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2002年06月25日(火) 森田益子さんのことばから�◆崕�、障害者、在日外国人、部落」


 あなたに私は尋ねるが、女子に生まれたというて本籍地を隠した人、自殺した人がどこにありますぞ。そうでしょう。女は地球に半分以上おります。けれども、あなたの論理のとおり、生まれたことだっけで差別を受けゆうというこの部落問題は日本固有の問題です。だから、それぞれの女の人、私も女じゃき嫌というほど差別も受けてきました。苦汁をなめてきました。けんど、今になったらようこそ女でよかった。大体世の中を腐らしたがの大半は男じゃき、おらあ女でよかった。そりゃあおまさんらあに言うことじゃない……。いや、そう思いました。
 利権をあさりもしやあせん。立身出世を求めんづくね、いちずに女の人は運動をやってきたと思います。男の人がよけ、日本を腐らしたがの大半は男です。だから今になって思えば、私も、もし男に生まれちょって26年も7年も議員をやって先生、先生言われたら、いつの間にやら酒を飲んだり女子遊びをしたりしたかもしれんき、女であってよかったと、こう思うちょります。
 けんどやっぱり、違いを認めながら統一点を見出すということが、これからの人権対策には非常に大切ですよ。ところが、違いを知らんづくに一緒にしたら大きな混乱が起きると思います。その点を改めて皆さん方に注意を促して、もう回答は要りませんけれども、くれぐれも同和対策、部落問題が深くかかわったきにこの事件が起きたがじゃないことはね、もっとおまさん、さんSUN何やろいうあの機関紙ででも言うてくださいや。−−は−−じゃございませんき、えいかえ言うちょくが。そうでしょう。そしたら、あたかもあの人らあも全部一連の者がね、部落民がしたように思うちゅうがですきに。その人の口をつまみたいけんど、まあ電話でございましたので。
 以上で終わります。(拍手)   (40番梶原守光君「議長、議事進行」と言い、発言の許可を求む)
(平成13年 6月定例会より)



私は、梶原先生にここは上品に言わにゃいかんように先回言われましたけれど、私はやっぱり育ちが育ちでございまして、女という言葉が大変好きでございます。女を悪う言うときには女。女性がと言うのは本当にこう……。私は男、女というのは大和言葉として大好きです。だから、あえてこの場でも女ということを使わせてもらいます。
 私も、御承知のように被差別部落の貧乏な家の女の子として生まれました。だから、小さいながら私は母に「なぜ女に産んだろう、私を」と、もうしょっちゅう言いました。そして、入学するまでは男の格好をして、母に「なぜ女に産んだらあ、なぜ女に産んだらあ、男になぜ産まらったらあ」、こんな難題を持ちかけた子供というのはまずめったにいないと思いますが、私は随分母を困らせた記憶がございます。それは、幼いながらでも、女性がべっ視され、私の父は当時社会主義運動をしておったもので、割方革新的なようなものではございますけれども、女性に対するべっ視、女の子に対する蔑視は一方ならんものがございました。私にしょっちゅう、「この子が男の子なら少々苦労してでも上級学校へ行かすものを、この器量の悪いおなごの子にこれ以上学問をつけて理屈を覚えらいたら、嫁のもらい手はない」というのが父の言いぐさでございました。
 私は、その当時の女に対するべっ視というもの、牛と女房はたたいて使わないかん、こんな言葉さえありましたし、そんな中で育ったもので、小さいながらにもなぜ自分は女に生まれただろうという疑問を持ったのだろうと思います。それはずっと持ち続けてまいりました。だから、私はこの議場でも何回か言いました。この議場の中に、せめて3割なり4割なりの女が欲しい。そしたら、世の中を随分変えるであろう、女の感性で。そして、こちらの執行部席にもせめて三、四割の女が答弁したりするようになってほしいというのは私の念願でございました。それを、さすがに賢明で人権思想豊かな尊敬しておる橋本知事が女の吉良副知事を選任されたということは、大変うれしゅうございます。確かに御苦労は大変大きいと思いますが、女は、女の一念岩をも通すということわざがございます。どうぞその強い御意志で、この困難な高知県勢の浮揚のために懸命の努力を惜しまなくやってほしいと心からお願いをすると同時に、おめでとうございます。(平成13年12月定例会より)

去る十一月十二日、介良の勤労者体育センターのトイレの二カ所に「今や私たちがえたに差別を受けている。えたは社会の害虫、えたを殺さなければ日本は滅び、死ぬ」、「えたを養う税金は一銭も払えない」。十一月二十八日、追手筋のダイアパレスの駐車場に「えたはウジ虫、社会の害虫だ」。また、十二月三日には、中央保健所の駐車場に高さ百八十センチメートルの所から大きな字で、ダイアパレスと同様に「えたはウジ虫、社会の害虫だ」と書いてありました。さらに、私がこの原稿を書いておるさなかでございましたが、十二月八日、公園の追手門にも同じく「えたはウジ虫、社会の害虫だ」と書かれていたのです。私は、この人生、このような差別事件が女に対しても、障害者に対してもあったことを一度も知りません。
 また、競輪場において、再三にわたりお酒を飲んでは「朝鮮人あほう、ばか、えた」を繰り返す男性がいました。余りのことに私はその方に一度会わせてほしいと言って、福祉事務所の方たち立ち会いの上でお会いいたしました。土佐市高岡の生まれとのことで、私はその方に、「確かに土佐市高岡には同和地区があります。あなたが六十年たっても忘れることのできないぐらい地区の方にひどい仕打ちを受けたに違いない。お酒を飲めばえた、朝鮮が出るのは、どんな仕打ちをだれから受けたか聞かせてほしい。その方に今からでも私は責任を持ってあなたにおわびをさせます。もしその方が亡くなられているなら、その人の子供や孫にでも謝らせます。だれもいなければ私がその人にかわって三つ指ついておわびを申し上げます」と涙ながらに尋ねましたが、「忘れた」の一点張りでした。
 忘れたのであれば酒を飲むたびに言うはずはない。まさに、予断と偏見による社会意識としての差別観念であったと思います。その方は六十九歳で、私とは四歳違い。その当時の部落の者は、むしろ学校現場ではひどくいじめられました。私の人生でも一番差別されたのが片倉の製糸の時代と学校でありました。差別された事実は恨みはしませんが、何年たっても忘れてはいません。だから、お酒を飲むたびに私たちを差別するほど痛めつけられておったなら、必ず忘れるはずはないと私は思いました。
 また、私の事務所に在日韓国人の方がいます。その方を指して、「この方もあなたがたびたび差別されている朝鮮人ですが、今まであなたは朝鮮人からどんな迷惑をかけられたか教えてください」と前回同様に尋ねました。そしたら、まさにその方は開き直りました。「私たち日本人はみんな朝鮮人を差別するように教えられてきた。それは私だけではない」と言うのです。私を初め立ち会った行政の方も唖然といたしました。日本の朝鮮に対する植民地政策による人権侵害は今なおはかり知れない感をいたしました。だから、私は差別を受けるのはまさに筆頭が私たち部落民であり、次が朝鮮の人たちだと思っています。女に対するこんな屈辱的な差別は一度も聞いたことはございません。
 そこでお尋ねをいたしますが、この十年前にも今も、一部の人たちは部落差別はほとんどなくなった、人権一般行政に移せよと言っております。しかし、現実から目をそらしては啓発効果や行政効果も上がらないと思います。私も女です。女に対する差別も嫌というほど受けてきました。しかし、部落差別とは質、量ともに違うのです。だからといって、女に対する差別、障害者に対する差別、在日外国人に対する差別等も許されることではないのです。地球上のすべての人間の尊厳が守られるべきであると、世界人権宣言の大切さを説いてきたのです。女性差別も障害者差別も世界共通の課題でありますが、部落差別は日本固有の問題であり、行政課題であるはずです。
  私がもし被差別部落に生まれなかったなら、こうしてこの壇上に立つ議員生活は絶対になかったと思います。だれも人間はこの世に生まれるときに親を選ぶ自由もなければ、地区を選ぶ自由もない、国を選ぶ自由もない、肌の色を選ぶ自由もないままに、私は確かに封建時代不当な差別を受けたえたと言われた両親のもとに貧乏人の女の子と生まれたからこそ、世界のすべての人間が平等であれとこの道へ入って、こうして壇上に立つような生活を送ったと思います。もし私がそうでなかったら、人も出よとも言いますまいし、私もこんな議員生活は送らなかったはずです。
(平成10年12月定例会)





2002年06月21日(金) 森田益子さんのことばから� 崙穎其軌蕕閥技奸�

 解放詩「字をおぼえてから 夕やけがうつくしい」で 作者北代 色さんが宛て名に書かれた「森田ますこさま」は 1924年12月28日 高知の被差別部落に生まれ、1959年から部落解放運動に加わり、1975年に高知市議に社会党から立候補、トップ当選。以来、市議を四期勤め、1976年から部落解放同盟高知市連絡協議会議長を、1978年〜1979年、部落解放同盟中央執行委員婦人対策部長を、1989年〜2003年3月3日まで高知県議会議員を務められた方です(現在無所属)。

 高知県議会議事録に残っている森田益子さんの答弁には、部落問題、同和教育、部落解放運動の原点・歴史的背景が凝縮されていると感じられましたので ここに少しずつ紹介させていただきたいと思います。

平成10年12月

また、同和教育についてでございます。九年前に私の地元の朝倉中学校の澤谷校長先生が大動脈瘤破裂で急死をいたしました。私も葬儀に参列し、同和教育にもとても熱心な良心的な教師だったので、お別れを心から惜しみました。その奥さんは、四年ぐらい前から私のめいのうちにお手伝いに来てくださっています。めいの話では、亡くなられた澤谷先生はおばちゃんのことをとても心優しいよい人だと日誌の端々にも書いてありますと言ってくれておったようです。私も公私ともに信頼し合って、荒れ狂っていた朝倉中学校を立て直すためにお互いに手を取り合って頑張ってきたつもりです。澤谷先生は、「僕はもうあと一年で退職するので、森田さんの一代記を書かせてもらいます」と、何回も何回も私を励ましてくれました。
 私は、教育熱心だった教師だからこそ、熱心な余り御自分の体をもいとわず、毎夜毎夜子供の指導や当時行方不明だった同僚教師のことで奔走したと思われます。いわば、教育熱心な余りの過労による公務死だったと推察いたします。しかし、地方公務員災害補償基金高知県支部の審査会では公務災害と認定しなかったようです。それに対して、遺族の方は違法だとして高知地裁に訴えられました。私もあの先生の公務災害認定にお役に立つなら、どんなことでも証言してやりたいとさえ思っています。
 その後、「澤谷先生の公務災害認定を支援する会」が県教組と全解連によってつくられたようです。このビラを見てください。まず、五月十日には、高知民報から「公務災害の認定求め、澤谷校長「支援する会」が発足、死因は「解同」の圧力によるストレス」、これが大々的に配られました。また、十一月になってからは、恐らく見えると思いますがこのように、「澤谷元校長死亡の公務外認定取消訴訟、十一月二十七日に第一回口頭弁論、「解同」高知市協(森田益子議長)の学校介入が主要因で、一九九〇年一月にストレスが原因の大動脈瘤破裂で急死した澤谷楠寛・元朝倉中学校校長の公務外認定の取消しを求めた裁判の第一回口頭弁論が」ということです。
 私は、それなら災害補償基金高知県支部長橋本知事より私を訴えなければならないのではなかろうかとさえ思います。教育者の良心にかけて過重な御苦労をされて亡くなられたという主張が大切であるはずです。私たちの圧力によって嫌々御苦労されたのとは全く筋が違います。きっと草葉の陰で亡き澤谷校長先生は嘆いているのではなかろうか、先生がお気の毒でなりません。私たち地元では、澤谷先生の公務災害の認定を有利にするために、解放同盟の組織を挙げて署名運動でもしたい、こんなことを話し合っている矢先でした。
 「支援する会」の皆様方は、本当に公務災害の認定をさすための支援が目的なのか、私たちを攻撃し、同和教育をしていたなら自分もこんなに命を失いかねないというでっち上げが目的なのか、私は彼らの意図が理解できません。このことについて質問するつもりはありません。しても、これは裁判で抗争中だと言われることは十分知っております。しかし、私がなぜここでこれを問題にするかというと、同和教育がこのことを引き金におろそかにされはしないのか。今までとかく学校は閉鎖的だと批判されがちでした。それが大きく変わり、開かれた学校づくり、地域ぐるみの教育が求められ、教育委員会としても教育改革の柱にこのことを声を大にしているのだと思われます。
 私たちの朝倉には、御存じの方も多くおられると思いますが、昭和二十年の敗戦まで四四連隊という軍隊がありました。朝は、私たち朝倉の者は「とっとと起きよ」という起床ラッパで起こされました。そして、昼間は「出てくる敵は皆々殺せ」という進軍ラッパを聞かされ、夜は「兵隊さんはむごいわね、また寝て泣くのかよ」と哀愁を帯びた消灯ラッパで床についたものです。その中で周辺に居住していた私たち三カ所の被差別部落の者は、赤貧洗うがごとき差別と貧困の中でも、兵士の苦労をさまざまの形で支え慰めてきたのです。朝倉駅から戦地に行く兵士を幾たび涙で見送ったことか。さらに、国立病院は旧陸軍病院だったので、傷ついた傷病兵の出迎え、戦死者の遺骨の出迎え。
 朝倉の住民は他の地区と少し違う感情の中で、人権の守られない社会には平和は守られない、平和を守らない社会では人権は守られないと体をもって覚えました。当時の軍隊での部落差別はひどいものでした。だから、同和教育に対しては強い、強い願いを持っております。
 一つの例ですが、私より三つ年上の者が、軍隊に行って文字を知らないために「入浴」という漢字が読めないし、「入浴」ということに理解ができなかったようです。私のところはその当時理髪店をやっておりましたが、その青年は一週間目の外出に出てきて、「おんちゃん、入浴を知っちゅうか」、父はニューヨークを聞かれたと思うので、「そりゃあ知るかや、ニューヨークはだればれ知らぬぞ」と。「そうじゃろう。軍隊へ行ったらのう、おんちゃん、風呂に入ることを入浴という。だからおんちゃんのところへ兵隊に行く前に散髪に来た人には、軍隊へ行ったら風呂に入ることを入浴ということを教えちょいちゃって。あしはそれを聞きただしたばっかしに、このとおり仕打ちを受けた」と言って、お腰をあけて見せられました。「えたが何てことを言やあ、人を愚弄すな。入浴を知らぬか」と言って帯革でひどく仕打ちをされた、この光景が私はいまだに忘れられません。
 だから、同和教育に対する願いは、ほかの地区とはひときわ違うものを持って育ちました。その願いが行政を動かし、高知県ではたった一校、朝倉第二小学校を三十人学級にしていただきました。その影響で中学校にも一定の加配がされました。当時は文部省の学級定数は四十五名でした。その成果は決して行政みずから実施してくれたのではありません。地元と教師たちと話し合い、運動、要望があったたまものであります。それが学校への介入だろうか。腹は立たないが、こんなことをする人たちを嘆かわしくさえ思います。地域の者が学校に意見や要望を言うことを介入というのか、わかり切った質問ではございますが、改めて良識ある県民の代表であるこの議会で、教育長にはっきりとお尋ねをしたいと思います。
 さきに述べましたように、部落差別は後を絶ちません。特に、学校現場での問題は、部落問題について教師自身が本当に不合理な問題として怒りを持って教えているか、歴史をとかく支配の側のみに陥って教えてはいないのか、支配され差別を受けた人たちがどんな歴史をたどりながら日本の今日の文化をつくり上げてきたのか。解剖学の最初は、当時牛馬の解体をさせられておった我々の祖先の手によってなされた事実が大阪の人権博物館で立証されています。その他、世界遺産にもされている京都などの名庭園もそうだとされています。教える側の価値観が変わらなければだめだと思います。しかし、児童生徒が聞き逃さない、見逃さない気風もつくり上げてくださったことは大きな成果の一つであります。
 安田女子大学の高場昭次先生は、「子供の人権と同和問題」と題して語った中で、我が国の子供の権利についての認識は、同和問題の根絶を目指す同和教育によって啓発され、深化されたと言っても過言でないと申しております。
 さらに、我々が今後子供の権利を守っていこうとするなら、敗戦後六・三・三制の男女共学による民主教育が進められるようになったとき、子供は希望に燃えて登校しましたが、そこには差別と貧困によって就学できない子供たちがたくさんいました。義務教育六年間でさえろくろく済ませられないのが、九年になったらとてもではないが就学できない子供たちがおりました。そこで、高知県の教師たちは子供を学校に連れ戻すために真正面から取り組みました。同和問題の厳しい現実に、教師たちは改めて人間の権利、子供の人権の大切さを学んだのであります。「きょうも机にあの子がいない」という実践は、子供と教師の差別を許さない声として、戦後間もなく良識ある教師や地域の人たちによって同和教育が創造され、発展していったと言えますと語っております。
 今も県下では、各地で部落のおばちゃんたちが差別ゆえに奪われた文字を奪い返すために、一生懸命識字学級が行われていることを御承知かと思います。その当時の不就学、長欠の児童生徒は、今の不登校とは全く異なり、行きたくても家の手伝いや子守等労働しなければならなかったのです。当時、朝倉中学校の福祉教員だった谷内先生たちはまさにこの草分けであり、一時期七十名もいた不就学の子供を日夜をいとわず保護者を説得してゼロにしたというすばらしい成果が、日本の教師の胸を動かし、大きな同和教育となり全国に広がっていったと先生も語っております。
 全国同和教育研究大会は五十回を重ねました。民主教育という一般論では解決し得なかった先輩の教訓に学び、同和教育を基礎に据え、今後すべての人権を守っていくことが大切だと思われるが、教育長に改めてお尋ねをいたします。
 
 




追記です)
 森田益子さんの答弁の内容と関連して、以下は2002年06月22日付けで出された 地元高知新聞からのweb切り取り記事です。


朝倉中学校長は過労死 高知地裁判決

 平成二年、高知市の朝倉中学校長だった沢谷楠寛さん=当時(59)=が在職中に死亡したのは公務災害だとして、妻の寿美さん(69)=同市一宮=が地方公務員災害補償基金県支部(支部長・橋本大二郎知事)を相手に、公務外災害とした同支部の認定を取り消すよう求めた訴訟の判決が二十一日、高知地裁で言い渡された。亀田広美裁判長は「公務起因性が認められる」と同支部の処分取り消しを命じ、原告勝訴となった。司法の場で学校長の過労死が認定されたのは全国で初めて。

 判決によると、沢谷さんは昭和五十年に朝倉中に赴任後、継続して同校に勤務。六十二年から教頭、平成元年四月から校長を務めた。二年一月二十日、自宅で発作を起こし、解離性大動脈瘤(りゅう)破裂により同市内の病院で死亡した。

 同校では元年九月から生徒や卒業生の非行、教諭の失跡、同和問題への対応を問われる事件が発生。一人で解決を模索すべき状況に追い込まれ、死亡直前まで疲労の蓄積も相当なものだった。

 しかも死亡前日は、部落解放同盟高知市連絡協議会の対高知市交渉があり、その中で朝倉中教諭の言動への同校の対応などが非難の対象とされ、確認会や糾弾会の開催、同盟休校も辞さないとの強硬姿勢が打ち出され、校長としていかんともし難い状況だった。こうした極度の緊張や興奮のため血圧が上昇し、元年十二月ごろ初期症状の出ていた大動脈瘤に過度の圧力が加わって死亡したもので、公務起因性が認められる。

 被告側は基礎疾患が自然的経過で悪化したと主張するが、高血圧症や動脈硬化などの基礎疾患があったとは認められない――としている。

 地方公務員災害補償基金本部(東京都千代田区)によると、学校長の過労死の認定を求める訴訟の判決は、今回を含め全国で四件目だが、遺族側の勝訴は初めて。

 判決について、原告代理人の谷脇和仁弁護士は「校長が極度のストレスにあったと明確に認定された。特に教育現場での確認会や糾弾会(が予定される)など、同和問題のストレスを認めた画期的な判決だ」としている。

 一方、地方公務員災害補償基金県支部の竹内一雅事務長は「支部の判断では死亡は公務外の災害であり、主張が認められず残念だ。支部長や代理人と協議し、控訴するかどうか決める」としている。


 「県議会では、自分たちが選んだ幹部の偽証罪告発にも同意した。ざんきに耐えない思いだった。厳しい時期に委員長を受けたが、全国水平社の原点に返り、最後まで取り組んでいく」

 森田益子さんは、2002年度の部落解放同盟県連合会の新委員長就任に当たり、そうあいさつされました。

 事件が公務災害と認定されることは、森田さんも当初から望んでおられたことです。しかし、この新聞記事を読んで、ワタシは、事実、特に「過労死の原因」を十分に伝えているとは感じられませんでした。
 沢谷楠寛様のご冥福をお祈りします。

プロフィール
森田 益子
1924年、高知市生まれ
1959年、部落解放運動に加わる
1975年、高知市議に社会党から立候補、トップ当選。
以来、市議を四期勤める。
1976年から部落解放同盟高知市連絡協議会議長をつとめる。
1978年〜1979年、部落解放同盟中央執行委員婦人対策部長
1989年から高知県議会議員(現在無所属)。





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