無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年02月28日(金) いきなり記念日/『なんだかコワレ丸』3巻(矢也晶久)/『デル・カント・バジェット』(坂田靖子)ほか

 三谷幸喜は一回潰れた方が勘違いが治るんじゃないかと思うが、でも治んないかもしれない。
 もう全く期待なんかしちゃいないんだが、でもどれだけヒドイものができるか気にはなる、平成16年度のNHK大河ドラマ『新選組!』のことなんだけどね、主役の近藤勇が香取慎吾だって。これ、どう考えても三谷幸喜の引きだよなあ。NHK、反対しなかったのか。それとも、近藤勇を筒井康隆の『わが名はイサミ』の線で描くつもりか。あるいは倉本聰版『浮浪雲』にするの?
 大河に限らず、テレビの時代劇がどんどん軽くなってく様子は、役者がいなくなってきてるんだから仕方がないことなんだけれど、それにしたって役どころをもちっと考えなきゃならないんじゃないか。
 沖田総司は藤原竜也、土方歳三が山本耕史、芹沢鴨に佐藤浩市。これがホントの新撰組だったら、内部崩壊していったのも納得できちゃうな(^o^)。
 だいたいみんな、殺陣ができるのかなあ。


 職場の若い子の一人が辞めることになったので、お別れに何かプレゼントを、と考える。
 仕事帰りに、博多駅で買い物をしようと思い、しげに「バス停で降ろしてくれる?」と頼む。
 「どっか出かけると?」
 と聞かれたので、隠さなきゃならないことでもなし、「ああ、職場の子にプレゼントでも、と思ってね」と言った途端、しげの声のトーンが急に、ズン、と低くなる。
 「……その子、なに? 特別な人?」(←セリフにトゲを付けて読んでください)
 「別に特別だとか、そんなことは何もないよ」
 「じゃあ、なんでプレゼントとかするん?」
 「したらいかんのかい。ウチを辞めるんだから、それくらいしても悪かないやろ」
 「じゃあ、アンタは辞める子がいたら全員にプレゼント贈るんね」
 「そりゃ、親しい人もいれば親しくない人もおるんやけん、贈るときもあれば贈らんときもあるやろ」
 「不公平やん!」
 「不公平って……どこが!?」
 「だって、オレにはくれんやん!」
 「オマエには関係ないやんか!」
 「だったら、『今度東京行く記念』でなんかくれてもいいやろ!?」
 「なんじゃそりゃ!?」
 つまりはただの子供っぽい嫉妬なのである。オトナだったら、こんなことは恥ずかしくてとても口にできるものではない。
 けれど、みなさんご承知の通り、しげという動物はマトモなリクツが通じる相手ではないのである。感情の赴くまま、欲望に身を任せて恥じることのないケモノなのである。それが証拠に、春先になると満月に向かってニャーニャー鳴いている(ウソ)。
 泣く子としげには勝てない(この二者、殆ど同義だと思うが)ので、博多駅の「GAMERS」で、「トロのEメールスタンプ」ってのを買う。よくわからんが、ハガキを送ると、本人のEメールアドレスをスタンプにして送り返してくれるらしい。誰かに「Eメール教えて」と聞かれたらスタンプを押すだけですむのである。便利なんだかめんどくさいんだかどっちかよくわからんが、しげはトロが好きだし、これでなんとか噴火も収まるであろう。
 でもこんなことでいちいちプレゼントなんてしてたら、何の記念で何をプレゼントさせられるかわからないのである。サラダ記念日どころかラーメン記念日もエビマヨ記念日もトウバンジャン記念日も作られてしまうのである。
 ロマンチシズムに見せかけたリアリズムって、女の得意技だよなあ(T-T)。これに反発できる男ってなかなかいないと思うけど、自信のある男性、どこかにいますか。


 しげ、何を考えたか、リンガーハットから餃子を山ほど買ってくる。
 「水餃子にして食いな」
 なんだか最近はしげがこうやって「買い物をしてきてくれる」だけで嬉しくなっちゃってるね。既に「料理を作ってくれる」なんてことは期待してない。
 でも、問題はその量だよ。山ほどって、ホントに山ほどなんである。ざっと見て、100個はあろうか。……明日にゃ東京に行くってのに、今日作って今日食えってか。食えるか!
 と言いつつ、頑張って半分食ったよ。言われた通り水餃子にして。
 で、しげはそれを手伝って食ったかというと、一個も食わないのだ。
 「だって、賞味期限切れてるし(だから安売りしてたのである)」
 ……ちょっと殺意を抱いちゃったんだけど、いけませんか。(⌒ー⌒メ) ピクピク。


 明日の上京の準備、なんとか整う。ビデオカメラの充電もオッケー。
 土産の類は極力減らしたが、それでも小さなカバンで四つほど。大きなのにまとめると重くなりすぎるのであるが、中間の大きさのカバンが見つからなかった。多分、押し入れのどこか奥の奥にでも隠れているのであろう。それを掘り出すほどの元気はなし。
 ヨナさんご夫婦にお渡しする予定の、栗本薫アーリーデイズの原稿コピーを撮りに、近所のセブンイレブンへ。一般的に彼女が知られるようになったのは、1977年に第20回群像新人文学賞(評論部門)を『文学の輪郭』で受賞(中島梓名義)、そして翌78年に第24回江戸川乱歩賞を『ぼくらの時代』で受賞してからだろう。けれど、それ以前、1976年に、探偵小説マニアしか読んでなかったと思われるマイナー専門誌『幻影城』で、彼女は第2回幻影城新人賞佳作(評論部門)を『都筑道夫の生活と推理』で受賞しているのである。
 有名になる前、彼女はこの『幻影城』新人作家が集まる「影の会」の紅一点として、エッセイなどを書いていたが、これらの殆どは雑誌に載ったきりで、未収録のままなものが多い(さすがにデビュー作の『都筑道夫』は『文学の輪郭』に収録しているが)。ヨナさんお二人は栗本さんのファンであるので(私は卒業しました。スミマセン)、今度お会いするときに持って行きます、と約束していたのである。
 しかし、たいして量はなかったんじゃないかな、と思ってたが、そんなことはない。影の会の会報だけでなく、毎月の「ミステリ遊歩道」と言ったミステリ時評など、書くわ書くわ、この人の旺盛な筆力はデビュー当時からだったのだなあ、と読み返して見て改めて感心するのだ。こんな人の作品を昔は全作読んでやろうとか考えてたんだからなあ。ついでに言えば、赤川次郎もデビュー当時はそんなふうに思ってました。二人ともそれぞれ軽く100冊くらいは読んでると思うけど、もうどれも中身は殆ど覚えてません(~_~;)。
 結局、コピーはひと束になる。かさばっちゃうし、こんなの持ってくのは逆に迷惑になるかなとも思ったが、あやめさんが「ほしい!」と仰ったんだから、頑張って重い荷物を抱えてもらおう(^o^)。
 ヨナさんきっと、栗本さんにお会いしたときに、「昔、こんなの書いてたんですねえ、『ミステリ遊歩道』とか」なんて言って、栗本さんを苛めるに違いない。♪(((#^-^)八(^_^*)))♪


 マンガ、矢也晶久『なんだかコワレ丸』3巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 急に始まっちゃいました「十二天将」シリーズ、つまりはコワレ丸が平安の世で使っていた「式神」十二人の封印が破れてが開放され、それを再び自らの式神とするべくコワレ丸がゆうりを巻き添えにして……と、展開は今まで通りのお気楽ギャグなのだけれど、これまでにも登場させてきたキャラ、全員をまだまだ使いこなせてるわけでもないのに、3巻目にして増やし過ぎてるよなあ。
 結局はこれ、コワレ丸とゆうりの関係だけをしっかり根幹に据えとけば、多少は話が横道にそれても構わないのだけれど、どうにも『うる星やつら』や『らんま1/2』以降の高橋留美子のぱたーん化した演出の悪影響が見えるのが気になるのである。最後には「巨大な敵」を出してきて、ゆうりがそいつに誘拐されて、コワレ丸が救いに行くなんて展開にはならんだろうな。十二天将もそのための伏線みたいに見えちゃってねえ、何となく興を殺がれてしまうのである。
 ……でも、式神が全員「女」なのはなぜ?(~_~;)


 マンガ、奥田ひとし『新天地無用! 魎皇鬼』4巻(角川書店/角川コミックスドラゴンJr.・578円)。
 OVA第3期シリーズが製作決定だそうである。もう第2期の途中から見なくなってるから、どんな展開になってるのかよく分らん(テレビシリーズや映画版とも設定が違ってるしなあ)上に、このマンガ版とのリンクもいったいどうなってるのやら。もともとはOVAシリーズの後日談ということで始まってたはずなんだけどねえ(だからマンガ中に「鷲羽と魎呼が親子」って設定が出てくる。テレビ版にこの設定はない)。
 この『新天地』のほうは、新たに多麻というキャラクターがレギュラー入りしちゃったんだけど、OVAのほうにも登場するんだろうか。それともまた世界が枝分かれしてしまうんだろうか。それとも「新」が付いてるのはもうパラレルになっちゃったって意味なのかな。
 実のところ、既にこのシリーズ、最終回なんて作りようがなくなっている。っつーか、OVAの第2シリーズも、テレビの「新」も劇場版も全部「番外編」的な作りになっちゃってたしなあ。本気で「最終回」にするんだったら、「結局天地は誰とくっつくか」ってことを描くしかないんだが、今更それやっても無意味だし。だもんで、このマンガ版の方も、まるで完結編をほったらかして延々とインサイドストーリーを描き続けた某マンガのように、いつ果てるともしれない「日常の非日常」を語り続けてるんである。今回は魎呼の話、次は阿重霞、次は砂沙美、美星、鷲羽……というローテーション。いわゆる「偉大なるマンネリ」ってやつだが、それにしてもそろそろ限界じゃないのか。
 だってさあ、砂沙美が未だにサンタを信じてるっての、話としてはいくらなんでも作りすぎじゃない?(^_^;)。


 マンガ、坂田靖子『デル・カント・バジェット』(エニックス/ステンシル・コミックス・580円)。
 こういう絵が描けたらなあ、と思う作家さんというのはそう多くはない。坂田さんのマンガを知ったのは多分『バジル氏』が最初だと思うが、そのときに「ああ、こういう絵が描けたらなあ」と思い、実際、マネをしてみたこともある。私の描くラクガキのベースはよく高橋留美子ではないかと言われるが、坂田靖子も実はちょっとだけ混じっているのだ。もちろん、吾妻ひでおとか石森章太郎とか永井豪とか、いろいろ微妙に混じってる人はたくさんいるんだが。
 率直かつ客観的に言って、坂田さんの絵は、決して上手い部類には入らない。しかし、マンガの絵としてはとっても魅力的だ。
 絵がどんなに上手くても、それこそ細密画のような絵を描く人のものでも、それだけでは「マンガとして」惹かれるとは限らない。いしかわじゅんが『アキラ』以降の大友克洋を「イラストレーターとしてはいいけどね」と語るのも分るのである。絵としてはヘタでもマンガ表現としてはすばらしい、というのがマンガとしての命なんであり、青木雄二がすばらしいのもそのためであるのだ。
 で、青木雄二と比較しちゃうのは坂田さんはちょっとイヤかもしれないが、坂田さんの絵、線は単純だしよく歪むし、人物の描き分けもうまいこといってないのだ。なのに、その描き分けのできてないはずのキャラの区別が、坂田さんのマンガだとちゃんとつくのである。『カレカノ』とか『フルバ』とか、人物が増えるたびに誰が誰だかどんどんわからなくなってきてるのに、坂田さんのマンガの場合にはそれがない。
 それはつまり、坂田さんがちゃんと「マンガ」を描いているからである。「キャラクター」が立っているからであり、「ドラマ」をキチンと描いているからなのである。

 アンドレア・デル・カント。
 宮廷の新任財務長官である(哲学者のエマヌエル・カントとは別人)。
 有能なリストラマンとして大抜擢された彼の行く手を阻む者は、なんと城の屋根裏に住みついていた一匹の鬼。実直を絵に描いたようなカントの命令のもと、財政緊縮のために兵舎を追い出されてきた近衛師団に、暗くてカビだらけの心地よい住みかを大掃除されて大立腹。なんとしてもカント長官を失脚させようと、聖騎士団長でカントに恨みを持つペーターを操って、彼を暗殺させようとするが……。
 筋だけ書くとシリアスっぽいけれど(でもギャグマンガでもない)、坂田さんの雲の上に乗ってるような絵柄だと、斬り合いのシーンですら巧まざるユーモアが漂う。鬼の陰謀を阻んでいるのは、カントの実力ではなく、坂田さんのこのほんわかした絵柄であろう。
 それは、最終的に、鬼を倒したのがカントでもなく、ペーターでもなく、カントの親友の軍司令官でもなく、「あの人」だったということでも証明されていよう。読んでない人にはなんのことかわかるまいが、イヤ、実に人を食った結末なのですよ。

 お江戸のほのぼのコメディー、染問屋のお嬢さん・お染さん(ストレートなネーミングだ)を主人公にした『卍急須』『両国サマー・デイ』『紅葉マンジュウ』の三本と、平安時代の貧乏姫をなんとかして嫁がせようとする乳母の奮戦を描いた『たぬき姫』も同時収録。女の子が主役になると、坂田さんも少女マンガ家なんだなあ、という感じがしてくるね。いや、失礼(^_^;)。
 ああ、でも「悪い評判が立った娘はオタク男に押し付けよう」ってのはちょっとキツイぞ。乳母の「部屋の中まで入っておいてコレクションの解説かいっ! キスくらいしろよおめーは」って憤り、そりゃわかるけどさあ、オタクにゃキスよりナニより大切なことってあるのよ。


 DVD「押井守シネマ・トリロジー/Dog Days After』。
 ボックスの特典ディスクがこれ。
 実写3作品のCD付き、映像特典も予告編や静止画資料だけでなく、新たに撮り降ろした「女たちの押井守」を収録。すなわち、これまで押井監督の実写作品にヒロインとして登場してきた兵藤まこ、鷲尾真知子、石村とも子、蘇億菁(スー・イーチン)の4人へのインタビューと、ロケ地となった山形や台湾を再び彼女たちに語ってもらうというなかなかの企画モノ。もっとも押井守嫌いには、女優さんたちがみんなで押井守を誉めたたえてるので、悔しくてハラワタ煮えくり返る思いをするかもしれない。
 女優さんたちが喜ぶのは当然である。自分が役者として表現したいもの(それは必ずしも自らの美貌ではない)、あるいは自分は気づきもしなかった魅力、それを押井監督が彼女たちのカラダから、引き出し、映像として定着させた。
 映画はクローズ・アップの芸術であると言われる。『紅い眼鏡』も『ケルベロス』も『トーキング・ヘッド』も、ドラマ的には極めて演劇的構造を持っていながら映画たりえているのは、彼女たちのクローズ・アップによるところが大きい。
 押井守が彼女たちを撮るにあたって、できるだけ「近づかないようにしていた」というのは一つの見識である。押井守の目はまさしく「覗き」の視点で彼女たちを捉える。ヒロインたちのカメラを意識せぬ目、自分が覗かれているとは知らぬ目、だからこそ彼女たちの瞳は何か一つの意味に固定されないまま、喜びも憂いも全てを含んでいつつ、また何も見てはいないようなあるやなしやの幽玄の美をも表出する。
 こういう絵が撮れりゃあ、どんなに「リクツっぽい」だの「同じ話ばかり撮ってる」だの批判されても、そんなの屁でもない。押井嫌いのそこのアンタ、文句があるなら女優だけ見ときなさい。映画には「そういう見方」もできるのだ。
 押井さん自身は、このインタビューで自分のことを貶してほしかったらしいけれど、そうはならなかったみたいね。ホントに貶されると思ってたのかなあ。兵藤まこには「君のためにこの映画を撮ったんだよ」とか言ったらしいし。こんなこと言われりゃ、女優さんはそうそうそのカントクを貶せるものではないよな。意外と予防線張ってるぞ、押井監督。
 ああ、でも、同じセリフ、オレもしょっちゅう劇団の女の子に言ってら(女房含む)。精神構造が似てるのか、もしかしたら(-_-;)。

2002年02月28日(木) つっよいっぞガ〜メ〜ラ〜/『モーツァルトは子守唄を歌わない』2巻(森雅裕・有栖川るい)ほか
2001年02月28日(水) せんと・おぶ・うーまん/『妖怪馬鹿』(京極夏彦・多田克己ほか)


2003年02月27日(木) 彼、行くは星の大海/『フルーツバスケット』11巻(高屋奈月)/『てんしのトッチオ』(鳥山明)

 新聞をみてギョギョッと(つげ義春か)したのが次のニュース。
 「ハウステンボス」が長崎地裁に会社更生法の適用を申請して、倒産しちまったのた。負債総額は約2289億円だと。開業からわずか11年。ちょっと早過ぎだねえ。
 つい何日か前、タクシーに乗ってて、世間話しながら「リゾート施設もどんどん潰れてますけど、『ディズニーランド』と『ハウステンボス』だけは大丈夫でしょうねえ」なんて言ってたのだ。
 大丈夫どころか、記事によると「約2250億円の初期投資が負担となり、開業時から赤字続き。バブル崩壊により、見込んでいた高級別荘などの販売不振も経営を圧迫。平成12、13両年の2度にわたり、現在のメーンバンクのみずほコーポレート銀行の前身、日本興業銀行(当時)から総額533億円の債権破棄を受けたり、13年には関連施設の「オランダ村」の閉鎖など、リストラ策を進めていたが、昨年秋以降も売上高、観客数とも大幅に減少、再建は軌道に乗らなかった」んだそうな。タダ券や安売り券を乱発してたのは知ってたけど、てっきり「余裕があるから」だと思ってたよ。だって、招待券で行ったヤツがリピーターになる率って、すごく低いと思うんだが。効果ないことしてどうすんの(-_-;)。
 しかし、しかしだよ、売り上げ伸びずっても、今でも年間200億円は稼いでるんだよね、リゾート施設ん中じゃ、ディズニーランド、USJに継いで全国3位の売り上げなんだよ。それで維持ができないってのは、いったい何よ。1年間、維持するのに300億もかかるような施設を作ったこと自体に、問題があるってことじゃないのか。
 「赤字のために新しいアトラクションを導入できなかった」ことも集客減の一因、ということだけれど、売り上げでなんとかしようってこと自体、考えが浅いよなあ。初期投資の段階で、そこまで資金集めとかないと経営自体成り立たないと考えなかったのかなあ。
 でも、倒産したとは言え、そんじょそこらの遊園地とはワケが違うのである。再開発する余力だって、長崎県にはないのだ。是が非でもハウステンボスを再建する以外に方法はないのだ。運営はこのまま続けるということだし、まだ、遊びに行くチャンスは充分あるのである。しげもあそこのホテルには「死ぬまでにいっぺんは泊まる」と言ってるし、九州の発展に協力する意味でもそのうち行くことにするかなあ。
 そう言や、知り合いでハウステンボスに就職してるヤツ、結構いるんだよなあ、みんな羨ましがってたけど、リストラ候補になんか挙がってないかなあ。


 やっぱり宇宙って「遠い」んだなあ、という感慨(「広い」んじゃなくてってとこにご注意)。
 かつての宇宙少年が、その打ち上げをキラキラ輝く瞳で見上げていた(別に現場にいたわけじゃないが)、あのパイオニア10号との交信がついに途絶えたのである。NASAが25日に「パイオニアの最後の交信は1月22日。地球から約122億キロ離れた地点からで、その後は何の信号も得られなくなった」と発表した。
 打ち上げは1972年。それから31年になる。冥王星の軌道を越えたのは何年前のことだったか、太陽系を脱出するのでさえ、これだけの年月を要したのである。さて、他の星系に辿りつくのにいったい何万年、何億年かかるものやら。
 地球外知的生命(ET)へのメッセージを搭載したことで有名なパイオニア10号だけれど、常識で考えれば、海に砂粒を投げて「誰か拾って!」と叫ぶようなものだ。こんな計画にオーケーサインが出たこと自体、日本だったらちょっと考えられないことだ(もちろん、惑星の様子を探査する目的もあったのだけれど)。
 やっぱり、あちらの人たちは「奇跡」を信じているのかなあ、と思う。「神」を信じたいのかなあ、と思う。もし、この科学の時代にも「神」が実在するとしたら、それを宇宙の深淵に求めるしかないからだ。
 子供のころは無邪気に「宇宙人がいたらなあ」と憧れていたが、NASAにも政治的、宗教的思惑があるのだなあ、と気づいたときから、私の宇宙開発に対する想いも半減してしまっているのである。
 なんだかねえ、ずっと昔、彼女と一緒に行った海岸でさ、二人で貝殻に名前を並べて書いてよ、それを埋めてすっかり忘れてたのが30年ぶりに出てきたような恥ずかしさを感じちゃうんだよねえ。
 いや、これはただの例えで、そんなことは全くしてませんが。
 

 今日で「BSマンガ夜話」は最終日、取り上げられたのは、小山ゆうの『あずみ』。
 みんな誉めるねえ。なんで?
 小山ゆうのマンガ、ウチには結構あるんだけれど、これ殆ど全部、しげが結婚前から持ってたやつである。『がんばれ元気』『スプリンター』と言った代表作はもとより、『愛がゆく』とか『チェンジ』『いざ竜馬』『サムライ数馬』『風の三郎』なんてマイナーなものまで集めていたのだ。私は『おれは直角』しか持ってなかったのに。
 それが、『ももたろう』で小山ゆうを嫌いになってからは、全然買わなくなってしまった。『あずみ』はちょっと面白そうということで買い始めていたが、これも飽きて読まなくなっている。しげが好きなのは「少年マンガ」の小山ゆうであって、青年マンガのそれではないのである。
 でも私は小山ゆうには殆どと言っていいほど引っかからなかったので、『あずみ』も全然面白くないのである。従って、レギュラーやゲストの方々が口々に称える魅力というのが全くピンとこない。だいたいしかわじゅん、オマエ、「さいとう・たかをは擬音の字体を何十年も変えてない、これはマンガ家として怠慢」とかさんざん貶してたくせに、そのさいとう・たかをのアシストで、全く同じ擬音の字体を使ってる小山ゆうを貶さないのはなぜだ。私にゃ、マンガ表現としては『おれは直角』のころから一歩も進歩してない(逆に退歩している)としか見えない小山ゆうを口が裂けても面白いとは言えんぞ。
 岡田斗司夫さんが「すげえマンガが始まったっていうんで読んでみたらホントに凄かった!」とすごく喜んでるけど、その連載第一回、二回を私も読んでるんである。なのに全然インパクトを感じなかった。っつーか、どんな始まり方だったか、今、思いだそうとしても全然浮かんでこない。それは多分、小山ゆうさんの描く時代劇マンガが、基本的に時代劇になってないからだと思う。マンガ、あるいは劇画の顔で、日本人の顔になってないんだよねえ。だから和服を着せても全然似合わない。ギャグならともかく、シリアスじゃあどうにも違和感だけが先に立ってしまうのだ。これは、師匠のさいとう・たかをも時代劇が描けなかったのと共通しているような。
 でも、そういう視点では読んでないからみんな楽しめるんだろうなあ。映画の方は生身の人間が演じるから、どんなふうになるか一応見てみたくはあるんだけど。


 いよいよ明後日はわざわざ東京まで芝居を見に行くのである。
 さあ、今月はオカネが続くのか(^_^;)。
 仕事を終えてそのまま空港に直行しなきゃならないので、もう今日のうちから準備しないと間に合わない。
 ビデオカメラを持っていく、と私が言うと、しげが「なんで? 荷物になるやん」と文句を言う。
 「記録になるからだよ。何十年か経って見てみると懐かしいやろ。オマエだって、オレが子供のころの8ミリ見たら喜ぶやん」
 「だって、それはアンタが今ここにいるし」
 いたらなんだというのだ。口をモゴモゴさせるばかりでハッキリとモノを言わないので、真意が全然わからない。要するに私がビデオを振り回す様子がみっともないとかそんな理由だろう。それにそのビデオにはしげは写っていても、私は写っていないのである。
 だったら自分でも撮ればいいのに、それはしたがらないのだから、結局はただのワガママなのだよなあ。


 マンガ、高屋奈月『フルーツバスケット』11巻(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。
 十二支の話はどうでもよくて、花ちゃんが好きで読んでるってのはファンの人から見たら叱られちゃうかなあ(^_^;)。だもんで、今巻が十二支も全員揃って、しかも慊人の正体もわかってって、一応のクライマックスになってるんだけど、私は「ふ〜ん」ってなもの。
 なんだかなあ、『カレカノ』もそうだけど、最近の『花ゆめ』系マンガ、傷ついた男の子の心が乙女の優しさで癒されるってパターン、多くなってないか。男の作家が女にそういう理想<マドンナ>像を求めるのはまあ、男のサガだから仕方がないとしても、女の作家がそれを描くとどうも「自画自讃」的に見えてしまうのだよねえ。
 もちろんヒロインの透は、ただの純情可憐なオトメではなく、なにか心に「闇」を持っていそうではある。けれど、最終的に十二支のみんなが、慊人や夾も含めて透に呪いを解かれ、救われるのだとしたら、それはただの宗教画にしかならないのではないか。透をマグダラのマリヤにすることは、すなわち、そこで語られる物語が「神話」に過ぎなくなることであり、結果として「人間」のドラマを喪失させることになる。
 慊人は「神」を騙る。この「神」は、もちろん否定されるべき神だ。しかし、透は慊人を否定することなく、「救い」のみを考える。「総てから解放された皆さんが心から泣き心から笑える日が来るのならば罰が本当に下るとしても呪いを解きたい」。明かにこれはサクリファイスである。ここに「罰」の概念を持ち出してきさえしなければ、素直に感動できるところなんだけれどもなあ。
 既にキャラクター出しすぎて、描き分けが難しくなって来てるし、ストーリー構成もあっちに行ったりこっちに行ったり。作品全体の魅力が随分薄れてきてるんだけれど、大地さんに続きをアニメ化してもらうためにも、失速しないで早いうちに完結させてほしいものである。……長引かせると破綻すると思うぞ、このマンガも明らかに「エヴァンゲリオンチルドレン」なんだから。


 とりやまあきら さく・え『てんしのトッチオ』(集英社・1785円)。
 帯に「鳥山明『絵本』に初挑戦!!!」と麗々しく描かれてるけれど、どこの本屋に行っても置いてあるのはコミック本コーナーで絵本の棚には並んでない。仮に絵本のコーナーに置いたとしても、さて、これが長く読み継がれるものになるかどうか。
 絵本の世界は超々ロングセラーがザラにあることである。我々が子供のころに読んだことのある『ぐりとぐら』や『だるまちゃんとてんぐちゃん』なんかが、未だに絵本コーナーの真正面に並べられてたりしてるのである。もちろんその間も新作は数限りなく描き継がれているのだが、その淘汰の速さも尋常ではない。絵本は単価がバカ高いから、子供が「買って」と言ってもそう簡単には買ってやれない。必然的に、「親」が面白いと思ったもの、子供に読ませたいものばかりが残っていくことになる。絵本の歴史の中でも「進化」がないわけではないのだが、やはり基本的に絵本の世界は極めて保守的なのである。
 で、この『てんしのトッチオ』だが中途半端に保守的なのだ。鳥山明は子供っぽいから絵本に向いてるんじゃないかと思ってる人がいるかもしれないが、ことギャグに関する限り、子供っぽいんじゃなくて下らないだけである。視点はやっぱりオトナのものだ。
 トッチオが地上の動物たちの願い事をかなえてあげようとして、全く役に立たない、というのはまあマンガでも絵本でも定番の展開だけれど、ハムスターにスクーターを出してやるとか、干上がった沼にペットボトルを出してやるとか、羽を怪我したペリカンに紙飛行機を出してやるとか、アイデアが陳腐を通りこしてどうしようもないのである。「とりやまあきら」の名前が無ければ、ボツになっているに決まっている。
 最後にトッチオがホントにみんなの役に立つ、という結末も定番だけれど、別にトッチオがこれからも失敗しないという保障ができたわけではない。全然、物語としてのカタルシスも無いのである。
 作者本人は一所懸命描いたつもりかもしれないけれど、絵本のレベルとしては5点だ。世の中にどれだけ工夫を凝らした、創意に満ちた、斬新かつ普遍的な絵本があまたあるか、それを知ってから描いてほしかったものだね。同じマンガ家の描いた絵本なら、絵本の体裁を無視してただの大型マンガ本として描かれている唐沢なをきの『バラバラくん』のほうが、「別に絵本の描き方なんて知らんも〜ん」って態度が潔くってよっぽどいい。
 みんな、『トッチオ』買うカネがあったら『バラバラくん』を買って子供に与えてオタク教育の萌芽とするのだ。マジでその方がいいと思うぞ。(2003.3.28)

2002年02月27日(水) さらばウルトラマン/『よろずお直し業』(草上仁)/『クロノアイズ』5巻(長谷川裕一)ほか
2001年02月27日(火) 毛の話/『オトナでよかった!』(唐沢よしこ・唐沢なをき)


2003年02月26日(水) 入れ物だけが増えてもねえ/DVD『ケルベロス』『トーキング・ヘッド』/『ジャック・チックの妖しい世界』(唐沢俊一)

 映画会社の中で一番勢いに乗ってるのはここ10年くらい、ずっと東宝だったんだけれど、ここまでやれるのかって印象だったのが、昨25日に発表された、ヴァージン・シネマズ・ジャパンの全株式の買収。約100億円だってさ。ひゃ、ひゃ、ひゃくおくえんって、へいたいのくらいでいうと、ぐんそうくらいかな。
 福岡のVCはトリアス久山にあるんだけれど、そう言えば去年までは『ドラえもん』も『クレヨンしんちゃん』も上映してなかったのに、今年から見られるようになったもんな。
 いや、そのことは嬉しいんだけれど、ほかの地方は知らないが、キャナルのAMCや、ホークスタウンのユナイテッドシネマに比べると、福岡のVCは位置的に遠いし、客足あまり多くないんだよなあ。そんなとこ買いとって大丈夫なのか、東宝。もっとも日曜でも駐車場が空いてるおかげで、車が停めやすくていいんだけれど。
 これで東宝はスクリーン数が業界第1位になったってことだけど、それならそれで、単館上映の多いインディーズ系の映画なんかも買いつけてさ、いい環境で見せてくれたら嬉しいんだけどね、商業主義一本やりで、天神東宝とたいしてラインナップが変わらない、ということにならないでほしいものなんである。
 『跋扈妖怪伝 牙吉』買ってくれ。まだ配給元、決まってないみたいだぞ。


 DVD『押井守シネマ・トリロジー/ケルベロス 地獄の番犬&トーキング・ヘッド』をコメンタリーで。
 要約すると、『ケルベロス』は「エビ食ってた話」で、『トーキング・ヘッド』は「石村とも子の足を撮るべきだった映画」か(^o^)。
 でも久しぶりに見返したけれど、どちらもこんなに面白い映画だったかなあ。どちらも演劇的要素が随所に見られるせいもあるけれど(『トーキング・ヘッド』は特に)、自分がモノ作りのハシクレにいるからこそ見える部分があるからだろうなあ。
 いや、実際に「押井守はつまらない」という感想を述べる人がいるのもわかるのである。「なんで他人のオナニー見せられて喜ばなきゃならんのだ」と「エヴァ騒動」を評した人がいたが、もちろん押井守もこれらの実写作品では臆面もなく自慰を繰り返しているのである。
 つまりは、「自慰にもテクニックが必要だ。すなわち握力、角度、速さのバランス、そして行為を完遂するための職人魂」なんて話を大マジメに語れる人間でないと、押井守の映画は全然楽しめないのだ。……いや、これは一つの例えですから、アナタの自慰はどんなの? なんて聞かないでね(^_^;)。

 『ケルベロス』のヒロイン、唐密(タンミー)を演じた蘇億菁(スー・イーチン)、当時は18最で、親にナイショで出演してたとか。モデル出身で演技は初めてだったそうだが、紅一が「犬」になれるムードさえあれば、こういう役に演技力は要らないのである。
 昨日見た『紅い眼鏡』でも、天本英世の起用を押井監督は「演技指導なんかしない。そこにいればいい」旨の発言をしていたが、まさしくそれが「見せ物」としての映画の本質なんである。
 押井さんはよく寺山修司の影響を受けた、と評されるが、寺山さんに限らず、映画ってものを知ってる監督は、「その役者がどんな役者か」を知ってるものだ。演技を要求しなきゃいけない役もあるし、そんなものは要らない役もある。『ケルベロス』で言えば、千葉繁と松山鷹志は前者で、藤木義勝と蘇億菁は後者だ。だから前者と後者が絡んだときが映画は俄然面白くなり、後者同士の絡みはほとんど立ってるだけ歩いてるだけのムード造りに終始し、ダレ場に使われたりしている。そういうところを見るとホントに面白いんだけどなあ。

 『トーキング・ヘッド』はアニメ製作現場を舞台に、失踪した演出家の代役として映画を完成させるべく雇われた「流しの演出家」丸輪零の愛と冒険の物語(^o^)。キャラクターに全てモデルがいるということで、いちいち押井さんがそれを解説してくれているのだが、これって、なんだかんだ言いながら押井さんが愛されてなきゃできるこっちゃないよなあ。なんたって、モデルにされた人で怒り出す人がいないとも限らない描き方なんである。具体的な描写は避けるが、アニメ業界には変人しかいないのか(^_^;)。
 田中真弓演じる浅梨なおこ……じゃない、「しじみ」なんて大好きなんだが(^o^)。


 今日の「BSマンガ夜話」は『8マン』。昨日の『エリート狂騒曲』は見逃した。
 トークは殆ど「桑田次郎がいかに絵が上手かったか」に終始しちゃったけれど、岡田さんがそれがいかにSF的ガジェットの表現として秀逸であったかをキチンと解説してくれたのが嬉しい。
 平井和正についてあまり触れなかったのは、もしかしたら予めダメが入っていたのかな?(^o^)


 眠田直・著・編集『MINDY POWER FINAL』。
 こないだのオタアミで買った同人誌。
 発行が昨年で、「FINAL」って銘打ってるけど、確かにそれ以降、眠田さんは新しい同人誌を発行していないようである。
 「ネットで情報が手に入れられるようになったから」という理屈はわかるんだけれど、実際に本を手にしてページを捲る感触って、愛書家にとっては何にも代えがたい魅力なんだけれどなあ。
 それに、ピーナッツ(もちろん、チャールズ・シュルツのだ)のアニメリストなど、ネット画面だとスクロールしてプリントアウトしてって手間を考えると、どうしても一冊、本があって、解説もついてるほうが絶対便利だ。
 ああ、しかし眠田さんも『月刊SNOOPY』を読んでいたか。しかも読者投稿の定連。バックナンバー書庫から引っ張り出して探してやろうかな。ペンネーム「スペイン人ナーダ」ってのがまあ、なんて恥ずかしい(^o^)。
 『月刊SNOOPY』を知らない人にちょっと解説。今はピーナッツシリーズは角川書店刊行の、ここ20年間に発表された分の単行本しか手に入らないが、以前は鶴書房というところから出ていた。これは結構初期の作品から収録されていたのだが、それでも本当に最初期の作品には未収録のものがあり、それを補完するように雑誌『月刊SNOOPY』が刊行されていたのである。
 なんたって第一話のチャーリー・ブラウンは、今のようなカボチャ頭でなく、横長の楕円型、目も両端に離れたかわいらしいデザインだったし、スヌーピーももっともっと犬っぽかった。チャーリーの友達はサリーやバイオレットで、ルーシーやライナスはずっとあとにならないと出てこない。雰囲気がまるで違うのである。ピーナッツファンならば、あれを読んでなけりゃモグリってなもんだ。
 と言いつつ、私も当時は立ち読みが主で、今持ってるのは友人から引き取ったもの。欠本が数冊あるがほぼ全巻揃いという貴重本だ。見たい人はウチに来れば書庫の奥から引っ張り出して羨ましがらせてあげるので、いつでもどうぞ(^o^)。
 眠田さん、三年前の時点でNHK−BS版『チャーリーブラウンという男の子』(劇場公開タイトル『スヌーピーとチャーリー』。眠田さんは『チャーリーブラウンという名の男の子』と表記しているが、これは間違い)の吹替えが分らない、と嘆いておられたが、もうわかったんだろうか。ネットにもう「C.B./坂本千夏」と書いてある記事があるからご存知だとは思うのだが。この本を先に読んでたら、オタアミのときに教えてさしあげられてたのになあ。現物ビデオで持ってるから差し上げてもよかったし。ただ、劇場公開時にあったルーシーの精新分析の件はやっぱりカットされててありません(-_-;)。


 唐沢俊一『ジャック・チックの妖しい世界』。
 これがなぜ商業出版社から出ずに同人誌という形をとって出されたかがよくわかる。なんたって、ジャック・チックってマンガ家さん、キリスト教原理主義者で、「そういうマンガ」しか描いてないんだから。
 あんまり詳しく内容を紹介しちゃいけない気もするが、まあいいか(^o^)。
 例えば『地獄/天の国』って作品、要するに天国に行ける人、地獄に行っちゃう人、それぞれどんな人? ってマンガで、ポルノを読んだり酒を飲んだりラブホテルに泊まったり女遊びしたり子供を下ろしたり同性愛だったり強盗したり麻薬をやったり物をたくさん持ってたりモ○○ンだったりエ○○の○人だったり神社にお参りに行ったりすると地獄に落ちるんである。多分、日本人で地獄に落ちない人間はいないな(^o^)。
 『ダークダンジョン』、実在するRPGを「これは反キリスト教的な悪魔の遊びだ!」と糾弾したマンガ。RPGのゲームマスターはみんな悪魔の使いで、ハマった若者をマインドコントロールして邪教に誘い、フィギュアやグッズをどんどん買わせて湯水のごとくおカネを使わせてしまうそうである。ああ、でも行為そのものは当たってるよな、これ(^_^;)。なんか最近も『ハリー・ポッター』について似たようなこと言ってた牧師だか神父だかのキリシタンがいたような。ゲームやフィギュアは直ちに燃やしなさい、という過激なマンガ。私も子供のころ、マンガを親から捨てたりされたが、私が悪魔の道に入ることを恐れていたのかな。既に手遅れだったわけだが。
 『誰かが私を愛してる』。ジャック・チック自身の手になるマンガ。さっきまでのは原作のみだったのだね。自分でなぜ絵を描かないかは、多分ディズニーと同じ理由じゃないかな(^o^)。飲んだくれの親父に虐待され、捨てられた少女が、死ぬ間際に神の祝福を称えたビラを見て、天国に行く。ビラを読んでやった通りすがりの女がなぜか少女を助けようともしないが、もちろんそんなことをしたら少女は天に召されないからしないのである(^_^;)。ストレート過ぎるほどに直球な筋、それがチック氏のプリミティブな絵で描かれると、ものすごいインパクト。こりゃもう、どんなリクツも太刀打ちできない。これをこのまんまジブリのスタッフとかがアニメ化したりしたら、マジで泣いちゃうヤツが出て来るんじゃないか。
 要するに信じてるものは違うが、アメリカの宮澤賢治。本人には絶対会いたくない点でもそうだね。(2003.3.26)

2002年02月26日(火) 伝統と革命の間/『蟲師』2巻(漆原友紀)ほか
2001年02月26日(月) しみじみ草枕/『エクセル▽サーガ』(六道神士)7巻ほか


2003年02月25日(火) 鬱が続くよどこまでも/DVD『パワーパフ・ガールズ ムービー』/DVD『押井守 シネマ・トリロジー/紅い眼鏡』

 昨日の日記で書き忘れてたけど、『BSマンガ夜話』を見ました。
 午前12時を回っての放送なんで、今日の日記に書いてもおかしかないんだが。
 取り上げられたのは野中英次『魁!! クロマティ高校』。
 通産百回ということで、こんなのまで取り上げられるようになったのだなあ。でも、これを取り上げるなら先に池上遼一を取り上げとかないといけないんじゃないかね。でも池上遼一最大のヒット作『男組』も今や入手困難。かえって『スパイダーマン』を取り上げた方がタイムリーかもね。放送中も言及されてたし。そう言えば『舞』のハリウッド映画化はどうなったんだ。
 全然『クロマティ』の話をしないけど、これ実はすごく難しいのね。毎回、『クロマティ』の新刊の紹介するたびに私がアタマを抱えてるの、おわかりでしょうか(^_^;)。
 夏目房之介さんが「夏目の目」で指摘した通り、この人の絵、池上遼一の悪いところだけ抽出してできあがってるんである。それは普通に考えれば、この人がヘタだってことなのである。かといって、いわゆるヘタウマってんじゃなくて、なにしろ模写なんだからオリジナリティも個性もヘッタクレもない、純粋にヘタなんである。普通はこういうマンガはつまんなくなるはずで、実際、つまんないんだけれども、でも、その、つまんなくてたるくてってところが面白いんである。これはもう、マンガを散々読んで自分でも描いてってマニアじゃなきゃわかんない面白さなんだけれども、ところがマンガの読み方なんて知らないゲストのFLIP FLAPにも面白かったりするんである(この双子さん、池上遼一を知らなかった)。でも万人向けのギャグかというとそんなことはなくって、多分、ギャグがベタ過ぎて笑えないってやつもいっぱいいると思うのだ。
 じゃあ、結局、面白いのつまんないの? って言われたら、人によるんじゃない? としか言えないのだ。困るね、こういうマンガ。


 職場でまたもや険悪な会議。鬱がますます鬱になる。
 内容は書けないが、去年までの放埓経営が災いして、来年度から経営縮小せざるを得なくなってしまったのだ。
 ところが幹部連中は全然謝らないのである。自分たちが過剰労働を我々に強いておいて、かえって能率が下がってしまったことを我々のせいにしようとしているのだ。
 でも、我々が悪いのなら、どうして労働体制を以前の形に戻すというのか。筋が通っていないのである。
 だもので、みんな怒っているのだ。いい加減、幹部のクビをすげ替えなきゃいけないんじゃないかとみんな思っているのである。会議の席で、それとなくそんなことを匂わせる発言も出ているのである。
 すわクーデターか。
 端から見たら多分すごく面白い事態になっているのだが、残念ながらこれ以上詳しいことは書けないのだ。
 何がどうなってるかどうしても知りたいって人は、メールででも連絡していただければお教えします。ただし、その際にはアナタの住所・本名・年齢・性別・職業その他、個人情報を全て正直に教えること。私について、要らんこと誰かにバラした場合には、アナタの情報もバラ撒きます。
 ああ、オレってなんて陰険なヤツなんだ。


 帰りに駐車場に来てみると、しげがまだ来ていない。
 こないだ反省したばかりだというのに、また寝てるのかと連絡を入れると、ぴんでんさんがビデオカメラを返しにくるので、出られないとのこと。
 そんなん昨日、しげが寝惚けてなきゃ、昨日のうちに片付いてたことなのに。しげは寝るだけであちこちに迷惑かけてるのだ。寝るなとは言わんが、普通の人間並に一日6時間程度の睡眠で生活ペースを作ってくれよ。
 

 DVD『パワーパフ・ガールズ ムービー』。
 映画公開時と同じく、『デクスターズ・ラポ ニワトリ男の恐怖』を収録してくれているのは嬉しいのだが、テレビのスタンダードサイズに合わせて、左右の画面がバッサリ切られちゃってるのが残念。
 ところが不思議なことに、さほど画面に違和感がない。
 中央の人物はちゃんと顔が見えるけれど、端にいる人間の顔が切れてしまうとか、昔のシネスコ映画がテレビ放映された際によくあったトホホな映像は全くない。ガールズが3人並んでいる場面は、ちゃんと3人が画面の中に収まっているのだ。
 逆に画面が切れてるおかげで面白い効果を出しているシーンすらある。バブルスの顔をプロッサムの左目だけが見てるとか、なかなかシュールだ。
 これはもう間違いなく、テレビサイズになることを想定して、予めそういうレイアウトでコンテを切っていたのだ。して見ると、これを一概に「損した」と言い切っちゃっていいものか……とは思うんだけど、やっぱり損した気になっちゃうんだよなあ。
 『ブレードランナー』の映画版は、「最終版」が一番出来がいいってのはわかってるんだけど、「完全版」のほうをつい買っちゃうってのも、でないと「損した」感がしちゃうせいだろうなあ。

 DVDで静止しながら確認できたデータがいくつか。
 パワーパフガールズは初め街で大暴れしたときには“Freaky bug−eyed Weirdo Girls”(まんまるい目をしたヘンな女の子たち)と呼ばれていた。もちろんこれは「ベム」と「ウィアード・テールズ」の合成語。
 でもって、映画見てたときから気になってた「モジョ・ジョジョ軍団」のメンバーたちのフルネーム。
 オジョ・タンゴ“Ojo Tango”(オランウータン)
 ロッコ・ソッコ“Rocko Socko”(ゴリラ)
 バブーン・カブーン“Baboon Kaboom”(ヒヒ)
 ゴーゴー・ポ・トロル“the Gogo Po−Trol”(小猿)
 ホッタ・ウォータ“Hota Wata”(マカーク猿)
 チャチン・チャチング“Cha−Ching Cha−Ching”(オモチャの猿)
 ダーダーズ“the Doot Da Doot Da Doo Doos” (飛び猿)
 ハチャ・チャチャ“Hacha Chacha”(テングザル)
 ブラブラブラブラ“Blah−Blah−Blah−Blah”(やせっぽちの猿)
 キラー・ドリラー“Killa Drilla”
 ボンゾ・バンゴ“Bonzo Bango”
 ローロ・オヴォ“Rolo Ovo”
 クランチャ・マンチャ“Cruncha Muncha”
 ワッコ・スマッコ“Wacko Smacko”
 パピー・ワッピー“Pappy Whappy”
 こんなもん調べてどうなるかって、別にどうにもならないんだが、調べてみたくなったんだよう。

 ブラブラブラブラがトマトのタツマキ(“tomarto tornade”ってシャレだね)を起こすときに、英語版ではモジョが「トマト?」と言うと市長が「トメイトウ!」と発音を訂正するのだが、日本語版では反対に「トメイトウ」を「トマト」と訂正している。
 モジョって日本人のアナロジーだと思ってたから、日本語版だとその感じが出ないんだが、これはまあしょうがないか。

 オマケの新作・インタビュー集、ブロッサム・バターカップ・バブルス・博士・市長まで見ると、隠しコマンド(ってそのまま見てればいいだけだけど)で、エキストラ・ガイ(って、チョイ役さんってことね)のインタビューも聞ける。そんなん聞けてどうするか(^_^;)。


 DVD『押井守 シネマ・トリロジー/紅い眼鏡』。
 この映画も、一時期は毎日のようにビデオで見返していた。決して出来がいいとは言えないし、いかにもシロウトっぽい映画なんだけれど、シロウト映画とはやはり一線を画していることも事実なのだ。
 なんというか、そこに盛りこまれた情報量がハンパではないのである。もちろんそれらの殆どはただのマクガフィンだろうとは思った。けれどマクガフィンでありながら、そこには確実に「拘り」があるのがわかるのだ。無意味なものであっても意味がある。それっていったい、なんなんだ。
 犬と猫はいったい何の寓意か。警視庁特捜班と立ち食いのプロとどういう関係があるのだ。眼鏡は、少女はなぜ赤いのか。「紅い眼鏡」が宮崎駿の寓意なら、押井守自身はどこにいるのか。いや、それは冗談だとしても、主人公が最後まで「なぜそこにいて何をしようとしているのか」が全く提示されないまま、それでもムリヤリドラマが成立させられてしまっている強引さはいったいなんなのだ。
 要するに、やってることはデタラメなんだけれど、それでも「フィルム」に撮っちまえば映画として完成してしまうという単純な事実、それこそ「映画の神髄」であるのだということを突きつけられたのである。シロウトっぽいのに作り手が確信犯であるためにそこに確実に「映画」を作りあげるための計算は存在している。つまらないはずなのに面白いのはそのせいなのだ。
 いや、押井守と伊藤和典のコメンタリー聞くとさ、ともかく予算がなくて、苦し紛れの行き当たりばったりで撮ってるってんだもん、このフィルム。これから映画を作ろうって人間にとってこそ、『紅い眼鏡』は刺激的なのではなかろうか。

 コメンタリーでの裏話を一つ一つここで紹介していくのもオモシロイのだが、とても書き切れるものではないので、やっぱりDVDボックスを買ってください。『紅い眼鏡』について語り合える人なんて、私の周りにはしげとよしひと嬢くらいしかいないんですよ。
 一つだけエピソードを紹介しておくと、月見の銀二役で出演していた天本英世さん、朝の7時に現場に入ったのに、撮影が始まったのは午後3時(ロケ地の掃除に5、6時間かかったのである)。天本さんはすご〜く機嫌が悪くなったそうな。
 後年、押井さんと伊藤さんが駅のホームで偶然天本さんに遭ったとき、二人は慌てて逃げ出したとか。
 「大丈夫大丈夫。向こうはこっちのことなんて覚えてないよ」
 全く、失礼な二人だ(^_^;)。

2002年02月25日(月) だめおんなず・うぉ〜か〜/『ネコの王』2巻(小野敏洋)ほか
2001年02月25日(日) 誰もいない海/『シイナのファブリオ▽』(がぁさん)ほか


2003年02月24日(月) オタクアミーゴス in 九州 V(ファイブ)�◆拭慷咾里Δ拭截郡�(完結/冬目景)ほか

 23日の日記の続き。


 打ち上げまで、1時間ほど時間が空いたので、エロさん、アンジェさん、愛普羅さん、よしひと嬢、下村嬢と、近所の喫茶店でコーヒーを飲む。
 次回以降のオタアミについて、エロさんにいろいろ持ちかけるが、こちらもあまり具体的なところまでは考えていないので、エロさんも曖昧なご返事。というか、もう何度も公演を続けてきて、相当疲れてもいるのであろう。
 エロさんがいなければ、オタアミ自体、開けるものではない。それに、始まったものもいつかは終わる。しかし、今日の公演の大拍手を見ていると、さて、オタアミ公演は、そも、誰のためにあるものか、ということも考えざるを得ない。終わる時期をいつに定めるか、ということも含めて、「今後」を考えていかねばならないことも、また事実であるのだ。
 自分の生活の明日もわからぬ人間がこんなことを考えるのはおこがましくはあるのだが。

 下村嬢、うずめ劇場の公演がもう来週に迫っている、ということで、「チケット買ってください」と売りつけてくる。
 「昼の部と夜の部と、どっちがいいですか?」と聞くので、「どっちでも」と答えたら、「夜はオッパイが出ますよ」と言う。
 「下村さん、脱ぐの?」と聞いたら、「私じゃないけど、ほかの人が脱ぎます。昼は子供連れも来るんで脱がないんですけど」とのこと。
 「まあ、あるもの見ないのも損だし、夜の部にしようか」と言ったら、途端にしげの機嫌が悪くなる。
 「あっそ。オレは昼の部に行くから」
 「なんで? オレと一緒の行動はイヤかい」
 「そうじゃなくて土曜日やろ? もしもエロさんとこで上映会があったら、それに間に合うように帰ってこんといかんやん」
 「じゃあ、オレも昼の部に行くよ」
 「なんで? オッパイ見れんよ?」
 「別にオッパイ見たくて行くわけじゃねえ!」
 しげとのヤリトリを見ていた下村嬢、ケラケラ笑って「これが見たかった。福岡まで来た甲斐があった」と喜んでいる。
 全く、夫婦のプライバシーを垣間見て、それを笑いものにするとは、なんと不謹慎なことだろう。こういうモラルに反することは、人としてやっちゃいけないのである。

 そろそろ時間になったので、打ち上げの居酒屋に移動。
 奥の座敷に案内されたが、足元が掘になっているところと、畳のままのところに分かれている。いつもならば、掘はほかの人に譲るのだが、今日は足がもう限界に近づいてきてきているので、掘の方にサッサと座る。
 アンジェさん、「絶対に医者に行った方がいいですよ」と私の足を気遣ってくれるが、行って治るってものでもないことは自分でもわかっているのである。できることなんて、せいぜい、足を暖めることくらいのものであろう。
 ほどなく、アミーゴスのお三方や、残りのスタッフも到着。
 岡田斗司夫さんは、打ち上げまでの間、「ホテルのプールで泳いでくる」と仰っていたのだが、ホントに泳いできたらしい。ダイエットに本気で取り組んでおられるのだなあ。体調が悪くなるたびに入退院を繰り返して体重を落とし、なんとかゴマ化してる私なんぞとは意志の力が違うのである。なんだか表情まで柔和になられたようだ。

 メインはアラ鍋。『美味しんぼ』で「博多の人間はアラ鍋を何にもまして珍重する」と書かれたおかげで有名になっちまったアレである。もちろんそんなのは雁屋哲のウソなんで信用しないように。美味しがって食わないとまでは言わないが、基本的に博多は魚がなんでも美味いので、これが特に極上、というほどのものはないのだ。第一、ここは天神で、博多じゃないしなあ。
 けれど、山ん中のホテルに泊まったときなんかに、しおれたシャケとかが出てくると、つくづく博多って魚どころなんだなあ、とは思う。みんなでつつくからどうしても鍋になるけれど、やっぱり一番美味いのは刺身だよな。でも、これも最近は多少の高級料理店でなきゃ、ホントに美味い刺身を食えなくなってきた。
 不況のせいか、料理自体は美味いのだが、コースを頼んでるはずなのに、やや分量をケチっている感じである。私のいたテーブルは武内さんが見事に鍋奉行となってくれたおかげで、ゆっくりと体を温めるように食べられたのだが、しげのところはやっぱり具をいきなり全部ぶちこんでサッサと食いつくしてしまっていてたので、ZUBATさんから「アンタ、間違ってるよ」と突っ込まれていた。

 酒を飲んだわけでもないのに、私も気が大きくなって、よしひと嬢や愛普羅さん、アンジェさんを前に、いつのまにかSF・アニメ談義を吹っかけていた。
 エラソウに「SFの浸透と拡散」なんてことを喋っていたのだが、考えてみたら私の真後ろは岡田斗司夫さんなのである。まさに釈迦を前に説法をしているようなもので、冷や汗ものであった。
 よしひと嬢、「見たい映画もたくさんあるんですけど、見る時間がない」と愚痴る。「黒澤明と岡本喜八くらいは追いかけたいんですけど」。
 思い返せば、その昔、黒澤明の『隠し砦の三悪人』『蜘蛛巣城』によしひと嬢を誘ったのは私であった。「押井守を私に見せたのも有久さんですよ。洗脳されてますね」と言うが、これを面白がってくれそうだなあ、と見当のつく人にしか、私は本も映画も奨めたりしないのだ。素質があった、ということで自信を持ってほしいんだけれど。

 アミーゴスのお三方に私は背中を向ける格好で座っていたので、詳しい話はチラチラとしか聞こえてこなかったのだが、唐沢さんがエロさんにかけられている優しい言葉を聞いていると(例によって具体的なことは書けませんが)、唐沢さんは後年のプロデューサーとしての江戸川乱歩を目指しているのではないか、という気がしてくる。あるいは、自然主義に対する漱石山房であるか。
 唐沢さん自身は孤高の人であろうと思うし、また、孤高であらねばならぬと考えているとも思う。しかし、それは社会と隔絶した思想、人生を持ちたいと考えているわけでは決してない。
 乱歩が育てた戦後派の推理作家たちが、一人の「芭蕉」を生み出すための土壌となっていたように、また、漱石山房から輩出した人材が、文学者に留まらず既存の文学・科学・芸術に対するカウンターカルチャーを作り出していったように、唐沢さんは自らを裏モノ文化の礎となるべく、自身の方針を定めていらっしゃるのではなかろうか。漱石も乱歩も孤高ではあったが、そのもとに数多くの人材は集まった。
 東京では唐沢さんの跡継は鶴岡法斎さんということになる。福岡では、いや、九州ではそれがエロの冒険者さんということだし、もちろん唐沢さんもエロさんに期待をかけていらっしゃる。つまりエロさんは、漱石における芥川、乱歩における清張たらねばならないわけなんだが、一つだけ、どうしてもこれだけはクリアしなきゃならないんじゃないか、という問題があるのだ。
 エロさん、これからもずっとそのハンドルネームなんですか(^_^;)。

 岡田さんはやや早めにご退出、その後10時を回って全体も散会。
 2次会に行くかどうかをしげとよしひと嬢に聞いてみたが、しげの顔、既に人間のものではない(^_^;)。返事も「好きにしたら」ともう脊髄反射である。睡眠が命のしげが考えてみたら、もう35時間ほど、起きたままなのである。よしひと嬢も明日は仕事というので、ここで引けることにする。幸い、地下鉄もバスもまだ走っている。

 帰宅した途端に、しげは爆睡。
 明日のことを考えると、よしひと嬢にも休んでもらわなければならないのだが、つい、『ジャングルはいつもハレのちグゥデラックス』だの、『ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け』の一部だのを見せてしまう。
 まあ、うら若き乙女を洗脳することくらい楽しいことはないし(^o^)。



 ここから2月24日の日記。

 オタアミにかかりっきりだったので、昨日は日曜の番組を何一つ見ていないのだが、『新婚さんいらっしゃい』に、ナベシンことワタナベシンイチ監督が出演したそうなのである。
 ナベシン監督、多分、私より二つくらい年下だと思うんだけど、まだ独身だったのか。結婚してもアフロにルパンのスタイルで通すのかなあ。というより、それを許してくれる人じゃないと、結婚しようって気にならなかったと思うけれど。
 

 平日ではあるが、今日は仕事休みの日。
 別にサボリではなくて、休日出勤の振り替えなのである。
 よしひと嬢、午後から出勤というので、しげに博多駅まで車で送らせようと思い、声をかけるが、まるで目覚める気配がない。
 ムリヤリ体を抱きかかえて起こすが、またそのまま倒れて布団の中にもぐりこんでしまう。
 よしひと嬢、「あの、遅くなるんでこれで帰ります」と言って、しげにも声をかけるが、しげ、寝たままニヤニヤ笑うだけ。気持ち悪いぞ。


 昨日、買った同人誌などを一日読み耽る。
 もう、感想は簡単にすませますからね、それでカンベンしてね(T∇T)。

 唐沢俊一・眠田直『トゥーン大好き!』。平成13年2月7日に新宿ロフトプラスワンで行われたトークライブを再構成したもの。
 唐沢さん、眠田さんが見られていた海外アニメと、自分の記憶で見ていたものとが殆ど一致していることがまず嬉しい。
 しかし、やはりすばらしいのは、唐沢さんのアニメに関するウンチクが実に正確なところだ。唐沢さんは著作の対象となる守備範囲がえらく広いので、どうしても「裏モノ」中心に語られることが多くなってしまう面があるが、かの杉本五郎(つゆき・サブロー)氏のお弟子さんでアニドウにいらしたこともあるのだから、本気でアニメの歴史を語らせたら、日本でも有数の存在であることは間違いのないところなのだ。
 「Tex Avery、今はエイヴリーと発音するらしいんですけれども、私から言えば絶対『アヴェリー』ですね」なんて発言に相好を崩される方もきっといらっしゃるはずだ。

 ソルボンヌK子『UA!ライブラリー3 おとこ足の少女(谷ゆきお)』。
 いやもう、「け、毛が生えている!! それも黄色い毛が!!』のインパクトの強さには敵いませんな。
 恋人を奪われ嫉妬に狂った女医が、相手の女の娘の足を、手術で外人の男の足と取り替えた、というのが「おとこ足」の真相。……んなひとできるか。っつーか、復讐するのにそんな方法を思い付いたアタマの構造が……。
 併録の小林将二『黒い真珠』の思いきりのいいパクリも凄い。宝石盗賊団ブラックウマウマ団の操るロボットが、まんま鉄人28号の模写。名前だけは「鉄人ウォッカ」に変えてるけど、意味ないよなあ(^_^;)。

 唐沢俊一『恐怖の巨顔女 アメリカンバカコミック』。
 「バカの本場はアメリカである」というのはホントだと思うな。だってアメリカのマンガで「傑作」と言われるものでも、手塚治虫や石森章太郎、藤子不二雄の足元にも及ばないし。でも、それがアメリカを貶めることにならないのがアメリカのアメリカたるところだろう。映画を見ててもわかるが、アメリカは「バカ」こそが文化の神髄としてあるのだ。
�.献ДぁΕ�ネイ『紅衛兵の恋』。
 文化大革命万歳! 毛沢東万歳! 生殖的関係万歳! そういうマンガです。
�∈郤塢埔棔惷欧襪戮�美貌』
 えー、これがタイトルの「巨顔女」ですね。醜いアガサは、美しい妹ジョイを妬んで硫酸をかける。ジョイは仕返しにアガサに、「美貌の呪い」をかける。アガサは美しくなったけれど、でもその顔は巨大化していた。
 ……だからなんでそんなややこしい復讐の仕方をするのだ。
��ロン・ウィルバー『ウルティマ・ウーマン』。
 宇宙から地球を守るためにやってきた正義の超人ウルティマは、宇宙防衛隊エミーとリックが「合体」したとき現れるのだ。でもリックは嘆いた。「ボクたち、地球が侵略されるまでHできないじゃん!」……バカだなあ(~_~;)。
�ぅ妊奪函Ε▲襯皀鵝淵謄奪斌鄲次法悒痢次Ε痢治妝藤蓮|棒院γ狼紂戞� 
 宇宙船の乗組員が船内でHしまくるだけのマンガだけど、描いてるのが日系人なもんで、宇宙船の名前や人物の名前がもうフザケまくり。
 「ホンバン号」に「ヤリマン号」、小型艇の名前は「コダネ」だ。平仄は合っているな(そもそも平仄って言えるのか)。「タマタマ司令」に「キンタマ隊長」、ほかにも「エロエロ」とか「イッチャウ」とか「チンチン」とか。
 ……思い出したけど、高校生のころ、芝居の脚本を書いてくれって友達に頼まれて、原案を渡されたんだけれど、その主役の名前が「増加希陽」。一目見て、「この名前は却下ね」と言ったら、その友達が「やっぱわかった?」と笑いやがった。ウチの母校、福岡県下では名門で通ってるんだけれど、実態はバカばっか(^_^;)。


 夕方、ぴんでんさんから電話。
 オタアミ公演に使ったビデオカメラを返しに行きたいとのことであったが、そろそろしげを起こして、食事に出かけようかというところだったので、明日以降にしてもらうことにする。
 「しげちゃん、まだ寝てるんですか!」とビックリされる。夜中に寝入ってから、そろそろ16・7時間になるので、ぴんでんさんが驚くのも当たり前ではあるのだが、しげがいったん寝たらなかなか起きないことは、この日記にも何度も書いている。
 さてはぴんでんさん、私が誇張して書いてると思ってたな(^o^)。
 「いいなあ、私、今日は朝から仕事なのに。有久さんは休みを取られたんですか?」
 「いえ、休日振替で、もともと今日は休みなんですよ」
 「いいなあ!」
 でもまた私ゃ休日に出勤するんですけど(^_^;)。
 掲示板に「オタアミ当日、しげが爆発寸前だった」と私が書いていたので、ぴんでんさん、「何かしげちゃんを怒らせるようなことでもしましたっけ?」と心配している様子。でもそりゃ、深読みのしすぎってものである(^^)。
 イベントのたびにしげの神経が高ぶることも、私ゃしょっちゅう書いてるんだけどなあ。だいたい何か問題があって、そのことを非難したいのなら、普通、「いろいろとトラブルはありましたが」という書き方をする。しげ個人のことしか書いてないのだから、それ以上の意味はないのである。
 一応私も、初めてこの日記や掲示板を読む人のために、できるだけ説明を加えるようにしてはいるが、毎回毎回、それまでの経緯を繰り返して書いてもいられない。そんなことをしていたら、日記の書き出しにいつも「この文中に出て来る『しげ』というのは私の妻のことで大バカ者です」と前説を付けねばならなくなる。ただでさえそれに近いことをやってて、しげから文句つけられてるというのに、そんなことをしたらますます家庭争議の火種になるというものだ。多少、説明不足な文があったからと言って、いちいち気にせずに、読み飛ばしてもらいたい。


 マンガ、冬目景『羊のうた』7巻(完結/幻冬舎/バーズプレミアム・限定フィギュア付き・2310円)。
 店頭に置いてあったのがフィギュア付きだけだったので、これを買う。しげはそういうのいやがるんだけど。けれど浅井真紀さん原型政策のこのフィギュア、なかなかのいい出来だ。しげがこういうのに興味を持ってくれないのはちょっとサビシイ。
 マンガのラストの方は、私が冬目景という「作家」を過剰に高く評価していたために、つい、「普通じゃねえ?」という感想を持ってしまいそうになったが、考えてみたらスペクタクルな結末に至るような物語ではないのだった。
 「隠棲する吸血鬼」というジャンルがあるものかどうか、しかし、血を吸わねば生きられぬ自らの身を呪い、運命にあらがう吸血鬼たちの悲しみを静かに描いた作品として、本作は記憶に留めて起きたい一作である。これから読む人のために、結末は伏せておきたい。
 完結させて作者の気が抜けたのか、表紙絵がえらくデッサン狂ってるんだけど。

 『羊のうた』はビデオアニメ化が決定したそうだが、さて、マンガの静謐な雰囲気が再現できるものかどうか。製作はマッドハウスだけれど、あそこ、実力はあるのにどうも演出が過剰でハズしちゃうことも多いしなあ。
 以下に、スタッフ・キャスト名を挙げる。

 原作   冬目 景
 監督・脚本・絵コンテ  杉井ギサブロー
 キャラクターデザイン  瀬尾康博
 制作   マッドハウス
 キャスト
  高城千砂  林原めぐみ
  高城一砂  関  智一
  八重樫葉  雪乃五月
  水無瀬    三木眞一郎
  江田  新 小杉十郎太

 声優に新人さんばかりを使う愚は避けてるけれど、やや手垢のついた印象もなくもない。雪乃五月さん、『トライガン」のころから知っちゃいるんだけど、まだ声を聞き分けできないなあ。

2002年02月24日(日) ベスト・オブ・ザ・魔女っ子/DVD『コメットさん☆』BOX SIDE A/『ワンピース RED』(尾田栄一郎)ほか
2001年02月24日(土) それはせんせい/アニメDVD『エクセルサーガ』への13巻(完結)ほか


2003年02月23日(日) オタクアミーゴス in 九州 V(ファイブ)��

 ついに来ちゃったねえ、オタクアミーゴス。
 夕べ唐沢さんが指折り数えて「(最初の公演から)もう8年だなあ」と仰っていたが、博多での開催も足掛け6年。私も第1回はただの客だったのだが、いつの間にかスタッフになっていて、各方面にいろいろご迷惑をおかけしつつも、3年とちょっと、関わっているわけである。しげや劇団の連中も巻き添えを食らってスタッフ化してるから、2名から4、5名分のチケット代は減ってるはずなのだ。
 も少し私の顔が広けりゃなあ、集客にもいろいろ便宜が図れると思うんだが、如何せん、ウチの職場にいる連中ときたら、マジメでマジメでマジメなカタブツばっかなんで、こういうイベントには全くと言っていいほど興味を示さない。なんで私はもっとフザケた職業に就かなかったのか(フザケた職業なんてあるのかという疑問は置いとく)。

 夕べ、帰りが遅かったので、睡眠は4時間ほど。まあ、無理すればなんとかならないこともない。
 やたら長引いてる風邪は、とりあえず喉飴で抑えながらやり過ごすことにする。
 ただちょっと問題なのは、昨日から両足が痺れて、マトモに歩けない状態になっていたことだ。夕べの宴会場である「赤鳥」は座敷で、私はずっと胡座をかいていたのだが、恐らくそれが原因だろう。けれども、歩くのも困難というのは尋常ではない。やはり、糖尿のせいで、毛細血管が詰まりやすくなっているのだ。一晩寝ても回復しないと言うのはさて、どうしたらいいものか。
 無理して歩けば歩けないことはないが、どうしても跛を引いてしまう。ふと、気になったのは、唐沢俊一さんも子供のころの病気で跛を引かれていることだ。別に気にされるような方ではないとは思うが、目の前でワザとらしく足を引きずってる人間がいたら、当て擦りかと思われるかもしれないし、かといって、いちいち事情を説明するのもヘンだ。
 これはもう、できるだけガマンして、今日は唐沢さんの近くにはできるだけ寄らないようにするしかない(T-T)。

 比恵から天神行きの地下鉄に乗りこんだら、博多駅から偶然よしひと嬢も乗りこんできた。前回まではお客さんで来て頂いていたのだが、今回はお手伝い人である。ロビーにはできるだけ女の子をいっぱい配置したいなと思っていたのだが、しげがよしひと嬢をオタアミのお三方の接待に回してしまった。さて、よしひと嬢、緊張しないでいられればいいのだが。ついうっかりお茶をこぼしてしまって、「てへ、私ってドジッ子」とかベタなことやってくれると面白いなあ、なんて不謹慎なことを考える(←面白くないって)。
 しげがまた例のせっかち病で「間に合うかなあ、遅刻しないかなあ」とうるさいが、8時半集合で、7時半に家を出ているのに、どうして間に合わないことがあるか(天神までは家から三、四十分しかかからないのである)。
 それより、私ゃ、昨日の呑み助どもが寝過ごしゃしないかと、そっちの方が心配(^_^;)。

 会場の天神Z−SIDEの搬入口には8時を回ったころに到着。もちろん一番乗りである。ほどなく、やはり手伝いの下村嬢、私がコンビニで飲み物を買ってるスキに到着。
 下村嬢も今は北九州の「うずめ劇場」という劇団の見習い女優さんである。いろいろあって、女が磨かれているかと思ったが、見たところ別にそれほどのことはないのであった(^o^)。彼氏さんが今日はお客としてご来場の予定であったが、都合が悪くなったとのこと。いろいろと評判は聞いていたので、どんなおヒトか見てみたかったのだが。
 時間前には、ZUBATさん、愛普羅さん(なんだか最近このHN使っていらっしゃらないみたいですが)、鴉丸嬢に引き連れられて、其ノ他君、アンジェリーナさんと、三々五々に集まってくる。見事なくらいに警備やなにやらの手伝い人ばかりが早く来て、基幹スタッフがあまり来ない(^o^)。
 もっとも、9時にならないと搬入口は開かないし、待ってる間に警備の打ち合わせができたので、かえって都合はよかった。しげの作ったスケジュール表に従って、会場図・周辺地図などで、配置や救護の準備などを説明、あとは現場での確認のみである。
 9時前には「昨日の酒は全く残ってませんよ」状態でスタッフは全員集合。エロさんなど、肌までツヤツヤして見える。みなさん、分解酵素をたっぷり持っていらっしゃるのだなあ、と感嘆。

 ぴんでんさんの車から荷物を運び出して、搬入用のどでかいエレベーターに乗せる。これだけでかいと、ニセの壁を作って、その裏側に死体を隠してもバレないんじゃないかとか、ドラマ『ケイゾク』のバカトリックみたいなことを妄想する。「そんな壁、どこで売ってるんだ。東急ハンズか」ってネタね。
 7階「夢天神ホール」への運びこみ自体はアッというまに終わってしまったので、エロさんの音頭で、各部署に分散、打ち合わせ。細かいところを詰めていく。
 ロビーは受け付けのしおやさんんと、警備の私とで仕切ることになる。一番動いて頂かなければならないのが愛普羅さん、ZUBATさん、それに其ノ他君なので、連携がスムーズに行くようにあちこち走り回って説明。足の痺れはどんどん痛みに変わって行くが、そんなことは言ってられないのだ。

 一通り、看板を立てたりして、準備が終わると、あとはヒマ。
 通りすがりの親子連れ、小学校低学年くらいの女の子が、看板のチラシを見て興味を示すが、お母さんの方が、「しっ、近寄るんじゃありません」とばかりに子供を連れ去って行ったのがおかしかった。
 10時を回ったころに、福家書店さんがお三方の書籍の販売の準備に来られたので、今のうちに、と物色する。
 この本をお客さんに買ってもらって、公演後にサイン会を開くわけだが、福家さん、唐沢さんの文庫新刊『クスリ通』の入荷が間に合わなかったと悔しげである。旧刊でも全く売れないこともないが、やはり新刊の方が確実に売れるようだ。見てみると、前回まではなかった眠田さん関係の同人誌が結構並んでいるので、それも含めて未購入のものを全部買う。何、全部と言っても既に殆ど買ってるものばかりなので、5、6冊程度なのである。
 手伝い人のよしひと嬢、鴉丸嬢、下村嬢にも「バイト代がわりに欲しいのがあったら買ってあげるよ」と言う。みんな全くのボランティアだから、これくらいはしてあげたい。
 よしひと嬢が選んだのは、『快楽特許許可局 "American Sex Machines"』Hoag Levins(著)、唐沢俊一(監訳)。まあ、あれですね、原題通りのものを図解つきで紹介してる本です(* ̄∇ ̄*)。
 「こういうの、店頭では買えない?」
 「……さすがにこれはレジには持っていけませんね(ーー;)」
 なんと鴉丸嬢も、同じ本を買って、「姉さまといっしょ♪」と喜んでいる。この本買って、そんなセリフ吐いてると、ちょっとアブナく聞こえちゃうんですけど。
 「こういうの、店頭では買えない?」
 「あ、あたし平気で買う♪ マンガの資料になるから」
 ご立派。やっぱり、鴉丸嬢はそうでなくっちゃなあ。
 いや、本気でこの子、「エロマンガ家」になれる資質はあるのだ。ただ、その手の作家として必要な「押し」がまだまだ虚勢でしかないのがネックになってるのである。イラストしかまだ見たことがないけど、抜ける絵を描くのにはもっともっと修業が必要だろう。ソルボンヌK子さんの弟子にでもなれば大成すると思うがなあ。
 下村嬢は『怪網倶楽部 裏モノ見聞録』を選ぶ。「ネットの情報が見られるから」と言うが、モノによっては宣伝広告がいっぱい付いてくるから、気をつけようね。
 『快楽』は2冊しかなかったので、これで完売。福家さん、「まさかこれが最初に完売するとは」と驚いていたが、店頭に滅多に並んでないしねえ。もちろん私はとうの昔に福家さんで買ってます。o(^-^)○ イエイ♪

 気の早いお客さんは、まだ11時だと言うのに、もうやってきている。ちょうど受け付けのところに居合わせていたので、「開場は1時半ですので、それまでお待ち下さい。座席は余裕がありますので、直前に来られても大丈夫ですよ」なんてことを説明するが、受け付けにお節介してるみたいだなあ、と思ったので、ロビーの方に引っ込む。
 福家さんと立ち話をしていたら、機材のセッティングをしていたはずのぴんでんさんが突然飛び出してきて、「今の人は誰ですか?」と聞いてくる。その「今の人」というのがよく分らないので、「何のことですか?」と聞いたら、何者かが(としか表現できないな)会場に入って来て、いきなり座席のど真ん中にカバンを置いて、出て行ったと言うのである。 
 慌てて、「誰か来たのか」と受け付けの鴉丸嬢に聞いてみたら、「お客さんが来て、スウッと入っていって……」。入口のところにいた其ノ他君は「このホールの人かと思って」。私も全く混雑していない段階でこういうことが起こるとは思ってもみなかったので虚を突かれた。
 なんだか、ミステリの「見えない人」のようである。多分、単純に開場時間を間違えただけの人だろうが、そのままにしておくわけにもいかないので、受付でカバンを預かってもらうことにする。開場時にはもう一度並び直してもらう予定なので、時間にさえ間に合えば、早く来てもあまり関係はないんだけどねえ。
 いやあ、しかし本番当日って、予想外なことが起こるものだ。やはり油断は禁物なのである。

 お客さんが来出したら、食事もなかなかできなくなるので、交代で仕出しの弁当を食べる。5分で食べ終わった私を見て、よしひと嬢、鴉丸嬢が「はやっ!」と驚くが、商売人の家に生まれると、いつお客さんが来るかわからないので、どうしても食うのが早くなるのだ。健康に悪いので、これでも近年は遅くなっている方なのである。

 そうこうしているうちに、12時を回ったころに眠田さん、唐沢さん、岡田斗司夫さんが御来場、楽屋入り。岡田さんは顔の輪郭はそう変化しているように見えないが、ボディーは確実にスリムになっている。何しろ真正面から見ても、初め岡田さんだと気がつかなかったくらいだ。小学生一人分くらいは確実に減っている。これは私より痩せるのも時間の問題だなあ。
 エロさんから、お三方の公演中に画用紙を使いたいから準備できないか、との連絡が入る。私は足が利かないので、其ノ他君に買って来てもらおうと、文房具展の場所をしおやさんから教えてもらうように頼む。
 ところが、ちょっとその場所を離れたら、すぐにしおやさんから「有久さん!」と呼ばれてしまった。
 「どうしたんですか?」
 「彼、場所がわからないんだって」
 そんな複雑なところに文房具屋があるのかと思って、地図を覗いてみる。しおやさんが、「有久さん、『新天町』はわかりますか?」と聞いて来る。
 わかるもなにも、「新天町」はこのZ−SIDEの「真向かい」だ。しおやさんが印をつけてくれた文房具屋も、Z−SIDEから角を1回曲がっただけのところにある。
 なんでこれの場所が分らないというのだ。
 で、ハッと思いだしたのだが、其ノ他君は、驚異的な方向オンチであったのだった。以前、博多駅の筑紫口で待ち合わせたことがあったのだが、カンバンに「筑紫口」とハッキリ書いてあるにも関わらず、「ああ、こちらが筑紫口か」と「確認して」、「博多口」に行ってしまった経験がある。
 方向オンチって言うよりボケてるんじゃないのか(ーー;)。
 其ノ他君、「すみません」と謝るが、それ以前にマトモな社会生活が営めるのかどうかが心配になるぞ。
 どちらにしろ、こんな役立たずを手伝いに連れてきた責任は私にあるので、痛む足を引きずって、画用紙を買いに行く。
 文房具店のねーちゃんに、「画用紙はありますか?」と聞いたら、「地下の画材屋にあります」とのこと。
 地下ぁ〜? \((;◎_◎)/!
 今の私に階段はまさしく地獄への一本道である。一歩、足を下ろすたびに、衝撃が腰まで上ってくる。なんだか骨まで軋み出したような気がしてきた。
 ううう、くそう、これまでしげからバレンタインにデカチョコ贈られてて、其ノ他君かわいそうだなあ、とか思っていたが、もう同情なんてしてやらないぞ。チョコを食って食って食いまくって、糖尿になってしまえばいいのだ(T-T)。

 会場内の準備が概ね終わったのか、しげも時々ロビーに出てくるが、顔を見るともういっぱいいっぱいである。
 「なんかあった?」
 と聞くが、「別に」と愛想のない返事。目の下には黒々とクマできてるし。
 実際に、こいつは夕べ、今日のことを考えて興奮して、一睡もしていないのだ。多分こいつの脳内ではイベントとなるとアドレナリンが通常の3倍くらいは分泌されているのであろう。そうでもしてないと緊張に堪えられない、ということなんだろうが、いつ爆発するかわからない状態でいられると、こちらまで神経がイカレてしまう。しげは私のことを「ムッツリしてて怖い」とよく言うが、そう言うしげ自身、劇団の連中から全く同じことを言われてるってこと、わかってんだろうか。
 なんかもう、しげを見ている限り、気分は「早く終わってくれ」って感じ。

 いよいよ時間が間近に迫って、ロビーにもお客さんがひしめきあってくる。ざっと見渡したところ、120人ほどがタテ20メートル、横、5、6メートルほどの狭い空間に立ち並んでいるのである。しかも、一人一人の体積が大きい人が多いから(^o^)、ロビーが暑いこと暑いこと。空調、効いてないんじゃないかってくらいに汗がにじみ出てくる。
 もっとも、オタクと言っても一概にひと括りにすることはできない。確かに山から降りて来たのかって感じの人もいはするが、普通のサラリーマン風の人も結構いるし、なにより女性が結構目立つ。和服にエプロン付けてた女性がいたけど、あれは何かのコスプレか。
 お喋りもごく普通で、うるさい感じは全くない。そこここで知的な会話が繰り返されるのを聞いていると、衣装さえ整えれば、「サロン」と言ってもおかしくないほどだ(^^)。
 松葉杖の方がいらっしゃったが、介添えの方が付いていらっしゃるようで、心配はなさそう。会場のときの混雑でコケたりしないように気をつければいいか。

 開場して、お客さんがドッとホールの中へ。ZUBATさんが「走らないでご入場下さい」と声を張り上げるが、突進するほどの人はいないので、スムーズにお客さんが流れる。
 中に入ってみて思わず笑っちゃったのだけれど「待ち」の音楽でかかっていたのが、昨日、ぴんでんさんがかけていた『天本英世の世界』である。お客さんは、こんなもん聞かされて、またアミーゴスのお三方のトークも聞くのである。
 全く、悪趣味な話だ(^_^;)。

 公演自体は、2時から前半が2時間、休憩を挟んで後半が2時間、6時過ぎまでの予定。
 前半、私はロビーの警備なので、公演自体は見られない。
 まあ、中からケムリが出てくるとか、キグルミの怪獣が出て来るとかそういうことはなかったから、多分、何事もなかったのであろう。
 後半は警備で、中で立ちんぼう。しまった、椅子を持ってくりゃよかったとあとで気づくが、途中退場はできないから、なんとか我慢。でもお三方のお話に笑うたびに、足の痛みがビンビン響くし。立って足を伸ばしてても、足はカラダを支えてるから、痺れはいっかな取れないのである。
 途中、お三方がビデオの切り替えを間違えたり(^o^)、しげのビデオカメラのバッテリーが切れるというミスはあったが(準備中にバッテリーを使いすぎたのが原因だとか)、これも映像自体はハードディスクに収録されていたというので、記録上は問題はない。
 公演の内容については、いろいろ差し障りがあるので、ここでは語りません。だって悪口とか悪口とか悪口ばっかりなんだもの(^o^)。「誰の」なんて聞かないで。まあ、発表できる範囲のことは、お三方の日記やレポートを参照していただきたく思いますです。
 公演のシメ、お三方と会場が一体化し、
 「来年も来てもいいかな〜!?」
 「いいとも〜!」で終わったことは特筆しておきたい(いや、具体的にそういうヤリトリをしたわけではありませんが)。

 まあ、あと一つだけ(これが多いな)、公演中、お三方が「博多出身の芸能人」ということで、「武田鉄矢」と「ばってん荒川」の名前を挙げてましたが、公演をお聞きになった方が間違えちゃうといけないので、注を付けときます。
 この二人、どちらも博多出身ではありません。武田鉄矢は雑餉隈(「ざっしょのくま」と読む。蔑称「ざっしょ」(^o^)。福岡市の外れにある)の生まれだし、ばってん荒川は熊本県だ。
 どうも九州っていうとみんないっしょくたにされることが多いけど、博多人の他地方に対する優越感は、もう自分がカミサマになったつもりじゃないかってくらいに高いので、ウカツなことは言わないように(^^)。私は別に関与してませんが、博多の悪口を言った某県人が、翌朝、那珂川に浮かんでいたとかいないとか……。
 武田鉄矢を好きな博多人なんて、マイナス100人もいないから、博多人の前で「武田鉄矢はいいですねえ」なんて、口が裂けても言わないこと。タモリと小松政夫を誉めるのは全然オッケーです。あの人たちは博多出身だから。松田聖子は久留米だから却下(^o^)。
 他地方の方は気を悪くするかもしれませんが、こういう博多人の感覚、殆ど宗教の域に達してるんで、まあ、原理主義みたいなもんかと気にしないでいてくれると助かります。m(__)m

 終了後のサイン会、定連さんも増えているので第1回のころに比べると列が短いが、昨年よりは盛況な感じ。今年は書籍のほかにも色紙を用意していたので、これが十数枚ハケる。
 お客さんが列を移動して、お一人ずつにサインを書いていただくのだが、岡田斗司夫さんのところに最初に並ぶと、岡田さんが色紙にどデカくご自分の顔サインを書くものだから、あとの二人がサインを書くスペースがなくなってしまう。
 仕方なく眠田さんは色紙の裏にサインを書いていらっしゃった(^o^)。
 私も、岡田さんのところに並んでサインをもらう。唐沢さん、眠田さんには昨年までにサインを頂いていたが、岡田さんにはまだであったのだ。もちろん私が以前、この日記の記事が元で歌舞伎論争をメールでヤリトリした人間であることなど、オクビにも出さない(実は他にもいくつか接点があるんだが)。いや、黙ってたのはケンカを吹っかけるつもりかと誤解されたくなかったからなんだけど。唐沢さんと違って、岡田さんは心の狭さが売りだから(^o^)、無意味なケンカは避けた方がよかんべえってことなんである。
 でも、サインしてもらった顔がちょっと怒り顔と言うか、不審顔だったから、もしかしたら気が付かれちゃってたかも(^_^;)。

 サイン会のあとはお三方はホテルに引き上げ、平行して我々はロビー・ホールをバタバタと片付け。足の痛み、だいぶ激しくなってきているので、どうも動きが自由にならない。長椅子一つ運ぶのに、えっちらおっちらである。
 帰りしなに唐沢さんが、座席が全て収納されて伽藍堂になったホールを見て、「ほう、こんなふうになるんですなあ」と感心しておられたが、舞台経験のある唐沢さんがそう仰るのがおかしい。

 片付けを終えて、いったん散会。
 ここで鴉丸嬢と其ノ他君はお別れ。打ち上げの宴会には出席しないのである。せっかくの機会だから、お三方にマンガのことについてうかがってみたら、と誘ったのだが、其ノ他君が一人じゃ天神から帰れないので、付いていくしかないらしい。って、マジで小学生か。
 鴉丸穣にリードされっぱなしなのもどうかと思うが、今日なんか、何を考えてるのか其ノ他君、鴉丸嬢に向かって、「おまえもそろそろ結婚適齢期だなあ」なんて発言してるんである。鴉丸嬢、「アンタが言うか!」と激怒してたが、本当に其ノ他君、何を考えているのか。


 やっぱり字数オーバーしちゃったか(^_^;)。
 てなわけで、続きは翌日の日記に。

2002年02月23日(土) トンデモさんが一杯/映画『カタクリ家の幸福』ほか
2001年02月23日(金) 哀愁列車/『ちょびっツ』1巻(CLAMP)ほか


2003年02月22日(土) オタアミV前夜祭/映画『ひき逃げ』

 全く、CS日本映画専門チャンネルは魔窟だ。
 これまでもチャンネルNECOを見ちゃいたんだけれど、あそこ日活映画しかやらねえ。確かに一番の老舗だけれど、石原裕次郎以降の作品にはあまり心惹かれないのだ。
 映画会社によって特色が分れるということも昨今はなくなってしまったが、五社協定があったころは、ハッキリと監督や役者によって、作品のカラーが違っていた。私の好みはどうしても東宝が一番、あとは大映・東映・日活・松竹の順になる。

 今朝は成瀬巳喜男劇場で、彼の最晩年の作、『ひき逃げ』を見る。
 1966年公開だから、私も生まれちゃいるが、当然子供は映画館にこんなのを見には行かない。今回が全くの初見。
 「東宝の小津」(という呼称はあまり誉め言葉にはならないが)成瀬巳喜男にしては、これは随分「社会派」っぽい作品である。「謎解き」の要素をもうちょっと強くすれば、そのまま松本清張原作の社会派ミステリだと主張しても通りそうだ。
 もっとも、『浮雲』『放浪記』などで、運命に翻弄される女の一生を描いた成瀬監督にしてみれば、この映画の「ひき逃げ」によって不幸に落ちて行く伴内国子も、充分に自分の映画の主人公として認識されているのかもしれない。
 脚本は主演の高峰秀子の御夫君・松山善三だが、「良識派」である氏の脚本は、ともすればメロドラマに流れる嫌いがあるが、これは珍しくもラストまで殆ど乾いている。
 この二人のコンビで、ここまで「重厚な」(他作品が軽いという意味ではない)映画が作られるとは。実に見応えのある「映画」だった。

 山野モータースの重役夫人・絹子(司葉子)は、不倫相手の小笠原(中山仁)とドライブ中、道に飛び出してきた子供・武(小宮康弘)を轢き殺してしまう。
 帰宅して、夫・柿沼(小沢栄太郎)に不倫の事実だけを隠して、轢き逃げしてきたことを伝えた絹子であったが、スキャンダルを恐れた柿沼は、運転手の菅井(佐田豊)に絹子の身代わりとして自首するように命じる。
 息子を殺されたのは、安食堂で働く伴内国子(高峰秀子)。パンパンあがりの彼女は、復員兵の夫と結婚して子供も生まれ、ようやく幸せを掴んだと思ったのもつかの間、先年、夫を工場の事故でなくし、今また、最愛の息子を失った。
 国子の弟、チンピラの弘二(黒沢年男/現・黒沢年雄)が山野モータースにネジ込んで、慰謝料をせしめはしたが、そんなこと国子の心は晴れない。毎晩飲み荒れるうちに、事件の目撃者の老婆(浦辺粂子)から「犯人は女だった」という証言を得る。
 再審を警察に訴え出るが無視された国子は、真犯人が誰かを突き止めるために、柿沼家に家政婦として入り込むことを画策する……。

 絹子にも息子・健一(平田郁人)がいて、国子はこの子を殺して子供を奪われた悲しみ・苦しみを絹子にも味わわせようとするのだが、もともと犯罪者の素質のない国子(そうそうあってたまるか)、どうにも要領が悪くて何度も失敗する。
 この子に感情移入したもんだから、陸橋から突き落とそうとしてもできない。横断歩道を赤信号で渡らせようとしても、いざ轢かれそうになったら、つい助けてしまう。でも、それで復讐を諦めるかというとそうはならず(ここがハッピーエンドの多い松山脚本にしては珍しいところだ)、寝ている健一の部屋のガスの元栓をそっと開けておくが、すんでのところで女中のふみ江(賀原夏子)に発見され、健一の命は助かってしまう。
 よく考えたら、ふみ江がいるのにすぐガス漏れが見つかるような細工をするのもおかしな話だ。これも殺したいけれど殺しきれない国子の逡巡の現れなのか。そう思いたくなるのは、国子を演じる高峰秀子の苦痛に歪む表情や演技が絶妙だからなのだが。

 物語の結末はちょっと救いがない。もともと救いのないドラマを作ることの多かった「ヤルセナキオ」(そう仇名されていたのである)さんであったが、これは『浮雲』以上に高峰秀子の哀れさが涙を誘う。ラスト、国子がどうなるかはぜひ映画を御覧になって頂きたい。きっと暗澹たる気分になって落ちこむから。
 「交通戦争は悲劇しか生まない」というのが本作の製作意図だったことは間違いない。しかし、今や「車社会」自体を批判する映画など、作ろうと思ったって作れるものではない。自動車会社をストレートに「企業悪」として描いているあたり、ヤマハからクレームがきたっておかしくない(^o^)。
 ではこの映画が「時代遅れ」になってしまってしまったかというと、そうでもない。車社会自体に警鐘を鳴らし得た時代と違って、ハッキリ言っちゃえば現代は車で人が死ぬのも仕方がない世の中なのである。私が、アナタが、今、車に轢かれて死んでないのは、ただ単に運がよかったからに過ぎない。
 だから今、かえってこの映画の悲壮感は弥増している。
 毎日、交通事故で人の死なない日はない。けれど、国子のような不幸な人間を生み出さない方法なんてないのである。今日も、明日も、明後日も、子をなくす親が、親をなくす子が、何人も、何十人も「生産」されているのだ。
 もしかして、そういう未来まで予見して作ったのかなあ、成瀬監督。

 東宝映画が一番イキがよかった時代だけあって、上記のキャスト以外にも触れたい人がたくさん。
 柿沼の部下・川島には加東大介、黒金には土屋嘉男。悪辣な腰巾着を好演。警察の取調官には稲葉義男に加藤武。このへんはクロサワ組からの流れが多い。
 巡査役には『ウルトラQ/2020年の挑戦&あけてくれ!』の柳谷寛。いい人なんだけど、役に立たない感じがしてて実にイイ。
 同じく『ウルトラQ/バルンガ』の奈良丸博士役が印象的だった青野平義は医者役でワンシーンだけの登場。
 博士繋がりで、『ウルトラQ/甘い蜜の恐怖』の長谷川博士を演じた清水元、今回は山野モータースの弁護士・今西を憎々しげに演じる。
 おっと、『ウルトラQ』と言えば、レギュラーのデスク・田島義文さんも刑事部長役で出演してました。別にこの人たち、『ウルトラQ』だけが代表作ってわけじゃないけど、ついそこに注目しちゃうね。
 高峰秀子の夫というオイシイ役は小川安三。岡本喜八の『殺人狂時代』で、トランプ投げの殺し屋・間淵を演じた方。ちなみに『殺人狂時代』には、『二十四の瞳』で高峰秀子の夫を演じた天本英世も出演してたから、あれは「高峰秀子の夫役」共演映画でもあったわけだ。しかし高峰秀子って、しょっちゅう夫に先立たれてるな(『浮雲』じゃ自分が先に死んでたが)。
 それから、国子の轢かれた子供・武を演じたのは『サンダ対ガイラ』で子供時代のフランケンシュタインを演じた小宮康弘くん。多分もう他の映画には出てないと思う。
 逆に東宝特撮に出てる高峰秀子ってのも見てみたかった気がする。
 ……おっと、エノケンの『孫悟空』があったか(^o^)

 いよいよ明日は「オタクアミーゴスin九州V」の本番。ということで、今日はエロの冒険者さん宅で、直前の打ち合わせ兼、機材の確認の予定。
 なんだけれど、集合時間の連絡がパティオに上がったのは昨日のこと。
 おかげでしげは、ここ二、三日、「まだかな、まだ連絡がないかな」と焦っていたが、予定自体は決まってるのだから、時間の確認についてまでそんなに慌てなくったっていいのだ。
 っつーか、わかんなきゃ電話で聞きゃいいじゃん。このしげのせっかちがこっちにまで伝播すると、かえって何か失敗しそうになるんで、あまり本気で相手にしたくはない。
 しげは機材の準備があるので、昼を回ると一足先に出発。
 私の仕事は当日の警備なので、実は今日はすることがない。2時間遅れて出かける。
 ところが、出かける直前、いきなりしげから連絡が入った。
 「ヨドバシカメラに寄って、DVテープ買って来て」
 そんなん、直前に言うな。しかも、博多駅はエロさんとこに行くコースからは外れている。今からそんな遠回りをしたら、何時に辿りつけるかわからんではないか。
 でも必要なものを買って来てくれと言われりゃ行くしかない。それにヨドバシでなくても、もしかしたら駅の構内でDVテープを買えるかもしれない。そう判断して、博多駅で、ビデオテープをよく買ってた「カメラのドイ」に行ってみる。
 ……ない。昔はビデオテープが山積されてたのに、今は全く置いてない。店名通り、本当にただのカメラ屋になっている。こりゃ、間違いなくヨドバシとの競合を避けたのだ。
 仕方なく、ヨドバシカメラに初めて足を踏み入れる。
 ……広すぎるって(ーー;)。何しろ西日本最大とか言ってるのだ。ビル一つ、三階建てで、しかも店に入っても、奥がどこまで続いているのか全く見えない。消失点があるんじゃないか(←マジ)。
 こんなとこでとても自力でDVテープが探せるわけがない。案内のねーちゃんをつかまえて場所を聞いたら、「二階に上がって左に曲がって、最初の角を右に曲がって、それから、真っ直ぐ行って、○○のコーナーを左に折れて、その奥にありますよ」
 どこや、それ。わしゃ迷宮探検に来たんじゃないわ。なんとかDVテープは買えたけれども、結局、ヨドバシに立ち寄っただけで、30分もかかった。
 気がついたら、外、雨も降ってる。だからわしゃ、ここんとこずっと鬱なんだって。

 集合時間に1時間ほど遅れ、4時近くにようやくエロさんの事務所に辿りつく。
 当たり前だが、既にAIQのメンバーのみなさん、しおやさん、ぴんでんさん、獅子児さん、みなおそろいである。アンジェリーナさんだけ、打ち入りのときに合流されるとか。
 狭い事務所の中には、テレビだのビデオデッキだのがひしめきあっていて、何がなんだかわからない。
 なぜかBGMで天本英世さんの声がCDデッキから流れている。天本さんの公演記録のCDを、ぴんでんさんが流していたのだ。「スペイン人に比べて日本人はけしからん」というあの論調である。こういうの聞きながら作業してて楽しかったんだろうか。しおやさん、「正論かもしれないけど、こんな風に言われると腹が立つなあ」と仰る。確かに「日本人はもうダメ」と言われたって、どうすることも出来ないしな。スペイン人になる方法があれば別だけど。死んで転生するか、なんて発想が浮かぶのが、まだ私の鬱が治り切っていない証拠である。

 しおやさんに、昨日、しげがテレビ放送のときにいろいろと迷惑をかけたらしいことを謝る。
 「すみません、あいつ、昨日本番でトチったんでしょ?」
 「うん、失敗したよ♪」
 あああ、そんなに明るく言わんでも(+_+;)。
 で、その肝心のしげがどこにいるかと、事務所の中を見回すと、部屋の隅に積み上げてあるダンボールの箱の隙間にポコッとハマリ込んで座っていた。何をしているかというと、ちょうどビデオカメラの点検が終わったところらしい。カバンの中にDVカメラやコードを仕舞っている。
 買ってきたDVテープを渡すと、しげ、キョトンとした顔で、「何、これ?」と言う。
 「DVテープだよ! オマエが買ってこいって言っただろ!?」
 「ああ、あれ」
 「あれって……必要だから買ってこさせたんじゃ……?」
 するとぴんでんさんが横から、「今年はDVDのハードディスクの方に録画しますから、テープは要らないんですよ」。
 なにぃぃぃぃぃ!ヽ(`⌒´♯)ノ
 思わずしげを振り返って、「オマエ、必要ないものわざわざ買ってこさせたんか!」と言ったら、このアマ、いけしゃあしゃあと「あれば便利じゃん」。
 ちょうど偶然、手にマサカリを持っていたので、これでしげの脳天を唐竹割りにしようと思ったが、周りに人目もあることなので自粛。
 だから私ゃ鬱なんだってば。人は殺さんが、蟻くらいは殺すぞ。あまり神経に障ることしないでくれ。

 明日の機材の準備も終わり、荷物をぴんでんさんの車に運びこんだら、あとは特にすることとてない。時計はまだ5時になったばかりなので、打ち入り予定の8時までまだ3時間もある。さて、どうしよう、というところで、ぴんでんさんがハッと気がつく。
 「アンケート作ってない!」
 明日の、お客さんに書いてもらう予定のアンケートだ。項目を新しくするので、打ち合わせをしていたのだが、それを紙面にまとめるのを忘れていたのだ。
 「でも、時間、まだあるし、今、作っちゃおう」
 ぴんでんさん、エロさんのパソコンの前に座って、パコパコとキーを叩き始める。このとき、とってもおもしろいことがあって、しげがとっても喜んだのだが、ある人がとっても恥ずかしい思いをするかもしれないので書くのは自粛(^o^)。
 アンケート、ササッとできる。こういう風にパソコンを扱えたら、私もホームページをさっさと立ち上げられるのだが。

 あとはもう、ムダ話で時間を潰す。
 ぴんでんさんが、小林幸子と美川憲一の紅白歌合戦衣装対決を収録したDVDを見せて「どうですか?」と聞いてくる。
 いや、「どう」と言われても。私が絶句していると、「有久さんなら、面白がってくれると思ったのになあ」と不満気な顔である。と言われても、昔は興味がなくもなかったけれど、去年はチェックすらしてないし。
 ふと思ったのだが、こういうとき、唐沢俊一さんなら、自分の興味のないものを見せられても、「ほほう、いいですなあ」とか相槌を打って見せると思うのである。どうも私もしげもバカ正直で、つまらないと思ったものがすぐ顔に出てしまい、相手の気を悪くさせてしまうことが多い。ここでニコヤカに会話ができればオトナなんだろうが、やっぱりガキな部分が残っているのである。

 ところが、しげに言わせると、話は全く逆で、私は表情そのものに変化がなくて、何を考えているか読めないことが多いのだそうな。もちろん、そんな時はたいてい「何も考えてはいない」のだが、人にはそうは見えないらしい。冷たいとか、陰険だとか、そんなふうに見えているようだ。でも、そんなの自分じゃ分らないの(ーー;)。もしかして、顔文字の方が表情があるか?(ー∇ー;)
 仮に凄く嬉しい場合であっても、私の場合、「ああ、どうも」程度の反応しか返さない。しげの言うことも当たっている。
 あの、私がツンとして見えても、それ単に愛想がないってだけなんですから、もともとそんなヤツだと思って、気を悪くしないで下さい(TT。)。
 でもこんな私でも、ずっと昔は「あなたの微笑みを見てると心が洗われるわ」なんて言われてた日々も(以下他粛)

 なんだかんだで時間が経つ。
 ぴんでんさんは一足先に唐沢俊一さん、眠田直さんを迎えに福岡空港まで出張って行ったが、連絡が入って、雨で飛行機が遅れているとか。打ち入りは8時からだが、どうやら30分は遅れそうだ。
 先に待機してるしかない、ということでタクシー2台に分乗して、会場の「赤鳥」へ。着いてみたら、アンジェリーナさんは既に現場で待機中だった。
 ぴんでんさんからまた連絡が入るが、眠田直さん、体調が悪くて宴会は不参加。残念だが、明日は本番であるから、大事を取って頂くのが一番である。

 8時半すぎ、ようやく唐沢俊一さんご登場。拍手で迎える。
 店の人が誰が来たんだろう、と怪訝な顔なのがおかしい(あとで唐沢俊一先生ですよ、と教えてさしあげた)。
 さて、唐沢俊一先生ファンのみなさんなら、ここでどんな会話がなされたのか興味津々であろうが、諸事情を鑑み、今回は書くことを控えたい。というのも、久しぶりに唐沢さんにお会いして、みなさん相当嬉しかったのであろう、酒の入るピッチが異常に早くて、小一時間もしたころには、酒が飲めない私としげ以外、メンバーのみなさん、殆ど泥酔状態に陥ったのである。でもって始まったのが、お互いのプライバシー暴露大会(^_^;)。いくら、露悪趣味の私でも、本人の意志がはっきりしない状態で喋ったことを(多分、何を喋ったか覚えていないはずだ)ここには書けない。
 一応、状況を納得してもらうために、みなさんがどれくらい酔ってたかという一例。
 宴もたけなわどころがぐちゃぐちゃになって来たので、一応シラフの私が、エロさんに声をかけた。
 「エロさんエロさん、そろそろこのへんでお開きにしませんか?」
 「だいりょうぶれすよ」
 「もう11時を回ってます」
 「だいりょうぶれふよ」
 「唐沢先生も明日のことがありますから」
 「らいりょうぶれふよ」
 「……ちんぴょろすぽーん」
 「らいりょうふれふよ」
 全然大丈夫ではないのである。エロさんですらこの状態であったから、他の方々の御様子はご想像頂きたい。結局、「お勘定をお願いします」とお店の人に頼んでムリヤリお開きにしたのは私だった。こんなこと書いてるからと言って、私がヨッパライを嫌ってるということは全然ない。何度も書いてるが、私はバカが大好きだ(←これにも差別的ニュアンスはない)。そこんとこ、マジメな方は誤解なきよう。
 ああ、でも凄かった! あんな話やあんな話を聞けただけでも、生きててよかったというほどの濃いお話であった。
 もちろん、そう酔いが回っていないうちに、今後のAIQのあり方とか、そういうマジメな話もしたのだが、これまた確定事項ではないので、今の段階では書けない。もうしばらくお待ちいただきたいのである。
 それでもどんな秘密な会話がされたのか、もどかしい方もいらっしゃるかもしれないので、唐沢さんの発言で、とっても楽しかった過激発言を一つだけ御紹介。
 「オタクが○○○○○○○○行くかよ!」
 ……ダメだ、やっぱり伏字になるわ。

 これだけじゃなんなので、もう一つだけ、唐沢データを(^o^)。
 会話の中で、ふと唐沢さんが漏らした言葉の語尾に、チラッと「〜かしら」という終助詞がついていた。
 さあ、みなさんは、この「かしら」という言葉を使うことがおありだろうか(「『ウテナ』が流行ってたときには使ってた」というのは却下)。普通の大人なら、「女性語じゃないの?」と思うところだろう(若い人なら、女性でもこんな言葉遣いはもうしない)。辞書などを見ても「多くは女性が使う」と注が付いているものも多く、「かしら」が女性語であるということは一般的な常識だろう。
 しかし、男性が「かしら」を使う例が全くなかったかと言うと、そんなことはない。江戸川乱歩の『少年探偵』シリーズでは、小林少年がしょっちゅう「かしら」を使っていた(大人物でも使用例あり)。
 「かしら」の語源は「か知らぬ」である。だから「かしらん」という言い方もある。語源を辿る限り、これがもともと女性語だったとは言えない。ある世代までは、男性も使う「かしら」、というより「中性語」としての「かしら」を使用した経験があるのではないか。
 もっとも、唐沢さんが「かしら」と漏らしたのは一度きりであった。だから日常語として「かしら」を使われてはいないようだが、唐沢さんの出身は北海道であるから、もしかして、都をはるか離れた地ではまだ中性語としての「かしら」が残っていた可能性もある。子供のころに使っていた言葉が、ふと口を付いて出たということではなかろうか。もちろんただの言い損ない、という可能性もあるが。
 まあ、差し障りのなさそうな話と言えば、この程度のもので(^_^;)。

 店の料理の味だが、これもたいして書くことがない。唐沢さんは鳥のトサカだの、足の丸焼きだのに舌鼓を打たれていたが、数が足りなくて、私は全く食べていない。糖尿だし少しは控えないとな、と自分で言い訳しているが、今度またこの店に来たときには食ってやろうと虎視眈々と狙っている。

 ぴんでんさん、獅子児さんに唐沢さんを送っていただくことにして(どっちが送られる方やらよく分らないが)、明日の集合時間を確認し散会。
 このときもまたすごく面白いことがエロさんについてあったのだが、これもひ・み・つ(#^_^#)。
 みなさん、プライバシー放棄してくださればいくらでも書きますが(^o^)。(2003.3.23)

2002年02月22日(金) また買ったぞDVDBOX/『墨汁一滴』『ボクのらくがき帖』『石ノ森マンガ学園』(石ノ森章太郎)ほか
2001年02月22日(木) 霧の摩周湖(行ったことない)/『スレイヤーズすぺしゃる』2巻(神坂一・トミイ大塚)ほか


2003年02月21日(金) しげ、テレビ出演!/『江戸川乱歩と少年探偵団』(堀江あき子編)/『クイーンフェニックス』上・下(横山光輝)

 例のあぐにさん向けのSFレビュー、本棚を引っ掻き回しながらチョイスを続けている。
 昔、読んだことあるやつを読み返しているのだから、ところどころトバシもするし、読むスピード自体は早いのだが、自分でも「……こんな話だったっけ?」と思うくらいに中身を忘れていたりする。
 それに、アマゾンコムあたりで検索してみると、ホントに絶版・入手不可になっているものも多い。全く、SF受難の時代であることだ。
 けれど、以前、山本弘さんの「SF秘密基地」の「初心者向けのSF」スレッドで私が紹介した、ポール・アンダースン&ゴードン・ディクスンの『地球人のお荷物』、ハリイ・ハリスンの『テクニカラー・タイムマシン』、トム・ゴドウィンの『冷たい方程式』、これ全部山本さんは「絶版でしょう」と仰ってたが、調べてみたら、全部入手可能であった。アマゾンコムは絶版本も扱っているから、必ずしも絶版かそうでないかは判然としないのだが、少なくとも入手可能なものを「手に入らないだろう」というニュアンスで言ってほしくはなかったなあ。 念のため、本屋の店頭も回ってみたが、『地球人のお荷物』と『冷たい方程式』はしっかりあった。……山本先生、忙しいのは分るけど、ちゃんと調べてからモノ言ってよ(T∇T)。

 この三作をなぜ推薦したか、ということは、往年のSFファンであるならば、容易に見当がつくことであろう。御覧の通り、それぞれの持つテーマが全部違っているし、その中でも特にエンタテイメントに徹したものを選んでいるのである。『テクニカラー・タイムマシン』は、もちろん、タイムマシンものの一つでタイムパラドックスに面白い結末をつけてくれているし、もちろん『冷たい方程式』は「方程式もの」の元祖だ。
 今日までに選んだ分も、できるだけテーマがバラけるようにしてみた。

 『地球人のお荷物』に始まる『ホーカ』シリーズは、今回もあぐにさんに特にプッシュするつもりで推薦したが、これはファーストコンタクトもの、あるいは「異文化交流もの」(^^)と言われるものの一つである。
 あぐにさんは梶尾真司がお好きなようだから、恐らく梶尾さんのファースト・コンタクトものの傑作、『地球はプレイン・ヨーグルト』はお読みになっているであろうと推察した。ならばこれも面白く読んでいただけるのではないかと想像して選んだのである。
 SFという手法の「効果」の一つとして、モノを常に相対的に見られる、というものがある。つまりは絶対的な固定観念を否定するところから物語が始まるわけで、「宇宙にはこんなにトンデモナイ文化だってあるのだ」というファースト・コンタクトものは、まさしくSFの王道なのである。
 実際、小説もそうだが、映画ではこのテーマはこぞって描かれる。でも、あまりに描かれすぎちゃって、最近の作品はどれもどこか大上段で、異星人の存在をやたら超越的な存在か侵略者に限定しがちだ。
 『未知との遭遇』って、どこがSF? スピルバーグの手前勝手な夢物語でしかないではないの(←当時のSFブームが過ぎ去った今、意外に地雷発言ではないらしい)。『コンタクト』や『ミッション・トゥ・マーズ』はいかがですか。そう考えると『2001年宇宙の旅』は「うまく逃げて」ますね(^o^)。
 真正面からこのテーマに挑むと、どこか滑稽になってしまう。だったらいっそのことギャグで、というか、ギャグとSFは既成概念の破壊という点において極めて近い関係にあるのだが、「地球の文化にかぶれたテディ・ベアの姿をした異星人」なんてフザケた設定、よくもまあ考えついたものだ。
 『スターウォーズ ジェダイの復讐』のイウォークを見たとき、「ホーカのマネじゃん!」と思ったSFファンも多かろう。ルーカスもまたSFオンチである(←これも本人が認めてるし)。
 実際、1970年代半ばの、「映画主導のSFブーム」には、コアなSFファンは殆どノッてはいなかったのだ。ノッてたのは石上三登志と手塚真くらいのものではないのか(^o^)。
 2作目『くたばれスネイクス! 』と3作目『がんばれチャーリー』も挙げたが、最新の版の『お荷物』の折り返しを見ると、『がんばれチャーリー』の記載がない。……なんで一作だけ絶版にしたのかなあ。
 表紙が天野喜孝だというのも、意外に気が付かれないけど、オススメの一因。もっとも、初版当時、『お荷物』は『オズの魔法使い』シリーズのイラストも担当していた新井苑子さんが書いていらした。私の持っているのはもちろんこちらの版。どちらが好きかはもう好みの問題だろう。

 この調子でレビュー全作の選んだ理由を書いてったらキリがないなあ(いつものことだ)。あとはもう、簡単に。

 ジョン・ウィンダム『呪われた村』。
 インベーダーものの代表であるとと同じに「ホラー」としても読めるということで。映画化された『光る眼』(新・旧とも)も秀作という珍しい作品。幼いコドモが実は恐ろしい存在(しかも眼ェ光るってとこも)、というのはこれが元祖なんじゃないかなあ。そう考えると、『アキラ』だの『スプリガン』だのが余計な不純物をこき混ぜただけの模倣に見えてくるのですね。
 フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。
 サイバーパンクの先駆的作品ということで。と言うか、そういう印象を持つのは映画『ブレードランナー』の印象に引きずられちゃってるせいで、原作の方は文明批評的性格の方が強くて、それほどでもない。読み返してみて自分の記憶がかなり違ってたものの一つ。どういうわけか「原作にデッカードは出てこない」と思いこんでいた。なぜ?
 C.L.ムーア『大宇宙の魔女 ノースウェスト・スミス』。
 シャンブロウが好きっ! まあ、これもファーストコンタクトの変形なのだが、男は女にゃ弱いからねえ(^o^)。
 A.E.ヴァン・ヴォクト『スラン』。
 これがどうやらもう絶版らしい。アマゾンコムでなら入手可能。
 影響力という点では『宇宙船ビーグル号の冒険』(「冒険」が付かなきゃね!)の方が大きいし、こちらは絶版じゃないんだけれど、やっぱり「迫害される超能力者」ってテーマのもののほうが、あぐにさんの好みなんじゃないかと思ったのである。
 とか言いながら、スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』は完全に私の好み。これを「読め」というのは殆ど押しつけである。「イドの怪物」ものは人によって好みが全く分れちゃうから、これを気に入ってくれるかどうかは、さて、難しいところかなあ。
 今の表紙はもう、タルコフスキーの映画の写真ではなくなっている。表紙に映画の写真を使うことを嫌うSFファンも多いけど、これは比較的、ファンの間では評判がよかったと思うんだけど。まかり間違っても、今度の映画の写真は使わないでほしい(^_^;)。

 けれど、SF作品をまとめて読んで行くと、なんだかもう心の中にフツフツとSF魂が湧き上がってくるのを抑えることができない。自分みたいな浅薄非才な者がエラそうにSFを語るなんてなあ、と毎回思いながら、それでも語ってしまうのである。SFは魔窟だ(^_^;)。
 あぐにさんに推薦するだけでなく、今まで未読だったSF作品も(これ読んでないなんて恥っての、結構あるのよ)この際、読んで見ようと思う。特に海外SFは積ん読にしてるのって多いし。


 体調崩すことがあまりに重なっちゃったので、ある仕事の責任者から、二つほど外される。ああ、一応、トシだけは食ってるんで、責任者的なことはさせられてるんですね。しかも結構、重要な。
 まあ、私はプライドなんてものはもともと持ってない人間だし、上司の覚えがめでたくないこともわかっちゃいたから、仕事を降ろされたこと自体は別に動揺もせずに受け入れられたんだが、申し訳なかったのが、私の代理として仕事をしてくれた同僚。急場だったんで明らかに準備不足な仕事ぶりになっちゃってるのを見ていると、もどかしいんだけれどもそれを私が口にできるはずもなし。
 同僚がまたいいヒトなんだわ、仕事を放棄しちゃった私をまるで恨む様子もないし。おかげで、なんで私はこんなにカラダが弱いかな、とまた鬱になる。
 昔は自殺願望が起きるたびに「まだアイツとアイツに恨みを晴らしてないから」と自分を鼓舞したものだったが(^o^)、今は不思議と、一人でサビシイからと言って、誰かを巻き添えに死のうなんて発想だけは浮かばなくなっている。恨みもまた風化するものだということは、10年前、20年前には思いもよらなかった。
 「人間、諦めが肝心」ということをこの10年で体得しちゃったってことなんだろうか。だとしたら、体得させてくれたのは紛れもなくしげなんだが、あまり感謝したくはないな(^_^;)。


 山田風太郎の『コレデオシマイ。』を読んでいるうちに、横溝正史を読み返したくなってきたので、『本陣殺人事件』『獄門島』『悪魔が来りて笛を吹く』『犬神家の一族』『女王蜂』などを読み返す。
 仕事がなくなっちゃったんで(窓際とまではいかないが)、仕事中だけど本読む時間ができたのだな。嬉しいやら情けないやら。
 最初に読んだのは中学生のころだから、どれだけ印象が変わるかと思ったのだが、初読の興奮はないにしても、やっぱり『本陣』や『獄門』は名作だなあ、と感心。ただ、今、初読だったら、中学生のときのように、作者のトリックにあっさりは引っかからないだろうな、とは思う。
 だって、昔は『奥の細道』読んでなかったけど、今は読んでるし(^o^)。……そうなんですよ、この中のある作品のトリックを見破るには、『奥の細道』を読んでおく必要があるのです。
 そんな、専門的な教養がないと謎が解けないなんて、アンフェアなんじゃないか、と仰る方もいるかもしれませんが、そうじゃなくて、昔は「俳句」なんて「常識」だし「基礎教養」だったってことなんですよ。そのことを知っているのと知らないのとでは、その作品を評価するにしても意味は全然変わってきます。そういうことがピンと来るようになったってのも年を取ったってことなんだなあ。
 若い諸君、オトナになるって、楽しいよ。死期も近くなるけど(^o^)。
 ……ああ、やっぱりミステリを読んでいると鬱も忘れられるなあ。
 

 今日はしげが、「オタクアミーゴスin九州V(ファイブ)」の公演の宣伝のために、夕方はTVQまで出かけているので、車でのお迎えはなし。
 タクシーで帰宅して、食事でもしようかと思っていたときに、しげから連絡が入る。
 「すぐ降りてきぃ」
 「どこ、おるん?」
 「下」
 随分時間がかかるかと思ったが、意外に早かったようだ。考えてみたら、生放送の一発撮りだから、時間が過ぎればもう終わりなんである。「うまく撮れなかったからやりなおし」なんてことにはならない。
 下の駐車場まで降りて助手席を覗いたら、なんと鴉丸嬢が座っている。
 テレビ出演はしげだけで、鴉丸嬢はバイトと聞いていたから、これは驚いた。
 「あれ? 鴉丸さんも出演したの?」
 「うん、したよぉ」
 なんだか気の抜けたような返事だけれど、まあ、しげ一人じゃ彩りに欠けるから、これで少しは宣伝効果があがったかも。
 「これからどうするの?」
 「ちょっとドンキに行く」
 「……びっくりドンキー?」
 「ドンキホーテ。そりゃ、びっくりドンキーに行ってもいいんだけど。どうせメシ食うし」
 なんだかこないだも同じようなルートを辿ったような気もするが。まあ文句を付けるほどのこともないので、後部座席に乗りこむ。鴉丸嬢、座席を後ろに倒しているので乗りにくいな、と思ったが、考えてみたらこれはもともと私が倒していたのだった。
 早速、撮影の首尾がどうだったのかを聞いてみる。
 「で、うまく行ったの?」
 「……失敗したあ」
 「……何を?」
 「リハーサルのときに『時間は気にするな』って言われたから、本番で気にしなかったらマキが入った」
 そりゃ入るって(ーー;)。
 そのディレクターさんは多分、「緊張しなくていいから」という意味でそんなことを言ったんだろうな。けれど、しげというヤツは言葉をまさしく額面通りにしか受け取れないのである。比喩とか皮肉とか韜晦とか冗談とか、そんなものは全く通用しないのである。
 例えば、AIQのエロの冒険者さんのサイト「素敵なあなた」で、日記に毎回、謎の「宇宙パトロールのジョンさん」という人物が登場するのだが(^o^)、これをしげはずっと実在人物だと思いこんでいたのだ。もちろん、ホンモノの宇宙パトロールがあるとは思っていないが、「そういう名前の組織がある」とは思いこんでいたのである。
 ……しげみたいな人間が世の中にたくさんいたら、冗談の一つも言えなくなるよなあ。まあ、あそこまで極端なヤツは滅多にいないけど。
 「TVQに行くときも、道に迷ったし」
 「……道に迷ったって……博多駅のすぐ近くじゃん。その前もよく通ってたろう」
 「でも迷うんよ」
 しっちゃかめっちゃかではないか(-_-;)。一緒にいたしおやさんもさぞや呆れ果てられたことであろう。

 このときの様子は、しおやさんのホームページ「しおしおのパー」でも紹介されてるので、ご参照されたい。
 http://www.net-jp.com/showya/0302mainichi.html


 箱崎の『楽市街道』に到着、とにもかくにも腹が減っていたので、びっくりドンキーで食事。
 鴉丸嬢、相変わらず少食で、サラダのようなものを頼んでいるが、それすら食べきれない。しげまでとは言わないまでも、もちっと太った方がいいと思うがなあ。体も薄いが、命も薄くならないか。
 そのあと、しげたちがドンキホーテで買い物をしている間、私は近所の明林堂書店で本を物色。たいして探せないうちにすぐに携帯で呼び出される。
 駐車場にあわてて駆けつけたが、なぜか呼び出したはずのしげたちの姿がそこにない。不思議に思ってしげに連絡を入れたら、ドンキホーテの前で待っていたのだった。……これは私に荷物を運ばせようというハラだったな(~_~;)。全く、自分がやるべきことはできうる限り私にやらせて、私の手伝いは一切しようとしないのだから、性根が腐っているのである。
 鴉丸嬢を家まで送って帰宅。なんとはなしにカラダの芯に疲れが染み入ってくるような一日であった。


 堀江あき子編『江戸川乱歩と少年探偵団』(河出書房新社・1575円)。
 編者の堀江あき子さんは、東京都文京区の弥生美術館の学芸員である。1965年生まれ、私より三つ下なのだが、相当な「少年小説」ファンのようだ。これまでに企画した展覧会が、「江戸川乱歩の世界展」「懐かしの『少年倶楽部』展」「斎藤五百枝展」「松野一夫展」(この二人は戦前に活躍した挿絵画家)というのだから、これは筋金入りである。
 小説の単行本からはカットされることの多い、雑誌掲載時の挿絵や、フロク、マンガや映画など、ビジュアルを中心にした乱歩の少年探偵モノの魅力を総力特集。いやあ、これは乱歩ファンには凄く嬉しい一冊だ。
 当たり前だが、画家によって、登場人物のイメージも随分と違う。もっとも、乱歩の「少年探偵」シリーズは、昭和11年から37年まで、実に26年にわたって書き続けられているのだから、時代の風俗の違いもそこにはハッキリと現れている。
 第一作、『怪人二十面相』(昭和11)の画家は小林秀恒。明智小五郎は鼻筋の通った美青年、髪はちょっとだけモジャモジャ。小林少年は面長というよりはちょっと顔がでかい(^o^)。いがぐり頭で、どこかもっさりした印象である。「リンゴのような頬」という描写を、「リンゴのようなアタマ」と誤読したのではないか(^o^)。
 第二作、『少年探偵団』(昭和12)、第三作『妖怪博士』(昭和13)の画家は梁川剛一。明智は二十面相の手下に変装しているのでヒゲヅラである(^o^)。小林君は歌舞伎役者風のいかつい顔になっているが、やっぱりイガグリ。
 第四作、『大金塊』(昭和14)の画家は林唯一。明智はやや鼻が大きい。小林君は学生帽をかぶっているが、やはりイガグリだろう。戦前の画家の三人の中では一番個性がない絵。
 戦後になると、山川惣治、伊勢田邦彦、谷俊彦、白井哲、中村猛男、吉田郁也、古賀亜十夫、岩井泰三らが挿絵を担当しているが、特筆すべきはあの石原豪人だろう。いやもうさすがに、一味も二味も違う。
 最初に石原さんが乱歩の挿絵を担当したのは『魔法人形』(昭和32)。掲載誌は『少女クラブ』。つまりこれが乱歩初めての少女小説なのである。女の子がもう色っぽいことと言ったら。男装した少女探偵・花崎マユミと言い、生ける人形・ユリ子の空ろな美と言い、二十面相でなくても襲いたくなる、いや襲わずにいらりょうかというほどの耽美さだ(おいおい)。明智も小林君もどうでもいいな(^o^)。
 もう一作、石原さんが担当したのは、『塔上の奇術師』(昭和33)。……『魔法人形』の翌年の作品なのに、その妖しさは3倍増し(~_~;)。
 小林少年も刈上げのおかっぱヘアで、眉もマツゲもクッキリ、唇もツヤツヤしてるけど、ヒロインのスミ子が、どう見ても一番キレイだったころの薬師丸ひろ子である(いや、彼女の生まれる前だからそんなはずはないんだが)。
 ああっ、この作品だけでも挿絵全部復刻して単行本化してほしいぞっ!(ムリだって)


 マンガ、横山光輝『横山光輝SF傑作選�� クイーンフェニックス』上・下(講談社漫画文庫・各693円)。
 ……なんかすごく『ハムナプトラ』に似てるんスけど(^_^;)。
 ということは『ミイラ再生』が元ネタなワケだな。全く臆面がないよな、横山さん。
 古代エジプト、女王と禁断の恋に落ちた僧侶・カクラテスを殺すよう、神の啓示を受けた醜い少女・バステト。しかし彼女は美しいカクラテスに心を奪われる。断腸の思いでカクラテスを殺したバステトは、神より永遠の美と永遠の生命を与えられる。カクラテスの転生を信じるバステトは、女人国の女王として、はるか未来に転生するはずカクラテスと相まみえることを信じて、長い、長い年月を待ち続けるのであった。
 そして現代の日本。カメラマン・加蔵春彦は、なにかに引き寄せられるようにエジプトに出発することになったのだが……。
 ……女性を描くことがヘタな横山さんが、随分女を出すなあ、と思ったら、掲載誌が『少女コミック』だったのだった。だからって、エジプトにアマゾネスがいるってのはどうもねえ(^_^;)。

2002年02月21日(木) アホがアホを教育したってねえ/アニメ『七人のナナ』第7話/『鉄鋼無敵科学大魔號改』(唐沢なをき)ほか
2001年02月21日(水) 買い物ブギ/『ブギーポップは笑わない』第1巻(緒方剛志)ほか


2003年02月20日(木) 「歩き目です」(^^)/『名探偵コナン』40巻(青山剛昌)/『浪費バカ一代』(中村うさぎ)/『コレデオシマイ。』(山田風太郎)ほか

 韓国・大邱(テグ)市の地下鉄放火事件、死者は結局53人に登ったそうな。
 ……さほど満員でもなかったはずなのにちょっと多いすぎるんじゃないか。
 安全管理がもちっと何とかなってりゃ、ここまで被害は増えなかったろうって意見は多いようだけれど、それは確かに間違いないところだろう。ニュースを見てると、あそこの地下鉄の建材、「どうぞ燃やしてください」と言わんばかりの材質だったらしいし。
 でも、いくら耐火建材を使ったり、駅員を増やして安全対策を取ったりしても、基本的に地下鉄って密室なんだから、死者ゼロってわけにはいかないだろう。っつーか、地下鉄に限らず、バスも電車も飛行機も船も、いや、乗り物だけではなく、ビルだのビルだのビルだの(^^)、ありとあらゆる建造物は近代化されるたびに「密室化」されていっている。時と場所を選んで、その気になりさえすりゃ、大多数の人間をいくらでも巻き添え食らわせて、監禁したり殺戮したりが自由な状況になってしまっているのだ。
 こういう「近代的」犯罪の何が怖いかって、「家」の「安全性」ってのが、もともとは「外敵から身を守る」目的であったのに、気がついてみたら、「内部に敵がいた」からなんだね。
 子豚さんたちが、一生懸命レンガの家を作ったら、狼さんはいつのまにか中に入ってて、逃げられなくなった子豚さんたちはみんな食べられてしまいました……ってヤなたとえだなあ(ーー;)。
 でもおかげで最近は映画のネタには事欠かない(^_^;)。
 今、考えてみたら、『七人の侍』なんてのはのどかなものであった。冒頭、盗人が立てこもったのはたかが一軒の百姓家だし、人質に取ったのも赤ん坊だけ。盗人役がそもそも東野英治郎だから、そのスローモーションもどこか滑稽。
 それが今や、『マシンガンパニック』(新しくないか)だの『ダイハード』だの『スピード』だの『エアフォースワン』だの、場所はデカくなるばかりだし、人質の数は増えりゃ増えるほどいいし、何人かは人質にも死んでもらわなきゃならないって、まるで規則で決まってでもいるみたいに安易に殺されていく。
 いや、フィクションの中で大量に人が死ぬのを不謹慎だと言いたいわけじゃないよ。虚構はあくまで現実の鏡であるので、たとえそれがエンタテインメントであろうと、それは現実への警鐘となるってこと。近代化が便利なのは分るけど、こんな事態になったらどうするの? と社会に問題をつきつけることだって、フィクションにはできるのだ。

 今日になって、放火容疑で拘束された無職の男(56歳だってよ)が、犯行動機は「一人で死ぬのは悔しいので他の人たちと一緒に死のうと考えた」って供述を始めたらしい。男は身体障碍を抱えていて、「手足が不自由になり前途を悲観して今回のことをやった。こんなふうに生きても仕方ない、死ぬ方がましだと考えた」と語ったんだとか。
 ……一人で死ねや(--#)。
 こんな下らん理由で、しかもたかがガソリンにちょっと火をつけただけの楽な行動で、人が56人も死ぬのである。
 アンタねー、「津山三十人殺し」の犯人があれだけの人間を殺すのに、いかに時間をかけて頑張ったか(^_^;)。人の命を取ろうってのに、近代社会以前ではそれなりの努力が必要だったのである。
 もーね、安全対策を本気で考えるなら、ただ防衛に徹するってんじゃなくて、相手はもう無差別に人を殺そうってんだから、犯人にもそれ相応の努力を強いられるようにするって発想を盛りこまないといけないんじゃないか。
 火気を察知した途端に釣り天井が落ちてくるとか(客も死ぬって)。
 具体的には警備員を雇ってボディーチェックを地下鉄でも行うとか、そういうことしかできそうにないけど、それも人件費がかかっちゃうんでできないとか、現実的な障碍があるんだろうなあ。結局は「何があっても仕方がない」って覚悟で生活するしかないんだろうね。


 そういう騒動があったということを私は全然知らなかったのだが、「ほび〜しょっぷ・デジラ」というところが販売していた「目玉おやじキット」が、レゴジャパンからの要請を受けて、販売休止に追いこまれていたのが、このほど販売再開になったとか。
 そもそもは、このキットの作者さん、「MINDSTORMS」というLEGO製品の「目玉パーツ」を使って、「目玉おやじロボット」を作ってみた。できてみると、とても出来がよかったものだから、水木しげるさんの許可も得て、前記の「デジラ」さんに持ちこんで販売してもらうことになったのだが、予約を取った時点で、レゴからクレームがついた、という経緯のようだ。
 それからどういう紆余曲折があったかは分らないけれど、そう間を置かないで正式販売が決定、「世界最小・最軽量の歩く二足歩行ロボット」のお披露目となったわけである。
 まあ、ホントに「目玉おやじ」に似てるかどうかは御覧になった方の判断に任せるとして、一度クレームをつけはしたけれども、自社の製品を材料にして別のモノを作っても問題はない、と判断したレゴジャパン、立派だなあと思うのだ。法律的なことは詳しくないからよく分らないが、係争に持ち込もうと思えばできるケースだとは思う。改造バイクは違法だし(←問題が違うって)。
 いったんは販売中止をしたのだから、少なくとも作者や販売会社も、レゴの権利を侵害しようという意図はなかったわけである。ほかの名前で売ることもできたのに、ちゃんと水木さんの許可を得たあたりも誠実でいいと思う。
 こういう権利上の問題は、たいてい泥沼化するものだから、こういった形で事態が収束したことは素直に喜ばしく思う。世の中、みんなこんな風にうまくいくものではないってことはモノ作りにかかわるものは絶対に考えておかなきゃならないことだけどね。
 値段が6800円かあ。チトお高いけど(それでも安く上げたそうである)、やっぱ、小さくても「オモチャ」じゃなくて「ロボット」なんだよなあ。そう思うと欲しくなっちゃうなあ……って、だから、これ以上私ゃ趣味は増やせないんだって(^_^;)。やっぱオタクを極めるには、おカネ持ちのお坊ちゃんじゃないとムリなんですねえ。

 当該サイトはココ。↓
 http://www.shirakawas.com/medama/


 中村うさぎ『浪費バカ一代 ショッピングの女王2』(文春文庫・500円)。
 オビで倉田真由美さんが「国民の一人として言わせていただきます。先輩、税金払ってください。」と書いてるが、中村さんの税務署との攻防は、まあ本人は読者に笑ってもらおうという気なのかもしれないが、たまにタイノーしつつも(^_^;)キチンキチンと税金を払ってる身にすれば、あまり面白くないのである。
 これが西原理恵子さんのように「税金なんぞ払わん」という潔い(^o^)態度でいてくれたら、かえって喝采を上げたくなるのだが、「払う気はあるケド、つい買い物しちゃったの。えへ♪」じゃ、いったい誰が同情するというのか。
 例えて言うなら、「黒澤明ボックス全巻買っちゃったんで、税金タイノーしま〜す♪」はまあ許せるけれど、「天空戦記シュラトボックス全2巻、計ろくまんえん買っちゃったので、税金マケて♪」ってのは許せないようなものである(どっちも許されねーって)。
 でも、病気だから仕方がないのかなあ。ホントに病気なんだろうかと疑わしくも思えるのだけれど、診断は出てるみたいだしなあ。それに、「叶美香と女王対決!」なんて、「そもそも向こうがアンタを相手にしてないだろう」って状況までギャグのつもりで書いてる様子を見てると、哀れすぎて非難する気になれないのである。
 こないだ姉の店に行ったときのことだが、ちょうど中村さんがテレビに出て借金まみれなことを嬉々として語っていた。それを見て、私が父に「この人、買い物依存症なんだよ」と説明したら、「馬鹿や」のヒトコトで終わってしまった(^_^;)。病人は今もなお世間ではなかなか理解してもらえないのである。


 マンガ、野中英次『魁!! クロマティ高校』6巻(講談社/マガジンKC・410円)。
 あー、これはもう、「学園不良ギャグマンガ」なんかじゃありませんね。
 今までにもフレディが出たりゴリラが出たりメカ沢が出たり、そのたびに不良たちは「アレは何だ?」と悩んでたわけですが、今度は高橋秀樹君が頭につけてるヘンなものや、なぜか教室にいるアザラシのアラちゃんについて悩んでます。
 まあ、不良はそんなことで悩みません。ましてや不良の友達どうしで語り合ったりしません。クロマティ高校の生徒たちは毎日悩んでますが、答えの出せないことについて悩んでいるので、そのうち、初めは謎だったものが、何となくウヤムヤになっていきます。
 で、また同じ日常が繰り返される、と。『サザエさん』か『うる星やつら2』か(^o^)。
 しげは「高橋秀樹が出たよ!」と喜んでます。ホンモノは「高橋英樹」ですが。


 マンガ、蛭田達也『コータローまかりとおる!L』巻之五(講談社/マガジンKC・410円)。
 表紙の女の子、忍者の格好してるけど、真由美だよな?
 功太郎のかあちゃんも同じ顔をしてるし、区別つかんわ(功流美が真由美に変装するという話が前にあったが、変装前も変装後も同じ顔なのであった)。
 『少年マガジン』本誌連載分は今巻で終わり。通巻91巻。もうちょっとで100巻だったのに、やはり『こち亀』への道はそんなに簡単なものではないか。一時期の勢いはなくなったとは言え(映画化はされたし、アニメ化の話は何度も浮かんでは消えた)、必ずしもそんなにつまんなくなったとは思わないのだけれど、長期連載による読者の「飽き」はどうしても避けられなかったんだろうなあ。
 「L」編は最終編らしく、コータローの身内に関わる物語が中心になっているけれど、狂死郎がフィーチャーされてるのもその一環か。シリアスな展開でもあくまで中心脚を駆使するあたりが相変わらずの狂死郎で嬉しいんだけれど、このキャラって、あくまで「シリアスにならない」のが命綱だったんだよねえ。それを、功太郎との回想シーンまで今ごろになって描いて、ちょっと感動ものっぽくするってのは、なんだか蛇足。作者も随分煮詰まってきてたんだな、って感じないわけにはいかない。
 それに、狂死郎を出すなら、由利栄先生もセットにして出してほしかったな。

 巻末にはデビュー前の『コータローまかりとおる プロト編』を収録。絵がヘタっていうこと以前に、中身はほとんど亜月裕の『伊賀野カバ丸』のパクリ。まあ、だれでも初めは模倣から始まるものだから、これを今までずっと封印してたってだけでも蛭田さんは良心的な作家さんだと思う。
 けど、「マガジン SPECIAL」に移籍ってことは、単行本の出るペースが今までよりずっと遅れちゃうってことだよなあ。ヤレヤレ、本当の完結まではいったいあと何年かかるやら。
 

 マンガ、青山剛昌『名探偵コナン』40巻(小学館/少年サンデーコミックス・410円)。
 FILE.1からFILE.3までは高木刑事と佐藤刑事のラブコメ。笑えないけど。
 デート中の二人の中を妨害しようと、白鳥警部以下の佐藤刑事ファンが仕事そっちのけで監視体制を張るってギャグは、ありがちだけどまあ許せなくもない。
 けど、そこに麻薬取り引きネタをムリに絡めるものだから、話はおかしくなってしまう。
 アトラクションに乗ったときに、係員に預けた高木刑事のバッグと、麻薬の運び屋のバッグが取り違えられるってのがまず納得しがたい。「運び屋は中身がヘロインだと知らされてなかったから、係員にバッグを預けた」ってコナンは説明するけど、中身を知ってようが知っていまいが、運び屋がカネになるブツを人に預けたりはしないって。
 それからさあ、右利き左利きのネタ使うの、もういい加減でやめてよ。「右利きの人間はバッグは右肩に担ぐ」「このバッグは左肩側のベルトの穴が広がってるから、左利きの人間がしょってた」って、簡単に断定できんだろう。私ゃ右利きだけど、バッグはたいてい左肩で担ぐぞ。利き腕を自由にしてた方が便利だから。
 ……なんて考えてたら、ホントにコナン、あとで自分の推理を修正して、「野球選手は利き腕を自由にするために、その反対側の肩で担ぐ」だと(ーー;)。別に野球選手じゃなくてもそうしてるやつ、いくらでもいるってば。
 FILE.4からFILE.6まで、山に迷いこんだコナンたちが遭遇した殺人事件。
 えーっと、まずコナンたちを除いて、その家には父親と息子しかいません。で、父親が殺されました。犯人は誰でしょう。……作者、馬鹿?(確実にそうだな)
 一応、アリバイは作るんだよねえ、首吊り自殺に見せかけるために、紐を首に回したあと、被害者の口に噛ませる。被害者の口の力が尽きたら、天井からブラリ、というトリック。……中学生のころ同じトリック考えたなあ。でも私は小説にはせずにボツったよ。だって、被害者が一瞬で口から紐を離して落ちちゃったら、アリバイにならないもの。っつーか、絶対そうなるって。……バカトリックだねえ。
 FILE.7からFILE.9までは阿笠博士の初恋編。
 あの、青山さんはもう暗号ものはやらないほうがいいです。「ミステリ自体書いても仕方がない」とまで言わないのは恩情ね。
 折り返しで作者、「暗号が難しくなっちゃった」って書いてるけども、そもそもフサエが阿笠博士に暗号で自分の居場所を示さなきゃならない理由がないじゃないですか。
 まあ百歩譲って、フサエちゃんが暗号でアガサ君の知恵を試したかったとしても、よく偶然にも「野井」さんとか「蝶野」さんとか、暗号を作るのに都合のいい名前の人が近所に住んでましたね。これが「能登」さんと「入野(いれの)」だったりしたらフサエちゃんはどうしたでしょうか。
 ポーの『黄金虫』や乱歩の『二銭銅貨』なんかをまず読んでほしいものですね。


 山田風太郎『コレデオシマイ。風太郎の横着人生論』(講談社+α文庫・819円)。
 1996年に行われたインタビュー集。晩年の風太郎さんは、病気のために小説は書けなくなっていたが、こういうインタビューには時折応じていた。タイトルを見ると、これが最後のインタビューのように見えるが、このあと『いまわの際に言うべき一大事はなし。』『ぜんぶ余禄』と続くのである。
 毎回、喋ってることはまさしく風に流れて飄々と、いかにも風太郎さんらしいものばかりだ。死ぬならこんなふうにトシ取って死にたいって思うくらいに自然体でカッコイイ。
 風太郎さんが「小説を書くのは遊び。ストレスなんてたまらない」と語ってるのは有名な話だが、原稿用紙の桝目を一つ埋めるだけでもウンウンと苦吟している作家が聞いたら、目を丸くするだろう。実際に吉行淳之介は、この言葉を聞いて絶句したそうな。
 こういう姿勢でいるから、『忍法帖』シリーズをあれだけ多作できたのだろう。あんな奇想天外な物語は、しゃっちょこばらずにノビノビとした精神状態でないと書けないものなのだろうな、と納得。

 風太郎さんが珍しくも女優について語っているところがある。
 晩年、風太郎さんと高峰秀子とは親交があったそうだ。なんと高峰さんのほうが風太郎さんのファンだったらしい。風太郎さんがサイン本を贈ったら、高峰秀子は浅草の「麦とろ」のソバをお返ししたそうな。ソバってのが粋でいいねえ。私も食いたくなった(^o^)。
 「高峰秀子というのは不思議な女優でねえ。たいていの俳優は、若い時分は自分の職業を馬鹿にしたようなことをいっていても、年とると、俳優は修業が大事だとかいいだすんですよ。(中略)ところが、高峰秀子は、いつも自分の職業について馬鹿にしたようなことをいうんです。それでいて、名女優なんですよ、カンがよくてね」
 と評する風太郎さんもカンがいい。まさに高峰秀子の「粋さ」のツボをついているではないか。もちろん、高峰さんは、役者を本気で馬鹿にしているのではなく、あれは馬鹿にしなければ成り立たない職業なのである。
 まあ、役者に限らずとも、自分の職業に誇りを持っているなんてことを公言して憚らない人間なんて、トテモ信用はできないわなあ。
 あと、風太郎さんが挙げる名女優は、轟夕起子に大竹しのぶ。「動き出すときれいに見えるというのは名優の証拠。司葉子なんかは、グラビアはよくて動き出すとたいしたことはないんですよ」。見る目あるなあ(^^)。

 映画は見るのに、同時代の作家の作品を風太郎さんは殆ど読まなかったとか。
 「あんまり感心すると真似するから読まないといってるけど、本当は面倒臭いからですよ」。
 本当にそれが本音ではないだろうか(^_^;)。
 なんと、横溝正史まで殆ど読んでいないと言う。なのにその批評は的確である。
 「(戦前の作品を除けば)『獄門島』と『本陣殺人事件』くらいしか読んでいない。最近『犬神家の一族』など読んだけど、『獄門島』と似ているけど、『獄門島』よりだいぶ落ちるわ」。
 そうなんだよなあ。『犬神』を横溝正史の代表作のように勘違いしてる人も多いけど、あれ、作者が「タマにはラストを考えないで行き当たりばったりで書いてみよう」って、書いた実験小説なんだから。でも、「どう考えてもこいつを犯人にするしかないよな」ってことに作者自身も気づいちゃって、作品内で金田一耕助に「もうみなさんも犯人が誰かわかってると思いますが」って言い訳させちゃったくらい犯人がバレバレなんである。
 私も横溝正史は100冊くらい読んだから言えるけどね、人に奨めるなら、『鬼火・蔵の中(短編集)』『本陣殺人事件』『蝶々殺人事件』『獄門島』『悪魔の手毬唄』がベスト5。っつーか、あとはファンになるつもりじゃなきゃ、別に読まなくてもいい。逆に、この5冊を読まないで探偵小説を語ってほしくはないってところもある。
 山田風太郎さんは、実に「必要最低限」の作品だけ読んでいるのである。

 ……とか言いながら、山田風太郎のオススメ本を挙げるの忘れてたな。私のベスト5は、『甲賀忍法帖』『伊賀忍法帖』『くノ一忍法帖』『魔界転生』『妖異金瓶梅』。未読のやつもまだあるから、このベスト5は流動的です。
 風太郎さんが自ら作った戒名は、「風々院風々風々居士」。
 なんてかっこいいんだろう。

2002年02月20日(水) 福岡演劇事情/『KATSU!』1巻(あだち充)/『サムライ・レンズマン』(古橋秀之)ほか
2001年02月20日(火) 女房の家出/『× ―ペケ―』1〜3巻(新井理恵)ほか


2003年02月19日(水) メイキング・オブ・SF・レビュー/『川原泉の本棚』(川原泉・選)/映画『宇宙大戦争』『地球防衛軍』

 昨日無理して仕事に行ったのが祟ったのか、朝から咳が全然止まらなくなってしまった。もう医者に行っても全然治らないことが分ったので、ただひたすらじっとしていようと、また仕事を休む。
 もう二月近くも完治しないんだけれど、私もいい加減苦しむのには飽きた(-_-;)。
 ヘタにウチにいるからと、料理したりして動き回っているからよくないのだ。食事は出前を頼むことにして、新しくできたカレーのデリバリーに配達を頼む。美味だが、価格はやや高め。八百円じゃ、そうしょっちゅうは注文できない。せめてあと200円、割り引きしてくれないものか。


 韓国の大邱(テグ)市で、18日の午前中、走行中の地下鉄車内で放火とみられる火災が発生した。
 死者は120人、負傷者も約140人。放火された車輌ばかりでなく、向かいから入ってきた車輌も巻き添えを食って、被害が拡大したらしい。管制局から停止の連絡がなかったから突っ込んじゃった、ということなのだが、その点を取り上げて、韓国地下鉄の安全管理の低さを伝えるのは、間違っちゃいないけれども何となく「日本に比べて遅れてる」って言いたげで、若干のイヤラシさを感じる。
 というのもどこのチャンネルでも事故の報道のすぐあとで、「日本の地下鉄の安全管理がどうなってるか」ってのを付け加えてるのね。車両の難燃化・停電時の対応は充分できてますよって、強調してやんの。これって、安全性を訴える感じじゃなくて、どう見ても「彼我の技術の差」のほうがメインになってるよなあ。
 一応、「放火された場合は日本の地下鉄も無防備だ」といってるけど、地下鉄でいちいちボディーチェックなんかできないから、そりゃどの乗り物だって無防備でしょ。
 気になるのは放火したと見られる「軽傷を負って病院に搬送された乗客の男」だけれど、テレビずっと見てても名前もわからないままだし、続報が全然出ない。まさかこれも「人権に配慮して」ってことなのかね?


 川原泉・選『川原泉の本棚 おすすめ本アンソロジー&ブックガイド』(白泉社・1155円)。
 川原さんが相当な読書家だというのは、作中に触れられているSF作品へのオマージュなんかでも見当がつくのだが、こういうブックガイドまで出してしまわれるとは……。
 イヤね、別に難癖をつけたいわけじゃくてね、こういうアンソロジーって、よくも悪くも選者のセンスが試されてしまうところがあるんで、よっぽど本を読み込んでる人じゃないと、ちょっと散漫なものになりかねないのね。
 例えば、ミステリならミステリ、SFならSFとジャンルを絞っても、「なんであの作品を入れない」とか、「どうしてそんなのを入れるのだ」と外野が喧しく、挙句の果ては「あいつにはモノを見る目がない」と扱き下ろされてしまうのが、アンソロジストの宿命だったりするのよ。
 だから、名アンソロジストと言われる人は、案外少ない。
 私が感心したことがあるのは、筒井康隆『実験小説傑作選』や、唐沢俊一『カラサワ堂怪書目録』くらいのものだ。それくらいテーマを絞りこまないと、「おお、これは凄い」ってことにはならないのである。
 では、川原さんのチョイスはどのようなものであったか。実はやっぱりアンソロジーとしては「散漫」ではあるのだが、案外つまらなくはないのである。なぜなら、これはあくまで川原さんが自分の本棚から引っ張り出してきた本ばかりであり、作品自体の面白さよりも、「へええ、川原さんってこんな本を読むんだ」という興味の方が先に立ってしまうからである。
 要するに、「川原さんって、こんなヘンな(←いい意味で)人」ってのが見えてくるから楽しくなるわけだね。でもそういう読み方される作品の方はちょっとかわいそうだが。

 川原さんが今回選んだのは、次の九編。
 『ロビイ』(アイザック・アシモフ)
 『おはよう寄生虫さん』(亀谷 了)
 『水素製造法』(かんべむさし)
 『言葉の戦争�機戞弊郷綉組蓮�
 『品種改良』(田中芳樹)
 『ヤマナシの実』(日本民話/坪田譲治編)
 『ヘリコプターの飛ばし方』(非日常研究会)
 『大うずまき』(エドガー・アラン・ポー)
 『歴史新聞』(歴史新聞編纂委員会)
 
 李家豊の(^o^)『品種改良』は『幻影城』に載ってたのを読んだ時に「なんてつまんないんだろう」と思った記憶が(^_^;)。
 いや、個性派揃いの『幻影城』のメンツの中じゃ、田中さんの書くものって浮いてたんだよね。けど、川原さんの本棚に並べられると一番普通に見える。これがアンソロジーの不思議なところだ。
 この並べ方って、最初は普通のスタートを切ったのが、コースがどんどん蛇行してって、障碍物なんかも置いてあって、しかもマラソンしてるつもりがいつのまにか走り幅跳びに棒高跳びも混じっているという……なんかこのたとえもワケわかんないな(^_^;)。
 でもさ、自分の持ってる本を見せるって、一つの「ひけらかし」でもあるのに、そこに『おはよう寄生虫さん』を持ってくるのだよ、このひた〜。しかもそれを『ロビイ』のあとに載せる。『ロビイ』でちょっと涙ぐんだりしちゃった人は、次に『寄生虫』の淡々とした説明を読まされて、何をどう思えばいいのか。
 私の場合、既に読んでる作品が殆どだったから特に混乱はしなかったけれど(『ヤマナシの実』だけ知らんかった)、この作品の全てが初読って人は、脳が相当混乱するかも。そういう人に本書の感想を聞いてみたいものである。

 それにしても、人に本を推薦するというのは並大抵のことではない。
 先日、ここの掲示板にあぐにさんが「なにか初心者にお勧めのSFなどありませんか?」と書かれたのを読んだとき、思わず頭を抱えてのけぞったら、そのまま椅子からコケ落ちて腰を打ってしまった。
 アタマを抱えた理由は三つあって、一つは「そんなんどこまで紹介すりゃええんや、キリないやんけ!」という叫びであり、もう一つは「そんなにえすえふ読んどらへんわあ!」という劣等感、更にもう一つ、「えすえふなんてジャンル、もう死んどるわあ!」であった。

 我々の学生時代、SFの浸透と拡散は既に言われていたが、それでもSFを読むことは「基礎教養」であった。
 ハヤカワの銀背は既に高値を呼んでいたが、海外作品はハヤカワSF文庫・創元SF文庫・サンリオSF文庫を読んでいけば有名どころが手に入らないということはなかったし、国内作品も前記のところだけでなく、角川文庫が中心になって、星新一・小松左京・筒井康隆ほか、代表的な作家たちはみな収められていたし、読めない作品の方が少なかったのだ。
 SF雑誌も、「SFマガジン」「SFアドベンチャー」「SF宝石」「SFイズム」「奇想天外」と老舗に新創刊と合わせて、みんなで回し読みをしていた。
 若い人は、なんてステキな環境でしょう、と思うでしょう。
 そんなもんじゃないのだ。

 なにしろ、友達はみんなSFを読んでいたし、そしてSFに燃えていたのだ。
 寄ると触るとみんなSFの話ばかりしている。「SFを語らずして何を語るか」ってなスローガンのもと、私のいた文芸部内の仲間うちでは、いつの間にか「SF勉強会」みたいなものまで開かれていた。
 今やそんな状況、誰も信じないかもしれない。でも、ウソのような本当の話だ。
 私のような非才の身には、みんなの話題に付いていくのは辛くて仕方がなかった。なんたって、毎週毎週、「読まなければならない本」が怒涛のごとく押し寄せてくるのだ。

 「来週までに読んできてね」
 文庫本をそう言って私に手渡すと、彼女はほんの少しだけ唇の端に微笑を浮かべて、文芸部の部室をあとにした。長い髪が風になびく、というのは陳腐な描写だが、でもまさにそんな感じで彼女は立ち去っていった。
 勉強会は、次に読む本を当番制で決めていく。概ねみんな、自分のカネで本を買っていたが、ちょうど金欠病、という場合もあったから、そんな時は本の回し読みはよくやっていた。
 今回の本は、彼女の選択。有名なSFだけど、まだ読んだことはなかった。女の子に本を借りるなんてことは滅多になかったから、緊張した。それにその子にはちょっとだけ憧れていた(高校時代の友人もここたまに覗いてるんだよなあ、誰のことか見当つけられたらヤバイなあ(^_^;))。
 今ならその作品は、たいして滞ることもなくすんなり読めたかも知れない。
 けれど当時の私には、よく分らないえすえふの専門用語を目にするたびにアタマの上にクエスチョンマークが浮かびまくっていた。
 本のタイトルは、『夏への扉』。もちろん、竹宮恵子版ではない(^_^;)。
 勉強会でどんな感想を言ったかは覚えていない。

 ともかく当時は、SFを読んで読んで読みまくって「勉強」するしかなかった。そんでもって、カッコつけたモノイイもしてみた。
 あるとき、俄仕込みの知恵で「SFの定義はね」とか言ったら、「定義のためにSFがあるんじゃないんだよ?」と彼女にちょっとキツイ口調でたしなめられた。
 ヤケになって「SFなんてな」と言ったら、激怒した友人に「撤回しろ!」と突っかかれて論争になり、夜まで帰れなかった。

 けれど、楽しかった。
 むりやり読まされた本でも、読み始めたら夢中になった。 
 好きな子には告白することはなかったけれど(まあ、そういう子は私の場合、腐るほどいるから)、あれも私の青春ではあった。
 色気ないなあ、と今の人には思われるかもしれないが、あのころ、そんな風景は日本中のあちこちで繰り広げられていたと思う。

 今や、若い人たちのSFに対する感覚はまるで変質してしまった。今や、誰もSFの魅力を語る者はいない。その惨憺たる状況は、岡田斗司夫さんが「かつてSFというものがあった」と語るほどだ。
 SFの魅力とはなんだろう。センス・オブ・ワンダー? そんな言葉、もう黴臭くなっちゃってるよ。そう嘯く人もいるだろう。
 『アルジャーノンに花束を』って、SFだったの? そう口にする若い人もたくさんいる。
 そんな中で、あえて「SFを語る」とはどういうことなのか。
 SFってなに? もう一度そこから始めなければならないのかも。
 でも、それはなぜ?

 あぐにさんに何を推薦するかで散々悩んだ末に、私が結論を出したことは、「今のことはもうどうでもいいや、昔に戻ろう」であった。
 というか、それしかできない。
 私がSFを一番好きだったのは間違いなくあのころであったし(今でも好きだけれども)、たとえ青臭くとも、あのころの感覚で作品を選び、紹介した方が、あぐにさんの言う「初心者向けに」という求めに答えられるんじゃないかと思ったからだ。

 選んだのは、とりあえず昨日までで以下の通り。いくつかの作品にはレビューの文章もつけた。

 レイ・ブラッドベリ
 『火星年代記』『太陽の黄金の林檎』『何かが道をやってくる』『ウは宇宙船のウ』
 フレドリック・ブラウン
 『発狂した宇宙』『火星人ゴーホーム』『天使と宇宙船』
 ロバート・A・ハインライン
 『異星の客』
 ポール・アンダースン&ゴードン・ディクスン
 『地球人のお荷物』
 ハリイ・ハリスン
 『テクニカラー・タイムマシン』
 トム・ゴドウィン
 『冷たい方程式』
 アイザック・アシモフ
 『鋼鉄都市』『はだかの太陽』『われはロボット』『アシモフの科学エッセイ』シリーズ
 ジェイムズ・P・ホーガン
 『星を継ぐもの』『ガニメデの優しい巨人』『巨人たちの星』
 アーサー・C・クラーク
 『決定版 2001年宇宙の旅』シリーズ

 中には絶版でもう手に入らないものもあるが、あぐにさんから頂いたレスでは、古本屋も回られると仰っていたから、全部ではなくともある程度は手に入るだろう。
 「お勧めSFまだまだ沢山ありそうで楽しみです」とはありがたい言葉だが、私は前述した通り、感覚的にはナマイキな高校生に戻って書いているのである。そのために、ここに挙げた本は全部ひと通り読み返して、「あのときはどんなふうに感じながら読んでたかな」と思いだしながら書いた。文章が生硬なのは(いつもそうかもしれないが今回は特に)そのせいである。

 ただ、『火星年代記』だけは持ってたはずの本がどこへ行ったか分らなくなっている。多分、しげに貸したまま、どこかにほっぽらかされているのだ。
 おかげで、この文だけ記憶のみで書いている。ちょうどいい恥晒しだから、これだけ日記に移しておこう。掲示板の方は流れちゃうと保存が利かないんでね。

> 『火星年代記』(ハヤカワ文庫 NV 114) レイ・ブラッドベリ (著), 小笠原豊樹 (訳)¥640
> ブラッドベリをSF作家と認めたがらないSFファンも結構います。
>「あれはファンタジー作家だ」
> この本が「SF」じゃなくて「NV」のコーナーにあるのもそのせいかもしれませんが、SFと叙情性の融合がこれほど見事に描かれている例はそう多くはありません。強いて言えば、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』オリジナル版くらいでしょうか。
> 地球から火星への移民が始まったころの未来。
> しかし、火星ロケットの乗組員たちは次々に失踪してしまいます。
> 実は火星には、「先住民」たちがいたのです。彼らは当然「侵略者」たちを好ましくは思っていませんでした。彼らはいかにして、侵略者たちを排除していったか。
> ……それでもなお続けられる移民計画。
> そして時は静かに流れていきます。
> 火星人と地球人の戦いはどうなったのか。最後に火星の大地に立っていたのは……。

 時が静かに流れているのは、その間にどんな出来事があったかを忘れているからである(^_^;)。……しまった、映画版のビデオを見て、書きゃあよかったか。


 CS日本映画専門チャンネルで、『宇宙大戦争』に『地球防衛軍』。
 『防衛軍』の方は、これで見たのが何度目なのか、分らないくらいだが、『大戦争』は実はまだ二回目。こちらの方は前者に出てくる「モゲラ」のような明確な怪獣(じゃなくて巨大ロボットだけど)がいなかったから、テレビで流れていても見逃していたのだろう。最初に見たのも多分小学生のころだから、記憶もとうに歴史の彼方(^o^)。
 てなわけで、『大戦争』は殆ど初見に近く、ニュートラルな感覚で見たので、意外に面白かった。ナタール人の基地破壊のシーンは単調で、ちょっと退屈してしまったが。

 意外に気づかれていないが、この二作は前後編である。
 放送順が逆になっているけれども、『地球防衛軍』が1957年の製作で、『宇宙大戦争』が1959年製作。
 原作は探偵作家・丘美丈二郎(映画のクレジットは「丘見」となっているが、こちらが正しい)。両作とも、宇宙人による地球侵略がそのテーマとなっていて、登場人物も、地球側で宇宙人の侵略に対抗するのは安達謙治郎博士である。ただ、安達博士を演じているのが『防衛軍』では志村喬、『大戦争』では千田是也と役者が変わっているので、前後編であることに気づかれにくいのだ。
 この後、『妖星ゴラス』と『宇宙大怪獣ドゴラ』と日本の東宝特撮映画の原作を担当しているから、それも含めれば丘美丈二郎四部作ということもできる。ただ原作と言っても、小説の形で書かれているのは『地球防衛軍』だけのようだ。

 映画については、いっぱしの特撮オタクなら当然見ているはずだし、今更あらすじを解説するのも気恥ずかしいから、比較的知られていないと思われる原作者の丘美氏について触れてみたい。たいていの人は映画を先に見て、「この丘美って人、どんなヒト?」と思っただろうが、探偵小説ファン、SFファンには旧知の人物なのである。
 丘美丈二郎は、本名兼弘正厚、1918年(大7)、大阪出身で、東京帝国大学工学部卒業後、しばらくは進駐軍に勤務。日本の役人の、米兵へのヘイコラぶりに嫌気がさし、鬱憤バラシに探偵小説・SF小説を書き始める。
 1949(昭和24)年、『翡翠荘綺談』が『宝石』のC級短編コンクール三席に入賞し、『別冊宝石』に掲載それ、以後、『宝石』を中心に10年ほど活躍する。
 1950(昭25)年には、『勝部良平のメモ』が『宝石』のB級中編コンクールの二席に入賞、1953(昭28)に『宝石増刊』に掲載されたSF長編『鉛の小箱』が、1954(昭29)年に第7回探偵作家クラブ新人奨励賞を受賞する。
 他の作品に、『三角粉』『空間の断口』『空坊主事件』『耳鳴りの女』『ヴァイラス』『種馬という男』『二十世紀の怪談』『恐怖の石塊』『左門谷』『汽車を招く少女』『ワルドシュタインの呪い』『波』『電波公聴機』など。掲載誌を全部当たったわけではないので、発表年は順不同。

 中でも、特筆したいのは、長編『鉛の小函』と、『宇宙の警鐘』<1958(昭和33)年『科学画報』>の二作であろう。
 『小函』は、見知らぬ外国人に拉致された元海軍技術パイロット・白嶺恭二が、ユダヤ人の科学者・アイゼンドルフ博士の手によって秘密裏に建造された宇宙艇に乗り、宇宙探索の旅に出る物語である。……って、まんま『スター・トレック』じゃん。いや、もちろん更に元ネタになってるのが、ヴァン・ヴォクト『宇宙船ビーグル号』であることは間違いないのだが、恐らく日本において、この「宇宙探索」という科学的意識で書かれた小説は、本作が最初期のものではなかろうか。でもこれ、続編の構想があったせいか、尻切れトンボで終わってんだよな。どうも地球を狙ってる遊星人か火星人がいるらしいってところでチョンなもんだから、隔靴掻痒って印象はどうしてもしちゃうのよ。
 『宇宙の警鐘』では、地球に氷河期が訪れ、大洪水でアメリカも日本も氷の海の底に沈んでいく。人類を救うための「アルファ工事」計画を立案・実行に移したのが、これまたアイゼンドルフ博士であった。
 作者は訴える。
 「二十世紀の後半に地球狭しと発展した動物よ、汝の名を人間という。(中略)汝は宇宙の寵児ではない。己を省みて己の無知無能を知れ!」
 いささかストレート過ぎる主張であるし、こういう激昂ぶりを見ていると、なんだか藤子・F・不二雄の「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」的な人であったのではないか、という気もしてくる。なんたって、どうして一連のSF作品を書いていったのか、その理由を氏は、エッセイの中で、戦後の人心の荒廃が見るに堪えなかったから、と漏らしているのである。
 映画も含めて丘美作品に共通している思想は、「地球の危機」が単なる偶然や運命とか、そういうものではなく、人間の「奢り」に対する「警鐘」、あるいはもっとハッキリと「天罰」的なものとして認識されているということだ。
 だから、人間が自らの文明を盲信し、かえって地球を滅亡に陥れるような愚を犯そうとするなら、何度でも宇宙人や宇宙怪獣は攻めて来るし、妖星は降ってくるし、天変地異は起きるのである。ミステリアンの次にナタール人が来ちゃうのはそのためね。
 ……東宝特撮映画が、『ゴジラの逆襲』で憤慨して原作者を降りちゃった香山滋の次に、丘美丈二郎に原作の白羽の矢を立てたのって、分る気がするなあ。なんぼでも同じもの書いてくれるもの。

 あ、エラそうにいろいろ書いてるけど、丘美作品で私が読んでるの、『鉛の小函』だけですんで。あとの内容は栗本薫の『丘美丈二郎論』を参考にしました。読もうったって、単行本になってるの数編しかないし。『宝石』のバックナンバー探すしか手がないんですよ。

2002年02月19日(火) さだまさしファンだったことが恥ずかしくて言い出せないやつ多いと思うぞ。……私もだ/『シックス・ボルト』(神野オキナ)
2001年02月19日(月) 語源の楽しみ/ミステリチャンネル『ポワロと私』ほか


2003年02月18日(火) 迷宮の扉へ/『冥土』(内田百�痢Χ皸翕脹冂纏辧法拭悒廛螢謄�フェイス』3巻(叶恭弘)

 押井守ファンならば必見、都々目(とどめ)さとし氏が運営するファンサイト『野良犬の塒(ねぐら)』に、去る15日夜にテアトル池袋で行われた、『押井守シネマ・トリロジー/初期実写作品集』発売記念として開催されたオールナイト上映、「押井守ナイトショウ」のレポートが掲載されている。
 押井守のアニメは好きだけれど実写はちょっとな、という人も結構多い中、DVDがBOXで発売というのだから、巷間、言われているほど評判は悪くなかったんじゃないか。私自身、『紅い眼鏡』は退屈するどころかワクワクしながら見た。ついでだが、あの映画完成の直後、月見の銀二を演じられた天本英世さんにお会いする機会を得たが、ご感想は「あれもヘンな映画でねえ」だった(^_^;)。さて、天本さん、今は押井さんのことを覚えてらっしゃるかどうか。

 押井守の映画を見て、「なんじゃこら? 意味わからん」と仰る方は多いが、ドイツ表現主義の『カリガリ博士』だの、フランス・ヌーヴェルバーグのトリュフォーやゴダールだのの映画を見てれば、別に押井守の映画は難解でもなんでもない。要するに全ては「見立て」の世界なんで、短歌や俳句を鑑賞する気で映画を見ればよいのだ。
 そういう「趣味の世界」につき合わされることを憤慨する人もいるが、映画は基本的に監督の趣味の産物である。その「趣味の世界」は入口こそ狭いが、中に入ると一気に空間が爆発的に拡大する。隠喩による情報量が半端ではないのだ。まさしく、その意味を解釈する楽しみがそこに生じてくる。
 どっちかと言うとね、私ゃ、ルーカスやスピルバーグの、わっかりやすすぎるくらいに単純な、間口は広いけど、中に入るとウスイ空気しかない世界につき合わされる方がずっと苦痛なのよ。
 押井守を人に奨めることは、単に映画を見てもらうってだけでなくて、「同好の士を募ること」、もっと極端に言えば、自分たちだけの非常に狭い世界(まあ、小さな「宗教」と言ってもいいですな)にその人を引き込もうとする行為だとも言える。まあ、胡散臭いと言われても仕方のない行為だ。
 おかげで、ことあるごとに押井守の実写映画を見せてはいるのだが、今のところ、私の周囲で『紅い眼鏡』を気に入ってくれた人は、しげとよしひと嬢くらいしかいない。よしひと嬢は、今度のBOXが、「どうして『紅い眼鏡』と『ケルベロス』と『人狼』の三部作じゃないんだ!」と憤慨するほどに入れこんでくれた(^o^)。『トーキング・ヘッド』も「押井守映画論」として楽しい出来なんだけどなあ。

 しかし、ここに来て、状況は随分変わってきた。
 以前出たLD−BOXの解説では、友成純一さんが、いかに押井守の実写映画の世間受けが悪いかを語っておられたが(^o^)、『人狼』や『アヴァロン』を経て、改めて押井守の原典を知りたいというファンも増えてきたのではないか。
 ナイトショウでの押井さんの発言を引用してみよう。

> 「ごく稀に僕の実写が好きな人もいることは知っているけど、大方の人の評判は悪い。お客さんが来ないしビデオも今ひとつ売れない。このBOXも、2000個出ればいいところじゃないという話をしていたんだけど。でも蓋を開けてみれば5000も受注を頂いて感謝しております」
> 「アニメが本妻で実写は愛人というわけではない。僕には本妻がいないという気がしている。アニメーションで違和感を感じ、それで『アヴァロン』を作ったのだから。アニメーションの違和感がこの実写三本に表れており、非常にプライヴェートなBOXになっているという気がする。これを予期しないほど買ってくれる人がいそうだということで意を強くした。こういう形で世に再び出ることで、僕の映画は生きている。公開当時は評判悪かったけど、『紅い眼鏡』もまだ余命を保っている」

 余命を保ってるなんてもんじゃない、『紅い眼鏡』は全編、どこを取っても「映画」に満ち溢れている。予算がないのがどうした、それでも映画は撮れる! そういう気概に満ちた圧倒的な情熱がこの映画を支えているのだ。
 千葉繁のシャワーシーン!
 玄田哲章のダンス!
 鷲尾真知子のチャイナ!
 運転する大塚康生!
 塗り箸を折る天本英世!
 イマイチ出番がないぞ田中秀幸!
 チラッと出てるぞ永井一郎&古川登志夫&立木文彦!(声優さんほかにも多数出演)
 そして、「紅い少女」兵藤まこのとんでもなく尋常ではない美貌!
 『8時の空』に出てるころからファンだったけどさ、これはもう「奇跡」と言っていいくらいだね。最初見たとき、マジで「天使がここにいる!」って思ったもの。
 まあ、騙されたと思って、このBOX買ってごらんなさい。あなたの人生、変わるわよ♪


 昨日から、しげとぴんでんさんが、ウチの掲示板で謎のヤリトリをしている。
 最初に私が、こないだ見たばかりの映画、『火山高』と『黄泉がえり』と『スコルピオンの恋まじない』(うっかり「恋わずらい」と書いたら、しげが烈火のごとく怒った。ダン・エイクロイド絡みだと常軌を逸するのである)について、簡単に感想を書きこんだのがきっかけ。

> 『火山高』
> いやあ、『少林サッカー』より遥かに「濃く」っておもしろい。
> ヘタなギャグを入れずにもうマンガチックな世界をマジメに映像にしてるからカッコいいのだね。ただ、学園ものマンガがそもそも嫌いって人にはキツイかも。
> 『黄泉がえり』
> ……SFじゃなくなってるなあ。これくらいお話を薄めないと、一般の人にはウケないのかなあ。柴崎コウのエピソードがセリフの全くない演出で、一番いい。
> 『スコルピオンの恋まじない』
> ウディ・アレンはここんとこ「普通の」コメディばかり作っている。それをヨシとするか才気が失せたと見るかは人それぞれだろうけれど、妙に文明批評みたいなもの作られるよりはこっちのほうが私は好きだな。

 どうせ後で詳しい感想は日記に書くんだし、と思って、至極、簡単に書いたのだが、ぴんでんさんが付けたレスは以下のようなもの。

> しげ。ちゃんへ
> ね、言った通りだったでしょ?(笑)

 ……謎である。何やらぴんでんさんとしげとの間でヒミツの会話があったようだが、何か私に隠しておかねばならないことでもあるのだろうか。
 いや、これは別に、私の知らないところでしげが何をしてるのか気になってしまうとか、そんなことではなくて、もちろんヤキモチを焼いてるとか嫉妬してるとか悋気を起こしてるとかジェラシッてるとかそういうことではなくて、なんというか、そのう、まあ単に、謎の言葉は引っかかってしまうというのがミステリファンの心情なのである。
 壁に“Rache”と書いてあったら、「レイチェル」って女のことじゃないかと考えませんか。

 で、今日、しげが付けたレスも意味深である。

> ああ、確かに(笑)。

 「確か」ということは「確かである」ということであって、「確実だ」とか「絶対だ」とか「間違いない」とか「不確定な要素はありえない」という意味であって、決して「のんきだ」とか「ご一緒にポテトはいかがでしょうか?」なんて意味はないのである。
 いったいどういう意味だろうと3分28秒ほど考えたが、いかな名探偵と言えども、データが余りに少なすぎると、真実には辿りつけないのである。
 だもんで、一番安易な方法、「本人に聞く」という方法を取ることにした。

 「このやりとり、どういう意味?」
 「ああ、それ、オレも一瞬わかんなかったんだけど、前にぴんでんさんが『有久さんは日本映画を貶してばかりいる』って言ってたから」

 なんだ、そんなことか、と拍子抜けしたが、ふとヘンなことに気がついた。
 この三本のうち、日本映画は『黄泉がえり』であるが、私はこれをそんなに貶してはいない。いや、欠点はいくらでもあるのだけれど、全体としては楽しく見たのである。「SFじゃなくなってるなあ」とは書いてるが、小説と映画は別ものだし、これは単なる事実の指摘に過ぎない。何より「柴咲コウがいい」と、ちゃんと誉めている。
 映画を見た直後も、実は私は『黄泉がえり』に満足して、「設定がいいねえ」と言ったところ、しげの方が「設定以外に何がいいの?」とニベもなかったのである。だから、私とそういうヤリトリをしているしげが、「ああ、確かに」と答えているのもおかしい。辻褄が合わぬのである。
 これはもしかすると、私が日本映画を貶してばかりいるとぴんでんさんが言ったというのは、しげのウソなのではないか。
 考えてみたら、この日記を通読されている方ならお分りだろうが、私は別に日本映画を貶してばかりなどいないのである。と言うか、日本映画を誉めてる率のほうが圧倒的に高い。ハリウッド映画を貶すことも多いし、ずっと私の日記を読んでいらっしゃるぴんでんさんがそんな発言をするはずがない。
 ではなぜしげはウソをついたのだろう。
 いや、私は何と言うか、しげがぴんでんさんに口止めをされているとか、そんな疑いを持っているわけではサラサラなくて、もちろん、ぴんでんさんを信頼していないというわけでもなくて、信頼しているからこそ、そんなことを言うはずがないと思っているし、本当は全く違った会話だったんじゃないかと思うけれども、だとしてもそれをキチンと書かないのはヘンだなあとか思ってはいるけれども、だからと言ってそこに何か深い意味があるとか勘繰っているわけでもなくて、けれど「あれは何なんですか?」と今度はぴんでんさんに聞くのもヘンだし、第一、たいしたことでもないからぴんでんさんは詳しくは書かなかったんだろうし、ああしてワザと短く書いているのは、そこは追求しないでね、という謂だろうし、それにしてもだから何なんだ。

 恐らく真相は、しげの伝達能力はヒドイものだから、ぴんでんさんの言葉を正確には伝えていない、ってなところだろう。
 「日本映画」という単語くらいは合ってるかもしれないが、あとはどうにも疑わしい。じゃあ、どんなことをぴんでんさんが言われたのか、あとは推測するしかないのだが、「日本映画に対する分析の方が、外国映画への見方よりも濃い」と言ったようなニュアンスではなかったか。
 そう考えれば、しげが、「濃い分析をする→厳しい見方をする→貶してばかりいる」と脳内で誤変換した過程がスンナリ想像できるのである。
 まあ、当たってるかどうかはわからないが、暗号のような会話をされてしまうと、ミステリファンの血が騒ぎ出してしまって心臓に悪いので、ちゃんと明快な言葉遣いをお願いしたい。いや、だからこれはヤキモチとか嫉妬とか悋気とかジェラシーとかではなくて。


 仕事帰りの車の中で、しげから職場の楽しい話を聞く。
 劇団の愛上嬢が、しげと同じリンガーハットで働いていることは以前もこの日記に書いたが、今んところちゃんと続いているらしい。
 「らしい」というのは、しげは夜、愛上嬢は昼の勤務で、滅多に顔を合わさないからだが、店で働いてる人の中には、昼夜の両方に出勤してる人もいて、その人が愛上嬢のハタラキぶりをしげ教えてくれたんだそうである。
 「言われたことしかしない」というのは新人さんだから仕方がないにしても、何が周囲が困ったかというと、愛上嬢の「声がデカイ」ということだそうな(^_^;)。
 愛上嬢は話好きである。あまりに話好きで、周囲が聞いていなくても延々と一人で喋り続けて、お喋りに熱中するあまり、周囲が聞いていないことにも気づかないくらいである。
 いや、一時期愛上嬢、ウチに頻繁に電話かけてきてたことがあってさ、それがもう、脈絡はないわ、結局はただの愚痴のヒトリゴトだわで、聞いててツライのなんの(+_+)。悪意がないから無碍にはできないんだけれども、今もあの調子だとすると、付き合わされてるほうは確かに困っちゃうだろう。
 で、芝居やってるから、声がデカイってのも分るのだ。結婚して、半引退状態にあるけれども、ウチの劇団で一番の演技力の持ち主だったんだから。
 厨房から他愛ない世間ばなしがホールの方まで延々とBGMのように流れていたら、客も困るだろう。
 「……どんな感じで喋ってるわけ?」
 「なんかね、天気の話とか家庭の話とか、延々してるみたいよ」
 「つまりなんだ、『今日はあったかいですねえ、ずっとあったかいといいですねえ、昨日は寒かったですからねえ、明日もあったかいといいですねえ、明後日はどうなるでしょうねえ』なんてことを喋り続けてるってこと?」
 「そんな感じらしいよ」
 それは……たまらんだろうなあ(^.^;)。
 でもそんな他人事のように言ってるしげだって、実は職場で「動きが芝居っぽい」と言われているのだ。どうも何か動くたびにポーズを決めるクセがあるからだとか。
 ……ウチの中でもしょっちゅうやってるわ、それ。
 └|-.-|┐ ←こんなの。


 内田百�虜遏Χ皸翕脹冂纏匆茵慳重據戞淵僖蹈觴法�2415円)。
 パロル舎の「文学絵草紙」シリーズ第四弾。
 版画家・金井田英津子さんが取り上げてきたのは、萩原朔太郎の『猫町』や、夏目漱石の『夢十夜』など、幻想小説の佳作ばかりだが、内田百�里慮諺枉�説とは、前二者とは少しくその質が異なる。
 「幻想」はもちろん「夢」であり、朔太郎も漱石も、自らの「夢」を小説という形で昇華させているのだが、百�里里修譴蓮∨悗斌戯邂戞�見た夢をそのまま綴ったような「とりとめのなさ」が感じられるのだ。そしてその夢にいつも絡んでくるのが「女」の影である。
 本書に収められているのは『花火』『尽頭子』『烏』『件』『柳藻』『冥土』と、本来は脈絡なく書かれた六つの短編だが、装丁を担当した金井田さんは、各短編の表紙に「道」の絵を配し、それをアニメーションのように進ませて、最後に荒涼たる草の土手の向こうにある「冥土」へと案内して行く。
 そしてそれぞれの短編に、密接に「女」が絡んでくるのだ。

 主人公はみな「私」である。漱石の『夢十夜』は必ずしも全ての短編が一人称では書かれていなかったが、百�里慮譴蠎蠅肋錣法峪筺廚澄�
 『花火』では、紫の袴の女が花火の立つ葦の原を横目に土手を越え、座敷へ「私」を誘う。そこで「私」は足萎えになる。
 『尽頭子』では、狐のような愛人の家で「私」は、ムリヤリ馬に灸を据える先生の弟子にさせられる。
 『烏』で「私」は、宿の女に案内されて、烏の羽を毟る男の隣室に泊まらせられる。
 『件』で、吉凶の予言をするという「件」に変身した「私」を、村の人々がその予言を聞こうと取巻く。これには唯一「女」が出てこないが、夜空には女を象徴するような黄色い大きな月がかかっている。
 『柳藻』の「私」は、妖婆に使われていた可憐な少女を救い出す。
 そして、「私」の旅は、もはや誰もいない『冥土』へと赴くのである。

 百�里諒絃呂老茲靴篤匹澆笋垢い發里任呂覆ぁ�
 いや、別に難解な語彙や、凝った言いまわしをしているというわけではない。語られる言葉自体は実に平易だ。しかし、その言葉の先に何があるのかが一向に見えないのだ。
 どこまで行っても尽きない黒板塀の道。
 百�里寮こΔ紡�を踏み入れたとき、私たちは、出口の見えぬ迷宮に入りこんでしまったことに気づくだろう。
 それが、「恐怖」の正体だ。


 マンガ、叶恭弘『プリティフェイス』3巻(集英社/ジャンプ・コミックス・410円)。
 予想通り、アッサリと美和先生は由奈(実は乱堂)を疑うのをやめました。ちゃんちゃん。
 いや、話はまだ続きますが(^_^;)。
 それにしても、月刊ならともかく、週刊で次から次へとよくもまあ、これだけ由奈を窮地に陥れる設定を考えつけるなあ、とちょっと感心。この手の話は、昔『ふたば君チェンジ!』なんかでよくあろひろしがやってたけど、すぐ頭打ちになってたからなあ。どれもこれも全部ムリヤリギャグに見えるかもしれないけれど(実際そうなんだけれど)、これ続けるの、結構才能いるよ。
 でも、新しい窮地を考えるたびに新しいキャラを増やしてくのはあまり得策じゃない。その場合、たいていのキャラは「使い捨て」になっちゃうわけで、美和先生もアッと言う間にザコキャラになってしまった。
 新登場の植田望、由奈に「お姉さまっ」と突進してくいい味わいのキャラなんだけど、さあ、こいつも4巻以降、作者がちゃんと使いこなせるのかどうか。(2003.3.18)

2002年02月18日(月) くまくまくまっ/アニメ『エイトマン』第1話「エイトマン登場」/『すべてがFになる』(森博嗣原作・浅田寅ヲ)ほか
2001年02月18日(日) HPの原稿はまだ1/10程度です/ドラマ『百獣戦隊ガオレンジャー』第1話ほか


2003年02月17日(月) 事故の顛末(^o^)�◆拭惶胸頬糎雲こΑ戞閉校殻�生)/『ハプニングみたい』(いとうせいこう・岡崎京子)ほか

 16日の日記の続き。

 13日以降、あの掲示板のトンチンカンな定連さんにやっぱり愛想をつかした鍋屋造物さんがウチの掲示板に遊びに来るなどの経過があったが、昨、15日になって、また新しい動きがあった。
 またもやアクセス解析から、2ちゃんねるに宇津見さんへの悪口と一緒に、ここのURLが貼り付けられていることが分ったのである。
 「名無しさん」の仕業であるが、十中八九、山本さんとこの定連さんの誰かの仕業であろう。

 しかし、私は今度は逆に感心してしまった。
 私は自分のところの掲示板については山本さんのところのようにルールを細かく決めていくつもりはない。それは各人の良識に任せるということでなく、私への悪口や中傷も甘受する、という意味だ。そしてその旨を、ここの掲示板のトップにも掲げている。
 ところが、この2ちゃんねら〜は、私たちの一連の書きこみに対する批判(悪口かもしれないが。それはどっちゃでもよろし)をするのに、ウチの掲示板への「乱入」や「荒らし」という形を取らなかったのだ。2ちゃんねら〜に呼びかけて、そこで宇津見さんとのヤリトリについて叩くことを選んだのである。
 これは実に潔い選択ではないか。2チャンネルというところは、そういう場外乱闘に最もふさわしい場だ。何を書きこんだところで「荒れる」ことにはならない。
 実はこの定連さん(と断定はできないが)、あるべき論争の姿というものを、一番熟知しているのではないか(まあ、ただ単に私のような無名人のサイトで暴れたって面白くも何ともない、と考えただけかもしれないが)。

 私もこのへんで、これまでの一連の騒動の「本質」を、ちょっと分析してまとめておいた方がいいだろう、と考え、また、自分の「姿勢」も明確にしておいたほうがいいと判断して、鍋屋さんへのレスという形で掲示板に次のような書き込みをした。

>「世の中にはトコトン真面目な方が多数いらっしゃって、何か問題が起こったときに、『これは自分がなんとかせねば』とお考えになる気持ちはわからなくもない。いや、その『正義感』そのものは立派なものでしょう。
 ただ、その主張がいかに『正論』であろうと、相手が別の『正論』を持っていれば平行線にしかなりません。マジメさん同士がぶつかればもう、事態はわやくちゃになっちゃいます。」
>「また、注意された相手が自分の方が悪かったのだと気づいても、『マジメさん』の『優等生ブリッコ』に反発してしまう、ということもありうる。いや、本人に『優等生』のつもりがなくても、そう『受け取られてしまう』ということですね。『てめえ、何様のつもりだ?』っていう反応が起きてしまうわけです。これは注意をする際にコトバを丁寧にすればするほどかえって『慇懃無礼』ととられてしまうことが往々にしてあります。」
>「相手のメンタリティを無視して『正論』をぶつけても、それが伝わらないんだってことは、相手に理解能力があるかないかを判断する以前に把握しておかなければなりません。日常生活だと相手の顔も見えますし、立場もわかりますから、そのあたりの加減が出来るのですが、ネットでそれを行うのは極めて困難です。」
>「例えば、この書きこみ自体、私にそんな意図がなくとも、鍋屋さんに『生意気なやつだ』と思われるかもしれない。そう疑われたくなくとも、絶対に疑われないなどという確信は持ちようがない。しかし、初めから諦めていてはモノ自体が言えない。だから何をどう語ればいいか模索しながら書く。その上で批判を受けたらそこでまた考える。その程度の覚悟がなくてはネットで文章を書く、主張をする、ということはできないことでしょう。」

 ピュアな方が読むことも念頭に置いているので固っ苦しい書き方になっているが、要するに「ネットに必要なのはルールやマナーじゃなくて、『覚悟』だ」ってことだ。それさえあれば、ルールはそれなりのものが自然に生まれてくる。
 無法地帯のように喧伝されることの多い2ちゃんねるにすら、極端な「逸脱」をセーブする機能が自然に働いていたのだ。
 これは私にとって、すばらしい発見であった。もともと2ちゃんねるの存在自体には全く否定的な意見を述べないでいたのだが、もうこれからは積極的に全面肯定、2ちゃんねるバンザイ! を唱えたいね。人間、便所は絶対に必要だし、ちゃんと便器にウンコしてるんだから、いいじゃないのよ。あそこで私のことがどんなに叩かれたとしても、文句をつけるつもりはない。
 もっとも、私はあそこに書きこむつもりは今もって全くないんだけれども。だってHN使ったって、私本人と特定できない世界だからなあ(^o^)。



 で、ここから17日の日記。

 またもや咳が止まらなくなって、仕事を休む。
 先日、しげとケンカしたのが確実にカラダに影響しているのだ。こういうことを書くと、しげはすぐに「オレのこと、嫌い?」なんて言って泣くのだが、誰もそんなことは言っておらん。そんなガキみたいな甘ったれをしないでいてくれればいいだけなのになあ。
 職場に電話をするのもツライが、上司もいい加減で愛想をつかしているだろうなあ。ホンネではクビを切りたいんだろうけれど、診断書も出しているので、どうにもできないんじゃないか……なんてヒネた考え方に陥ってるのも鬱な証拠だ。
 そんな私の気分も知らず、しげは私が休むんで「今日はいちんち一緒やね!」と喜んでいる。と言ったかと思うと、横になって朝寝し始めた。……さっきまで熟睡しとったろうが、おまえは。
 で、昼ごろトイレに起きてきたら、また「昼寝」を始めるのである。
 部屋にはしげのイビキと、私の咳が谺している。
 なんか凄く殺伐とした気分になってるんですけど、どうしたらいいんですか。

 少しウトウトとして落ちかけていると、突然のドアチャイム。
 申し込んでおいた舞台『黒蜥蜴』のチケットが来ていたのだ。しげは一旦寝てしまうと、どんなにベルが鳴っても起きてきやしないから、もし私が家にいなければ、郵便局に再配達してもらうように頼まなければいけないところだった。
 休んでてよかったことはこれだけ。……かえって鬱が募る。
 ああ、なんだかここ数年でも一番の鬱状態に陥りそうだぞ。


 長山靖生『偽史冒険世界 カルト本の百年』(筑摩書房・1890円)。
 ずっと前に買ってたけど、読み切れないまま本の山に紛れこんでいたのをようやく見つけて完読。こういう本を読むと、歴史は本当に「物語」なんだなあ、と実感するね。
 いしかわじゅんの『約束の地』で、村田春夫が「私はキリストだった!」と言って「皆の衆音頭」を踊るギャグには大いに笑わされたものだったが、「キリストもモーゼも日本で死んだ」とかいう「トンデモ学説」も、こういう形で昇華されるのが一番「健全」なのかもな、と今にして思う。
 現代でも、新興宗教団体などは、新たな「啓示」とやらを受けて、数多くの偽史・架空史を作り続けている。『古事記』『日本書紀』もまた「偽史」と解釈すれば、歴史をでっち上げたがるのは、人間の普遍的な行為なのかもしれないとも思う。
 しかし本書は明治・大正期に視点を絞って、この時期に集中して偽史が書かれてきた理由を探っていく。これが実に面白い。
 人が自分の求める理想の歴史を持ちたがる心理自体は普遍的だとしても、「なぜその時期に」と考えることは、その「時代の意識」をとらえていくのに有効な手段だろう。真実は決して一つではなく、歴史は常に不確定かつあやふやなものだが、様々な「真実」が生まれていく「理由」は実在する。そういう視点のない「歴史観」は、どんなに真実めいて聞こえても全てクズだ。
 例えば例の戦争が「侵略か侵略でないか」なんて論争くらい不毛なものはない。どっちも正しいし、どっちも間違ってるに決まってるじゃん。歴史の真実なんてものを一つに定めたがるから争いも起こる。人がみな一人一人違うって個性を認めるんなら、歴史観もバラバラってこと、認めようよ。どっちの人もさ。

 「ジンギスカンは果たして源義経であったか?」。この異説を最初に私が知ったのは、高木彬光の『成吉母汗の秘密』を中学生の時に読んだときだったが、まあ全面的に信用しないにしても(何たって、その証拠と言うのが、あの「天城山心中」が義経と静御前の生まれ変わりによるものってんだから、信じようもなかった)、「そうだったら面白いな」とは思った。
 微かではあるが、その「面白い」と感じた事実は、ノンポリなつもりな私にも「日本ナショナリズム」の芽があることを示唆している。誰しも自国が「強い国」「誇れる国」であろうと望む気持ちはあるのだ。
 「侵略」「非侵略」の双方とも、「日本が誇れる国であってほしい」という願望が意識の根底にある点では共通しているので、結局、あの論争はどっちも自分の解釈に基づいたナショナリズムのぶつけ合いでしかない。
 ただ、明治期・大正期に「偽史」が続々と作られていったのには、より切実な「事情」があった。長山氏は、それが大陸進出・南進政策を正当化するための根拠としてあった、と指摘し、その根拠を一つ一つを確認していく。これが実に明快で、心理的にすんなりと納得させられるのだ。
 もちろん、「それはどうかな?」と首を傾げる部分が全くないわけではない。「明治以降の日本は、欧米列強を模倣する過程で、その侵略主義をも真似ながら、しかし明確な「差別の根拠」を持っていなかった」とするのはどうか。庶民はいざ知らず、「日出ずる国日本」としての他国に対する優越意識は、明らかに貴族・武士たちにはあったはずだが。だから蒙古・中国・朝鮮の侵略を受けた博多には、アチラを「野蛮人」と見なす意識がずっとあったんだってば。まあ、白人の黄色人種に対する差別意識に比べれば薄かったろうとは思うけどね。
 そういう小さなキズはあるが、当時の日本人たちが「侵略」という意識ではなく、「回帰」という意識で大陸や南を目指していったことは実証できていると思う。
 右がかってても左でも、歴史書を読む前に、まずこの「偽史」の歴史を辿ってみることをオススメする。 


 マンガ、藤島康介『ああっ女神さまっ』25巻(講談社/アフタヌーンKC・460円)。
 続けて読んじゃいるんだが、いったい何の話をやってるんだか。
 いや別に話が分らないっていう意味じゃないのよ。魔族ヒルドとマーラーが、“天使喰い”を操って、ベルダンディー達、女神のパートナーである“天使”を食らって行く。第5の女神・「戦闘部」のリンドは“天使喰い”の所在を懸命に探すが……。
 って「外形」は分るんだが、もともと「心根は清らかだけれど女の子に持てない男の子のところにステキな女神様がやってきちゃったよ〜ん」って他愛ないラブコメだったものが、途中から「愛の絆ってなに?」みたいなモチーフ持ちこんでちょっと感動的な感じになってたのが、何だか天使と悪魔の戦いがどうのって展開になって……でもその「魔族」ヒルドは、「女神」ウルドのかあちゃんで……ストーリー、単に迷走してるだけじゃないのか? 長期連載の悪癖なんだろうけれど、いったいこのエピソードがどこに向かってるのか、何だかピンと来ないんだわ。
 藤島さん、最近どんどん絵の描き分けができなくなってきたから、読みにくくもなってるしなあ。本来、私は、ストイックだけれども不器用なリンドみたいなキャラにはハマッて然るべきなんである(私がかわいい女の子なら誰にでも萌えると思ったら大間違いである)。つまり『オトナ帝国』のチャコみたいなタイプね。でもなんか「絵」が違うんだよなあ。いや、ほかのキャラもそうなんだけれど、「表情」がどんどん消えていってさ、ただの「決め絵」になってきてるんだねえ。これ、「いい絵を描こう」と努力する人がかえって「型」にはまっちゃったってことなんだよね。こうなるとどうにも感情移入ができない。この「壁」を乗り越えないと、藤島さん、そろそろ今後が苦しくなってくるんじゃないかと思うけどなあ。
 っつーかさ、もう少し面白いもの描いてくれないと、しげがこの手のマンガを一番嫌うんだよ。「面白さが中途半端だ」ってさ。


 マンガ、高橋葉介『ドクター・フォービア 恐怖症博士』(秋田書店/少年チャンピオンコミックス・410円)。
 ああ、たった1巻で終わっちゃったなあ。確かにそんなに面白い連載じゃなかったけれど、もしもこの先『少年チャンピオン』からお呼びがかからなくなっちゃうとしたら悲しい。できればもう1回くらい高橋さんにチャンスをあげてほしいものだが。
 様々な「恐怖症」患者を、いかにもアヤシゲなドクター・フォービア(とその助手・千悟)が「治療」していくという設定はいいのだが、ページの短さもあってか、オチが殆ど一発アイデアで、当たり外れの振幅が大きい。
 第1話の「“月”恐怖症」など、タイトルだけでオチが読めてしまう人も多いのではないか。
 いや、オチが読めること自体は必ずしも欠陥とは言えない。1話のオチは、本来、そこから「恐怖症」が発生する物語にしなければならないのじゃないか、と思える点で、「安易」な印象を脱ぐいされないのである。
 それに比べると、17話の「雪恐怖症」は、恐怖の先にある物がなんであるかを暗示していて面白い。
 空に浮かぶ雪の精。青年には彼女の姿が見える。雪を見るたびなぜか恐怖を覚える彼は、自分の記憶に封印された部分があることに気づく。しかし雪の精は青年に語らう。「それは怖いことなの。思い出さなくていいことなのよ」。しかし青年は衝動に突き動かされてドクター・フォービアを訪ねる。そして、渡された「記憶の小箱」を空けると……。
 これもオチが読めないこともないのだが、第1話と違って安易さは感じられない。夢の終わりが一つの恐怖であることを我々は無意識のうちに感じとっているからかもしれない。
 まあ、要するに「理に勝ち過ぎてる」話は面白くないけど、「情に訴える」話は感動するって、ごく当たり前の結論なんだけどね。 


 いとうせいこう・岡崎京子『ハプニングみたい』(講談社/KCデラックス・1000円)。
 「岡崎京子」の名前に驚いて、岡崎さん、元気になったのかと思ったら、旧版の新装版であった。
 岡崎京子がまず絵を一枚描く。ただし、描きながらコピーを取っていく。一枚の絵が完成していくまで、制作途中の絵が十数枚生まれる。それに、いとうせいこうが物語ともエッセイとも感想ともつかない文章をつけていく。
 試みは面白い。面白いんだけれど、残念ながらできあがった作品は今一つ。理由は簡単で、いとうさんの文章が岡崎さんの絵に追従した形にしかなっていないからだ。それが証拠に、文章を無視して岡崎さんの絵だけを見ていくと、これがとてつもなく面白いのである。
 この絵はいったいどんな完成形を見せるのか? それを想像しながらページをめくっていく楽しさよ。想像力が貧困で、いとうさんの書く文章に一読三嘆してしまうような人ならば面白く読めるのかもしれないが、たいていの読者にはいとうさんの文章は陳腐にしか映るまい。それはいとうさんに才能がないということではなく、開放された個人の想像力には、生半可な才は到底かなわないからだ。
 山崎正和の文じゃないけどさ、いとうさんのやったことは「ミロのビーナスに腕をくっつけてみる」行為でしかないのだ。そりゃムチャってもんでしょ。

 白い画面に黒い点が一つ。
 次のページでは女の子が現われる。
 黒い点からは何か動物のものらしき足跡が現われる。
 あちらにも。
 こちらにも。
 黒い点は穴なのか?
 そしてまた、女の子の向こう側にも黒い穴が……。

 この絵の1ページ目に、いとうさんがつけた文章は、こうである。
 「(白い画面について)このあたりは幸福。何の疑問もない。(中略)
 (黒い点について)黒いしみ? そんなことはわかっている。だがなんのだってこと。(中略)ミクロなレンズで見たホクロ! つまり皮膚のどアップで……。……違うな、きっと。あるいはまさか? 印刷ミス!?」
 まあ、これで面白いと思う人はそれはそれでいいんですが。(2003.3.16)

2002年02月17日(日) ヘンなメール/『百鬼夜行抄』9巻(今市子)/『空前絶後のオタク座談会�◆.淵�ヨシ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか
2001年02月17日(土) ゴミ箱はティッシュの山……鼻水で/『2001年映画の旅』(小林信彦)


2003年02月16日(日) 事故の顛末(^o^)� 辛饌罅悒▲僖奪塑屬旅極鼻�

  朝は寝過ごしちゃってアニメも特撮も見られなかった。
 起きたのは昼をとっくに回っていて、なんだか体が重いので、風呂に入ってるところに、練習に出かけていたしげが帰ってくる。
 「なんしよん?」
 「何って……風呂だよ」
 「それまで何しよったん?」
 「寝てたよ」
 「なん、つまらん男」
 家でゆっくりしてて面白いエピソードなんかあるか。

 しげ、今日みんなに配ったというバレンタインチョコの余りを一つくれる。
 一つと言っても、野球ボールをひと回り大きくしたくらいの大きさはある。当然一日で食いきれるものではないので、チビチビと分けて食ってくしかない。
 「冷蔵庫に入れとくしかないなあ」
 「チョコって冷蔵庫に入れると美味しくなくなるってよ?」
 「だからって、外に出してたら腐るやん!」
 この程度の大きさのチョコですら苦労するのだから、例の「タライチョコ」を渡された其ノ他君はどうであったろうか。
 「『重い』って言ってたよ」
 ……もっと積極的に断ろうよ、其ノ他君(-_-;)。

 しげから、新しく演出になった鈴邑君が夢を見た話を聞く。
 「なんか、アンタを怖がってるみたいよ」
 「……どして?」
 「アンタが鈴邑さんの枕元に立って、今度の演出について『ふっ、まだまだだね』って言ったって。……なんでそんなことしたん?」
 「しねーよ!」
 わしゃ六条御息所かい。


 夜、NHKで東京ボードヴィルショーの舞台『アパッチ砦の攻防』を見る。
 福岡に来た舞台を生で見ているけれど、その時は主演が佐藤B作・石井愃一のお二人だったが、こちらはオリジナル版の佐藤B作・伊東四朗バージョン。
 前にも放送されてたやつの再放送だけれど、改めて見ても脚本のムリを伊東四郎が随分救ってるなあ、という印象。小林信彦が「佐藤B作が弱い」と『コラム
は誘う』に書いてたけど、まあその通りなんだけれども、ボードヴィルショーの舞台なんだからしょうがないじゃん(^_^;)。小松政夫と伊東四郎のコンビだったらもっとよくなることはわかりきってるけど、主役を二人とも客演にするわけにはいかないしねえ。


 この四、五日で、この日記のアクセス数が、一日平均50件ほどに増えた。
 それまでは、平均15〜20件程度、ヘタをしたら2、3件、という日もあるので(^o^)、2倍から3倍くらいの増加だ。
 いったい、何が起こったんじゃらほい、また「2ちゃんねる」にURLを張られでもしたかな、と一瞬考えた。
 私の場合、先からずっと、読んだ本や見た映画について悪口を言いまくってたから、2ちゃんに「こんなん悪口言われてるでえ」とその内容やアドレスを貼られたことも何度かある。そのたびにアクセス数は一時的に十数件増えるのだが、二、三日もすると、波が引くようにスウッと、また、静かなサイトに戻るのである。
 ところがどうも今回は様子が違うな、とカンが働いた。

 で、アクセス先を辿ってみたら、出所は山本弘さんの「SF秘密基地」の掲示板なのであった。
 確かに、私は時折あそこに書き込みをしているし、この日記のURLも公開しているから、そこから辿ってここを覗くことは可能である。実際に、これまでにもちょこちょこと、一週間か一月に一人くらい、山本さんのところからここにいらっしゃる通りすがりさんもいたことはいたのだ(なんだか寂れた博物館みたいだな)。
 まあ、どんな興味でここを覗いたか、ということの見当はつく。
 BBSの方で、この二ヶ月ほど、あそこで暴れまくっているトンデモさんや、トンデモさんに振り回されてる定連さんたちを見て、からかったりバカにしたり、といった発言を繰り返していたから、そのあたりが口コミ(ネットの場合はなんて言うんだ? ネットコミか?)ででも広がったのではないか。
 しかし、たとえそうだとしても、いきなり10件以上もアクセスが増える、というのはちょっと不自然である。
 だもんで、BBSに「山本さんとこからのアクセスが増えちゃったけど、どうしたのかな」と書きこんだのが、一昨昨日、2月11日の夜のこと。

 反応はすぐにあって、翌12日の夕方に、宇津見さんから「定連さんの集まっている掲示板(山本さんとこにあらず)で、ルールを軽視した書き込みを続けている人たちがいたから、それを注意するのに貴方(私のことね)の文章を引用しました」との謝罪の書きこみがあった。
 こうやって日記もBBSも世間に公開しているのだから、当然、引用は自由である。いちいち承諾の必要もないし、宇津見さんが謝罪されることはないのだが、まだ腑に落ちないのは、宇津見さんが「URLは書いてません」と書かれていたことである。となれば、やはりその書きこみからここに辿りつくことはできないはずである。何かもう少し「事情」がありそうだなあ、と思って、その当該の掲示板を覗いてみたい、と思ったのだが、如何せん、宇津見さんはその掲示板の名前を書かれていない(^_^;)。

 もともと私は、自分の書いたものが自分の知らないどこかで話題にされることについては、無頓着なほうである。今回も「どっかで話題にされてた」ことが分った時点で、アクセス数が増えた原因は判明したのだから、私の気持ちとしてはそのままほったらかしてもよかった。しかし、宇津見さんの書きこみを見る限り、その「話題」とやらは今後もなにやら紛糾を呼びそうな気配である。
 アクセス数が増えるだけならばともかく、私の書いている内容に対して、批判のメールやら掲示板への書きこみやらがあった場合に、事情を知っていると知らないとでは、対応の仕方が変わってくる。
 いきなり「フザケたこと書いてんじゃねえ!」と怒鳴られても、「なんですかあ?」としか言えない。人によっては、私が事情を知っているのに「しらばっくれている」ととらえる可能性もある。状況を確認しておくに越したことはないのである。
 かといって、宇津見さんに直接、メールで当該の掲示板の場所を質したりするのも、「そこに乱入するつもりなのか」と思われそうで聞きにくい。さて、どうしたものか、と思案しているうちに、ハッと思い出したことがあった。

(ここより回想シーン(^^))
 もともと私が山本弘さんの掲示板ウォッチングを始めたのは、ある人がご自身のサイトで同様のことをされていて、しかもその内容がすばらしくおもしろかったからである。
 お固いマジメ人間には、「ギャグ」がなぜ存在するのか、その意義についてもまるで理解不能だろうが、人間の歴史には「揶揄の文化」「からかいの文化」というのは、モノゴトの価値を相対化する方法として普遍的に存在するのである。というか、そういう感覚を持ってない人間って、社会の害毒でしかないのよ。私も非才ながらその方の顰に倣うマネをしてみた、という経緯があるのである。
 その方が語られていた文章中に、世の中には「山本弘問題連絡会」と称するサイトがある、という情報があった。
 「山本弘問題連絡会」。
 なんて楽しくステキで、心地よく秘密めいたタイトルであろうか。♪ヽ(^。^)ノ☆
 これを察するに、「山本弘氏について問題を挙げてそれを連絡し合おう」なんて生易しいものではないのである。まず、この世には「山本弘問題」というものが存在していて、それについて連絡し合っているのである。存在そのものが問題。山本さんがそれを聞いたら激怒されるかもしれないが、ここまで言われりゃこれはかえって名誉のようなものである。
 昨今の作家で、「問題」とまで指摘されそうな人間がどれだけいるだろうか。「田中康夫問題」とか言おうと思えば言えそうだけれど、あの人、既に作家じゃなくなってるし。「柳美里問題」とか「中島梓問題」とか、話題にできそうなのは女性ばかりである。そう考えると山本さんは孤軍奮闘状態だ。すごいぞ山本先生!
 さて、その「山本弘問題連絡会」、ざっと見ただけでも7、80くらいの項目がズラリと並んでいる。サイトのいくつかを覗いて、2、3個目で、山本さんとこの定連さんたちが群れて好き勝手なことを喋っているのを見つけた。
 正直な話、「ここまでバカ?」と思ったので、その感想をウチの掲示板に書きこんだのが1月27日のこと。
(回想終わり。この時点では、この人たちが更に屋上屋を重ねるがごとき恥さらしをやってくれるとは思ってもみなかった。全く、世の中は広いね)。

 ああそうか、あそこの連中のことだな、と気がついて、そこを覗いてみる。
 ビンゴである。(V^-°)!
 宇津見さんの「引用」は、まさにその1月27日に私が書いたものであった。

> 「もちろん『レス奉行』もサルなんだが、もともと山本さんのルール提示があったにもかかわらず、その意味をまるで理解できずに(あるいは故意に無視して)つまんないスレッド立てまくった連中が、よくもまあ、これだけ自分のバカを棚に上げて言いたい放題が言えるものだと感心する」

 引用部分はこれだけだが、ここで私が指している定連さんの「バカ」というのがどんなものなのか説明しておくと、それまでの掲示板の内容を、黒子さん白子さんふうに、私はこうまとめておいたのだ。

>「最近の山本さんとこの掲示板って、雰囲気悪くありません?」
>「そうよねそうよね、私だけがそう感じてたんじゃないのね、安心したわあ」
>「だいたい『レス奉行』が多すぎるのよね」
>「そうそう、何かって言うと『ルール違反してるんじゃないの?』ってうるさくってさあ」
>「ルールを錦の御旗にして、自分の気にくわない意見を封殺しようとしてるのよ」
>「やだわあ、おかげで私も書きこみにくくなっちゃって」
>「そりゃ、言ってることは間違ってないかもしれないけれど、頭ごなしにバカにしたモノイイされたら、こっちだってムカッとしちゃうわよ」
>「『少しは捻ったスレッド立てろよ』って言うんだったら、アンタがまずお手本見せてごらんなさいよってね」
>「だいたいたまにしか書きこまないくせに生意気なのよ」
>「そうよそうよ!」

 もとになった定連さんの会話は男性どうしのもので、表現自体はもっとマトモなのだが、内容のウスさを分りやすくするためにこんな表現にしたのである。別に女性の会話がウスいと言いたいわけではないのでそこんとこ誤解なきよう、女性のかた(^^*)。この会話のどのへんが「バカか」ということの解説も省略する。
 宇津見さんは仰ったとおり、ここのURLを貼りつけなどしてはいなかった。私のこの文を読んでいたと思しい、別の定連さんが、「その言葉はここから引用したのだろう」とこの掲示板のURLを貼りつけていたのである。
 ……え? ということは、ここから飛んできた人もいるはずじゃん? と思って、もう一度アクセス解析を見たら、前に見た時にはなかった、そこの掲示板のURLから飛んできた人が確かにいた。
 どうもさっきは見落としていたらしい(^_^;)。
 山本さんところから直接飛んできた人たちは、「独自で」私んところに目星をつけてやってきたんだろうなあ。発言の一つや二つ確認するためだけに、大層な努力をするものである。

 ともかく、「事情」は分ったので、さて、ここの定連さんたちが私のところに文句をつけてきたときにどう対処するか、ということを思案する。
 定連さんたちのことをバカだサルだと貶しまくっちゃいるが、それは「マジメなカタブツ」で、「考え方が幼稚」ってだけだから、何か言ってくるなら恐らく態度自体はマトモなものであろう。
 そういう人を相手に、いくらなんでも、「小学校から出なおしな」とは言えない(昔はオトナはみんなこう言って子供を叱ってたものだったがなあ。言われたことがない人間はただバカにされたとしか思えないんだろうな。そういうところが、イマドキの若い者の「幼稚」なところなのである)。

 そんなことを考えながら、続く書きこみを読んでいくと、どうも様子が違っている。
 攻撃されているのは宇津見さんばかりで、私のことには殆ど触れられていない。そりゃあ、そこの掲示板に乱入しているのが、宇津見さんだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、「学習能力の無い自意識過剰のおバカなおサルさん」などというコトバ自体は私のものだ。宇津見さんは私のコトバに「そうですなあ」と賛同は示されていても、ここまでのモノイイはしていない。
 それがほとんど、宇津見さん自身の言葉のように解釈されている。上記の私の書きこみすら、宇津見さん本人の意見と全く同一のように語る人もいる。「賛同」さえすれば意見が完全一致、と解釈するというのは、普通、滅多にせんことだと思うが。人間一人一人は全部違うんだよっての、難しすぎてよくわかんないかな? それとも最近はそういう「常識」、誰からもおせーてもらえないの?
 宇津見さんが私の言葉を引用したのは、「ヨソではアナタたちに愛想を尽かしてる人には、こんなヒドイことを書かれてるんですよ、腹が立ちませんか? そこまで言われてしまう意味を考えてみましょうよ」ということなのであって、そこで私と宇津見さんの態度には、明確な差異が既に生じている。
 「私は」、定連さんたちに愛想をつかしているが、「宇津見さんは」「この時点ではまだ」「愛想をつかしてはいない」のである。この二者を比較した場合、腹を立てるべきがどっちかは分りそうなものだが。通じねえ奴には通じねえやな。
 宇津見さんは、定連さんたちを批判した時点ではまだ「言葉が通じる」と思ったからこそ、書きこみをされたのだろう。あそこに集っている人たちの中でも、そのことが「理解」できる人は、「言葉に拘らずに、宇津見さんの言ってることにも耳を傾けよう」とか、「ダブルスタンダードを使っているのはここの定連さんの方ではないのか」と指摘するが、逆ギレしている頭脳の不自由な方々は、無視である。 
 こういう状況を見ていると、宇津見さんを宇津見さんだから批判しようとしているように思えてならない。実際、彼らの書きこみ、殆どマトモな批判の体をなしていないのである。
 もういい加減、こういう人たちに「情け」をかけることは、宇津見さんにとっても疲れるばかりだと思い、「ほっときましょうよ」と返事を書きこんだ。もっともその時点で宇津見さんもついに愛想をつかせてしまっていたが。
 ここまでが2月12日の出来事。

 しかし、事態はまだまだ収まらない。
 翌13日以降も、宇津見さんをターゲットにした暴言の嵐は、当該掲示板に定連さんたちによって次々と書かれていく。しかもその中身はどんどん感情的かつ抽象化していくばかりだ。

 宇津見さんのモノイイについて、

>「掲示板の基本的なルール『他人を不快にさせるような発言は控える』というルールはどうでもいいのでしょうか?」

 などと言っている批判も、一見正論のようでいて、その実はただの難癖である。これは「不快にさせる」意図で文を書くなってことであって、受け取った方が勝手に「不快になる」のとは全然意味が違う。
 宇津見さんが明らかに「不快にさせることを意図していた」と断定できる根拠がどこにあるか。所詮、これはこの人の主観を一歩も出ていない。仮に宇津見さんにそういう意図があったとしても、そのことを指摘すれば、今、論じようとしている内容から話は関係ない方向へ逸れてしまう。基本的に会話に不自由な人なのだ。
 はっきり言って、宇津見さんの書きこみ程度で不快になるのは神経が病んでいる証拠である。

 一番逆ギレして、支離滅裂な戯言を書きなぐっている人は(上記で私がまとめた会話のヌシでもある)、

>「『相手がルール違反だからと言ってわざわざ「それはルール違反です」と注意をするの「も」立派なルール違反だ!』です。」

 と主張する。心の不自由な人を相手にすると、必ず返って来るセリフだ。
 小学生がイタズラをして先生に叱られたときに、「なんだよう、先生だって昔はイタズラしてたんだろう、オレを叱る資格なんてないじゃんかよう」と言い返すアレと全く同じヘリクツである。
 それにこの書き方だと、まず自分がルール違反をしていることも認める形になってしまうが。普通、そのことを自覚してれば、大人しくしてるものだけれど、恥という感覚自体、ないようである。
 さすがにこれはヒド過ぎると、ほかの定連さんもガマンならなかったのだろう。

>「ルール違反て注意するのはルール違反て注意するのはルール違反て注意するのはルール違反て注意するのはルール違反て注意するのは…のループは如何なもんかと。これって、結局バカって言った方がバカって言った方がバカって言った方がバカ(以下略」

 と突っ込まれるが、言われたそのヒト、やっぱりその意味を理解できず、同じ主張を繰り返している。
 宇津見さんの悪口を一緒に言っていたもう一方の人は、そのあと謝罪をしているのに、この人はどうもそのことも気に食わなかったようだ。コドモなのか粘着質なのか。どちらにしろ、かなりトンデモさんに近いことは間違いない。

 こういう人がいつまでも吼えていては、宇津見さんも辛いことであろう。
 いい加減で収束をしてもらいたいものだと、ウチの掲示板に「このへんでやめとくのがオトナでしょ?」という書き込みをする。
 ついでに、私自身の言葉使いについても、反省する旨を書く。こういうとき、頼りになるのが唐沢俊一さん御夫妻だ。唐沢さんはこういう方たちのことをしばしば「ピュアな人」と表現し、K子先生は「イノセント」と呼ぶ(ヴィスコンティか)。うまいなー(^^)。私もこれに倣うことにしよう。
 けど、指してる意味内容は同じなんだがなあ。それに「おサルさん」と言われたら「サルじゃないぞ!」と反論ができるけど、「ピュア」なんて言われたら表現上は誉めてるんだから、何も言えなくなると思うが。これだからピュアな人は(^_^;)。
 最後に「こういう場外乱闘が、2ちゃんねらーを喜ばせるばかりで、実りがないと気がつけば、自然にみなさん、落ちつかれていくものと思います」とまとめてシメる。「場外乱闘」と優しい言い方をしたが、要するに犬のケンカだ。自分たちが「見世物」になっていることに気がつけば、プライドだけは高い人たちだから、少しは大人しくするかな、と考えたのである。
 まあ、ウチの掲示板を続けて覗いて、ピュアな心にも少しは染みがあれば(^o^)、鼻水垂らしてダダこねてるだけの自分たちのガキな姿に気がつくだろう。
 ここまでが2月13日の出来事。

 規定枚数を越えたので、続きは次回。

2002年02月16日(土) 伏字伏字伏字伏字〜、伏字大行進、ヤァ!/映画『A*P*E』/『Heaven?』3巻(佐々木倫子)
2001年02月16日(金) なりたくて病気になってるわけじゃないやい/舞台『トランス'98』ほか


2003年02月15日(土) 今日はケンカしなかったね/映画『スコルピオンの恋まじない』/DVD『新八犬伝 辻村ジュサブローの世界』

 二、三ヶ月前からしげは今日のこの日を楽しみにしていた。
 なんて書きだしで始めちゃうと、まるで結婚式みたいだが(^o^)。
 東京の方の公開からは数ヶ月遅れではあるが、ダン・エイクロイド客演の(主演はウディ・アレン)『スコルピオンの恋まじない』の福岡公開初日なのである。
 何度か書いているが、しげはダン・エイクロイド主演の『ブルース・ブラザース2000』に都合20回以上、劇場に通ったほどの(しまいにゃ劇場支配人の外国人に顔を覚えられたらしい)ダン・フリークである。
 まあ、いい役者だとは思うがなんでそこまで入れこむか、という野暮は言うまい。誰しも、そういう憧れの人を持っているものだ。こないだも、『帰って来たウルトラマン』を見ながら、しげに「ダンが出てるよ」と言ったら「え? どこどこ!?」と目を輝かせたので、「団次郎」と言ったら、ちょっと惨殺されそうになりました。しげに冗談は通じないのである。
 こんなしげだから、ダンの初日と来れば、朝イチでしかも一番乗りでないと気がすまない。
 ところが、そのしげが寝過ごしてしまった。
 第1回の上映は、11時からなのだが、しげが目を覚ましたのは10時過ぎ。劇場は天神の外れにあるので、とても今から急いで出かけても間に合わない。私はもっと早くに起きていたのだが、ネットを見ていたりしていたら、時間の経つのをつい忘れていた。
 しげが泣き出しゃしないかと、ちょっとハラハラしながら様子を窺う。目が覚めるなり、挨拶もせずそのままトイレに向かうしげ(挨拶しないのはいつもだが)。俯いてショボンとはしているが、泣いてはいないようだ。
 トイレから出てきたところで、さりげなく「何時に出かける?」と聞く。
 ……返事がない(^_^;)。
 「2時の回に間に合うのでいいかな?」
 「……もう、見てる人がいるよね」
 「……うん」
 「どんな人がいるかな」
 「……さあ……」
 私になんと答えろと言うのだ(T∇T)。
 でもまあ、何とか心を落ちつけてくれてはいるようだ。考えてみれば、東京の方では既に公開済みなんだし、今回はそれほど「一番乗り」には拘らなくてもいいはずなのである。

 外は雨である。
 比恵から地下鉄に乗って、合間の時間をベスト電機のlimbに寄ったり福家書店に寄ったりして潰す。
 天神をうろつくときは地下街を利用することが多いので、殆ど傘を持ち歩く必要はない。今日もいつものデンでここまでは全部地下を通って移動していたのだが、外に出た時点で、ついうっかり傘を忘れていたことに気づいた。
 劇場のKBCシネマに行くまでには、ちょっと距離がある。時計を見ると、上映時間の30分前。徒歩で10分の距離だから、どこかそのへんの店に入って傘を買う時間は充分あるのだが、そんなことを言い出そうものなら、ただでさえ時間に遅れることを異常に気にするしげのココロが落ちつくはずはない。
 覚悟を決めて、雨の中、早足で劇場に向かう。雨といっても土砂降りではなく、小雨だったのが幸いした。濡れはしたが、ずぶ濡れで風邪を引くというほどではない。

 KBCシネマは、5、6年前までは本当にKBC(九州朝日放送。テレビ朝日系である)の建物内にあったミニシアターである。
 一階が品のいい喫茶店になっていて、そこでサンドイッチとコーヒーで一服してから映画を見る、というちょっとだけエスタブリッシュな(^o^)気分になる、というのが楽しみだったのだが、KBCの改装で劇場が潰されてしまった。
 映画館自体は存続して、真向かいの空地にプレハブみたいな建物を立てて、今はそこがKBCシネマになっているのである。座席はそう悪くはないが、ロビーがともかく狭く、あまり、エスタブリッシュとかゴージャス、という感じはしなくなっている。天神というよりは長浜に近く、地下鉄やバス停からも歩いて遠いので、あまり行き易くはないのだが、『スコルピオン』のように、ここでしかやらない、という映画も多いので、それなりに繁盛はしているようだ。
 ついた時にはちょうど1回目の上映が終わる少し前であったが、2、30人のお客さんがゾロゾロと出て来ていた。オジサンも中にはいるが、オトナのカップルや、大学生風の女性たち、概ね女性率が高い。でも、ダン・エイクロイド“一人”が目当てで来ている客はしげくらいのものであろう(^_^;)。

 映画『スコルピオンの恋まじない』。
 原タイトルは“The Curse of The Jade Scorpion”。
 “Curse”は普通、「呪い」って訳すんだけれども、「ジェイド・スコルピオンの呪い」じゃ、どうしたってホラー映画にしか見えないから、この邦題は正解。
 キャッチコピーの「しあわせの処方箋、教えます」ってのはハズシてるけど。
 
 1940年のニューヨーク。C.W.ブリッグス(ウディ・アレン)は、一流保険会社ノースコースト社に勤務している自称・腕利き保険調査員。まあ、決して二流ではない、という程度には事実で、社長のマグルーダー(ダン・エイクロイド)の信任も厚い。ピカソの盗まれた名画を見付け出したりと、最近は特に絶好調である。
 ところが、最近入社してきた同僚のベティ=アン・フィッツジェラルド(ヘレン・ハント)は直観に頼るブリッグスとは考え方が正反対の合理主義者。おかげで彼とは顔を見るたびに皮肉を言い合う犬猿の仲だった。
 ところがある日、二人は同僚のジョージ(ウォーレス・ショーン)の誕生パーティで、インチキ魔術師ヴォルタン(デヴィッド・オグデン・スティアーズ。米版『千と千尋』の釜爺!)のマコトシヤカな「ジェイド・スコルピオン(サソリのペンダントである)の呪い」によって催眠術をかけられて、「コンスタンチノープル」「マダガスカル」という呪文を耳にするたびに、恋に落ちてしまう関係になってしまった。
 ところがそれはヴォルタンの巧妙な罠。その日をから謎の宝石泥棒が世間を騒がせ始め、ブリッグスは犯人を捕まえようと奔走するのだが……。

 もちろん、実行犯はブリッグス。
 何しろホントに泥棒やってるんだから、指紋だの何だの次から次へと犯人の証拠が出てくるんだが、それをなんとか言い訳しようとどんどんデタラメなことを喋り出すアレンの芸が面白い。この言い訳芸、『何かいいことないか子猫チャン』や『OO7/カジノ・ロワイヤル』のころからのアレンの持ち芸なのだけれど、年を取ってもこの話芸だけは衰えない。ジョン・ベルーシ、チェヴィ・チェイス、ダン・エイクロイドたちも、これまでにこぞってこの「言い訳芸」を披露してくれているが、やはりウディ・アレンのそれが一頭地を抜いている。
 体技タイプのコメディアンが旬を過ぎると映画が作れなくなって行くのに比して、そろそろ70歳になろうというアレンが新作を連発できるのは、彼が基本的にスタンダップ・コメディアンだからだろう。
 「話芸」と言っても、もちろん面白い「間」を作るためには動きのキレは必要なわけで、催眠状態から正気に戻る切り替えの間などは絶妙で、この分だとまだまだ面白い新作を取ってくれそうな気配である。

 現実には、こんなに簡単に催眠術にはかからないものだろうが、それは映画のウソとして許容できる範囲。催眠術にかかっても、本人がイヤなことは絶対にしない、という事実は世間一般の常識になっていると思うが、ブリッグスにはどうやら泥棒願望もあるらしいので、その点はクリアーしている。
 パンフレットには心理学者の門前進氏が解説をつけており、それによると催眠状態に入っても、完全に記憶が欠落するわけではなく、「今、自分は催眠状態にあるんだ」という心は残っているそうである。どっちかと言えば、ブリッグスもベティも完全に自分の催眠中の行為を忘れちゃっているのが事実と反するのだが、そこに突っ込むと映画自体が成り立たないから、これもしょうがなかろう。
 じゃあ、催眠術で犯罪を犯させることは不可能かというとそんなことはなく、やはり門前さんの指摘によれば、現実に催眠誘導(「催眠をかける」という言い方はしないそうだ)を利用した事件はかなりあるんだとか。つまり、実際には「催眠誘導されてるとわかってるけどやっちゃった、やった以上は逃げるしかない」っ感じになるものなのかな。

 まあ、基本的には面白かったし、年を取っても決して説教臭い映画を作らないアレンの姿勢には共感を持つが、さすがに1935年生まれ、67歳のアレンに「中年の恋」を演じさせるのにはムリがある。後ろ頭のハゲはちょっとキツイよなあ。なんでもアレンは最初は監督に専念、主演するつもりはなくって、ブリッグス役はトム・ハンクスにオファーしたそうだ。けれど、まあ、あの人も忙しいことだし、それにオスカーを二回も取って、今更コメディを演じたくないという気持ちもあったのかもしれない。あっさり断られたそうだ。
 ダン・エイクロイドは、製作記者会見でこの映画に出ることになった理由について「今、この業界でアレンと組みたくない人間がいると思うかい?」と発言しているが、これって、ハンクスに対する皮肉かも知れない。ハンクスは『ドラグネット』でエイクロイドと組んだときはあまり気のない演技をしているから、もしかしたらこの二人、仲が悪いのかも。うまい役者だとは思うけれども、コメディアン時代のトム・ハンクスが好きな私としては、『ロード・トゥ・パーディション』のハンクスを見ていても、片岡鶴太郎がシリアス演技をしているような違和感を感じてしまうのである。いや、ハンクスは鶴太郎みたいにヘタじゃないけどさ。
 でも、ムリはあっても、ハンクスの主演である『スコルピオン』より、アレンの『スコルピオン』のほうが絶対に面白いだろう、と思う。お相手のヘレン・ハントはちょっと前ならフェイ・ダナウェイかメリル・ストリープあたりが演じたんじゃないかと思われるようなバリバリで押せ押せタイプのキャリアウーマン大女で、対抗するのがハンクスだと、普通に対等なヤリアイになってしまうのである。チビでメガネでハゲネズミのアレンが頑張るからこそ、画面上の面白さが出る。だから、「これを40代の頃のアレンで見たかったなあ」というのが正直な感想なので、見ている最中、私はできるだけアレンのハゲに心の中でカツラをかぶせて見ていた(^o^)。これからビデオ等でこの映画を御覧になろうとされる方にもそうすることをオススメする。

 ワキの役者も、みな好演。
 エイクロイドは『アンツ』に引き続いてのアレンとの共演。実はベティは社長のマグルーダーの愛人であるという設定。つまり、アレンとエイクロイドは今回はライバル関係にあるのだけれど、エイクロイドのこういう役柄は、観客から好かれても憎まれてもいけない微妙な演技が要求される。妻と別れてベティと一緒になろうと本気で思ってるけれども、離婚調停がなかなかうまくいかず、実は妻と別れたくないんだとベティに誤解されたら困るなあ、と眉を顰めている、善人と悪人の中間の役どころなのだ。これをエイクロイドは臭くなりすぎずにサラリと演じている。ラストでベティに振られて、「妻との協議を再開してくれ!」と慌てふためくあたりもうまい。
 ヘレン・ハントはちょっと大柄過ぎて、私の好みではないのだが、アレンと並ぶと「蚤の夫婦」的イメージが画面に横溢して、それだけで楽しくなる。
 ブリッグズにモーションをかけるローラ役のシャーリズ・セロン、なんでブリッグズはベティじゃなくて、こっちを選ばないんだと言いたくなるくらいの美女ぶり。
 ブリッグズが催眠から冷めるきっかけを作る親友、ジョージ役のウォーレン・ショーンは、『おかしな二人』でのハーブ・エデルマンかジョン・フィードラーあたりが演じた役回り。ホントにチョイ役なんだけれども、この人がいなきゃ、話が成立しないって役どころなのね。こういう役を設定できるかどうかで、その脚本家の実力が計れる。もちろん、アレンは一流である。

 まあ、ストーリーもオチもどこかで見たような、という印象はあるのだが、それは本作が「古きよきアメリカ」の都会派コメディだから。「ホントのニューヨークはこうじゃなかった」という批判は、こういう映画に関しては野暮というものだろう。

 思ったよりエイクロイドの出演シーンが多かったので、しげは大満足。映画自体も普通にいい出来だったし。アレンの老けぶりはやはりちょっとキツかったらしく、私が「あのハゲがなあ」と言うと、「ハゲよりアゴのシワが」と、ヒドイことを言う。演技よりもハゲだのシワだのを云々されるんだからアレンもかわいそうである。

 劇場で折りたたみ傘を200円で売っていたので、これを買う。しげはこういうときに絶対に傘を買おうとしない。どういう心理なのかよくはわからないのだが、傘を差すなんて重いし面倒臭いし、よっぽどの大雨でない限り、濡れた方がまだマシだ、という感覚のようだ。必然的に相合傘になるんだけど、そうすると照れて「アンタ一人で差してりゃいいよ、二人で入ってたら鞄やパンフが濡れるよ」なんて言うんである。女房一人を雨に濡らせて、カバンのほうが大事、だなんて「厩火事」みたいなマネが出来るかい。それに一人で傘差してたって、体でかいからカバンははみ出て濡れちゃうんだよ。
 幸いパンフは正方形で文庫よりちょっと大きいくらい、カバンの奥にしまえたので濡れずにすんだ。


 食事をどこでするかで相談、雨もあがってきたので、少し歩いて、リバレインの柳川屋で久しぶりに「櫃まぶし」を食べようということでまとまる。
 天神から中洲を通っていると、しげがレストランの前で立ち止まる。マクドナルドがロッテリアにいつの間にか変わっているのを見て、驚く。
 「うーん、ロッテもいいなあ」なんてことを言うので、「うなぎはやめたの?」と聞いたら、「あっ! うなぎ食べに行くんやった!」と叫ぶ。
 今、どこに向かって歩いてると思ってたんだ(-_-;)。

 柳川屋で特上の櫃まぶしを二人分。いつもはしげはうな重の方が好きなのだが、私があんまり「櫃まぶしは美味い」というものだから、今日は「あんたと同じもんでいいよ」。私の分も分けてやったから、しげは充分満足だろう。
 店を出る時に、しげ、カバンを持っていないことに気がつく。
 「持ってきてたの? じゃあ、映画館に忘れた?」
 「うん……」
 「じゃあ、今から取りにいくか」
 「いいと? また歩かないかんよ? 帰るの遅れるよ?」
 「別にいいけど? 休日だし。何がイカンの?」
 「アンタのことやけ、『遅くなるけん、先に帰る』とか言うかと思った……」
 「……あのな、そうやってオレを『自分モード』で勝手に極悪人に仕立てるの、やめてくれる?」
 ありがたいことにカバンは映画館で預かってもらってました。


 帰宅して、DVD『新八犬伝 辻村ジュサブローの世界』を見る。
 もうこの作品は超々々大好きだし、しげにもぜひ見てもらいたいと思っていたのだが、残念ながら、今、残っているのは、2年間の放送分のうち、わずかに第一回、第二十回(第一部最終回)、第四百六十四回(完結編)の三回分のみである。これでこの作品の面白さを伝えようってのはまあ土台ムリな話なのだが(なんたって、二十回のラストで丶大法師は八犬士を探す旅に出るのだが、次の回では八犬士はみんな揃ってて、法師は切腹して果てるのである)、なんとか間のストーリーなどを説明しながら見てもらう。でも反応は「私のうまれた年って、こんなのやってたんだあ」程度のもの。
 いや、その程度のものじゃなかったんだ、『新八犬伝』の面白さは。『八犬伝』の小説化、映像化、漫画化は数多いが、数々の脚色が施されているにも関わらず、この『新八犬伝』が最も原作の精神に忠実であり、かつ最高傑作であることを私は主張して憚らない。
 確かに、原作は勧善懲悪、因果応報の物語であるにも関わらず、脚本の故・石山透氏は、原作ではあえなく死んでいった悪人たち、網乾左母二郎や舟虫を最後まで死なせなかった。教条主義的正確の強い馬琴が『新八犬伝』を見れば、恐らく激怒したことだろう。
 しかし、石山氏は明確に「今、子供たちに何を教えるか」というイメージを持っていた。それは氏が、トコトン「言葉」に拘っている点に現われている。今、わずかに残る『新八犬伝』を見ても、とても小学生には理解不能ではないかと思える言葉が出てくるのに驚く。
 例えば、元・金腕大助こと丶大法師は、最終回で僧侶の身から元の武士に戻る。俗世の人間が僧になることは「出家」と言うが、その逆は何と言うか? 「還俗」というのである。私がこの言葉を知ったのは、まさにこの番組であったし、それ以外にも数限りない言葉をこの番組から学んだ。
 石山氏は脚本を書くのに、決して原作の「難しい言葉」を「優しい言葉」に言い換えなどしなかった。その代わりに、説明を入れまくったのである。「還俗」という言葉も、最終回で初めて出たのではなく、その前の回から坂本九ちゃんの懇切丁寧な説明があり、それがまた次の回で繰り返されたという経緯がある。
 つまり『新八犬伝』は「復習つき」学習人形劇だったのだ。
 何度も繰り返される言葉は確かに見ていてクドさを感じるものだ。しかし、それを補って余りあるのが坂本九の明朗で軽快なテンポの「語り」であった。難しい言葉でも、九ちゃんの話術でかたられるとすんなりアタマに入っていったのだ。
 会話していても分るのだが、この『新八犬伝』を真剣に見ていた世代と、それ以下の世代とでは、その語彙力において天と地ほどの違いがある。後に原作の馬琴の『南総里見八犬伝』を読んで、その文が古文であるにも関わらずスラスラ読めることに驚いた。既に、原典を読むための素養が、小学五年生のころの私のアタマにインプットされていたのである。
 だから私は教育に関して、「子供には難しいんじゃないか」という発想は持たない。NHKはもう一度『新八犬伝』をリメイクすべきだ。ただ九ちゃんの代わりをする語り手がいないことが一番のネックなんだが……。
 DVDには『真田十勇士』第一回、第四百四十三回も収録。
 出演者の名前を見ると、その豪華さに驚く。名古屋章、松山省二、岸田森、三谷昇、河内桃子、中村恵子、、里見京子……。語りはアナウンサーの酒井広から熊倉一雄に途中から代わっている。このことも記憶にあるけれど、前番組の『新八犬伝』の九ちゃんの楽しい語りがいきなりアナウンサーの説明口調に代わったんだから、当時は随分腹が立ったものだった。そのあたりのことが原因で変更になったのじゃないかな。
 懐かしくてすっかり見入ってしまったけれど、惜しむらくは『新八犬伝』の主題歌『仁義礼智忠信孝悌』(坂本九)と、『真田十勇士の歌』(村田英雄)が収録されていない。アレは音源が残ってるはずなんだがなあ。(2003.3.16)

2002年02月15日(金) ニンニクの家/映画『がんばれ!ジャイアン!!』/『キノの旅V』(時雨沢恵一)ほか
2001年02月15日(木) 携帯綺譚/『雨柳堂夢咄』5巻(波津彬子)ほか


2003年02月14日(金) いろいろあらあないろいろね/映画『火山高』/映画『黄泉がえり』/『爆笑問題とウルトラ7』(爆笑問題ほか)

 バレンタインデーである。
 いやね、別にどーでもいいことを日記の前置きにするのも何なんだけれど、まあ、マンガでもよくある季節ネタと言うことで。
 ホント、今年はいくつ貰えるかなあ、なんて気にしてるわけじゃないですよ、糖尿だし、今更なにか浪漫が生まれるはずもありませんし(当たり前や)。
 芝居の練習に顔を出してれば、それなりに劇団のメンバーの女の子から何個か貰えたりするんだけれど、たまにしか行かなくなっちゃったから、今年は多分なんもなし。
 しげからは二、三日前にバイト先の人から貰ったチョコを横流しして貰った(^o^)。
 ウチの職場ではそういう「虚礼」は廃止されてるので(そういう言い方されると、なんか違うよな、って思うけど)、やっぱり一個もない。普通の会社とか学校では、マンガみたいに「おまえ、いくつ貰った?」とか男どうしが聞き合うような風景がホントに展開されてるんだろうか。私ゃそんな光景に出会ったことってないんだけど。
 バレンタインネタのマンガで真っ先に私が思い浮かべるのは島本和彦の『燃えよペン』の炎尾燃vsうかつ賢二のバレンタインチョコ対決だが(^o^)、マンガ家さんとか有名人じゃなきゃ、あんな袋いっぱいの勝負なんて出来ないよなあ。チョコの数で男の価値が決まるのだとしたら、私の最盛期って、あの子とあの子とあの子と……から貰ったのって、もう覚えてないくらい昔じゃん! 二桁行ったことないってのは覚えてるんだが(^_^;)。


 うかつなことに、『明日のナージャ』のテーマソングを歌っていたのが本田美奈子だってことに気が付かなかった。新曲発表会に本田美奈子が出てる記事を見て、初めて知ったのである。……声、変わってない? 昔はあんなに透き通るような声では歌ってなかったと思うけど。
 けれど、本田美奈子、とても35歳には見えないなあ。フリフリの衣装を来てるからってことじゃなくて、表情が明るいんだよねえ。それにしても一時期はアイドルの頂点を行ってたのがふと気がついたらしばらく見なくなってたの、どうしてなんだろ? 特にスキャンダルに巻き込まれたって記憶はないんだが。
 『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』の失敗が原因だろうか?(^o^)


 仕事帰りの車の中で、しげに今日の予定を聞いたら、「今日は仕事休みだよ」と言う。
 「だったら映画見に行こうか? 久しぶりに」
 「いいけど、どこに何を見に行く?」
 「今日は特に何を見ようって調べて来なかったからなあ。行ってから決めるしかないなあ。どこに行く?」
 「どこがいいと?」
 「そりゃ、キャナルか、粕屋か大野城か……あ、トリアスもあるじゃん!」
 「で、どこにすると!?」
 「オレがここがイイって言っても、『キャナルは車が停めにくい』とか文句言うじゃん! おまえが決めろよ!」
 「わからんよ!」
 「じゃあ、トリアス!」
 優柔不断なくせに、しげは私が何かを決めた場合、あとになって必ずブツブツ文句言うので、ホントはイニシアチブを持ちたくはないのだが、そのまま決めないでいると家に帰りついてしまうので(^_^;)。
 でもこれがあとで大変な事態を引き起こす引き金になろうとは……。

 トリアス久山に着いて、ヴァージンシネマで映画の時間を調べる。久しぶりだし、二本くらいハシゴしてみたいが、連続で見るとなると、ちょうどいいものがなかなかない。メシを食う時間だって必要だ。
 散々悩んで、『火山高』と『黄泉がえり』を見ることに。
 しげが「腹減った」とうるさいので、焼肉を食う。その間もしげ、「時間に間に合うかな、急いで食べんといかんかな」とうるさい。映画が始まるまで1時間半もあって、映画館は目と鼻の先だってのになあ。
 焼肉二人前くらい、10分かそこらで食い尽くすだろう、おまいは……と思っていたら、頼んだ赤味肉二人前、いつもはペロリと食い尽くすのを珍しく5枚ほど残している。
 「どしたん? 残して」
 「今度の公演のためにダイエットしようと」
 ……だったら、肉食うこと自体やめりゃいいんじゃないのか。山盛り二人前の肉の切れ端を五枚だけ残して、どれだけのダイエットになるんでしょうかねえ。


 映画『火山高』。
 吹替え版には林原めぐみが出てるってことだったので、そちらの方を見てみたかったんだが、やってたのは字幕版のみ。
 事前情報として聞いていたのは、「学園抗争ものであること」「日本のマンガに影響を受けていること」の二点だけ。韓国映画自体、これまでに数本しか見たことがないから(例の『桑の葉』とかね)、正直な話、結構タルイ出来なんじゃないかと思っていた。
 ところがどうしてどうして、テンポはいいわ、アクションはもちろんCG処理に頼っているけれども、決して「ムリ」はしていない。あくまで「体技」をベースにして、ワイヤーアクションを多用、「少林サッカー」のように「アニメでもようやらんわ」みたいな過剰な演出を避けて、「やりすぎ」に陥るギリギリの線で留まっている。だからギャグがバカバカしくなる寸前で抑制されて「効いて」いるのだ。

 強大な「気」を持つがゆえに、これまで八つの高校を退学になってきたキム・ギョンス(チャン・ヒョク)。彼はついに陰謀渦巻く「火山高」へとやってきた。
 火山高ナンバー1、「松林一鶴」の異名を持つソン・ハンニム(クォン・サンウ)。
 ハンニムの地位を狙う重量挙げ部主将、「無情魔刀」のチャン・リャン(キム・スロ)。
 火山高の平和を望む剣道部の美しき女主将、「氷玉」ユ・チェイ(シン・ミナ)。
 それを手にした者は乱世を平定するという伝説の書「師備忘録」を巡って、抗争は激化、ハンニムは拘束され、穏健派の校長チャン・オジャ(ユン・ムンシク)は毒茶の犠牲となる。
 しかしそれらは全て、「師備忘録」の秘密をわが手にしようとする教頭チャン・ハクサ(ピョン・ヒボン)の罠であった。
 火山高の実権を握った教頭は、自らの手ゴマとしつつも今や用ナシとなったチャン・リャンを葬るため、学園鎮圧教師五人衆を呼ぶ。そのリーダーの数学教師マー・バンジン(ホ・ジュノ)は、かつてキム・ギョンスと浅からぬ因縁のある男だった……。

 多分、今の若い人たちはこの映画を見て『覚悟のススメ』や『ジョジョの奇妙な冒険』あたりを連想するのだろう。
 実際、キム・テギュン監督がそれらのマンガを読んでいた可能性は高いが、そのストーリーライン、キャラクター設定を子細に見ていくと、これは「学園抗争マンガ」というより、「忍者マンガ」のそれであることに気がつく。
 意識せずして、そのルーツに、横山光輝の『伊賀の影丸』『仮面の忍者赤影』、更には山田風太郎の『忍法帖』シリーズを見出すことができるのだ。最近の学園マンガをあまり読まない私が「ノッてしまった」のは当然だったのである。
 それにヒロインのシン・ミナの「男装の麗人」風の凛々しさ。美しさもポイントは高い。出演者の殆どが実年齢が二十歳以上なのに、彼女だけが設定通りの現役女子高生。いやあ、萌えるわ(萌えんなよ)。

 
 続けて映画『黄泉がえり』。
 梶尾真治原作のSF小説の映画化。3週間限定での公開という話だったけれど、大ヒットしてるらしくて、続映が決定。そう言われると、確かに9時過ぎのわりには客が十数人入っているのは多いほうなのか。
 原作は映画を見たあとに読むつもりなので、ほぼニュートラルな状態で映画を見る。これも、事前情報は「死者がたくさん蘇える」「草��剛と竹内結子が出ている」くらいしか知らない。

 もちろん、それだけの話ではなかったのだが、残念ながらこの映画にはいろいろな「仕掛け」が施されているので、ストーリー紹介が即ネタバレになっちゃう危険があるので出来ない。それでもまあ、かいつまんでなんとか説明していくと……。
 九州・阿蘇。
 ある夜を境に、「この地方だけで」死者が生前の姿のまま蘇えるという怪奇現象が起こる。
 厚生労働省の川田平太(草��剛)は、調査に当たるが、彼が出会った「家族」たちは、まさしく信じられない奇跡にみな一様に涙を流していた。
 58年前に行方不明になった7歳の子供が帰ってきた老婆。
 ガンで死んだ老妻が帰ってきた夫。
 暴力沙汰に巻きこまれて命を落とした夫が帰ってきたラーメン屋の女主人。
 イジメにあって自殺した少年は、自分自身の葬式の式場に現れた。
 娘の出産で命を落とした母親が、年老いた夫と美しく育った娘の元に帰ってくる。
 「現象」は次々と起こりつづける。川田はそれらの家族から話を聞くうちに、ある原因に思い至る……。

 通常、こういった「蘇えりモノ」は主人公が一人、というのが定番なのを、本作が「集団現象」として描いたのは新機軸。ただ、これはやはり諸刃の剣で、設定、演技者の違いで、それぞれのエピソードに出来不出来がある。
 もっとも秀逸なのは、歌手・RUI(柴咲コウ。もっともこの映画の中ではあくまで歌手「RUI」だ)の話なんだけど、どこがどういいかもネタバレになるんで書けません。でもラストのRUIの歌は、これだけでも映画を見てよかったと思えます。
 イジメ少年のエピソードも、演じている市原隼人が実に自然な存在感を出していて胸を打つ。
 反面、臭い芝居がマイナスとなって弱くなっちゃってるのが、要にならなきゃいけないはずの、草��剛のエピソード。草��人気でヒットしてるんだろうから、あれでも感動した人には悪いんだけど、こいつが徹底的にバカで卑怯者で、感情移入が全くできないダメ男なのである。こういうやつって(だからネタバレになるから説明できないんだよう)見てるだけで不快感、感じませんか。まあ、もう少しうまい俳優が演じてればまだマシだったんだろうけれど、からっペタだからなあ。
 竹内結子は『リング』の頃は「この人伸びるんじゃないかなあ」と期待してたんだけれど、なんか普通のオバサンっぽいお姉ちゃんになっちゃったね。でも口元がメグ・ライアンに似てるから(異論は受け付けません)、「癒されたい」男でファンになったやつって、多いんじゃないかなあ(^o^)。
 でもまあ、幕の内弁当みたいな造りになってるから、好きなオカズが二つ三つあれば、合成着色料使いまくりの福神漬けが入ってても許せるってところかね。


 映画館を出る時に、チラシを取っていこうとしたら、しげが私を無視してサッサと出ていこうとする。夜も遅いし、しげに先に行かれてしまったら、私は駐車場のどこをどう歩いて行けばいいか、まるで見えないのだ。
 また、私の視力のことを忘れているな、コイツ、と思ったらカッとなり、また口ケンカになってしまった。いい加減、こういう下らないケンカなんてしたくはないのだが、その原因を作ることをしげがどうしてもやめてくれないのだ。情けなくて涙まで出てくる。どうしてこいつは自分から結婚したい、私の世話をさせてくれと頼み込んできておきながら、私をないがしろにしてコバンザメのようにたかることしかできないのだろう。
 しかも記憶力に欠陥のあるこいつは、私が怒る理由について何度も何度も説明し、そのたびに納得して謝るくせに、次の日になると「怒られた」事実だけを覚えていて、自分がどれだけワガママだったかを忘れて、同じ失敗を繰り返すのである。
 ああ、しかしこれがキャナルだったら、しげがサッサと先に行っても駐車場までは明るいから、こんなに激昂することもなかったのだ。
 じゃあ、悪いのはトリアスに行こうと決めた私か。いや、確かに私が悪いのはその通りなのだが、それは映画を見る場所を決めたことではなくて、しげに「期待」をしてしまったことなのである。気配りが出来ないのはもう諦めたから、せめて人を無視するのだけはやめてもらえないか。それとも、その程度の期待もさせてもらえないのか。

 鬱である。

  
 爆笑問題ほか『爆笑問題とウルトラ7』(新潮文庫・460円)。
 以前、『対談の七人』のタイトルで出された単行本の文庫化。これ、単行本で買ったかどうか思い出せないので、改めて感想を書く。もし以前書いたことがあるような内容があっても、そこんとこしどうかご容赦願いたい。最近、ホントに記憶力落ちてんのよ。
 原タイトルは『荒野の七人』か『黄金の七人』あたりをモジったと思しいが、読者には意図が伝わりにくいと判断されたのだろう、あっさりと改題。けれどコレ『ウルトラセブン』のモジリのつもりなのかね。やっぱり意図は伝わりにくいと思うけど。
 で、その七人というのは、なぎら健壱・立川談志・淀川長治・小林信彦・橋本治・山田洋次・ジョン・アーヴィング。雑誌掲載時に読んだことがあるものもあるが、殆どが初読。
 コメディアンで番組のパーソナリティーをしている人は多いから、みんながみんな話し上手、聞き上手かというとそうでもなくて、ハッキリ言っちゃえば、爆笑問題の二人は、対談の相手としては頗る不向きである。太田光は特にそうだが、聞きどころと言うかインタビューのツボをことごとく外してしまうのだ。
 何と言うか、中学生が学校紹介ビデオを制作することになって、校長先生にインタビューするんだけれど、話を膨らませようとして「校長先生の趣味はなんですか?」とか関係ないことを聞いちゃうようなイタさね、それがあちこちに散見しているのである。
 じゃあ、この対談本がつまらないかというとそんなことはなくて、余りにこの二人が役立たずなものだから、ゲストがみんなホスト役になってしまうという逆転現象が起きる。何も聞かれなくても喋ってやったり、爆笑問題の方に質問したり説教し始めたり(^o^)。
 立川談志と小林信彦は、多分、本人同士は仲が悪いと思うのだが、同じように爆笑問題を「見限って」いるのが面白い。
 談志師匠は、モロにストレートに「金、溜めとけよ」である。落ち目になったら、「俺のように教祖みたいになっちゃえばいいや」なんて言ってるけど、内心、なれやしねえ、と思っているから「金溜めろ」発言になるのである。意地の悪いオッサンである。
 小林さんの「芸が本当にいい時というのは短いものですよ。違いますか?」という質問に、太田光、「僕もすぐ見切られるなと思います」と受ける。既に見切ってるからこそ、前記の質問になってるってのに、気づいてないんだなあ。更に小林さんは「そういうふうに受けとるっていうのは、やっぱりあなたのキャラクターだよね」と否定はせずに受け流すのだから、全く陰険なオッサンである。

 テレビを余り見ない私には、「爆笑問題の旬」がいつだったのかはよくわからないが、『ボキャブラ天国』の初期の頃の爆笑問題には笑わせてもらっていた。今となっては冗談のように聞こえるかも知れないが、私は太田光に日本のバスター・キートンになるべき資質を見ていたのである。それは当時、太田光が自らを全く語らず、またニコリともしなかったからだが、今の彼は実に自らをよく語る。そういうコメディアンに対して、「普通の客」は全く笑いはしないものだ(だから今、爆笑問題の二人を見て笑っているのは普通の客ではないのである)。
 この二人が未だに「売れている」ように見えるのは、スタンピード現象と同じで、みんなが「売れている」と思いこんでいるからだろう。この波に乗って、『笑っていいとも!』のような長寿番組に腰を落ちつけることができたなら、あと10年は持つんじゃないかと思うが、持たなかったからってどうでもいい位置に爆笑問題がいることがちょっとツライだろうな、と思うのである。タガが一つ外れると、いつの間にかレギュラーが一本もない、というエアポケットに落っこっちゃう危険性を孕んでいるからだ。

 なんだかゲストのことに殆ど触れてないけどね、さっきも書いたとおり、この二人がゲストにいかに「あしらわれているか」、そのオタンチンぶりを書いてったらキリがないのよ。興味を持った人は各自、中身については読み解いて下さい。

 ただ、「『注釈』が必要だよなあ、これは」と思った箇所がいくつかある。いや、小林さんとの対談の部分じゃないです。だからねー、あの「韜晦」に全部注釈を付けてたら、もう規定枚数なんかふっとびますって。少しは「分る奴には分る」って書き方、控えてくださいよ、小林さん(T∇T)。
 一つは、216ページで、山田洋次監督が「シャレた映画」として紹介している、ウディ・アレンの映画について。
 「昔、東宝で作ったスパイ映画があって、三橋達也さんなんかが出てたのかな。ウディ・アレンが、そのスパイ映画を買いとって英語に吹替えたんだって。人に聞いた話だから正確じゃないけど、でたらめな台詞にしたり、オカマの言葉にしたり」
 と、語っているのだけれど、タイトルを紹介していない。なんで対談の最後にでも注釈を付けないかなあ。多分、編集者は「爆笑問題」のファンではあっても、映画のファンではないのだろう。出版関係者の無知ぶりって、相当ヒドイって聞くし。
 私も未見なのだが(だって日本未公開だもの)、この1966年制作の「ウディ・アレン監督デビュー作」である映画は、“What's up,Tigar Lily?”。
 元になった映画は、谷口千吉監督作『国際秘密警察・鍵の鍵』。この映画自体は、「トンワン王朝の転覆を企むテロ結社“闇”と、その組織に成り代わろうとする国際ギャング団と、国際秘密警察のエージェント・北見次郎(三橋)との三つ巴の争いを描くもの」だそうだが、これをウディ・アレンは、「エッグサラダのレシピをめぐる諜報戦(^o^)」に仕立て直してしまったのだ。しかも追加シーンまで勝手に撮影して。
 以下に、キャスト比較表(役名に注目!)を挙げるので、これがいかにデタラメなものか、参照して頂きたい(^^)。

 三橋達也(北見次郎→フィル・モスコーウィッツ<インターポール・エージェント>)
 黒部  進(蔡  何 青→ウィング・ファット<笑うギャング>)
 中丸忠雄(ゲ ゲ ン→シェパード・ウォン<麻薬を取り引きするギャング>)
 浜  美枝(ミ ー チ ン→テリ・ヤキ<謎の女>)
 若林映子(白   蘭→スキ・ヤキ<謎の女>)
 中村  哲(ス リ タ イ→外国の首相)
 堺左千夫(稲   川→ごろつき)
 天本英世(沼   口→バーテンダー<蛇の調教をするギャング>)
 <追加キャスト>
 ジョン・セバスチャン(本人)
 ザル・ヤノフスキー(本人)
 ジョー・バトラー(本人)
 スティーブ・ブーン(本人)
 ウディ・アレン(ナレーター/案内役/声)

 もう一つ、「訂正」の必要があるな、と思ったのは本文ではなく、解説の花田紀凱がトンチンカンなことを書いている箇所である。
 爆笑問題の魅力を語るところで、「爆笑問題は品がいい。関西系のお笑いは下品だ」とか、「爆笑問題は知性がある。紳介は知性があるフリをしてるし上岡龍太郎は知性を露骨に態度に出すが、爆笑問題は知性を表に出さない」とか、「爆笑問題は東京人である。小林信彦さんが仰ってるように、東京生まれのぼくには下品な関西弁だらけのお笑いはしっくりこない」などの発言のデタラメさである。
 爆笑問題に知性はないし(花田紀凱よりははるかにあるのは間違いないが、タモリやビートたけしの比ではない)、本文中にもあるが、小林信彦が見限っているのは漫才ブーム以降の関西であって、それ以前の関西は全く質が違うのである。小林さんは以前は新幹線で漫才を見に行くほどの関西ファンだったのだ。花田さんは『日本の喜劇人』で小林さんが藤山寛美をフィーチャーしていることも知らないのだろう。
 私も最近の関西ギャグは全然つまらないが、東京人の傲慢を体現している花田さんの暴言には鼻白む思いがする。
 それに太田光は東京人ではなくて埼玉人だよ(^_^;)。(2003.3.14)

2002年02月14日(木) 夫でも義理チョコ。……夫だから?/アニメ『七人のナナ』第6話/『金田一耕助の帰還』(横溝正史)ほか
2001年02月14日(水) だから初心者なんだってば/『わが師はサタン』(天藤真)


2003年02月13日(木) 絆創膏綺譚/『逆説の日本史7 中世王権編』(井沢元彦)/『魔法使いさんおしずかに!』1・2巻(竹本泉)ほか

 NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』に出演中の歌舞伎役者・市川新之助に隠し子がいたことが発覚。
 相手はTMネットワークの木根尚登プロデュースで、サッポロビール「夏の海岸物語」やP&G「ウィスパー・サイドガード」のCMにも出演していた元歌手の日置明子さんだって。全然知らないな。
 記者会見で新之助さんが正直に「僕の子供です」と認めてる様子がテレビに流れてたけど、あの額のバンソウコウはなんなんだ。そっちのほうが気になるぞ。。
 なにしろバンドエイドみたいにデカイものじゃなくて、随分小さいのである。ニキビだろうか。あんなに小さいんなら、別につけなくてもいいんじゃないかと思うが、小さくても赤黒くなってるとか、うっかり潰してポチになってるとか、ともかく地肌のままで人前に晒すことだけはは絶対にしたくない、という強力な意志があのバンソウコウには込められているのであろう。役者生命をあのバンソウコウに賭けているのである。凄いぞ歌舞伎界。
 でもすぐに剥がれ落ちそうだよな(^o^)。
 新之助さんの答弁が今一つ要領が悪かったのは、バンソウコウが取れやしないかと気をとられてたせいじゃないかと思うが、いかがですか。
 え? バンソウコウのことばかりでかくし子についてはどう思うかって?
 そんな、知り合いでもない他人の家に、ガキが何人いるかなんて、そんなことに貴方、興味持つんですか。


 CS日本映画専門チャンネルで安彦良和監督作品『クラッシャージョウ』を見る。
 公開当時、松竹映画始まって以来の前売り販売を記録したにも関わらず、いざフタを開けてみたら前売り買った人間しか劇場に足を運ばなかったというイワクつきの作品だ。
 これを見て、「高千穂遙は『SFの定義は……』とかウンチク傾けてるくせに、できたのはコレかよ」と文句をつけるファンもいたけれど、高千穂さんによれば『ジョウ』はSFでも「スペオペ」なんで、いい加減な部分があってもいいらしい。だからって、「琴座宙域」なんて言い方するなよな。宇宙に出れば星座はバラバラになることくらい、小学生でも知ってるぞ。
 高千穂さんのテキトーなところ、『ジョウ』についてはあまりうるさく言わないくせに、『ダーティペア』劇場版は「SFじゃない」と怒ってたりしてたんだよ。あれはスペオペじゃなくてハードSFだとでも言うつもりかね(^_^;)。
 でも悪態ついてもSFかどうかを抜きにしても、『クラッシャージョウ』はかなり、面白い。それは本作も含めて、『ジョウ』シリーズがSFであるとと同時にミステリとしての構造も持っているためで、「エレナ」の正体が明かされるのもかなり後半だし、当然マーフィーパイレーツの背後には「黒幕」がいるのである。ラストのジョウの黒幕への尋問は、さながら遠山の金さんか多羅尾伴内である(明智小五郎とか言ってやれよ)。
 主人公が事件に巻き込まれた後、探偵役を務めるようになるこの形式、読者や観客をぐいぐい引き付けるものだから、今ではライトノベルの多くが採用している。本格ミステリほどにはトリッキィな印象はないけれど、「謎」がマクガフィンになっていることは事実なのだ。『スレイヤーズ』の「すぺしゃる」もこのパターンを使うことが多いよね。

 それにしても、ライトノベルがこれだけ氾濫している現在の眼からは、高千穂遙の作品がどうして映画化にまで至ったのかピンと来ない向きもあろう。
 答えは簡単、「ほかにヤングアダルト向けの軽いSFがなかったから」。
 いやホント、80年代のスペオペって、高千穂遙の『ジョウ』『ダーティペア』に、野田昌宏大元帥の『銀河乞食軍団』くらいしかなかったんだよ。アチラには『キャプテン・フューチャー』や『レンズマン』シリーズのようなスペオペの伝統がちゃんとあるのに、日本人はなぜかスペオペだけは書いて来なかったからねえ。ジュブナイルでならその例もあったんだけれど、「オトナのおとぎ話」としてのスペオペは、やっぱり『スター・ウォーズ』ブームを待つしかなかったのだ。
 高千穂さんが『ジョウ』の新作を書かなくなって随分経つ。『ダーティペア』も『FLASH』になったかと思うとこれも中断した。性格は悪いが、高千穂さんの書くものは間違いなく面白いのだ。新装版も出してるんだし、このへんで新作書いてくれよう。頼むよ先輩(大学が同じなんである)。


 井沢元彦『逆説の日本史7 中世王権編』(小学館文庫・630円)。
 井沢さんの「言霊論」は、おおいに首肯できるのだが、何かにつけ「憲法を改正して、自衛隊を軍隊として認めよ」と主張するのはどうにも頂けない。
 それは別にエセサヨク的な絶対平和主義を主張したいからではなくて、井沢さんの「言霊論」に納得しているからである。
 「コトバ」が実体を規定するのが日本人の伝統であったのなら、「自衛隊」を「軍」にしちゃったら、自分から「戦争」始めちゃうでしょう。「軍」って、「いくさ」って意味だから。「いや、これからの日本は言霊に振りまわされてはいけない」、と井沢さんは言いたいのかもしれないけれど、千年以上も残って習俗化し、日本人の意識の底に染み付いてる感覚が消え去るわきゃないよ。
 「自衛隊」が「軍」になったら確実に暴走するね。侵略戦争起こして平気でいるよ。だって「軍」なんだもん。そうなったら井沢さん、責任取れるの?

 今巻は「足利幕府と南北朝」編。足利尊氏の安易な平和主義が、いかに戦争を拡大させていったか、という考証には説得力がある。だからと言って、それをストレートに現代に重ね合わせようとする姿勢もまた安易だとは思うが。
 「過去の歴史に学んで現代を見る」という行為を否定しはしないけれど、それは歴史研究家の姿勢じゃなくて、政治家の態度なんだよね。「その時代の感覚」はそう簡単に現代に流用できるわけではない。わずか10年、世代が違うだけで意志の疎通ができないことだってあるんだから。時代の分析をしてくれるのはいいけれど、「だから現代の政治は」みたいな語り方をするのは誤解を生じさせるよ。作者自身、「昔と今とでは常識が違う」と幾度となく主張しているくせに、どうしてこう自己矛盾を起こすのか。
 これまで省みられることの少なかった足利義教についてスポットライトを当てる視点はいいんだから、青島幸男と比較してどうのって言うのはやめようよ。青島幸男は確かに政治家なんだけれども、足利義教は「政治家」じゃないんだから。そんな言葉で呼ばれたことはないんだから、言霊信仰から言えば、あくまで義教は「将軍」なんである。


 永井豪原著作・セクシーファンタジー・ライティングスタッフ作『永井豪ショッキングエッチコレクション』(講談社・1050円)。
 説明はいらんな、タイトル通り、永井豪のマンガの中からエッチなシーンばかりを抜き出して、解説を加えたもの。
 例えば、SMシーンの解説に、「SMというと特殊な世界のようにとらえていることも多いかと思うが、人間は誰しも多かれ少なかれSとMの部分を持っているものだ」とか書いてあるけど、そんな解りきった駄文にページを費やすくらいなら、もっとエッチシーンを思いっきり収録してほしいものだ。特にカラーページが全くないのがなんとも残念。
 でもイラストだけにしちゃうと、原著作の権利が発生して、使用量がバカ高くなっちゃうんだろうなあ。文章がついてれば、「引用」ってことでタダだもんね。
 ともかくこの本は十兵衛の、菊ちゃんの、法印大子の、女蛮のママの、弁天ゆりの、けっこう仮面のエッチシーンを楽しめばそれでいいのだが、巻頭の永井豪インタビューで、「『ハレンチ学園』がなぜ叩かれたか」についての作者自身による分析は、マンガ表現を考える上では必読のものではなかろうか。
 永井豪は性を描いたから批判されたのではない。「学校」という権威をコケにしたから叩かれたのである。それを性の問題に捻じ曲げるというヒレツなことを当時の親たちは錦の御旗のようにして行った。
 おかげで未だに日本の学校はどこもかしこも実体のない「権威」だけで運営されている。少年犯罪の多発の主たる原因はマスコミの「煽り」だが、親や教育期間に原因があるとすれば、まさしくその権威主義にあると言えよう。で、集団が構成されれば、そこにはどうしたって「権威」が生まれてきてしまうものなのである。
 やっぱり学校制度廃止しようよ。教育はネットで自宅学習する形式にした方が(『21エモン』だね)ずっと社会はマシになるって。


 マンガ、竹本泉『魔法使いさんおしずかに!』1・2巻(完結/エンターブレイン/ビームコミックス・各998円)。
 幻の(^o^)竹本泉初期作品がカラーページ完全再録で復刊。
 タイトルはアラン・ドロン主演の映画『お嬢さん、お手やわらかに!』をモジったものか。『あおいちゃんパニック!』のすぐあとの連載で、しかも当初はアニメ化を前提としていたとか。
 な、な、な、なんでアニメにせなんだか! 凸(`0´)凸 ムッキー!
 何度も書いてるが、アニメ業界は竹本泉を無視しすぎだと思うんである。
 少なくとも『さよりなパラレル』と『ねこめ〜わく』は絶対アニメ化して歴史に残すべきだと思うがな。
 このときプレゼンで勝って見事アニメ化されたのはあの大島やすいちの『は〜いステップジュン』だそうな。そんなもう誰も覚えてないような(私ゃ単行本持ってるが)アニメ作るよりどうして竹本さんを……(T∇T) ウウウ……。

 クルーリーコーン村に引っ越して来た13歳の少女・スウと、イラストレーターの叔父さん・フレッド(当時はまだ「挿し絵画家」と言ってたのね)。無精者の叔父さんの世話をするのに飽きちゃったスウは、お隣りの美人、エリーと叔父さんを結婚させられないかと画策する。けれど叔父さんは、昔、何かツライことでもあったのか、美人が大嫌い。スウの作戦はいつも失敗してしまう。
 ところがあるときスウは偶然、エリーの秘密を知ってしまう。なんとエリーの正体は仙女だったのだ!
 しかも村にはどうやら悪い魔法使いが住んでるらしくて、動物がトンネル掘って銀行を襲おうとしたり、トロールを操って金銀財宝をせしめようとしたり、アヤシイ出来事が次から次へと起きる。エリーの協力で、スウは悪い魔法使いの正体を突き止めるのだが、それはなんと……。
 そんなこんなで大騒動に巻き込まれていくうちに、スウは帰国した両親(考古学者で世界中を飛び回っているのである)のもとに引き取られることに。楽しい仲間たちともお別れに!?

 初期作品だけに、ストーリー展開は途中であっちゃこっちゃふらついてる恨みはあるものの、竹本キャラのオリジンがあちこち顔を出しているのが楽しい。
 主役の働く元気少女・スウはもちろんのこと、エリーが仙女のくせにテレビの昼メロ好きって設定も「竹本キャラの美人はみんなどこかヘン」の基本に忠実。ってどんな基本なんだ。
 そしてこれが初登場だろうな、ワーリー教授こと、ピーター・カッシング!(似てないけど)善人なんだか悪人なんだか分らないキャラを毎回好演してるんだけれど、今回はどちらかというと映画『グレートレース』のフェイト教授(ジャック・レモン)みたいな役回り。ということは、助手のトゥローがピーター・フォークか(^o^)。マヌケでトンマでいいコンビなんだよ、この二人。
 絵柄が今と全く違っちゃってるので、描き下ろしのイラストはないけれど、なかがきとあとがきはいつも通りふんだん。竹本ファンならずとも、これは必読の一冊、いや二冊だよん。優しいお父さんはムスメさんの情操教育にどうぞ(^o^)。(2003.3.12)

2002年02月13日(水) たくさん書いてるけど半日は寝ている(^^)/『ギャラリーフェイク』24巻(細野不二彦)ほか
2001年02月13日(火) 明日寂しい思いをする人は読まないで下さい/『コロンブスの航海』(J.P.チェゼラーニ)ほか


2003年02月12日(水) ラブラブブラブラ/『逆説の日本史6 中世神風編』(井沢元彦)/『バロム・1』1巻(さいとう・たかを)ほか

 本日、2月12日はブラジャーの日だそうだ。
 以下、「今日は何の日」ってサイトからの引用。

 「1913年のこの日、アメリカのマリー・フェルブ・ジャコブがブラジャーの特許を取りました。これはハンカチ2枚をリボンでつないだものだったそうですからビキニの水着みたいなものですね。
 ブラジャーの普及というのは女性の社会進出と連動しています。お家にいる分には別に必要のないものなのでしょうが、仕事をするとなると何かで押さえておいた方が楽。でもコルセットはきつい、ということで、これに代わる下着として考案されたものです。
 しかしマリーのブラジャーは当時はなかなか売れず、1920年代になってからようやく人気が出てきました。(実際に売れたものはコルセットの上だけぶっ切ったもの。)
 日本国内でブラジャーが売れ始めたのは戦後のことです。
 当初輸入物のブラジャーが大量に流入してきたのですが、欧米人と日本人では胸のサイズが違いすぎるので、やむなくサイズの合わないブラジャーをつけている女性がずいぶんありました。
 そこに注目したのが和江商事(現ワコール)の塚本幸一で、欧米のブラジャーを随分研究し、そして日本人の胸のサイズを調べてかなりの試行錯誤の上で日本人向けのブラジャーを発売しました。ワコールはブラジャーのおかげで大きな企業に成長することになります。」

 さて、本題はこれから。
 しげも一応、女であるから、このブラジャーなるものをつけているのだが、実は殆どがスポーツブラで、マトモなやつは殆ど持っていない。
 「なんで?」と聞いたら、「サイズ知らんから」ということであった。
 ところが先日、バイト先の同僚の方に調べてもらって、初めて自分のサイズがわかったそうなのである。
 「ねえねえ、聞いて、オレのブラのサイズがわかったと」
 「……はあ」
 「Fカップ」
 「……えふぅ? 前、Bくらいとか言ってなかったか?」
 「計ってみたら違っとったと。嬉しい?」
 「別にオレは巨乳好きとちゃうわ! ……でもなんか最近、サイズの計り方が変わったんか? 昔は『巨乳ハンター』ですらDカップだったのに」
 「知らんよ!」
 しかし、やだなあ。しげは自分で下着を買うのは恥ずかしいらしく、ともすれば私に買わせようと画策することも多いのである。わしゃ下着屋で「すみません、Fカップ下さい」なんて言うのなんて死んでもイヤだぞ。
 自分が付けるかと思われるではないか。


 昨、11日の午後4時15分ごろ、埼玉県入間市下藤沢のアパートの空き部屋で、男性と若い女性2人が死んでいるのを、栃木県から訪れた女子高生が発見。
 狭山署の調べによれば、三人の死因は現場にあった練炭入りの七輪とバーベキュー用コンロによる一酸化炭素中毒死。発見者の女子高生は、「男性らとはインターネットの自殺志願者のサイトで知り合った。数日前から連絡が取れなくなった。この部屋で集まりがあると知り、心配になって来た」と語る。
 昨年12月9日の段階で、インターネットの「心中掲示板」というサイトに「心中相手を探しております。方法は練炭による一酸化炭素中毒死。場所は埼玉県です」という書き込みがあり、そこで知り合った仲間が寄りあって心中したことはまず間違いがないようである。

 人間らしいココロなどカケラもない私である。だもんで、このニュースを聞いて真っ先に思ったのは、「なにも埼玉で死なんでもなあ」であった。別に阿寒湖とかエーゲ海くんだりまで出かけろなんて言うつもりはないが、よりによってなぜ「埼玉」だったのか。多分、たいした理由はなく、「住んでるところに近かったから」とか、この三人が寄り合うのにちょうどいい場所だったからだと思う。なんだか「おう、ちょっくら自殺してくらあ」みたいなお手軽な感じが、「心中」という言葉と今一つそぐわないように思ったのだ。
 私にも自殺願望は常にあるが、「埼玉で」と誘われたら、「もっとステキな場所はありませんか」と言いたくなる。埼玉県には悪いが。
 生まれ故郷ではあっても、私は博多じゃ死にたくない。「大濠公園に死体が浮かび」って汚そうだし、「福岡タワーから飛び降り自殺」なんてお笑いである。なんで死んでまでギャグ飛ばして世間にサービスしてやらにゃならんのか。
 いや、なんかね、福岡や博多って、人が死んでたらなんか可笑しいような、それくらい「生」のエネルギーがムダに横溢してる町なんよ。だからどこで死んでもなんか滑稽になっちゃうんである。
 「華厳の滝」のような「自殺のメッカ」が生まれるのはなぜか、ということを考えれば、この「お気に入りの死に場所」について考えることは、決して不謹慎なだけの行為ではなかろうと思う。

 こないだ読んだ柳美里の言い分ではないが、「自殺」という行為が何らかの意味での「自己完結」であることだけは間違いがない。そこで全てを終わらせるのであるから、自殺者はたいていそこに自らのドラマの終焉としてふさわしい「様式」を見出すものだ。
 それは例えば「遺書」を残すという形であったり、死んだ「場所」であったり、首吊りとか入水とか列車飛びこみとかいった「手段」であったりする。自然死と違って、「自殺」は自らの死を演出できる点において、極めて演劇的である(だから柳美里が「自殺」に夢想を抱く気持ちも共感できなくはないのだ)。しかも自殺者は、数限りない選択肢があるにも関わらず、必ずしも「美しく」死ぬとか「安らかに」死ぬことばかりを選択するとは限らない。醜く、苦しむ死をあえて選択する自殺者もいるのだ。だとすれば、自殺者には自殺者だけにしかわからぬ、「この死に方がいい、これしかない」という特別の論理があるのだと解釈せざるを得ない。
 三人のうち、誰も「私、埼玉なんかじゃ死にたくない」とは言わなかったのだ。しかも場所は相当なボロアパートらしい。廃墟マニアでもあるまいし、なんでそんなところで死んだのか。もし、今回の「死に場所」が必ずしも死を演出する絶対要因ではなかったとするなら、彼らを「死」にいざなったものはなんであったのか。

 「ネットで知り合った自殺志願者どうし」というシチュエーション自体が、既に彼らにとっては充分魅惑的なものだったのかもしれない。真相は死んだ本人たちに聞いてみなくちゃわからないことだが、そこでふと気になったのは、山本弘さんは、このニュースをどう聞いただろうかということだった。
 山本さんは『宇宙を君の手の上に』という短編で、ネット上の人間関係が、一人の自殺志願者を救う物語を語った。生か死か、その行き付く先は違っても、ネットを通じた人と人との絆が、生身の人間どうしの付き合いと変わるものではない、という視点においては、山本さんのネットについての認識と、この自殺者たちとの意識の間には共通項があると言える。ぶっちゃけた話、生を希求するエネルギーと、死に埋没するエネルギーとは実は同質のものなのではないか?
 まあ、こんな不躾な質問、山本さん本人に向けられるはずもないが、生はその背景に死という絶対的な事実を踏まえた上でなければ語れるものではないと思う。山本さんはそのことを充分ご存知の上で創作の筆を取っておられるだろうとは思うんだが、そこまで突っ込んで山本さんの作品が論評されることが少ないのが
残念だと思う。


 『千と千尋の神隠し』が第75回アカデミー賞の長編アニメ部門にノミネートされたけれども、まあ受賞するのはほぼ確実ってとこだろう。もっともアカデミー賞は会員による投票制だから、余りに本命が強すぎると同情票が他作品に回って大番狂わせが起きるってこともあるから、最後まで目は離せないんだが。
 もっとも対抗馬が『リロ&スティッチ』とかだからなあ。予告編しか見てないけどヒドイ出来だし。これで受賞できなきゃ、日本人バッシングがあったと疑われかねないから、多分、番狂わせもなかろう。で、受賞記念で英語版の凱旋興行、ダヴェイ・チェイスちゃんのかわいらしい声を聞かせてもらいたいものである。
 実はまあ、そっちのニュースはどうでもよくて(^o^)、「やったぜ!」と思ったのは短編アニメ賞候補に、山村浩二監督の『頭山(あたまやま)』が含まれていたことだ。昨年度の文化庁メディア芸術祭・アニメーション部門優秀賞や、毎日映画コンクール大藤賞候補にも選ばれていて、この日記でも以前に「見たいぞぉ〜!」と叫んでたものだったが、これでDVD化への道が開けたと思うんである。この手の短編アニメってなかなかDVDにならないからねえ。


 朝、体調が優れず、仕事に1時間遅れて出勤。
 ともかくもう、休むのだけは避けようと思ってるんだが、具合が悪いときは悪くなっちゃうんでどうしようもないのである。
 仕事自体も遅々として進まず。定時に退出してさっさと帰宅、あとは寝たきりなんでたいして書くことなし。


 井沢元彦『逆説の日本史6 中世神風編』(小学館文庫・690円)。
 鎌倉新仏教の展開から、鎌倉幕府の滅亡までを、井沢さんお得意の「言霊信仰」を絡めて説いていく。
 これも細かく感想を書いてったらキリがないから、面白かったところをピックアップ。さてどこでしょう。
 もちろん、「元冦」ですね。ウチのパソコン、こんな常識的な字も出しやがらないんですが、そんなに中国やモンゴルに媚び売りたいんでしょうか。
 あだしごとはさておき。
 博多で有名な元冦のヒーローが二人いる。亀山上皇と日蓮で、この二人のどでかい銅像は、今も博多の東公園に立って、中国や朝鮮の侵略から博多を守るべく沖を睨みつけているのである。
 日蓮がなぜヒーローとなったか、それはもちろん彼が「元冦を予言し」「祈念によって神風を吹かせ元軍を撃退した」という「事実」にあるのだが、もちろんそんなのはただの偶然であろう、と私は考えていた。
 ところが井沢さんは「偶然」どころか「予言は外れていた」とまで説くのである。すなわち、日蓮の予言は、簡単に言えばこういうことである。「邪教を捨て、法華宗を信じないと、外国から侵略を受け、日本は滅びるぞ」である。でも、時の鎌倉幕府は、法華宗を是とはしなかった。つまり、日蓮の予言が当たるのなら、「日本は滅びていなければならない」のである。
 ……あ、そうじゃん(゚゚)。今の今まで気づかなかったなあ。「外国が侵略」までは当たってたけど、後半はハズレ。「神風」は日蓮の意志と関係なく吹いちゃってたのである。実際に日蓮は、自分の予言が外れたことを知ってショックを受け、病気になって死んだんだと。ご本人はどうやら本気で自分の予言が当たると信じこんでたらしい。
 その点では日蓮さん、エセ宗教の詐欺師とは全く性格を異にしているのだけれど、もしも友達だったらどうにも困った、迷惑な人ではあったろうなあ。念のために付け加えておくと、法華経の思想自体は「宇宙全体が幸福にならない限り個人の幸福はありえない」という、別に悪くはない考え方である。戦前の日本のファシズムに利用されはしたけどね。


 マンガ、さいとう・たかを『バロム・1』1巻(リイド文庫・600円)。
 21世紀に入って、『バロム1』がアニメで復活しただけじゃくて、原作まで復活するとはビックリだねえ。しかも文庫だよ。2、3年前に、やたら分厚い単行本上下巻(各巻2667円!)で出た時に買わなくてよかったなあ。
 知ってる人は知ってるけれど、この『バロム1』がなかなか単行本にならなかったのにはわけがある。敵の悪の魔人、「ドルゲ」って名前がドイツ人の名前に実在してたそうで、留学生のドルゲくんが学校で苛められ、それが理由で番組自体も封印、再放送がされなくなってしまった、というものである。なんだか都市伝説っぽいけれども、さいとう・たかを自身が「ゾルゲってのがいることは知ってたからドルゲに変えたのに、なんでそいつまで実在してやがるんだ」とクサしてたから本当だろう。ここに来てやっと出版されたというのは「名前の偶然の一致くらいいいじゃん」という気持ちにドルゲさんたちも寛容になったのか、その程度のことで苛めるバカが減ったのか。後者だったらいいんだけどな。
 でも復活したとは言え、この原作、そんなに凄く面白いってほどのものでもない。もともとさいとう・たかをの絵柄は子供の間ではたいして人気がなく(少年マンガでもさいとう・たかをの人気が出たのは『無用ノ介』あたりからで、それ以前の『ザ・シャドウマン』などはイマイチであった)、マンガ連載当時も「カッコ悪い」という印象しかなかった。まだしも特撮テレビ版のバロム・1のデザインの方がカッコよかったのだ。白鳥健太郎と木戸猛が合体してバロム・1になるって設定は同じなんだけど、原作のバロム・1はムキムキマッチョなおっさんなのである。しかも顔がまた濃くてねえ。『バロム・1』を見たことがない人は、アイシャドウをつけたゴルゴ13に、魔法使いサリーちゃんのパパのトンガリヘアーが乗っかってると思って下さい。ああ、ひたすらキモイ。
 お話もねえ、昔から思ってたんだけど、二人で一人のヒーローに変身って、すげえ効率悪くないか。人間でバラバラでいる時に襲われたら一発でアウトじゃん。もちろんそういうツッコミが野暮だってのは分ってるんだけど、ドラマ的に底が浅いのはどうしても否定できないんでねえ。テレビ版でもそうだったけど、この二人がやたらケンカして、友情エネルギーが足りなくなって、変身できなくなるんだよ。でもって、「俺が悪かった!」「ボクこそ!」って謝りあってさ、それでようやく変身できるようになる。でもその次の回ではまたケンカしてやんの(-_-;)。学習能力ないのかお前らは、ってな。もちっとマシな二人選べよ、コプー(←二人を正義のエージェントにした宇宙意志。「フロイ」ですな)。
 原作版ではドルゲの分身たるゲルゲどもが全然出てこないのも寂しいところ。クチビルゲとかヒャクメルゲとか好きだったんだけどなあ。フランケルゲってのはあんまりだと思ったけど。


 マンガ、横山光輝『横山光輝SF傑作選�◆〆�虫惑星』(講談社漫画文庫・630円)。
 主に1976〜80年時のSF短編を収録。でもどれも元ネタが海外SFにありそうな気がするなあ。巻末の年譜を見ると、これ以降、横山光輝はSF作品を一作も描いていない(もっとも記載漏れがある可能性はある)。作品の中心が歴史ものに以降したからだと言えはするが、パクリネタが多いことが指摘されたからかも。でも横山光輝だけでなく、昭和30年代、40年代に活躍したマンガ家さんたちの多くは、小説や映画のアイデアを自作に流用していたのだ。
 『ポイント4』、海底の古代遺跡が上空を飛ぶ飛行機を四次元空間に送りこんでしまう事件を、エスパーの少年たちが解決する話。それだけ。
 『昆虫惑星』、巨大化した昆虫が支配する惑星。そこを探索に来た調査隊は、そこがかつて人類の住む惑星だったことを知る。これもいくらでも元ネタが探せる作品。有名どころは『猿の惑星』かね。
 『宇宙船マゼラン』、宇宙に行ったら死ぬかもしれないから、地上にいるうちに思いきり遊んどこうよ、という話。いや、ホントにそれだけなんですよ! 『アルマゲドン』はこれのパクリか?(^o^)
 『91衛星(サテライト)SOS!!』、今んとこ横山光輝最後のSF作品。謎の衛星を調査したら、それは食料加工所で、調査員はソーセージにされてしまいましたとさ。なんだか夢野久作の『人間腸詰』。でもこれも海外SFに類似作があったような……。
 まあ、横山ファン以外には読んでもつまらんでしょう。横山光輝もなあ、『バビル二世』の初期の頃までは面白かったのになあ。(2003.3.11)

2002年02月12日(火) 気がついたらマヨラー(笑)/『ブギーポップ・アンバランス ホーリィ&ゴースト』(上遠野浩平)/『大秘密』(W・パウンドストーン)
2001年02月12日(月) 来年の『ゴジラ』はあるのか/『アニメージュ』『ニュータイプ』3月号


2003年02月11日(火) 映画を見る以外に休日の過ごし方なんてあるんですか/映画『音楽』/『プーサン』/『エデンの海』/『日本一のホラ吹き男』

 朝になっても、やっぱりしげは帰らない(^_^;)。
 いいなあ、夜通し飲んで騒げて次の日に残らないって。まだまだしげは若いわ。

 CS日本映画専門チャンネルで予約録画しておいた三島由紀夫原作・増村保造監督の『音楽』を見る。
 増村監督は『からっ風野郎』で三島を俳優として使ったことがあるが、もう三島の役者としてのド素人ぶりは目を覆いたくなるほどであった。
 ATG(アート・シアター・ギルド)制作のこの映画は、三島の死後に作られたものだが、増村監督からの三島へのレクイエムの意味を持っているのだろう。その原作に『音楽』を選んじゃうというのが増村さんの意地の悪いところである。
 精神分析医を訪ねた不感症の女。
 彼女は恋人と感じることができない悩みを告白する。ではこれまでに感じることは一度もなかったのか? そうではない。彼女にもほかの男とのSEXで感じることはあった。そしてそのときには必ず彼女の体が「音楽」を奏でていた。
 心理分析による推理小説的要素を多分に含んではいるけれど、その結末は何だか今一つ説得力に欠ける(ミステリーとは言いきれないけれど、これを三島唯一のミステリ作品、と評価する人もいるので、結末は明かしません)。三島由紀夫って、才能に任せて書きなぐったような作品も多いし、これは彼のグロな面が作品として昇華しきれないままに出ちゃった感が強い。まあ、珍品として鑑賞するくらいがちょうどいいかも。
 主人公・弓川麗子には黒沢のり子。脱げる人ということで日活から呼んできたらしいが芝居はからっペた。精神科医・汐見は細川俊之。あの舞台口調で麗子を責める様子、医者じゃねーよ、と大笑い。やっぱり大映ドラマの伝統かなあ(^_^;)。麗子の恋人・江上に我等がモロボシダン、森次晃嗣(当時は浩司)。恋人を満足させられなくて悩む姿に、アンヌを幸せにできない宇宙人としての自分の身の苦しみを重ね合わせてみるのもおもしろ……くないって。
 あと、三谷昇のSEXシーンという珍しいものも見られます。見てどうする(ーー;)。


 なんだか完璧にハマっちゃったな、CS日本映画専門チャンネル。
 いやねえ、実際にCMなんか見ててもすっげえセンスいいんだよ。宝塚映画や東宝映画の名作の予告編を繋げて、そこに50年代、60年代のオールディーズをBGMに流す。これが実にハマってんだね。
 もちろん本編中にそんな曲は流れないんだけれど、当時、それらの映画をリアルタイムで見ていた世代にとっては、「ああ、この曲を聞いていたころ。この映画を見ていたなあ」と、「時代の記憶とともに映画を見る」ことができる仕掛けになっているのだ。うまいなあ。
 あるいは『新吾捕物帳』の予告編。BGMがOO7のテーマ! 『江戸の黒豹』よりずっとカッコイイんだなあ。
 しかしこれだけカッコイイCM作っちゃうと、本編見たとき、「イメージ違うじゃん!」ってことになりはしないかと心配である(^_^;)。


 続けて日本映画チャンネルで、市川崑監督の『プーサン』を見る。
 見たい見たいと思いつつなかなか見る機会に恵まれなかった映画の中でも、これは特に見たいものの一つだった。
 いやあ、よかったねえ。
 横山泰三のマンガ『プーサン』と『ミス・ガンコ』が原作、けれど脚本の和田夏十は原作マンガを随所に挟みつつも、ストーリーに一本骨を持たせるには相当自由に脚色、新設定を付与しているようである。「ようである」って言葉を濁してるのは、『プーサン』の原作、今は手に入らないから読んで比較するってことが出来ないからなのよ。昔、何かで再録されてたの見たことはあるんだけどなあ。
 脚色が効を奏したのか、本作は市川崑フィルモグラフィーの中でも最高傑作と言ってもいいんじゃないかってくらいに面白い。私の趣味に合っているというか、ギャグがみな「乾いている」のだ。私の心の中ではこれまでの市川崑のベストワンは『吾輩は猫である』だったんだけれど、もう『ビルマの竪琴』も『細雪』も金田一耕助シリーズも吹っ飛んだね。『火の鳥』とか『竹取物語』とか『天河伝説殺人事件』とかは最初から話にならないけど(^o^)。

 プーサンこと野呂米吉(伊藤雄之助)が、いきなり銀座でトラック(軍用っぽい)に撥ねられるところから物語は始まる。幸い大した怪我もしなかったプーサン、「ぼくは銀座に出て来たのは久しぶりでしてねえ」と呑気なことを言ってヘラヘラ笑っている。車に撥ねられそうになったのも戦後復興の謂いかと喜んでたりしているのだ。
 プーサンの後ろで蒲鉾屋がさかんに「政治の貧困ザンスねぇ!」とナンセンスなことを言っている。もちろんこのセリフで察せられる通り、演じてるのはトニー谷。「家庭の事情」に続いてこの「政治の貧困」も流行らそうとしたところだろう。
 応急治療はしたものの、プーサンは下宿近くの渋谷の診療所に回される。そこの医者・手塚先生は木村功、看護婦・織壁さんが八千草薫。なんだかここ数日、八千草薫ばかり見てる気がするが、1953年当時22歳。匂うがごとき清純な美しさである。『プーサン』『今宵ひと夜を』『白夫人の妖恋』と時代を追って、更に『ガス人間第一号』まで見ていくと、八千草薫が清純な少女から、男を虜にする魔性の女へとオトナになっていく様子がよく分る。で、最後は『サトラレ』の呑気な婆ちゃんになると(^o^)。
 プーサンの住む下宿の大家は三人家族、銀行に勤めるそこの一人ムスメがガンコさんこと金森カン子(越路吹雪)である。越路さん、市川崑作品には『結婚行進曲』『足にさわった女』に引き続いての出演で、このとき御年28歳、後年のハデな化粧はもちろんしてなくて、印象はクールビューティーである。転んで頭を打っても「痛くない!」、銀行では同僚からガメツク借金を取りたて、「映画見るよりストリップの方がいいわ!」と嘯き、恋人(黛敏郎!)との結婚を反対されたら自殺未遂しちゃうという、ガンコっていうより偏執狂的なキャラをサラリと好演している。
 「野呂さんといると気分がのんびりするわ!」と言われてプーサン、ぽわーんとなる、つまり彼女がプーサンのマドンナってわけである。もちろんこの恋、成就はしないんだけれど。
 プーサンの職業は、今で言う予備校の数学教師。けれど塾長(加東大介)から
は安く見られていて、夜間に回されるわ給料は減らされるわ、でも要領の悪いプーサンは文句一つ言えない。それどころか、その要領の悪さが祟って、左翼学生・古橋(山本廉)の口車に乗せられてウッカリデモに参加してしまい、あの「血のメーデー事件」に巻き込まれて、予備校をクビになってしまう。
 慌てて少ないコネをたどって再就職に奔走するが、もちろんどこも雇っちゃくれない。なんとか臨時雇いで潜りこんだのは、倉庫での梱包係。送る荷物はなんと銃弾である。もちろんこれは朝鮮戦争で使われるものだ。
 ラストシーン、銀座をあてどなくさ迷うプーサンを再び軍用トラックが撥ねかける。もうプーサンは笑ってはいない。街路には、汚職事件で失脚したのに、自伝を出してベストセラーになった政治家のポスターがズラリと貼られている。

 世相マンガの映画化は、やはり世相映画であった。
 脚本のセリフにも「戦争になるかねえ」とあるが、多用されるニュースフィルムなどを見ていても、1950年ごろの日本人が、どれだけ戦争の恐怖に怯えていたかが伝わってくる。
 当時の様子を語ってもらうために、岸田今日子がゲストに呼ばれて、八木亜希子がインタビューする形で解説をつけているのだが、「警察予備隊」が街中を行進するフィルムを見た八木さんが、「これ、戦前のシーンですか?」と聞いていたのがトンチンカンではあるのだけれども興味深かかった。
 紛れもなく、アレは軍隊なのである。ただそれが戦前のフィルムではなく、間違いなく戦後の風景だということがハッキリ分るのは、沿道の人たちが誰一人として旗を振っていないことだ。みんな、目の前の情景をどう受け取ればいいのか困惑し、苦渋に満ちた顔をしている。さて、現代だと自衛隊の行進に旗を振る人はどれだけ増えているだろうか。
 かと言ってこの映画が右翼批判の映画でないことは、左翼学生・泡田(小泉博)が浅薄な知識をひけらかしているそのウラで、実は伯父の政治家・五津平太(菅井一郎)に取り入っている様子からも見て取れる。イデオロギーは右も左もアヤシイもんだ、ということをこの時代に喝破していた和田夏十・市川崑の洞察力には感服するほかはない。
 原作マンガにあったと思しいギャグもみな殺伐としている。

 派出所に飛びこんでくる拳銃を持った男。「弟を殺して来ました!」と震えながら叫ぶ。応対する警官・甲賀(小林桂樹)は驚く様子もなく、「あ、弟殺しね」と奥に通す。
 ザンバラ髪の女がやってきて、「精神病の息子を殺しました!」。甲賀、また「あ、息子殺しね」と奥にやる。
 薄汚れた子供がやって来て、「ネズミ殺したよ」。目の前にぶら下げられたネズミを見た途端、「ぎゃあ!」と言って卒倒する甲賀。

 警察署への通報が二つ、一つはルンペンの中年男の首吊り、もう一つは若い裸の美女(ガンコさんである)の自殺未遂。署内から一斉に飛び出す警官隊(このあたりはキーストン・コップ調)。全員が美女の方に殺到して、男の方の張り番は、首吊り死体を前に寒空の中、「遅いなあ」と呟いている。

 笑えるかどうかは別として(^^)、「時代」は小さなギャグ一つにも横溢している。
 今、この映画を見る人の中にはその暗さに閉口して、暗澹たる思いにかられてしまう人もいるかもしれない。失職してちょっとおかしくなったプーサンが部屋でキャベツを頭に乗っけて「うへへへへ」と薄ら笑いを浮かべているシーンなどはたしかにゾッとする。けれど当時の庶民の多くに、そんな言い知れぬ不安を感じる気分があったのではないか。
 全く、平和国家ニッポンと言いながら、日本人が戦争の恐怖に怯えないでいられた時間ってのをどれだけの期間、共有できていたというのだろうか。そんなことを考えながら見ていくと、この映画、素晴らしく面白いのである。

 あと、市川崑映画には定番のギャグ、フスマの裾挟み、この時代からやってたのを発見。うーん、面白いんだかなんなんだか。 


 興奮して見てたのに、睡魔が襲ってきて、夕方まで寝る。
 休日は昼寝せよ、と遺伝子が命令しているのであろうか。んなワケないって。


 目覚めてからもCSに齧り付き。
 だからって、見た感想を全部詳しく書いてたら、時間がいくらあっても足りゃしない。このへんでちょっとトバします。
 『エデンの海』。
 山口百恵文芸シリーズ第4弾、でもって三浦友和以外とコンビを組んだ初めての作品でもある。お相手は南条豊だけれど、映画自体、教師と生徒の禁断の恋、と言っても「高校教師」的な妖しいムードはまるでなく、健康的というよりはお子様ランチ的なヤリトリが延々と続いて、今見ると気恥ずかしくなるばかりだ。でも当時はこれでもドキドキしながら見てたんだよなあ。
 興行的に弱いと踏んだのか、山口百恵が初めて水着姿を披露するし、体操服姿でおしっこちびっちゃうなんてサービスサービスなシークエンス(何でや)まである。でもやっぱり山口百恵が演じるには違和感ありまくりの役だ。
 百恵ちゃんにレズ的愛情を寄せるヘンなオバサン役に樹木希林。逆に先生を一人占めされて嫉妬するクラスメートにデビュー当時の浅野温子。冷徹な前のクラス担任教師に岸田森。南条豊に思いを寄せる女教師に紀比呂子。陰険なヘコキ教頭に井上昭文。温厚な校長に伊藤雄之助。役者はみんないいんだけどなあ。
 『日本一のホラ吹き男』。
 植木等主演、「日本一」シリーズの佳作。
 これも何度見たかわかんないなあ。やたらテレビでも再放送されてた気がするけれど、一番調子よく出世しちゃう話だから、人気があるのかも。でも結局はどれも似たり寄ったりだよな。時々『ゴマスリ男』とかと混同しちゃうので、定期的に見返す必要があるんである。
 オリンピックの陸上選手だった植木等、アキレス腱を切っちゃって選手生命を断たれちゃうんだけれど、ご先祖様の巻物を発見して、心機一転、ホラを吹いてうまいこと出世しちゃおう、と太陽電気に就職する。
 この就職するところまではすごく面白いんだよね。大言壮語ばかりするものだから面接にはアッサリ落ちちゃうんだけれど、警備員でなんとか会社に滑りこむ。そこから社長にコネつけて……。そのへんまではまさしく植木等自身の知恵なんだけれど、冷暖房電球の発明は谷啓の手柄だし、ダム建設の入札をするためにワザと自社の情報をリークしてライバル会社を騙すっていう展開は陳腐だ。全体の構成がまとまってるから余りつまらないという印象はないけれど、アイデアが今一つっていう恨みはある。
 ヒロインの浜美枝にはもう少し活躍の場所が欲しかったな。あと、ライバル会社の社長役で、『ウルトラQ』の一ノ谷博士こと江川宇礼雄が出演してることもチェックポイント。


 夜、東京のこうたろう君から電話。
 上京についての用件だったのだが、気がついたら最近見た映画の話ばかりしている自分に気がつく。「八千草薫はいいぞ!」って、なにを今更。映画を語るにしてももう少し落ち付いたらどうか。(2003.3.11)

2002年02月11日(月) うまいぞもやしマヨネーズ/『ONE PIECE ワンピース』22巻(尾田栄一郎)
2001年02月11日(日) 水の中の失楽/アニメ『も〜っとおじゃ魔女どれみ』1・2話ほか


2003年02月10日(月) 夢見が悪い日ってあるよね/映画『金髪の草原』/『うさぎとくらたまのホストクラブなび』(中村うさぎ・倉田真由美)ほか

 久しぶりに夢の話である。
 しょっちゅう見てるとは思うんだが、朝、目覚めたときにはもうたいてい忘れてるものでね。
 以前、私の職場の同僚で、セクハラが理由で辞職した人がいた。
 と言ってもそんなに珍しいことでもなく、私の知る限りでもソレで問題を起こした人間がこの10年ちょっとの間に5人もいた。私の知らぬところも含めるなら、もっと数が多いことであろう。全く、どうしてウチの職場、そんなに女に飢えてるやつばかりいるのだ。……てなことを真っ正直に書いちゃうから、私は職業が明かせぬのである。もし社名をバラしちゃったら、四月から新しく入って来る女性の数が減っちゃうじゃん(^o^)。
 さて、そのセクハラ同僚であるが、私が出勤してみたら、なんと復職してニコヤカに声をかけてきたのである。
 「あれ? 退職されたんじゃなかったんですか?」
 「それがこのたびの恩赦で復帰できることになりまして」
 恩赦ってなんの恩赦だ。それに問題にはなったが別に逮捕されてたわけではない。このへんがやっぱり夢である。
 その同僚、実に明るい顔で「これであと三回まではおサワりセーフですよ!」と鼻息荒く断言する。どうも法律で一回罪を償ったものはその代償に三回までは悪いことをしてもいいことになったらしい。けれどいったいどういう理屈なんだかよくわからない。
 「さあ、有久さんも一緒におサワりしましょう!」
 するか! もう2年近くも会ってない元同僚がいきなり夢に出て来たというのもワケが分らないが、なんでおサワりの仲間に誘われなきゃならんのかもサッパリわからん。そんな願望でもあるのかと心配になるなあ(ーー;)。
 

 朝、車で職場まで送ってくれたかと思ったら、夕方は寝過ごして迎えに来ないことが殆どのしげだけれど、今日は珍しく寝過ごさずにしげ迎えに来る。
 正直に「珍しいね」と言ったら、しげ、急に怒り出す。
 「悪かったわね、フン!」てな感じだ。誉めてんのになあ。
 頼んでおいた洗濯ものを干したかどうか聞いたら、「アンタが干す番やん!」とまた怒り出す。「おまえだよ!」「あんた!」「おまえ!」「あんた!」。
 これがケツにつくのがエクスクラメーションマークじゃなくてハートマークだったらラブラブバカップルなのだが、毎回これではただのバカップルである。
 しかししげもこう毎回機嫌が悪くしてて疲れやしないだろうか。


 CS日本映画専門チャンネルで『金髪の草原』を見る。
 大島弓子の原作を犬童一心が脚本化、監督も務める。
 記憶を失い、自分を20歳の青年だと思いこんだ70歳の老人・日暮里歩は、ホームヘルパーの古代なりすを憧れのマドンナだと思いこむ。
 原作マンガがそうであったように、日暮里老人は自らの意識そのままに青年の姿で現れるのだが(演じるは伊勢谷友介)、少女マンガの手法をそのまま実写映画に持ちこむことには違和感を覚える。かと言って、これをホンモノの老人に演じさせてしまっては大島原作を使う意味はないわけで、結局、マンガの実写映画化は難しいよなあ、というありきたりな結論を導き出して嘆息するばかりである。
 伊勢谷友介、熱演で老人っぽく見えるところもあるのだが、やはりヒョイと若者らしさがチラホラと見え隠れしてしまうのが痛い。
 なりすを演じた池脇千鶴という女優さんは、東芝のCMで普段着の演技ができる人だなあ、と感心していたが、この映画でもいい意味で芝居臭さのない、少女らしさを好演している。私が若いころなら絶対に入れこんでるところだ(^^*)。
 しかし、基本的には地味な女優さんで、大島マンガにおける「マドンナ」のイメージとはかけ離れている。でも、大島マンガの女性はみな、設定自体は実に生々しいのだが、その正体は「妖精」なんである。妖精を演じられる女優さんなんてそうそういるものではないから、これは仕方のないところか。
 実写じゃなくてアニメにしていたら、ともちょっと思ったが、これもアニメーターに実力がないと、『綿の国星』アニメ版のような、なんだかなあ、なシロモノになってしまうだろう。名倉靖博あたりなら、きちんとアニメ化してくれそうな気はするがなあ。
 大島弓子の映画化作品は多く、萩尾望都や竹宮恵子の映画化作品に比べればはるかに完成度の高いものが多いのだが、それでも「傑作」、とは呼びにくいのは、やはり大島弓子のキャラクターが一旦、マンガというフィルターを通して生身の人間が濾過されているからだろう。それをもう一度生身に戻しても、まずセリフがキャラクターに乗らないのである。
 原作にはなかったと思うが、日暮里老人を訪ねたかつての旧友・神崎(加藤武)とのやりとりで、「エノケンの映画をよく見にいったよなあ」「行った行った」「でもおまえはすぐシミキンのファンになってな」「し……しみ?」とあったのはなかなか凝っていた。
 シミキンが台頭してきたころ、戦争が始まる以前には、もう日暮里老人の記憶は失われていたのである。それを聞いた加藤武の、静かに受けるだけの演技は絶品である。日暮里の知らぬ戦争で神崎は片腕を失っているのだから。
 こういうところに映画の白眉を見るのはやや意地の悪い見方だとは思うけれど、このシーンを見るだけでもこの映画を見る価値はあると思う。


 日本映画専門チャンネルで続けて、黒澤明監督作品『悪い奴ほどよく眠る』。これも随分前に見たっきりで久しぶりに見たが、以前は地味で長ったらしい印象だったものが、全く逆にサスペンスフルにハラハラドキドキ、画面から目が離せなくなっていたのには驚いた。なにしろ2時間半の長尺をまるで退屈に感じないのだから凄いことである。
 ストーリーは逆に一本調子だなあ、と思うようになった。説明的なセリフが多いのもテンポを阻害していて気になるところだ。
 汚職事件の責を取らされて自殺に追い込まれた父親の復讐を誓った西幸一(三船敏郎)の計画自体、今見るとかなり杜撰である。汚職の中心人物の一人・岩淵副総裁(森雅之)の娘婿になりおおせたまではいいのだが、復讐の相手を脅かすのに夢中になりすぎて、あちこちでボロを出してしまっている。幽霊騒動まで起こすのはちょっとリアリティに欠けるだろう。
 特に薄幸な跛の妻・佳子(香川京子)を愛するあまり、かえって抱くことができない、というのは最大の失敗だったろう。そのことが結果的には西自身の身の破滅を招くことになるのだが、復讐者の人間的な優しさが自縛の紐となる展開は、この映画が制作された昭和35(1960)年当時においてもいささか古臭過ぎはしなかったか。
 当時、政府筋から汚職事件を扱うことについて「圧力」があったとも聞くから、そのような結末のツメの甘さは、黒澤監督の妥協の産物なのかもしれないが。
 いささかステロタイプになってしまったとは言え、登場人物たちのキャラクターとしての存在感にはやはり眼を見張る。
 誰かが指摘していたことだが、この『悪い奴ほどよく眠る』は、黒澤版『ハムレット』であると。
 なるほど、復讐鬼・西幸一はまさしくハムレットである。佳子もオフィーリアも、愛する人の愛を受けられぬまま狂気に陥ってしまう。佳子の兄・辰夫(三橋達也)はレイアティーズであり、岩淵はもちろんクローディアス王だ。ああ、幽霊騒動が起きるところも似てるか(^o^)。
 しかし『ハムレット』と違うのは、復讐の相手であるクローディアスに当たる岩淵は、死ぬことなく、ラストでゆっくりと深く、安眠するのである。その分、観客の感じる悪辣さはクローディアスの比ではない。『白痴』で絶対的な善人を演じたのと真逆の日本人的「悪」の象徴を森雅之は見事に演じきっていると言えるだろう。
 ほかにも、お人好しが災いして、岩淵たちの罪を背負わされて自殺させられそうになったのを西に助けられ、同じく復讐を誓うも、どこか頼りなげな和田課長補佐を演じた藤原釜足、小心ゆえにただただ怯えながら自滅して行く白山課長の西村晃、冷酷な殺し屋がこのころは似合っていたデビューしたばかりの田中邦衛など、ワキ役、チョイ役にも見所が多い。
 ちなみに、西幸一のテーマソングは、一時期、私自身のテーマソングであった(^o^)。映画館を出て、今見た映画のテーマソングを口笛で吹くようであれば、その映画は名作と言えるのではないか。
 未見の方は、ぜひ。
 

 晩飯は久しぶりにカレー。
 実は前に買っておいたカレールウがまだ余っていて、そろそろ作っとかないと賞味期限がヤバそうだったのだ。
 こないだ作った時には人参を入れ忘れていたので、今日はちゃんとそれもスーパーで買った。肉は安い豚肉のブロックを角切りしてたっぷりと。普通のカレーの軽く三倍はぶちこんでいるだろう。それだけ作っていても、しげに食わせた途端にあっという間に消えてなくなってしまう。
 しげに「カレー食うか?」と聞いたら、「ケンカしとうけん、いらん」とむくれていたが、実際に皿についで「ホレ食え」と言ったらペロリと食った。しげが怒りよりも食欲を優先することなど、先刻ご承知なのである。

 しげ、職場での飲み会があるとかで、夜中に出かける。
 「いつ帰るん?」
 「わからん」
 ということは「朝まで帰らん」という意味だな(^_^;)。
 しげは最近、こんな職場の付き合いが多くなったけれど、10年前、バイトすることすら怖くてなかなかできなかったころに比べると、随分社交的になったものだ。もっとも職場での話を聞くと、トンチンカンなことをしては笑われているようで、付き合い上手になったというわけでもないらしい。
 なんにせよ、バカやってもそれが人に笑われながら受け入れられるということはメデタイことである。マジメな人間ほどバカを排除するからなあ。
 「人をバカにするな」と怒る人間は、実はバカを差別して迫害する種類の人間なのだよ。自分は正しいと思ってる人は無意識のうちに他人を差別してること多いから、気を付けようね。


 中村うさぎ・倉田真由美『うさぎとくらたまのホストクラブなび』(角川書店・1575円)。
 女性がソ○○○○ドに全く縁がないごとく(客として行く、という意味ですよ)、ホストクラブもまた男には全く縁がない。しかも男の場合、客としてでなくても縁がないヤカラが殆どではないか(^o^)。
 で、一応の、興味を、持って、読んで、見た・の、だ・が……。
 ホストには外見は関係なくなれる。という笑劇……否、衝撃の事実であった。そういうのって、女の場合だけだと思ってたのになあ。
 ソ○プだとさ、よく聞く話だけれど、「MEGUMI並の巨乳でっせ」と言われて喜んで指名したら、出て来たのがウシだったとかトドだったとかスカイドンだったとか(^o^)言うじゃないのよ。それでも「とりあえず損だしなあ」とスカイドンをせめてガヴァドンだと錯覚させてナントカするのが男の悲しいサガなんだけれど、ホストクラブの男どもがみんなパパイヤ鈴木とかドラえもんとかだったら店がつぶれないか。体重でではなく。
 でもホントにこのお二人、取材の最中、ブサイクやデブに当たりっぱなしである。もしかして某脂身三兄弟でもなんとかなってしまうのではないか(^o^)。
 いや、これが冗談ではなくナントカなってしまうかもしれないのだ。くらたまさんは博多出身だから、当然博多の取材もある。その博多の『サーカス』という店、ホストの三分の一がオヤジらしい。くらたまさんはそこのオヤジとジルバを踊ったそうな。
 オヤジでジルバ! 強力である。オマケの方が豪勢なタイムスリップグリコのようだ。仮に私がオヤジホストになるとしたら、いったい何がオマケとしてつくだろうか? 歌も踊りも、楽器も全部ダメだしなあ。オタ話。これってセールスポイントにはならないよなあ。
 いやいや、「オヤジ」という一見マイナス要因に見えるものですら、売りようによっては渋い魅力ということで商売として成り立ってしまうのである。世の中何が当たるかわからない。ましてや「オタ話ホストクラブ」なんて、全国でもどこにもない。脂身三兄弟と組んで作ったら、結構、隠れオタク女が集まってきたりしないだろうか。語るセリフは全てアニメ・特撮の名セリフか、そのアレンジにする。
 どうです、そこのお嬢さん、めくるめくオタクの世界に、今宵一夜、貴女を誘ってさしあげましょうか。
 ▽~ヽ(・_・)ノ~▼チャ △_(。_。)_▲チャ ▽~ヽ(^-^)ノ~▼チャ!
 ……すみません。今朝の夢見が悪かったせいか、妄想が私の体を離れてアンバランスゾーンに入ってしまってます。今までの十数行の内容は、全て忘れて下さい。m(__;)m(2003.3.10)

2002年02月10日(日) 男が女に暴力を振るうワケ/『仮面ライダー龍騎』第02話「巨大クモ逆襲」/アニメ『サイボーグ009』第17話「決戦」ほか
2001年02月10日(土) 「html」って、はいぱあ・てくのろじい・まきしまむ・ろぽ……じゃないよな/映画『狗神』ほか


2003年02月09日(日) 見た、読んだ、食った、太った(^_^;)/映画『今宵ひと夜を』/『仮面ライダーSPIRITS』4巻(石ノ森章太郎・村枝賢一)ほか

 またもや寝過ごして、日曜の朝のアニメその他の番組を見られなかった。
 仕方なく(と言うのもヘンだが)、CS日本映画専門チャンネル(長いなあ、省略した呼び方はないものか)『今宵ひと夜を』を見る。
 昭和28(1953)年度の芸術祭参加作品、とタイトル前にクレジットが出る。記録を見ると実際の公開は翌年の2月なので、あわよくば「受賞作」という振れこみで上映したかったのが、受賞を逸しちゃったんでしょうがなく「参加作品」ということだけで売ったものか。
 原作は広津和郎の『入江の町』で、昭和24(1949)年に小津安二郎が同じ広津和郎の『父と娘』を原作として、名作『晩春』を撮っているから、その顰に倣ったものか。ただ、もともと広津和郎の小説は「心境小説」と呼ばれるくらいに登場人物の内面描写に拘っているものが多く、ハッキリ言っちゃえば相当辛気臭いのである。小津安二郎も『父と娘』を「映画」にするために随分脚色をしたようだ(原作は随分前に全集か何かで読んだ記憶があるが中身は全く覚えてないのでこんな印象しか書けません)。だいたい、娘がファザコンでなかなか結婚しないってだけの話だし。逆に言えばたったこれだけの物語を見事に「映画」にしてしまった小津の天才が光っていると言えるのである。
 で、驚いたのがこの『今宵ひと夜を』で、監督の千葉泰樹、まるでミニ小津とでも言いたいくらいに小津演出を踏襲……と言えば聞こえはいいが、ハッキリ言ってほとんど模倣じゃないかと言いたくなるほどによく似た画面造りをしているんである。つまり、ローアングルなカットとか、人物の真正面からの切り替えしとか(^_^;)。でもそんなことしてちゃ、受賞はちょっと難しいよねえ。
 しかも主演のお美代を演じている三浦光子、宿屋の飯盛り女中役なんだけれど、ほとんど演技が蓮っ葉な芸者って感じで(当時の田舎の女中にはそんなのが多かったのかもしれないけれど)、芝居の深みで見せるって感じになっていない。真正面からこれを見せられ続けるのはちょっとキツイぞ。
 それでもドラマとしては『晩春』よりこの『今宵』の方が随分複雑である。複雑と言っても、今の目で見るならやはり随分あっさりしているのだが。『入江の町』という原作は全く知らなかったが(Google検索してもヒットしない。どうやったら読めるのだ)、「寿屋」という宿屋の女中三人を主役に、それぞれの幸せを求める様を、ある者は叶えられ、ある者は裏切られ、という形で描く。彼女たちの求める「幸せ」が、結局は「男にこの境遇から連れ出してもらうこと」であるのは時代かそれとも田舎町に対する揶揄なのか。
 お美代(三浦光子)は、惚れっぽい性格から、何度も男に裏切られている。今度も小泉(中村伸郎)という男にくっついて、この町を出て行ったのだが、案の定、男には本妻がいて(中村伸郎を見れば、ひと目でこいつは信用できないと分りそうなものだ……ってムリか)、傷心のうちに町に戻ってくる。ところがそこで宿の息子・清一(中山昭二!)にまた惚れるのだが、自分みたいな汚れた女が、と思いを口に出すことができない。
 まだ女中を始めたばかりのお春(八千草薫)も、清一に憧れている一人だが、酔客に絡まれて逃げ出したところを清一にかくまわれ、そこで関係を持ってしまう。てっきり思いが叶ったものと喜ぶお春だが、清一はまだ学生の身、結婚などは思いも寄らない。お春との関係は、大学休みの間だけのただのアバンチュールだったのだ。休みが終わればお春のことなどうち捨てて、さっさと大学に戻ってしまう。
 唯一幸せになれたのがおしま(東郷晴子)。ドサ回りにやってきた歌舞伎役者の市村右左衛門(モデルは市村羽左衛門だろうね。でも演じているのは澤村国太郎)と同じ満州帰りということで意気投合して、「迎えに来るから」という彼の言葉を信じて、ただひたすら待つ。そして本当に右左衛門はおしまを迎えにやって来るのだ。
 三本立てのドラマを一気に見られるのが売り、というところだろうか。でもちょっと定番過ぎて、印象は今一つである。だもので、興味はどうしても細部に行く。
 右左衛門を演じる澤村国太郎は、もちろん、長門裕之・津川雅彦のご父君である。お顔がちょうどこの息子二人を足して2で割ったようなのが面白い。
 右左衛門は、東京でもかなり有名な役者であるらしいのに、戦後すぐのこととて、地方回りでもしないことには食って行けない。田舎町の方でも、別に歌舞伎役者だからと言って、崇め奉るような雰囲気はない。「東京の歌舞伎もなかなかやるじゃない」なんて言われている。今時は歌舞伎役者をステイタスのように語る人って多いけど、戦後20年くらいまでは、こんな感覚の方が普通だったんじゃないか(私見だけれど、歌舞伎役者がなにかスバラシイもののようにイメージされだしたのは、NHK大河ドラマ『源義経』(1966)で、尾上菊五郎が義経を演じたころからではなかったか。菊五郎が静御前役の藤純子と本当に結婚してしまって、当時は随分話題になったものだ)。
 この右左衛門が寿屋で口上を述べているときに、廊下からその様子を宿の主人の女房であるお浜が覗いているカットがある。これ、物語としては何かの伏線になっているというわけでもなく、全く意味がないのだが、実はお浜を演じているのが澤村貞子(NHKの朝ドラ『おていちゃん』のモデル……って、これも若い人は知らない)。国太郎の妹なんである。二人が絡むシーンがほとんどないので、これはまあ、楽屋落ち的なお遊びですね。弟の加東大介も出てればもっと面白くなったろうなあ(^o^)。
 それにしてもこのころの八千草薫の美しさは目を見張るほどだ。前半はもうただのオボコ娘って感じでアカンベーなんかしてるんだが、段々艶っぽくなっていくんだよなあ、これが。女は男で変わるって表現? あるいは、結局、女は不幸だってことが言いたいのかな? でも、そういう旧弊なところがこの映画の古臭いところなんだけどね。
 この「女は不幸」パターンのドラマが昔はどれだけ作られてきたかってこと、現代では解りにくくなってるけれど、そう考えると、ここ20年ほどの社会情勢の変化がどれだけ激しかったかってことを実感しちゃうんだね。
 チョイ役で平田昭彦、堺左千夫、清水元、柳谷寛など、東宝特撮でお馴染みの面々も出演。平田昭彦の演じているのが思想犯らしいのが時代か。


 しげはいつものように練習に出かけているので、昼は、ピザカリフォルニアでキムチ丼を頼む。
 たいして用事もないのに休日に外に出るのも億劫だし、美味いのでついつい頼んでしまうのだが、1500円以上頼まないと届けてくれないので、ついでにチキンだのアイスクリームだのジュースだのを一緒に頼まなきゃならないのでおカネはかかるのである。それに体重が減らないのもこれじゃ当たり前だ。
 ……って、久しぶりに体重計に乗ったら83キロまで体重が戻ってたんだよん。ヤバいってこれ(ーー;)。
 やはり仕事帰りにスーパーに寄って食材を買い込んでおくのが安上がりだし、栄養コントロールもできるのだが、先週はしげの時間がないということでそれができなかった。
 昼間の買い物ができればなあ、外食も控えられるんだけれど、今の状況じゃ当分は無理だなあ。ウチの職場が閑古鳥が鳴くくらいにヒマになれば昼休みに外出して買い物ぐらいできるかもしれないが、その時には給料自体が出なくなっているであろう(^o^)。……シャレにならんわ。


 マンガ、冨樫義博『HUNTER×HUNTER ハンターハンター』16巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 前巻あたりまではまた壊れかけてたんじゃないかって印象だったけれど、少し持ち直して来たかなあ。アニメの打ち切りが随分腹立たしかったようだから、それで切れかけてたつてのはあったのかな。……というような裏事情を読者に想像させるより、マンガを面白くしてほしいと思ってるファンも多いんじゃなかろうか。
 つまりはようやくゴンの父のシンの影が見えてきて、寄り道してるだけに見えていたグリードアイランド編が、重要な意味を持つんじゃないかって感じになって来たのがいい方向に進みそうな気配なんである。
 この作品が『幽遊白書』と似たような構造を持ちながらもなんとか破綻せずにすんでるのは、やっぱりゴンのキャラクターがジャンプマンガの伝統に則って、ただひたすら「真っ直ぐ」だからだと思うのだ。おそらく、『幽遊』の時みたいに、「幽助は実は魔族だった」なんて、思いっきり階段からコケ落ちるような展開にだけはならないだろう。
 ビスケとヒソカの「腹の探り合い」も、疑心暗鬼で病的な印象の方が強かった『レベルE』のときよりは随分「建設的」になっている。このままの調子で横道に逸れないでいてくれたら嬉しいんだけど、ヒソカの○○○○の描写とか、冨樫さんがまだまだアンバランスな精神状態でマンガ描いてるらしい様子はチラホラと見えるのである。
 次巻がどうなるか分らない、というハラハラ感だけはあるか(^_^;)。


 マンガ、石ノ森章太郎原作・村枝賢一漫画『仮面ライダーSPIRITS』4巻(講談社/マガジンZKC・580円)。
 ついに「ゼクロス編」に突入。ファンなら先刻ご承知、早瀬マサト氏による解説にもあるけれど、テレビシリーズとしての『仮面ライダーZX(ゼクロス)』という作品は存在しない。そのあたりの事情は解説を読んでいただくとして、もしこれがテレビシリーズとして作られていたら、当然このマンガも描かれることはなかったわけで、そう考えると「ゼクロス」が幻の作品となってしまったのは、必ずしも悲しむべきことではなかったかも知れない。
 なにより「暗闇大使」の圧倒的な迫力!
 故・潮健児さんも、もしこのマンガを読めば「俺がもっとやりたかった!」と悔しがるんじゃないかってくらいに悪辣でブキミである。1〜3巻まで面白く読んでいながら、もうひと味がほしいな、と思っていたのが「敵の大幹部」だったのだね。さあ、果たして「地獄大使」と「暗闇大使」の関係はこれから先どう描かれるのか。本当にこの二人は「イトコ」なのか(^o^)。


 夜、CS日本映画専門チャンネルで黒澤明監督の『わが青春に悔いなし』を見る。ニュープリントでの放送、というので、ふと、DVDとの比較がしたくなって、DVDをかけながらチャンネルを切り替えてみるということをやってみる。
 結論を言うと、画質はDVDの方が圧倒的によい。
 テレビの方では、大河内伝次郎の洋服がベタッとつぶれて影になっているところが、DVDだと布地の目までハッキリと見える。何より、DVDはフィルムのキズや汚れを極力除去している。これくらいのことをしてくれれば、DVDを買っただけの甲斐はあるというものだ。


 他にも本読んだり、DVD見返したりとかしてたんだけど、量が膨大になるので省略。だから書くこと多すぎるんだってば(自業自得)。

2002年02月09日(土) ほーりつも人が作るもの/映画『まあだだよ』/『仄暗い水の底から』(鈴木光司・MEIMU)ほか
2001年02月09日(金) お姫様を探せ!/アニメ『タッチ・CROSS ROAD 風のゆくえ』ほか


2003年02月08日(土) 敬三の乗る船/映画『シミキンの無敵競輪王』/『ワンピース』27巻(尾田栄一郎)

 スペースシャトル・コロンビア号の空中分解事故の後追いニュース、段々矮小かしてきている。
 米連邦大陪審が5日、コロンビアの地上に落下した破片を盗んだとして、窃盗罪でテキサス州東部の住民2人を起訴したとの報。
 「記念」に取っておくつもりだったのか、どこぞで売りさばくつもりだったのか、事情は明かされてないが、どうせ世間の「良識派」の人たちは「人が死んだというのに、なんという不謹慎な」と怒るんだろうね。
 もちろんそれは「正論」であるし、別にそういった意見自体に反駁するつもりは全くないのだが、ただ誰がどの口でそれを言うかな、とは思うんである。
 みなさん相変わらず「冥福」祈りまくってますけどねー、祈ってるだけなんだよねー。チャレンジャー事故のときもみんな祈りまくってたけれど、それで何かが変わったかね。「祈り」ってのは自分で考えることを放棄してる行為でしょ? 「自分以外の誰か」に頼ってるだけだよね? イヤな言い方になるけどさ、祈ってることで事故について考えることをやめちゃう人がほとんどだったんじゃないの?
 伊丹十三が『お葬式』を作ったときに言ってたけどさ、「葬式」って、死者を悼むためのものじゃなくて、集まった人たちの人間関係を再構成するためのものだってんだね。それは実感するよ。死者について泣くことだって、結局はその人の存在を過去に押し流すための作用なの。
 ここで、安易に祈るだけの人を私が批判しようと思ってるわけじゃないってことはちょっと強調しておきたいね。だって、実際、シロウトは祈って忘れることしかできないでしょ? NASAに今後の改善について建設的な意見が言えるわけでもなし。ただ、こないだも書いたことだけどさ、それは事態を傍観するしかないってことだから、ヤクザに絡まれてるねーちゃんを助けないってことなんだってことは自覚しとこうよってことなの。
 野次馬根性と対岸の火事を決めこむことしかできない人間ばかりだってのに、誰に今回の犯人を「盗人」と非難できるのかね。
 いやね、こんなどーでもいいことまで(多分こっそり破片を拾ったやつなんてもっとたくさんいるはずである)ニュースにしてるマスコミ自体、今回の事故をどんどん風化させていくことに大きな一役を買ってるんだよ。所詮は他人事のスタンスなのよ。
 でもさ、破片が人体に及ぼす悪影響も懸念されてるってことだからさ、いっそのこと、未知の病気が流行するようにでもなれば面白いと思うけどね。そうなったら、他人事ではすませられなくなるよねえ。祈ってる余裕なんてなくなるよねえ。日本人の「祈り」の正体なんて、その程度のものなんだよ。


 朝からCS日本映画専門チャンネルで『シミキンの無敵競輪王』。
 もう「シミキン」が誰かってことから説明しないとわかんない時代になってるんだよなあ。と言っても、私も知識として知ってるだけで、実際に映画に出てるのを見たのはこれが初めてだ。
 清水金一、というのがフルの芸名。浅草オペラの清水金太郎、続いて柳田貞一の門下となり、戦前から喜劇役者として活躍した。エノケンは兄弟子にあたり、映画での共演もいくつかありはするが、後、森川信の「ピエル・ボーイズ」に参加した後、古川緑波の「笑の王国」に加わる。戦後は主に堺駿二と組んで(すぐに喧嘩別れしたらしいが)30本以上の映画に出演、子供たちのアイドルとなった。
 全盛期の人気は、エノケン・ロッパを凌ぐほどだったらしいが、1950年代に入ると人気は下降。本人の性格の悪さも祟ってか、晩年は不遇だったようだ。昭和41(1966)年死去。
 『無敵競輪王』は1950年の制作、堺駿二とのコンビを解消した直後で、シミキン最後の主演映画。柳家金語楼・渡辺篤・小林十九二・三木のり平・朝霧鏡子が共演。脚力だけが自慢の貧乏学生が競輪選手として成功するまでを描いた、そう面白くもない喜劇。シミキンという人はタレ目で面長、茫洋とした表情の人だが口跡はハッキリしている。今見るといかにも善人っぽくはあるが、そう体技にキレがあるわけでもなく、どうして爆発的人気を誇っていたのか、この一本だけでは判断できない。
 脚力のあるところを示すギャグが随所に出てくるのだが、輪タク(自転車で引く人力車。これも戦後の風物である)を引いたまま電車に追いついたりとか、工場の足漕ぎ式の蓄電器が爆発したりとか、そしてクライマックスの競輪シーンもそうなんだが、全て特撮などによるゴマカシだからまるで説得力がない。どちらかというとワキの役者の方に目が行く。
 柳家金語楼は東宝映画の伝統のような調子のいい社長役を好演しているし、渡辺篤もこのころは後の黒澤映画出演時の飄々とした味わいとは違って、インケンで尖がってる役を軽快な動きで演じている。三木のり平はこのころからタイコモチっぽい(^o^)。『午後の遺言状』のボケた演技もすばらしい朝霧鏡子の娘時代のかわいらしい姿も見られた。
 あと、タイトルバックが杉浦幸雄のマンガ。これが金語楼などはよく似ているのだが、肝心のシミキンが似ていない。辛辣な諷刺画で知られた杉浦さんにしてはちょっと手抜きの似顔絵であった。


 映画に行こうと思っていたのだが、体調が優れず中止。
 いつもは私にくっつきたがって離れたがらないしげが、朝から私を何となく邪険にして「今日は出掛けんとね」なんて憎まれ口を叩く。
 「出かけなきゃいかんのかね」と言い返したら「邪魔やん」とミもフタもない返答をされる。
 どうしてだろうと思っていたら、鴉丸嬢が来るとのこと。
 「……何しに?」
 「チョコ作りに」
 そのコトバを聞いた途端、戦慄が私の背中を走った。
 いや、そんな大袈裟な話ではないのだが。

 話は、一週間ほど前に遡る(おお、何だか司馬遼みたいな展開! ……どこがや)。
 外から帰ってきたしげが何やら銀色に光る怪しいものを「抱えて」いる。
 よく見るとそれは金ダライ。ちょうどドリフのコントでいかりや長介の頭に落ちてくるような、やや平べったい感じのアレである。
 「何だよ、それ」
 「見てわからん? タライ」
 「タライは分るよ! 何に使うのかって聞いてんだよ」
 普通、こんな質問は愚問である。タライと言えば、赤ん坊やペットを洗ってやるとか、洗濯に使うとか、用途は限られている。
 けれど、うちには赤ん坊も動物もいないし、ましてや、あの電気洗濯機すら使いこなせない無精者のしげが、タライで洗濯しようなどと考えるはずもない。
 だからこそ、しげ with TARAIという姿が異様に見えたのだが、一拍置いて答えたしげの言葉を聞いて、私は耳を疑った。
 「バレンタインチョコの型だよ」
 「……はああ!?」
 ちなみに、そのタライの直径は48センチ。深さも5、6センチはあろうか。これを型にチョコを作るって……いったいどれだけの量のチョコが必要になるのだろうか。
 いや、量の問題ではない。
 「……おまえ、本気でそれでチョコ作るん?」
 「いかんと?」
 「いかんって……モノには限度ってものがあるやろ。やめとけよ」
 もちろん、一度暴走し始めたしげが、私の言うことなど聞くはずもないことはわかっちゃいたのだが……。

 てなことがあったのが1月31日のこと。
 私もタライのことはすっかり忘れていたのだが、やっぱり本気でタライチョコを作る気なのだ。
 私も私生活の中でバカな冗談を言うのは好きである。バカなプレゼントをして、相手がちょっと困ったような顔を見るのも楽しかったりする(←悪趣味)。
 しかし、しげのは「冗談」でそんなモノを作るのではない。
 しげはマジなのだ。
 そもそも一昨年、直径30センチくらいのバスケットボール大の球形チョコを作った頃からしげは壊れていったのだが(もともと壊れているという説もあるが)、よしゃあいいのにそれを「挑戦」と受け取った其ノ他くんが、見事に食べ切ってしまったおかげで、しげは自分の行為が「正しい」と思いこんでしまったのだ。
 しげは既にこれを「プレゼント」だとは思っていない。「真剣勝負」である。其ノ他くんがハッと気がついたときには遅過ぎた。しげの作るチョコは毎年「エスカレート」していく。そしてもう、後には引けないところまで追いつめられてしまっているのだ。ここで「もう結構ですから……」なんてことを言い出そうものなら、しげはショックでいつまでもいつまでも泣き続け、そのあと心に誓うだろう。
 「コ・ノ・ウ・ラ・ミ・ハ・ラ・サ・デ・オ・ク・ベ・キ・カ」
 そして其ノ他くんのウチの前に、毎年2月14日になると、中にたっぷりチョコを埋め込んだ呪いの藁チョコ人形が置かれ続けることになるのだ。

 昼前にやってきた鴉丸嬢、私の暗い表情とは裏腹に、嬉々として、チョコをいかに壊さずに作るかのレクチャーをしげにしている。自分の彼氏が苦しめられるハメになるというのに、何を喜んでいるのか。
 「いいじゃん、面白いから」
 とけらけら笑っているが、この子もしげが「本気」だということがまるでわかっていないのだ。

 チョコ造りの合間に、鴉丸嬢、本棚を何気なく見て、『蟹工船』のビデオを見つける。
 「何? この『カニエぶね』って。蟹江敬三が乗ってるの?」
 そう言って大笑い。
 バカだバカだと思っていたけどこんなにバカだとはなあ。思わず「オレ、40年生きてきて、『蟹工船』を『かにえぶね』って読んだやつ、初めて見たよ」とイヤミを言う。
 悪い子じゃないんだが、自分の無知を全く恥じないところが鴉丸嬢の人間としての成長を妨げてる気がしてならない。知識がないことは恥でもなんでもないが、無知を咎められて何も反省しないのは無知よりもずっと罪悪である。
 鴉丸嬢、中島らものファンだったらしく、らもさんの逮捕を嘆いている。その気持ちは分るんだが、「大麻くらい、いいじゃない」と不穏なことまで口走るのはどうもねえ(^_^;)。そのうちどこかで舌禍事件を起こすんじゃないかと、それも心配である。もっとも、私もつい口が滑っちゃうことってやたらと多いんで、あまり人のことは言えないんだけど。

 
 しげ、鴉丸嬢を送って行ったので、晩飯は博多駅まで出張ってラーメンを食う。そう、博多で一番不味い餃子を食わせるアノ店である。
 なんでそんな無謀なマネを、と言われそうだが、そんなのただの気まぐれであって理由なんてない。強いて言えば、急に思いっきり安い食いもんが食いたくなったってだけのことである。もっともそれはラーメンだけのつもりで、餃子まで食う気はなかったのだが、これも天のイタズラか、ラーメンだけ頼んだつもりが、セットで餃子も付いてきた……(゚゚)。
 相変わらず皮はベトベト、中の具は生煮えと、食えたシロモノではない。けど食い残すわけにはいかないので、吐き気を抑えて食う。そこまでして食わんでもいいように思うが、ともかく私は食いものを残すことくらい嫌いなことはないので、仕方がないのだ。で、食えばともかく食えるものである。
 しかし、定連でこの餃子食ってるやつもいるのかなあ。いったいどういう味覚してるのか、一度聞いてみたいんだが、ムリな話だしなあ。
 誰か福岡在住者で、「そんなに不味いならいっちょ俺が食ったろか」ってバ……いや、アドベンチャラーはおられないだろうか。率直な観想をいただきたいものである。


 マンガ、尾田栄一郎『ONE PIECE ワンピース』巻二十七(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 スカイピア編に入ってから、以前にも増して、ずぇ〜ん、ずぇん、面白くなくなってるって感じてるの、私だけですか。
 キャラクターもドラマ展開も前に出て来たパターンの二番煎じ、三番煎じだし、何よりルフィたちがここに何のためにいるのかがハッキリしないままお話が進んでいる。読んでるこちらは何か事件が起こっても、「ふ〜ん、それで?」ってな気分なのである。
 ラストでメンバーがバラけちゃうのも、「もうやめてくれ」って言いたくなるくらい、ジャンプマンガで繰り返されてきたことだ。こんな陳腐なドラマになっちゃっても修正する気配すらないのは、尾田さん、もう余裕なくなってるんじゃないか。
 早いとこ、最終シリーズに行っちゃおうよ。本人は「100巻越すネタがある」と『オモ!』で豪語してたけど、それ錯覚だから。もう才能は尽きちゃってるから、次の連載、今から考えとこうよってば。(2003.3.9)

2002年02月08日(金) サルでもわかる『ハリポタ』/『パワーパフガールズ』2巻(クレイグ・マクラッケン原作)ほか
2001年02月08日(木) ザッツ・エンタテインメント!/2000年度キネマ旬報ベスト・テン


2003年02月07日(金) ベスト?/『赤ちゃんをさがせ』(青井夏海)/『じつは、わたくしこういうものです』(クラフトエヴィング商會)/映画『白夫人の妖恋』

 朝、いきなりしげから叩き起こされたら、動悸が激しくなってナマ汗が出てきた。私の具合が悪いときに看病しないだけならまだしも、悪化までさせるか。
 時々マジで夢に見るんだけどさ、夜、私が寝ていたら急に頭痛がして、「あ、頭がイタイ!」って叫ぶのよ。そしたらしげが、「どしたん! だいじょぶと!」と言うやいなや、私を揺さぶって振り回すのな。
 「アンタ起きりー! 寝たらいかんちゃー!」
 それは雪山の遭難だ(-_-;)。で、私の脳の血管がプツッと切れてオダブツ。
 ……なんか現実にそうなりそうでシャレにならんぞ。
 仕事に出かけても頭痛と動悸が激しく、便所でもちょっと吐いちゃったので、半日で帰宅して寝る。しげも昼間なので当然寝ている。だからメシはやっぱり自分で作るんだよ(T∇T)。


 『キネマ旬報』2月下旬号で、2002年度のベストテンが発表されている。
 こういったベストテンと興行収入のそれとは無関係、というのはわかっちゃいるんだが、それにしても選考委員たちのアニメ無視の傾向は目に余るほどである。
 以前、ニフティのオタアミ会議室で、私が「『キネ旬』はアニメを無視している」と書いたら、「昔に比べればよくなってる」と反駁された方がいた。そりゃマシになってることは私もずっと読んできてるから分ってるんだが、例えば、57名の選考委員のうち、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦』に投票したのはわずか5人である。
 0が5に増えたからって、アニメが許容されたとは言えんてば。しかもこれが32位で、昨年のアニメの最高位だよ。
 ついでだから、昨年のベストテン、及び、アニメ・特撮作品の順位がどうなってるか、書いておこう。これでもアニメが映画として認められたと言えるかどうか。

1、たそがれ清兵衛
2、刑務所の中
3、KT
4、OUT
5、AIKI
6、笑う蛙
7、阿弥陀堂だより
7、ごめん
9、ピンポン
10、とらばいゆ
11、青い春
12、Dolls
13、助太刀屋助六
14、害虫
15、UNLOVED
16、ラストシーン
17、海は見ていた
18、なごり雪
19、元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯
19、突入せよ! 「あさま山荘」事件
 ……
32、クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ! 戦国大合戦
36、千年女優
47、WX�掘ゝ‘扱抻.僖肇譽ぅ弌治�
55、リターナー
61、ゴジラ×メカゴジラ
61、仄暗い水の底から
76、恋に唄えば♪
76、名探偵コナン ベイカー街の亡霊

 私もベスト20の中で見てる映画が『OUT』と『ピンポン』と『助太刀屋助六』しかないので(福岡未公開のものも多いし、ともかくしげがこういうベストテンに入りそうな作品を毛嫌いするのである)、たいした比較のしようもないのだが、少なくとも『青空侍』がこの三本に負けているとはとても思えない。
 それに、お気づきだろうか?
 昨年、興行収入トップだった『猫の恩返し』がただの一票も入っていないのである。『恋に唄えば♪』ですら一票入れたアホがいるというのに。
 もっとも、読者選出ベストテンでも『猫』は全く票が入っていないから、『キネ旬』読者の満足度は相当低かったらしい。けれど、アレはそんなに『悪い』映画だったか?
 とかく教訓臭くなっていた最近のジブリ映画と違うものを作って見せたことはまさしくジブリの可能性を広げたことに他ならない。作画レベルも第一級だ。ところが『キネ旬』本誌では、例えば山根貞男が「宮崎駿のマネ」と的外れな批評をして、続く批評もほとんどそれに追随するような形になっていた。選考委員たちのほとんどにアニメを見る目などカケラもないと断じてよいと思う。
 野村正昭も「『猫の恩返し』+『ギブリーズepisode2』の功績を忘れてはなるまい」なんて書くんだったら一票くらい入れろよ(-_-;)。
 映画に「教訓」を求める人たちばかりだと、どうしてもこうなってしまうのである。たわいない映画を丹念に作ることがどれだけ凄いことか少しは気づけよな。

 ちなみに、読者選出ベストテンでは上位はたいして変わらないが、『青空侍』は13位に、『千年女優』は23位に食いこんでいる。少しは洗脳効果があったと見るべきか。

 
 青井夏海『赤ちゃんをさがせ』(創元推理文庫・672円)。
 『名探偵コナン』なんてミステリでもなんでもない、ただのクズじゃと散々罵倒してるから、だったらオマエの考えるいいミステリってのはどんなんだよってツッコミたがってる人は結構いるかもしれない。
 そういう人に一度読んでもらいたいのがNHKテレビ化のこの作品。
 あの『スタジアム虹の事件簿』で、虹森多佳子というおばあちゃん名探偵を登場させた青井夏海さんが、またまたおばあちゃん探偵を創作。
 しかも今度のおばあちゃんは元助産婦にして完全なる安楽椅子探偵!
 あ、ここで「安楽椅子探偵(アームチェア・ディティクティブ)」について説明しておくと、事件を実際に捜査するんじゃなくて、人から事件の話を聞いただけで見事な推理力を発揮して真相を見抜いてしまうっていう、天才型の探偵の総称なのね。その元祖はバロネス・オルツィの『隅の老人の事件簿』。日本でも都筑道夫の『退職刑事』シリーズなどが有名。純粋にデータのみで推理するってところがまさしく本格ミステリの神髄。
 さて、物語の主人公は、見習い助産婦(今は助産師というようになった)の亀山陽奈。主役だけれども、後ろに探偵役の推定70歳・明楽知代(あきら・ともよ。なんだか名前が乱歩の明智文代夫人に似てるねえ)先生が控えているから、陽奈ちゃんは「走るワトソン役」というわけ。ワトソンというより銭形警部じゃないかってくらいにトンチンカンなことしまくってますが(^o^)。
 助産婦っていうのは昔の産婆さん。つまりは自宅出産を希望する人のためのちゃんとした職業なんだけれど、病院で子供を産むことが普通になった現代では、かえって偏見の目で見られることも多い。そのせいで現実にトラブルもいろいろ起こってるみたいだけれども、この物語では一風変わったトラブルに陽奈たちは遭遇してしまう。
 第一話『お母さんをさがせ』。
 どうしても跡継の息子がほしい大富豪の苦肉の策とは、なんと妊娠した三人の妻(そのうち二人はニセモノ)のうち、誰か一人でも男の子を産んだらその子を自分の実子とする、というもの。そんな女性を子供を産むためだけの道具とするなんて、と怒り心頭に発した陽奈ちゃん、ホンモノのお母さんは誰だ? と探し始めるが……。
 第二話『お父さんをさがせ』。
 イマドキの女子高生、理帆は友達の透くんと「できちゃった婚」をすることに。でもカタブツの両親はとても許してくれそうにない。そこでわからずやの両親にナイショで子供を産む決心をする。
 ところがそこに現われた二人の男は、まるで「赤ちゃんの父親は自分だ」と言わんばかりの行動を取り始める……。
 第三話『赤ちゃんをさがせ』。
 一番サスベンスフルな一編。陽奈の同僚、聡子が最近沈んでいるわけは、別れた元夫、宝田につきまとわれているから。折りしも自宅出産の依頼が続々とキャンセルされる。これも宝田のいやがらせのせいなのか……? 事件は、信仰宗教もからんで赤ちゃん拉致事件にまで発展してしまう。
 毎回毎回、殺人の復讐の、とギスギスした物語展開が鬱陶しい最近のミステリマンガに比べて、青井さんの小説のなんと爽やかで清々しいことか。ミステリ読むなら、こういうのから始めましょうよ。


 クラフト・エヴィング商會著・坂本真典写真『じつは、わたくしこういうものです』(平凡社・1995円)。
 いわゆる「企画本」ってやつである。
 体裁は、いろんな職業の人に取材して、その特徴を語ってもらう、という形を取っているのだが、もちろん、“そんな職業はない”。

 一つめの職業。
 「月光密売人」である。
 小栗六郎・58歳。背広を着た目つきの悪い男が、空を斜めに睨んでいる。あの月の光を昼の日中に売る。夜売るのではないから「密売」と洒落た。そう小栗氏は語る。
 シャミッソーの『影をなくした男』に登場する「七里靴」。あれを小栗氏は手に入れた。そこで思いついた「月光売り」。地球の裏側にひとっ飛び、中国の故事にあるがごとく、「杯に月を充たして」、瞬時に注文主のもとに戻ってくる。
 「どなたにでもお売りします」
 もう一枚の写真の小栗氏の手には、白く光る杯が。

 二つ目の職業。
 「秒針音楽師」。
 世界で一番小さな音楽を作る人。
 若林弓子さんは28歳、楚々とした美人が、木漏れ日の森の中で、小さな小さなバイオリンで曲を奏でている。
 『一枚の落ち葉のための音楽』。
 『一本の煙草のためのワルツ』。
 ほんの数十秒、あるいは数秒で終わってしまう音楽。どうしてそんな短い局しか作らないのか?
 彼女は言う。
 「この世って、みんな小さな『かけら』でできていると思いませんか?」

 三つ目の職業。
 「果実勘定士」。
 果物の品質を鑑定する人? いえいえ、「鑑定」ではなく「勘定」。
 この木にはいったいいくつの果実が実るのか。
 冬のさなか、一本の枯れ木を見ながら半年後の果実の数をピタリと勘定する。それが幸田紺さん、37歳の仕事。穏やかな顔の、ヒゲのおじさんである。
 枯れ枝に優しく触れる幸田さんの横顔はなんだかあの宮澤賢治みたいだ。

 四つ目の職業。
 「三色巻紙配達人」。
 三つの巻紙はそれぞれ、「過去」「現在」「未来」のためのもの。
 坂口杏さん、24歳は、人の、言葉にできない思いを、赤・青・黄色の三つの巻紙に写し取り、その思いを過去のあなたに、今のあなたに、未来のあなたに届ける。
 時はどうやって遡るのでしょう?
 「遡る」とは「坂、登る」と書きます。そうです、そういう坂が昔から、ずっと昔からあるのです。
 あなたも坂口さんに手紙を届けてほしいですか? けれどそのためには一つの条件があります。「赤巻紙青巻紙黄巻紙」って早口言葉を、スラリと言えないといけないんです(^^)。

 こんな変わった職業の人が、全部で18人。
 残りの人の職業だけを紹介すると、「時間管理人」「チョッキ食堂」「沈黙先生」「選択士」「地暦測量士」「白シャツ工房」「バリトン・カフェ」「冷水塔守」「ひらめきランプ交換人」「二代目・アイロン・マスター」「コルク・レスキュー隊」「警鐘人」「哲学的白紙商」「シチュー当番」。
 さて、どんな職業か、見当がつくでしょうか?

 この中には、確かに変わっているけれども現実にありそうなもの、現実にあってほしいもの、ちょっと現実的には無理だけれどもなんだか可笑しいもの、などなど、いろんな職業が考えられている。
 でも、中でもやはり心惹かれるのは、「ホントにこういう仕事、あるんじゃないか」って思わせてしまうもの。現実から離れ過ぎてしまったら、面白くはあるけれど笑って楽しむことしかできない。
 ちょっと浮世離れしてはいるけれど、ホントにありそうなもの、そのバランスが取れているのが一番面白い。

 私が特に好きな職業は最後の「シチュー当番」。
 名前の通り、「シチューを作る当番」なのだけれど、働いている場所が問題。
 羽深月子さん、36歳のお勤め先は「冬眠図書館」。冬の間だけ開いている図書館。しかも開館時間は夜の8時から朝の8時まで、夜の間だけ。
 この図書館を作った人たちは本当の本好き。けれど、仕事が忙しくてなかなか本が読めない。ついに冬の間だけ、仕事をすることをやめて、みんなで本を持ち寄って、回し読みするためだけの「図書館」を開設してしまった。
 でも食事はどうするの? 寒さに震えたら?
 というわけで、できたのが、「コーヒー当番」「コッペパン当番」「ブランケット当番」「シチュー当番」。羽深さんは司書兼、「シチュー当番」なわけ。
 実は羽深さんの当番は交代制。だってそうしないと、羽深さんの本を読む時間がなくなってしまうから!

 なんだかこの一つ一つの職業をもとにして、小説か戯曲が一本書けそうだよなあ(^o^)。


 CS日本映画専門チャンネルで、『白夫人の妖恋』を見る。
 中国民話『白蛇伝』に取材し、林房雄『白夫人の妖術』を原作とした日米合作のこの映画、ラストの大津浪のシーンなど、円熟期の円谷英二のハデな特撮で有名なのだが、実は今回が初見。
 以前から見たい見たいと思ってたんだけど、ビデオ発売もなかったし、テレビ放映もあったんだかどうか。以前、ZUBATさんに「意外に有名なのを見てないんですね」と言われてしまった。こういう「見逃し」があるから「特撮ファン」とも名乗れない。……オレ、何かのファンだって名乗れるジャンルがあるのかな(ーー;)。
 映画について語る前に、ちょっと気になることがある。というのがこの映画のタイトルの読み方である。
 日本映画専門チャンネルのホームページでは、これを「びゃくふじんのようれん」と読ませているのだが、李香蘭……ああ、いやいや、山口淑子の演ずるヒロインの名前は、劇中では「白娘(パイニャン)」である。だとすると、このタイトル、「ぱいふじんのようれん」と読むのが正しいんじゃないのか? 私はずっとそう読んできたのだが。
 不思議なことに、劇中でちゃんと中国語で名前を呼ばれているのはこの「白娘」だけなのである。お付きの「小青」はそのまま「しょうせい」だし、主人公の「許仙」は「きょせん」である。劇中、やたら「キョセン」、「キョセン」と呼ばれるものだから、そのたびに大橋巨泉の顔が浮かんで困った。
 三年後にリメイクされた東映動画版『白蛇伝』では、「許仙」は「しゅうせん」、「小青」は「しゃおちん」とちゃんと中国語読みされている。なんでこんないい加減なことしたのかなあ。
 映画自体は民話が現代的なドラマとして再生されたとは言い切れず、名匠、豊田四郎の演出もなんだか大雑把である。
 なにより、白娘を演じる山口淑子が既にトウが立ち過ぎている上に、やたら眉間にシワを寄せて勘定的な演技ばかりするものだからまるで美しくない。戦前の『支那の夜』のころの方がずっと美しかった。もしかして、また「中国人」を演じさせられることに内心で反発でもしていたのだろうか。
 白娘に比べると、小青役の八千草薫のほうが、ちょっとロリコン入っちゃいるけどずっと可憐だ。許仙と白娘を結びつける小悪魔みたいな役割(『白蛇伝』では魚の精だか、本編では小蛇の精。原典の民話自体にその二通りのものがあるようだ)を、楽しげに演じている。恐ろしいことに小青、東映動画版とは違って、最後には主人の白娘を裏切ってしまう。愛ゆえにどうしても許仙を殺せない白娘に愛想を尽かしてしまうのだ。……って、この二人を結びつけたのオマエじゃん(^_^;)。最後まで面倒見ろよ。
 他の出演者も演技派揃いで豪華絢爛。
 法海禅師(徳川夢声)、宿の亭主・王明(上田吉二郎)、許仙の姉・<女交>容(清川虹子)、その夫・李公甫(田中春男)、茅山道人(東野英治郎)、役人(小杉義男・沢村いき雄)、油売商人(谷 晃)、仙翁(左卜全)。
 それからクレジットになかったので驚いたのだが、ほんのワンシーンのカメオ出演で、森繁久彌が露店商を演じている。ということは、森繁、実写とアニメの両方の『白蛇伝』に出演していることになる。「白蛇伝俳優」と呼んで差し支えないのではないか(^o^)。
 ただ物語はヒドイ。
 白娘が白蛇の化身と知った許仙が逃げ惑って、というパターンはこの手の物語の定番なのだが、最後にこの二人は和解する。ところが和解した途端に、法海禅師に殺されてしまうのだ。殺すくらいならなんで助けたかな。で、二人は手を取り合って極楽に向かうのだけれど、これっていったい、ハッピーエンドなのかアンハッピーエンドなのか。
 理解に苦しむ映画だったなあ。(2003.3.8)

2002年02月07日(木) びっくりにびっくり/アニメ『七人のナナ』第5話/『なんだかコワレ丸』1巻(矢也晶久)ほか
2001年02月07日(水) ♪それ行け、不倫不倫不倫、どこまでも♪/『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』ほか


2003年02月06日(木) 新聞がみんな同じに見えるのは気のせいですか(~_~;)/DVD『明智小五郎対怪人二十面相』/『D坂の殺人事件』(江戸川乱歩)

 スペースシャトル・コロンビア号の空中分解事故(「爆発事故」ってずっと書いてたけど、こういう言い方のほうが一般化してきたみたいね)に関連するニュースがいくつか。

 一つは出るんじゃないかな、と思ってたらその通りに出てきた「犯人探し」。
 NASAの元保安担当技師ドン・ネルソン氏(なんか怪しい名前だな)が、昨年8月の段階で、コロンビア号の事故の可能性を指摘した手紙をブッシュ大統領に「直訴」していたにも関わらず、その手紙は科学担当のマーバーガー大統領補佐官が読んだだけで、大統領の手には渡されなかった、というもの。
 記事のタイトルは、「事故の可能性指摘の手紙、黙殺されていた」といかにも煽情的。「この時、マーバーガー補佐官がきちんと対応していれば、事故は防げたのでは……」と読者に思わせようって魂胆なんだろうが、記事をよく読むと、「マーバーガー補佐官は安全面についてNASAと協議した後、ネルソン氏に『シャトルの安全強化策を取った。大統領が飛行の一時停止するのは適当ではない』と返事を送った」ということである。
 黙殺してねーじゃん(-_-;)。
 NASAの安全管理体制を批判することはまだできるとしても(それとても予想の範囲外だったと擁護する向きもあろう)、政府の対応を批判することは難しいんじゃないか。大統領の強権発動をしょっちゅうやられちゃったら困るよってことは、ブッシュ本人見てりゃわかることじゃん。アレに「俺が正義」って意識を持たせ過ぎるのは危険だって、マーさんも思ってたんじゃないか(^o^)。となるともしかしてこの人、すげえ実務屋さんかもよ。
 ともかく原因究明中の段階で「こうしてれば事故は防げた」報道ってやたら出てくるけどさ、これって「あの戦争も、あの時こうしていれば」ってのと同じで、本当に判断ミスだって言えるものって少ないんだよ。偶然と不可効力の集積までも特定の人物に責任を押しつけたがる心理って、基本的には自己責任の回避と転嫁の意識が働いちゃってる結果だって解釈されるものなんだけどさ、どうして自分に責任が及ぶはずもないシャトル事故についてまで「責任は俺たち民衆にはないぞ、政府が悪いんだ」って方向に行くかね。
 実はね、マスコミも民衆も、ハッキリと自覚こそしてないけれど、今回の事故について「責任」を感じてるんだよね。
 だってみんな、今までずっとなーんも考えずにシャトルの打ち上げ喜んで見てたでしょ? チャレンジャー号の事故が起こったって、あのあとNASAがどう安全対策を取ったかなんてこと、興味も持たなかったでしょ? マスコミも全然報道してこなかったじゃん? 日本のH2ロケットが打ち上げ失敗するたびに「予算がもったいない」とか「識者」は煽ってたし、それ聞いてたアナタも「そのカネ、オレにくれよう」とか思ってたでしょ?
 その「予算縮小」の結果が今回の事故の可能性もあるんだよ?
 どう? 自覚はしてなかったかもしれないけれど、なんとなく罪悪感は感じてたんじゃない?
 つまり、電車の中でヤクザに絡まれてる女子高生を見て見ぬフリしたあとの後ろめたさと似たような罪悪感を、無意識のうちに感じちゃってるから、マスコミも民衆もみんな「犯人探し」をしちゃうのである。
 これまでずっと無関心をきめこんでたんだったら、今更大慌てで「原因の究明」を、だなんて正義派を気取ってんじゃないよ。こういうときに「何か語らなきゃ」なんて考えちゃうのがそもそも偽善だというのだ。

 あともう一つ、これもあるんじゃないかと思った「自粛」現象。
 パラマウントが公開予定の『ザ・コア』の予告編に、スペースシャトルが制御不能に陥るシーンが含まれているということで、全館から引き上げたとか。本編からそのシーンをカットするかどうかは検討中、ということだけれど、まだまだ「ほとぼりが冷める」には間がないからDVD特典になるのを待つことになるんじゃないかな(^^)。
 以前はこういうくだらん自粛シンドロームにも腹立ててたけど、まあモノによってはこうしてカットされたものが必ずしも完全に幻になっちゃうとは限らない、とわかってきたからね。どうせ一年も経てば世間はこの事故のことも忘れちゃうから(否定はできんだろう)、今だけの自粛、自粛。
 でももしも完全カットで日の目を見ない、ということになっちゃったらやっぱり腹が立つから書いとくけど、そういう「現実と虚構」の混同を日頃は戒めてたのがマスコミじゃなかったのかね。映画会社も自分たちの作ってる「虚構」に自信を持ってるなら、安易に自粛なんてするなよ、みっともない。
 日本刀を振りまわす殺人犯が現われたら、時代劇を全部自粛するか?


 日本映画製作者連盟(映連)が、昨年(2002年)の興収10億円以上の映画を発表している。日本映画の方だけ紹介しとくと、

1位 『猫の恩返し』『ギブリーズ episode�供� 64.6億円 東宝
2位 『名探偵コナン ベイカー街の亡霊』 34.0億円 東宝
3位 『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』『劇場版とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険』 27.1億円 東宝
4位 『劇場版ポケットモンスター 水の都の守護神 ラティアスとラティオス』『ピカピカ星空キャンプ』 26.7億円 東宝
5位 『ドラえもん のび太とロボット王国』『ぼくの生まれた日』『ザ・ドラえもんズ ゴール!ゴール!ゴール!!』23.1億円 東宝
6位 『千年の恋 ひかる源氏物語』 20.8億円 東映
7位 『2002年春東映アニメフェア ONE PIECE 珍獣島のチョッパー王国』『デジモンテイマーズ 爆走デジモン特急』『ワンピース 夢のサッカー王』 20.0億円 東映
8位 『模倣犯』 16.1億円 東宝
9位 『犬夜叉 時代を越える想い』 15.4億円 東宝
10位 『ナースのお仕事 ザ・ムービー』 14.4億円 東宝
11位 『仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL』『忍風戦隊ハリケンジャー シュシュッと THE MOVIE』 14.3億円 東映
12位 『ピンポン』 14.0億円 アスミックエース
13位 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』 13.0億円 東宝
14位 『リターナー』 12.9億円 東宝
14位 『トリック 劇場版』 12.9億円 東宝
16位 『たそがれ清兵衛』 12.0億円 松竹
17位 『突入せよ!「あさま山荘」事件』 10.0億円 東映

 「10億売れたらヒット」ってコトバはよく聞くけど、あれって興行収入じゃなくて配給収入のことだから、実質的に映画だけでペイしてるって言えるのは7位あたりまでだろうね。あとの映画はビデオだのテレビ放映権の収入だの、二次収入でなんとか資金回収ってとこだろう。
 それにしても強いね、アニメと東宝(^o^)。10位までに実写が三本しか入ってない(『ハムゴジ』は当然『ハム』に比重があるから)。こういうのを見てすぐに「映画が子供のものになってしまった」ってワケシリ顔で嘆く映画評論家がいるけど、大人も見てるんだよ、アニメ(--#)。
 もっとも、大きいお友達がハマッてしまう『クレしん』なんかは13位だから、これをして「アニメブーム」と呼ぶのは妥当ではない。親子連れを期待しない社会現象としてのアニメブームは、やはり『エヴァ』が最後なんである。「アニメは子供のもの」と思われないためにも、せめて10年ごとにそういうブームが起きてほしいもんなんだけれど、劇場アニメでそれを起こすのは至難のワザなんである。庵野秀明が『エヴァ』をテレビシリーズとして送り出すことに固執してた意味を考えてみようよ。宮崎駿や大友克洋、押井守の新作も、劇場アニメである限り、ヒットはしてもブームは起こせないよ(ヒットも危ういと思うが)。
 じゃあ期待できるテレビアニメがこれから出てくるかってことについて言うと、私が一番注目してるのは、果たして4月からの『鉄腕アトム』がその起爆剤となり得るかどうかってことなんで(^o^)。
 いや、冗談ではなくて、これヒットさせないと、手塚プロ、もうあとがないでしょ。死に物狂いで力入れるんじゃないかって思うわけよ。あそこ、手塚治虫の遺産は、もうほとんど食いつぶしちゃってるんだから。


 さてさて、これはビックリというか、全然意外じゃないというか(どっちなんだよ)、中島らもが逮捕されちゃいました。
 大麻所持ということなんだけれど、過ぎった思いは「なんで国内で吸うかなあ」ということだけ。今度の件については、「大麻を吸うことがいいことか悪いことか」、なんてくだらん談義はしないよ。
 柳美里のことに触れたときにも書いたが、作家や芸術家が非常識で反社会的なのは、それが既成概念に凝り固まって硬直しきった社会に対するカウンターカルチャーたりえるからで、その点、中島さんが大麻を吸うことは、日本の法的には犯罪であっても、作家の魂としては正しいのである。「廃人としての作家」の道を選ぶのは本人の自由だし、作家に規範を求めるのがそもそもの間違いだ。
 中島さんにとってはタイホもまた「経験」である。こうなったら、絶対に反省や謝罪などせず、できるだけ重い刑を受けてもらいたい。作家として復帰するのに時間はかかるだろうが、法を遵守して道学者めいた駄文を書き連ねて細々と生きてくよりは、「犯罪犯して何が悪い」と開き直って人間として壊れていってくれたほうが、らもさんらしいし、そうでなきゃ面白くない。
 どっちかというと、かつての僚友、わかぎえふが「最近はほとんど会っていないので、経緯は分かりませんが、今後は十分に反省し、社会的にも大人として作家として、しっかりと謝罪をしてほしいと思います」と保身に回ったコメントしたことのほうがガッカリだね。「あれはやめられないよ、病気だし」くらいのことは言って欲しかったな。世間の批判を気にするくらいなら芝居やるなよ。
 寺山修司は唐十郎に黒い花輪贈ったとき、「シャレだ」で済ましたぞ。怒った唐に乱入されたけど(^o^)。ノゾキをしたときも「芸術だ」と言い張ってたな。それでこそ演劇人。
 ただ気になるのは、中島さんだって自分が「作家」であるためには、国内で大麻吸っちゃマズイってことはわかってたはずだし、実際に「日本では吸わない」と発言もしてたようである。だったら、何で海外に行かなかったのか。
 もしかしてドビンボで行けなかったのか。まさかタイホされればタダでメシが食えるし、アルコール依存症も治療できるから一石二鳥とか考えてワザと吸ったのか。これって、結構可能性高いと思うんだけど、どうでしょう。
 

 今日はなんだか書くことが多いな、もうそろそろ簡単に行こう(^_^;)。
 朝方、夕べの残り雪で、道が凍結している。
 しげが山を越えて行けるかどうか心配してたので、早目に家を出る。
 「あの、雪道用のタイヤとかないの?」
 「そんなカネない」
 あっても買わんだろう、おまいは。その日の食を優先する人間が、年に1回使うか使わないか分らないタイヤを買ったりするわけがないのである。幸い、坂道もなんとか登れたんだけれど。
 いつもより30分以上早く出たのだから、帰宅したしげの睡眠時間、いつもより余計に取れてるはずである。なのに、夕方、駐車場に車の姿が見えないので連絡を入れたら、やっぱり寝ていた。
 「……ごめん、カラダ動かん、一人で帰ってへへへ(←息の漏れる音)」
 はいはい、いつものことだ。あとでタクシー代、払えよ。
 昼間、6、7時間寝て、朝方3、4時間寝て、どう考えても1日9時間くらいは寝てる計算になるんだが、やっぱり睡眠を二回に分けると熟睡できないものなのかな。でも1回にまとめるとあいつ、15、6時間は軽く連続して寝るからなあ(-_-;)。
 一緒に食事はできなくなったので、セブンイレブンに寄って、新発売のスープスパゲティトマト入りを買う。トマトソース、だけじゃなくて、トマトをそのままミックスしてるのが売りなわけだね。これだけでも食ってみるとちょっとゴージャスなもの食った気になるから、見た目の錯覚ってのは恐ろしいものである。
 しげが料理を作らないのも、「自分で作ると美味そうに見えないもん」と弁解するのだが、つまりは外食の外見に騙されてるのである。自分に中身がないから安々と他人の手にノっちゃうのだ。だから日頃から「自分のアタマ使え」と言ってるのになあ。


 DVD『明智小五郎対怪人二十面相』。
 あー、そこのミステリファン、溜め息つくんじゃありません(~_~;)。出来が悪かろうが、乱歩はともかく買うんだよ。
 テレビで放送されたときより、画面のセピアな感じが強調されてる気がするのは、DVDの特性のせいかな。
 特典として、メイキングが紹介されてるんだけれど、キャストがこぞって田村正和の明智を誉めてるのは原作ファンとしてはガックリである。やっぱりかつての映画やテレビ、映像のイメージの方が強いんだねえ。田村正和、「『怪人二十面相』は読んだかもしれないけど覚えてない」とか言ってたぞ。こんなやつに明智をさせるなよ。
 それはビートたけしも同様なんで、「話が来たとき、自分は明智じゃないな、と思った」と言ってるけど、原作の明智は、「好男子ではないが、どことなく愛嬌のある、そしてもっとも天才的な顔を想像するがよい。(中略)指でそのモジャモジャになっている髪の毛を、さらにモジャモジャにするためのように引っ掻き回すのが癖だ。服装などは一向構わぬ方らしく、いつも木綿の着物によれよれの兵児帯を締めている(『D坂の殺人事件』)」「非常に無口なくせに、いつもニヤニヤと微笑を浮かべている、えたいの知れない人物(『何者』)」なのである。
 それは初期の明智だ、と指摘する向きもあろう、しかし、後年、小林少年以下、少年探偵団を率いて颯爽としているように「見える」明智に変貌してからも、実はその本質は変わっていない。服は洋装に変わるが、その着こなしは無造作なままだし、モジャモジャ髪もニヤニヤ笑顔も変わっていないのだ。
 なにより彼は、怪人二十面相との対決を心から楽しんでいる。彼は推理ゲームが楽しめればそれでいいディレッタントなのであり、世間並の正義感で動く人間ではないのだ。彼は大人にはなれない。彼は社会に認知された犯罪者であり、永遠の子供なのである。
 となれば、田村正和とビートたけしのどちらが明智にふさわしいか、自ずと答えが出ようというものだ。……まあ、二十面相ももう一人の明智だから、ビートたけしが演じて構わないんだけど、やっぱり田村正和だけはなんとかして欲しかったなあ。まんま時代劇のキャラのままで演じてるんだから、歴代の明智の中でも最悪の一人だよ、これ。


 口直しに原作の『D坂の殺人事件』以下、乱歩の原作を読み返す。
 初期短編はまさしくあの松本清張をして「天才」と言わしめた珠玉の名編ぞろいである。幻想文学者としての乱歩を評価する人にとっては、これが乱歩の本質かどうか、異論を唱えたくもなろうが、乱歩は終生乱歩であったことが理知的な小説の中にもちゃんと見て取れる。乱歩作品を、これは本格、これは幻想、これは少年物、これはファルス、とか、単純化されたカテゴリーの中に入れて考えると、大事なもの見落としちゃうよ。
 今、一番手に入りやすいのは創元推理文庫版の『乱歩』シリーズだろうが、これは先に『日本探偵小説全集』の『江戸川乱歩集』に含まれた短編は含まれていないので、明智デビュー編の『D坂の殺人事件』と『心理試験』の前後編がバラバラに収録されている。なんでこんな雑な編集したかな、戸川安宣。
 これから乱歩の小説に触れようという方は、新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』一冊本が手ごろだろう。興味が湧けば、創元なり春陽文庫なりに移って頂ければいい。残念ながら講談社の江戸川乱歩全集は絶版だし、角川文庫もかつてほどのラインナップではなくなっている。これらで読みたければ、古本屋を博捜して頂くしかない。

 ついでと言っちゃなんだが、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』も読み返してみる。
 けれど岩波文庫の『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五編』の中野好夫の訳、ほとんど英単語を日本語に引き移しただけの素人訳で、文脈というものがなく、日本語として意味の通じるものになっていない。だいたいこの人、解説でも堂々と書いてるけど、ポーが推理小説の鼻祖であることもよく認識出来ていないのだ。名ばかり有名だけど、中野好夫ってただのバカだから信用しちゃいかんよ。
 まだ、新潮文庫の佐々木直次郎の方が読みやすい。けれどこういう流布版の本では、できるだけ訳には慎重になってほしいものだね。
 

 体調、夕方くらいからまたまた悪化。薬も尽きた。いったい私はどうなるの。(2003.3.5)

2002年02月06日(水) なんかもー、下血とともに生きる毎日ね/『幻竜苑事件』(太田忠司・大塚あきら)/『よみきり▽もの』1巻(竹本泉)ほか
2001年02月06日(火) 文化はやはり相対的なもの/『NOVEL21 少年の時間』ほか


2003年02月05日(水) タクシー慕情……演歌だね/DVD『銀座カンカン娘』/『総特集 江口寿史』

 梅宮アンナが離婚してたんですってね。
 いきなりどーでもいー話題から入ってしまいましたが、実は好きなんです、この手の話題。
 え? バカをバカにすることで優越感に浸ってるんだろうって? まあ、そういう面がないとは言わないけど(^o^)、私ゃ若い人は20代のうちにいっぺんくらい結婚して離婚してってのを経験してね、そうして人を見る眼を育ててもいいんじゃないかって思ってるんで、梅宮アンナもそういうモデルケースに該当するかどうかなって注目してるってことなんですよ。
 もうはっきり言っちゃいますが、どんなに若い人が否定しようと、20代までの人間はみんなバカです(そういうオマエはどうなんだ、なんて怒ったりする20代はやっぱりバカ。私ゃ別に自分がバカじゃないなんて言っちゃおりやせん)。バカでしかいられないんです。で、自分がバカであるってことに気がつくためには、それこそ何度でも失敗を繰り返さないとダメなんですね。どんなに自分が経験を積んだつもりでも、20代までのそれなんて微々たるもの、そんなものは屁の役にも立ってなくて、ただ自分の思いこみで行動してるだけなんですよ。
 これもハッキリ言いますが、結婚して実質的に特することなんて何もないんです。岡田斗司夫さんの意見と似ちゃうんですけど、特に女性は損することばかりです。他人と一緒にいて、他人のために自分の時間が削られるわけですよ? それで何がどう得するというんですか? だからね、相手と結婚するんだったら、よっぽどどんなに損したっていいから、引き換えに二人で何かをしようって決意がないと、続かないんですよ。
 梅宮アンナが結婚して「何かをしよう」と考えてたと思いますか?
 「幸せな家庭」? どうやって?
 具体的なビジョンもなしに結婚生活が続くほど、今は甘い世の中じゃないですよ?
 「夫が定食につかない」って、離婚の原因はそれだそうですが、「梅宮アンナの夫」って肩書きの人間がマトモな就職ができると思ってたんですか? 「梅宮アンナ」って名前、ビジネスライクな世間じゃほとんどプラスな意味では受け取られてないんですよ。自分がどんな風に世間で受けとめられてるか、自分がどれだけ夫の足を引っ張っているか、まるっきり自覚がないんですね。
 いや、そもそもそういうリスクを背負うとわかってて結婚した元夫も考えが甘いんです。だからもう、これは結婚当初から「いつか離婚するぞこのバカップル」って目でマスコミからは見られてたんですから。ワイドショーがいやらしげにこの二人につきまとってたのはそういうわけがあったからで。
 これで梅宮アンナに少しは自分を見る目、男を見る目ができたんなら、それをネタに彼女はまた一冊、本が書けるかもしれませんが(^o^)。
 ……でもなあ、梅宮アンナだからなあ。バカ女にゃ永遠にバカ男しかつかまえられないような……って、やっぱりバカにしてんじゃん(^_^;)。


 ヤワラちゃんこと、田村亮子が書いた、自分の似顔絵や「Yawara」のサインなどが入ったキャラクターグッズ(クリアファイルや携帯電話のストラップ、タオル)の販売が決まったんだって。
 団体ならともかく、個人の選手のキャラグッズが売り出されるのは始めてだそうな。
 ……で、その売り上げはどこに流れるの?
 肖像権の管理自体は日本オリンピック委員会(JOC)が一括してるそうだけど、当然、田村亮子本人にも、所属してるトヨタ自動車にもなにがしかは行くよなあ。
 ……で、浦沢直樹には?
 自分の似顔絵はともかく、「Yawara」は本当はマズイんじゃないのかな。もっとも浦沢さん自身について言えば、田村亮子がどんなに「Yawara」を名乗っても怒って文句をつけたって話は聞かない。多分、今回も海よりも広い心で許してあげそうな気はするけど、そうなると反作用的にますます田村亮子の増上慢が目立ってきちゃうね。
 誰かアレをたしなめるヤツがいないのかって思うけど、田村亮子の周囲の人間って、結局みんな柔道家だからなあ(^o^)。……いや、これ以上書いちゃうと、柔道の人にも私が何を言わんとしているかわかっちゃうから書きません。ここまでで抑えとけば、ええ、絶対に大丈夫ですとも(^^ゞ。


 今日は某所に出張だったのだが、拾ったタクシーの運転手さん、全然地理に不案内で、道を間違えること二度、三度。
 これが不思議なことに、予め地図を見て道を確認しているのに、「左」に曲がるべきところを「右」と勘違いしているのである。
 アレだね、「左、左、左、左」と心の中でずっと反芻してるときに、ついふと「もし間違って『右』って覚えちゃったらどうしよう」と考えちゃうと「右、右、右、右」と暗示かけられちゃうってそんな感じの人だったのである。
 女性の方で、その白石冬美みたいな甲高い声で思い出したんだけど、前にもこの人のタクシーに乗ったことあったわ。確か、そのときもお喋りに夢中になっちゃって、道の曲がりどころを間違えそうになってたような。
 おかげで、20分で着く目的地に、ちょうど2倍の40分かけて到着。当然、遅刻しちゃったんだけれど、なんとその方、「遅れたんで、お金はいりません」と言い出した。
 ……いや、今までにも地理不案内なタクシーに乗ったことは何度もある。
 で、当然メーターはバカ高くなるのだが、さて、その場合、運ちゃんはどういう対応をするか。
 � ,修里泙泙涼傭覆鮴禅瓩垢襦�
 �◆‐�し割り引いて請求する。
 ほぼこの二つのパターンで、私の経験則で言えばその割合は五分と五分。結構セコイ運ちゃんは多いのである。
 それが「タダでいい」なんて人に出会ったのは初めてである。
 こうなると私も逆に一定の料金は受け取ってもらいたい。
 「ここまで2千円はかかるでしょう。せめてそれくらいは……」
 「いえ、受け取れません。そんなことしたら私が会社から叱られます」
 「せめて千円」
 「受け取れません。謝らないといけないのは私です。お仕事に遅れてご迷惑をかけたんですから。もし先方に苦情を言われたら、タクシーのせいにしてください。なんなら、私が一緒に謝りに行ってもいいです」
 ……私がウソ書いてると思ってる人もいるでしょ。
 いやね、私だってね、自分でこんなヤリトリしてたってことが信じられないのよ。……白日夢? ドラマの脚本でこんなヤリトリ書いたら、絶対「リアリティがない」ってボツくらっちゃうよ(^_^;)。
 ここまで言われたらもう、タダ乗りを納得するしかない。遅れたけど先方は怒らなかったよ、九州交通さん、ありがとう。

 仕事は午前中で片付いたので、午後は出勤扱いになっちゃいるけど実質的には自由の身である。だもんで、帰りはしげに出張先まで迎えに来てもらって、食事にでも行こうということに。
 途端にしげが「カラオケ行きたい!」と言い出す。平日の昼間にゆっくりできる機会なんて滅多にないから、ノっているのである。
 半道橋のシダックスで3時間歌いっぱなし。4、5人だと3時間も苦痛じゃないんだが、二人だとなあ。
 ハイパージョイ、久しぶりに見てみると、中身が結構更新されていて、『ボピー・ざ・ぱフォーマー』なんてのまで入っている。あんな意味不明の歌を歌って喜ぶやつがいるのか。それは私だ(^o^)。あだーまのなが、ぷーわぷかり♪
 しかし何が嬉しいって、ついについに、『コメットさん☆』がオープニング・エンディングともに入ったことである! み〜らくる〜、あいじゃすと、せい、えとわ〜る♪
 ……どこが苦痛なんだ(^_^;)。


 DVD『新東宝映画傑作選 銀座カンカン娘』。
 確か映画そのものについては以前解説したと思う。わざわざDVDで買ってまで欲しいってのは、ひとえに岸井明の歌声が聞けるのと、志ん生の落語が聞けるのと、この二点に尽きる。ってそんな見方するやつが世間にどれだけいるのやら。
 特典は当時のスチール写真や監督・出演者の一部のプロフィールだけで特典ばやりの状況の中では甚だ寂しい。
 そのプロフィールにしても、島耕二・高峰秀子・灰田勝彦・笠置シヅ子の4人のみなのである。脚本の山本嘉次郎(黒澤明の師匠だぞ)、撮影の三村明(ハリウッドで活躍したこともある日本映画創世記からの名カメラマン)、音楽の服部良一(親子三代の音楽家ってのもすごい家系だ)、出演者では古今亭志ん生、岸井明、浦辺粂子、水原久美子、一の宮あつ子といった人々について全く触れないというのはおかしかないか。
 監督の島耕二についても、プロフィールから『宇宙人東京に現る』が抜け落ちてるからなあ(^o^)。まあ、大衆向けの映画も作ってたけど、堅実な演出で『風の又三郎』ほか、名作も数多く作ってるんで、アレは抜かした方がいい、とDVD制作のスタッフが判断したのかもしれないけれど。
 オープニングが失われているので、資料から起こしてタイトルをつけているのだが、どうもこれに「抜け」があるように思えて、それも不満である。紹介されている曲が『銀座カンカン娘』(高峰秀子)と『わが夢、わが歌』(灰田勝彦)のみというのはどういうわけか。本編では笠置シヅ子が『酔いどれ天使』に続いて『ジャングルブギ』(黒澤明作詞!)を歌っているのに、字幕では無視されているんである。志ん生の演じる題目が「疝気の虫」と「替り目」であることにも一切の記述なし。
 新東宝映画をコレクションしようなんてやつはマニア以外にいるわけないじゃん、もっと資料は充実させてほしいよ。


 ひと眠りしたら、外は雪。もう2月なので、これがこの冬最後の雪となるか。
 しげと深夜のドライブでジョイフルに行くが、車の天井に乗っかっていた雪が、ブレーキをかけるとそのままじわ〜っと、フロントガラスに布団をかけていくように降りてくるのが面白い。
 平和なことである。

 『文藝別冊 KAWADE夢ムック 総特集 江口寿史』(河出書房新社・1200円)。
 澁澤龍彦とか黒澤明、ボブ・ディランなんかを特集してきたこのシリーズに、いきなり江口寿史が乱入(^o^)。マンガ家としては、岡崎京子に次いで二人目である。凝ったセレクトしてくれるよなあ、河出。
 書き下ろしマンガのタイトルが『今日までそして明日から』である。もしかして江口さん、『オトナ帝国』を見たのかな、と一瞬思ったが、この人の世代なら、吉田拓郎はど真ん中なので、別にアレを見てなくても自然にこういうパロは出て来るのだろう、と思いなおす。
 特別対談の相手が山上たつひこで、これはもうギャグマンガファンなら買わずにいられるかってなものであろう。
 山上たつひこが永井豪の『キッカイくん』などに触発され、江口寿史が山上たつひこの『がきデカ』に影響を受けているのに、江口寿史は永井豪に全く笑えなかった、という、明らかに「世代」によるギャグ感覚の断絶が見て取れるのが面白い。そして二人とも、赤塚不二夫『天才バカボン』については、面白いけれど文法破壊の仕方に無理がある、と断じているのである。
 で、二人とも、ストーリーマンガより、ギャグマンガの方がはっきり「上」だと認識している(^o^)。
 これは全く正しい。イマドキの、ストーリーマンガにこじゃれたユーモアがちょびっと混じる程度のマンガしか知らない若い世代には、マンガの王道はギャグである、というかつての「常識」が既に通用しなくなっているのである(それは手塚治虫と梶原一騎のせいなんだけど)。
 だったらなおのこと、この二人にはマンガを描いてほしいんだがな(⌒ー⌒メ)。ともかく、ギャグが“難し過ぎて”理解できなくなっている若い人たちにギャグとは何かを実作で示せる人が、今ほとんどいなくなってるんだから。
 単行本未収録作品の掲載は『うなじ』。
 誰もが一度は挑戦してみたくなるフランツ・カフカの『変身』のパロディだが、中年オヤジがいきなり女子高生になるのである。しかもパニックに陥るどころかすぐに順応しやがるし。おかげで色気づいた息子は父親をみておっ立つし、妻は「なによう、私だって昔は女子高生だったんだから!」と泣いて実家に帰る。泣いていいんだか笑っていいんだか(^_^;)。
 しかしこの人には未収録作品があといくつあるんだろうか。(2003.3.4)

2002年02月05日(火) ゴーマンかましちゃ、いけまっしぇん/『コンセント』(田口ランディ)ほか
2001年02月05日(月) 恐怖のブラック・メール/『真・無責任艦長タイラー1 入隊編』(吉岡平)


2003年02月04日(火) 予想通りに世の中が動くって味気ないね/DVD『パパ・センプリチータ』/『名探偵コナン 10+PLUS SDB』(青山剛昌)

 スペースシャトル・コロンビア号の事故のために、本当なら三面記事のトップを飾ってたかもしれないいくつかの記事が、アオリをくらって小さな囲み記事になってしまっている。
 一つは『千と千尋の神隠し』のアニー賞(国際アニメ映画協会賞)授賞式なんだけど、長編アニメ映画、監督、脚本、音楽の全4部門を制覇したのに、西日本新聞じゃ社会面の右ページの端、朝日新聞に至っては、5センチ四方の囲み欄に数行での紹介。宮崎駿に恨みでもあるみたいだ(^o^)。
 中田秀夫監督の『仄暗い水の底から』も、フランスの「第10回ジェラルメール国際ファンタスティック映画祭」でグランプリ・批評家賞・審査員賞の三部門を制覇したんだけれど、これも全くと言っていいほど新聞報道されていない。
 私ゃいい加減、この国のとってつけたような宮崎駿フィーバーぶりにも飽き飽きしてるし、中田秀夫も『リング2』で見捨てちゃったから、記事が小さくなったってかまいはしないのだけれど、事故についての過剰報道のせいでこちらの知りたい情報が無視されてしまうのがどうにも業腹なんである。
 事故は要するに事故なんだから、報道するったって事実を提供しちまえばそれで終わりである。原因の究明だって、調査が進展しないことにはたいした話は報道できない。なのにマスコミってさ、こういう純然たる事故についてまで、「犯人」や「悪人」を探し出して追求したがるんだよねえ。
 例の9.11・ツインタワーテロの時も、アラブの人たちが大喜びしてる様子を何度もテレビで流して、反アラブの感情をかきたてさせようと姑息なことしてたけどさ、今度もニュースソースがはっきりしてない時点でアラブの誰かが「天罰だ」と口走ったとか、テキトーな情報を流してた。けれどイランかどっかの首脳は、「事故は事故」ということでコロンビア号の七人に哀悼の意を表明していたぞ。
 アメリカ人の一部には、「あんな上空で起こったことだからテロじゃないとは思うけれど……」とかアホなこと言ってるやつもいる。テロの可能性なんて、0.01%もねえよ(ーー;)。
 百歩譲って、テロ組織がスペースシャトルに時限爆弾か何かを仕掛けるとしたらだよ、離陸前か離陸直後に爆破するようにするってば。時間が後になれば後になるほどチェックや爆弾自体の事故で爆破が失敗するかもしれないじゃん。
 それともまさか、ツインタワーのときみたいに、あの七人の中にテロ組織のスパイがいて自爆したのかも、とでも言いたいの? アメリカは自由な国だからねー、何言ってもいいんだろうけどさー、勝手な妄想が他人の神経を逆撫でする可能性もあること、もちっとばかし考えた方がよかないかね。
 テロのせいで心が病んじゃってる人がいるってのはわかるけど、なんでもかんでもアラブのテロに結びつけようって心理ってさ、エスカレートしてきゃ、関東大震災の時に「朝鮮人の暴動が起きる」とデマを飛ばした連中のと似たような事態を引き起こす危険だってあるんだよ? そんな臆病な猜疑心がアメリカ人や日本人の一部に根付いちゃってるとすると、何かのきっかけで戦争のスイッチが押されちゃう危険も確かにあるよなあ、と思うんである。
 私のこの考えのほうが「疑心暗鬼」で「被害妄想」だったらいいけどなあって願うけどね。

 今回の事故で、NHKの朝の連ドラ『まんてん』の内容が変更されるんじゃないか、と心配された向きもあったようだ。
 ……って、誰がどうして、何を心配してるってえのよ。
 宇宙飛行士を夢見るって、もともとキレイゴトで描けることじゃないでしょ。既に「チャレンジャー号爆発」という「事故」はこの番組が始まる前に起きてんだからさ、主人公が「命をかけてでも」って決意でその道を目指すんじゃなきゃ、初めからウソになるじゃん。「また」事故が起きたからって、路線変更しなきゃならない必然性は全くない。
 小見山佳典チーフプロデューサーは「この番組のテーマである宇宙に飛び立つ内容を変えることはない」と、改めて表明したとのことだけれども当たり前のことだ。
 番組内容が変わるって、主役が「宇宙は怖いからもう行くのやめる」ってオチになるとでも思ったの? それって、「おしん」が苦労の果てに報われることなく最後に野垂れ死ぬようなものじゃないの。朝の連ドラでンな結末にするかどうかちっとばかし頭を捻って考えてみりゃわかるだろう。やっぱり妄想入っちゃってるよなあ(~_~;)。
 もっとも私は『まんてん』を見たことがないので、もしかしたらキレイゴトだけで作られてるのかもしれないけれど(^o^)。


 晩飯は久しぶりに「ザ・めしや」で食事。
 ここは福岡転勤と相成ったZUBATさんも利用されているらしいので、もしかしたら今日、ここで会えるかな、とか運命の出会いを想像してみたが、そんな偶然はそうそうあるわけないのである。
 好きなおかずを取って食べられるバイキング方式なので、肉・豆腐・刺身・サラダなどまんべんなく取る。
 しげは初め「丼もの丼もの」と言ってたのに、取ってきた皿を見るとカツ丼でも牛丼でもなく、肉を中心にしたおかずが何皿か。
 「ドンブリにするって言ってたじゃん?」
 「ああ、肉の皿を見てるうちに忘れた」
 ……って、それ言ってたのほんの3分前なんだが(-_-;)。
 とりあえず目の前に肉が見えたらその直前の記憶が消えるのか、おまいは。
 だったら、仮に私が、超グラマーな女性とうへへへへと浮気したり、会社のおカネをガバカバ使いこんでクビになったり、競馬競輪バカラにポーカー、ありとあらゆるギャンブルに手を出して借金まみれになったり、「へへへ、ねえちゃん、ええもん見せたろか」と道端で淫らな行為に及んで警察にとっつかまったりしても、「肉おごるから許して?」と言ったら許すんか。
 ……許しそうだから怖いよなあ(^_^;)。


 DVD『シティボーイズミックス パパ・センプリチータ』。
 これまで発売されてたDVDのケースは全部小さなCDサイズだったのだけれど、今度はトールサイズ。やっばりそうしないと売れないのかな。
 DVDシリーズは毎回マルチアングル仕様で、できるだけ舞台の雰囲気を再現しようと工夫してくれているのが嬉しいのだが、今回はなんと四分割画面が選択できるという、前回の『ラ・ハッスルきのこショー』が単なる画面切り替えだけだったのに対して、より複雑になっている。
 その分、眼がチラチラしてどこ見ればいいのかわかんないって感じになっちゃってるけれど(^o^)。
 考えてみたら、「シティボーイズはいいぞ」とやたら書いてるわりにはどんなギャグがあるのか、あまり紹介したことがないな。でも舞台のギャグくらいコトバで説明するのが難しいものってないのよ。書き手としてはエッセンスを解説したつもりになってても、単に小難しいコリクツこねてるだけにしか見えないしねえ。
 というわけで、わかりやすいセリフのギャグを一つ。
 客からクレームをつけられて謝りに来た納豆会社の社員どうしの会話。
 大竹「心から謝らないのに謝ったってしょうがないでしょ!?」
 きたろう「キミは学生か! 心から謝るオトナなんていないよ!」
 ……うーん、やっぱり難しいなあ。卑劣な小心者を演じてるきたろうさんがこのセリフを言うから、すげえ説得力が生まれて笑えるんだが。
 ……うーん、確かに私も心から謝ってるオトナになんか会ったことがないな。いいのか、そんな世の中で(^_^;)。
 毎回恒例になっちゃった(+_;)「放送させないよ〜ん」カットは、版権に引っかかる関係で、「宝塚コント」での「ゴッドファーザーのテーマ」がP音処理。全面カットにはならなくてホッとしてるけど、WOWOW放送時からカットされてたかなあ?


 青山剛昌『サンデー公式ガイド 名探偵コナン 10+PLUS SDB(スーパーダイジェストブック)』(小学館/少年サンデーコミックス・600円)。
 「テンプラス」ってどういう意味かと思ったら、10巻ごとに内容をダイジェストして紹介するってことなんだな。……普通、こういうムック本って、設定資料の紹介とか、キャラクターの分析をするものなんじゃないのかね。ただのダイジェストだけで中身がえらく薄いぞ。
 青山剛昌のインタビューが唯一のウリみたいなものだけれど、子供のころからのミステリファンであることを表明していながら、その語ってる内容が図らずもこの人のウスさを露呈させてしまっている。
 「仕掛けもののトリックを作るのが昔から好きですね。かもいに糸を通して、どっかのドアを開けると何か落ちるとか」。
 ミステリファンなら即座に指摘できる問題点が二つ。一つは機械的トリックはミステリのトリックとしては下の下だという認識がないこと、もう一つは、「それ盗作じゃん」ということ(-_-;)。こういう基本的な知識もわかっちゃいないから、ミステリファンはみんな揃って『コナン』を罵倒してるんだよ。
 「DVDの棚には探偵もののソフトがギッシリ!」ってんでその写真を見てみると、『探偵物語』『刑事コロンボ』『ヴィドック』『名探偵登場』『私立探偵濱マイク』『シャーロック・ホームズの冒険』『名探偵ホームズ』『名探偵ポワロ』『TRICK』などなど。
 私とかぶってるのが多いな(^_^;)。でも一見濃そうに見えて、海外の本格ミステリ映画や、ヒッチコックの諸作なんかは無視してる感じだね。松本清張や横溝正史や江戸川乱歩もないな。このラインナップの中でまあミステリの王道と言えるのは『ホームズの冒険』と『ポワロ』くらいじゃないのよ(『コロンボ』は倒叙ものだからね)。よくもまあ「ミステリファン」なんて威張って言えたものだ。
 作者本人の気に入ってるエピソードはこないだスペシャルでも放送された高木と佐藤の爆弾事件だそうな。あんな出来の悪いバカ話を自画自讃してるんだから、これはもう処置なしである。もっともどのエピソードを選んでもアホ話ばかりだから結論は同じなんだけど。「推理小説を星の数ほど読んだ」? 誰が信じるそんなの。せいぜい建国時のアメリカ国旗についてる星の数程度じゃないのか。
 ミステリファン、もっとこの人に怒ろうよ。「ミステリはあの程度でいい」なんて若いファンが増えててさ、マジで百害あって一理なしの状況を作りだしてんだよ、この人。

2002年02月04日(月) チョコレート一本勝負/『何だかんだと』(ナンシー関)ほか
2001年02月04日(日) HOME,SWEET HOME/『犬の気持ちは、わからない』(押井守)


2003年02月03日(月) 世界は非常識でいっぱい/『ホスピタル』1・2巻(唐沢なをき)/『軽井沢シンドロームSPROUT』2巻(たがみよしひさ)ほか

 私は見てなかったのだが、昨日の『ハリケンジャー』で、池田秀一がこんなセリフを言ったそうな。
 「見せてもらおう……性能とやらを!」
 「当たらなければどうという事はない!」
 職場の若いオタクが狂喜して教えてくれたんだが、どうリアクション取れと言うのかな(^_^;)。
 脚本家か演出家のお遊びなんだろうけれど、そういうのってもう腐るほど見て来てるから、今更「へ〜え」くらいしか反応のしようがないのよ。セルフパロデディなら、『ザ・シンプソンズ』でデイビッド・ドゥカブニーとジリアン・アンダーソンが1話まるまる使って、あのキャラを演じてたのが極め付けって感じだったな。
 ああ、あと、『鉄腕GINREI』で、山口勝平が大作少年の声のままで「これでも26で、コドモもいるんです」って言ってたのには笑ったな。セルフパロディとはちょっと違うけど。


 相変わらず、ウチの職場では面白いことが次々と起こる。
 仕事に関することだから面白がっちゃいられないのだが、例のノイローゼ気味の同僚と出入りの業者がトラブってしまったのだ。
 契約に関することでどうも何かの齟齬があったらしい。
 なんとか話し合ってその場は収まったのだが、そのあとその同僚、ヒトリゴトで何やらブツブツブツブツ呟き続けているのである。
 何言ってんだろう、と思って見ていたら、すれ違いざまに、ここでは書けないような悪態をボソッと吐きだした。
 すみません、私、今、本気でこの職場で仕事するのが怖いです( > < ;)//。こっちにまでトバッチリは来ないとは思うけど。


 仕事の合間に一冊、本を読み切る。
 21世紀研究会『常識の世界地図』(文春新書・819円)。
 世界各国の文化比較をカタログ的にまとめたもの。
 まあ、ウソは書いてないんだろうけれど、どこまでがホントかちょっと首を捻りたくはなるね。ユダヤでは牛肉と牛乳は同じ冷蔵庫に仕舞っちゃいけないんだって。理由は親子関係にあるものを同時に料理に使っちゃいけないからっていうことなんだけれど、食って同じウンコになるのはいいのか? いや、信仰を冒涜するつもりはなくてただの疑問なんだけどさ。日本の親子丼なんて、ユダヤ人が見たら卒倒しちゃうんじゃないかなあ。
 概ねこの本、日本人の習慣・常識がいかに世界で通用しないかってことを書き連ねてるんだけれど、Vサインはギリシアでは「くたばれ」の意味になるとか、正座をすると韓国では「罪人の座り方だ」と嫌われるとか、ストライプのネクタイはイギリスでは由緒正しい伝統を持つものなので無関係な人間が付けちゃいけないとか、そんなん全部気にしてたら、キリがないわ、とネを上げそうになるが、外国人と付き合う、ということはもともとそういうリスクを覚悟しなければならないことなのである。……無理して外国に行きたくもないな。
 それはそうと、冒頭で「日本人にとっては何気ないしぐさの一つなのだが、外国人にひどく嫌がられるものに『指差し』がある」とあったが、これ、日本でも地域差がないか。
 福岡では少なくとも人を簡単に指差ししたりしない。会議の席上などでも、呼名はするが指差しは滅多にしない。そこにその人物がいるのにわざわざ指差しするとは自分が支配的立場に立とうとしているように見られて嫌われるのである。
 かと言って九州全般が指差しをしない、というわけでもない。10年くらい前、北九州演劇祭で、些細なことから劇作家の山崎哲と口論したことがあったが、あいつ、思いっきり私を「指差し」どころか「指振り回し」して罵倒しやがったけど、アレは宮崎出身であった。宮崎人にはあんなふうに激昂して人を指差すタイプが多いのであろう。北九州と南九州は文化圏が全く違うので、いっしょくたに「九州男児」なんて括られたくはない。山崎はあのあとテレビで「オウム真理教擁護」の発言して視聴者から総スカンを食らい、ホサれちゃったんで、いい気味だと思ったもんだった。
 長崎出身の内田春菊は『ストレッサーズ』の中で「指差し確認するし……」と不快感を露にしてるコマを描いていた。指差しを嫌う人間は日本人にも結構多いんじゃないか。
 東京人については、そのあたりをあまり気にしない人が多いように思う。横山隆一の『フクちゃん』じゃ、フクちゃんほか、みんな指差しをしまくってたし(根拠として挙げる例が偏ってないか)。


 しげがまた寝こけて迎えに来ない。
 バスと地下鉄を乗り継いで天神を周って取り寄せたDVDや本を買って帰るのも毎月の恒例。
 晩飯は「CoCo一番屋」で懐かし味のポークカレー。どこがどう「懐かし」なんだかよく分らないが小麦粉が多いってことなのかな。


 DVD『サイボーグ009 第2章』1巻。
 第29話『青いけもの』は見逃していたので今回初めて見たが、こういう地球の化身みたいなやつがいるんならブラックゴーストはとっくに滅んでる気がする……ってツッコミはしちゃだめなのかな。このへん、もともと『009』の原作でないものを持って来てるから世界観に「ズレ」が生じたというところかな。
 もっとも、それを言い出すと『コスモチャイルド』編も浮いてるんだけどね。


 マンガ、唐沢なをき『ホスピタル』1・2巻(完結/エンターブレイン/ビームコミックス・756円)。もちろん元の単行本も買ってるんだが、描き下ろしが1、2巻ともについてるのでこちらも買う。
 純粋なギャグマンガがほぼ死滅してしまった中にあって(まあ『クロマティ』とかはありますが)、なをきさんの奮闘ぶりにはまさしくエールを送りたくなるのだけれど、商売の仕方自体はアコギだと思う。後書きがつくくらいなら立ち読みですませちゃうんだけど、必ず15ページくらいは新作がつくからなあ。買うしかないじゃん(-_-;)。
 タイトル通り、舞台は「病院」なわけで、となればこれも「シチュエーションコメディ」の系譜にあることになるが、イメージがかなり違うね。まあ間違っても『寺内貫太郎一家』(考えて見りゃあれも立派なシットコムじゃん。よくもまう三谷幸喜は『HR』を「日本初のシットコム」なんて言えたもんだ)みたいにはならない。
 切るは繋ぐは増殖するは、ぐちゃぐちゃのねとねとのぶよぶよのぴちょぴょの、よくもこんなグロいマンガがちゃんと連載されてたなあってものなんだけれど、「アニマルハウス」という雑誌がいかに偉大であったか、ということなんだねえ。
 『BRAIKEN』も再刊するらしいけれど、やっぱり買っちゃうんだろうなあ。好きだからいいんだけど。


 マンガ、みなもと太郎『ワイド版 風雲児たち』10巻(リイド社・680円)。
 巻末のギャグ注の手塚治虫のエピソードが笑える。
 林子平の姉婿に「手塚市郎左衛門」という医者がいるのだが、みなもとさんがこの人物が手塚さんの祖先かどうか聞いてみたときの手塚さんの返事というのが面白いのである。
 「あ、そう、そうですか、手塚市郎左衛門というお医者さんね、わかりました、ボクもね、今ご先祖のお医者の話を描いてますからね、資料調べればすぐわかりますからね、そう、林子平の姉婿ね、たぶんそうかもしれない、すぐ調べてね、ええ、すぐご返事しますからね、はい、必ず、待っててください、すぐわかりますよ、それじゃ、じゃね」
 もちろん、返事がみなもとさんに届くことはなかった。畳語だらけの口調でもう、いい加減さが伝わってくるようであるが、もともと手塚さんはこういう喋り方をする人なんである。慢性の躁病にかかっていたのか、自分をそういう状態にに常に追いこんでいたのかもしれない。
 物語は林子平、高山彦九郎、最上徳内らが寛政の改革の中で弾圧されていく様子を描く。先に新書版で結末を読んでるから、このあとの展開がどうなるかは知ってるんである。それを思うとちょっと悲しい。

 
 マンガ、たがみよしひさ『軽井沢シンドロームSPROUT』2巻(秋田書店・ヤングチャンピオンコミックス・540円)。
 2代目になってもやっぱりあいつともこいつともやっちゃうのか薫平。……とか思ってたけど、耕平はなんだかんだ言いながら薫とくっついたあと、それなりに身持ちが固かったよなあ。絵里や久美子がどんなに惚れてても相手にしてなかったし。いや、相手にしてた女はいたんだけれども、あとくされがありそうな相手とはやらなかったから……やっぱオヤジのほうが外道か(^_^;)。でも20年経ってもストーリー構成も展開のさせ方も全く変わってないってのはちょっとどうかと思う。
 もっともそのことを一番自覚してるのは作者自身のようで、あとがきの「20年経っても絵がヘタ」というのはホンネだろう。昔はたがみさん、あれでもすごくうまい絵を描くほうだったのに、やっぱりこの20年でうまい人が増えて、そういう人たちの中に埋没しちゃったんである。たがみさんの絵、クセはあるけど、それが表現にまで至ってない恨みがあるんだよねえ。
 さて、今度は何巻まで続くかなあ。


 マンガ、瀬口たかひろ『恋愛出世絵巻 えん×むす』2巻(秋田書店・少年チャンピオンコミックス・410円)。
 えーっと、敵を倒すたびにメイドが増えるって、そういうお話だったわけですね。美少年がベッドに押し倒されるシーンもあるし、いったいどういう階層を狙ってるのやら。……アニメ化期待してるのかな?
 いや、それ以上の感想は特に(^_^;)。


 またしげの仕事が終わるのを待って、ジョイフルで食事。
 帰宅して節分豆を二人で食う。しげに「年の数だけ食え」と言ったのに1個しか食わなかったので、残りを私が全部食うハメに。せめて5個くらいは食ってくれよう。

2002年02月03日(日) ラーメンファイト!2/映画『ヴィドック』/『萌えろ!杜の宮高校漫画研究部 辣韮の皮』1巻(阿部川キネコ)
2001年02月03日(土) 笑いの王国/『かめくん』(北野勇作)ほか


2003年02月02日(日) 閃光の意味は/アニメ『明日のナージャ』第1回/『グーグーだって猫である』2巻(大島弓子)

 朝、眼を覚ますと8時半。
 わあ、危ない。『明日のナージャ』第1回を見逃すところだった。
 ホントは体力が持ってりゃ7時からしっかり起きて戦隊もライダーも見たいんだけれど、そうすると昼にはバテてまた寝てしまうのである。
 『どれみ』も見たり見なかったり、どちらかと言えば五回に一回くらいしか見ちゃいないのだが、たまに見た回に『未来さん』の話なんかがあるから侮れない。私ゃもちっと体力が欲しいよ。
 さて、『ナージャ』第1話「ナージャ、運命の扉!!」であるが、なんだか既成の少女小説やマンガ・アニメの寄せ集めって感じで、もうこのトシになってしまうと面白味を感じること自体、難しい。
 ちょっと思い浮かぶだけでも『キャンディ・キャンディ』『あしながおじさん』『家なき子』『小公子』『小公女』『黒いチューリップ』あたりを参考にしたんじゃないかって展開で、キャラクターデザイン自体は今風なのに、なんだか古臭さを感じてしまう。元祖は『レ・ミゼラブル』あたりになるのかな。
 これでまたやっぱリ魔女っ子ものになっちゃったら少女ものジャンルを全て制覇しそうだが、さすがにそうはなるまい(^_^;)。
 でも、どこかで見たような物語であっても、若い世代には若い世代の思い出の作品ってのは必要になるのである。永遠に『キャンディ・キャンディ』をリメイクしていくってわけにもいかないからね。
 でも、「孤児院」で「まだ見ぬ母」に「指輪の秘密」に「謎の美少年」に……って、イマドキの若い子に受けるのかなあ?
 それはそうと、この話の舞台ってイギリスってことになってるけど、「ナージャ」って名前、イギリス人なのか? どうもロシアとか東ヨーロッパに多い名前らしいんだけど(「希望」という意味だとか)。


 で、実は触れようか触れまいかちょっと迷ったんだけど、この日記には思ったことはできるだけ書いておくことにしてるんで、「例の出来事」についても、一応は書いておくことにする。

 『サンデーモーニング』にチャンネルを合わせると、青空に白い軌跡の流れる、ちょっと見、美しい映像が流れている。
 初めはそれがなんだかよく解らなかった。
 でもすぐに上ずり加減のキャスターのナレーションが流れる。煽情的なテロップがかぶる。
 スペースシャトル・コロンビア号の崩壊の映像であった。
 実際の事故は、NASAの発表によれば1日午前9時(日本時間午後11時)ごろに起こったということである。コロンビアは高度6万メートル上空を時速2万キロで飛行中であり、着陸予定時刻のわずか15分前に、テキサス州上空で交信が途絶えた。
 その後、コロンビアはダラスの南約160キロ上空で空中分解した。生存者はいない。乗組員七人の中には、イスラエル人が一人、初めて乗り込んでいたという。

 映像を見ながら思ったことが二つある。

 一つは交信の途絶から実際の爆発までのタイムラグ、およそ7、8分の間に乗組員の人々は何を思っただろうか、ということだ。
 果たして、崩壊は一気に押し寄せたものなのだろうか。もしそうならば、事故自体は悲惨であっても、乗組員の苦痛は一瞬であったかもしれない、と思う。
 しかし、計器の不調、温度の上昇など、“眼に見える形で”彼らに死が迫っていったとすれば……。
 人は、絶対の死を前に、何を思うものなのだろうか。
 祈りか、怒りか、呪いか、ただの叫びか。死の瞬間に人は自らの真実を晒すのか、それとも偽ったままで終わるのか。
 おそらく、新聞やテレビなどのメディアやヒョーロンカのみなさま方は、事故原因の究明だの、そういうところにばかり「謎」を求めるのだろうが、実はそんなものは謎でもなんでもない。たとえその真相が判明しなくても、それが物理的な因果律の範疇に属する問題である以上は、原因と結果はちゃんと存在しているからである。
 けれど、人の心に答えは求められない。
 彼らが最後の瞬間に何を思っていたか、という疑問に答えを出すことなど、どんなに想像を逞しくしたところで不可能だろう。それはとりもなおさず、我々自身が全くと言っていいほど自分が何者かを知らず、自らの存在自体を持て余しているというやりきれない現実がそこにあることを意味している。
 我々には、彼らの死がどんな意味を持つのか、永遠にわからない。そしてそれは我々自身が生きる意味を見失っていることと同義なのである。
 今回の事故について、私が“直接的な”興味を持つのは、実はその一点だけである。

 もう一つは、これからしばらく、この事故に関しての世間の反応がどうなるか、それが一気に私のアタマの中に経巡ってしまい、暗澹たる気分になってしまったことである。
 今、書いた通り、今回の事故について我々は本来何も語れはしないのだ(もちろんそれはこういった「人の死」にからむ事件では全てそうなのだが)。
 しかし、「解釈」が世間に横行することは眼に見えている。
 まず、宇宙開発の是非を問う陳腐な言質が飛び交うだろうことも想像に固くない。そこには俗悪なキレイゴトと、定番な揶揄・皮肉が錯綜し、結局は「何を語ってるんだか分らない」混乱が引き起こされるだけであろう。
 そして時が経てば全てがウヤムヤになる。
 いったいこの事故は「何」なのか? その本質が問われることは決してあるまい。と言うより、誰も、その「本質」については触れたくはないのだ。
 ……まあ、私もそのことをあまりズバリと言っちゃって不必要にテキを増やしたくもないので(今更)、ちょっと婉曲的な指摘だけをいくつかしておこう。

 今回の事故に関して、テレビはさかんにブッシュ大統領の事故報告の演説を流した。私はこのニュースを「遅れて」見たので、サワリの部分しか見ることはできなかったが、新聞各紙に掲載されていた要旨と見比べてみると、ある部分が意図的に欠落させられていることがわかる。
 演説のほぼ最後の部分、「乗組員は無事地上に帰り着くことは出来ませんでしたが、神の下へ召されたことでしょう」である。ナマで報道されていたときには当然この部分も放送されていたとは思うが、午後の報道ではどの局も軒並みこの部分はカットされていたのだ。
 ……偶然ですかね、これ。
 これは敬虔なクリスチャンであるらしいブッシュ大統領ならば当然口にしたセリフであろう。別段「不自然」なセリフではない。
 しかし、イスラム圏ならばカットされるかもしれない(逆にブッシュ批判を煽るために放送するかも)この部分が、なぜ、「日本で」カットされてしまうのか。ネットをいくつか散策してみたけど、この件に関して、言及してる人って、全然いないのである。
 それとも私が見てないところでは結構、この部分は放送されてたのかもしれない。しかし、そうでなかったなら、この部分を削除した「意志」はいったい誰のものなのか。この「発言カット」の件について何一つ問題視する向きがないという事実に、日本人の総体的な「意識」が関わってるんじゃないかな、とどうしても思ってしまうんである。

 SF作家の野尻抱介さんのホームページの掲示板で、このブッシュ大統領の発言に対して、「そんな事をする“神”は悪意に満ちた存在に違いない」と噛みついている人がいた。山本弘さんの掲示板でも結構トンチンカンな発言をされてる人なんで、またまた「あ〜あ、やっちゃったよ」という感じである。
 もしかして『魔王ダンテ』か『デビルマン』でも読んでこういう発想を持つに至ったのか(~_~;)。もちろん個々人がどんな思想を持とうが、そりゃ自由なんだけれど、「日常的に」こういうことを口にしていたとしたら、ちょっと融通が効かなそうというか、やや近寄りがたいところがあるように思う。
 思想の自由は自分ばかりでなく、相手にだって保障されるべきものだ。しかしこの人の場合、自分の発言が、信仰心の厚い人に対してどう受けとめられるか、ということについて、思いが至っていない。意見を語るな、ということではなくて、「人んちの掲示板に、相手が何を考えているかを忖度せずに乱入するのは荒らしだ」ということなんだけど、そういう発想が基本的になさそうなのである。
 でも、こういう「無自覚さ」はこの人に限ったことではない。
 山本弘さんとこの掲示板を初めとして、いくつかの掲示板でこの事故の話題をしているところを回ってみたが、予想通り、「七人の宇宙飛行士の方々のご冥福をお祈り申し上げます」のオンパレードである。
 この「おかしさ」に気づいてない日本人が圧倒的に多いってのはなんなんだろうね?
 何が言いたいかっていうと、「クリスチャン」に「冥福」は違うだろうってことなんですよ。「神の御許」は「冥土」か?(-_-;)。
 単純ミスだし、一般的に「死を悼む」という意味で使ってるだけだから、それくらい許してあげなよ、という言い分もあろうが、それがただの言い訳に過ぎないことも事実だ。我々日本人の宗教に関する感覚はあまりにも鈍い。もしもクリスチャンが「許せない」って言い出したら、これ、充分アウトな発言なのだ(まあ、日本にお住まいのクリスチャンのみなさま方は博愛主義者だから文句はつけますまいが)。
 こういう当たり前の指摘が全くできなくなっている状況って、結局は日本人の「意識」ってものの正体がどんなものかってことを象徴してるんである。

 まあね〜、宇宙マニアな人を除いたらさ、この件に関してあんまり熱く語ったってしょうがないと思うよ。
 報道でもやたら言ってたけどさ、これはどうやら「アメリカの威信の失墜」って問題らしいから。宇宙開発がどうの、人類の未来がどうのって話じゃないそうですから。


 唐沢俊一さんの裏モノ日記で、ちょいと気になる記事を見つけた。と言ってもたいしたことじゃないんで、「どんなツッコミする気なのか」とか期待しないように。
 1月31日の冒頭に、『三省堂国語辞典』を読んだときの、「“尖む”と書いて“こすむ”と読む語がある、などというのも初めて知った。碁をやる人には常識なのだろうが、前に打った自分の石からななめの方角に打つこと、なのだそうである。今や広辞苑にも記載されていない」と書いてあるくだりである。
 もちろん、碁をやってなくても今やジャンプ読者にはこの語は「常識」になっているだろう。もちろん『ヒカルの碁』のヒットのためである。
 ああ、唐沢さんは『ヒカルの碁』を読んでいないんだな、とこれで気づいたのだが、別に「なんであんな面白いマンガを唐沢さんともあろうものが読んでないんだ!」と怒りたいわけではない(どんなヒット作だって読む読まないは本人の自由であるし、唐沢さんの批評対象のフィールドと、『ヒカ碁』がかけ離れていることも当然承知している)。
 昨日もツラツラと考えていた「オタクの浸透と拡散」のことをやはり思い返してしまった、ということなのである。

 「このマンガを読んでなくて、マンガが語れるか」というものがかつてはあった。いや、マンガに限らず、小説だって映画だって、そういうものは「あった」のである。しかし、年月が膨大な作品群を生み出していく過程で、少しは見るべきものとそうでないものとのセレクションが行われていったかというと、必ずしもそうはなっていないのである。実際にはどのジャンルにおいても、学ぶべき「基礎教養」が増殖するばかりになっているのが現実である。
 好き嫌いは別として、マンガ史において、手塚治虫や梶原一騎を読まないでモノが語れはしないだろう、ということは誰しも見当がつく。しかし、彼らが亡くなって随分時間が経った。単行本の復刊はあるものの、雑誌連載は当然ない。連載されているマンガの単行本しか読まない買わない、という若い人はもうゴマンといるのだ。
 マンガを文化としてとらえようと思うなら、作品だけでなく、その読者層の特徴までも含めて見て行かねばならない。そうなると、「『ワンピース』や『テニプリ』しか読んでいない人々」をも「マンガファン」と呼ばねばならなくなる。そんなのは私らの世代ならば即座に「てめーら、それだけがマンガなんて思うなよ、マンガの読み方一つわかってねーじゃん、もっとほかのマンガ読め」と怒鳴りつけたくなるのだが、では、彼らに我々の世代が読んできたマンガを全て「基礎教養」として読め、と強制することができるのか? と自問したら、そりゃ無理だよってことになるのも分っているのである。
 私だって、面白ければ『ジャンプ』だって隅から隅まで読むだろう。昔は『ジャンプ』『マガジン』『サンデー』『チャンピオン』『キング』、それ以外にも結構な数の雑誌を立ち読みと貸し借りを駆使して本当に全部読んでいたのだ。しかし、マンガ文化がここまで爛熟してしまうと、その全てを追いかける情熱自体が自分の中から消えていってしまう。私だって、マトモに「若者文化」を語ろうと思ったら『テニプリ』も『NARUTO』も読まなきゃならないんだろうが、如何せん、全く食指が動かないのである。
 もちろん、食わず嫌いというわけではなくて、チラッとは見てみた上で先を読んでみようかどうか判断するわけだが、さて、そうしてみても『テニプリ』のどこがどう面白いんだか、サッパリわからないのである。物語が破綻してるとか、そういうんじゃなくて、ただただヘタで陳腐なだけにしか私には見えないんだが。
 こうなると、私にも「マンガは語れない」。
 けれどそうなると、そもそもこの膨大な作品群がひしめいていて、「基礎教養」すら身につけられない状況の中、果たして批評自体が成立する余地があるのか、ということになってしまう。
 もちろんその道を模索しないことには、「語る」こと自体が意味をなさなくなってしまうのだが、なんかねー、最近はねー、私のやってることがことごとく空回りしてる気がしちゃってねー。だって、「読みたくない」人間にとっては、手塚治虫だって、藤子不二雄だって、赤塚不二夫も石森章太郎も永井豪もエトセトラエトセトラ、「存在しない」のと同じなんだから。
 ……なんだかこれ以上考えていっても、同じことを繰り返しそうな予感があるのでこのへんでやめておこう。疑問は残るばかりだけど。


 晩飯(と言ってもしげが仕事から帰ってきてだから深夜なのだが)はジョイフル。
 知り合いの女の子が働いていたのでびっくりしたが、「いろいろお世話になりまして」とか言われたんでなおびっくりした。何をどう世話したのか、きれいサッパリ忘れていたからである。
 あとで「ああ、あれのことか」と気づいたが、別に艶っぽい話ではないので、読者諸賢はあまりヘンな期待はしないように。
 どうも私は自分でも知らないうちにいいことをしているらしい。困ったな、できるだけ人に感謝されない人間になろうと努力しているのだが。でないとすぐしげが嫉妬するし。
 しかし、自分の夫が世間のツマハジキモノになって欲しいと願ってる妻ってのも、人間としてどうかと思うのだが。

 キムチ定食を食いながら、しげから今日の練習の様子を聞く。
 円谷君が演出を降りる話は先日聞いてはいたが、結構ひと悶着があったようである。
 円谷君、これまでも演出プランを何も考えずに練習場に来たり、役者が質問をしても全く返事ができずに立往生したりと、ホントにただのウドの大木だったらしい。本人はそれでもめいっぱいだったのかもしれないが、メンバーは「いい加減」としか見ていなかった。
 「学校の方が忙しくなるから」という円谷君の言い訳に鴉丸嬢がまず噛みついたとのこと。「そんなの最初からわかってたでことじゃない。なんで演出引き受けたの?」。
 鴉丸嬢のこの疑問、というより糾弾は至極マットウなのだが、マットウなだけに相手に反駁の余地を全く残さない。ついには円谷君、泣き出してしまったそうな。
 泣くようじゃ同情はできんなあ(-_-;)。
 円谷君も、知り合いの演劇関係の人に話を聞いたりして、自分なリに努力はしていたと主張したそうだが、それが現場に全く生かされてないのでは、口にするだけ卑怯な言い訳にしかならない。みんな怒ってたろうなあ(ー∇ー;)。
 自分の言葉がどれだけ相手の神経を逆撫でしているか、最後まで気がつかなかったというのはある意味シアワセな人なんだが、一緒に何かを作っていくにはちょっと向かない。
 結局、演出は鈴邑君に決まったとのこと。さて、円谷君はあと何をしたいのだろうか。


 マンガ、大島弓子『グーグーだって猫である』2巻(角川書店・1155円)。
 大島さんの猫マンガを『綿の国星』の繋がりで読んでいた読者は結構いるんじゃないかと思うが、最近の大島さんは猫を人間の姿では描かない。サバが最後の人間型猫だったんじゃないかと思うが、今巻に登場するタマもやはり普通の猫である。
 私はマンガの中の猫や犬にはほとんど感情移入をしないので、猫がどんなにかわいいかを描かれても「それって作者のマスターベーションでしょ?」としか思わない。猫を猫以外のものに描くことも実は自慰行為なのだが、ある意味作者がそこまでイッちゃってれば、読者はもう両手をあげてそのファンタジーを受け入れるしかない。サバを「モノホンは猫なんだよな」と思いながら見ていた読者がいたろうか?
 いや、相変わらず大島さんのエッセイマンガは面白いのだ。大島さんのガン治療の話ですら、ユーモラスで深刻さのカケラもなく面白い。
 けれど、やはり何かが違う。
 猫が人間の姿で描かれていたことには、「そうとしか描けない」切実さがあった。単に気を衒っただけとは誰も受け取らなかったからこそ、『綿の国星』は、『サヴァビアン』は支持されたのだ。
 大島さんにとって、猫はただの猫になってしまったのだろうか。

2002年02月02日(土) ファンタジーの地平に/映画『ハリー・ポッターと賢者の石』/『バイリンガル版 ゲゲゲの鬼太郎』(水木しげる)
2001年02月02日(金) ゆっくり休もう/舞台『人間風車』ほか


2003年02月01日(土) オタクについて考える夜/『コラムは誘う ―エンタテインメント時評 1995〜98―』(小林信彦)

 野田秀樹作・演出の舞台、『RED DEMON』(赤鬼)の英国公演が31日夜から、ロンドンのヤング・ヴィック劇場で始まって、大盛況なんだそうな。
 野田さんの舞台は、10年以上前に萩尾望都原作の『半神』をナマで見たのが最初(『夢の遊民社』を解散する4、5年前だったと思う。しげと一緒に見に行ったんだが、そのときにはこいつと結婚することになろうとは夢にも思っちゃいなかった)で、脚本構成、セリフ、舞台美術様々な面にわたって実に見事な演劇的効果をあげていたので感心して、テレビで舞台中継があれば録画し、LDで出ている舞台も全部集めるようにしてたんだが、『野獣降臨』だの『贋作桜の森の満開の下』だの『贋作罪と罰』だの、いろいろ見てくと「なんだ、やってること全部同じじゃん」ということに気がついて飽きてしまった。かと言って、別に嫌いになったわけではない。野田さんの人間性は嫌いだが、できあがった芝居は鴻上尚史よりははるかに上出来だと思っている。
 その鴻上尚史に、イギリス公演では野田さんは先を越されてしまった。蜷川幸雄にならともかく、コーカミに先にやられちゃなあ、と野田さんは内心、忸怩たるものがあったのではないか。そういう下世話な興味で、野田さんが今回どんなものを作ったのか、興味が沸いてくる。
 『赤鬼』は、もともと日本の浜辺に漂着した外人が「赤鬼」と村人たちに思われてしまう、という設定のものを、今回はイギリス公演用に作り変え、野田が赤鬼、イギリス人俳優7人が村人を演じるという形になったもののようだ。日本人が鬼じゃあ「赤鬼」にはならないんじゃないかと思うが漂流して日焼けでもしたんだろうか(^o^)。
 さすがにイギリスとなるとちょいと見に行くということは不可能だが、野田さんのことだし、これはビデオ化してくれるんじゃないかな。そんときゃ、これもチョイと見てみたいものである。


 午前中はここんとこ体調が悪いせいもあるのか、ずっと寝たまま起きられない。咳止め薬が切れると、すぐに咳がぶり返す。大人しくしてるのになあ。なんで治ってくれないかなあ。まさかこのままAIQの公演や東京行きのときまで体調不良が続くのだろうか。冗談じゃないけれど、治らないものは治らないのである。注射しても効果がないんじゃ、医者に行くだけムダな気になっちゃうしなあ。


 夕方より、天神の赤煉瓦館でAIQ公演前最後の打ち合わせ。昼間ずっと寝ていたので、頭の回転が鈍い。
 「えーっと、八時からだっけ?」
 「六時からだよ!」
 しげに叱られるようになるとは、人間として終わりが近い。
 赤煉瓦館に着くなり咳込んでる私を見て、ぴんでんさんが「まだ治ってなかったんですか! 三日も仕事休んだんなら治ってくださいよ!」と仰るが、私もそれは私自身のカラダに言いたいんですよ。(T-T) グスッ。

 今日のメンバーは獅子児さん、武内さん、ぴんでんさん、私としげ、いつもは仕事で閉会ギリギリに来るのだけれど、意外に早く来られた代表のエロの冒険者さん。
 しおやさんとアンジェリーナさんは都合で欠席であったが、多少の変更はあるものの、もうほとんど討議事項は終わっているので、あとで連絡の確認だけしておけば、そう問題はなさそうな感じである。
 もっとも、もしかしたらここにいたかもしれないM君が、とある事情で今回よりAIQを脱会している。私ゃ面識が一回しかなく、しかも全く会話をしたことがないので、その「事情」についてはなんともコメントのしようがないのだが、ものごと全てがうまく運ぶわけではないという自戒のための一例としたいものだ。
 話し合いは、主にしげの作った進行表と、ぴんでんさんの機材配置の確認を行っておしまい。私は警備の担当だが、これもロビーをゆったりと使えるので、去年よりもだいぶ楽になりそうである。
 チケットの売り上げも大評判、福家書店さんは大喜びだそうで、このままだとご祝儀が出て、我々スタッフは3年は左団扇で暮らせそうな勢いだ(^o^)。
 随分いい雰囲気だけれど、好事魔多し、本番までは油断は禁物で、気を引き締めて行きたいものである。私の体力はなくなってきてるけど。へろへろへろ〜 (;@_@)ノ。


 打ち合わせのあと、当日の宴会場の下見に、親富幸通り(今やこんな字を当ててるのである。阿呆な話だ)まで繰り出す。
 とある店で肉だの何だのを注文しまくるが、いつものごとくオタクばなしに花が咲くので、味の方はとんとわからぬまま(^_^;)。

 武内さん、ようやく『ゴジラ×メカゴジラ』を御覧になったそうで、面白かったとのこと。前々からこの映画に入れこんでたぴんでんさんが喜ぶまいことか(^_^;)。
 以前から「釈由美子命!」をぴんでんさんが表明していることを知っていながら、私もしげも散々アレを貶しまくってたので(最低な夫婦である)、ぴんでんさんも内心「こんちくしょう」と思っておられたのだろう、賛同者が得られて有頂天になられたようで、酒飲みながらトバすトバす。
 「やっぱり人が貶すものの中からいいものを見つけ出してこそのオタクですよ!」
 けど、やっぱつまんねえよな、「釈ゴジ」。〜(*▽*〜)(〜*▽*)〜。
 いや、私だって『ゴジラ』シリーズはB級SFのレベルで評価すべきもので、あまりハイレベルなものを求めたってしょうがないとは思ってるんである。それに、もともと完璧な映画なんてあるはずもないし、そんな幻想を求めているわけではないのだ。
 でも、それにしたって、今回のやつはこれまでにも増して雑な出来だとしか言いようがない。欠点に眼をつぶっていったら、「釈由美子がちょっとカッコイイ」しか残らないものなあ。
 それに釈を使うんならもっとエロいシチュエーションを作らんでどうする!
 例えば憎しみのあまりギルスが釈を押し倒そうとするが、そのとき釈のムナモトが乱れてチラッと乳輪の端が見えるとか、どうしてそんな映像を撮らんのだ!(撮らんて)
 まあねー、それは既に「ゴジラ映画」ではなくなってるという意見もあろうが、昔は『地球防衛軍』じゃ白川由美だったか誰だったかがちゃんと風呂場に入ってるシーンとかあったんだしねえ。もうちょっと子供に対してもオトナへの淡い性の目覚めを感じさせる映像を提供してあげといてもいいんじゃないの? って思うのよ。
 私も『エスパイ』で由美かおるのオッパイプルルンにドキドキしたの、小学生のときだったし。
 まあストイックな釈のほうが「萌える!」って人も、このニッポンに三人くらいいたって別に構いはしないんだが、そもそも「釈がいいよ」って言ってる時点で既に「怪獣映画」を評価してることになってないんじゃないか。
 それとももしかして釈由美子って実は怪獣なのか(^o^)。

 みなさん段々酔っ払ってきて、口がどんどん軽くなってくる。
 エロの冒険者さんの、「『笑う犬』なんか喜んで見てるやつの気がしれない」の発言にはムネをグサリと突き刺される。
 すみません、喜んで見てます。m(__;)m。
 でも、スケッチとしてはつまんないことはわかって見てるんですよ、ウッチャンナンチャンもネプチューンも芸人としては下の下だと思ってるし。
 でも、溺れる者は藁をも掴むというか、周りにブ○しかいなかったら、少しマシなブ○でも美しく見えるってことあるじゃないですか(なんちゅータトエじゃ)。
 いやまあ、それがベ○○ーだと言うつもりはないんですが。

 エロさん、新しくスピーカーを買うので、今まで使っていた中古のスピーカーを買わないか、とみなさんに持ちかける。
 私もノドから手が出るほど欲しいし、独身ならもう絶対に即決で借金してでも買ってるのだが、しげに「どう?」と聞いたら「どこに置くの?」と一言のもとにバッサリ切られてしまった(T∇T) 。
 みなさんの反応はどうだったかというと、「別にスピーカーなんてなくていいし」「テレビに付いてるステレオだけで充分」「そもそも音響なんて気にしてない」と酔ってるとは言え、言いたい放題である。
 気の置けない仲間どうしだから、という気楽さがあるので、もう発言はエスカレートするばかり。「だいたいエロさんのホームページの日記の音響についてのウンチクだって読んでないし」「B級SF映画のレビューだって飛ばしてるし」とかいうのはもう話の脈絡がどこかに飛んじまってて、ほとんど暴言である。
 ついにエロさん、怒髪天を突く勢いで卓袱台をひっくり返し、隠し持っていたサブマシンガンVz61通称スコーピオンをぶっぱなしてあたりを血の海にした上で、居酒屋のねーちゃんを全員人質にして立てこもって、「日本政府に『オタク保護法』の成立を約束させるまで戦うんだ!」と絶叫し、国内外のオタクへ向けて階級闘争を訴えた檄文を飛ばして華々しく切腹して果ててしまった。
 というわけで、今、たからビルで働いておられるにこやかなエロさんはゴーストです(^o^)。

 けれど、やはり思うのはオタクの浸透と拡散、ということである。
 私は映画が「音と映像の芸術」であるというのは常識だと思っているし、古い映画がDVDでリニューアルされるときのウリとして、映像ばかりでなく音声にも力を入れているのは当然のことだと思っていた。
 もちろん、私がそういう「常識」を得るに至ったのは、そういった「映画はこう見ろ」ということを教えてくれた人が、周りにいくらでもいたからである。
 例えば、私と同世代でオタクの世界に少しでも触れている人間ならば、故・長岡鉄男氏のオーディオに関するウンチクに接したことのない者はいないはずである。私は、このトシになっても、とても音響に関する知識を披露できるほどの才覚とてないのだが、それでも音響についてテキトーな発言はできんなあ、程度のことは氏のコラムを通して学んでいた。
 考えてみれば、AIQのスタッフも私より世代がひと世代、下なのである(オタクの世代は数歳違えばもう話が通じなくなることがしばしばだ)。5歳も違えば、長岡氏のコラムに触れたことがない人がほとんどだろう(亡くなったのはほんの三年前なのだが、その勢力的な活動は80年代末まででほぼ終わっている)。こういうオタク的知識はほとんど「独学」でしか培われないので、よいお手本がなければ理解のしようもない。
 だが、そう同情的に考えても、やはり胸の中を寒い風が吹き過ぎて行くのを感じないではいられない。なにか、感覚的にどうにもならないケツラクを若い世代の人々に感じないではいられないのだ。

 最近、この「感覚の溝」を埋めるというのは並大抵のことではないなあ、という気がしてきて暗澹たる気分になることがある。私は自分のことを根本的には虚無的だと思っていたが、こと「オタク」に関しては「理想主義者」だったのかもしれない。たとえお互いに知ってる分野、知らない分野で個人差があっても、オタクの輪は繋いでいけるんじゃないかとコドモみたいな夢を見ていたのだ。
 そのこと自体、そもそもの間違いだと言われればそれまでかもしれない。けれど、私は自分の知らない話でも、そこに何がしかの「真実」があって、脈絡さえ繋がっていれば聞いていて楽しいのだ。みんなもそうだろう、と思っていたのが私の錯覚だったのである。
 ……なんだか川原泉みたいだが、やっぱり「夢だっていいじゃない」という気分はこれだけ薄汚れた私の心の中にもどこかに残っていたのだろう。
 まだまだ甘いんだなあ(~_~;)。

 会話の流れの中で、私の視力のことが話題に上った。
 武内さんが、「身障者手続きを取ったらどうですか?」というのである。
 私の裸眼視力は0.01を切っている。矯正視力でも0.3だ。それ以上にはもう上がらない。これは充分、身障者の対象になるというのだ。
 そういうことを一度も考えたことのない私は、一瞬、虚を突かれた。
 「バスや電車の料金がタダになりますよ」と武内さんは仰る。確かにそれは便利は便利だなあとは思う。けれど、そもそもそういうサービスを受けるのが当然、という発想が私にはなかったのだ。
 うーん、ほかの眼の見えない人にそういう利益が保障されることは当たり前だと思うけれど、自分に対してはあまりそういうことを考えてないっていうか、「権利意識」でそういうの考えたことなかったんだよなあ。
 私は自分の思考判断の基準には職人気質のようなものがあると思っているが、これは往々にして世間との人間関係を無視とまでは言わないまでも軽視する傾向を生み出してしまう。軽いニヒリズムのようなもので、「人は人、世間は世間、自分は自分」と考え、他人の基準を自分の基準に持ちこまないのである。
 だから改めて「身障者手続きを取ったら」と言われると、「何のために?」と自問自答してしまうのだ。
 はっきり言って、私は自分の眼が見えなくなるのも運命だと思っている。
 そりゃ、本が読めなくなったり映画が見られなくなるのは寂しいが、そんなことはどんな人間にだっていつかは起こることで、執着したって仕方がない。もちろん完全に眼が見えなくなれば歩くにしろ誰かに手を引いてもらわねばならなくなるし、身障者認定をしてもらわねばならなくなるとは思うが、それも自分から率先して申請、という気にはならないのである。
 うーん、どうしようかなあ、どうせもう1年以上眼科に行くのをサボってるので、そのうち行かにゃならんのだが、そのとき聞いてみるべえか。

 ふと眼鏡を取ると、武内さんが「眼鏡取ったほうがいい顔ですよ、奥さん、この素顔に惚れたんでしょう?」と突っ込む。
 途端にしげ、「いえ全然」と否定。……少しは迷えよ(-_-;)。

 帰宅して爆睡。
 と言いたいところだが、自分の咳で目覚めてしまうので充分睡眠が取れないのがイタイ。


 小林信彦『コラムは誘う ―エンタテインメント時評 1995〜98―』(新潮文庫・580円)。
 表題にある通り、95年から98年にかけてのエッセイ、ということになると、もう5年以上昔のことになる。
 そういう「古い」話題にもかかわらず、今でも小林さんのエッセイが「読める」のは、時評というものが正しくその時代の「空気」を浮かびあがらせているからにほかならない。
 オビにあることだが、「渥美清が逝った、やすしが逝った」。そればかりではない。フランキー堺も萬屋錦之介も三船敏郎も黒澤明もこの間に死んでいるのである。昭和の終わりが松下幸之助と美空ひばりと手塚治虫の死に象徴されるとすれば、20世紀の終わりを彼らの死に感じると言ったら大袈裟だろうか。
 もちろん、そう感じるためには渥美清以下、彼らが「どういう人であったか」に気づいていなければならないのだが、それには遅くとも1960年代前半までに生まれていなければ「間に合わない」。いや、私の年代ですら「遅い」のである。彼らの代表作の全ては、私が生まれる以前にほとんど「終わって」いた。私が着実に間に合っているのは、『てなもんや三度笠』以降に頭角を表していった横山やすしただ一人である。
 こう言えば、「渥美清は? 『男はつらいよ』はあなたが生まれたあとの作品でしょう」と言われるかも知れないが、小林さんもこのエッセイで書いていることだが、「渥美清=寅さん」ではない。世評が渥美清の代表作を『男はつらいよ』シリーズに求めることは仕方がないが、少なくともその演技の、芸の代表作とするのであれば、「それは違う」と断言できる。
 渥美清は「寅さん」になることで、「渥美清」として評価されることがなくなってしまった。それを証明しているのが、「寅さん一周忌」という表現であり、「国民栄誉賞」なのである。
 渥美清が役者としてずっと空虚な人気を得ていたように、この間に亡くなった人々も、ほとんどこの20年ほどは空虚な存在に置かれていた。若い人には、小林信彦の喪失感・憤慨が理解出来まい。小林さんも若い世代に限定された紙数で語りかけるのは諦めて、その「憤慨」のみを書き連ねる。説明がないのは不親切極まりないのだが、懇切丁寧に過去の歴史を語ったところで、若い人は「へええ」で終わりである。ある意味、小林さんのように若い読者を初めからコバカにしたような態度を取ることも一つの「方法」ではなかろうか。
 何の「方法」かは私ももう説明しませんが(^o^)。

 このころの小林さんは、まだ三谷幸喜を評価していたようだ。ただ、多分に「奥歯にモノの挟まった」誉め方なのは、「貴重な才能」「才人」という表現を使っていることでもわかる。
 あの、これもいろいろ本読んでればわかるけど、「才人」ってさ、「才能があるのはわかるけど、欠点も多いし、私はあまり好きじゃない。一応、この人がいてくれてるおかげで、周りを刺激して活性化はするから、貶しはしないけど、実のところ、この程度の才能がこの人の限界だと思うよ」って思ったときに使う言葉なのよ。こんな微妙な説明は辞書には載ってやしないんで、納得いかないかもしれないけれど、そういう人はもっと本を読んでください。今にわかります。
 「『アパッチ砦の攻防』はきわめて今日的・日本的で、なんだか切ない。しかし、なるべく乾いたファースとして見せたいのが三谷幸喜の希望だろう」。
 つまりファース(笑劇)になり切れてないってことである。
 「『笑いの大学』を越える芝居はそうは書けないと思う」
 三谷幸喜の旬はここまでだ、ということである。まさしく、三谷幸喜はこのあとどんどん坂道を転げ落ちて行った。
 小林さんに誉められる、ということは同時に「見限られる瞬間も見通される」ということだから、あんまり喜ばないほうがいいってことなんだな。多分、爆笑問題も今や見限られてることと思うが。(2003.2.24)

2002年02月01日(金) 餃子、餃子、餃子〜、餃子を食べぇよおー♪/『真・無責任艦長タイラー�ァ”�活編』(吉岡平)/『東西奇ッ怪紳士録』(水木しげる)ほか
2001年02月01日(木) だ〜れだ?/舞台『菜の花の沖』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)