあ、ハズカチイ。

 もちろん今となってはほぼ死語になっていて、おそらく実際に会話の中で使われてたのは昭和40年ころくらいまでだと思う。私は女学校に通った経験はないから、女の子が使ってるのを実際に耳にしたことはない。いつどこで覚えたかっていうと、母親が使ってるのを聞いたのが最初だ(^o^)。
 今はもっと露骨に「レズ」とか言うのかも知れない。
 練習場での話し合いでは、「百合」に変えようか、とかいう話になったということだ。
 けどねえ、言っちゃ悪いけど、みんな「脚本」ってモノが解ってないよ。ここは、「S」以外ではセリフそのものが成立しなくなってしまうんだよ。

 このセリフを言うキャラクターには、どこか浮世離れしている(ように見える)という性格設定がある。
 だから「レズ」だの「百合」だの、ストレートかつ今でも通用するようなコトバは似合わないのだ。それに、そんな客に一発で意味がわかるようなセリフを使われても、ただ単に目の前の状況を見て、そのまま説明しただけのことに過ぎなくなる。客に何の引っ掛かりも与えなくなってしまうのだ。
 たとえ観客の大半に意味が通じなくとも、ここは「古い」言葉を使ってもらわなければ困る。
 意味が分らない客にはここでキョトンとしてもらいたいし、「S」の意味を知ってる観客が「イマドキそんなコトバ使ってるやつがいるんかい」と心の中で突っ込んでほしいのだ。不自然さに気づいてもらった方が、脚本家としては嬉しい。どうも役者は「自分が言いやすいか」ばかりに気を配って、客にどう見てもらうか」ってことにまで気が回らないやつが多い。
 だからこそ「演出家」が必要になるんだがなあ。

 更に言えば、「レズ」という言葉は直接的過ぎて下品に聞こえるし、やはりこのキャラクターに合わない。「百合」はやや古めかしい感じがしないではないが、もともと「薔薇族」に対する「百合族」という対照語として使われた経緯があるだけで、「S」にあるような「女学生どうしの戯れ」のようなニュアンスには欠けている。「S」というコトバの持つ甘美さも含めて、あえて死語を書いたのだが、そういう意図が読めないというのは情けない話である。
 それに「S」というコトバを完全な死語と見なすのはどうだろう。コトバというものは生き物で、いったん死んだかと思っていたら、ひょんなことで復活し、また使われ出す、ということもあるのだ。あえて死語を使うことで、「味わい」を出すという効果もある。『オトナ帝国』を見よ。
 それでもどうしても「百合」で行きたい、というのなら、せめて「ゆりゆり?」と二度重ねていただきたい。普通、そんな喋り方をする人間はいないから、これでこのコトバにも「キャラクター」が発生する。キャラクターとセリフが一致するのだ。『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスの「泥棒さん?」がゾクゾクッと来るのは、、まさしくこの効果による。そうなんだよ、「泥棒」に「さん」付けしちゃうんだよ、あの「お姫さん」はさ(* ̄∇ ̄*)。
 セリフってのは、そこに命を吹き込むことだってこと、忘れちゃいかんよ。


 マンガ、川原泉『ブレーメン�供截幹�(白泉社/ジェッツコミックス・650円)。
 祝! 4巻突破!
 これで川原さん、自作の最長不当距離を達成しましたね。
 『オペラ座の怪人』を落としまくってたころを思い出すと、なんかもー、それだけで嬉しいですよ。頑張れ川原さん!
 ついにヘルツォーク編が今巻で完結。
 結末は投与されていたナノ・マシーンが暴走して自我崩壊、というあっけないものだったけれど、このままヘルツォークをどんどんバケモノにしていっても、最後は収集つかなくなりそうなんで、早目に終わらせたってとこかなあ。
 昔から、「バケモノの最後」は「食いすぎて自滅」だものねえ。『ゲゲゲの鬼太郎』の「アカマタ」「土転び」とか、『どろろ』の「どんぶりばら」とか。ちょっと定番過ぎた結末はやや残念……なんてご本人に言ったりしたらまたスランプになっちゃうんだよな、このひたー(^_^;)。

 「インターミッション」は、宇宙征服を企む某宇宙人が、「ブレーメン�供廚龍�然のミスでヤラレちゃう話。オチは言わないけど、これの元ネタも腐るほどあるよなあ。まあ、既成のSFを川原さんの「味」で読むんだと思えば……(^_^;)。

 後半は、「ブレーメン�供廚竜ヾ慊后�熊のミーシャくんが、アミューズメントパークの暴走した人型A.I.「アリス」に拉致される話。
 キラたちは、早速ミーシャくん救出のためにその「アリス・ファンタジオーソ」に潜入するのだけれど、ゲームをクリアしていかないと、ゴールへは辿りつけない……って、『幽遊白書』? いや、このパターンの最初は「スフィンクスの謎かけ」かな?
 アリスはしっかり小悪魔してて、かわいいけど、ちょっとネタ切れ的な川原さんが心配……(@_@;)。実際にどの話読んでも、ここんとこ主役のキラ船長がほとんど活躍してないんだよねえ。ホントに続くのかなあ。続けようよう。

2002年01月19日(土) ハルオ再び/『ルパン三世 公式magagine』3号(モンキー・パンチ責任編集)ほか
2001年01月19日(金) DESERT MOON/『パタリロ!』(魔夜峰央)71巻ほか


2003年01月18日(土) 『青空侍』2冠目!/『イリヤッド 入谷堂見聞録』1巻(東周斎雅楽・魚戸おさむ)ほか

 ホントに治りやがらねえな、この風邪は。ヽ(`⌒´)ノ ウッキー
 寝てても自分の咳で目が覚めちゃうし、咳のし過ぎで胃の内容物が戻ってくるし。もっとトシよりだったら、ノド詰まらせて死んでたかもしれん。冗談でなく、50歳まで生きられないかもなあ。
 しげも鼻の穴にティッシュ突っ込んで、寝ちゃ起きの生活。まだ私の方が症状が軽いので、食事は私が作ってやる。夕べ買った鶏鍋に、ササミとネギとうどんを追加して、ダシを加えて二人分に水増し。カラダが温まると少しは気分がよくなる。

 なにかDVDでもかけて見ようとするのだが、すぐ睡魔に襲われて寝てしまう。体力が持続しないなあ、トイレもひどく頻繁になってきてるし、こんなんで仕事に戻れるのだろうか。

 
 アニメ『クレヨンしんちゃん』のオープニングが華原朋美に変わっている。
 ってことは、映画版『嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード』のオープニングも華原朋美ってことか。ついでに本編のゲスト出演もしちゃうかな。

 前作の『嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』は、本日、めでたく第57回毎日映画コンクールアニメーション大賞を受賞した(大藤信郎賞は『千年女優』)。「第6回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞」に続いての快挙である。これでキネ旬だの日本アカデミー賞だのがいくら『クレしん』を無視しようと、見ている人はちゃんと見てるってことが証明されたんで、「『クレしん』のどこがいいの?」なんて言ってるアホには「見る目ねえなオマエ」と言ってやれるなあ。アホはたいてい自分の目で判断する力がないから、こういう「権威」にゃ弱いんだよね。
 でも驚いたの、「アニメーション大賞」の審査委員長、三留まゆみさんになってたんだね。いや、同世代の人が審査委員なんてエラソウな立場になってるってのがちょっとピンと来なくて。

 審査の過程は以下の通り。
 エントリーされたのは全部で10作品。
 1、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』
 2、『千年女優』
 3、『頭山』(落語のアレだ。これも見たかったんだよなあ)
 4、『猫の恩返し』
 5、『ぼのぼの クモモの木のこと』
 6、『パルムの樹』
 7、『TAMALA 2010』
 8、『明日の風に向かって―ありのまま舎物語』
 9、『WX3 機動警察パトレイバー』
 10、『ミニパト』

 10人の審査員が、まずアニメ大賞部門で3本連記の1次投票。
 結果は、「千年」9、「クレヨン」8、「猫」6、「WX3」5、「頭山」2。
 討議のあと、2次投票では討議で有力となった2本に票が集まり「クレヨン」6、「千年」4で決着。
 続いて、大藤信郎賞の投票は「千年」7、「頭山」3で即決。
 大藤賞の趣旨についての議論も出つつ「千年」で全員一致。  

 三留委員長の講評は以下の通り。

 > 一昨年の『オトナ帝国の逆襲』でひとつの頂点を迎えた「しんちゃん」シリーズ。10作目は本格的時代劇である。
 > しんちゃん一家を脇役に配し、姫君と家来の身分違いの恋を描く本作は設定・ストーリー・技術ともに今までの作品とは一線を画するが、そこにはあえて映画の王道ともいうべき表現を選んだスタッフの意気ごみが見える。これまでの「しんちゃん」への決別 と新たな挑戦。
 > さて今回は何を見せてくれるのか? これだけはいえるだろう。日本のアニメは「しんちゃん」があるかぎり大丈夫。


 次に、おかだえみこさんによる『千年女優』講評。

 > 伝説の女優が回想する女の一生がそのまま昭和史、日本映画史に重なり、彼女への取材者の秘めた想(おも)いが物語の第二主題となって虚実を超え、からみ合いつつ時代を駆け下る。才気あふれる構想と演出。
 > 老いたる美女が描けていないなど欠点はいくつも抱えながら、この永遠のすれ違い二重奏はおとなの観客を魅了する。
 > 超能力者も悪との戦いもない、日本アニメ史、いや日本映画史に類例のないスタイルと勢いで作られた<映画の映画>を今年の日本映画の収穫として、拍手を送りたい。


 未見の映画もあるので、順当な審査結果、と私が言いきることはできないが、必ずしもアニメファンの話題に上らなくても、「これはちゃんと評価しようよ」って審査員が考えている雰囲気がよく伝わってくる。でなきゃ、普通、『頭山』はエントリーされないよな。
 セルアニメかCGアニメか、とか、商業映画か文化映画か、というカテゴリーに拘らず、「アニメの未来を見据えたもの」として評価されてるのが嬉しい。
 『戦国』=『青空侍』は、アニメファンの間でも賛否両論が激しかったようだが、まず勘違いしちゃいけないことは、「アニメーション」って映像のジャンルを表す言葉じゃないってことである。
 じゃあ何かって言うと、専門用語を使えば「メチエ」、簡単に言えば「技法」「手法」であって、表現のための一手段だってことなんだね。今回の『青空侍』ほかの作品は、みな、そのことをハッキリ示してくれているんである。まずは「映画ありき」、それから「実写」を選ぶか「アニメーション」を選ぶかって区別があるってことなんだね。『青空侍』が映画の王道を行ってるのは当たり前なんである。

 『ギブリーズ episode2』が選考からハズレてるのはちょっと残念だが、まあ、実験アニメにすらなってない部分が多かったから、仕方ないやな。
 宮崎駿と比較されてネット上では不当に評価の低い『猫の恩返し』や、実写的リアル描写とアニメーション描写の融合を図った『WX�掘戮砲睇爾�集まってるのが嬉しい。
 概して、私が「面白い」と思ったものが、ちゃんと「ここでは」評価されてるんである。……なんだ、オレって結構、映画見る目あるのかも。とかなんとか自画自讃してみる。
 でも実は、大藤賞の『千年女優』は私にはイマイチだったんだよなあ(^_^;)。
 ってゆーか、おかださんも講評で語ってるが、「欠点」が見えすぎるのである。しかも「ここをこうすればよくなるのに」ってところがいっぱい。
 もともと、現実の人間が虚構の世界に入りこみ何役も演じる、というのは、「映画の手法」ではなく「演劇の手法」である。基本的に「アニメでしかやれないこと」「アニメだからこそ効果があること」ではないのだ(もちろんそうでない描写もあるにはあるが)。
 試みが面白いだけに、脚本、演出、演技、全てにおいて「もう一歩」感が強い。このうちどれか一つでも突出してれば、多少の欠点があっても「いいぞこれは!」って推すんだけどね。いやね、「女優の世界」を描いていながら全体の印象が地味なんだわ、これ。
 そうだなあ、年取った千代子を一切画面に出さずに声だけで描く、とか、描くにしても見た目全然年を取っていないように見える、くらいのことをしてくれてたら、もっと面白くなったと思うんだけどねえ。
 中途半端な力作になるより、思いきって冒険しようよ、アニメなんだからさ。

 あ、それから実写の大賞の方は『たそがれ清兵衛』でした。
 見に行けなかったから、これはDVD買うぞ。


 マンガ、東周斎雅楽作・魚戸おさむ画『イリヤッド 入谷堂見聞録』1巻(小学館/ビッグコミックス・530円)。
 こないだネットカフェで読んだんだけど、おもしろかったので購入。
 トロイアの遺跡を発掘したシュリーマンは、その晩年、アトランティスの発見を夢見ていた……ってのはどこまでホントなのかね?
 もちろんこれはフィクションなんで、「アトランティスは実在していた」ってのが真相じゃなきゃ面白くない。さあ、大陸移動説をいかに否定するか、楽しみだな(無視しそうな気はするけど)。

 古代ギリシャの哲人プラトンが『ティマイオス』『クリティアス』に書き残した幻の古代文明、アトランティス。シュリーマンの孫・パウルはその日記にアトランティスの秘密を書き残したと言う。
 その日記を入手した大富豪ヴィルヘルム・エンドレは、世界の大富豪を集めて、アトランティス探索の極秘プロジェクトを始動させた。しかし、その矢先、彼は謎の組織に暗殺され、魔の手は彼の娘・ユリにまで伸びる。エンドレが最期に娘に言い残した言葉は「日本に行け」。
 シュリーマンはかつて、来日していたことがあった。そしてそこでアトランティスの手がかりをある人物に伝えていた……。
 ユリとともにアトランティスの謎に挑むのは、かつてある考古学スキャンダルでイギリスを追われた後、日本の団子坂で骨董屋を営んでいた男、入谷修造。
 入谷の母親、金の亡者(^o^)淑子も巻き込んで、三人は謎を追ってクロアチアへと向かう。しかし、そこでユリは何者かに誘拐されてしまった……。

 ストーリー展開は面白いんだけど、気になることが一つ。
 原作の東周斎雅楽って、『MASTERキートン』の葛飾北星じゃないの?
 いや、根拠って言っても、名前が似てる作風が似てるってとこだけなんだけどね。かつてSASのマスターだったキートンが今やしがない保険屋の探偵、って設定とか、親がちょっと変人とか、考古学的な謎を追ってるとことか、主人公のネーミングセンスが駄洒落でダサイとか(^o^)。
 と言っても、その葛飾北星自体が謎の人物なんで、正体が誰かって詮索、余り意味がないのかもしれないけど。
 『キートン』の浦沢直樹さんに比べると、魚戸さんの作画はちょっと華がない。絵的に浦沢さんを「追っかけ」てる人だってことは、『家栽の人』でも感じていたけれど、もう一歩のところでオリジナルになりきれていない恨みがある。
 主役の入谷はもっとダサくっていいし、ユリはもう少し魅力的に描けないものか。この二人のコントラストがハッキリしてこそキャラクターが生き生きとしてくると思う。

2002年01月18日(金) バンパイアの夜/『ビッグマックプリーズ!!』(小屋一平)/『光の島』1巻(尾瀬あきら)ほか
2001年01月18日(木) はな゛がつま゛ってくるしい/アニメ『ジャックと豆の木』ほか


2003年01月17日(金) 言語作用としての2ちゃんジャーゴン/『POPEE THE PERFORMER ポピー ザ ぱフォーマー』(増田龍治・増田若子)ほか

 写真家・秋山庄太郎氏が16日に死去。享年82。
 死因は特に記事中に紹介されてはいないが、林忠彦賞の審査中に倒れたというから、脳溢血かなにかだろう。
 私は写真集の類はあまり買わない方で、たいていは企画モノである。
 この写真家、と目算をつけて買ってる写真集と言ったら、林忠彦さんにアラーキー、そしてこの秋山さんくらいしかない。もちろん買ったのは女優さんの写真集だったが(〃∇〃)。
 女優さんは基本的に「演技してナンボ」であるから、「動」の世界の人である。それを「静」として捉えようというのであるから、考えてみればこんなムチャな話はない。「静」でありながら「動」を感じさせるものを撮らねばならないからだ。
 あまりにも有名な秋山さんの原節子を撮ったポートレートだが、実はアレ、あまり出来がいいものではない。原節子の写真集の中で他のものと比較して見れば気がつくことだが、アレはキレイだけれども笑顔が固まっていて、自然な表情ではない。全体を通して見ると、アレだけ浮いているのだ。映画のワンシーンのスチールのほうがよっぽど原節子が生きている。
 でもそんなことは秋山さん自身が一番よく知っていたことだったろう。著書の中でも、誰を撮っていても「うまく撮れない」「チャンスを逃した」の繰り返しである。まさしく秋山さんは不可能に挑戦し続けていたのだ。

 ちなみに、その「有名な」原節子のポートレート、なんと佐々木倫子のマンガ、『動物のお医者さん』に登場している。
 漆原教授が密かに隠し持っていた写真を、ハムテルたちが「教授の昔の恋人?」と勘違いするのだが、真相がわかったあと、教授が「近頃の若いもんは原節子も知らんのか」と激怒するのだ(同感である)。
 その写真が秋山さん撮影のものであるということは、前で手を組んだポーズから察せられるのだが、残念なことに佐々木さんは絵がヘタなので、顔が原節子に全然似ていない(^_^;)。
 もっとも、どんな絵を描いたところで、「永遠の処女」(映画で結婚する役を何度も演じていたのにこう呼ばれてたってことが、スゴイよなあ)原節子に対する冒涜だって怒る七・八十代のファンは、今もいそうな気はするが。まあ、そういう人たちは『動物のお医者さん』どころかマンガ自体あまり読まないか。


 私の体調も全然回復しないが、しげもどうやら風邪を引いたらしい。
 と言うか、二、三日前から「気分が悪い」を繰り返していたのだが、今日になってようやく「これは風邪を引いてるのではないか」と気づいた、と言うのだ。
 呆れて、「お前、オレにバカって言われて怒るけど、やっぱりバカじゃん」って言ったら、「えへへ」と笑っている。どうやら毒が脳まで回っているらしい。
 今日も会議が長引いて、仕事もやたら入れられて、帰りが遅くなる。気分が悪くて私も倒れそうだ。
 それでもコンビニに寄って、栄養剤やら胃腸薬やらを買う。
 何本も買い込むのは、薬が切れると困るからではなくて、栄養ドリンク一本取ってみても、しげは好みがうるさくて「これは飲みたくない」とかワガママを言うからだ。栄養ドリンクの類は決して安くはない。余り安いやつだと効き目もなさそうなので、つい、一本300円とか400円とか、もちっと高いやつとか、高価なのを混ぜて買ってしまうが、そういうのをまたしげが遠慮もなく飲むんだよな。
 で、結果的に余った安いやつが私の分、ということになる。安くても全く効き目がないわけでもなかろう、とさっきと逆の考え方をして飲むが、これがポジティブシンキングというものであろうか(^_^;)。
 自暴自棄に近いかもしれんが。


 大修館書店『言語』2月号の特集、「遊びたがる言葉」に、ついに「2ちゃんねる」が取り上げられる。
 この雑誌、言語学の専門書なんだが、決してかたっくるしい記事ばかりでなく、大衆向けに読みやすい特集をたびたび組んでいて、毎号、実に面白いのだ。どうも全く売れてないらしいのが残念なんだけど。
 例えば、今号でも大のオトナが、『ドラゴンボール』のキャラクターはどのような言葉遊びで成り立ってるのか、なんてことをマジメにマジメに分析している。このギャップが面白いんだね。でも、普段マンガを読みつけない人がそういうことやるもんだから、結構引用を間違ったりもしてる(^_^;)。『クレヨンしんちゃん』の「運黒斎」って、字が違っとりますがな(正しくは「雲黒斎」)。

 それはそれとして、『「2ちゃんねる」におけるジャーゴン』と題して解説しているのは、メディア・プロデューサーの松本恭幸氏。
 「ジャーゴン(jargon)」とは要するに「専門用語」「術語」のことで、ある一定の職種、グループ内のみで使用されるコトバのことである。こういったジャーゴンはどの世界にもあるものだが(同人界の「ヤオイ」とかね)、「2ちゃんねる」用語の多くが、「意図的に誤字誤読や語尾を変形したもの」である点が特徴的であると松本氏は指摘する。
 例として挙げられているのが、「氏ね」「厨房」「がいしゅつ」「串(←プロクシーのことだったんだね。私ゃ今回初めて知ったよ)」「スマソ」「マターリ」「ドキュン」など。
 「がいしゅつ」については、ホントに「既出」を「がいしゅつ」と読み間違えたアホがいて、そこから流行して行った過程がある。松本氏は「意図的に」と言うが、もともとは単純な漢字変換のミスから使用されるようになったものがほとんどなのではないか。パソコンによるコミュニケーションでなければ、こういうジャーゴンは生まれなかったに違いない。最近も、2ちゃんをチラッと覗いてみたら、やたら「香具師」って出てくるんで、「寅さん関係か?」と思ったら、これ、「奴(ヤツ)」を「ヤシ」と誤変換して、更に漢字をアテたんだね。なんでそこまでしてジャーゴンを作らにゃならんのか、理解に苦しむんだが。
 松本氏はこれらのジャーゴンについて、「バーチャルなコミュニティ内でのコミュニケーションを維持するのに有効」と分析する。その点について、基本的に異論はない。
 しかし、匿名性が前提となる2ちゃんねらーのジャーゴンが、「異質な他者の存在を許容する潤滑油の働きを担う」とまで言い切って肯定しちゃうのはどうかと思う。例えば、松本氏によれば、「出ていけ」とストレートに言うと喧嘩になるが、「逝ってよし」と表現すると、相手に不快感を与えずにすむ(どころか、言われた方はカタルシスすら覚える)そうである。
 ……そうなんですか? 2ちゃんねらーの人。
 私ゃ、「逝ってよし」なんて言われたら、怒りゃしないけど嬉しくもありませんが。2ちゃんねらーになるためにはマゾにならないといけないってこと?
 私は2ちゃんねるはROMはしても書きこみをしたことはただの一ぺんもないので、その「潤滑油」という感覚がわからない。どの世界でもそうだが、ジャーゴンが不用意に専門外の人間に対して語られる場合の多くは、相手に対する優越感が付随してくる。「こういう難しいコトバをオマエは知らないだろう、オレたちの仲間になりたいんなら、こういうコトバ遣いを覚えないとムリだぞ」という「村八分」の感覚でもあるのだ。
 しかもそういう用語がさしたる意味もなく増殖に増殖を続けているということは(これは例えば医学の発展により医学用語が増えて行くのとはワケが違う)、円滑なコミュニケーションを図るためと言うより、「囲いこみ」の論理のほうがより優先されていることの証明だろう。2ちゃんねらーであり続けるためには、日々それらのジャーゴンを覚え続けなければならないのだ。
 そして、2ちゃんねる初心者で、ジャーゴンにまだまだ慣れていない人間に対しては、「厨房」「逝ってよし」の、相手にとっては何のことか判らぬ罵声を浴びせる。これは例えて言えば、英語の判らぬ日本人に対して、「Jap」と罵倒するのと同じ感覚だ。キョトンとしてる日本人を見て、更に嘲うのね。相手だって、よっぽど鈍感でない限り、どうやら自分がバカにされてるらしい、くらいのことには気がつく。さて、これで「円滑なコミュニケーションを図ろうとしてる」なんてことが言えるものかどうか。もしそう思って2ちゃんねらーたちがこれらのコトバを使ってるんだとしたら、それはとんでもない甘えである。

 2ちゃんねる用語の中には、通常の会話で使われることもあり、必ずしもジャーゴンとは言い切れないが、やたら頻度数の高いもの、というものもある。
 例えば、「〜ですが、何か?」という聞きかた。一見、疑問形ではあるが、これは相手に解答などを求めてはいない。「それがどうした、オレはオマエの言うことになんか興味ねえんだよ」という、会話に対する拒絶であって、だからこのコトバを真に受けて、誠実に対応するつもりで答えてみたところで、更に嘲われるか無視されるかどちらかである。「あほが見〜る〜、ブタのけ〜つ〜」ってことだね。
 こういう「拒絶のためのジャーゴン」が夥しく使われる空間に対して、「コミュニティ」などという呼称は、本来適切ではない。2ちゃんねるの「掲示板」とは、コミュニケーションのためではなく、あくまで「匿名性」に自己の存在を隠した「言いっぱなし」の「便所の落書き」として機能しているのである。
 コテハン(固定ハンドルネーム)を使ってたって、なりすまし、自作自演の多い2ちゃんじゃ、自分自身の証明になんかならない。昔、夏目房之介さんや唐沢俊一さんが2ちゃんに書きこんでたときには、それが自分であることの証明のために、わざわざ自分の日記やエッセイの中でそのことに触れなければならなかったのである。ましてやただの無名人が自分自身を主張しようとするなら、2ちゃんねるに書きこみをすることは全くの逆効果であろう。
 重ねて言うが、2ちゃんねるの「効用」は、新しい形のコミュニティを作っているということではない。
 その真逆で、誰もが同じコトバ遣いで、誰もが似たような言い回しで、誰とも知られずに心の底に溜まったどす黒い欲望だの憎悪だの偏見だのを撒き散らしてスッキリさせられるからこそ、2ちゃんねるはあそこまで巨大化していったのだ。
 そこに、表には現れにくいけれども、実は「大衆に“共通している”」時代の捉え方、時代の雰囲気、文化の底流にあるものを見出し、分析し、研究することが可能になる。たとえそれが醜い差別意識であろうとも、そこから目を逸らしてその国の文化を捉えることはできない。2ちゃんねるはまさしく我々の心の奥底を映し出す鏡なのである。
 だから私は、2ちゃんねるの存在を否定はしない。しないんだけれど、たまに実生活やごく普通のサイトで、「2ちゃんねらー」であることのアイデンティティを主張される人に出会ってしまうと、極めて困惑してしまうのである。本人だってことが特定されたら、名誉毀損で犯罪者ってことになる危険があるってことに気がつかんのかね。
 昔、あるチャットで、「私、2ちゃんねらーですけど、それが何か?」なんて言われたことあるけど、「あなたバカですね」なんて返事してほしいのか(^_^;)。

 ネットの恐ろしさってのは、たとえ個人のホームページであっても、それが巨大化していけば「2ちゃんねる的要素」が生まれてくる点である。つまり、「荒らし」が増えるのだね。典型的な例が山本弘さんの「SF秘密基地」だろうが、そこではやはり、管理の仕方をいかにするかっていう、管理者の「覚悟」が問われることになるのだ。
 ネットが新しい形のコミュニケーションを作りあげていく可能性については、大いに期待したい。実際、私の場合を考えてみても、ネットいうものがなければ、まず間違いなくAIQやオタクアミーゴスの先生方ともお近づきになれなかったし、もちろん、見知らぬ人たちから私の考えていることに対して、賛同、批判、罵倒を受けたり、知り合いの信頼、友情、裏切りに会ったりして、職場とトラブルを起こしたりすることもなかった(^_^;)。
 もちろん、それは全て私に「考える」きっかけを与えてくれた。
 その考えたことがまた日記にフィードバックされていく。おかげで日記がどんどん長くなる(ー∇ー;)。
 ネットに妙な夢を見るのは危険だと思う。けれどネットを通して、見えない相手の顔を想像して行くことが、越えられない人と人との心の壁に蟻の穴の一つくらい開けられやしないかと、ちょっとくらいは夢想してみたくなるのである。でもそのためにはまず「現実」を客観視する目を持たないとね。


 マンガ、増田龍治作・増田若子絵『POPEE THE PERFORMER ポピー ザ ぱフォーマー』(講談社/KCピース・1200円)。
 タイトルの「ぱフォーマー」の「ぱ」だけが平仮名なのは誤植にあらず。
 CSキッズステーション制作のCGアニメのコミック版だが、アニメの方のタイトルは『POPEE the ぱフォーマー』とアルファベットも字体もバラバラなのでややこしい。
 コミック版は当然CGじゃないんだけれども、そのギャグのレベルはアニメ以上にシュールで意味不明で、もう私にはおもしろいんだかつまんないんだかわかりません(^_^;)。
 アニメは最終回以外は全くセリフがないマイムものなんで、実は設定がよくわかってなかった。なにしろ「ポピー」という名前さえ、本編中で呼ばれたことはないのである。もちろんワザとわかんなくしてはいたんだろうけれど。
 解説によれば、「ポピーは17歳。クラウンと呼ばれるサーカスでの道化俳優見習い。ヴォルフ・サーカス団に所属していて、助手のケダモノとともにサーカス一座を盛りあげようと日々訓練に励んでいます」ということだけれど、なぜか舞台は誰もいない砂漠なんだよね。
 なんでかなあ、と思っていたら、「製作費がバカみたいに安く、制作期間もウソのように短いので、回りに何もない砂漠が一番作りやすかったから」だそうな(^_^;)。それでアレだけのクォリティのものが作れたんだから、やっぱりセンスは大事だね。
 とは言ってもこの制作者夫婦のセンス、決してマトモとは言えない。もともとの予定タイトルは『着ぐるいポピー』。そりゃテレビじゃ通らんわ(^_^;)。

 マンガの方にはアニメと違ってセリフがあるものもある。けれどセリフが「意味を伝える」ものであるとしたら、これはもうセリフではない。何も伝えようとはしていないからだ。その点では吉田戦車的ではあるね。
 例えば「砂かけ母」。
 レオタード姿の母親が、四つんばいになって後足で砂を蹴って、娘にかけている。娘は手を差し伸べて言う。「お母さんもうやめてよ」。
 母は悲しげに答える。「あんたにしてやれる事はこれ位しか無いの」。
 なんだかよくわからないが、何がスゴイってこの母娘、このマンガのレギュラーキャラでは全くないってことだ。ナニモノだよ、この二人(^_^;)。
 それにしても、アニメ以上に毎回ポピー死んでるなあ。

 ほとんどの話がマンガ版のオリジナルだけれど、最終回だけがアニメ・マンガともにオチだけちょっと変えて共通。
 ケダモノはいなくなってしまいました。
 だからこの話に続きはありません。
 ちょっと寂しいけど、この二人の新作、『ガラクタ通りのステイン』に期待しましょ。今度はもう少し予算が増えたみたいですから。
 

 しげがDVDを何かかけながら寝る、と言うので、久々に『名探偵ポワロ』を見る。今回は第5巻の『夢(The Dream)』。原作小説の方は未読である。
 大手パイ・メーカーの社長、ファーリーに呼ばれたポワロ(本当は「ポアロ」と表記したいところだけど、テレビタイトルがこうなってるから仕方がない)は、毎晩自殺する夢に悩まされている、と相談を受ける。やがて彼は死体で発見されるが、その状況は彼が夢で語った通りだった。
 長編に比べたら短編は苦手、というのがクリスティーについてよく言われる批評だが、これもトリックがどうにも古色蒼然としていて、現代の目で見ればいささか荒唐無稽な印象を受けてしまう。何よりこれは小説のトリックとしてはまだなんとか成り立ちはするが、映像にしちゃうともうバレバレなんである。犯人、よくこんなチャチなトリックでポワロの目をごまかせると思ったよなあ。
 と言っても、ポワロほどの頭脳がなくとも、ミステリーのセオリーをある程度知ってる視聴者なら、定番通りの発想を辿って、容易に犯人もトリックも見破ってしまうだろう。だいたい被害者がノイローゼで自殺したなんてことはありえないって前提で考えれば、誰が何のためにトリックをしかけたのか、すぐに気づくでしょ。
 トリックのレベルとしては、下の上クラスかな。

2002年01月17日(木) 部屋の中を歩けるようになったよん(それが普通だってば)/アニメ『七人のナナ』第2話/『クレヨンしんちゃん』31巻(臼井儀人)ほか
2001年01月17日(水) 雪が溶けて川になって流れていきます/『これから』(夏目房之介)ほか


2003年01月16日(木) 階段の怪談……f(^_^; スンマセン/『自殺』(柳美里)ほか

 ちょっと今日は怖い話をしましょう。
 しげはぜひ読んで怖がるように(^o^)。

 その日(って今日だけど、これは「語り」の定番なんで気にしないように)、私は残業で、七時過ぎまで職場に居残っておりました。
 山奥で人家もまばら、冬のこととて、あたりはしんしんと静まりかえっております。
 夜の見回りもこれで何度目でしょう、建物の中の暗がりにも随分馴れてきて、懐中電灯を片手に、一階から二階、と心の中で鼻歌なんぞを歌いながら(ホントに歌ったらバカみたいなのでしません)歩いておりました。
 コツ、コツ、と私の足音だけが廊下に響きます。
 建物は3階建てです。3階の廊下の天井灯がなぜか点きっぱなしになっていたので、スイッチを切って、屋上に登る階段を上がって行きました。
 屋上までは天井灯がありません。そのために懐中電灯が要るのです。寒いので外までは出ませんが、屋上へのドアに鍵がかかっているのを確かめて(キャッツアイじゃあるまいし、こんなところから泥棒が入って来るとは思いませんが、念のためです)、階下に降りてみました。

 あれ? 明るいな?

 消したはずの廊下の電気が点いています。
 上に行ってる間に、誰か同僚が通りかかったのかも知れない。そう思って、もう一度、電気を消しました。
 見回りはまだまだ終わりません。廊下を曲がって、奥に進みました。

 ふと、背中に気配を感じました。

 振り返ると、さっき消したばかりの廊下に、電気がまた点いています。
 誰も通っていません。それは確かです。足音もしませんでした。
 もう一度、電気を消しに戻りました。
 スイッチが甘くなったりしているか、と思って目を近づけて見てみましたが、普通のスイッチです。勝手に動いたりするようなものではありません。
 今度こそ確実に押して、あたりは真っ暗闇になりました。私は廊下からそそくさと逃げるように警備室に懐中電灯を戻しに行きました。
 もしかしたら、また電気が点くのではないか、そういう疑問も心に浮かびましたが、もうそれ以上、確かめに戻るつもりはありませんでした。

 職場をあとにして、建物を振り返りました。
 廊下にはやはり……。


 木曜洋画劇場で『男はつらいよ 寅次郎紙風船』、これはまだ見たことがなかった。
 マドンナが音無美紀子で、寅さんについて回るフーテン娘が岸本加代子。まあ、こりゃどうでもいい。
 小沢昭一がワンシーンだけ出演していて、渥美清と絡むのだけれど、やっぱり芸達者同士の掛け合いってのは味があるし息は合ってるし、いいんだよなあ。これで監督が山田洋次じゃなかったらもっと面白くなってたろうに(^o^)。いや、せっかくこの二人を掛け合いさせていながら、ギャグがないのよ。
 寅さんシリーズ続けててもよかったけどさあ、やっぱり役者の使い方ってものはちゃんと考えてほしかったよね。


 『ダ・ヴィンチ』の2月号で、手塚治虫『ブラック・ジャック』の各話人気投票が行われている。
 1位はピノコ誕生編である『畸形嚢腫』。
 次いで、ブラック・ジャック初恋編の『めぐり会い』『おばあちゃん』『ときには真珠のように』『友よいずこ』『ちぢむ!!』『人生という名のSL』『ふたりの黒い医者』『えらばれたマスク』『ピノコ生きてる』、と続く。
 一目瞭然、ベストテンのほとんどが「ブラック・ジャック自身の事件」である。ピノコやドクター・キリコなど、レギュラーキャラの話を含めば、純粋に手術ものと言えるのは、『おばあちゃん』と『ちぢむ!!』だけだ。
 本来、ブラック・ジャックは物語の狂言廻しであって主役ではない。主役はあくまで各話のゲストキャラであるのだ。となれば、『ブラック・ジャック』の本質は、この人気投票全体からはあまりうかがえない。
 やはり、「内幕もの」的な「自身の事件」を除いた中の最高位である『おばあちゃん』に、このシリーズの本質を見るのが妥当のように思われる。
 単純に考えれば。

 嫁に嫌われてもお小遣いをせびり取る老婆。彼女は昔、難病にかかった息子の命をブラック・ジャックに救ってもらっていた。おばあちゃんは、まさしく一生をかけて、その高額な治療費をブラック・ジャックに支払い続けていたのである。

 何度となく『ブラック・ジャック』中で描かれる「医療とカネ」の問題である。
 しかし、このシリーズが一筋縄ではいかないのは、「人の命を助ける医者が高額の代金をもらって何が悪い」というテーゼが提示される反面、別の話では「医者が人の命をどうこうできるなどとはおこがましい」というアンチテーゼも描かれていることだ。
 そんなことも含めて、「医者ってなんだ」「命とはなんだ」という疑問を読者に問い続けたのが『ブラック・ジャック』という物語だったのだろう。答えなんて、手塚治虫自身にだってわからなかったと思う。


 柳美里『自殺』(文春文庫・480円)。
 そう言えば、柳さんが自分の名前を「ユウ」と読ませてるのは間違いだと『まれに見るバカ女』の中で呉智英が指摘してたな。
 本当の発音は「ユ」と短く、「ユウ」だと「乳牛」という意味になるのだという。
 朝鮮人と言っても、柳さんは在日二世の人である(正確には在日韓国人。「朝鮮」という呼び方を韓国の人は嫌うらしいが、北朝鮮と韓国をひっくるめた「朝鮮半島」って言い方が日本じゃ一般的なんだけどな。わざわざ「韓半島」と読んだら、今度は北朝鮮から文句が来そうだぞ)。どれだけ韓国語ができるのか怪しいし、そういう間違いもあるんじゃないかなあ。それをあげつらうってのは呉さんもどうかしてるな。
 呉さんは「朝鮮語ができなくて当たり前である日本人に、朝鮮人名の朝鮮語読みを強制するほうが理不尽」とも主張しているが、別に日本人じゃなくて朝鮮人なんだから、理不尽でもなんでもないでしょう。呉さんは中国や朝鮮に行ったときに自分の名前が向こうの発音で読まれても気にならないのかもしれないけれど、普通の日本人は「それ、オレの名前じゃないよ」と感じると思う。

 そんなことを思ったのは、この本の書きだしが、「はじめまして、ユウです。柳と書きますが、ユウと読みます」で始まってたから。
 これは、1993年に神奈川県立川崎北高校で行われた柳さんの講演及び生徒との対談記録、それに1999年時点での論考を追加したものなんである。
 1993年は、ちょうど柳さんが処女小説『石に泳ぐ魚』を執筆している最中であり、さて、このとき柳さんがどんな心理状態で小説を書いているのか、ということの興味もあって読んでみた。
 
 テーマがなにしろ「自殺」である。
 柳さんの担当編集者はこの講演の企画を説明する時に、「自殺といったら、経験者でもある柳さんをおいてほかにいないと思いまして」と言ったというが、冷静に考えれば、こんなヒドイ言い方はない。まあ、柳さんが「有名人」であり「表現者」であるから、多少のシツレイをしたところで構うまい、という判断はあったろうが、普通、自殺未遂者に「自殺しようとしたときどんな気持ちだった?」なんて聞かないもんだ。
 講演を依頼した学校の方も、恐らくは軽い気持ちだったんじゃないか。柳さんのことを「自殺を乗り越えて強く生きている」というふうに考えて、生徒に「命の大切さについて考えてもらいたい」とかな。
 しかし、柳さん、確かに「強く」生きてはいるのだろうが、その「強さ」っての、普通に期待されるような前向きなもんじゃないんである。どっちかっつーと、「後ろ向きな強さ」っつーか、「暗い強さ」(^o^)。

 「小学校六年で生理が始まったとき、はじめて自殺を考えた」
 「生理が始まったことは私にとって、死期が近づいたということだった」
 生理のない男である私が、こういう感覚について、あまりうかつなことは言えない。不安はあっても、母になれる身になった喜びはないんだろうか、とか考えるのは、やはり男の勝手なリクツ、ということになるのかもしれない。ましてや柳さんは子供のころから母親に「あなたなんか産まなければよかった」と、母であることを拒絶した言葉を聞かされ続けていたのである。
 浅薄な分析ではあるが、裁判時の発言にも顕著に表れている柳さんの心の歪みは、やはり子供のころの親子関係に起因しているように思う。
 親はよく、「要らない子だなんて冗談だ」とか「そう言って親ばなれさせるのも躾のうち」だとか言い訳をするが、残念ながら、ある程度ではあっても本気で「コイツ要らないな」と思わないと、親の口からこんな言葉は出ない。子供はそれくらい感づく。
 親に見捨てられた子供は確実に歪む。柳さんが歪んじゃったのも、仕方がないことかも……なんて言い方をすると、柳さんの現在の狂いぶりを弁護してるみたいだけれど、必ずしもそうじゃない。
 自殺未遂を繰り返してる人に対して言いにくいことじゃあるけどさあ、親ってものはたいてい子供を見捨てるものなのよ。だから、子供は100パーセントの確立で歪むものなんである。「オトナになりたくない」「親になりたくない」って感覚を持たない子供はいないし、自分だけが自殺をしよう、ましてや柳さんのように「世界人類が死んでしまえばいいのに」とまで思うのは、ただの自意識過剰なんである。

 中学二年のとき、柳さんは好きな同級生の「女の子」に告白をして、振られ、カミソリで手首を切って自殺を図る。
 その女の子は、柳さんのことを「あなたのその長い髪も、しゃべり方も、存在自体大嫌い」と言って拒絶したということだが、まあこの言い方も相当にヒドイけれど、中学生くらいの年頃なら、自分のことを日頃から熱く見つめる「同性」がそばにいたら、拒絶することもありえるだろう。
 「ごめんね、あなたの気持ちは嬉しいけれど、私、同性の人には興味がないの」なんて優しい言い方ができる余裕はなかろう。しかも、柳さん、そんな言い方で引き下がってくれそうな雰囲気ないし(^_^;)。

 実はもう、本書の内容をつぶさに見て行きたくないんだけど、それはなんでかって言うと、この人の喋ってることも内容も、とことん「鬱陶しい」からなのね。「怖い」と言ってもいい。
 基本的に、「生きる権利があるように、人間には死ぬ権利だってある」という主張には賛同できはする。
 けれど、柳さんの、ともすれば自殺を肯定するために粉飾を施し、自分勝手な理屈をつけ、美化しようとする語り口にはどうにもついていけない。
 私が「人が死ぬのもその人の権利」と言うのは、結局のところその人がなぜ死を選ぶのか、理由はその人自身にしか分らないと思うからだ。
 柳さんのように、「寺山修司は自我を守るために死んだ」「岸上大作はぶざまに生きることを拒否して死んだ」「円谷幸吉は誠実であろうとして死んだ」「岡真史くんは鋭い感性ゆえに死んだ」「太宰治は日常のしがらみに堪え切れずに死んだ」とやられると、「私はこんなに自殺する人の気持ちがわかるのよ」という思いあがりばかりが鼻について、「そんなに死ぬ人間の気持ちがわかるならテメエもさっさと死ねや」と暴言を吐きたくなってしまう。

 ハッキリ言うが、たとえ柳さんに何度となく自殺未遂の経験があったとしても、それでほかの自殺者の心理などわかったりはしない。絶対にわからない。
 そもそも人間に、ほかの人間の気持ちが「手に取るように」理解できるなんて思いこむ方が狂っているのである。人は、人とコミュニケーションを図るとき、結局どんなことをしてもこの人と理解しあえることはないのだ、という絶望から始めなければ、実は一歩も先に進むことはできない。理解できた、と思った時点で人間関係は終わるのである。柳さんはまさしく他人との関係を「終わらせて」いるのだ。そこにはもう柳さん一人しかいない。彼女が語っているのは自分のことだけなのである。
 こういう講演の依頼を引き受けたこと自体、柳さんの肥大化した自意識の表れだ、と見なすこともできよう。柳さんは他人のことを語っているようでいて、自分のことしか見ていない。もちろん、誰にしもそういう面はあるものだが、普通はそういう自分に気がつけば自ら一歩引くものである。
 それをこう露骨に出されると、引くのはこちらの方になる。アナタ、「ほーら、こんなに手首が切れちゃった」って見せびらかす女のソバにいたいと思いますか? 相手がどう言い返したらいいのか判らない状況を作り出して喜んでる人間がいれば、普通は誰でも逃げますって。

 なんだか『石に泳ぐ魚』、読まなくてもいいような気がしてきたなあ。
 もう自分のことを批判的に見る目も持たずただただ甘えた自意識を垂れ流すだけの文章って、読んでてツライからさあ。

2002年01月16日(水) どんぶりめしがいっぱい/『パワーパフガールズ<DCコミックス版>』1巻(クレイグ・マクラッケン)ほか
2001年01月16日(火) 雪の白樺並木、夕日が映える/『風の歌うたい』(吉田秋生)


2003年01月15日(水) アレももう幻の名作/『ふたつのスピカ』3巻(柳沼行)/『定廻り同心 最後の謎解き』(笹沢左保)

 そう言えば、今年の成人式は、去年に比べれば比較的おとなしかったそうですね。テレビでは、やっぱりバイクをパパラパパラパーってフカシてるアホが何人か映ってましたが、タイホされるほどのヤツは出なかったようで、どうやら若い人たちもなかなかオリコウになってきたようです。
 困ったねえ、これじゃオジサンたちが「近頃の若いもんは」って定番の文句が言えなくなっちゃうじゃないですか(^o^)。日々の生活に追われるばかりですっかり疲れ果てて、トウの昔にやる気も生きがいも失っちゃってるのに、とりあえずはトシ食っただけで手に入れた肩書きの上にノウノウとふんぞり返ってるだけの無能なバカオヤジどもにとってですよ、唯一、自己の存在を肯定できるのは、「若いヤツラより自分のほうが常識人」という錯覚の上にアグラをかいてられるときだけじゃないですか。
 そんなバカオヤジたちの姑息で淫靡で下らないささやかな楽しみを、若い人たちは奪おうってんですか。トシヨリは大切にしてくださいよ。
 須らく、若者は伝統的にアホをやり続けてほしいものです。どうせ10年経ったら自分たちが「近頃の若いモノは」と言う立場に回るんですから。


 大塚康生さんのホームページ『大塚康生のWEB峠の茶屋』の「いっぷくBBS」に、大塚さんご本人が映画『ルパン三世 風魔一族の陰謀』(1987)について、ちょっとビックリした「余談」を載せている。

 1、演出不在、シ−ン担当のアニメ−タ−が中心となってシ−ンごとの全コンテを切っている。
 2、予算の関係で声優を取り替えて不評を買った。
 3、技術的には宮崎さんが(ひそかに)褒めている珍しい作品。
 4、東宝と日本テレビの権利関係のいざこざから今後もDVD化等が望めない

 この『風魔一族』には「監督」表示はない。
 オープニングにクレジットされているのは「演出」として、大関雅幸氏の名前が挙げられている。ところが後年、大塚氏が『作画汗まみれ(改訂版)』の中で明かしたところによると、大関氏はテレビ畑出身でそれなりのキャリアはあったのだが(『銀河鉄道999』や『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』など)、切ったコンテがテレビ的な単純なもので、『風魔』の制作に当たっていたテレコムのスタッフにはあまりにも物足りないものであった。
 で、結局、大塚氏が「監修」という形で、実質上、大関氏は降ろされ、1番で語られたような仕儀に相成ったというわけである。……そう言えば、当時の『アニメージュ』には大塚さんのコメントは載ってたけど、大関さんのはなかったな(^_^;)。
 そのあたりの事情は既に知っていたのだが、2番の「声優変更」が「予算」の関係だったとはねえ。と言うのも、宮崎さんも大塚さんも前々から声優の変更はしたがっており、『カリオストロの城』も、声優を全部入れ替えたがっていたからである。
 『風魔』も既に「見たことない」若い人も多かろうから、参考までに声優がどう変わったか紹介しておこう。

 ルパン三世 (従来)山田康雄 → (風魔)古川登志夫
 次元 大介 (従来)小林清志 → (風魔)銀河万丈
 石川五ヱ門 (従来)井上真樹夫→ (風魔)塩沢兼人
 峰 不二子 (従来)増山江威子→ (風魔)小山茉美
 銭形 警部 (従来)納谷悟朗 → (風魔)加藤精三

 今やベテランの右の方々も、15年前ならギャラも安かったってことか。でも加藤精三さんみたいなキャリアのある人が混じってたら、これが予算のせいだとはフツーは気づかんて。
 不評を買った、というのは、私も目の当たりにしたことがある。
 ビデオが発売されたころ、知り合いの女の子を何人かウチに招いて、この『風魔』の上映会を開いたのだが、古川さんの声が発せられた途端、「エー!?」「ヤダー!」「ちがーう!」と、ブーイングの嵐だったのである。もちろん、事前に「声優は違うよ」と伝えていたにもかかわらずである。
 冷静に考えたら「ルパン=山田康雄」なんてのは、ただの刷り込みに過ぎない。それが証拠に、クリント・イーストウッドから山田康雄の声が聞こえてきたら「ルパンやん」と笑っていたアニメファンが当時は腐るほどいた。吹替え洋画ファンにしてみれば全く逆で、「なんでルパンがロディー(『ローハイド』)の声で喋ってんだよ」ってことになるのである。
 けれどだからこそ、洗脳されちゃってる人間には何を言ったってムダって雰囲気ができあがってしまっていて、『風魔一族』は不当に評価が低くなってしまっている。映画シリーズの中では唯一、五ヱ門を主役にした番外編的な造りで、小粒な印象は否めないが、そのアニメーションとしての完成度は『カリオストロの城』を凌いでいる部分も多々ある。特に、途中のカーチェイスと五ヱ門の殺陣は、テレビ・映画全作を通じて、最高レベルの作画がなされているのではなかろうか。宮崎さんが誉めてるってのも、宜なるかな。
 もちろん、声優の演技だって、先入観を取り除いて聞けば、全然悪くはない。というか、手抜きが当たり前になってた当時の山田康雄よりも、古川登志夫の若々しい声の方が遥かによかった。
 女の子たちが口々に文句つけてるのを聞きながら、アニメマニアならぬアニメミーハーには、モノを見る目がないんじゃねーか、と腹が立ったことを覚えている。

 さて、ちょっと気になったのは、大塚さんが「今の時期」にこの『風魔』の話を持ち出してきたのはどうしてかな、ということだ。
 つまりねー、全く同じような状況で、ジブリが「今」、映画を作ってるからなんだよねー。
 そう、『ハウルの動く城』での監督交代劇である。劇場映画作品もあるとは言え、前監督の細田守氏はもともとテレビの人である。あえて憶測だけでモノを言うが、細田氏の切った絵コンテ、ジブリスタッフから見たら「ナニこれ?」ってな出来のものに見えたんではないか。そう考えれば、宮崎さんが公式に発した「これは自分が監督をした方がいいと思った」というコトバの意味が納得できるのである。
 細田氏にそんなに実力がないとは思わないが(『ポケモン』も『どれみ』も、細田氏担当の回は絶品だ)、それでも宮崎さんの目から見たら「未だし未だし」だったんじゃなかろうか。
 大塚さんのこの発言、「アニメ業界って、こういうことよくあるんですよ」と、ジブリの件も似たようなもんだと匂わすための行為じゃないか、と考えるのは穿ちすぎかなあ。

 ああ、でもあの名作がDVD化されないとはなあ。
 これだけはLDボックスで買っておいてよかったってことかな。けれど、考えてみたら、劇場版はほかにも『ルパン三世(VS複製人間)』も『念力珍作戦』も『バビロンの黄金伝説』もまだDVDになってないんじゃないか。出来不出来はあるけれど、最近のテレビスペシャルに比べれば、これらの初期映画版のほうがずっとずっと面白いんである。
 『ルパン』の面白さは、やっぱり原作に第1テレビシリーズと劇場版で判断してほしいんである。


 職場に出てみたら、「今日は臨時の会議がありますよ」と言われて、イヤな予感がする。だいたい上司から出された「臨時」の会議が、あっさりと片付くわきゃない。たいていは何か無理難題を押しつけてくるのが普通だからだ。
 案の定、会議は6時過ぎまでかかる。
 まあ、詳しい内容は書いちゃうと私の職種がバレちゃうんで、ちょっとだけ「事情を変えて」説明すると、これまでウチの職場、業績が悪いとかなんとかリクツつけて、毎日ムリヤリ全員に1時間残業させてたのね。もちろん残業手当は出してたんだけど。
 でも、これはやっぱり正しいあり方じゃないんで、残業をやめようということになった。で、どうするかというと、残業時間まで正規の時間にすることにしたと。
 ……改善じゃないじゃん!
 もちろん会議は罵声が飛び交う大混乱。けど幹部連が意見を撤回する気配はまるでなし。会議後は同僚たちの「やめてやる」ブツブツがあちこちで聞かれたが、これって体のいいリストラじゃねーのかな。けど、部下をただの手ゴマとしか見てない上司のもとに、マトモな連中が残るとも思えんが。
 私ももちっと楽な部署に異動できるんなら、給料がちっとばかし下がっても文句はない。っつーか、まともな交通機関も通ってない山向こうまで毎日通わなきゃなんないのは、もうイヤだ(-_-;)。


 帰宅したらギリギリアニメの『ヒカルの碁』に間に合う。ちょうど「伊角編」のあたりをやってるのだな。
 ふとオープニングを見て、監督が神谷純さんからえんどうてつやさんに変わってることに気づく。ここしばらく見てなかったんだけど、どうやらもう変わって1ヶ月以上経ってるらしいぞ。
 また何かオトナの事情があるのかなあ、と勝手に思うが、ただ、初期の西澤晋さんのように「降ろされた」わけではないらしい。神谷さんは「監修」としてまだ名前がクレジットされている。これが最終回に向けてのスタッフ強化ってことならいいんだけど。

 ただでさえ体調が悪いのに、長引いた会議のせいで頭痛がひどい。
 空気の悪いとこに何時間も押しこめやがってよう。休憩もなし、茶の一つも出ねえ。それで何のアイデアが出せるかってんだ。
 なんだか失神するような感じで、8時には落ちていた。
 でも充分には眠れない。12時前に目が覚めてしまうから、結局翌朝にもう一度寝直し。こんなんじゃカラダのリズムが狂っちまうじゃないか。……ってもう狂ってるから風邪が治んないんだよなあ。


 笹沢左保『定廻り同心 最後の謎解き』(祥伝社文庫・560円)。
 再販本を除けば、これが笹沢氏379冊目の単行本、これから刊行予定の『海賊船幽霊丸』が380冊目。
 笹沢氏の絶筆である。
 笹沢氏が生涯400冊を目指して果たせなかった思いを綴ったエッセイ、『四百冊に達せず』も自筆原稿をそのままに収録しているが、衰え行く肉体と精神と葛藤しつつ、自らの無念を語るその周年、作家って商売ってのはやはり業なんだなあ、とつくづく思う。

 実質、最後の作品である『江戸艶女図絵 代理の花嫁』、果たしてこれが70歳を越えた人の筆かと驚くほどに艶っぽい。
 性に無知で、床入れもままならぬ花嫁のために、代わりに花婿と交合して見せる「介添女」。つまりなんですか、オボコ娘に「これはああしてこうしてこうするのよ」って手ほどきするっての?(・・;) ……あまりにもとんでもないんで、てっきりこれって笹沢さんの創作した設定かと思ったら、なんと実在した商売なんだって。『好色一代女』や『きのふはけふのものがたり』などにも表れているそうだが読んでないから知らん(^_^;)。
 川井屋の一人娘、おりんの代わりに介添を務めることになったのは、花婿の平八のかつての想い人、おさと。大木屋の末娘、おさとは七年前に嫁入りして、わずか四年で夫に死別し、以来一人身のままであった。おりんの花婿となる平八は、昔、大木屋に奉公していて、そのころからおさとの方も平八に恋い焦がれていたのだ。
 相思相愛の二人は、それとも知らず、別々の道を歩み、再びこうした奇縁で結ばれる。しかし、二人の睦み合いを陰から覗いていたおりんは、それが愛の表現とも知らず、恐怖を抱く……。
 平八とおさとは、おりんそっちのけで自分たちの営みに没頭しちゃうのだけれど、この描写がもう微に入り細に入り、くんずほぐれつねちっこくて、もしもこれを映像化するんだったら、ぜひともノーカットで30分くらい延々と撮ってほしいくらいだ。それにしてもねー、江戸時代だからしょうがないんだろうけど、アレの瞬間の声が「ああ、極楽」とか「ああ、堪忍」ってのは、なんと言えばいいんでしょうねー、エロスを感じる前に、うっかり笑っちゃいそうだよ(^_^;)。
 いや、ホントに笑っちゃうのは、この声を聞いたおりんが、「堪忍」ってのを文字通り受け取って、おさとが哀願してるのに平八が拷問し続けていると思いこんじゃうとこね。
 確かに、滑稽な勘違いではある。
 けれど、岸田秀曰く、「本能の壊れている」人間には。こういったこともままあることなんじゃないかって気がするね。ましてや江戸時代の商家の一人娘ときたら、世間の淫らなウワサなんかそうそう耳に入ってこなかったんだろうし。
 さて、ストーリー的には、この先、平八、おさと、おりんの三角関係はどうなっちゃうんだろう、と気を揉むところである。近松門左衛門だったら、即、「道行」ってことになっちゃうんだろうけれど、笹沢さんは意外なくらいにあっさりと結末を付けてしまう。
 初夜の後も何度も逢瀬を重ね、狂おしいほどに求め合った平八とおさと、誰に諌められるというわけでもなく、さばさば別れてしまうのである。おりんもそのころにはようやく真実に目覚めていた。というわけで、三方めでたしめでたし。
 あまりにもあっけらかんとしていて、なんだかキツネにつままれたような結末ではある。もしかしたら、体力的にも気力的にも、これ以上の描写を笹沢さんはできなくなっていたのかも、とゲスの勘繰りをしたくもなる。
 けれど、笹沢さんの考える「江戸の粋」ってのが、こういう「潔さ」にあるんじゃないかな、とも思うのだ。本来、平八とおさとは、結ばれるはずのない二人だった。それが、ふとした縁で再び巡り会えた。けれど、これは本来あってはならぬことである。そのことを二人は自覚していた。初めから二人は、これが別れるための出会いであることを知っていた。そういう縁もあることを知ることが「粋」の本質なんじゃなかろうか。
 笹沢氏のダンディズムは、よく木枯し紋次郎に譬えられたが、原作の紋次郎は乾いているようでいて意外と女々しい。自分の無力に背を向けて逃げている印象すらある。紋次郎のその後ろ姿は、粋になりたくてなりきれなかった笹沢さんの投影、とも見える。紋次郎に比べれば、平八もおさとも実にサッパリしていて気持ちがいい。笹沢さん、この二人を書きながら、内心、羨ましく思ってたんじゃなかろうか。
 380冊の著書だって相当なものである。なのに400冊に届かぬ自らを悔しく思う自分自身を「オレもまだまだ粋にゃなれねえな」と自嘲する笹沢さんの姿が、平八とおさとの向こうに見えるような気がする。


 マンガ、柳沼行『ふたつのスピカ』3巻(メディアファクトリー/MFコミックスフラッパーシリーズ・540円)。
 前巻でアスミを思いっきり落ちこませた“悪役”佐野先生が、あっさりと“改心”して退場。……作者が優しいせいなんだろうなあ、どうも徹底した悪人ってのを描けないのだね。ドラマ的にはこれって「弱点」になっちゃうんだけど。
 心を閉ざしていたライバル・マリカも、もう心を開き始めた。まだ3巻なのに展開速すぎ……っつーか、人を信じ過ぎてないか? この作者。
 こうなるともう、あと1巻くらいで終わらせちゃった方がよくないかなあ。長いドラマを引っ張るってことがこの作者には難しいみたいだし。

2002年01月15日(火) チュパカブラってなんだよ/『機動戦士ガンダム ジ・オリジン ―激闘編― SECTION �機伸供�
2001年01月15日(月) 雪は降る、貴女は来ない/『ウルトラマン対仮面ライダー』(池田憲章・高橋信之)


2003年01月14日(火) ある「B級」監督の死/『風雲児たち ワイド版』9巻(みなもと太郎)/『復活! 大人まんが』(夏目房之介・呉智英編)ほか

 深作欣二監督が12日午前1時、前立腺がんのため死去。享年72歳。
 昨年12月21日からの定期入院中に肺炎を併発して、一時は意識が混濁する状態となっていたが、年明けには驚異的な回復力を見せ、監督復帰とのニュースも流れていた。
 多分、そのニュースを知ったほとんどの人が「希望的観測だろうなあ」と思ってたろう。もちろん、テレビのコメンテーターはそんなことはオクビにも出さず、「お元気になられるといいですね」とかなんとか言ってたのだ。ニュースが事実を報道するわけじゃないってことは、こういう人の生死に絡んだときには特に感じるね。
 撮影中の『バトル・ロワイアル�供戮魯螢蓮璽汽襪鰐別�に行われたが、実際に撮入したのは2シーンのみだそうである。深作監督の長男・健太氏が監督代行していたが、そのまま監督交代、ということになるのだろう。
 普通、監督の死で中断した作品を他の監督が引き継いで制作、ということになると、どうにもぎこちないものになるものだが、私は結構期待している。
 それはもちろん加藤夏希が出演しているから……というのもちょっとあるが(^o^)、もともとトンデモナイ映画ばかり撮ってきた深作作品のこと、前作を見れば、仮に深作監督が元気で作品を完成させたとしても、絶対ムチャクチャな映画になったろうことは間違いないのだ。息子さんが更に輪をかけてトンデモナイ映画にしたところで、「深作監督が撮ってればなあ」なんてことになるわきゃないんである(それでもそう言うヤツはいるだろうけどな)。

 訃報には「巨匠」とあるが、62作と多作のほとんどが東映ヤクザ映画路線のプログラムピクチュアである。この20年ほどの深作監督の作品はたいてい見ていて、数えてみたら20本ほどになるのだが、実は『仁義』以前の初期のチープなギャング・ヤクザ映画のほとんどを私は見ていない(ともかく両親が私がヤクザ映画を見ることを極力嫌ったのである)。普通20本もその監督の作品を見ていれば、いっぱしの口が利けそうなもんだが、そこでどうしても一歩引いてしまうというか、批評しにくく感じてしまうのは、以前も書いたことだが、深作監督の本領は、「B級映画の監督」「プログラムピクチュアの監督」というところにあり、その部分を見ずに評価するのでは、その本質を見誤るのではないか、という気がしてならないからである。深作監督を「巨匠」と呼ぶことはかえってシツレイになってしまうのではないか。
 黒澤明が『七人の侍』を制作したときに、「日本映画はお茶漬けサラサラ、たまにはステーキを」と語っていたが、深作監督はステーキを作ったことは一度もない。それは文芸作品と言われている『火宅の人』だってそうである。あれを松坂慶子や原田美枝子のヌードを期待せずに見に行った客がどれだけいるというのか。『青春の門』は杉田かおるの、『魔界転生』は佳那晃子の、『人生劇場』は中井貴恵の、『四谷怪談』は高岡早紀のスケベシーンが楽しみで私は映画館に足を運んだのだ。
 ……大学にいたころ、『人生劇場』をテレビで見た友人が、「中井貴恵のセックス、スゲエなあ!」と往来で恥も外聞もなく叫んでたこと思い出したぞ。そいつは今、長野県で教師をやってるが(^o^)。
 ええと、他に誰のヌード撮ってたっけ。いや、ともかく80年代の「深作映画」と言えば、ひたすらヌードだったのである。どこまでソレに拘っていたかというと、アイドルゆえに脱がすことができなかった薬師丸ひろ子に、『里見八犬伝』ではアノ表情だけはさせていたくらいなのだ。つくづく深作さんってバカだと思うが、それに付き合っていた私もつくづくバカである。そして、当時、そんなバカが日本中に量産されていたのだ。70年代、落ちこむだけ落ちこんでいた日本映画の興行収入が80年代になって少し上回ったのは、劇場アニメブームが始まったこともあるが、深作監督の功績のヌード映画攻勢もあったと言えるのではないか。功績なのかよソレ、ってツッコミはあるだろうが。
 ポルノ映画でもないのに、これだけ女優を脱がすことに命をかけてた映画監督を、私は他に知らない。例えて言うなら深作作品はハンバーグ定食やトンカツ定食、焼肉定食みたいなゴテゴテした定食ものばかりで、ラーメンならギトギトのトンコツ、カレーライスでも辛口か激辛なのである。甘口な映画など、一本もない。
 「なんだこのトンカツ、油浮き過ぎじゃねえかよう」と文句をつけながら楽しむのが深作映画には一番似合っている。

 キネマ旬報ベストテンで、深作監督が1位を取ったことは一度もない。読者選出ベストテンでは、『仁義なき戦い』と『火宅の人』で、二度1位になっている。


 咳がまだ止まらない。
 先週末に仕事を休んで、あちこちに迷惑をかけたんで、関係の同僚に詫びを入れて回るが、そのときもゲホゲホグヘグヘやってるのである。なんだか回りに風邪を移しそうで、もうちょっと休んでた方がいいのかも、とも思うのだが、もうみんなカツカツの状態で仕事してるんで、これ以上は迷惑をかけられないのである。
 結果的に三連休って形になってはいるが、映画に行く予定もキャンセルして、ウチにずっといたので、もちろん遊んでたわけではない(本は読んでるが)。これだけ休んでりゃいい加減治ってもよさそうなものだが、全然その気配がない。いったいどういうことなんだか、自分でもよくわからない。

 溜まった仕事を片付けるために、帰りが遅くなる。
 今日はさすがにしげに「迎えに来て」とは言えない。というのも、しげ、いつもは昼間に寝て、夜働いているのだが、今日は昼間寝られなかったはずだからなのだ。
 この前、天井から雨漏りしてたのの修繕に、業者の人が来て張り替えをすることになっているからである。もちろん、仕事も休めないし、私の送り迎えなんぞをしていたら、寝る時間がますます削られてしまう。
 というわけで、今日はしげと全く顔を合わせない一日になってしまった。
 こういう日は結婚以来、数えるほどしかない。……なんてことを書くとまた「ケッ、この愛妻家が」とか思う人もいるかもしれないが、ただの恐妻家なので、そこんとこ、勘違いしないように。
 
 帰宅してみると、なるほど、天井にずっと渡っていたヒビが消えてなくなっている。狭っ苦しい部屋で作業も大変だったんじゃないかと思うが、そこがやっぱりプロの仕事なんだろうなあ。
 もっとも、こういう事故が今後も起こらないという保証はないけれど。
 
 今日はコンビニに寄る元気もなかったので、しげリンガーハットから買って来ていたチョコレートカステラを晩飯がわりに食う。カロリー的によくないことは判ってるが、もう何日も冷蔵庫の中に入れっぱなしで、賞味期限も迫っていたのだ。こういうときに食べ物を捨てられないのは、オジサンってことなんだろうな。
 風呂に入って、『踊る踊るさんま御殿スペシャル』を見始めたらすぐに、そのまま落ちてしまった。疲れが取れてないんだなあ。


 雑誌、『アニメージュ』『ニュータイプ』2月号。
 『アニメージュ』は、突然「コラム」のページを全て最終回にしてしまった。
 大地丙太郎、大森望、石田敦子、伊藤伸平、水玉螢之丞の各氏の連載、全て打ち切り。どーゆーこと?
 いや、人気がなかったってことなんだろうが、私ゃ単にアニメ新作情報が知りたいだけでアニメ雑誌を買ってるわけじゃないんだが、こういうアニメ関係者のコラムが楽しみで読んでるオジサンの読者は購買層として眼中に入れないってことなのかな。この分だと、もう一つの楽しみ、小黒祐一郎さんの『この人に話を聞きたい』の先行きも危ない感じである。

 その『この人に』の今回のゲストは平田敏夫さん。監督としての最新作はもう4年も前の『Petshop of horrors』なので、なんだか無聊をかこっている印象があったが、マッドハウスで原画やコンテなどの仕事はしているらしい。
 平田さんが東映動画で制作した『グリム童話 金の鳥』(1987)は、何年もお蔵入りになった末、ひっそりと公開されたので見てる人が少なかったが、宮崎駿たちベテランの退社で、興行的にはともかく作品のレベルという点では凋落の一途を辿っていた東映動画が、久々に会心の出来映えの作品を送り出したことで印象に残っている。けれどインタビュー読むと、アレ、ほとんどマッドハウスで作ってたんだね。
 必ずしも傑作ばかりを作ってるとは言えなくて、『ボビーに首ったけ』『火の鳥 ヤマト編』『カッパの三平』『お星さまのレール』なんてのはどこか腑抜けたところもあった。
 けれど、1作目が思想的にガチガチだった『はだしのゲン』を、『2』では見事に躍動感溢れる少年の青春アクションとして描いて見せたその演出力などは、「平田敏夫」の名前をアニメ史上に残す価値があると充分にかんじさせてくれていた。私ゃ、マッドハウスの演出家の中じゃ、りん・たろうや川尻善昭より、よっぽど平田さんの方を監督として上だと思っている。
 なのにだよ、監督として何本もの傑作を作って来てる人がさぁ、『メトロポリス』や『千年女優』では、ただの一スタッフとして参加してるんだよ。ああ、なんてもったいない!
 言っちゃなんだが、その二本、平田さんが監督した方がよっぽど出来がよくなったんじゃないかと思う。この意見には賛同者、結構いると思うぞ。小黒さんが平田さんを取り上げたのも、「才能ある人を飼い殺しにするな」ってマッドハウスに対する批判の意味も込めてるんじゃないかな。

 『ニュータイプ』の方、新連載で庵野秀明の『エヴァンゲリオン』リニューアルのレポート。
 作画のデジタル化だけかと思ったら、なんと音響も5.1チャンネル化、再アフレコまで行ったとか。すごいなあ。
 音に拘る、というのは、絵的なモノについ目が行きやすいアニメの場合、しばしば忘れ去られがちなのだが、実は基本中の基本なんである。こりゃ庵野さん、腰を据えてこのリニューアルに取り組んでるな。もっとも、ご本人のエッセイによると、新作が一つポシャったおかげで『エヴァ』に取りかかれるようになったって事情だそうだが(^_^;)。
 確かに庵野さんには新作を作ってほしいと思うけれど、これはこれで期待はしてしまう。当時の騒動があまりにデカ過ぎて、「今さらエヴァかよ」って思う人もいるだろうが、もう随分時間が経ったんだし、冷静な目で普通に「面白いアニメだった」てこと認めていいんじゃないかねえ。
 ともかく私は、LDの時には間に合わなかったリテイクカットが挿入されて再構成されるんだったら、それだけでもうれしくなっちゃうけどね。


 マンガ、みなもと太郎『風雲児たち ワイド版』9巻(リイド社・680円)。
 何巻か感想書くのすっ飛ばしてるような気もするが、まあいいや。
 時代的には田沼意次の失脚と、松平定信の寛政の改革が始まるあたり。私の子供のころには、まだ田沼意次は「ワイロ政治」の代表みたいな印象が強かったのだけれど、近代経済の先駆者としての評価が高まった背景には、この『風雲児たち』の宣伝効果も大きいんじゃないかな。
 これ以前に田沼をよく描いた作品、ということになると、NHKドラマ『天下御免』で平賀源内のブレーンとして登場させていた例くらいしか思いつかない。あのドラマじゃ、仲谷昇が遠山の金さんみたいな役回りで田沼を演じてたように記憶している。
 何の本だったか、さくまあきらが「歴史上、無名な人物にばかり光を当てているのがいい」と誉めてたが、えらくトンチンカンな誉め方である。そりゃ、何百人というキャラクターが登場しているから、中には「へえ、こんな人がいたの」って人物もいないわけじゃないが、扱われている人々は、たいてい誰でも名前くらいは聞いたことがある有名人ばかりである。
 この巻に出ている主要人物をちょっと挙げただけでも、大黒屋光太夫、最上徳内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、大槻玄沢、司馬江漢、林子平、高山彦九郎といった面々である。この人たちをみんなひっくるめて「無名人」だの「地味」だなどと言うんだったら、さくまさんの学生時代の日本史の成績は赤点だったに違いない。
 みなもとさんのスゴイところは、これらのキャラクターにたびたびギャグをやらせてフィクションに見せかけていながら、実は、要所要所でちゃんと歴史的事実を踏まえているところである。
 今巻でも、林子平が高山彦九郎について、「この男は泣くよりほかに何の脳みそもないっ」とバカにしてるセリフ、いかにもマンガチックなんだけれど、これがホントに林子平が語ったコトバなんである。「寛政三奇人」とひとくくりにされちゃいるが、勤皇思想に凝り固まった高山彦九郎と、世界の情勢を客観的な理性で見通していた林子平とでは、まさしくその脳みそに天と地ほどの差がある。それをマンガのキャラとして描き分けているみなもとさんの力量、もっともっと評価されていいと思うのだがなあ。


 マンガ、夏目房之介・呉智英編『夏目&呉の復活! 大人まんが』(実業之日本社・1575円)。
 「大人マンガ」と「成人コミック」は全く違うものである。
 ……ということも、説明しなきゃ分らない人が圧倒的に増えちゃったんだよなあ。実際、「大人まんが」という響きから真っ先に連想されるのは、私より上の世代なら『漫画讀本』あたりなんだろうけれども、30代より下の人なら、「それナニ?」って言いそうだ。
 呉さんは「大人まんが」を「成熟した笑い」「子供には分らない深みのある笑い」と評しているが、実際、ホントに今時の「子供(必ずしも成人が「大人」とは限らない)」は、それがどういうものか全くピンと来ないし、存在自体を知らない人も多い。
 東海林さだお、加藤芳郎、谷岡ヤスジ、黒鉄ヒロシ、岩本久則(ちゃんと「キューソク」と読もう)、園山俊二、馬場のぼる、滝田ゆう、久里洋二、古川タク、砂川しげひさ、二階堂正宏、杉浦茂、タイガー立石、秋竜山、矢玉四郎、長新太、横山隆一、杉浦幸雄、佐川美代太郎、高新太郎、みなもと太郎、永井豪……。さて、アナタは彼らの大人マンガをどれだけ読んだことがありますかな? 「『ギャートルズ』をアニメで見てた」、なんてのはダメですよ。

 一作だけ、その内容を紹介しよう。
 東海林さだおの『緑の水平線』である。

 夫が庭で、木舟を作っている。
 妻がそれを見て、「ボートなんて作ってどうすんだよ、このバカ」と悪態を吐く。
 夫はただ黙々と木舟を作り続ける。
 そして、完成した木舟を持って、はるか沖へと向かって行く。
 妻はそのときになって初めて慌てふためき、夫に追いすがる。
 警察を呼び、仲人を呼び、夫を止めようとする。
 しかし夫は言う。「しかたないんだよ」
 夫は沖に出る。
 カモメが飛んでいる。
 空が青い。
 夫の舟は、海に沈む。
 波紋だけが、そこに残っている。

 どうだろう、この「味わい」は? 作品自体についての解説はもうしたくないので、ぜひとも現物に当たっていただきたい。

 これら「大人まんが」の特徴はなんなのか。
 確かに、少年マンガにも青年コミックにもない「味わい」があるのはその通りなのだが、それはいったいどのように発酵し、芳醇な香りを生み出すまでに至ったのか。
 夏目さんも呉さんも、作品の紹介はしていても、そういった歴史的な流れについては触れていないので、その点についてだけ、ちょっと注釈を付け加えてみたい。
 ここで紹介されている作品は、もともと海外の作家たち、チャールズ・アダムス(あの『アダムス・ファミリー』ですな)やペイネ、コービン、トポール、サンペ、シャバル他、ナンセンスマンガの系譜の上に生まれてきたものばかりなのである。『漫画讀本』は、創刊時からこういった海外作家たちの作品を次々に掲載していた。その影響のもとに日本のナンセンスマンガ家たちが育っていったのだ。
 例えば、本書では紹介されてないが(版権の関係だろう)、あの長谷川町子だって、「大人まんが」の代表選手である。
 彼女をアニメの『サザエさん』のイメージで、ほのぼの家庭マンガを描いてた人、なんて思ってたら大間違いで、原作はもっともっとナンセンス色や時評性が強いのだ。もう随分昔、『磯野家の謎』なんかでその「大人まんが」としての一端が紹介されたりはしてたが、結局、長年培われてきた大衆の勝手なイメージを覆すまでには至らなかった。そのあたり「寅さん」が「庶民派」と誤解されてる点とよく似ている。原作のサザエさんって完全にオバタリアンだし、マスオさんだってしょっちゅうマジで浮気したがってるのにねえ。
 だいたいやねー、『いじわるばあさん』自体、ボブ・バトルの『意地悪爺さん』をルーツとしていることを考えれば、長谷川さんが「大人まんが」の描き手だってことに気づきそうなもんなんだけどねー。
 愚痴はともかく、若い人には特に感じてほしいことなんだが、いっぱしにマンガが好きだ、マンガを語ろう、と思ってるなら、こういう「大人」の世界もあることをちゃんと知っといてもらいたいものである。
 と言うより、もともとマンガは「大人のもの」だったのだよ。だって、「子供」の概念が生まれるのは西洋も日本も近代以後のことで、マンガの歴史はそれよりもずっとずっと古いんだからね。マンガの歴史を語るのに、「大人まんが」は避けて通れない。一読を乞うものである。

2002年01月14日(月) 原作と映画の間/映画『走れメロス』/『朱色の研究 夕陽丘殺人事件』(有栖川有栖・麻々原絵里依)ほか
2001年01月14日(日) 雪の断章/アニメ『ポール・グリモー短編集〜ターニングテーブル〜』


2003年01月13日(月) またまた風邪悪化/『別冊宝島Real まれに見るバカ女』/『宇宙をぼくの手の上に』(山本弘)ほか

 ネットカフェの話、続く(←マネって言うなよ)。
 と言うのも、気がついたら午前サマだったからなんだな。
 夜8時に入って、外に出てみたらもう2時。6時間もいたのかよ。それで4千円もしたのか。
 考えて見たら、その間、映画を一本見て、私もしげもあとはマンガ読みまくりだったのだから、6時間経ってたってのも当たり前なのである。昨日の日記ではもうメンドクサイので省略したけど、他にも『イリヤッド』とか『ラブひな』とか読んでたんである。……そんなん全部感想書いてる時間なんかねー(^_^;)。
 帰宅して、昼まで昼寝。いや、朝寝か。
 夜更かしのせいなのか、風邪がぶり返している。やはり油断は禁物だったなあ。


 マンガ、手塚治虫『ブラック・ジャック B・J生い立ち編+2/ピノコ誕生編+2』(秋田書店・各880円)。
 コンビニで「文庫版未収録作品特別掲載」の文字に惹かれて購入。
 でも『人間鳥』も『化身』も、雑誌掲載時に読んじゃいるのだ。両作とも初期作品で、人間を鳥に改造したり、馬の脳を人間に移殖したりと、非現実的でSF色の強い作品だったので、「ヒューマンドラマ」の印象が強くなった単行本には未収録だったのだろう。でも『ブラック・ジャック』ってもともとそういう傾向が強かったんだよな。
 オマケのB・J&ピノコのキューブリック人形ってのがエラいチャチ。こんなん付いて何か楽しいんだろうか。海洋堂の作った食玩のB・J、造型が気に入らなかったんだが、これに比べりゃ天と地ほどの差がある。反作用的に海洋堂の株が上がっちゃうなあ。


 『別冊宝島Real043 まれに見るバカ女 社民党議員から人権侵害作家、芸なし芸能人まで!』(宝島社・1260円)。
 すげえ企画だなあ、こういうのが通るようになったか。
 思いっきり女性差別を目的とした本ではないか、とお腹立ちのフェミニストの方もいらっしゃるかもしれないが、いやいやいや、短絡的にお怒りになってはいけませんよ。「出る杭は打たれる」の譬え通り、叩かれるためにはまず「出」なきゃならない。どんなに「芸なし」とさげすまれようが、とりあえず「顔出し」さえしていれば、話題にはなる。話題になればテレビか雑誌か、どこかで使ってもらえる。これもまた「生活の知恵」というやつでありましょう。
 さて、今回取り上げられた60人の女性の一人一人についてカンソウを述べる余裕はないので、何人かをピックアップ。とりあえず田嶋陽子や辻元清美ほか政治家関係は省こう。

 柳美里の『石に泳ぐ魚』、実は未だに読んでない。
 けれども、裁判のヤリトリなどの一部を抜粋して、彼女がいかに「人権侵害作家」であるかを追求した石井政之氏のレポートを読むと、このひたーやっぱし、原告のプライバシーなんか屁とも思っちゃいねーよな、と思っちゃうね。
 いや、対象書を未読であることも無視して、ここはもう柳美里を「モデルの女性の人権なんか知ったこっちゃねえ」と思ってるクソ女だと規定してしまおう。「文学かプライバシーか」という問題について考えるなら、その方がスッキリするからだ。
 社会常識的に判断すれば、柳美里が原告の女性の身体的障害や出自について何の相談もなく小説化したことは、どう考えたって人倫に反する行為である。
 スゲーな、と思ったのが、「顔面の腫瘍は人にさらされているわけだからプライバシーに当たらない」という裁判中の柳美里の主張だ。これをして石井氏は「身勝手な理屈」と怒りを表明しているが、そりゃ当然だわな。
 で、「柳美里ってそんなバカなのか」、と判断してしまえばそれで終わりなのだが、ちょっとそこでヒト呼吸置いて考えてみたいのは、この屁理屈、柳さん本人もムチャクチャだとわかってて、ワザと言ってんじゃないかってことなんだね。
 私もある件で昔、裁判の証人として立った経験があるので言えることなんだけど、たとえどんなに常識的にはムチャクチャな理屈であろうと、被告の弁護に立つ場合には、ほんのちょっとでも検察側に「弱み」を見せてはならぬ、と弁護士さんからクギを刺されるものなんだよね。
 極端な話、誰が見ても明白な形で犯罪を犯したことがわかっている場合でも、例えば、殺人の現行犯で逮捕された被告の弁護に立ったときに、「やったことは悪いことだけど、本人も反省してますから情状酌量を」なんてナマヌルイ懇願をしたところで、そんなの何の弁護効果もないのだ。
 じゃあどう言えばいいかっていうと、「被告には殺意はなかった」とか「偶然の事故だ」とか主張しなきゃならないのね。大事なのは、「たとえそれが事実に反することであろうと、被告を救いたいという意志を表明すること」、これなんだね。アナタ、世間一般に流通してるアマイアマ〜イヒューマニズムとか良心なんてものを持ってたら、裁判にゃ勝てやしないんですぜ。

 柳美里の目的は自作を出版することである。
 自らを「文学者」と自認している人間が、目の前に書いてみたい題材が転がっていた場合、たとえモデルとなる人間の人権を傷つけることになることがわかっていても、それを果たして書かずにいられるものなのかどうか。
 もともと、「作家」だの「文学者」なんて存在は、常識や道徳観にとらわれないところに位置しているものだ。彼らを突き動かすものは自らの正義のみであり、だからこそ、従来の規範や既成概念を破壊する方向に往々にして進んでしまう。いい悪いではなく、そうでなければ「作家」は「作家」としてのアイデンティティー自体を断たれてしまう。
 柳美里は、本心では「人権」なんてどうでもいいと思っているのだ。というより嫌悪しているといってもいい。裁判での「身勝手な理屈」はもちろん柳美里の本心の声ではない。自らの著作を何が何でも出版したいための方便である。
 柳美里は少なくとも「バカ女」ではないと思う。外道だし、クソ女だし、多分既知外でもあろうが、彼女が「文学者」であるならば彼女の取った行動は全て当然のことだ。ただ、私が柳さんを無条件に「弁護」してるとは思わないでほしい。いくら「作家なら当然の行為」だからって、社会的に許されることではないから裁かれているわけなんでね。
 たとえ改訂版であっても、『石に泳ぐ魚』は出版された。改訂前の形で出せなかったことに柳さん本人は不服かもしれないが、うまいこと裁判官をだまくらかしてそこまでこぎつけたんだから、これはもう柳さんの「勝利」である。実際の作品を読んで面白いと思うか腹を立てるかはまた別の問題。
 ただ、そこまで「作家」に拘るのであれば、「人権無視して何が悪い」と開き直って弾圧食らうくらいのことはしてほしかったな、とも思う。それが、「文学者」だの「作家」だのという人種に余計なステイタスを与え過ぎてきた戦後の思潮に対するカウンターカルチャーになるのではないかと思うからである。
 仮に、『石に泳ぐ魚』が出版停止になったって、これだけネットがオープンになってる社会なら、改訂前の作品が闇に消えて幻になるってことはそうそうないだろう。いずれ「ほとぼりが覚めたころ」に、どこかの誰かがアップしちゃうのではないか。
 でも、その際、柳さんには、せっかく自分の作品がしっかり流通しているのだから、絶対に著作権侵害裁判なんかは起こさないでほしいもんだね(^。^)。
 
 さて、もう一人だけこの本の中から、かつて私の青春の象徴でもあった中島梓(栗本薫)女史について触れておこう。
 今となってはねー、恥ずかしいことなんだけどねー、彼女が『文学の輪郭』やら『ぼくらの時代』で華々しく登場する以前、雑誌『幻影城』で「早稲田のキャピキャピ女子大生がミステリ語ってマース」ってな雰囲気のまあ青い青い文章綴ってたころからのファンだったからねー。ファン歴の長さだけで言うなら、たいていのヒトには負けない。
 そのころの彼女、化粧も今ほど濃くないし、何より痩せておられたし(^_^;)、いや、結構かわいいおネエさまだったのよ。友人に「栗本薫ってかわいいよな」っつったら、「贔屓目でモノ言うな」って言われてたけど。
 でも、初期の小説のいくつかには本気で感心していたのだ。『時の石』には泣かされたし、伊集院大介シリーズ、特に『優しい密室』と『鬼面の研究』は当時の私にとってベスト・ミステリと言ってもいいくらいに感心させられた。
 けど、みなさんもご承知の通り、この方が作品世界に露骨に「趣味」を持ちこんできたあたりから段々オカシクなってきたんですねー。
 呉智英さんがこの『バカ女』で指摘してる通り、「肥大化する自意識のバケモノ」になっちゃったんである。いちいち作品を挙げてくのがメンドウなんで省くけれども、なんかもー、読む小説読む小説、キャラクターどうしのヤリトリがネチネチと鬱陶しくなってきてねー、愛の言葉ささやいててもさぁ、それが相手に対してじゃなくて、作者自身に向けられてるものだってのが見えてくるのよ。「アナタを好きな私はこんなにステキ」って感じ? ……いや、もう文章は引用しません。あまりにツラすぎるから(-_-;)。とりあえず、私の言いたいことがよく分らない人は、『終わりのないラブソング』あたりでも読んでみてくださいな(実はどの作品でもいいんですが)。私はアレだけは二度と再読する気になれません(T∇T)。
 「この人はダメだ」って思っちゃった決定的なヤツが『マンガ青春記』。
 この半自伝の中で、中島さんは、自分に自信を持てない人に対して、それまで自分が何をし、何を見聞きし、何を読んできたか、全部書きだしてみよう、と言っている。そこから自分の「核」になっているものが見付け出せるだろう、ということね。
 この方法、確かに悪くはないのだ。人間のアイデンティティはつまるところ自らの「記憶」に頼るしかない。筒井康隆も、自伝を書くよう依頼された時に、自らに与えられてきた「情報」のみで綴る、ということをやっている。「ああ、私って、結構いろんなこと経験して来てるんじゃん」、と思えれば、それは確かに自信回復につながるだろう(思い出せないとかえって自信喪失は深まるが)。
 でも、そのときに大事なことは、あくまで自らを客観視して、過去の自分と今の自分を繋いでいるものが何かを判断しなきゃならないってことなんだよね。過去の自分の中に埋没してしまうと、自分に自信のなかった人ほど、反作用的に自己の全面肯定に陥ってしまう。「私ってステキ」から抜け出せなくなるのだ。中島さんはまさにその、落ちちゃいけない落し穴に落ちてしまった。
 そこから私は中島さんの本が辛くて読めなくなってしまったのだ。結局、あの人の小説は全て「私はこんなにかわいいの、かわいいの、かわいいの」ってことを手を変え品を変え語っているに過ぎない。それを延々読み続けるなど、マリー・ローランサンの絵を何十枚何百枚と見せられ続けるようなものだ。
 栗本さんがそういうスタイルで作品を書き続けることに文句をつけるつもりはない。けれど、彼女がたびたび起こしてしまう舌禍事件、これは自分自身のファンタジーの中に入りこんでしまっている人間が往々にして犯してしまう失敗の典型なのだ。呉智英さんは「覚悟なき暴論」と批判するが、そもそもファンタジーの住人に「覚悟」などはない。覚悟を持てと、あの人に要求するんですか(^_^;)。
 今さら栗本さんに何かを言ったところでどうしようもない。『グイン・サーガ』は100巻を越えても続けられるらしいが、こりゃもうね、神棚に飾って、手を触れないようにしとくしかないよね。


 ようやく手に入れた『SFJapan』6号(徳間書店・1800円)。
 今回の特集は、「翻訳の載らない翻訳SF特集」と題して、翻訳SF名作のタイトルから連想した新短編を、現代のSF作家さんたちに書かせるという趣向。

 とりあえず、SFファン必読なのは、火浦功の『火星のプリンセス』であろうか。
 と言っても、あの人が既に作家としてダメだということを確認する意味での「必読」と言うことだが。
 引用が簡単なので、全文を紹介しよう。

 『2001年宇宙の旅』火浦功
 「去年じゃん」
            おわり

 『火星のプリンセス』を書こうとあれこれ考えてるうちに〆切りが来ちゃったんで、こーゆーのを書いたそうです。
 ある意味こんなのを堂々と書けるという神経がスゴイんだが、1800円の定価のうち、30円くらいは返せと言いたい(-_-;)。

 山本弘さんの『宇宙をぼくの手の上に』、もちろんフレドリック・ブラウンの短編が元タイトルだが、ストーリーは一切原典と関係がない。
 読んでつまんなかったらどうしよう、と考えていたが、幸いそれは杞憂に終わった。
 書きだしが魅力的かどうかで、その作品が秀作かどうかの判断ができる、とはよく言われることだが、SF作品は特にその傾向が強い、というのが私の持論だ。
 冒頭の、「灰色のコートの刑事が私のアパートを訪ねてきたのは、高速シャトルシップ<ダート>が惑星シュードベリ1のトリポリウム採掘基地に到着した時だった。」、ここから既に「仕掛け」があるのに気づいて、思わずニヤリとした。。これはいわゆる「叙述のトリック」である。
 「刑事が私のアパートを訪ねてきた」時と、「シャトルシップが基地に到着した時」は、同一時間軸にはあっても、「世界」が違っていたのだ。よく読めば、「刑事」と「シャトル」の違和感からそのことに気づくのだが、さりげない筆致が効果的で、ミステリを読みなれてない人は結構引っかかってしまうだろう。上手いなあ。

 主人公の深宇宙探査船<セレストリアル>のキャプテン、「ジニ・ウェルナー」 ―― というのはネット上のハンドルネームで、本当はごく普通のOL、椎原ななみのアパートに、刑事が殺人事件の捜査に現われるところから物語は始まる。
 この刑事、ネットで同好の士を募ってリレー小説を書いているななみに対して、捜査そっちのけで「その歳でマンガのごっこ遊びは恥ずかしいんじゃありませんか?」なんてオタクに対する偏見丸出しの説教を始める。
 いるよな、パソコンやってる人間を勝手に「ヒキコモリ」と決めつけるヤツ(`´)。そりゃ、そういう人間も中にはいるんだろうが、全てのパソコンユーザーを十把ひとからげにして括りたがるのは、自分の理解の範疇の外にある人間を蔑むことで自己防衛を図ろうとするさもしいヤツの心理である。
 以前、私の務めてたとこの上司が全くこういう外道で、しかも職場の若い女の子にセクハラばかりしてやがったからなあ。なるほど、引きこもらないヤツは女にすぐ手が行くらしい(^o^)。
 このあたりの描写、山本さんもいろいろイヤな目に遭って来たんだろうなあ……( ̄-  ̄ ) 。
 それにしてもこの刑事、聞きこみの相手をムッとさせるような捜査してちゃ、刑事としてはヘボなんじゃないか。果ては生半可な知識で「ゲームだのインターネットだのに1日何時間も熱中してると、頭がバカになってくるんだそうですよ」と来たもんだ(例のトンデモ『ゲーム脳』論ですな)。仕事ほっぽらかして余計なこと言ってんじゃねえ。~凸(-~~- )。

 あとのストーリーをはしょって紹介するとこんな具合。
 刑事からななみは、彼女の主催する<セレストリアル>に参加していた少年、谷崎祐一郎(HN「ショウン」)が、殺人事件を起こして逃亡中の身であり、自殺の恐れもあることを聞く。谷崎少年は、自分をいじめてきた同級生たちを、思い余って殺してしまったのだ。
 彼女は初め、ネット上では優しくおとなしい「ショウン」がそんな殺人を犯すなど信じられなかった。しかし、それがいよいよ事実だと判ったとき、なんとか彼の命を救えないかと懸命に思案する。
 そして彼女の思いついた方法というのが、リレー小説の続き、危機に陥った宇宙船クルーの命を助ける展開ををショウンに書かせることだった。たとえ虚構の中であっても、誰かの命を救う行為に従事することが、現実の彼の自殺を思い留まらせることに繋がるのではないか……。
 このアイデアはいったんは効果をあげる。どこにいるかわからない谷崎少年は、「ショウン」として<セレストリアル>に書きこみを始めたのだ。
 それでも物語のなかに「自殺」を持ちこもうとするショウンの書きこみを見て、ほかのクルーたちは次々とショウンを救う手段を提案していく。その結果、ついにショウンは自首することを決意する。

 多分、私がこのアイデアで小説を書けば、ラストは悲惨なものになっていたと思う。谷崎少年、パソコン抱いたまま死んでるシーンで終わり、とか。
 山本さんのつけた結末は、一見すると「甘い」し「安易」だ。「現実には、そう、うまくいくわけないじゃん」と批判することも簡単だろう。
 けれど、それならば私がつけたようなアンハッピーエンドは、「甘く」もなく、「安易」でもない、と言いきれるのかどうか、と考えてみたらどうだろう。どうもね、それもやっぱり「現実」にだらしなく依拠しただけの「安易な」結末なんじゃないかな、という気がしてくるのだ。
 そのときになって初めて、山本さんの意図が、そしてこの小説の「価値」が見えてきた。
 確かに、ラストのアイデア、生体宇宙船である戦闘艦ドームズデイ・シップを「改心」させるために、クルーたちの全データを送信するというアイデアは、SF設定として面白くはあっても、理想的に過ぎる、という気はしないでもない。なんか映画『ウォーゲーム』の焼きなおしみたいだな、という感触もあるし。
 でもって、実際にジームズデイ・シップは、光り輝く純白の宇宙船に変貌し、戦闘艦としての呪いから解放されるのだが、ネットでの仮想現実とは言え、ご都合主義の謗りを受ける危険は充分にある。
 何より、こんなことで現実の谷崎少年が、自首する可能性は低いのではないか?

 けれど、やはりこの物語にアンハッピーエンドはふさわしくないのだ。
 実体のない言葉だけのやりとりに過ぎないと批判されることも多いネットの世界だが、ならばネット社会には全く希望は見出せないものなのか。
 ネットに居住する人全てが2ちゃんねらーであり(^_^;)、便所の落書き的意見の垂れ流ししかできないものなのか。
 そんなことを言い出すなら、そもそも人間どうしのコミュニケーション自体が、単なる本人どうしの思いこみに過ぎなくなってしまうのではないか?
 パソコンを通じて知り合った、顔も見えない人と人との間にも心の交流がありえる、と考えて、何が悪い?
 現実的、と言えば聞こえはいいが、ただニヒルを気取ってるだけで何一つ理想を語らない姿勢が、果たして何かを生み出すものなのだろうか。
 確かに、現実は甘くない。
 けれど、理想を語らぬ現実と、信頼や友情を熱く語る虚構のどちらが魅力的か、と問われれば、私は躊躇なく、後者である、と断言する。
 理想を語らない作家もいる。それはそれで、それがその作家の姿勢だから別に文句はつけない。けれど山本さんは「理想を語る」作家なのだ。なのに「あの人は理想を語りすぎる」という批判をすることは、そもそも的外れだろう。
 安易な自己犠牲で宇宙船クルーが死にまくる映画『アルマゲドン』に対する山本さんの怒りもここにはあるような気がするな(^o^)。

2002年01月13日(日) カメラ小僧にご用心/DVD『エコエコアザラク』/『ななか6/17』5巻(八神健)ほか
2001年01月13日(土) 正月の半ばに/『天才伝説 横山やすし』(小林信彦)


2003年01月12日(日) ヤマさんが見ていた/DVD『パニックルーム』/『快傑! 鈴鳴高校探偵部』1〜3巻(日下部拓海)ほか

 昨日の『今日も映画日和』について、もう一つ書き忘れてたネタ。
 第二章「43年目のマーズ・アタック!」のところで、川本三郎さんがこう語っている。
 「『ゴジラ』って、空襲と原爆の映画でしょう。これは私の持論なんですが、ゴジラというのは海で死んでいった兵隊たちの霊なんですよ。ゴジラを倒す科学者、平田昭彦も戦争で負傷して、片目を失っている。それで河内桃子演じる婚約者を諦めて、最後、ゴジラとともに海に沈んでいく。あれは『海ゆかば』ですね」
 対談は1997年だから、金子修介がこの記事から『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』のネタを拾った可能性は高いなあ。まあ読んでなくて、たまたま同じことを考えついただけかもしれないけれど、こういうのはあくまで「解釈」として考えるレベルだから面白いんであって、映画として見せるもんじゃないんである。
 百歩譲って、天本英世に「ゴジラは英霊の残留思念だ」と語らせるにしても、あんなにくだくだしく喋らせちゃいけない。新山千春に会ったときにそのことをヒトコトだけ言わせて、あとは一切黙秘。この言葉の解釈はほかのキャラにまかせて、もしゴジラが本当に怨念の塊なら、それをどう倒せばいいのか? って方向にドラマを持っていかなきゃなあ。
 後半、普通の怪獣プロレスものにしちゃうし、普通の人間の武器でゴジラが倒されるんだったら、その残留思念って設定、なんの意味もなくなっちゃうじゃん? ゴーストバスターズ連れてきた方がまだ整合性が合うぞ。
 だからヘタにコリクツひねったらボロが出るんだってば。「なぜだかわかんないけどゴジラは倒せない」っての、ちゃんと絵で見せようよ。


 俳優の藤岡弘さん、芸名を「藤岡弘、」に改名してたんですって。まあ、ビックリ。
 てっきり「モーニング娘。」のマネかと思ったけど、改名してたのもう十数年も前だっんですって。
 オフィシャルサイトを覗いてみたら、確かに全部「藤岡弘、」って読点が付いてるわ。けど、句点ならともかく、読点だとそのまま文章続けて読めちゃうから、まさか「、」まで含めて芸名だなんて、全然気づかないわよ。でも、もしかしたら、世間のオタクのみなさん、とうに気づいていらしたのかしら。私だけが知らなかったんだったら恥ずかしいわ。どうしましょ。これからは「、」を付けるから許してね。
 藤岡さんの話だと、1986年に『SFソードキル』に主演したのが改名のきっかけだったんですって。渡された初稿の台本が、あまりにサムライの姿をゆがめて書かれてたんで、通訳をつけて日本の伝統文化の中でのサムライの役割や地位などを粘り強く説明して、台本を大幅に書き換えさせたんですって。
 だったらそもそも、「凍りづけの侍が現代に蘇える」って設定もなんとかしてほしかったわよねえ(^o^)。
 でも『レッドサン』の時も三船敏郎が同じように困らされたそうだから、日本映画ってやっぱりハリウッドには全然浸透してないんじゃないかしら。
 で、それがどうして改名に至っちゃったかっていうと、そこから藤岡さんの「侍道」が始まったからってことらしいのよね。これって大竹しのぶが北島マヤにのめりこんで「マヤは私」なんて言っちゃったようなものなのかしら。それとも「サムライ」演じると日本人って、先祖が別に侍じゃなくっても、みんなその気になっちゃうものなのかしら。漁師の息子のクセに「サムライ」って言ってたジャイアンツの選手もいたわね。アレはフィクションだけど。
 実在人物では、緒形拳が『MISHIMA』の時にカンヌで「アイ・アム・サムライ」とぶって、観客にシラケらけられちゃったそうね。あの人のご先祖さまってサムライ?
 「昔の武将はいったん“点”を打って決意した。流されないで立ち止まって自分を見つめる、という覚悟と『いまだ完成せず』の意味も込めて」
 って、藤岡さん仰ってるけど、実際に名前に点を打った侍なんていたのかしら? 「宮本武蔵、」とか「柳生十兵衛、」とか聞いたことないんだけど。
 いえいえ、私、別に藤岡さんの改名に文句をつけるつもりなんかないわよ。だって藤岡さん、素敵なんだもの♪
 でも「、」にこんな意味があるってことは、「モーニング娘。」ってもう終わっちゃってるってことになるのかしら。読みにくいから省略してるけど、実はしげの名前にも「。」がついてるのよね(^o^)。
 それはそうと、どうして女コトバなの? なんて気にしないでね。何となくこの話題を書こうと思ったらこんな感じになっちゃっただけなんだから。


 昨日からずっと徹夜で劇団の台本を書いてたんで、すっかり疲れた。
 タイトルは『アプリコットティー』ってのになったらしいが、初稿の段階でも、完成稿でも、アプリコットティーなんて全く出て来ない、どころか作品世界を象徴するものでもなんでもない。
 タイトル決めに私は全く関与していなくて、しげの話によれば相談した中で一番マシだったのがこれだと言うが、なんでこうみんなセンスがないかな(-_-;)。これなら『北京の秋』ってつけたって全然構わないくらいである。
 もともと私が付けていた仮タイトルは『挽歌』であった。
 これがみんなに実に評判が悪かった。単純過ぎるということなのか、意味が分らない、ということなのか。ちゃんと作品テーマに沿っちゃいるし、今回、ある意味古臭い純愛ドラマなんで、60年代の昼メロ的ニュアンスを狙ったのである(もちろん内容は昼メロそのまんまでなくて、捻っちゃいるが)。
 私もすごくいいタイトル、と思ってたわけじゃなし、このタイトルで行け、と押しつけるつもりはなかったが、でも「アプリコット〜」なんてアホなタイトルにされると「何でやねん」と言いたくはなる。
 会場への申し込みのためにタイトルが必要だったんで、急遽決めちゃったらしいが、「ヘタの考え休むに似たり」である。何もいいタイトルが思いつかないなら、そのまま通してほしかったなあ。

 しげ、台本が上がったのを見て、「〆切までに仕上がったのって珍しい」、とあまり嬉しくない誉め方をしている。実を言うとまだまだ誤植やら何やら一杯あるのだが、そこはもう現場で言いやすいように直してもらえばいいことなんで、特に注はつけない。
 ともかく、しげは台本を持って練習に出かけた。
 キャストのみんながどう反応するか聞いてみたいが、あまり下らん直しは言ってきてほしくないもんだ。
 疲れきった私は、昼過ぎまで爆睡。

 今回のキャストは4人、よしひと嬢、穂稀嬢、しげに客演のラクーンドッグさん。
 帰宅したしげから、練習の様子を聞いてみたが、一番感想を聞いてみたかったラクーンドッグさん、よしひと嬢、二人とも急に都合が悪くなって来てなかったそうである。それは残念。改訂があるとしたら、早めに読んでおいてもらった方がいいんだが。
 「特に感想はなかったの?」
 「一回通して読んだだけだし。あ、でもハカセ(=穂稀嬢)、『ヤマさん』のこと知らなかったよ」
 公演前に台本の中身について詳しく紹介するわけにはいかないのだが(カットされることもあるし)、台本の中に、「話は全部聞かせてもらったぜ」「わあ、ヤマさんね」「誰それ?」というヤリトリがあるんである。
 穂稀嬢、ハタチかそこらだから、多分『太陽にほえろ!』ももう知るまいと思ってワザと書いたんだが、やっぱり知らなかったか。
 私の書く台本、最近こういう「世代間のギャップ」ネタが多くなってるんだが、若い人たちのあまりにモノシラズな状況に対して、ちょっとばかし腹が立ってるんだな(~_~;)。
 できるだけ昔ネタを持ちこんで、少しは文化ってものの意義を考えてもらいたいなあって狙いなんだが、ボケ女の穂稀嬢にも少しは通じたかな、と思って、更にしげに状況を聞いてみたのだが、しげは私の想像を上回るとんでもないヤツであつた。
 「で、ホントのことは教えてあげたんだろ?」
 「うん、教えたよ」
 「ちゃんと『太陽にほえろ!』のネタだって言った?」
 「いいや、それは言ってない」
 「……なんで? じゃあ、なんて説明したの?」
 「あのね、『ヤマさんとチョーさん』って漫才コンビがいるんよ」
 「……はあ?」
 「ヤマさんがどこからともなく現われて『話は聞かせてもらったぜ』って言うもんだから、チョーさんが『アンタとはやっとられんわ!』と突っ込むという」
 「全然違うやんか! ……じゃあ、露口茂の名前も下川辰平の名前も出さなかったんか」
 「あ、それは出した」
 「余計悪いわ!」
 穂稀嬢、しげのデタラメ、信じちゃってるんだろうなあ。

 でもって、しげの感想はどうだったかというと、穂稀嬢演じるキャラが「パラレルワールド」を「パラソルワールド」と言い間違えるギャグが気に入ったそうである。全く、なんでこういうマイナーなネタばかりに、しげは反応するんかな。いや、一応NHKで放送されてたんだから、マイナーといっちゃ悪いかもしれんが、少なくとも安孫子さんの代表作とは言えないよなあ。


 夕方から外出、博多駅の紀伊國屋に寄ったあと、8階の食堂街で、お好み焼きの店に入る。
 名のみ聞いたことのある「もんじゃ焼き」を生まれて初めて食べる。要するに「薄いお好み焼き」なわけだね。スペシャルを頼んだので具は肉、餅、エビ、卵ほか盛り沢山で実に美味い。値段はお高いが、食い出したらちょっと病みつきになりそうである。
 チーズ嫌いのしげは、品書きに「チーズ」と書かれていないお好み焼きを選ぶ。ところが何を間違ったのか、運ばれてきたお好み焼きに、調理人さんが豪勢にチーズをまぶし始めた。しげもその場で「チーズは入れなくていいです」と言えばいいのだが、こういうときにしげは絶対にタイミングが掴めなくて言いそびれてしまうのである。
 こんがり焼けたお好み焼を目の前にしてもしげが全然箸をつけないので、その時になってようやく私も、チーズが入ってて食べられないのだ、と気がついた。
 「食べんと?」
 「チーズが入っとるもん」
 「チーズケーキは食えるやん」
 「チーズが固形じゃなければいいとよ」
 お好み焼きもチーズは溶けて固形じゃなくなってると思うが。
 しげの偏食はただのワガママなので、私も改めて別の料理を頼んでやったりしない。一応、私のもんじゃ焼きを代わりに食うかどうか聞いてみたが、「アンタのやけん」と食べようとしない。人の親切も無にするというなら、それ以上、気遣ってやるこたぁない。しげの残したお好み焼きを、遠慮なく食べることにする。
 ところが、私がいかにも美味そうに食ってるのを見て悔しくなったのだろう、しげ、「チーズは食えない」と今言った口で、「これ以上は渡さないぞ」という形相でお好み焼きを食べ始める。結局、しげは食えないはずのお好み焼きを半分以上は食っていた。ホントにチーズがダメなら、こんな食い方はまずできまい。やっぱりしげの場合はただの好き嫌いである。
 イジマシイ、とはこういうことを言うんだろうな。


 そのあと、しげも今日は仕事が休みということなので、ネットカフェ「POPEYE」で時間を潰す。
 しげ、以前からぴんでんさんに「『女帝』はイイですよ!」と吹きこまれていたので、1巻から食いいるように読み耽っている。いくら「面白い」と言われたからって、ホントに面白がるなんて、つくづく暗示にかかりやすいというか、騙されやすい女だ(^_^;)。
 まあねー、アレを読んじゃイカン、コレを読んじゃいかんなんて注文つけようって気はないけどよー、『女帝』だの『野望の王国』に入れこんじゃう女って、どう思いますか、特に妙齢の女性の方。
 って、このサイトを覗いてる人で、「妙齢の女性」ってのがどれだけいるというのか、そしてその中のどれだけが『女帝』の存在を知ってるのか。
 いや、だから「しげはヘンだ」ってことになるんだけど。

 DVDもここには置いてあってヘッドホンで試聴できるんだけど、数が少ない。『キャッツ&ドッグス』か『パニックルーム』にするか、しげに聞いてみたら、てっきり『キャッツ』の方にするかと思ったら、『パニック』だと言う。
 「『パニック』怖いかもよ?」
 「でも、『キャッツ』は見たくないから」
 好き嫌いの基準というか、根拠がわからん。
 ともかく、プレステ2が置いてあって利用しないのも損なので、二人で『パニックルーム』を見る。
 コケオドシの無意味な演出が多くて、全然怖くない。ホラーものかと思ったら、『暗くなるまで待って』式の泥棒サスペンスだったんだね。
 ジョディ・フォスター主演ってことで結構期待してたんだがなあ。ストーリーは陳腐だし展開は先が読める、読め過ぎる。ジョディ・フォスターの娘が糖尿病で、インスリン注射が必要なんだけど(なんだか『MASTERキートン』読んだんじゃないかって設定だ)、これを助けるのが3人組の泥棒の中で唯一人間的な感情を持ってる黒人の技術屋。あとの二人が、アタマの悪い金持ちのボンボンにただの殺人鬼だもんなあ。誰が助かって誰が死ぬか、ハナからバレバレだよ。
 それくらいならまだしも、パニックルームに閉じ込められて、泥棒たちにガスを送り込まれて、ジョディがそれに反撃するために火をつけるって展開は何なんだよ。普通自分が焼け死ぬだろ(^_^;)。これも相当なトンデモ映画であった。


 マンガ、叶恭弘『Tokyo ants 叶恭弘短編集2』(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 表題作は巨大コングロマリットに所属するトラブルシューターグループ「ants」の活躍を描くもの。主役が見習いの熱血バカで、失敗しながらもその情熱が、初め冷徹だった他のスタッフの心を和ませていく展開も定番。
 それよりは、人の嘘を見破る能力を持つ燕馬を主役にした連作、『ENMA』『enma』の方が面白かった。
 巻末の『蝶 -swallow tall-』は、これも人の死が「蝶」の姿となって見える超能力を持つ少年の話。けれど定番に見えてラストのドンデン返しは小味が利いている。叶さんはよくあるラブコメしか描けない、と思いこんでると足下掬われるぞ。


 マンガ、日下部拓海『快傑! 鈴鳴高校探偵部』1〜3巻(実業之日本社/MBコミックス・各410円)。
 日下部先生、最近エンピツの日記も覗けないくらいお忙しいようだけれど、大丈夫なんかな。
 巷の本屋ではご著書をなかなかお見かけしなくて、感想書くこともできませんでしたが、ようやくネットカフェで3冊だけ。でも4巻がなぜか置いてないです(+_;)。
 私立とは言え、学園内で「探偵部」なんて人のヒミツを探るような部活動が認可されてるとは思えないのは欠点だけれど(野間美由紀『パズルゲーム☆はいすくーる』もそこはテキトーで、「自由な校風」ということで誤魔化している)、そこに目を瞑れば、心理描写がリアルで説得力がある。学園ものに拘らずに、もう少し対象年齢を上にしてもよかったんじゃないかな。ミステリとしての骨格もしっかりしていて、もちっと店頭に出回っててもいいんじゃないか。
 メガネで容姿に自信がなく、笑顔を見せないヒロインの葵が、朱雀たち探偵部のメンバーと触れ合う中で、どんどんかわいらしくなっていく様子にはまるで自分のムスメを見るように嬉しくなってしまった。いや、実際にムスメはいないんだが。
 でも部長がホンモノの「猫」っていったいどういう設定なんだろう(~_~;)。

2002年01月12日(土) 寝(られ)る場所そろそろ作らんとな/『仮面ライダー激闘ファイル』(岩佐陽一)/DVD『本陣殺人事件』ほか
2001年01月12日(金) 一陽来復


2003年01月11日(土) 妊娠来たかと鸛に問えば/『今日も映画日和』(和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資)/『ワイルダーならどうする?』(キャメロン・クロウ)

 タイトルは西村知美さん妊娠記念。
 「鸛」は「コウノトリ」と読みます。私も初めて知った。あまりその点、突っ込まないでね。
 いや、別に深い意味はないです(^_^;)。
 西村さん、不妊治療が失敗続き、流産も二度経験して、あきらめてたところの自然妊娠だそうである。
 こういうニュースを聞くと、「不妊治療」ってアテになるんかな、という気がどうしてもしてしまう。医学の発展にイチャモン付ける気はないけど、医者が自分たちの研究してることをきちんとオープンにしてないことが誤解を呼んでること、多すぎないか。
 ウチにも子供いないけど、しげは「不妊治療してまで子供ほしくない」って言ってるもんなあ。なんか怖そうだし。
 それは私も同じ考えなんで、お医者さんにはさ、『ブラック・ジャック』で本間丈太郎が「人の生き死にを医者がどうこうしようというのはおこがましいとは思わんかね」って語ってるセリフ、よーく考えてほしいんだけどね。少なくともこれをただの姿勢の問題に過ぎないとか、哲学的なだけで現実性のない言葉って受けとってるような医者にはかかりたくないよ。
 ラエリアンムーブメントのクローンがどうたらって話もよ、クローン技術があいつらに可能かどうかってこと以前に、クローンに関する知識そのものが一般化してないじゃないかよ。本気で「自分と全く同じ『記憶』を持った人間が生まれる」って信じてるヤツいるんだぞ。だからあんなフツーだったら東スポでしか扱わないようなガセが一般誌や全国ネットのニュースになっちまうんだよ。
 それにしても、クローンに反対してる方も賛成してる方もどっちも宗教がらみってか。こうなると信教の自由の保障自体、いっぺん考えなおして、お布施の3分の2は税金で徴収するくらいのことしなきゃならんのじゃないかね。で、国自体が宗教国家ってとこは問答無用で滅ぼすと(^o^)。
 ……地上から人間がいなくなるな。
 
 
 明日が劇団の練習日、台本も今日が〆切ということなので、ひたすら朝から書いて書いて書きまくる。
 疲れて風呂に入って、もう1回書きだして、合間に本読んで。
 なんとか目途がついたところでひと寝入り。


 和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資『今日も映画日和』(文春文庫・660円)。
 オビには「心から映画を愛する3人だから、こんなにたのしい! SF超大作から青春映画、西部劇に法廷ものまで、語った映画実に1200本!」
 珍しく、惹句に掛け値なし、このお三方の対談本なら、1200本でも少ないくらいだろう。

 書かれたもの、語られたものを読んで、ああ、この人はちゃんと映画を見てるんだなあ、と感心し、そして尊敬する評論家って、ホントに数が少ない。
 そりゃ、どんな批評だって、最終的には個人の主観なんだから、何言ったって構いはしない。けれど、あるジャンルの作品について語ろうと思えば、そのジャンルについての基礎知識が必要になる場合ってのが必ずあるのだ。それを無視した批評や論議は、どんなに感動的な筆致で書かれていたとしてもクズである。

 例えば、あちこちで話題になった、『アルマゲドン』問題。
 あれを「コメディである」と語る人がいたけどさ、そう主張したいんだったら、そもそもコメディってのが作り手の意図はどうあろうと、観客が笑えりゃそれでいいんかってことまで含めて論議しなきゃならなくなる(そう言えばあれ見た感想、日記に書くのケロッと忘れてたな。いろいろ腹立つ描写があったんで描く気が失せたんだろう。今からでも書いたがいいかなあ)。コメディってのはそんなもんじゃないよ、ということで「バカ映画」とか「トンデモ映画」という呼称をしてる人が多かったと思うんだけれど、「作り手が確信犯だから」ということで「コメディ」と言いはってたんだよ、あのアホ連中はさ。果てはあの映画を非難してた人たちに向かって「映画の見方を知らないヤツラだ」とか悪態ついてたしなあ。そりゃ、どっちの話だよ。本気でその件について論議するなら、その「映画の見方」ってことについて、作品論、作家論、読者(観客)論、全ての立場から論破してやってもいいぞ。
 でも、どうせそういうヤツラは、たいてい自分の知識のなさを棚にあげて、「あなたの話題にしていることは私にとってはどうでもいいことなんです」「結局は主観の相違ですね」とか言って、逃げるんだよな。だったら世の中に「客観描写」なんてものは存在しないってことになるだろう。それは「映画」ばかりでなく、芸術作品、引いては人間自体の否定だ。
 そんなヒキコモリの言い訳みたいなモノイイするんだったら、最初から土俵に登ってくるんじゃねえや(`´)。
 百歩譲って、その「確信犯だから」って主張を受け入れたってさ、別に確信犯がバカじゃないってことにはならないんだから、やっぱりコメディとしても駄作だとしか言えないんだが。私ゃあれ見て、笑う気にすらなれなかったよ(-_-;)。

 じゃあ、そんな映画の見方もわからないシロウトやエセ評論家どもとは一味違う人たち、ということになると、私にとってはこれはもう3人しかいないのである。
 荻昌弘、淀川長治(ボケる前)、そしてこの瀬戸川猛資さん(小林信彦や森卓也あたりが次点。あとは十把ひとからげ、水野晴郎やおすぎ、襟川クロなんかは論外である)。
 でも三人ともすでに故人。なんか最近、故人の話ばかりしてるなあ(T-T)。

 川本三郎さんが、あとがきで瀬戸川さんに対してこう語っている。
 「瀬戸川さんは博識だった。ミステリ、SF、映画に関して、実によく知っていた。この三つのジャンルは、子どものころから好きでないと深い知識が得られない。学校での勉強とはわけが違う。大人になってからのにわか知識ではだめだ」
 まず、この文章に反発を抱いて、「大人になってミステリやSFや映画を好きになっちゃいかんのか」なんて思う人間は、そもそも大人ではない。いやもうはっきり言って超低級のバカであって、私ゃ口も利きたくないよ。
 何歳で何を好きになったって構わないが、そんなことを話題にしてるわけじゃないじゃん。知識や判断力について、子供の頃から読んでる人の方が一日の長があるのは当たり前だって話をしてるんである。たいていこんなこと言ってるやつは、本も読まず、映画も見ず、自分のバカを開き直って肯定するためか、本好き映画好きをからかうためにこんな言い訳をしてるんである。要するに「勉強できないガキが『数学できんとがなんで悪いとや』と叫ぶタワゴト」から一歩も出ちゃいないんである。
 瀬戸川さんの『夢想の研究』(創元推理文庫)を未読の方は、ぜひ一読していただきたい。映画一本を見て語るために、どれだけの知識が必要となるか。

 本書の内容について語りだすと、これも果てしなく続きそうである。
 いやはや、私ごとき浅薄な人間が口を差し挟む余地など本来はないのだが、対談本の唯一の問題は、話の流れで、もっと語ってほしい話題がサラリと流れてしまうことがある点だ。
 例えば「スクリーンの中の酒場で会おう」の章で、和田誠さんが「チャップリンの初期の短編で、冒頭で奥さんが喧嘩して出ていってしまう。次のカットでチャップリンの後ろ姿が映って、こう肩を震わせている。誰が見ても泣いてるんですよ。で、カメラが前に回るとカクテルを作っている(笑)」
 この映画のタイトルが脚注でも紹介されない。編集者に知識がないと、こういう「穴」が往々にして起こるんである。
 答えは『のらくら(“THE IDLE CLASS”)』。私が劇場で見たときには『ゴルフ狂時代』と解題されていた。
 普通、「チャップリンの初期短編」という言い方をすると、これはメーベル・ノーマンドあたりと組んでいたキーストン社時代(チャップリンも日本では「アルコール先生」と呼ばれていたころ)や、エッサネイ社時代、せいぜいミューチュアル社時代(エドナ・パーヴィアンスとのコンビが最も多かったころ)までのもの(概ね1914年から1917年)を指す。長さも2巻ものが多く、20分程度が普通だった。従って、1921年、ファーストナショナル社制作で3巻もの32分であるこの『のらくら』は、ちょっと「初期短編」とは言いきれないのである。
 和田さんも相当な映画ファンではあるのだが、こういう間違いは淀川長治さんなら絶対に犯さない。これが「一日の長」ってやつなのだな。

 瀬戸川さんの見識に驚いたのは、「法廷から正義が消えた」の章で、アガサ・クリスティー原作(『検察側の証人』)、ビリィ・ワイルダー監督作『情婦』のラストシーンについて触れているところ。
 私もあの映画は何度も見ていたのだが、全く気づかなかったことを指摘してくれていた。
 ……ここから先は、『情婦』を見てない人は絶対に読まないように。(V^−°)イエイ!

 最後の最後のドンデン返しのあと、レナード・ヴォール(タイロン・パワー)に裏切られたと知ったクリスチーネ・ヘルム(マレーネ・ディートリッヒ)が、レナードを“そこにたまたま置きっぱなしにされていた証拠のナイフ”で刺す。ところが、それは、やはりレナードにまんまと一杯食わされた弁護士のウィルフリッド・ロバーツ卿(チャールズ・ロートン)の「作為」であったというのだ。

 瀬戸川「ロートンが片眼鏡(モノクル)持ってたでしょ。あれでね、こう(とおなかのあたりで両手で眼鏡を動かす)やっているシーンがあるんですよ。その先にナイフがあるんだよね。ディートリッヒに、ここにナイフがあるぞ、と示してるわけ。それで、ディートリッヒはカーッときて、刺す。そういう流れになってるの」
 川本&和田「えーっ?」

 うわあ、川本さんも和田さんも気づいてなかったのか。
 私も驚いて、慌てて『情婦』のDVDを引っ張り出して見返してみた。
 すると……まさしくその通りだったんですね。( ゜.゜)……ポカーン。
 なんで今まで気がつかなかったのか。確かにロートンは「片手で」モノクルをぶら下げ、回転させている。その反射光が、机の上のナイフを照らして……って、問題はその位置だ。
 ナイフは左画面の下ギリギリのところにあって、最初、ウチのテレビのモニターでは左端画面が切れていてそれが見えなかった。普通のテレビサイズだと、ちょうど画面が切れる位置にこの光は映るのだ。それがどうしてわかったかと言うと、パソコン画面で見なおしてようやく左画面の切れない位置を確認できたというわけだ。
 川本さん和田さんは、当然初見は劇場でだろう。これは想像だが、劇場ではその光、下手の袖幕に隠れて見えず、それで川本さんも和田さんも気がつかなかったのではなかろうか。私も基本的に「映画は劇場で」と考える方だが、実のところ、この上映条件に関して言えば、画面のサイズばかりでなく、明るさ、音響等について列悪な環境の劇場は、昔から腐るほどあったのである。
 この「反射光の画面切れ」は、断じてビリー・ワイルダーのミスなどではない。これこそが「確信犯」である(『アルマゲ』賛美者は「確信犯」って言葉もこういう具合に使ってほしいものである)。
 『情婦』の制作は1958年、カラー映画が普通になり、テレビもお茶の間の寵児となっていた時代であれば、自作の「画面切れ」についてもワイルダー監督は何度も煮え湯を飲まされているはずだ。そんな状況にあって、あえてモノクロ・ヨーロピアンビスタサイズで撮影したワイルダー監督が、「画面の両端が切れることの実作での弊害」を演出してみせたと考えるのは、決して的外れではなかろう。
 瀬戸川さんは、舞台版『検察側の証人』の脚本と舞台も見て、その上で「これはクリスティーの創作ではなくワイルダーの演出である」とはっきり断言してるんである。
 ……いやね、あのジジイ、それくらいのことは絶対にするヒトなんだよ(^_^;)。そう断言できるのは、ワイルダーの映画をずっと見続けている人になら、説明は要らないだろう。そう判断できるのが本当の意味での映画を見るための「知識」というやつなんだよ。


 積読の山の中から、キャメロン・クロウ著・宮本高晴訳『ワイルダーならどうする? ビリー・ワイルダーとキャメロン・クロウの対話』を引っ張り出し、当該部分に当たってみる。
 ワイルダーはロートンの演技を絶賛してはいるが(クライマックスシーンを二十通り演じ分けてみせ、そのどれもが一つ前の演技を上回った!)、光の演出については触れられていない。ちゃんと聞いてくれよ、キャメロン・クロウ。

 この本で語られているロートンの最晩年のエピソードは、涙なしには読めない。
 ワイルダーの『あなただけ今晩は』にロートンは出演する予定だった。
 しかしそのころ既にロートンはガンに冒されていた。ロートンはワイルダーに伝えた。
 「少しすればよくなる。四月ではなく、夏の終わりに来てくれ」
 夏の終わり、ハリウッド大通りのロートン家をワイルダーは訪ねた。
 体重が60ポンド(27キロ!)減っていたロートンは、プールサイドを看護士に付き添われて歩いてみせた。けれど、最後の数歩は息も絶え絶えだった。
 「医者の指示は一つ残らず守ったんだ! 看護士も四六時中ついている! だから9月には万全だ!」
 それを聞いたワイルダーは答える。
 「すごいじゃないか! 続けるんだな! じゃあ、9月から始めよう!」
 ロートンが亡くなったのは、その一週間後のことである。

 映画に関する本を読むと語りたくって仕方なくなるなあ。
 もちろん、この本を読んだら、ロートンのほかにも触れたくなる人々がいくらでもいるのである。いや、一つ一つのエピソードの面白いこと。
 ジャック・レモン、ジョー・E・ブラウン、I.A.L.ダイアモンド、マリリン・モンロー、アーサー・ミラー、シャーリー・マクレーン、ウォルター・マッソー、オードリー・ヘップバーン、トニー・カーティス、ピーター・セラーズ、ピーター・ローレ、セシル・B・デミル、チャールズ・リンドバーグ……。
 とても語りきれないことの中で、少しだけ触れたいのは、ワイルダーが会社とトラブッて編集を放棄し、本編の三割が失われた『シャーロック・ホームズの冒険』である。見たことのある人にはわかると思うが、あれはいいところもたくさんありはするのだが(マイクロフト・ホームズ=クリストファー・リー!)、ホームズファンにはイマイチの評価だったりする。しかし、もしもカットされたフィルムが見つかれば、もしかして評価は逆転するのではないか。
 そういう努力をこそ、映画会社はしてほしいものである。

 ワイルダーの語る「最高の映画」は『戦艦ポチョムキン』。
 自作の傑作は『アパートの鍵貸します』『お熱いのがお好き』『サンセット大通り』の三本。
 傑作コメディと認めるものは『イヴの総て』『雨に唄えば』『フォレスト・ガンプ』『恋愛小説家』『フル・モンティ』。周防正行監督の『Shall We ダンス?』も傑作と認めてくれている。
 「いいコメディはまじめに監督しなくちゃいけない」
 このセリフ、聞かせてやりたいヤツラって、やたら多いような気がするな。

2002年01月11日(金) 先陣争い雪隠の役/『雪の峠・剣の舞』(岩明均)ほか
2001年01月11日(木) 一週間が長いなあ/映画『ノース 小さな旅人』


2003年01月10日(金) また仕事休みました/『ドラゴンボール完全版』1・2巻(鳥山明)/『プリティフェイス』2巻(叶恭弘)ほか

 朝から咳が止まらない。
 やっぱり昨日、しげとやり合ったのが悪影響を及ぼしているのである。
 仕事を休んで近所の医者へ。
 皮下注射を打ってもらうが、あまり利いた気がしない。

 積文館に寄って、本を買う。
 食事はガスト。
 隣りの隣の席で、子連れの客がネット配信システム“プラスe”で『ドラえもん』ばかり見ている。そう言えば、例の井上喜久子お姉さまが口汚く罵ってくれる「りょー子先生の診療室」の新作がもう配信されてるはずだが、残念ながら座った席にディスプレイは設置されてなかったのだった。
 ……全席に付けてくれよ。

 帰宅して寝こむ。
 またしげにお握りを作って貰う。
 風邪の悪化はしげのせいなんだから、せめてこれくらいはしてもらわなきゃなあ。のりたまフリカケって、懐かしい味がするよね。まあ子供しか食わんからだろうけど。


 寝ながらDVDBOX『モンティパイソン&シークレットポリスマン』シリーズを片っ端から見る。「モンティパイソン」と言いつつ、全員が出演しているわけではない(特にエリック・アイドルは全くの不参加)が、それでも「オウムのスケッチ」や「ランバージャック・ソング」などが舞台バージョンで見られるのが嬉しい。
 若き日のMr.ビーンこと、ローワン・アトキンソンの指揮者&ピアニストのマイムは絶品である。この人を「ヘンな顔で笑わせるだけのヘタッピ」ととんでもなく勘違いな批評をしてた立川志らくに見せてやりたい。
 パイソンズでは既にグレアム・チャップマンが故人だが、ほかの出演者の中でも、ピーター・クックも1995年に没している。端正な顔立ちでニコリともせずに狂気的なことを口走ったりしてる演技が好きだったんだよなあ。この人の演じたコメディ版シャーロック・ホームズ、『バスカーヴィル家の犬』、見てみたいんだけど、なぜか「ホームズものは当たらない」日本の事情のこと、やっぱり日本未公開なのであった。クックとしょっちゅうコンビを組んでたチビ男のダドリー・ムーア(『バスカーヴィル』ではもちろんワトスン役)、今、何やってるのかなあ……と思ってネット検索してみたら、この人も去年なくなっていたのであった。
 ああ、そう言えば唐沢俊一さんも日記でその訃報を嘆いていたっけ。


 マンガ、鳥山明『ドラゴンボール完全版』1・2巻(集英社/ジャンプコミックス・980円)。
 さてさて、ハリウッド映画化を睨んでの再版なのであろうか。カラー原稿も完全再録、という意味での「完全版」。
 大版になって絵も見やすくなったから、かつて単行本を買ってた人も買いなおして損ってことはないんじゃないかな。しかも230ページ以上の分厚さで千円以内に押さえたってのは良心的だと思う。まあ『スラムダンク完全版』が売れたってことを受けての値段設定なんだろうけど。
 今、見返してみると、この超人気大河マンガも、最初は10週か20週で打ちきられるジャンプシステムを想定して作られていたことが分る。
 ヤムチャたちとの対決が一区切りするのが10週目、ドラゴンボール探しに区切りが付くのが20週目と、節目がハッキリしている。てことは亀仙人なんかも最初は1回コッキリのゲストキャラだったってことだ。もちろん、サイヤ人だのなんだのって設定、このころの鳥山明のアタマにはカケラも無かったことだろう。
 初期からの『ドラゴンボール』のファンは、よく天下一武闘会の設定が持ちこまれてから話がつまらなくなった、と言う。言ってたのは実は私もなんだが、確かに最初のころの『Dr.スランプ』から流れを引き継いだようなのんびりした世界こそが鳥山さんの本領だとは思うのだけれど、ジャンプマンガの定番、対決ドラマのパターンの中に鳥山さんがあえて身を投じたことで、ヤンキーのガチンコ一辺倒でしかなかったジャンプマンガに変化が生じたのも事実だろう。はっきり言って本宮ひろし門下の悪影響のもとにしかなかったジャンプマンガが革新した功績は、鳥山さんのおかげである。
 まあ、魔人ブゥみたいなキャラクターは、車田正美には逆立ちしたって描けないやな。
 少なくとも、『ドラゴンボール』なかりせば、『ワンピース』もまた生まれえなかったことは間違いない。『ドラゴンボール』の「遺産」については、もっとオタク間での発言がたくさんあって然るべきじゃないかって思うけどなあ。
 

 マンガ、叶恭弘『プリティフェイス』2巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 てっきり初刷りかと思って買ったら、発売一週間ですでに2刷。売れてるみたいだけど、ネタ的には早くも苦しくなってきてるね。
 由奈っつーか、乱堂の正体が実は男であるってことが、友達はまだしもいつまでも家族にバレないって設定が苦しくなってきてるんで、そのためのテコ入れでしょう、今巻では新登場のイトコの美和が、何となく「あやしい」と思い始めるようになる。でも、こういうキャラが出てくることも予測がつくのがまた苦しいんだよね。
 いくら由奈の正体がバレかかったって、このあとの展開は「主人公にうまく騙されて疑いを捨てる」「怪しいと思い続けるだけで新展開はない」「事実を知って主人公の協力者になる(あるいは黙っててあげる)」の3パターンしかないんだから、たいしてテコ入れにはならないのよ。こんなありがちな新キャラ導入に頼るより、もうちょっとDr.真鍋を活躍させてほしいなあ。

 由奈の正体を男と知らずに空手部の連中がファンクラブを作ってるってネタ、これもこの手のマンガでは定番なんだが、実際にこういう事件がかつてあったことを覚えてる人がいるかな。
 いやね、昔、松原留美子ってニューハーフの人がいたんだけど、この人が最初は自分が男だってこと隠してたんだね。篠山紀信が写真撮ってて、雑誌の表紙なんかに使われてたもんだから、ホントに女だと信じてた人も多かったらしい。映画『蔵の中』に主演してたころにはもう男だと正体を明かしてたが、声だけは誤魔化せないので、唖の役だったのでありました。
 大学時代の私の友達の一人も、ダマされて悔しがってたなあ(^o^)。なんで悔しがってたかは突っ込まないであげたが。
 現実はマンガより奇なりという一例だったのでした。

2002年01月10日(木) ヒメ様ご出座/アニメ『七人のナナ』第1話/『トランジスタにヴィーナス』3巻(竹本泉)ほか
2001年01月10日(水) 史上最悪の日/アニメ『プロジェクトA子』


2003年01月09日(木) 革命児の帰還/『ヒカルの碁』20巻(ほったゆみ・小畑健)/『ななか6/17』9巻(八神健)/『パタリロ西遊記』5巻(魔夜峰央)

 山上たつひこが帰ってくる。
 いや、ファンならばご承知のとおり、山上氏は別にいなくなっていたわけではない。しかし、本人の意向がどうあろうと、「作家・山上龍彦」に違和感を持った人は多かったと思う。いくつかの本を立ち読みはしてみたが「なんでマンガで描かないかなあ、これ」としか私には思えなかった。
 「山上たつひこ」という名前に何を喚起されるか、既に世代間での格差も大きかろう。『がきデカ』すら知らない若い人たちに『喜劇新思想大系』や『光る風』の話をしても、ポカンとされるだけだ。
 けれど、例えば筒井康隆の『アフリカの爆弾』の狂気、あれを描き得たのは、あのギラギラとした山上さんの筆致あってこそだったと、私は信じて疑わない。
 山上さんはたとえシリアスなマンガであろうとギャグマンガであろうと、常に革新的なマンガを描く作家だと認識していた。けれど、『がきデカ』の後期、山上さんの線は随分と洗練され、固まってしまっていた。その線は10年を経て『がきデカFINAL』に至っても変化することがなかったのだ。
 10年前、私は、こまわり君の自らを山頭火になぞらえた旅立ちを、惜しいと思いつつも、先にもう進むことができなくなった山上さんの勇気ある引退として受け入れたのだ。
 こまわり君は、山上さんは、どんな形で帰ってくるのか。

 『ビッグコミック』に掲載予定の『中春こまわり君』(「中春」とは、「早春」と「晩春」の間だとか)に登場するこまわり君は、38歳。「金冠生々(きんかんなまなま)電機」という家電メーカーの営業マンで、結婚して一児の父親であるという。飲み屋で酔客から「おい、“死刑”やれ」などと言われて、ついついサービス精神からやってしまう。
 同僚の西条君はモモちゃんと結婚して2人の子どもがいる。ジュンちゃんは2度の結婚に破れて、今はブティックの雇われ店長。
 犬の「栃の嵐」はぼけ老犬になって車いす生活。栃の嵐の孫が板前で小料理店を経営している。

 山上さんは、復活の理由を「時代の要請」と言う。
 「時代が一回りし、二回りし、さらにもう一回りしてぼくを訪れ、要請した。ファンと再会する一夜のカーニバルのようなものです」と。
 そうかもしれないが、これは明らかに藤子・F・不二雄の『劇画・オバQ』だ。オバQが再び訪れた人間界、正ちゃんは結婚し、ゴジラやよっちゃんやキザくんもみんなオトナになっている。ハカセだけが少年のころの夢を失ってはいないが、それも一夜の酔っ払いの戯言として翌朝には忘れ去られる。ここにオバQの居場所はもうない。
 こまわり君の場合はもっと悲惨かも知れない。
 彼はどこか自分の世界に消え去ることはできないのだ。
 今、こまわり君がいるのは、かつてマンガの中で描かれてきたナンデモアリな幸福な空間ではない。もともと『がきデカ』の世界には、『サザエさん』のごとく『ドラえもん』のごとく、時間の経過は存在しなかった。しかし、今や20年の歳月は確実にこまわり君の上にのしかかってきている。
 今のこまわり君に「八丈島のきょん」が、「台湾バナナ」が、「ぺぽかぼちゃ」ができるのか。できたとして、それが時間の経過という残酷な現実の前で、何かの力を持ち得るのか。
 既にこまわりくんは「がきデカ」ではないのだ。まだ「オバQ」はオバケであったが、こまわりくんはアイデンティティを喪失したところからあらためて描かれるのである。その意味で、これはただの続編ではない。『翔んだカップル』が延々と続くのとはわけが違うのである。

 ヘンな期待だが、私は山上さんの線がとてつもなくヘタになっていてくれたら、と思う。
 もはや山上さんに70年代の熱い線は描けまい。
 だったらいっそのこと、どうしょうもなくヘタクソな、情けない、最晩年の杉浦茂のような、崩れて乱れて線が線になっていないような、すっかり壊れた状態になっていてくれていたほうが、奇妙な迫力が生まれはしないか。
 晩年の芭蕉か、市川準の『会社物語』のような、枯れたワビサビの世界にこまわり君が復活するよりは、そちらのほうがずっといいように思うんである。


 体調、相変わらず悪い。今年の風邪は長引くかもとは聞いていたがホントに長引いてんじゃねえよ(-_-;)。
 外は寒い。ムチャクチャ寒い。
 仕事を終えて駐車場に行ってみると、しげの姿がない。
 電話を入れて見ようと思ったが、運の悪いことに携帯の充電が切れていた。昨日までは満杯だったのに、なんでいきなり切れるかな。
 仕方なく、公衆電話でウチに連絡を入れるが、応答がない。
 普通ならもうこちらに向かっていて、ウチにいないのかも、と判断するところだが、しげの場合、寝過ごしていることが圧倒的に多いので、信用できない。寒い中、ずっと来るか来ないか分らないしげを待ってたら、ますます風邪が悪化してしまう。
 以前、「1分でも遅刻したら先に帰っていい」と約束していたので、タクシーを拾って帰る。
 ところが帰宅してみたらしげの車が駐車場にない。
 慌ててしげに電話連絡を入れる。
 「今、どこにおるん?」
 「駐車場」
 「なんで遅れたん?」
 「遅れたつもりはないよ」
 「オレ、3分は待ったぞ」
 「オレもウチに電話入れたよ。もしかして先に帰ったかと思って、電話入れたけど誰も出んから、まだ仕事してるんかと……」
 「1分でも遅れたら先に帰るって約束しとったやんか!」
 「だから遅れたって気がつかんやったと!」
 「ともかく帰って来い!」
 もういい加減でこんな下らんことで言い合いをしたくはないので、ともかくも帰宅させる。食事に出かける時間が減るのももったいない。
 出かける前に、忘れないうちにと無駄に使ったタクシー代を請求すると、しげ、烈火のごとく怒る。
 「なんで!? アンタが勝手に使ったんやん!」
 「勝手じゃないだろ!? 送り迎えに遅れたらタクシー代払うって約束しとったやんか!」
 「だから時間に遅れたつもりないって」
 「遅れてたの事実やろうが!」
 「なんであんたがいつも正しいとよ!」
 言い合いをしているうちに吐き気がしてきた。風邪の具合、また少し悪化したらしい。
 しげのカネに拘る態度も下品で憎たらしいが、もう何日もこちらの具合が悪いとわかってるのに、少しも気遣う素振りがなく、こんなことで文句をつけてくるのがますます憎たらしい。

 そうなのだ。
 私だって別にしげから金をせびり取りたいわけではない。
 しげが私のことを気遣って「車で送り迎えしちゃる」と言い出したとき、今まで散々騙されて来ている経験から、「今回もアテにはならんよなあ」と思いはしたのだ。
 しかし、ただでさえ何一つ家事をしない、ウチではただの寄生虫と化しているしげに「ウチにいるための理由」を与えるとしたら、しげに何か「私にはできないこと」をさせることしかないのである。けれど、食事も掃除も私がやった方がずっとマシ。でも車の免許だけは、私には視力がないから取れない。
 となれば、結論はハッキリしている。マジで今、しげにはこの「送り迎え」くらいしか私の役に立てることがないのだ。つまり、私は夫として、たとえしげが自分のした約束を忘れ果てようと、「ちゃんと朝起きて職場まで送れ、帰りは時間に遅れずに迎えに来い」と言うしかない。
 これは横暴でもなければ亭主関白でもない。
 こんなことでしか我々は、夫婦としてのコミュニケーションが取れないのである。
 ……しげが家事をしようって気を起こしさえすれば、こんな送り迎えも要らないんだけどな。

 しげが拘っていたのは、「携帯の電池が切れてなかったら」ということだったが、それはしげが時間に遅れたこととは別問題である。遅れなきゃ携帯の電池が切れてようがいまいが関係ないんだから。そのリクツがアホなしげにはなかなか理解できなかったが、興奮しているのを落ちつかせて、なんとか理解させた。
 それでも不満は残っているようだったので、携帯がどの程度電池が持つものか確認することで折り合いをつけた。
 また、これまで「1分でも時間を過ぎたら帰る」という約束だったのを、「5分は待つ」ということでも合意。それでも遅れたらちゃんと文句を言わずにタクシー代を払うことを約束させたが、どうせまた忘れるんだよな。自分が貸したカネのことは忘れないが、人にカネを払う段になると自分に都合の悪い約束はケロッと忘れやがるのだ、この卑怯者は。
 結局、今回の取り決めも、しげを少し楽にさせたってことなんだよな。私がトクしたことって、やっぱりないのである。

 本屋を回ったあと、トンカツ屋に行く予定だったが、しげが急に「焼肉」に惹かれた。まあ、いつものことだ。「カルビ大王」で食事したあと帰宅。
 疲れがどっと出て寝つく。
 私が「少しはオレのこと気遣え」と言うと、「だったらそういう人を探しい」としげはすぐ不貞腐れる。そのモノイイ自体が、自分の妻としての立場を放棄してるんだってことに気づかんのかなあ。
 ああ、また熱が……(-_-;)。


 マンガ、ほったゆみ原作・小畑健漫画『ヒカルの碁』20巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 表紙のキャラ、一瞬加賀かなと思ったら、新登場の社なんだね。ベロ出して挑戦的だけれど、関東人から見た関西人ってこんな感じなのかな。本編ではここまでアホな印象ないんだけど。
 第2部に入ってつまらなくなった、とまでは言い切れないんだけれど、やっぱり佐為がいない喪失感が少しずつ大きくなってきている。
 マンガとしての“華”が明らかになくなっちゃったし、ヒカルとの掛け合い漫才が消えたせいで、ドラマの緩急の“緩”の部分が失われて、どこか単調な印象になってしまっている。
 単行本の売り上げも落ちてるんじゃないかなあ。今回カラーページを初めて収録してるんだけれど、これもいかにもテコ入れっぽい。でもカラーページで一番目立ってるの森下先生だぞ。あまり意味ないんじゃないか(^_^;)。
 本当なら、国際棋戦開催、ということでもちっと盛りあがってもよさそうなものであるが、なんだかイマイチなんだよねえ。出て来る韓国のライバル陣も、そんなに魅力的に感じない。いや、高永夏とか、ミーハーな美形好きはキャーキャー言ってるのかもしれないけど、私がキャーキャー言うワケないし(^_^;)。
 私は好きじゃないが、ジャンプの「対決もの」って、究極のライバルってやつは決まって「異形」だったのである。ただ単にガタイがデカイだけなら、簡単にザコキャラとして倒されてしまう。『ドラゴンボール』のピッコロもベジータもフリーザもセルも、見た目が「強そう」ってだけじゃなくて、プラスαのキャラクターを持っていた。『北斗の拳』のラオウ、『幽遊白書』のトグロ、『るろうに剣心』の志々雄真実も然り、みんな何らかの意味での「異形」なんだが、さて、『ヒカ碁』の場合、この手のヤツラは極めて出しにくい。
 もともと囲碁ってもの自体、盤面だけ見てたって静かな印象しかない。それを非現実の存在である佐為が画面に“異形さ”に代わるものとして“雅さ”を与えていたのだ。これは佐為が幽霊であったからこそできたチカラワザだったんで、今や『ヒカ碁』は「ただ絵がキレイなだけ」のマンガになってしまっている。
 これがねえ、小畑さんの絵が尾田栄一郎並にヘタクソだったらさあ、かえって泥臭い迫力が生まれるんだけど、ここにきて小畑さんの「絵のうまさ」が、かえって物語を平板なものにしてしまってるのは皮肉だよねえ。
 もうこうなったら、どうせ美形を出すにしても「仮面の美形」とか「覆面の美形」とか出すしかないんじゃないか(^_^;)。


 マンガ、八神健『ななか6/17』9巻(秋田書店/少年チャンピオンコミックス・410円)。
 東京のほうではアニメも始まったそうだけれど、福岡での放映予定はなし。
 必ずしもアニメ放映に関して福岡は恵まれてないほうではないと思うけれど、それでも見損ねてCSで見ることになるものも多い。
 いちいち感想書いてられないくらい多いから省略してるけど、ファミリー劇場、キッズステーション、カートゥーンネットワークをチャンネル変えつつ見るだけでも相当量のアニメを見ることになる。来月からはこれに「アニマックス」が加わるのだ。こうなると生活の中心が完全にテレビに移行してしまいそうで怖い。マジでアニメ評論家になるつもりか、オレ。
 『ななか』もどこかで再放送してくれると、これ以上DVD買わずにすむんでありがたいんだが。

 アニメ化記念か、表紙はオールスターキャスト。と思ったら、なぜか氷室さんがいない。せつなはちゃんと出てるのにねえ。
 9巻まで来てようやく気がついたんだけど、キャラクターの名前、みんな「気候」の字が使われてたんだね。
 「“霧”里七華」「“凪”原稔二」「“雨”宮ゆり子」「“嵐”山五月」「“霰”玉九里子」「“氷”室那由」「“雪”ノ沢せつな」「“風”祭千恵」。
 こんなところかな。次に出るキャラクターは霞か雲か(^o^)。
 名前に数字が使われてるのも共通しているから、雨宮さんの名前は多分ホントは「百合子」と書くのであろう。……それにしても、気づくの遅すぎだな。

 マンガのほうは今巻より第2部。
 ななかの第3の人格、「ヒロ」が登場してきたことで、俄然面白くはなってきたのだけれど、二重人格どころか多重人格ものにシフトするとは意外であった。つくづく『ビリー・ミリガン』のドラマ・マンガ各方面への影響の強さを思うことよ。『幽遊白書』の「仙水編」でもこのネタを使ってたけど、アレは行き当たりばったりの印象が強く、あまり成功したとは言えなかった。読者の興味を引きはするけど、うまく収めるのが結構難しいんだよな。その点、三谷幸喜の『出口なし!』は、多重人格ネタをミステリー仕立てにして、なかなかいいオチのつけ方をしていた。さて、21世紀ラブコメ中、屈指の傑作になるであろう(マジかよ)『ななか』は果たしていかなるオチをつけてくれるか?
 もっとも、人格が「理想の男」に変わったからって、女の子のななかがいきなり万能になっちゃうって展開、ムチャクチャではあるんだが、まあ、「火事場のバカ力」だと思ってそこは許そう。キン○マンかい(^_^;)。
 しかし八神さん、絵が上手くなったなあ。もともと上手いヒトではあったんだが、「三人」のななかを、同一人物である基本のフォルムをちゃんと残しつつ、ハッキリ違うキャラとして描き分けている。ラブコメだのアニメ絵だのとバカにしたもんじゃないんだよ。


 マンガ、魔夜峰央『パタリロ西遊記』5巻(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。
 今回初めて気がついたんだけれど(最近こんなのが多いな)、目次のところに小さく「この物語は『西遊記』をもとにして描かれています」と書いてある。
 ……いや、別にそんなこと説明されなくてもタイトルに『西遊記』ってしっかり入ってるのに。古典だから版権とか関係ないと思うし、なんでこんな但し書きがいるのかなあ。意外と原典に忠実にマンガ化してるから、そこんとこを強調したいのかも。
 いや、忠実っても、パタリロのしょーもないギャグは当然原典にはありませんが(^_^;)。
 冒頭、門づけ(要するに物乞いですな)するパタリロが歌ってるのが、「沖のくらいのに白帆が見える〜♪ あれは紀ノ国ミカンぶね〜♪」ってアレ。孫悟空に日本の俗謡を歌わせてどうするよ(^_^;)。
 でもどうせ、こんな歌も若い人はまるで聞いたことないって言うんだろうな。昔のヒトなら誰でも知ってる紀伊國屋文左衛門のエピソードだって知らないんだよ、参っちゃうね。
 とかなんとか言いながら、私もこのフレーズを含んだ全歌詞は知らない。っつーか調べてみるとこの俗謡、全国各地に広まってて、バージョンが腐るほどあるのである。原典はどのへんだかようわからん。とりあえず、ネットで拾ったいくつかのパターンをご紹介。

「みかん採み唄」(江島節)
 沖を走るは丸屋の船か 丸にやの字の帆が見える
 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国みかん船

「みかん採み音頭」  
 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国みかん船
 江島唄うて向かいの山で みかん採るのはわしの殿
 今度いんだら持て来ておくれ みかんは紀州の有田もの
 有田みかんと道楽息子 色ではだかになりまする(後略)

「大町天王唄」
(前略)
 揃ろた揃ろたよ若衆揃ろた 稲の出穂より良く揃ろた
 八雲の社ののぼりを見たか あれは関東一の旗
 沖のかもめに汐時問えば 私ゃ立つ鳥波に聞け
 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国みかん船(後略)

「馬子節」
(前略)
 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀の国みかん船
 今日は目出度い御りょうさんの 年に一度のお祭り日
 馬がもの云うた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗せよというた(後略)

「八剱神社御柱祭の木遣り唄」
(前略)
 曳け綱 えんやはーりはさんのーえー よいしょ よいしょ よいしょ
 えー沖の暗いのに白帆が見ゆるね よいよい あれは紀の国みかん船 えんやはーりはさんのーえー よいしょ よいしょ よいしょ(後略)

 どうもめでたいことがあるときは全国津々浦々まで、必ず沖からミカン舟が来てくれるものらしい。紀文大尽も気前のいいことである。
 って、パタリロの話がどっかに行っちゃったな(^_^;)。
 いや、このひとのマンガも、こうやってギャグの元ネタを説明してったらキリがないんだよね。このあとパタリロは「トンヤレ節」まで歌ってるんだけど、こんな明治維新時の流行歌までどうしてパタリロは知ってるのだ(私がこの「トンヤレ節」を初めて知ったのはフォーリーブスがなにかの番組の主題歌で歌ってたからだったんだが、あの番組、なんて言ったかなあ)。
 ほかにも古いネタだと、どうしても元がなんだったか思い出せないのがいくつかある。
 「あっ御家令様」「ヒラメの仲間の?」ってダジャレの元ネタ、確かなにかの落語の中にあったような気がするんだが、全然思い出せん。google検索しても出ないのよ、これが。
 「八戒、どっちにつく?」「女ー!」は説明要らず。魔夜さん、意外に宮崎駿が好きらしい。昔「風の谷のハナシカ」ってギャグもやってたしなあ。

 ギャグネタばかり説明して筋についての感想がなにもないが、魔夜峰央のマンガで、ストーリーだのプロットだのと、作者自身があまり考えずに書いてるのがハッキリしてることについて解説することくらいむなしいことはないので、そのへんはご容赦。
 そのうち牛魔王もピョートル大帝(『パタリロ!』中、バンコランの最大の敵だったが、連載が長く続くうちにいつの間にか消えた)みたく、どっか行っちゃうんじゃないか(^o^)。 

2002年01月09日(水) 多分初雪/映画『大菩薩峠』(岡本喜八監督版)ほか
2001年01月09日(火) 仕事初め


2003年01月08日(水) 肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜肉食ったのよ〜(エコー)/『なんてっ探偵アイドル』11巻(北崎拓)ほか

 なんだかこの間からゴマキが気になっているのである。
 この日記の読者の中には、アニメと特撮のことしかアタマにない世俗と隔絶したキ……オタクな人もいるかもしれないから、念のために説明しておくと、このゴマキというのはアイドルグループ「モーニング娘。」のもと一員で、今はソロで歌ってる後藤真希という歌手さんである。
 しかしどうして「後藤」って姓の女の子って、「後」だけ取って愛称にされちゃうのかな、「後藤久美子」=「ゴクミ」だったし。だったら後藤又兵衛はゴマタか。女の子じゃないじゃん。

 いや、そんな愛称のこととか、どうしてゴマキの鼻はあんなにデカイのかとか、そんなんはどうでもよくって、私ゃなんでゴマキが『サントワマミー』なのよ、と、至極マットウな疑問を抱いているわけなのだ。

 アダモの名曲を越路吹雪がカバーして歌ったのは昭和39(1964)年。寝物語に聞いている年頃だから、「歌」として認識するようになったのはもう少しあと、40年代も半ばになってからだろう。そのころはもう越路吹雪は化粧が随分ケバケバしくなっていて、歌唱力よりもその「化け物ぶり」のほうが話題になっていた。針すなおなんか、人三化七なみにひどく描いてたと記憶する。舞台・ミュージカルを中心にして活躍していたのだから、化粧が濃いのもいたしかたないのだが、テレビを通して見ると、どうしたってイロモノ扱いしかされない。越路さんはその点、歌手としては損をしていたように思う。
 当たり前の話だが、ちゃんと聞けば、『サントワマミー』は名曲である。昔、RCサクセションもカバーしていたが、ひでえなあ、とは思いつつも、カバーしたくはなるよなあ、とは思った。もともとこれってフラレ男の愚痴みたいなもんだからねえ。
 “Sans toi, Ma mie”=“Without you, my darling”ってのは日本語訳すれば「恋人よ、君なしでは」。一応フランス語かじったことあるから言うけどさ、この「toi」って、肉体関係のある恋人にしか使わないのよ(だから、プロポーズに「ジュテーム」って使うのは間違い。それだと「おまえとはもうヤッてんだから」って意味になって、確実にフラレる)。
 言っちゃなんだが、「女」のイメージから程遠い越路吹雪が歌ったからこそ、この歌はヘンないやらしさがつきまとうことなく、歌詞とは逆に「潔さ」さえ漂わせていたのだ。
 それをよりによってゴマキ〜? なんか子供が背伸びしてるような歌いかたさせて、何をどう感じろって言うんですかね、これ。(ー∇ー;)
 しかもこれがまたゴマキが主演するミュージカル『けん&メリーのメリケン粉オンステージ!』の主題歌になるって言うじゃないのよ。
 で、その筋はこんなだ。

 舞台は昭和41年の東京・下町で、後藤真希は「サントワマミー」が大好きなオヤジが経営するもんじゃ焼き屋の娘の役。
 真向かいに大阪からお好み焼き屋が引っ越してきて、こちらは「君といつまでも」が大好きな家族で、ライバル関係に……。
 両家の娘は親のケンカを止めるために、商店街主催のイベントで「ミニスカ漫才」を披露する……。

 ドリフコントか(-_-;)。いや、エンタツアチャコまで遡れるな。古色蒼然を通りこして作り手ってサルの群れじゃねえかと思うが、やっぱりプロデューサーはつんくなんかな。
 ねえそこのアナタ、このあらすじ聞いても、ゴマキの『サントワマミー』、許せますか? え? ゴマキを悪く言うな、オレにとっちゃ越路吹雪のほうがどうでもいい? さいですか……。
 いやね、私も最近は心が広くなってきたから、怒りませんよ。怒らないし、ゴマキが好きだって奇特な人も別に許したっていいんです。まあ、「ゴマキの今度の新曲っていいじゃん?」なんて道端でくっちゃべってるコギャルがいたら、心の中では刺してますけどね。


 久しぶりに朝から晩まできちんとお仕事しました(^o^)。体調は未だにイマイチなんですが。
 仕事帰りの車の中で、詳しくは言えないが、しげがやたらと「ウ○チ」の話をする。やたらと「ウ○チ」に拘るので、「日記に書くぞ」と脅したがやめない。いっそのこと詳しく書いてやろうかとも思ったが、ウ○チネタに関しては命をかけて日記に書かれてる方が身近にいらっしゃるのでやめておく。

 しげの「肉食いたい」病がまた激しくなってきたので、正月でもあるし、ちと豪勢な肉を食いにいくことにする。
 板付のサトー食鮮館、ここはレストランとも直結してるんだが、まあちょっと庶民が頻繁に来れるような店ではない。なんたって、一番安い肉でン千円、佐賀牛のサーロインステーキときたら、1回の食事で3日分の食費は吹っ飛ぶようなシロモノだ。で、フンパツもフンパツ、そいつを二人で注文したわけだ。
 日頃スーパーで500円パックのやっすい肉ばかり食ってるしげ、どぎまぎして「いいと? ホントに食べていいと?」と何度も私に念を押してくる。
 「たまにはいいじゃん」と、私も足の震えをゴマかしながら(^o^)、心の中では「今のこの1/10のヒトキレだけで、ン百円」とか計算しながら、表面上は冷静に肉を食う。
 でもしげには、たまにはいいものを食って、肉にもピンからキリまであるってことを知ってもらいたいんである。ともかくしげの偏食はかつての貧乏生活の悪影響であることはハッキリしているのだ。
 食事を食べながら、しげが私に聞く。
 「オレたち、またここに来る?」
 「またな。でもしょっちゅうはムリだぞ」
 どうもしげにはまた一つ「夢」が出来たらしい。「いつの日かまたこの店に肉を食いに来るぞ」という。いいよなあ、人生の最高の希望が「食欲を満たすこと」つてやつはよう、悩みがなくて。
 でもしげを見ていると、一見大層に見える政治や経済の諸問題や、新聞紙面を賑わす社会的に重大な事件も、実はほんの些細なチッポケなもので、世の中のオトナたちの悩みというものが全部卑小に見えてくるからフシギだ。
 実は世の中に悩まなきゃならない問題なんてないんじゃないのか? みんな、ムリヤリ悩みのネタを捻り出してるだけであって。
 まあしげは単になにも考えてないだけだろうけど。

 食事後、「食鮮館」のほうで、買い物。
 近所のスーパーでは見つけられなかったゴマシオふりかけを見つける。
 「やっぱ、オニギリにはゴマシオだよな」
 「そうなん?」
 「これで夜食にオニギリでも作ってくれん?」
 「そんなにオニギリが好きなん?」
 「オニギリが好きなんじゃなくて、おまえの手料理が食いたいんだよ! 『オニギリという食べ物は世界で一番いやらしい』んだよ!(by『パイが好き!』) いくらなんでもオニギリくらいは作れるだろ?」
 「作れるけど、形、ヘンだよ?」
 「ヘンなのが気になるなら、おにぎりの型に入れてもいいよ。でもオレは形は気にせんから。オマエが握ったんなら、それで充分なんだって。それに別に毒を盛る気はなかろ?」
 「盛らんけど」
 「けど、なんだよ」
 「オレが作るんよ? 美味しいと?」
 「コメ握るだけだろ! どうやったら不味く作れるんだよ!」
 ……まあ、しげの才能だとオニギリでもゲロマズにしてしまう危険性、なきにしもあらずではあるかもしれんが。


 テレビで『ダウンタウン777』。
 松本人志ほかのアイデアマンが、パネラーたちに何らかの「提案」をして、50%以上の賛同を得られたら百万円ゲット、という企画。
 糸井重里が「老人のための菜園マンションを」と提案したのが百万円ゲットしたほかは、軒並みアウト。ラサール石井も「高校から進路選択性を」とやって、低指示。ラサールさんの意見は私と共通するところが多いのだが、悪平等の抜け駆け好きな日本人に「学力なんて要らないじゃん」と言ったって通じるわきゃあないのだ。
 松本人志は「野球中継を引き伸ばして後番組を延長・カットするな!」と主張するが、そのためのアイデアが全くない。そこを突っ込まれてシドロモドロになるのだが、そのドツボにはまって「ウロがきてる」様子が最高に面白い。やっぱりこのひとは「狂わせて」面白くなるキャラなのである。ヘンに道学者めいたこと語らせて、その浅薄な知識、アホな意見を晒させてバカ扱いされるより、ちゃんと「既知外をイジって遊ぶ」パターンを確立させてった方がいいんじゃないかな。少なくとも活字本はもう出さなくていいよ。


 マンガ、北崎拓『なんてっ探偵アイドル』11巻(小学館/ヤングサンデーコミックス・530円)。
 もしかしたら『ヤングサンデー』の看板マンガなんじゃないのか、これ。10巻以上も続くなんて、1巻読んだ時点じゃ全く予想してなかったぞ。しかも終わりそうな気配、全くないし(と言いつついきなりおわったりするのがマンガの怖いとこだけどさ)。
 えーっと、今巻で片岡(怪盗リスト)と梨奈がふかーい関係持っちゃったような描写がありますが、梨奈って確か17歳って設定じゃなかったっけ……? まあ、片岡、なんておいし……いやいや、けしからんことしてんでしょうね。
 多分、「酔いつぶれて寝てただけ」ってオチがつくとは思うけど、あまりそういう陳腐なヒキはしてほしくないなあ。このマンガにそんな高級なこと求めてもムダってことは分るけど。
 しかし、また「観覧車に爆弾」ネタだよ。『古畑任三郎』でもキムタクが爆弾仕掛けてたけど、シリーズもののミステリでは必ず一度は観覧車に爆弾を仕掛けることって決まりでも出来たんか。一番最初の元ネタはいったいなんだ。

2002年01月08日(火) ココロはいつもすれ違い/『女王の百年密室』(森博嗣・スズキユカ)
2001年01月08日(月) 成人の日スペ……じゃないよ


2003年01月07日(火) 顔のない時代、歌のない時代/『全日本ミス・コンビニ選手権』(堂高しげる)ほか

 食中毒事件の雪印乳業が、全農、全酪連と牛乳事業を統合して発足した「日本ミルクコミュニティ」の新ブランド牛乳の名前、「メグミルク」だって。
 テレビに流れてた映像、赤茶色のパックに「MEGUMILK」の文字が。……英語圏の人が見たらどんな印象持つのかなあ。
 私は巨乳アイドルのMEGUMIが「あふぅ〜ん(//∇//)」とか言いながらチチ絞ってくれたようなイメージを思い浮かべてしまったが、おそらく日本人の男性の98%が同じことを考えたに違いない(^o^)。
 いや、個人的にこのネーミングすごく気に入っているのだが、理由はちょっと明かせない。見当つく人も私の知り合いの中にいるとは思うが(^o^)。


 史上2番目の低視聴率(47.3%=第2部)だった昨年大みそかの『第53回NHK紅白歌合戦』の分刻み視聴率が、昨日6日、発表される。
 最高視聴率は下馬評通り中島みゆきの『地上の星』52.8%だったそうな。しまった、録画しただけでまだ見てないや。
 本番前に北島三郎が「演歌を減らすな、日本人は演歌だ」とかほざいてたが、紅白の低視聴率傾向はそういう問題じゃないだろう。誰もが聞きたい流行歌、時代を象徴する歌ってのがなくなってきてるってことなのだ。北島三郎が去年何を歌った? 『おじゃる丸』の主題歌か? その歌が街中でどれだけ流れた? 北島三郎が出演しようがしまいが、今さら紅白の視聴率とは関係ねーって。
 流行歌ってのは、喫茶店に入る、商店街を歩く、どこからともなく流れてきて、別にその曲を知らない人でも何となく口ずさんでいる、世代を越えた波及力がある、そういった性質のものを指すのだ。
 だから人によって好き嫌いはあろうとも、去年の流行歌の一番はどうしたって平井堅の『大きな古時計』ということになってしまうし、一昨年は氷川きよしのホラ、あの「やだねったらやだね」って歌ってたやつ(曲名は知らんがそれでいいのである)になる。そういう曲が年々少なくなってるのは事実なんで、だから別に紅白の視聴率が低くなったって全然かまわない。初期の紅白だって、視聴率はたいして取れてなかったんだし、「年の瀬は紅白で」なんて風習が消えたって別に誰も困りゃしない。っーか困ってないから視聴率下がってるんである。

 流行歌が消えていったのはこの10年ちょっとのことだ。90年代に入ったころ、ミリオンセラーはやたら増えたのに、そのCDを買った百万人以外には誰もその曲を知らない、メディアに露出する期間も殆どない状態が続き、結果的にそれはミリオンセラーのバブルであったことが判明した。今や購買層自体が疲弊し、ミリオンセラーは夢のまた夢、という状態になっているのである。
 これは明らかに、「CD買ってくれる客がいれば露出は少なくてもいい」という極めて狭い感覚でしか商業戦略を立てていなかったレコード会社やプロダクションの失敗である。彼らはテレビから『ザ・ベストテン』や『トップテン』が消えていったのを看過した。音楽番組というのは、ゴールデンタイムに「毎日」なければならないものだ。昔はバラエティ番組でも必ず歌のコーナーがあったというのに、近頃ではSMAPですら自分たちの番組で新曲を披露しなくなっている。もはや視聴者はSMAPに歌より笑いを求めているのである。

 流行歌がない時代というのは、顔のない時代だということでもある。事件はやたら起こっているが、その時代の気分を象徴したような歌がない。時代から乖離した「閉じこもり型」の歌になっている点では、J―POPであろうと演歌であろうと同じことだ。
 まあ、昔だったら『北朝鮮に怒りを込めて』とか『どこにいるのかタマちゃん』とかいかにもキワモノな歌が作られて物によっては発禁になってたと思うけれど、結局「無難に」しか歌を作って来てないからねえ。音楽番組の低迷はまだまだ続くんじゃないか。
 

 仕事、今日も半日で帰る。
 血便も止まらないし、鼻血もやっぱり続いている。これだけ血を出しまくってるのに倒れないということは、日頃からよっぽど血が溜まってるのか、実は私は健康なのか。チョコレートなんか全然食ってないぞ。
 コンビニでおでんほか弁当を買って帰宅。
 しげ、結局今朝は朝帰りした模様。ちょうど帰宅した瞬間、「寒い」と言ってトイレに起きて来た。そのまままた寝そうだったので、おでんを見せて「食うか?」と聞いたら、次の瞬間にはもう私の手からおでんは消えていた。
 「カルビやん!」とクシにかぶりついている。肉ばかりじゃなくて大根も食えよ(-_-;)。

 横になったらそのまま夜まで熟睡。昨日寝不足だったわけではないので、やっぱり疲れているのである。明日からまた仕事できるかなあ、オレ。


 ネットで昨日の『名探偵コナンスペシャル』の感想を散策してみる。
 まあ、ファンサイトがベタボメなのは当たり前だけれど、「松田刑事ステキー!」なんて書き込みばっかりで、全く中身について言及してないのは何なんだろうね。キャラ萌えするのは勝手だけれど、それって作品をバカにしてるだけだってことくらい自覚してほしいもんだけどなあ。ミーハーがいくら言葉を尽くして「面白いよ!」って言ったって、説得力がないどころか、かえってつまんないんじゃないかって気にさせられちゃうんである。
 2ちゃんねるアニメ掲示板は、大反響で1日で300近くの書き込み。中身は当然のことながら賛否両論。ただやっぱり2ちゃんねるだけあって、批判も重箱の隅をつつくような揚げ足取り的意見が多い。「暗号の出来が悪い」って主張する気持ちはわかるが、そこを突っつくより、暗号文を作る必然性のなさを突っ込む方が先でしょ。安易なドラマ造りしてる方を問題にしようよ。


 アニメ『スパイラル』、今日は総集編っぽい感じ。原作にも追い付いて来ちゃったけれど未だに「ブレードチルドレン」の謎は解かれていない。ちゃんとアニメシリーズの方は落ちがつくのかねえ。

 CSスーパーチャンネルで『バンパイアハンターD』と『めまい』、続けて見る。前にも感想書いたんで特に付け加えることはなし。マッドハウスの作画、やっぱ気持ち悪いわ。


 マンガ、堂高しげる『全日本ミス・コンビニ選手権』(講談社/アッパーズKC・530円)。
 なんかいきなりしげがこんなの買って来ました。読んで「つまんない」とか言ってたけど、オタクネタのない堂高さんのマンガって、そんなものでしょう。当然、あとで描かれた『妹選手権』の方が、クダラナサも過激化していて面白い。このころはまだ下品さを理詰めでマンガ化しようとしてるね。下品は下品のままサラッとだした方が面白くなるよ。
 それに私ゃコンビニの制服にもファミレスの制服にもそんなに心惹かれないからね〜。特に面白がる要素ないのよ、このマンガ。ま、好きな人は好きなんでしょうから、私はあえて「つまんない」とは言いません。
 それはそれとして、作中、当然のことながらコンビニやファミレスの名前をそのまんま出せるわけはないので、モジッて出てくるんだけれど、いくつかわからないのがある。
 「ファミリーマーダー」(殺すんかい)→「ファミリーマート」
 「ピーソン」→「ローソン」
 「ミニスコップ」→「ミニストップ」
 と、ここまではわかったけど、「ザンゲフ」ってのは何? これに近い名前のコンビニって、福岡近辺では見かけないんだけど。
 ファミレスも、
 「スカイウォーク」→「スカイラーク」 
 「バーニーズ」→「デニーズ」
 ってのはわかったんだが、「熊猫家族飯店」と「和食処大正浪漫亭」の元ネタが分らない。そんな漢字だらけのファミレスあるんか。

2002年01月07日(月) 食い放題に泣く女/『エンジェル・ハート』2巻(北条司)ほか
2001年01月07日(日)  ああ、あと三日休みが欲しい(贅沢)/アニメ『人狼』ほか


2003年01月06日(月) 食えないモノを食う話/『名探偵コナン 揺れる警視庁1200万人の人質』/『ジャイアントロボ誕生編』(伊達憲星・冨士原昌幸)ほか

 体調、昨日よりさらに悪化。
 仕事しててもヘロヘロなので、有休を取って帰宅する。
 毎年ね、「今年こそはバッチリ仕事するぞ」とか考えるんだけどね、気合を入れた途端に風邪引いたりすること多くてさあ。しかも、熱がほとんど出ないもんだから、長引くことったら。
 悪い咳が出てるしなあ、今回もチト苦しめられそうな。
 
 せっかく昼どきに帰ってきたのだから、しげと食事を一緒にしようかと思ったら、「先約があるから」と断られる。てっきり鴉丸さんあたりとの約束かと思って「誰と?」と聞いてみたら、「ゴロちゃん(=円谷君)」と言う。
 「珍しいな。なんでまた?」
 「餃子食いに行くんよ」
 「餃子ッて……どこの?」
 「あの○○○の○○○○○○の○○の店」
 「……あのクソマズの!?」
 なにしろ、中の具が全く煮えてなくて半生、皮もベタベタネトネトと脱脂粉乳の皮膜で作ったよう、ゲロマズ、腐ってる、臭い、吐きそう、サイテー、エンガチョ、人間の食いもんじゃねー、どんな言葉を使っても譬えられないほどにマズい餃子で、最初に食ったのはもう何年前か、二度と食いたくないと二人して語り合ったものだったが、それをどうして今更。
 「昨日の練習のときにゴロちゃんにその餃子の話したら『食べてみたい』って言うから」
 「で、今日食べに行くって約束したん?」
 「そう」
 「円谷君は、ばかか?」
 もちろん、バカなのであろう。
 でも、本人が「食いたい」と所望しているものを、わざわざ止めるというのも余計なお世話であろう。まかり間違って、「味がよくなってる」可能性だって、ないとは言えないではないか。
 そうしげに伝えたら、「そうなんよ、もし美味しくなってたらどうしようか」
 ……そんなに不味い餃子を食わせたいんかい。もしかしてしげ、内心円谷君を嫌ってないか。
 なんとなく展開が不安になったので、一緒に付いて行こうかと思ったが、立ち眩みがしたので中止。家でしげの報告を待つことにする。

 数時間後、帰宅したしげに顛末を聞いて見る。
 「どうだった? 味は」
 「あ? 不味かったよ」
 「円谷君の反応は?」
 「一口目はね、『こんなもんですか?』とか言ってたんだけど、二口目で『しげさんの言う気持ち、分りました』って」
 やっぱりわざわざ自分のバカを確認しに行ったようなものである。
 これほどにマズいものを売ってる店がよく潰れずに残ってるなあ、とは私も疑問に思わないではない。全部食い切れずに吐いて残す客だって相当いるんじゃないかと思う。
 けれどこの店、意外や意外、以前某マンガで「博多の美味い店」として紹介されているのだ。「なんだ、実は美味くって、アンタの舌がおかしいだけじゃないの?」と突っ込まれそうだが、マンガを読む限り、その作者が食べたのはラーメンだけで餃子は食べていないのだ(ラーメンは普通のとんこつ味である。私は嫌いだが、これは好みだろう)。
 とにもかくにも、そういう「お墨付き」の与えられた店に対して文句をつけるのには、お客さんたちも抵抗があるのだろう。私だって毒盛られたわけじゃなきゃ黙ってるよ。
 味覚は主観に左右されることが多いから、「ホントにそこまでヒドイの?」と仰る向きもあろうが、今のところ、「マズいけど食う?」と忠告したにもかかわらず果敢に挑戦し、「美味かった」はおろか「それほどでもないんじゃない?」と言った人間はただの一人も存在しない。
 それでも「食べてみたい」と仰る奇特な方には場所を教えるに吝かではないので、メールでも下さいな。ただしあとの責任は一切負わないし、「やっぱりマズかったやんけ!」なんて言われても、「アホ」のひとことしか返しません。

 しげ、それから職場の飲み会があるというので誘われて出かけて行ったが、そのまま朝まで帰ってこない。飲み出したらとまらねえもんな、あいつ。
 通常、こういう場合、夫は妻の浮気なんかを心配するもののようにも思うが、そんな気に全くなれないのはなぜなんだろう。やっぱりそれだけ妻を信頼しているからなのだな(^o^)。


 テレビで『名探偵コナンスペシャル 揺れる警視庁1200万人の人質』。
 佐藤刑事&高木刑事のラブラブ編&連続爆破犯を10年に渡って追い続ける話。
 原作付きだけれど、冒頭に「萩原」って刑事が殉職する話を追加。萩原が死んで松田が死んでって……まあ、元ネタは明らかだけれど、カッコつけてるだけで内面のないキャラがいくら死んだって、訴えるものはなにもない。回数が増えた分、くどい印象しか与えない。萩原も松田も、爆弾解体作業中に何をムダ話してやがるかコイツって感じだしなあ。
 犯人の「仕掛け」は、爆弾の爆破3秒前に、次の爆破予定地が表示される、というもの。
 爆弾の仕掛けられた観覧車に閉じ込められた松田刑事、それを読むまでは爆弾を解体できず、読んで佐藤刑事の携帯に場所を送信している間に3秒は過ぎ、爆死……ってんだけど、まあ、10年も前に携帯が普及してたのかってツッコミは置いといても、爆弾止めてから場所を送信すればいいじゃん? と考えたのは私一人じゃないはず。松田刑事、サルか……と思ってたら、あとでコナンが全くその通りのことをして爆破を回避しちゃうんだものなあ。これじゃ松田刑事、無駄死にどころかただの「バカ死に」である。
 今回の事件では、コナンと高木刑事がタワーのエレベーターに閉じ込められるのだけれど、犯人、以前は素直に次回の爆破予告地を教えてたのに、なぜかそれを暗号化。犯人がよりイジワルになっているってことなのかもしれないが、だったらいっそのことウソの予告をすりゃイイんじゃないかね。この犯人、妙なところで正直である。
 このときの暗号、原作読んだときにも思ったが、ただのコジツケで暗号なんて言えた代物ではない。“detective(探偵)”をひっくり返して“evit……”で「帝丹高校」を示すってねえ……。いや、話の流れから帝丹高校が狙われてるってのはバレバレだから、その分、暗号のコジツケ具合が目立って興を削がれることおびただしい。

 でも、そういう細かいところはまだまだマシなところで、一番情けないのが、犯人の動機に関する描写の中途半端さなんだよなあ。
 もともと犯人はただの金目的、動機に同情の余地は一切なかったんだけれど、途中、仲間が警察のダマし打ちで死んだと錯覚して、警察への復讐がメインになってくる。こうなると盗人にも三分の理じゃないが、視聴者の犯人への同情だって少しは生まれてくる。少なくとも、犯人の誤解は解かないとって展開は当然期待されるのだが、これが全くない。
 いったいなんのためのネタ振り? と思ってたら、ラスト近くで、松田刑事の復讐の念に駆られた佐藤刑事が思わず犯人を射殺しようとしたのを、高木刑事が止めたときのセリフにそのワケがあったのだね。
 「何やってるんですか、佐藤さん。いつも、佐藤さんが言ってるでしょ。誇りと使命感を持って、国家と国民に奉仕し、恐れや憎しみに囚われずにいかなる場合も人権を尊重して公正に警察職務を執行しろって、そう言ってたじゃないですか。そんなんじゃ、松田刑事に怒られちゃいますよ」
 つまり「犯人の人権」を尊重しろ、と言いたいわけだ。けれど、リクツではそうでも、描かれる犯人に同情の余地が全くなければ、「なんでこんなやつの人権まで保障してやらなきゃならんのだ」と、いう感情はどうしたって動く。マンガはリクツじゃないんだからさ。そのために「盗人に三分の理」を与えたってワケだ。姑息だねえ。
 「こんなやつのために松田君が!」って佐藤刑事の怒りも、犯人の「警察めハメやがったな」も、どちらも両立させようとするからこんな中途半端な描写になる。ミステリという現実の世界に根差したドラマを作ろうってんなら、たとえ子供向けアニメでも、いや、子供向けアニメだからこそ、こういう「正義とは何か?」「罪とは何か?」って命題を適当に扱っちゃマズイでしょ。
 「なんで佐藤刑事、犯人を撃たなかったの?」
 「どんなに悪い人でも、勝手に殺しちゃいけないんだよ。ちゃんと裁判にかけないと」
 「かけたら死刑になるの?」
 「なるときもあるし、ならないときもあるね」
 「ならなかったら、あの犯人、また同じような事件起こさない?」
 「どうかなあ、反省してもうしないんじゃないかなあ」
 「……ふーん」
 もちろんこの子、は犯人が反省なんてしないだろう、と思っている。でもそれを口に出しはしない。「これ以上、オトナと会話したって意味ない」と悟ってるからである。キャラ萌えのミーハーな客と違ってさ、子供はバカじゃないんだからね(バカなのもいるが)。
 子供向けアニメだからこそ、理想を語るのならもうちょっと強い基盤を持ったドラマを作ってほしいんである。『コナン』の諸作がつまらないのは、結局は作り手のオトナの根性が座ってないからにほかならない。


 『コミック1971』vol.2(週刊アサヒ芸能増刊1月24日号/徳間書店・390円)。
 1970年から数えて1年ごとに、その年の代表マンガを再録していくシリーズの第2弾。昭和で言えば46年、私は小学三年生で8歳だった。
 今回の巻頭を飾るのは、石森章太郎『仮面ライダー』の第1話。カラー原稿が4ページ分復刻されているが、本来は16ページであった。どうせなら全ページカラー復刻してほしかったけれど、そうすると390円って値段が維持できないんだろうなあ。
 当時の記憶をよみがえらせてみると、石森さんの描線が随分「ザツ」になってしまったことにショックを受けたものだった。もちろんこの後もっともっとザツになっていくのだが、マンガ家としての石森章太郎の頂点はこの前年、昭和45(1970)年だったのだなあ、と今にして思う。作品の完成度、という意味で考えれば、『リュウの道』が最高傑作、ということになるか(『家畜人ヤプー』という説も(^o^))。
 それでも原作版『仮面ライダー』はテレビ版よりも圧倒的に面白い。結果的に未完(?)の形で終わってしまったが、二人のライダーにはもっともっと孤独な闘いを続けてほしかったと思う。

 他の収録作のうち、注目すべきはあすなひろしの『寒いから早く殺して』や安部慎一の『背中』など。どちらも青年誌に発表されたもので、小学生だった私はリアルタイムで読んではいない。今や入手困難な二人の珠玉の作品が雑誌形式であれ読めるのは喜ばしい。
 永井豪の『くずれる』は『少年マガジン』で読んだ。ラストが怖くて、当時は二度読み返せなかった。

 1971年。
 当時の社会の出来事を年譜で辿ってみても、覚えているのは「左卜全死去」「大鵬引退」「大久保清の逮捕」「イタイイタイ病」「円、変動相場制へ」「黒澤明自殺未遂」ぐらいのものか。でもそういった社会的な「事件」は小学生にとってほとんど対岸の火事だった。左さんの死去と大鵬の引退は悲しかったが。
 ともかくこのころ、私にとっての「世界」は全てテレビの中にあった。
 ドラマでは『宇宙猿人ゴリ』『天下御免』『おれは男だ!』『なんたって18歳』『大忠臣蔵』『繭子ひとり』『帰ってきたウルトラマン』『仮面ライダー』『好き!好き!!魔女先生』『美しきチャレンジャー』『ぼてじゃこ物語』『つくし誰の子』『刑事くん』『浮世絵・女ねずみ小僧』『シルバー仮面』『ミラーマン』(最後の2本は裏番組どうしで、チャンネル変えまくって見た)。このへんは全部見ていたし、アニメはもっと言わずもがな。
 『カバトット』『アンデルセン物語』『さすらいの太陽』『新オバケのQ太郎』『天才バカボン』『ふしぎなメルモ』『さるとびエッちゃん』『国松さまのお通りだい』『アパッチ野球軍』『ゲゲゲの鬼太郎(新)』『スカイヤーズ5』『ルパン三世』『原始少年リュウ』、これでは外で遊ぶヒマなんて全くなかったのは当たり前だ(^_^;)。
 昭和ガメラシリーズの最終作、『ガメラ対深海怪獣ジグラ』を“日活の映画館”で見たのもこの年(経営悪化していた大映は、最後には日活と合併していたのである)。大映倒産のニュースは学校の帰り道で友達から聞いた。「来年からもうガメラが見られない……」この年最大のショックな出来事だったかもしれない。
 ほかに劇場まで見にいった映画は、『キングコング対ゴジラ』『どうぶつ宝島』『アリババと40匹の盗賊』『ゴジラ対ヘドラ』(教室で「水銀コバルト……と歌って、いやがられたなあ)『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 三大怪獣地上最大の決戦』(ラドンがタイトルにいないじゃん、と怒っていた)。小学三年生だから、一般映画なんか見ない。
 けれど、『どうぶつ宝島』から『アリババ』に移行した途端、東映動画の脚本も作画もガクンと下がったのはガキの目にもハッキリ分った。「セル枚数使ってないじゃん!」とか考えてたんだから、8歳のクセに生意気なガキではあった。
 後にわかったことだが、この間に宮崎駿を始め、東映動画のベテランがごっそりと退社してたのである。

 もう、30年以上も昔だ。しげもこの世に陰も形もなかったころ。
 ドラマのタイトルを眺めていると、あのころの感覚が、今でも自分の中に残っていることに我ながら驚きを覚える。オトナの目からは生意気に映ってたかもしれないが、本人は素直にいいものはいい、悪いものは悪い、と判断していたのである。
 クラスの担任はサカイケイコ先生。独身で美人で優しくてエコヒイキがなくて、私が今まで出会ってきた先生の中で一番素敵な人だった。二年後にはインケンでイジワルでオバサンなクソタワケが担任になるので、このころが私の一生で一番幸せだったころかもしれない。
 「昔に戻りたい」という感覚は私にはあまりないのだが、1971年にならちょっと戻ってみてもいかな、と思う。


 『トラマガ』vol.3(インフォレスト・690円)。
 雑誌名より新連載の『ジャイアントロボ誕生編』のロゴの方が大きいのは前号と同じ。正直な話、『トラマガ』が潰れずに続くかどうかは、この『ジャイアントロボ』にかかってるかもしれないなあ。ほかの連載、あまりに弱すぎるし。
 アニメの続編がポシャッてマンガに、というのは『機動戦士ガンダム クロスボーン・バンガード』という前例がある。まあ完全にお蔵入りになるよりは続編を見られた方がいいに決まっているけれど、やっぱり「アニメで見たかった」という思いは強い。脚本の「伊達憲星」、十中八九、OVA版の監督の今川泰宏の変名だと思うけど、「『地球が静止する日』以外にもアレとコレと、ストーリーはたくさんある」と散々ハッタリかましてくれたんだから、キチンと始末はつけてほしいものだ。
 とりあえず誕生編の第1話、派手な展開で見せてはくれる。
 気になるのは、草間大作がいきなり記憶喪失だったり、銀鈴がBF団の一員だったり、村雨健次が「ネルソン沢田」という名前で出てきたり、氷室博士のデザインがなぜかOVA版のシズマ博士(『鉄人28号』のドラグネット博士)と同じだったり、OVA版と比較してみると、微妙に設定が違うところ。作者はちゃんと整合性を取るつもりなのか、もう完全な仕切り直しでこれまでの設定は無視するつもりなのか、今のところまだ判別がつかない。
 けれどBF団のエージェントNO.5が「衝撃のアルベルト」であることはまず間違いないな。仮面の上からまで葉巻くわえてるのはご愛嬌だけれど(^o^)。
 冨士原昌幸さんの作画も、以前のコミック版の水田麻里さんに比べると画面構成に元気があって遥かにいい。デザインの山下明彦さんの「味」がイマイチ出ていないのはちょっと残念だけれど。


 今年の流行語対象が早くも「ウェー、ハッハッハ」に決まりそうな気配である(^_^;)。北朝鮮のメディアに出てくる人たちのイッちゃってる様子っつーか、気持ち悪さというのは、戦前の日本を鏡に映してるみたいだなあ、と思ってたんだけれど、時代劇の影響も受けてないか。なんだかあの喋り方に団徳麿あたりをイメージしたのは私だけでしょうか(古すぎだって)。

2002年01月06日(日) 言えない話と男の優しさと英語落語と/『西岸良平名作集 蜃気郎』1巻(西岸良平)ほか
2001年01月06日(土) ああ、今日は土曜か。今気づいた(^_^;)。/映画『ビッグムービー』


2003年01月05日(日) インド人にビックリ/『膨張する事件』(とり・みき)/『バンパイヤ/ロックの巻/バンパイヤ革命の巻』(完結/手塚治虫)ほか

体調、夕べより悪化する。
 どうにも寒気がしてダルいので、職場に連絡を入れて休もうとしたら、偶然にも積雪のせいで職場自体、休みになっていた。どうも同僚がのきなみ「雪でたどり付けませ〜ん」と泣きの連絡を入れまくったらしい。全く、これだからイナカの職場は(^_^;)。
 もともと休日なんだから休んでいいんはずなんである。
 ホッとして昼寝。


 しげは、10時から芝居の練習に。
 台本が上がらなかったのでまたブツブツ文句を言われるが、「来週までには上げる」と約束させられる。
 「あと一週間で書けると?」
 「書き出したら速いから。一んちあれば充分だよ」
 「そう言ってギリギリまで書かんやん。アンタ、夏休みの宿題、最後の2、3日で書くタイプやろ」
 いや、それはなかったなあ。夏休みの宿題はどちらかというと早めに仕上げてあとは遊んでたほうだ。最後の2、3日でできる程度のレベルの宿題なら、最初にやっちゃったほうが楽に決まっている。
 台本が宿題と一緒にならないのは、アタマの中で寝かせて置けば寝かせておくほど、面白くなるからである。ギリギリになる面があるのも仕方がないと思ってほしい。

 練習は3時半には終わるはずである。
 けれど、5時を回ってもしげはいっかな帰ってこない。
 どうしたのかと思っていたら、ようやく7時を回って帰宅。
 練習後、打ち合わせもかねて、其ノ他君、鴉丸嬢と天神の「ナーナック」で食事をしてきたとか。
 以前も書いたが、本場のインド料理をむちゃくちゃ愛想のいいインド人が目の前で作ってくれる料理屋である。店内がすげえ狭いんで、インド人ととってもアットホームな雰囲気にになれます(^^)。
 「あの二人、『ナーナック』で食事するの初めてかね?」
 「だってよ」
 「インド人にはビックリしたろう」
 「其ノ他君は受けてたけどね」
 「鴉丸さんはどうだった?」
 「『食えるもんがない』って泣いてた」
 「辛いのダメなの?」
 「おなかの調子が今悪いんだって。だからカレーじゃなくてスープを頼んだんだけど……」
 「辛かったんだろう」
 「うん。『甘かった、インドを舐めてた』って言ってた」
 結局、味は気に入ったのかどうか。鴉丸嬢もしげに負けず劣らず偏食っぽいから、少しは本格的な料理を食べる習慣、身につけたほうがいいと思うんだけどな。


 マンガ、とり・みき『膨張する事件』(筑摩書房・1155円)。
 ポール・サイモンはなぜよこたとくおの顔をしているのか?
 いや、もちろんそれが面白いからなのだけれども、音楽畑には全く疎い私にでさえ、この作品集の中で一番面白かったマンガが、アルドン・ミュージック社のミュージシャンたちを、トキワ荘の面々の自画像キャラで描くという『アルドン荘物語』だったというのは、とりさんにとってはちょっと面白くない事実ではなかろうか。要するにせっかくの面白いネタを、とりさんの絵柄は十全に表現しきれてはいない、ということだからである。
 その件について語る前に、このもしかしたらとり・みき最高傑作かもしれない『アルドン荘物語』の「配役」について紹介しておこう。
 バリー・マン………………………赤塚不二夫
 ドン・カーシュナー………………寺田ヒロオ
 ハワード・グリーンフィールド…藤本 弘(藤子・F・不二雄)
 ニール・セダカ……………………安孫子素雄(藤子不二雄A)
 キャロル・キング…………………水野英子
 ゲリー・ゴフィン…………………石森章太郎
 テディ・ランダッツィオ…………つげ義春
 ポール・サイモン…………………よこたとくお
 どうです、これだけで笑えてきませんか。
 彼らの出会い、修業時代、デビューをわずか2ページで描き切ったのがこの『アルデン荘物語』なのである。名前は出て来ないが、アルドンのもう一人の創立者、アル・ネヴィンスは、当然手塚治虫であろう(^o^)。
 実は、この中で私が顔を知ってるミュージシャンといえばニール・セダカとポール・サイモンしかいないのだか(だからホントに音楽には詳しくないんだってば)、言われてみると安孫子さんとよこたさんの二人の似顔絵がピッタリに見えてくるのである(^o^)。いや、錯覚だってことはわかってるけど、そう見えてしまうところがマンガのチカラなんでね。
 悔しいのだけれど、私にはあともう一人のキャラクター、シンシア・ウェイルが誰の自画像であるかがわからない。劇画チックな絵柄なので、少女マンガ家ではない気もするが、今村洋子でも里中満智子でも池田理代子でもない。トキワ荘に入ったことのある女性は水野英子だけだし、赤塚不二夫のアシストをしていた土田よしこの自画像は全然違うマンガタッチのものである。
 こういうときこそ、ネットでの情報がモノを言うと思って探してみたのだが、こんな細かいネタにまで触れてる記事が全くない。もしかしたら世界で唯一『アルデン荘物語』について詳しくレビューしているのがこの私の記事ではないのか(^_^;)。
 誰かご存知の方はいらっしゃいませんか。

 『アルデン〜』の話ばかりになってしまったが、この本は『事件の地平線』を始め、実際にちまたで起きた事件をネタにして、ギャグマンガにしたものがほとんどである。
 これが面白いかどうかと言うと、なんつーかね、微妙なんである。
 例えば1998年8月の技術試験衛星の「おりひめ」「ひこぼし」のドッキング失敗のニュース、これを「おりひめ、ひこぼしという名前がそもそもよくない」と、宇宙開発事業団が名前をほかに考える、というネタなんだけれど、まあ、どういう展開になるか、見当はつきますわな。最初はマトモなものがどんどんヘンになっていく、というのはギャグの定番だけれど、よっぽどのモノを出さないとこれって落ちがつきにくい。ムリが目立って逆に白けてしまう例も出て来てしまう。
 「アダムとイブ」「いざなぎ・いざなみ」はまだいいとして、後半は「キングコング対ゴジラ」「キクとイサム」「マダムと女房」「敏いとうとハッピー&ブルー」「パンダコパンダ」と、これで笑えと言うのか、というラインナップになって来るのだ。
 いや、微妙につまらないところが面白いと言えなくもないが、それはやっぱりつまらないってことなんだろう。
 で、このつまらないネタも、田中圭一の『神罰』のように、手塚キャラでやってたら笑えたかな、と思ったときに、とりさんのキャラクター、マンガとしては「弱い」あるいは「重い」んじゃないか、ということを感じたのである。
 とりさんが吾妻ひでおの影響を受けていることはご本人も認めていることだが、では吾妻さんが生み出した様々なキャラクター、例えば三蔵や不気味やナハハや阿素湖素子に匹敵するものって、あまりいないのではないか。いや、全くいないとは言わないが、本作では私の好きな秋田先生も吉田さんも登場しない。とりさんの今の太い描線で彼らの個性を描き出すのはなかなか難しくなっている。あのタキタさんですら、本作ではその個性を『遠くへ行きたい』ほどには表していないのだ。
 シリアスなマンガも描くが、とりさんの本質はやはりギャグマンガにあると思う。できれば16ページなら16ページ、まとまった形でのとりギャグを見せてほしいのだけれど、なかなか掲載誌がないのかもなあ。
 もしかして、未だに『てりぶる少年団』の失敗が尾を引いてるのかも(^_^;)。


 マンガ、手塚治虫『ヒゲオヤジの冒険』(河出文庫・819円)。
 世代的に言って、私が初めて出会った「ヒゲオヤジ」は、もちろん『鉄腕アトム』である。モノクロ版のヒゲオヤジの声は矢島正明さんであった。

 ここでまた、以前『華麗なるロック・ホーム』のときみたいに、映像化されたヒゲオヤジの歴史を辿る、ということをやってみようかとも思ったんだが、アナタ、ロックのときも持ってるビデオテープを何10本も引っ張り出し(ネットは資料的価値のあるページがほとんどなく、チョイ役までは記載されてないので、結局は現物に当たって確認するしかないのだ)、『アトム』モノクロ版をずっと早送りしながら見るなんてメンドクサイことやりまくって疲労困憊、すっかりいやんなっちゃったので、もう今回はそんなメンドクサイことはしない。
 もう記憶だけで簡単に書いちゃうと、矢島さんのほかには、熊倉一雄(『アトム(新)』)、大塚周夫(『火の鳥2772』)、富田耕生(『マリンエクスプレス』)の諸氏が声アテしていたと記憶する。チョイ役を含めるとほかにもいろんな人がやってるだろう。実写版『アトム』や『バンパイヤ』とかはカンベンして。見返して確認する元気なんてない(^_^;)。確か本木雅弘版の『ブラックジャック』ではいかりや長介がヒゲなしでやってたよな。掏りの名人役で。
 手塚治虫さんはキャラクターシステムを採用するにあたって、声優さんもできるだけフィックスさせるようにしていた。だからアトムはCMに至るまでいつも清水マリさんがアテていたし、御茶ノ水博士はナーゼンコップ博士の役を演じても声は勝田久さんだったのである。
 ところがヒゲオヤジのようにこれだけ数多くの作品に出演しているキャラクターだと、声優さんのスケジュール的にもフィックスは難しくなってくる。結局、「役者」としてのヒゲオヤジのイメージは散漫なものになってしまっているように思う。

 手塚治虫のメインキャラクターであるにもかかわらず、恐らくアニメ世代の人間にとって、ヒゲオヤジは、ほかの凡百の脇役と同列の、たいして印象に残らないキャラクターの一人にすぎない、と思われているのではなかろうか。悪役好きの私が珍しく、手塚キャラの「正義派」の中で好きだと言えるのがヒゲオヤジただ一人なので、そのように認識されてしまうのは残念でならないのである。
 もっとも、私も最初、アトムやレオやサファイヤといった、ごくフツーの(と言っても手塚さんのヒーローはどこかで「歪んで」いるのだが)ヒーロー、ヒロインたちに目を奪われていたことは否定しない。しかしたとえ脇役であっても「ヒゲオヤジがいなければ」成立しなかった作品も、特に初期作品には数多く見られるのだ。

 ヒゲオヤジの当たり役は、「私立探偵・伴俊作」である。ネーミングの由来ははっきりしないが、比佐芳武の「多羅尾“伴”内」と、甲賀三郎の「獅子内“俊”次」あたりからイメージしているのではないか。というのも、探偵とは言ってもこの二人は理知的なホームズや明智小五郎タイプではなく、活劇の主人公としての探偵、ニック・カァタァの系列に連なる探偵であるからだ。
 見た目は冴えない爺さんが、柔道の技で悪人どもをなぎ倒す、それはそれでカタルシスはあったのかもしれないが、一般的にはヒーロー然としたキャラクターが活劇の主人公であった方が客受けはよかったのではないか。にもかかわらず手塚さんは初期の作品ほどヒゲオヤジを「便利に」使っていた。これはいったい何を意味するか。
 ヒゲオヤジはしばしば「語り部」としての役を担う。『ロストワールド』でも『メトロポリス』でも、主役はあくまでケン一だ。しかし、そういった初期作品の多くで、主役たちはしばしば危難に遭い、作品によっては命を落とす。そして、彼らヒーローの愛や勇気や悲劇を読者に語り伝える役としてヒゲオヤジは配置されていた。

 その最たるものは、『ジャングル大帝』でレオの肉を食って生き延びるラスト・シーンだろう。率直に言って、ラストのムーン山のエピソードは、事前に伏線が貼ってあったとは言え、物語の締めくくりとして特に必要な話とは言えない。パンジャ、レオ、ルネとルッキオという「命」の流れを語るだけならば、レオを静かに死なせてもよかったはずである。
 しかし、レオは人間の欲望に巻き込まれて死んだ。にもかかわらずレオはそんな人間たちを最期まで助けようとした。結末がいささか唐突であろうと、手塚治虫が描きたかったのは、まさにその、欲望にとりつかれた人間のエゴである。そして人に知られぬ秘境で起こった事件の顛末を、人間たちに伝えるための「告発者」が必要となるのである。
 ヒゲオヤジはその役にうってつけだった。
 ヒゲオヤジはオトナである。主人公である少年たちのよきサポート役である。しかし実はサポートに徹しなければならないということは、彼自身は物語の中で常に「無力」であることも運命的に担わされている、ということである。
 しかし、「無力」だからこそ、彼は世俗的な人間の欲望に引きずられることも少ない。ヒゲオヤジが「正義派」に見えるのは、実は彼が物語を左右するキャラクターではないからなのであって、一つ間違えれば彼が「悪」に転ぶ危険性も常に孕んではいたのである。

 本巻収録の『太平洋Xポイント』は、ヒゲオヤジに少し物語に関わる「力」が加わった作品である。必然、彼は「正義派」にはなれなくなる。そして最後に、これまでの作品では圧倒的に生き伸びることの多かった彼が、ついに死ぬのである。
 私はヒゲオヤジが死ぬ作品をこれの外には『ブラックジャック』の数編くらいしか知らない。キャラクターに仮託したようなモノイイはいささか感傷的に過ぎるかもしれないが、私はもう随分前からヒゲオヤジは「死にたかった」のではないかと思うのだ。
 『Xポイント』のラストシーンのヒゲオヤジの顔は、まるで永遠に死ねない者がようやく終焉を得た満足感に満ち溢れているように見える。
 『ポーの一族』のオリジナルは実は「ヒゲオヤジ」だった、と言ったら、怒る人いるかな。でも私にとってのヒゲオヤジは、そういうキャラなんですよ。


 マンガ、手塚治虫『バンパイヤ/ロックの巻』『バンパイヤ/バンパイヤ革命の巻』(完結/秋田書店/秋田トップコミックス・各300円)。
 ホントは完結してないんだけれど、第2部は雑誌の休刊で結局未完のままだから、特に手塚マニアでない人はここで読むのをやめるのがちょうどいいと思う。
 もともとテレビドラマ化で再開された第2部だし、生前の作者は「必ず続きを描きます」とか言ってたけど、それが本気ならいつだって再開できたはずだし、作家のこういうセリフはほとんど眉唾なのである。
 作品の発表は1966年から1969年にかけてで、手塚治虫が少年マンガから青年マンガに移行していく直前にあたる。そのせいなのか、『少年サンデー』に連載されていた作品であるにもかかわらず、青年誌的なダークな雰囲気が漂っている(この雰囲気は『どろろ』にも共通するもの)。
 さて、たしか夏目房之介氏も指摘していたと思うが、当時の手塚作品、昔のマンガチックな表現と、リアルな劇画的表現がせめぎあっていて、今の目で見るとなんとも珍妙に映る部分が多いのだ。
 手塚ファンには名シーンとして捉えられることの多い「ロックのミュージカル」シーン、冷静に見たら笑えないかね。いや、昔見た時には笑うというより「なんじゃこりゃ?」だったんだけど。
 政府の要人をバンパイヤを利用して次々に暗殺していくロックが、自分の悪魔的行為に酔いしれて、ホテルの一室で踊り出すのである。手塚治虫はそれまでにもマンガの中によくこういう音楽シーンを挿入することが多かったのだが、『バンパイヤ』ではその手のたぐいの「おふざけ」をずっと控えていたので、いかにも唐突な印象を与える。
 しかもその歌詞が「しきたりなんかクそっくらえ!! ゴミすてるな? 花おるべからず? 動物をかわいがれ? 信号は赤でとまれ? へん チャンチャラおかしいや」である。殺人まで行ったロックにしちゃ、歌の内容、かわいらしすぎないか。これじゃまるで「悪人のクセにたいしたことができない」アメーバボーイズである(その他このギャグのサンプル極めて多し)。
 続編が描けなかったのは、かつてのファンの要望に合わせれば当時のこんな「いびつさ」までも再現せねばならず、かと言ってそんなことをすれば現代の読者から失笑を買うことを覚悟せねばならず、にっちもさっちも行かなくなっちゃったからではないか。
 『バンパイヤ』のラスト、自分が殺してきた人間たちの亡霊に悩まされるロックの姿は『四谷怪談』の民谷伊右衛門の引き移しだが、果たしてそれはホンモノの亡霊かロックの狂気が見せた幻か。それが判然としないところに、マンガとも劇画とも断定しえぬ『バンパイヤ』の作品としての不安定さが見て取れるのである。
 単独で別作品に出演するようになったロックは、この後、踊ったりはしなくなる。普通のヒーローやコメディリリーフの役割は、別のキャラクターに託されて行くのだ。
 どんな作品も「時代」との関わりを無視して語ることはできない。作者がどんなに普遍性を持たせようとしても、文化や風俗、思潮は時々刻々と変化していく。寺田ヒロオの断筆に端的に表れている古きよき少年マンガの消滅、安保闘争の終焉、高度経済成長とオイルショックに象徴されるような狂乱の70年代は、もうすぐ目の前だった。

2002年01月05日(土) 食って寝て食って歌って/ドラマ『エスパー魔美』第1話/『ピグマリオ』7巻(和田慎二)
2001年01月05日(金) やっぱウチはカカア天下か


2003年01月04日(土) めかなんて、こどもだからわかんないや/『眠狂四郎』6巻(柴田錬三郎・柳川喜弘)/『ああ探偵事務所』2巻(関崎俊三)

 天気予報で雪が降るとは聞いていたが、ホントに降るとは思わなかった。
 それくらい、「雪」なんてのは福岡じゃ珍しくなっている。一昨年の豪雪なんて、ここ10年では稀有な例だ。
 昨日一日は休めたが、今日はまた仕事である。時間も特に早出というわけではなく、午前中のみ。正月の、しかも休日にわざわざ出勤させてるんだから、働くにしてもせめてこれくらいにしてくれないとなあ。
 しげはもう朝は起きられないもの、と覚悟して(実際に起きてこなかったのだが)、速めにタクシーを拾いにいく。

 タクシーの運ちゃんとの会話。
 「降りましたねえ。昨日から冷えこんでましたからねえ」
 「最近じゃ珍しいですね。30年くらい前は毎年のように降っちゃ積もりしてたもんですけどね。やっぱり地球は温暖化してるんですかね」
 「じゃないですか?」
 「今日のは積もりますかね?」
 「積もるでしょう、これだけ降ってますからねえ」
 「車はたいへんでしょう? 山道なんか進めないでしょう」
 「そこまでは……どうですかね」
 「一昨年なんかこの坂道、全然進みませんでしたよ。すべって。今はみんなチェーン捲かないみたいですからね」
 「チェーン捲かなくても、ちゃんと雪用のタイヤがあるんですよ」
 「チェーンより滑らないんですか?」
 「滑らんです」
 「でも、一昨年は滑ってましたからねえ。限度はあるんでしょう」
 「そりゃ限度はね」
 「文明の利器も自然にゃ勝てないってことですかね」
 「全くそうですねえ」

 全く、他愛のない会話である。
 しげと会話するときも「オマエとの会話で何かが生み出されることってないな」と常日頃言っているのだが、実のところ、人間の会話で実のある話などそうそうできるものではないのではなかろうか。
 昔、私は、タクシーの運ちゃんはおろか、家族や友人とでもこういう「他愛のない会話」をするのがむちゃくちゃ苦手だった。それこそ天気の話一つできなかったのである。
 「雪が降ったから、それが何?」
 ってなもんで、その先、会話がどう転んでいくかわからぬ言葉を口にすることに、異常に抵抗感を感じていたのだ。
 それが自分自身の傲慢に過ぎないことに気づくのには随分時間がかかった。要するに、心のどこかで、「どうせ一過性の外交辞令じゃないか」「実のない言葉を話し掛けてくるなんて、こいつは内心、オレのことバカにしてやがるのだ」なんて被害妄想に陥っていたのである。バカはオマエじゃ。
 ……そういう感覚が小学生のころから大学のころまで続いたのだから、その間の自意識過剰ぶりというか、人間としての成長のなさを思うと、慙愧の念に耐えない。
 頑なになっていた時期が長かった後遺症で、今でも挨拶だの会釈だの、決して上手くはないのだが、とりあえず、こういう他愛のない会話をやりとりできるくらいに私もオトナにはなったんだなあ、と思う。


 買ったばかりのDVD‐RW、どの程度の機能かと何度か試し録画。
 記録フォーマットに「VR(Video Recording)モード」と「ビデオモード」の二種類あるってところからして、キカイ音痴の私には閉口ものなのだが、VRモードってのはRW対応機種での録画編集を何度も繰り返して行える、というものらしい。ビデオモードというのは、録画した映像をファイナライズ処理(いわゆる保存処理ってことだな)することで、市販のDVDプレーヤーでも再生できるようにしたもの。
 こないだ紅白を録画したときは、その違いがよくわからずに、VRモードで撮っちゃったのだが、そうなるとRW対応機を持っていない人にこのDVDは貸し出せないことになる。
 となれば、知り合いや友人にDVDを貸せるように、というのも目的の一つだから、設定を常に「ビデオモード」にしておけばいいかな、と考えて、今日はCSスーパーチャンネルの『新刑事コロンボ・死を呼ぶジグゾー』をビデオモードで録画してみる(この映画は以前に見てるので詳しい感想は書かない。コロンボとしては駄作である)。
 録り終わって、早速パナソニックのLD‐DVDコンパチプレイヤーにかけてみると、なかなかの画質である。音もクリアーで、さて、副音声の方はどんなもんだろう、とオーディオ切り替えのボタンを押してみるが、いっかな、英語が聞こえてこない。ボタン操作を間違えたのかと、設定表示を調べてみるが、やっぱり原因は解らない。
 説明書をもう一度読み返してみると、なんとビデオモードでは二カ国語録音が出来ないのであった。
 ……えーっと、つまり二カ国語録音するためにはVRモードで録画しなければならず、そうするとDVDの貸し出しは不可能で、ビデオモードで録画すると人に貸すことは出来るけれども、主音声しか聞けない、とそういうワケ?
 中途半端な性能だなあ。これが「出たばかり」のDVDレコーダーの限界なんだろうなあ。もうしばらくすれば、もっと改善された機能のブツが出回ることになるんだろうけれど、今はこれでガマンするしかないなあ。

 気を取りなおして、同じくCSスーパーチャンネルの『サタデー・ナイト・ライブ』vol.20を録画。
 録画時間モードが四種類(60分から360分まで)あるのだが、60分番組(実際は正味45分)なので、「高画質映像で録画可能」と説明書にある「FINE」モード(60分)で録画してみる。
 確かに画質はいいかもしれないが、ビデオテープよりかなり割高になる計算。デッキが壊れたんで仕方なくDVDに移行したのだけれど、今んとこ一般的にはDVDレコーダーをあえて買わなきゃならないメリットはないんじゃないかな。

 『サタデー・ナイト・ライブ』と番組欄にも表記されてるが、放映初期のものなので、タイトルはまだ“NBC’S SATURDAY NIGHT”。恐らくこれは1975年の放送分。ジョン・ベルーシもダン・エイクロイドも20代でド新人だったころである。
 ホストのリリー・トムリンがオープニングで出演者たちの名前を間違えまくる、というギャグは当然、当時だから成り立つもの。けれどその「間違え方」にも「工夫」があるのが楽しい。
 チェビー・チェスを“ジェリー”・チェイスと言い間違えるのは念頭に「ジェリー・ルイス」があるからだろう。「ウィークエンド・アップデイト」のスケッチにもディーン・マーティンとジェリー・ルイスの“底抜けコンビ”の「和解」が紹介されているから、当時ちょうど「時の人」扱いされていたらしいことがわかる。小林信彦の『世界の喜劇人』を読むとホントにただの「芸ナシ」にしか思えないジェリー・ルイスだけれど、それでもある世代のアメリカ人にとっては強烈な印象を残していたのだろう。ルイスが『底抜け再就職も楽じゃない』や『ジェリー・ルイスの双子の鶏フン騒動』(原作はカート・ヴォネガットの『スラップスティック』!)で本格的に「復活」するのは数年後のことである。
 ギルダ・ラドナーをゴールディ・ゴールディと言い間違えるのはゴールディ・ホーンとの混同。これも当時のゴールディ・ホーンが『シャンプー』などでコメディエンヌとして高く評価されていたからだと思われる。
 偶然にもチェビー・チェイスはこの後、ゴールディ・ホーンと『ファール・プレイ』で共演することになる。
 しかし、やはり全てのギャグを理解するのは難しい。
 「再結成ブーム」で、デビー・レイノルズとエディ・フィッシャーが再びコンビを、というネタはわかるのだが(この二人の間の娘が「レイア姫」ことキャリー・フィッシャーである)、これにジミー・ホッファが絡むってのはどんな意味があるのかなあ。私はジャック・ニコルソン主演の『ホッファ』もチラッとしか見ちゃいないので、よくわからないのである。やっぱりマフィアがらみでみんなつるんでたのだろうか。


 マンガ、柴田錬三郎原作・柳川喜弘作画『眠狂四郎』6巻(新潮社/バンチコミックス・530円)。
 ついに出ました白鳥主膳。原作では華々しく登場したわりに、あっさり死んじゃった不遇のキャラであるけれど、マンガ版ではちゃんと眠狂四郎のライバルとしてキャラ立ちできるものかどうか。もっとも眠狂四郎自体がまだまだマンガのキャラクターとしてし「雰囲気だけ」でまるで内面が描けてないから、ドラマの展開自体は全然面白くなっていかないのである。
 もう6巻にもなるのに、絵が全然上達してないように見えるのも(なんたって男も女もみんな表情同じだもんなあ)、原作を読みこめてないから、キャラクターが一律化しちゃってるんである。眠狂四郎を桃太郎侍みたいに描くんじゃねえや。


 マンガ、関崎俊三『ああ探偵事務所』2巻(白泉社/ジェッツコミックス・530円)。
 探偵もの、とは言っても本格ミステリでもハードボイルドでもなくて、市井の「探偵事務所もの」なんだけど、ほどよいギャグが楽しい(けれどマイナー)なシリーズの第2弾。いかにも売れてそうにないんだけれど、ドラマとしては意外に骨格がしっかりしてるから、もっと人に知られてほしいんだよなあ。
 主役は事務所所長で推理とコスプレと少女マンガが好きな妻木氏なのだけれど、表紙絵は助手の井上涼子嬢のちょっとえっちなポーズ。商売としてはけだし、正解であろう(^o^)。
 収録されてる7話のうち、失踪中の少女マンガ家を探し出す「Case10/11」と、盗聴ノイローゼの女性の依頼を受ける「Case12〜14」が特に面白い。
 1巻でアニメ業界を描いた時にも、「アニメ関係者の顔ってヘン」と、一部に反感抱かれやしないかとヒヤヒヤもののネタを出してきてたけど、今巻の「少女マンガ編」でも、人気少女マンガ家・鈴木杏子(どこから取った名前かな〜)のアシスタントの顔がみんなとてつもなくイタイんである。いやもう、どいつもこいつも○○、○○、○○○のオンパレード。で、実際にこういう顔の人間っていそうだから怖い(^_^;)。
 少女マンガ家に対するヒドイ偏見として、ずっと昔、「少女マンガ家はみんな○○な自分から現実逃避するためにマンガ描いてる」というのがあったが、あえてその偏見を助長させたがってるような描きかたなんである。
 作者の関崎さん、女性だけをムチャクチャ描いちゃ悪いと考えたのか、編集部の男どももみんな人間の基準からちょっと外れてる面相のやつばかり描いてるんだけれど、世間の人々の心が海よりも広く深いことを祈るばかりである。
 それはそれとして、この「全国のどこに失踪したかわからないマンガ家」をわずか二日で探し出すテクニック、結構リアルなんじゃないか。「よそ者がいても目立たない程度に人口のある都市」を探せってのは納得できるし、昔はいざ知らず、乳母日傘でないと生活できない現代の少女マンガ家に野宿はムリであろう(←これも偏見)。
 で、盗聴ノイローゼのご令嬢、遥ちゃんであるが、自分を覗いてる犯人はN■Kだそうである。なんとなればN■Kの集金のおじさんがニヤニヤしてたかららしい(^_^;)。そのあと遥ちゃんは考えを改めて、犯人はN■Kではないと気づくのだが、では誰が犯人かというと、CIAだったそうで。
 ……私、遥ちゃんと全く同じ主張してた人を、以前実際に知ってたんですけど、なんですか、盗聴ノイローゼの人って、つまるところ自分の存在を「盗聴・監視されるくらいの重要人物」だと認識してほしいんですかね。マンガの中ではなんだかんだあって、遥ちゃんのノイローゼは最終的に治るんだけれど、現実のノイローゼの方の場合はなかなか治らないもののようであります。
 だいたいCIAに監視されるような重要人物が、そうそうそのへんに転がってるわけないじゃないですか。そんなのはドイツ統一にもソ連邦崩壊にもウラで関わった私くらいのものです。


 夕方くらいから咳が激しくなる。ヤバいなあ。

2002年01月04日(金) 消えた眼鏡と毒ガスと入浴シーンと/『テレビ「水戸黄門」のすべて』(齋藤憲彦・井筒清次)
2001年01月04日(木) ああ、つい映画見てると作業が進まん/『快傑ライオン丸』1巻(一峰大二)ほか


2003年01月03日(金) 日記書いたことしか記憶にないな/『ヘウレーカ』(岩明均)ほか

 朝方、CSカートゥーンネットワークで『トムとジェリー』の連続放送。
 と言っても、声優がDVD版と全く同じバージョン(肝付兼太・堀絢子)なので、昔なつかし八代駿、藤田淑子、谷幹一版ではない。
 もはや旧版は永遠に見ることがかなわなくなっているが、合間に放送されていたドルーピーシリーズなども今はなかなか見られない。口笛を吹く狼(小林清志)のシリーズも好きだったんだけど、アレのタイトルや監督、吹いてた口笛の曲名、ほとんど知らないのである。ネットで調べてみも、画像が付いてないサイトがほとんどでよくわからないのである。誰かご存知の方いらっしゃいませんか。


 今日は仕事が休みなので、ひと寝入りしたあと、ひたすら日記書き。
 短く書きゃいいものを書いても書いても終わらない。今月末までに追いつかなかったら、また飛ばすか、五行日記くらいですっ飛ばすしかないかな。


 夜、テレビで『平成教育委員会2003スペシャル』。
 「視聴者のみなさんもテストを受けてみよう」というので、途中まで漢字の問題解いたりしてたのだが、世界地理が私はからきしダメだということが判明。いや、別に今判明したわけじゃなくて昔からわかっちゃいたんだが。何を間違えたかは恥ずかしいから言わない(←卑怯)。でも今、問題を解けば正解するであろう(当たり前だ)。
 でも総合点だと70点ほど行ったから、出演者の誰よりも高得点だ。えへん。……小学生の問題で70点取っても全然いばれないのである。

 『新春ドラマスペシャル 秋刀魚の味』。
 小津安二郎のリメイクだけれど、出てくる役者出てくる役者、みんな小津安二郎の世界をカケラも表現できていない。なんかね、みんなね、小津の世界を「庶民の機微を描いたもの」とか「ホームドラマの元祖」とか思ってるみたいだけど、ぜんっぜん違うのよ。小津さんは徹底的に貴族趣味なんでね、外国映画で比較するならヴィスコンティにあたる人なんだよ。
 庶民ってのは自分の猥雑な感情をストレートに表しちゃうんで、庶民どうしはどうしたって喧嘩になるんだけど、貴族はそんなのないフリするのね。だから貴族どうしのコミュニケーションには常に「腹芸」がつきまとう。腹芸の演技なんか出来ない役者ばかり集めてどうして小津の世界が作れると思ったかねえ。
 それに、あの小津のあまりにも有名な、ローアングルと真正面の切り返しのスタイル、別に趣味じゃなくて、キャラクターの存在感を強調するための手法なんで、それをフツーに取っちゃ意味ないのよ。まあ、無謀でもなんでもそのチャレンジ魂に敬意は表するけれども。


 マンガ、岩明均『ヘウレーカ』(白泉社/ジェッツコミックス・580円)。
 タイトルの「HEUREKA」、つまりあれだ、「ユリイカ(発見した!)」のことなんだね。全く、読み方がこうしょっちゅう変わるとわかりにくいことこの上ないね。
 つまりこれはアルキメデスに関する物語ではあるんだけれども、例の体積についての物語ではない。アルキメデスの最期にまつわる、ローマとカルタゴ間の戦争、「ハンニバル戦記」のあるエピソードを描いたものである。
 紀元前216年、地中海世界の覇者たらんとしたローマ帝国は、シチリアの一都市、シラクサに侵攻する。しかしその街の外壁には、天才数学者、アルキメデスの設計になる数々の新兵器が備えられていた。アルキメデスの弟子、スパルタ人のダミッポスは、その兵器の殺戮能力を目の当たりにして恐怖する……。
 主人公のダミッポス、というのはどうも架空の人物っぽいが、もちろんアルキメデスは実在の人。そしてマンガに描かれているような新兵器も実際に発明、設計していたらしい。正確にアレほどの威力があったかどうかはわからないが、「エウリュアロスの車輪」のシーンは、それがマンガであるにもかかわらず見ていて粟立つような戦慄を覚える。『寄生獣』以来、岩明さんの残酷描写は、その柔らかな線と余白を大きく取った白っぽい画面ゆえに、かえって生々しい。
 風を切り、飛んでくる石、石、石。
 ちぎれ飛ぶ首、腹に開いた穴、逃げ惑う血塗れのローマの兵士たち……。
 皮肉なことに、それだけの殺人兵器を作りあげたアルキメデスは、このときすっかり年老いて、ボケていた。
 しかし、そのボケたアタマにもかかわらず、アルキメデスは、まるで自らの運命を暗示するような言葉をポツリと呟くのだ。
 「わしの設置した防備もいつか打ち破られ、敵がなだれこんでこよう……。そして恨みをこめた刃でわしを切り刻む……当然のことじゃ」
 科学技術は、使うものの意志による、とはよく言われるが、このアルキメデスは明確に「自らの理論が人を死に追いやっている」ことを自覚している。まさに「アルキメデスは手を汚している」のである。
 エンタテインメントとして純粋に楽しい物語だし、あまり深読みはしたくないのだが、なんだか岩明さんはこのアルキメデスを全ての科学者への警鐘的な存在として描いているような気がする。
 事実、アルキメデスは激昂したローマ兵に殺されてしまうのだから。
 ダミッポスは、ローマ人であるために捕らえられていた恋人のクラウディアの命を救うために、アルキメデスの知恵を借り、太陽熱を利用して、シラクサに攻め寄るローマ船を撃退する。それもまた史実ではアルキメデス自身が作りあげた兵器なのだが、岩明さんは、それを「ダミッポスの発明」とすることで、天才ならずとも科学者はみな、ときの政治に利用され、罪深い行為を繰り返していく危険を孕んでいることを示唆している。
 ダミッポスはクラウディアを失い、苦笑しつつローマのマルケルス将軍に向かって嘯く。
 「あんたらはすげぇよ。でももっと……ほかにやる事ァないのか?」
 しかし、ほかに何もやることがなかったのが人類の歴史であったのだ。

2002年01月03日(木) 貧乳の夢と鬱と別れのシミュレーションと/『ドラマ愛の詩スペシャル キテレツ』/『本気のしるし』4巻(星里もちる)
2001年01月03日(水) 初夢。……初夢だってば/『雲竜奔馬』5巻(みなもとたろう)ほか


2003年01月02日(木) 仕事なんぞしたくもないわ/『しゃべくり探偵の四季』(黒崎緑)/『<映画の見方>がわかる本』(町山智浩)ほか

 正月も二日から仕事。
 しげは今日も朝寝してて、車での送りはナシ。もっともしげも元旦関係なしに仕事してたんで疲れているようである。
 タクシーを拾おうとするが、正月も二日から道を通ってるタクシーなんてないんだよ、これが。15分ほど寒空に立ちんぼ。さて、これがカラダによくなかったのだろう、あとでちょっとノドがいがらっぽくなる。
 震えながら職場に着いたら、同僚から「遅刻ですよ」のヒトコト。勤務時間がいつもより30分早かったのに気付かなかったのだ。
 私の不注意ではあるのだが、正月早々に出勤させられた上に、まさか時間まで超過勤務させられるとは思ってもみなかったしなあ。半日仕事をして帰宅。


 マンガ、浦沢直樹『20世紀少年』11巻(小学館/ビッグスピリッコミックス・CD付き780円)。
 特製CDが付いてたらしいが、買ってきたしげがどっかに隠してしまったんで中身がわからない。だから勝手にどこにでも置くなってば。
 うーん、キョンキョンが後ろに下がってしまった。この子が私のイチオシキャラだったんだが。でもまだ「絶交」されたわけじゃないんで、また出番はあることであろう。
 さて、「ともだち」の正体は「ヤマネ君」か? ってとこで終わってるけど、こういう引きだとたいてい違うんだよなあ。こないだまでサダキヨじゃないかとか言ってて違ってたんだから、この手を何度も使うのは白けるだけなんだが。これ以上、話を錯綜させすぎて拍子抜けな結末にならなきゃいいんだけどね。
 実は「ともだち」はケンジのもう一つの人格、なんて結末だけは願い下げだ。


 マンガ、永井豪『魔王ダンテ 現魔編』2巻(講談社/マガジンZKC・550円)。
 オリジナル版の1巻と比較すると、どうしたって見劣りしちゃうんだよな、これが。新登場のキャラがどうにもジャマに見えてしまう。「神の13使徒」なんて、ハッタリかましてるけどさー(『魔獣戦線』かい)、永井さんがこういうの出してきても「どうせまだ先の展開なんて考えてないし、全員出せないまま終わっちゃうんでしょ?」としか思えないのだ。前科がありすぎるのよ。
 『デビルマン』で名前が出ただけの悪魔がどれだけいたか。
 ドクターヘルの五大軍団は?
 ハテサテ十人衆は?
 『黒の獅士』にもなんか○人衆みたいなの出てたと思うが。
 あまり先の展開って期待してないのに、ついつい買っちゃうのは、それだけ永井豪という作家が我々の世代の男の子にとっては魂の一部になっているからである。これ以上魂、腐らせたくはないんだけど。
 ……アニメ版の出来はどんなんだろうかなあ。


 黒崎緑『しゃべくり探偵の四季 ボケ・ホームズとツッコミ・ワトソンの新冒険』(創元推理文庫・672円)。
 保住君と和戸君の掛け合い漫才ミステリ第2弾。
 実はこの「掛け合い漫才」形式がまどろっこしくて、第1弾は途中で投げだしちゃったんだが、このパート2はそのしょーもないギャグで萎えちゃうやつが2本しか入ってない。ほかの短編は普通のミステリとして読めるので、私にはそっちのほうが面白かった。
 ファンの中には「掛け合い漫才形式のミステリなんて面白い」と感じる人もいると思うけど、トリックに関わらない叙述なんて、私には単にうるさいだけなのである。たいしたことない話を語り口で胡麻かしてるだけって気がしちゃってね。
 保住が驚くたびに「ひえ〜、ひえだのあれ〜」って言うのなんか、そこだけ墨塗りにしたくなるし。誰かこれで笑うやついるのか。
 で、実際、この漫才形式の作品ほど、ミステリとしてはトリックがチャチなのよ。『騒々しい幽霊』なんて、タイトルだけでトリックの見当がつくぞ。あのね、ミステリで幽霊が登場してきたら、それが人間のシワザじゃないってことありえないでしょ? 子供向けミステリじゃあるまいし、もちっと考えようよ。
 別にこの作者、ミステリ作家としての実力がないわけではないのだ。フツーのミステリである『保住くんの夏の思い出』なんかはコンパクトにまとまった好編である。ムリに凝りすぎないのが一番なんだけどね。
 表紙はいしいひさいち。第1弾では4コマ漫画も載せてたが今回はイラストだけである。でも多分いしいさん、本編は読んでないぞ。だって自分のホームズキャラを流用してるだけだもの。本編の保住君と和戸君は関西の大学生なのである。


 町山智浩『<映画の見方>がわかる本 『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで』(洋泉社・1680円)。
 ウェイン町山氏によるアメリカン・ニューシネマの解題本。
 90年代以降のアメリカ映画が、単純明快と言えば聞こえはいいが、「勧善懲悪で現実逃避的な商品に成り果てた」(by.ジョージ・A・ロメロ)ことに対する反発から、以前の「革命的作品群」を評価しようという試みである。
 でもなぜか町山さん、アメリカンニューシネマの代表作と言われてる『明日に向かって撃て!』を完全無視。『2001年』もニューシネマの中に入れられなくはないけれど、一般的にはその前駆的作品として捉える見方の方が多いんだがなあ。
 どうも町山さん、評論の仕方に「偏り」が見られるんで、導き出される結論もちょっと眉に唾付けとかないといけない面があるんである。つまり、「70年代の映画作家たちは、みんながみんなエンタテインメントよりも自らの思想を表現する方向に傾いていた」という結論を誘導したいんだよ。ジョージ・ロイ・ヒル監督の『明日に〜』はそのサンプルとしては不適当なわけ。
 実のところ、町山さんが言うほどには、70年代の映画、「単なる娯楽でなく人生経験」だったと断定することは難しいと思うけどね。だいたい「娯楽」よりも「思想」を優先して語る映画ならそれ以前にもいくらでもあった。『市民ケーン』はどうなるの?
 70年代のニューシネマが衰退していったのはそこで語られてた思想が浅薄で、エロスとバイオレンスの描写の中に埋没していったからだ、という見方を私はしてるんだけど、そう考えなきゃ、現在のアメリカ映画の中から、これほどまでに「人生を考える映画」が消えて行った理由が説明できるかね。
 冷静に考えれば、誰も、ドラマの流れから行けば別に必要もないのに、ラストで男女が銃撃で蜂の巣になるシーンをシツコク描く映画なんか見たくはないのである。
 現代のアメリカ映画のエンタテインメント志向は、70年代の「時代の錯覚」から大衆が目覚めた結果だろう。目覚めたから映画がよくなったわけじゃないのが困りものなんだが。

2002年01月02日(水) オタアミビデオと平成生まれと夜のドライブと/『ナジカ電撃作戦』FINAL MISSION/『名探偵ポワロ 白昼の悪魔』ほか
2001年01月02日(火) 眠い一日/ドラマ『不思議の国のアリス』ほか


2003年01月01日(水) オタク夫婦は新年に何を買ったか/映画『狂った果実』/映画『幕末太陽傅』/『おせん』其之五(きくち正太)ほか

 2003年である。
 思い返すと去年もいろいろとあったトシであった。
 ここには書けない出来事もいろいろありはしたのだが、概してそういう事件ほど、内実は実に面白い。どうせ百年も経ちゃ、プライバシーもクソもなくなるんだから、いくら書いたっていいじゃん、とか思いはするのだが、関係者の中にはシャレにならん既知外もいたりするのでそうもいかない。
 ホームページ立ち上げたら、会員制の裏日記コーナーでも作るかなあ。仕事関係で見聞きした話を書き出すと、ウチの職場がいかに伏魔殿であるかがわかろうというものである。でもウチの職場、外務省じゃないんだよ〜。


 今年の年越しソバはただの冷凍。
 ホントはしげが岩手のソバとかトロロイモとか、本格的な材料をいろいろ買って来てたのだが、買っただけでそのまま放ったらかしている。それどころかまた寝てるし。
 仕方がないので、せめて具くらいはもちっと豪勢にと思ってササミにネギを足す。しげに「そば食うか?」と聞いたら、「食う」と言って起きてくる。
 先ほど録画したばかりの『紅白歌合戦』を早送りしながら再生。チャプターをあとでつけられるようなので、しげがためしてみるが、ヘンなところに付けてしまう。どうも新しいキカイというのは扱いにくい。
 中森明菜がちゃんと歌えているかどうかだけ、気になって見てみたが、仕方がないことだが往年のパンチのある歌い方はもうムリなようである。復活を祝うような演出らしい演出も特になく、なんだか見ていて寂しい。私はこの人が、実力以上に人気が出すぎて過大評価されてしまったと思っているので、こういう「敗残の姿」を晒しものにされている状況自体、NHKの労わりのなさに憤りを覚えるのである。本気で中森明菜を復活させたいと思うなら、番組の一つでも持たせるべきではないのか。
 もっとも、ドラマもダメ、トークショーもバラエティも恐らくダメ、無難なところで歌番組のパーソナリティーか、という気もするが、それだって深夜じゃないと何言い出すか解らんからな、この人は、と、危ない橋を渡る覚悟は要るのである。
 しげは幕間に出て来たパパイヤ鈴木に満足したのか、また寝床に潜りこんで眠る。初詣はどうするんだよ。……とか言ってたけど私も眠くなったので、『紅白』をざっと飛ばし見、紅組の勝ちだけ確認して寝る。
 キャナルシティの初売りには行くつもりなので、9時に目覚ましをかけておく。


 ひと寝入りして、キャナルシティまでお出かけ。
 しげは脱兎のごとく(これは逃げ出すときの譬えだな)「ラ・ブーン」内のミッフィの店へ。
 普通の福袋は中に何が入っているか教えちゃくれないが、この店は良心的で、何通りも組み合わせた3千円から1万円までの福袋を、7、8種類用意しているのである。しげならずとも、どれにしようかな、けっけのけのけ、と迷うのも宜なるかな。
 しげが決心するまでには、恐らく蝸牛が葉から葉へ移るくらいの時間はかかるので、暇つぶしにそのあたりの店も見て回る。
 ウルトラマンもスタジオジブリも手塚治虫も、カートゥーンネットワークもアードマンもマーベルコミックも、たいていのキャラクターグッズはここに集まっているし、新年早々ガンダム特設会場までできていた。
 こういう処をうろつくのは自殺行為である。
 案の定、ガンダムコーナーで、見てはいけないモノを見つけてしまった。
 こ、こ、こ、これは確かに「ガンダムグッズ」ではあるが、ちょっとそんじょそこらのものとはひと味違うぞ!
 ようやく福袋を買ったしげの手を引いてブツの前まで連れて行き、「これ、買わん?」と哀願の流し目を送る。これならしげも欲しがるんじゃないか、と思っていたが、予想はバッチリ当たった。
 「前から気になっとったっちゃ、これ」
 しかも正月セールで2割引。これは買わぬ手はない。
 さて、ここで問題です。
 我々二人が意気投合して買っちまった「ガンダムグッズ」とはいったい何でしょう。答えは明日……と言いたいところだが、明日の日記が明日書かれるとは限らないこの日記のこと、真実を知りたい人はこの日記のラストにGOだ!

 ラーメンスタジアムで今年最初の食事。
 開店時間前だというのに、喜多方ラーメンの坂内食堂、もう長蛇の列である。パッと見ただけでも軽く5、60人は並んでいる感じだったので、諦めて別の店に回る。全く月の石を見るわけでもあるまいに、正月早々からラーメン屋に並ばんでもねえ。
 六角屋、前に並んでたのがたったの4人。いくらなんでもこの差はかわいそうなくらいである。けれど、しげも並ぶよりはこちらのほうがいい、と判断したようで、二人でラーメンを頼む。以前にもこの店に来たことはあるはずだが、前には見当たらなかった焼売がメニューに加わっている。
 頼んで食べてみると、アッサリしていて悪くない。
 しげは中華料理屋に寄ったときには決してラーメンだけでは満足せず、必ず餃子かなにか「オプション」が必要になるので、この焼売は「アタリ」であった。
 
 
 初詣に櫛田神社に回るが、やはりこの時間帯、人出はただごとではない。境内の中を参拝客が列を作って、ぐるりと経巡り、外の道路にまではみ出ている。これまた何時間待てばいいやら見当がつかない。
 出店を期待して初詣に付き合って来たしげ、タコ焼き、タイ焼きくらいしか店が出ていないのに落胆した様子。買うかどうか聞いたが、首を横に振られる。
 「あそこに甘酒があるよ」としげ。
 「欲しいの?」と聞くが、「うんにゃ」と答える。「アンタが好きやろ?」
 そう言えばずっと昔、「甘酒が大好きだった」と話したような気がするが、そんな些細な記憶、すっかり忘れていた。しげもよく覚えていたものである。
 縁起ものだからな、と甘酒とお粥(と言っても、中身は甘さを控えめにしたぜんざいのことである)を求めて、ベンチで食べる。
 しげも少しは味見を、と勧めたが、口をつけようともしない。甘い物好きのくせして、なぜかこういう日本的なものだけはしげは嫌うのだ。こういうのにも何かトラウマがあるのだろうか。
 結局、櫛田神社での参拝は諦めて、家の近所の日吉神社に回ることにする。

 境内の駐車場は混んでいるかも、と、神社から少し離れた文房具屋の駐車場に勝手に駐車。まだ元旦で開店してないから見つかる心配はないんだけど、こういうズルいことにだけはしげの知恵はよく回るのである。全く、お参りに来たってのに人間としての品性を疑っちゃうね。
 予想通り、この神社は全くヒマ。余裕でお参りして、破魔矢と御神籤を買う。
 しげは大吉、私は末吉。けれどしげの御神籤のほうが、書いてあることは「万事に注意を要す」で、あまり大吉っぽくない。
 しげ、去年の御神籤を枝に結んで、今年の御神籤を財布にしまう。お守りがわりに1年間持っているのだ。そんなことしなくても1年中おめでたいヤツだと思うけどな。


 帰宅して、CSチャンネルNECOで日活映画ベスト31の特集をツラツラと見る。こういう「ベストもの」になると、ほとんどの作品が昔見たやつばかり。そのわりには「こんなシーンあったっけ?」と首を傾げるものが多いんで、やっぱり映画は二度三度見るものなのだ。

 『太陽の季節』(1956)。
 年号入れとかないとタッキー主演と勘違いするやつが現われるんだよ、今どきゃな。二作を比較すると当然このオリジナル版に軍配が……と言いたいとこだけどタッキー版は見てないから比較のしようがないのであった。
 けど、長門裕之に南田洋子の演技もセリフ回しも、まだまだ「昔風」なんだよねえ。若いときからオジサン、オバサンなんだもん、二人とも。
 元祖太陽族映画でありながら、「石原裕次郎のデビュー作」としてしか認識されなかったのもわかる気がする。芝居の基本がしっかりしてる長門裕之より、デタラメな裕次郎の方がはるかに溌剌として見えるってのが演技を上手下手だけでは計れないってことなんだよな。

 『ビルマの竪琴 総集編』(1956)。
 これもオリジナル版の方。カラーリメイク版より、こちらを推奨する人も多かろう。戦争ものはカラー映像だとどうしてもウソ臭く見えてしまう。監督の市川崑、「ビルマの土の赤」を表現したくてリメイクしたって言うけど、モノクロでも演出でその赤さは伝わるんだよ。市川崑が映画のことなんてなんにもわかっちゃいないってこと、このエピソードからバレちゃってるんだよなあ。
 この映画が「偶然」モノクロであったのは映画にとって幸福であったと言えよう。
 それに、なんたって音楽が伊福部昭だ! リメイク版の山本直純も悪くはないんだが、腹の底にズンと響く伊福部さんの音楽ほうが、どうしても印象としては強い。山本さんのはちょっとセンチメンタリズムに流れちゃってるのである。
 主演者についても、リメイク版の中井貴一よりもオリジナル版の安井昌二のほうが、戦地の兵隊っぽいし、遺骨を埋葬しようと決意した誠実な人間に見えるってこともポイントは高い。
 実は中井貴一の方が安井昌二よりも痩せてるんだが、圧倒的に安井さんのほうに軍配が上がっちゃうのはもう演技力の差としか言いようがない。
 けれど、私は8:2くらいで、カラー版もちょっと好きだったりするのだ。なんたって川谷拓三がいいのよ。リメイク版は。

 『狂った果実』(1956)。
 太陽族映画の最高傑作のみならず、日本映画史上屈指の傑作の一つ。
 太陽が燦々と輝く海にあってもなぜか漂うダークなムード、石原裕次郎が大笑すればするほどなぜか闇の気配を感じてしまうのは、「若さ」そのものがダークサイドを内包しているからではないのか。弟の津川雅彦の狂気は、当然兄である裕次郎の中にもあるのである。
 誰も言わないけれど、私はこの映画、『スターウォーズ』のルーツの一つじゃないかと踏んでるんである。若いころの裕次郎がルーク・スカイウォーカーを演じたらきっとハマったろうなあ。オビ・ワン・ケノービはもちろん三船敏郎だ。ハン・ソロが勝新太郎で、レイア姫が藤純子だったら、確実に本家『スターウォーズ』を凌駕してたな。あと、ダース・ヴェーダーの声は山形勲(ホントは成田三樹夫と言いたいとこだけど、ホラ、あの『宇宙からの……』のアレがあるから)、モフ・ターキンは月形龍之介で(^o^)。
 おっと脱線脱線(^_^;)。
 主演の裕次郎も、監督の中平康も既に故人だが、助監督の蔵原惟繕も、昨年12月28日に亡くなった(関係ないが、プロレタリア作家の蔵原惟人とこの人、何の関係もないのだろうか)。なんだかみんな、ラストシーンで海に散華してしまったかのようだ。
 実際、裕次郎は、デビュー2本目のこの映画での輝きを、生涯越えられなかった。

 『幕末太陽傅』(1957)。「傅」は「伝」のことだけど、ネットでも間違った「伝」のタイトルのほうが流通してるなあ。困ったもんだけど。
 それにしても全く、これだけの傑作群をこのころ日活は連発してたんだなあ。私がビデオテープで初めて買った日本映画がこれ。当時は大枚叩いて17000円もしたよ(T∇T) 。
 この映画を「噺」として見ると、本職の立川談志などには全くもって噴飯ものにしか見えないらしいが、そりゃもちろん、これが落語に取材していてもあくまで「映画」なんで当然である。居残り佐平次が実は肺病病みなんて、落語ファンなら怒って当然。私のように映画も落語も好きって人間にとっては、こういう設定はどうにも評価に困る映画なんである(~ー~;)。
 フランキー堺の、これが頂点の演技を見られるだけでも素晴らしいが、今見ると、ほかにも脇役陣が実にイイ演技をしていて、画面の隅々にまでつい目が行ってしまう。
 中でも、近年は三谷幸喜映画の常連の感のある梅野泰靖の若旦那、セリフの間がすっげーいいんだよ。これぞ究極の若旦那。チョイ役以外にもいろいろ使ってほしい人なんだけどなあ。

 なんだか元日から映画三昧である。これで今年も体力持つのかね(ヒトゴトみたいに)。

 
 マンガ、きくち正太『おせん』其之五(講談社/イブニングKC・580円)。
 ふと気づいたが、これだけ料理マンガが溢れてる中で、私が今買ってるやつって、この『おせん』だけなのであった。
 別にほかのを嫌ってるわけじゃなくて、私がマンガを買ってる理由って、それが「料理」マンガであるよりも料理「マンガ」であるかどうかってところに力点置いてるからなんだけどね。きくちさんの絵じゃなきゃ、同じ話であっても果たして買ったかどうか。
 いやね、グルメマンガってさ、読んでると、「こんな高級料理、庶民の口にゃ入らねえよ、誰もがオーストラリアや帝国ホテルでメシ食えると思うんじゃねえ!」って不満があるから、この『おせん』にしたって、今や純粋な「和食」を料亭で食える人間なんて、ごくわずかなんだよなあ、と思っちゃうもんだから、やっぱり「料理」マンガとして見ると「けっ」てなところがあるんである。
 「賄いのこころ」の、えび天茶漬けに割り下ソースカツ丼、すっげえ美味そうなんだけど、家庭じゃ作れねーじゃんかよう。いや、作れる家庭はあるのかも知れないけれど、ウチではまずムリである。
 「一升庵の怪」の「鰺の酢〆メシ」も食ってみたいなあ。いや、これ食ったときのおせんの美味くてたまんねーって顔がもう、ホントに羨ましくて……と思わせるくらい絵が上手いってことなんだな。


 で、クイズの答え、買ったのは「ハロのパウダービーズクッション」でした。
 「ハロ、ゲンキ、ハロ、ゲンキ」♪(((#^-^)八(^_^*)))♪
 ……別に声は出さないけどね。

2002年01月01日(火) ぬかるみとミッフィと腐れた餃子と/映画『スパイキッズ』/『降魔法輪』(さとうふみや)ほか
2001年01月01日(月) 2001年元旦スペシャル



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藤原敬之(ふじわら・けいし)