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2002年11月29日(金) 姫だるまの結婚差別問題1950〜1979

 *婦人民主新聞(Women's Democratic Journal)1946〜より
  婦人民主クラブ責任編集
  発起人:羽仁説子 加藤静枝 佐多稲子 宮本百合子ら

(1950年3月17日号)

岡部村に村民大会開く
傷つけられた部落の恋
差別撤廃を叫ぶ解放委員会

 結ばれぬ愛
春まだ浅い中山道の宿場町「暴力の街」で知られた埼玉県本庄町からは目と鼻の岡部村小学校に、さる十二日、五百人近い村民が集まり、村民大会が開かれていた、それは明治の解放令から新憲法の世を通じ、いまもって「エタ、非人」とよび、部落の民をきずつけつづけてきたもの、「破戒」に代表される部落外の人との「結ばれぬ愛」への怒りの本流であった、部落の一青年と、部落外の娘との自由意志による結婚が、娘の両親、村の有力者によって妨害され、ひきさかれ、その後一年にわたって部落民に対する一部の村民の暴力沙汰、威嚇、暴言などさまざまの圧迫が加えられたことに憤慨した村民がついに差別てっぱい、村の民主化のための村民大会をひらくに至ったものである

「今日という日をきっかけにぜひともこの村から封建的な差別観をとりのぞこう」支配階級があやまった歴史をこしらえたために、両親や祖父母は無念の涙を飲んで死んでいった、いまわれわれが立ちあがらなければ子や孫が同じ苦しみに泣かなければならない 数名の武装警官にみまもられ、つめかけた五百の村民が口々に叫ぶ村民大会

 愛情は掟をこえて
ことのおこりは昨年の春にさかのぼる岡部村 茂木六郎氏 宅に長男の婚礼があった夜(昨年三月十七日)突然妹のチイ子さん(二四)と同村の藤崎純青年(二九)が村から姿を消した、藤崎青年は戦後チイ子さんの家に農業の手伝いにゆきはじめてから彼女と深く結ばれ将来を語り合う仲となったが チイ子さんの実兄の縁談に先方が身元調べを行ったので家族が「家の破滅」と部落出身である藤崎青年との絶交を迫りチイ子さんに別の縁談をすすめたことから、この脱出行となったもの、その後仲にたつ人があって二人は村に帰り藤崎青年の家に落ちついたが三月弐七日、藤崎青年が農業組合の役員会に出席中、チイ子さんは家人に連れもどされ伯父の師岡信一氏宅(村の有力者であり農業調整委員)にかくまわれた

 むこっぱの顔
急を聞いてかけつけた藤崎青年にチイ子さんの家人はあくまでも知らぬ存ぜぬの一点ばり、その後みかねた部落代表が、役員会の夜茂木家とけったくして藤崎青年をひきとめた疑いのある真下組合支部長はじめ、かくまった師岡氏に幾度か交渉したが「むこっぱ(部落の蔑称)の顔を見ると(をなご)は逃げる」「チイ子は諦めた、結婚は本人の意思で決まるのだから嫌だといったら仕方がない」という挨拶、間もなくチイ子さんは人づてに「私の気持ちは変わらない」と本心を託して再び村から姿を消した、秋が来てやがてこの問題も立ち消えになろうとした時、村民の須藤重義という男が部落代表に「力をかそう」と茂木家への交渉に買って出たあげくに「人間の一人位殺しても、一軒の家の財産をつぶしても差別したいのが一般大衆というものだ、幾百年の伝統だから、今日や明日直そうとしてもそれはお前らが無理だ」という暴言をはいて去った

 こらえかねた憤り
うっ憤をこらえかねた部落民はこの差別の実状を部落解放委員会に連絡し、村会に訴えて解決法を依頼したので十月末、茂木氏と部落側に和解の手打が行われ、結婚は承認されたが、チイ子さんをかくまっている横須賀の叔父で進駐軍のガイドもしている茂木 健二氏に言われ、十一月二日約束の機木町駅頭に出迎えた藤崎青年は健二氏に「チイ子は諦めた、この傍らにいるアメリカ人のいっていることが分かるか、身の危険をしれ」と文句を並べられ、チイ子さんは話す間もなくジープで走りさってしまった、その後部落の長老が須藤重義に危害を加えられ裁判沙汰となるにおよんで事態は悪化の一路をたどり埼玉県部落解放委員会が中心となって、県社会課、村会を仲にたて、数回にわたっての交渉もらちがあかずついに問題の真相発表、差別てっぱい、村の民主化をはかるための村民大会をひらくに至ったものである
大会は埼玉県水原民生部長、戸根木社会部長、県部落解放委員長 県会議員野本武一氏はじめ三人の県会議員、田島村長、村会議員、関係者が列席してひらかれたが、藤崎青年は「世間から迫害をうけて一年間泣いて暮らした、差別をなくするために身の恥をさらすが正しい批判をしてほしい」と訴え、茂木側からは父親の六郎氏が出席し「村を騒がせ皆さんにご迷惑をかけ心よりおわびする」と挨拶し、師岡信一氏(叔父)は姿を見せなかったが差別の責任をとり一切の公職を辞退した、村民大会は夜おそくまでつづき、差別てっぱいの決議は実行委員選出でもめたため結論をみず、翌日にもちこされた、なお横須賀から呼びよせられたチイ子さんは大会に姿をみせず母親と共に深谷町の某所にかくれていたがたずねあてた記者の問いに答えて次のように語った
「藤崎さんははじめ好きだったが、周囲からいろいろ言われてみると、だんだん気が変わってきた、親や他人様がどうしても結婚しろというのなら顔をたてて結婚してもよいと思っています」
また藤崎純さんは
「チイ子さんをかくし通して、周囲の人々が諦めたと代弁していることに問題があったのです。私としてはチイ子さんが昔の気持ちに戻ってくれれば、結婚してもよいと思っている」
 
 
 その禍根は社会の構造に
  「結ばれぬ愛」の著者ディーン氏の言葉
民主主義の日本にいまなお残る部落問題のかずかずを身をもってつきとめた、テレプレス東京支社長ヒュー・ディーン氏はその著書「結ばれぬ愛」の中で次のような示竣ふかい考えをのべている
「部落社会は日本の反動化にいまなお利用されうる封建制の残骸の一つである、部落社会とはこの状態がつづく限り、民主勢力のの各階層間にうちこまれたクサビとなるであろう、この反動化の力が破壊されるためには、部落民と一般人とか分離する溝が埋められるためには、両者が意識的に力をあわせて行う努力にまたねばならない・・・その禍根は婦人の子宮の中にあるのではなくて、社会の構造の中に存するのである」

 
(1951年7月29日号)

 後絶たぬ部落の悲劇
 傷ついた純潔な魂
 破婚のかなしみから自殺(未遂)
何も知らない純情な少女が部落民なるがゆえに裏切った青年のために処女をふみにじられ、愛情よりも強い差別を生み出す不合理な社会を呪いあたらせ、二十一歳の青春を散らそうとした事件が広島でおこりました。

事件の主は広島市皆実町二丁目宮川忠氏養女正子さん(二一)は市緑地課での同僚藤松隆(二三)と昨年九月頃から愛し合う仲となり、今年に入って急速に結婚ばなしがもちあがりました。ところが正子さんの養母は(正子さんとは叔姪の続柄)十数年前アメリカに在住していたころ、部落民であることをかくして宮川氏と結婚し、現在もなお夫にあかさずにかくしつづけていたために、いま正子さんの結婚問題から部落出身であることがわかった場合、正子さんが不幸になるばかりか、自分たち夫婦の間にもヒビが入ることをうれえ、六月の初め、正子さんを大阪の兄にあずけました。
一方藤松の実家では、正子さんの身元調査をおこなった結果、「部落の娘と結婚すれば子々孫々まで家名に傷がつく」と親戚こぞって反対したので、藤松の意志は一変し正子さんが不在なのを幸いに結婚することをやめました。
だが、なにも知らない正子さんは六月の末たまたま広島に帰る用事ができ、家へも帰らず駅から真直ぐ、病気で寝ているという藤松の家をおとずれました。ところが藤松はすでに結婚する意志をなくしているのに、正子さんの顔を見ると甘言をろうして看護してくれと三日間とめ、正子さんの処女を奪ったあげく、「父から手紙がきて、お前は部落民だから結婚するなといわれた、もう用がないから早く帰れ」と、すげなくつきはなされたのでした。
二一歳になってはじめて自分が部落民だったことを知った驚き、しかもさんざんもてあそばれたあげく男に裏切られた悲しみと怒りに正子さんは苦しんだあげく七月三日朝藤松が出勤した留守中にカルモチンをのんで自殺をはかったのでした。
幸いに正子さんのウメキ声をきいてあわててかけつけた近所の人たちが医者をよんで手当したので、生命をとりとめたが、藤松は部落民の抗議に「部落民を差別するのはなぜ悪い」と暴言を吐き、部落民はもちろん良識ある市民の怒りをかっています。

 未練はない 正子さん談
正子さんは一時にうけた大きな打撃のためにことば少なく、つぎのように語りました。「部落民であるというだけでこんなにまで痛めつけられなければならないのでしょうか。私はもう藤松にはにくしみこそ感じますが、未練はありません」

 許されぬ不合理 父宮川忠氏談
「結婚して二十数年にもなるのに自分の苦しみを夫にうち明けない妻をどなりつけてやりましたよ。もしこんな不合理なことが社会的に許されるならば、日本人は民主主義を語る資格はありません。もうこれ以上正子が味わった悲劇をくりかえさないために、部落の人だけではなく、日本人は闘わなければなりません」


(1970年5月25日号)

 ”部落差別とは何か”柴田道子さん招き第一回講座
婦民ホール。参加者三十名。
年間三十名もの部落青年男女が、結婚差別によって命を絶っていく現実。
「おれは、夢と人間を奪われた。人間のしあわせが粉砕されない社会は、いつやってくるのだろう。おれにはわからない。おれはただ部落民であるということのみをのろい悲しむ。何といわれようがおれにはだめだった。二人の愛情がどんなにかたくても”部落”という二文字には勝てなかった。また二人でどんなに努力し、苦しみもがいても、このカベだけは破れなかった。
部落の青年男女のみなさん、まちがっても一般の人たちを愛人にもつな、そして恋をするな。その愛情が深ければ深いほど・・・差別、部落とはそんな生やさしいものではない。おれは身をもって体験した。
部落へはお嫁にやれないという人たちや、そういう社会に対し、おれは死をもって抗議する。おれは恋に破れて死ぬのではない、恋には少なくとも勝利した、しかし社会の古い封建制には破れてしまった。(中略)
同じ国の人間が同じ国に生まれて税金を納め、あらゆる義務をみんなといっしょにつとめているのに、おれたちの部落の何が悪くてこんなにきらわれるのであろう・・・おれにはわからない。
生きていたい、K子と晴れて結婚したい・・・だがいまはもう生きる頼りの糸さえ切れてしまった。泣くだけ泣いた。やさしかったK子の顔が浮かんでは消えてしまう。(中略)
もし許されて二度生まれてくることができたなら、どんなところでもよいから部落でないところへ生まれてきたい。」
女性の差別を許さず、女性解放を闘う私たちは、あらゆる差別を許さず、自らの人間的感性を洗い出し、研ぎ澄ましてたたかいを前進させたい。


(1976年4月23日号)

 部落差別を裁け
  久世結婚差別事件 京都府協議会

「久世結婚差別事件」とは部落女性中村道枝さんが、六年間結婚を前提に交際してきた高木信夫から結婚の意志がない上、口ぎたなくののしられ、ナイフで高木をさし、結果高木が死んだというものです。
この公判闘争を始めてから、いろんな事実を知り、信夫と高木の家族、道枝さんの勤めていた日本板ガラスKKの差別に対し、怒りがこみあげました。「結婚するまでは・・・」と九回もの中絶をさせられたこと、毎月道枝さんの収入の中から何万円も信夫が使っていたこと、その上いざ結婚の話になると母親と家族の意志で、他の女性との見合い、結婚話が進んでいたなど決して許せないものです。さらに公判廷で高木の母と姉は「部落はこわいと世間は言っている。差別したつもりはない」と居直りました。
公判闘争は部落差別を裁かずして道枝さんを裁くことはできないことをかなめに、差別糾弾をかかげて闘っています。公判では解放同盟婦人部長川本さんによる部落差別の結果としての結婚差別の実態、そのたたかいについての特別弁論がありました。婦人民主クラブは水平社以来の解放同盟に学び、日本の婦人運動を新たな質に押し上げる意気ごみです。

  *判決日1977年3月30日
   主文 被告人を懲役二年に処する。
       未決勾留日数中三〇日を右刑に算入する。
       この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
       押収にかかる小型刺身包丁一丁を没収する。


(1979年2月2日号)

「部落青年とはダメ」
 本籍地に戸籍照合 親が仲を引き裂く 品川結婚差別事件
 
 解放同盟品川支部 差別性を暴く
これは、自分の娘の交際相手が部落青年であると知った品川区に住むY家が、その青年の本籍地に、差別的な戸籍照会の要求を出したことに始まりました。請求を受けた和歌山県田辺市は手紙の内容に問題があると市町名で返信を出したところ、昭和五十年五月六日付けで次のような手紙が入って再度の請求があったのです。
 
 家中で縁談に反対
Y家の手紙の内容は次の通り(原文のまま)
「わたくしの長女、M子二十四歳がA殿三男、B殿二十一歳と、昨年八月ハワイ旅行の折に知り合い両方で結婚したいと申しましたので、わたくしどもで大阪へ嫁入りとなればA殿の敷地の中に長男次男三男と同居と聞き、昭和四十九年十二月、東京より身元調査を依頼しましたところ、B殿より父が部落出身と電話があり、わたくしどもでも大変驚き、家中で悩みました。
B殿は十七歳のとき、自分の家柄に興味を持ち調べて知ったとのことです。それより悩みに悩んで一生結婚はしたくないと心に誓ったとの事です。
娘は私立の初等科、中等科、高等科、私立女子大(四年)と進み何不自由なく大きくなり、わたくしどもも花嫁姿のみれる日の一日も早い事を願い、いつくしんでまいりました。
家中の相談の結果、この縁談は反対と娘より伝えさせましたが、それより二人は親にかくして交際を始め、昭和五十年三月、失意のあまり(娘は)ロサンゼルスへ行ってしまいました(六ヶ月ほどお互いの心をみつめるため)
先方の長男のお嫁さんから、四月電話で何が気に入らないか言ってほしいといわれましたが、わたくしどもではとてもいえません。B殿は父及び二人の兄達も、この話はしたこともなく、兄達は知らないと言っております。
今は手塩にかけた娘は口もきかず、親子断絶のため家中重苦しい毎日です。
わたくしは(富山県出身)小学校の頃にクラスに部落出身の子が五名ほどおりましたが、口もきかず手もつながずという事ですごしてまいりました。
もし娘がB殿と家を出る事になりますと、A殿は義父となりますので知りたいと思います。
つたない文ではありますが、よろしくお願いいたします。
                    父 Y夫五十四歳、母 Y妻五十一歳
田辺市長 水野忠晴殿」
 
 氷山の一角の差別
 調査は万一の親心?
田辺市は部落解放運動が活発に行われており、市当局の対応も積極的で、事態を重視した田辺市は総務部長以下五人がY宅を訪問すべく上京したが、Y宅がわからず品川区に連絡した。品川区では助役以下同和対策の関係職員が積極的に対応、五月二十四日(土)田辺市の職員と品川区同和対策室副主幹が立ちあってY宅での話し合いとなったが、その時のY妻の話した内容は、
「わたしたち(祖母、母)は富山県能登半島の氷見の出身で、幼少の頃から部落差別を知っていた。学校の頃には、部落出身の生徒に対して差別待遇が行われていた。部落は二百戸位あって、近隣の交流はなかった。結婚に興信所を依頼するのは当然でしょう。先日は田辺市に行って見てきましたが、若い者がぶらぶらしていた。大阪の生野区もみてきたが、あの土地は生活が低いと感じた。調査をわたくしどもがしようとするのは、万一にでもという親心からでむしろ親切だと思います。B君のためにも・・・。長女がそういうことになったら、二女や三女の結婚にも支障ができる。万一、娘がB君と一緒になっても、わたしたちは絶対に認めません。親子の関係を絶ちます。子どもができても抱きません」などという差別的なものだった。

 差別の自覚がない
田辺市ではこの事件を結婚差別事件と断定して、品川区と共に行政による啓蒙が半年余り続いたが、解放同盟品川支部の知るところとなり、地元の運動体ぬきにやるのはおかしいと抗議して、以後、ともにこの問題を考えるようになったという。
品川区役所同和対策担当の島田職員は「わたしがこの問題で強く感じたことは、Y夫妻に自分たちが重大な差別をしているのだという事を納得させるのが、いかに大変かということでした。本人は、B君がどんなに金持ちでも学歴があっても部落だったら絶対に許しませんとのっけからいっておいて、なぜわたしが差別してるのですか、B君が家へきたとき、ケーキを出しお茶を入れて接待しました。差別なんかしていないですよといいはるんです。差別している方がそれが差別であるということを自覚していない。この間一年近く、部落の歴史や基本的人権の問題などで話をしてきましたが、差別をみぬく力をつけるという事は大変な事です。そしてひびを入れられた二人の若者の幸福は元に戻ることができませんでした。解決したのではなく、終わってしまったんです」と語る。
確認会(差別した本人と、解放同盟側と関係行政が入ってやる)でも何回も話し合いが持たれたが、高橋篤子さんは若い頬を紅潮させて「確認会で、部落出身から行政のワクをはずれた具体的な差別についての怒りをぶつける、そういう中ではじめて分かってくるんです。これからも寝た子を起こすな式の考えでなく、差別と対決しうる意識と姿勢で不当な差別を糾弾したい」と語る。

 解放には百年かかる
大田区役所の同和対策室であった大田区在住の浦口守一さんは、「結婚と職業の差別は、まだまだ根深いです。部落民が、あいつはチョウリンボじゃないかと部落民を差別することもしばしばです。部落の娘さんは部落外の男の人との結婚を望み、結婚した人は優越感を抱いて差別する。差別が差別を生むんです。わたくしも子供の頃から悪口を言われて育ってきました。解放同盟の仕事はやりがいがあると思い、今は生活相談員をしています。よく仲間と話し合うんですが、まだまだ解放には百年はかかる。肌で感じる差別の実態は長いと思います」と語り、柔和な顔をむけて「貴女ももし結婚相手が部落の青年だったら躊躇なく結婚できますか」と問い掛けた。

 氷山の一角の差別 大田差別事件(昭和五十年)
 糾弾要綱より(部落解放同盟品川支部・南部地区共闘発行)
「・・・いいようのない怒りや苦しみを味わいながらも東京には誰も知った人がなく、どこへいっていいかもわからず、どこかに差別と闘う組織がないかと思っていた時に、たまたま新聞を読んで部落解放同盟東京都連に連絡することができたのです。・・・今妥協したら差別は拡大するだろうし、周囲の人間も差別したってたいした事ではないということになるので、最後まではっきりさせていく必要があります。・・・わたしも表立ってこのように大げさになっても、闘っている人は別として知らない人には自分が部落出身だということはあえていいません。・・・身にふりかかった火の粉は払うが、知られないでいたいというのが偽らぬ気持ちです。だから部落の問題は自分がそうだという形ではなく、そういう差別はいけないんだというふうに一般の人には啓蒙しているんです。・・・今ではどんな差別にも敏感になり、しょうがい者の人が白い杖を持って歩いていたりするとハッとします。まあわたしの事は氷山の一角で、その下に数知れない差別の事実が明るみに出ないままうずまいているのです。・・・人の意識はなかなか変わるものではありませんが、痛みを感じる者たちでコツコツとやるよりほかはありません」(今村辰蔵さん 昭和四年 滋賀県河瀬村)


(to be continued)



2002年11月16日(土) 姫だるまの女性差別問題1956〜1976

☆世界はいくつあるでしょうか。

 世界は一つという言われ方がありますがワタシは、一人一人はみな自分の世界を持ち、世界は人間の数だけ存在しているとも思います。しかし、自分の世界には自分の力や科学や医学の力を借りてもどうにもならない部分があり、それは例えば、この時代、この国、親であったり、生まれおちた所、自分の性などだったりと思います。

☆女性に生まれて損だと思うこと、男性に生まれて損だと思うことは何でしょうか。

 性について、女性に生まれて損だと思うこと、男性に生まれて損だと思うことはいろいろあるとは思いますが、現在では国連での論議を通して、男性にできて女性にできないことは「無い」と言われ、また、女性にできて男性にできないことは「妊娠」「出産」であると言われています。
 第二次世界大戦後の現象として、男女平等とは何かの問題は国連で国際的に取り上げられていたのです。それは様々な国の男女平等とは何かの考え方が、そこでの論議に反映されていました。一言で言えば、国連での男女平等とは何かをめぐる論議は「機能平等論」克服の過程を物語るものであったでしょう。

 「機能平等論」とは、女性を弱い性とする「特性論」、子供の養育は女性の責任とする「役割論」に基づき、個人としての特性を無視して男女を異なって扱うことを肯定する考えをいいます。
 
 国連でさえ、初期は1965年にILOが採択した「家庭責任を持つ婦人の雇用に関する勧告」に見られるように「役割論」に立脚したものでしたから。
 
 なぜこれを克服することができたのか、どんな論議がなされ、どのような理由で克服されたのかの背景に、婦人の地位委員会の活動があったのです。差別の実態についての幅広い調査を行い、専門知識を有していたところでした。

 審議経過はまず、1956年に開催された第11回国連総会では、審議が混乱し、女性は子供が扶養を必要とする全期間にわたって保護を必要とするという作業部会案に練り直されました(原案は、女性に対する保護を妊娠後期・出産・母体の回復期及び授乳期に限定していました)。それは「役割論」に基づくものでした。
 これに対し、スウェーデンは
�―�性に対する保護は生物学的性差に基づく出産保護に限定しなければならない
�∧欷遒鷲塋薪�の原因ないしは口実となる
��子供の養育は父母の共同責任としたうえで、その間は男女に対する保護をしていかなければならない
 という修正案を出しました。
 スウェーデンの修正案に対しては、ドミニカ、フランス、エルサルバドルなどの代表も賛成しました。
 
 一方、チリは作業部会案とスウェーデン案との折衷案を提出しましたが、それを支持したチェコスロバキアの代表は「我が国では母が養育することは、父が職業活動を行うことと同等な重要な任務とみなされている。したがって母には子供の養育について十分な保護が与えられなければならない」と発言しました。

 表決結果はスウェーデン案は、賛成55、反対8、棄権6で可決、チリ案は賛成19、反対34、棄権12で否決されました。
 つまり、1957年の実質的審議を経て、国連の論議はごく初期の時期に「機能平等論」の根拠の一つとされてきた「役割論」を克服していたのでした。

 その後の、性による差別問題に関しての国連や婦人の地位委員会や各国の女性解放運動の展開は、婦人差別撤廃宣言(1967)に結実されました。
 また、どんなに理想的な宣言を採択しても、現実に実施されないなら無意味です。そこで、婦人の地位委員会は経済社会理事会に勧告して、広報活動と2年ごとの報告書作成の制度を発足させました。

 ☆何歳になったら認められますか。
(これらは、日本国籍を持つ人に与えられる権利の一部です)
 1.名前を持つ
 2.小学校へ入学する
 3.自動車免許を持つ
 4.結婚する
 5.選挙で投票する
 6.選挙(知事)に立候補する

 答えを発表します。
 1.0歳
 2.6歳
 3.18歳
 4.男性18歳 女性16歳
 5.20歳
 6.30歳

 さて、権利を手に入れるのに、なぜ年齢が決まっているのでしょうか。こう考えると、責任の重いものほど、年齢が上がってから権利が認められることがわかると思います。
 これによると、婚姻適齢は男女で2歳の差があり、婚姻は女性より男性のほうが責任が重いと日本は法律で定めていることになります。これは明らかに差別でしょう。
 日本の民法の婚姻用件の中にはそれ以外に、前婚の取消・解消から6ヶ月の再婚禁止期間は女性だけに課された婚姻制限である、妻が婚姻中に懐胎した子は夫の子とされ、摘出否認権は夫にのみあるなどの差別的規定があります。

 男女平等を実現することを目的とした国際協定は婦人差別撤廃宣言をはじめとしていくつか存在しますが、宣言には法的拘束力がありません。したがって、法的義務を課している国際人権規約の批准、更にそれをカバーする包括的条約の採択が必要であるとの意見が加盟国の大多数をしめるようになりました。女子差別撤廃条約(1974)がこのような背景のもと成立されました。日本は1985年に条約を批准しました。

 女子差別撤廃条約では、「婚姻をする(男女)同一の権利」を確保するために締約国はすべての適切な措置を取らねばならない(16条)としています。日本の民法の中には、条約の線にそってただちに改正の道を開かなければならないものに、婚姻用件の他にも、夫婦の氏についての選択制度、非摘出子に対する差別的規定が残存しています。
 
 ☆男女平等の判断基準が 裁判官の価値観に左右されてきたのはなぜ?

 日産自動車男女差別定年制事件では、審理を行った裁判官により食い違う判断が出されました。上記会社では定年を男子55歳、女子50歳と定めており、解雇された女性が裁判を起こしました。仮処分では「女子の生理機能水準は男子に劣り、女子55歳のそれに匹敵する男子の年齢は70歳位になる」(昭46)と訴えを却下しました(これは二十年前、当時早老が顕著とされていた秋田の一農村の男女のハゲ、白髪、顔のシワ、歯の抜け具合などを調査したグラフによるもので、差別を認定したかった裁判官の見つけたこじつけといえるでしょう)。
が、一・二審では「差別定年制は性による差別である」とし、最高裁は「60歳前後まで男女とも職務遂行能力に欠けることは無い」(昭56)と判決を下しました。
 一般に、平等の判断基準を客観的なものとして理論化することは容易ではないため、その具体化を判例の積み重ねに委ねてきたことが、いかに危険な試みであったかを この事件は露呈していると思います。
 法や制度が変わったからといって、人々の意識や社会通念は直ちに変化するものではありません。しかし、憲法の定める法の下の平等の保障が、判断者の価値観や個人観、世界観によって左右されるような社会は、男性にとっても女性にとっても住みよい社会であるとはいえないでしょう。

 ☆婦人民主新聞より(1976年11月5日号)

 この現代の「魔女裁判」
 問われる裁判官の本音

・離婚
女遊びにふけり、かけごとに走る夫に愛想をつかして家出した妻からの離婚訴訟を却下した下級審判例(1955年)
「�仝狭陲�年齢50歳で女性としてはすでにその本来の使命を終わり、今後はいわば余生のごときもので、今後において花咲く人生は到底これを期待し得ないと考えられるのに反し、被告は漸く齢49歳に達したばかりで・・・人間として漸く成熟しきったと認められるので、男子としての真の活動は、今後において期待し得られる事情にあること��客観的に見れば、原告が被告と離れ、若干の収入を得て、寂しく一人身の生活を送るよりも、幸福であることを幾増倍であると考えられる�H鏐陲里澆鯣麁颪靴覆い埜狭陲盻淑�反省を加えれば、将来夫婦間の円満な結合の回復の可能性もあると考えられる」
民法は七七〇条で不貞などの離婚事由を定めているが、その二項で裁判官の自由裁量を認めており、夫婦のあり方に関する裁判官の価値観が大きくものをいう。

・未婚の母(竹内判決)
幼稚園の教諭をしていたK子さんが園児のチチNと交際し妊娠。産んだ子はNに奪われ、K子さんが人身保護請求を起こしていた。
「幼稚園の教諭の身で園児の父と情交関係を結び、生まれる子にとって所詮私生児という不幸な境遇になることが予想されるのに、その養育に確たる見込方針もないままに、被拘束者(子ども)を産んだ態度から、請求者の被拘束者に対する真の愛情については疑問なしとせず」

・教育
私立城石高校は女子にとって大切なことは「そうじ・おじぎ・みだしなみ」という儒教教育を行っており、1969年の生徒総会で生徒がこれを批判。生徒を支持した竹内洋子さんを解雇した。学校側が出した十三項目の解雇理由は証拠もないまま採用。卒業生などの証人、証拠は「信ずることはでいない」と却下され、「従順な女を育てる女子教育を支持し、反抗する女はキル、まるで現代の魔女裁判です」と竹内さんは怒りをこめて告発する。
証拠や証言をとりあげるか否かは一切裁判官の自由な判断によるが(自由心証主義)裁判官の資質と価値観がどうしても問題となってくる。
 
☆私たち日本の女性は一人の女性によって幸せが与えられたということ

 これは戦前有名だったピアニスト、レオ・シロタさんの娘であるベアテ・シロタ・ゴードンさん(米国女性)は、占領期GHQ司令部に勤務していて、日本国憲法草案に男女同権を書き込んだ。
「日本に残っていた両親に会うため、民間人は来れなかったので、軍属として1945年12月24日、焦土と化した日本に来た。憲法草案制定委員会のメンバーに選ばれた。極秘の仕事だったので、1カ所の図書館だけだと、なぜ憲法に興味をもつか疑われると思っていろんな図書館にいった。朝から晩まで憲法の本を読んだ。日本の女性にどういう権利が必要か?を考えた。「両性が社会的にも法律的にも平等であるべきだ」と書いてマッカーサーの運営委員会に上奏した。
 運営委員会のメンバーは、40代以上の男性ばかり。彼らは、草案にあった社会福祉に強く反対した。婚姻・離婚その他に関しては「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚する」ということばが残った。運営委員会が私の書いた草案を縮めたのにはがっかりした。私はそのとき22歳だった。」(2001-11-4 講演「男女平等の社会を!〜日本女性の幸せを願って〜」より)


☆(参考)実は、男に生まれるとこんなに大変なのです。

 

資料「ことわざ医学事典」(朝日新聞科学部)より

 ・不慮の事故(二十歳未満)
  �‥監擦砲劼�れる      女子の3倍
  �⊆�動車にひかれる     女子の4倍
  �9發い箸海蹐�ら落ちて死ぬ 女子の3倍
  �ぞ紊�ら落ちてきたものにぶつかって死ぬ 女子の10倍
  �ゲ仆�で死ぬ        女子の2倍
  �Ε�ス中毒で死ぬ      女子の3倍
  ��溺れて死ぬ        女子の3倍
 ・死ぬほどではないにしろ
  �,�ねしょ         女子の3〜5倍
  ��非行           女子の10倍以上
 
 どちらが得なのでしょう(笑)。
(to be continued)



2002年11月11日(月) 「水平社宣言」の教え

 
 部落の人もそうでない人も、“水平社宣言の教え”といきなり言われても、難しい質問だと躊躇されることだと思います。ワタシがひとつ思うのは、先人たちは「水平社宣言」の中で、あとの世代のわたしたちに対して、依存せず“自律”すること、部落の人びとがそうでない人(の人権問題の解決)とつながることを深くお願いされたのではないかということなのです・・・。


☆平成9年6月定例会
 去る二月議会におきまして、梶原議員から、平成六年十二月から翌年の三月までの間に延べ四十数回にも及ぶ税金での接待、酒席が設けられたとの指摘がございました。私はこんなことがあってたまるか、議場でもやじるぐらい腹立たしさを感じました。同和対策本部長である副知事は、同和行政を円滑に進めるための情報交換だと答弁したようだったと思いますが、私はこの考え方に大きな怒りと不満を感じました。
 我々の先輩は、今から七十五年前に全国水平社を結成して、高らかに世界に誇る人権宣言とも言われる水平社宣言を発して今日に至っています。その冒頭に、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等のための運動が、何らの有難い効果をもたらさなかった事実は、それらのすべてが吾々によって、又他の人々によってつねに人間を冒涜されていた罰であったのだ。そしてこれらの人間をいたわるかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想えば、この際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、むしろ必然である」、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」、「水平社は、かくして人の世に熱あれ、人間に光あれ」と、地球上の生きとし生けるすべての人間の尊厳を求めて創立されたのであります。
 したがって、酒やさかなによって情報を得なければ円滑な同和行政ができにくいというのは、まさに七十五年前に我々の先輩が警告したように、いたわるかのごとき行政であり、かえって部落大衆を堕落させ、冒涜したことになるのです。まだも言わせてもらうなら、差別行政につながると言わざるを得ないのです。我々の側も第三期の運動を目指し、水平社精神に立ち返り、人間性の原理に覚せいし、人類最高の完成に向かってすべての人間の尊厳を求めて推し進もうと決意も新たにしているところであります。
 これらのいたわるかの行政の誤りと行政の責任とをはっきり区別してほしいのであります。これからの取り組む姿勢と反省を改めて本部長よりお聞かせを願いたいと思います。


☆平成12年12月定例会
 今から七十八年前に先輩たちは、「いたわるかのごとき解放運動が何らの成果をもたらさない。人間はいたわることではなくて、尊厳を受けるべきだ」という高らかな世界に誇る人権宣言とも言うべき水平社宣言を発して、私たちがいちずにこの一世紀間闘い続けて・・・
県民の中でもまじめに解放を願うてきた者にとっては、身を裂かれるような苦しい思いをしながらこの壇上に立たざるを得ない。もちろん、我々の側の反省すべきは当然反省すべきだと思いますが、これをここまでこういう不正な貸し付けをした行政の責任は、私は極めて大きいと思います。
  そして、きょうのような事態になったときに、それでも私はなぜ委員長や副委員長は真実を述べることに拒否反応を示したのだろう。私は絶えず、真実が明らかにならないところからは前進はないと思っています。そして、改めてそのときに「解放の運動家とは」という先輩の書いた書類やらさまざまを読みました、今。七十八年前に水平社をつくった我々の仲間は、解放運動とは人間性の原理に覚せいして人類最高の完成に向かって進むのが解放運動だ、それでこそえたであることを誇り得ると、そして常にその活動家は自己を犠牲にしても大衆の利益が優先されなければならないと。私たちは厳しく諭されながら解放運動をやったものでした。
 私は、あの偽証罪で問われた二人も、そういうとうとい信念を持って解放運動の長におさまっておったと信じております。また、あの時代の社会的背景を見ても、たくさんあった縫製工場が次から次へ閉鎖をされ、賃受けで縫製工場の経営を維持することが非常に困難な状態になっておったというのも事実です。
 先日、山本元副知事は、あの当時の状態からいえば私の政治的判断には狂いはなかった、必要だったとはっきり述べられました。うちの二人も、そのことを胸を張ってなぜ言えなかったのだろう。後で資料を見るところによると、平成三年から四、五、六、そういう要求をしよったことも後で知りました、私は。固有名詞を出さなかったから安原構想とは無関係だということは社会的には通用しないと、私でさえ思います。しかし、その要求は運動側としての正しい要求だったと私は今も思います。それをなぜ胸張って言えなかったのだろうと思います。それを受けた山本元副知事は、胸を張って、あの当時の社会的背景からいえば、ああすることが同和対策にとって大切なことだと言い切っています。
 それをなぜ知らず存ぜぬ。三役が安原構想に加わったではないかと言われても、それは個人的に出たのであろう、知らない。今いずれも当時のその三人とも他界されておりますが、あの人たちといえども、個人的にそれへ加わったとは私は考えられません。だから、まず真実を述べて、その当時必要だったということを自信を持ってなぜ言えなかったのだろう。本当に残念でなりません。
 
 そして、元副知事はすべて自分でやったと言っておられますが、きのうの知事の回答でかなり知事もそのことでは反省して、そして県民にお断りをした。私は、このことで大体は追い打ちをかける気はございませんけれども、もう一つ私たちの立場にすれば、知事さん、もちろん県民全体には迷惑をかけましたが、なかんずく本気で同和対策に、差別をなくする人権のとうとさを……。同和対策とは特定の人の頭をなでることでも、いつぞや梶原議員に指摘されたように三カ月で四十何回も同和をだしにお酒を飲むことでもなかったと思います。あの二十六億円がどれほど部落の、知事も昨年お会いしていただいたあのおばさんたちを喜ばすような結果になったのか、一体同和地区の仕事保障にどうつながったのか、私はそのことに、もう一つ心を込めて一言言葉をいただきたいと思います。


☆平成13年6月定例会
 いつどこで話しても、真っ当な解放の理論。いわば、水平社宣言の中でたびたび申し上げますように、えたであることを誇り得るというのは人間の生き方を問われます。私は内へ向いても、「本当に集会たびにその宣言を読まれるけれども、えたであることを誇る人生を毎日毎日送りゆうかよ。へごなことをしたり、利権あさりをしたり、借った家賃を払わなかったり、住宅新築資金を滞納したりするようでは差別はなくなりませんよ」と厳しく問うて、それを実行しました。県営住宅の家賃の滞納も、私は何百万円も徴収に力をかしました。問うてみてください。不正入居もね、ともどもに出しました。
 それから、今度の見直しにいたしましても大変気に入らんことがありますけれども、それは後にしましても、私はやっぱり今度の知事の反省の仕方にはいささか疑問を持たざるを得ません。私は失敗はだれもあると思います。聖人君子であると言われた弘法大師でも、再び通らないという道を七たび通ったということをよく教えられました。私は全く平凡な人間ですので、失敗や間違いだらけの人生でしたけれども、私は先輩から教えられた。失敗は成功のもとと言われるのは、その失敗のとき、間違いのとき正しく自己反省をすることが大事じゃと教えられました。自己反省をすることが大事、責任を人に転嫁する限り、同じ間違いを2度でも3度でも繰り返す。だから失敗を恥じることはない。けれども、そのときの反省、他人に責任を転嫁することでは自己の成長もないぞと、私は先輩からるる教えをこうむりました。
 
 
 これほどの5,380億円、道路もふえました、公共の建物も建ちました。私はね、この運動の核になったのは、自信を持って言えるのは、部落解放同盟が核でした。それから皆さんね、行政6団体の方たちの同意も得、あるいは共闘の皆さんのお力添えもしながら、最後まで反対をされたのは共産党の皆さんでしたけれども、私たちは懸命にこの制度をつくり上げた。私はその見解についても、解放同盟に対する評価も改めてあなたに聞きたい。私はこんなことを言われたらね、これはまこと大変ですよ。こればっかり言いよったち長うなりますけんど……。
 けれども、私は再三申し上げましたように、今度のモード・アバンセの問題にしても、私は企業を育成するために連れてきたのではございません。この前も言いましたように、南国市と土佐町と室戸市へ来ちょった業者がそのまま夜逃げをして帰った。調べてみてください、恐らく歴史始まって以来初めてのことだと思うが、南国と土佐町は御用納め以後に臨時議会をやって、それを補償しました。それを一つの契機に、縫製加工をしていないけれども婦人部長をしておった私が組合長になった。だから、その当時の県の記録も見てみてください、寺尾孔明さんの時代じゃ。実に立派な共同作業所運営規程というものをつくっていただいて、行政が常に目を光らせながら無償提供しちゅうがですきね、行政財産を。それこそ糸と技術と布とさえ持ってきたら。だから、一定の就労保障、賃金保障、これをするべきだというきちっとした要綱もつくっております。あなた方が何十年も前のあの覚書を出すがでね、それを見てみてくださいや。そのとおりしちょったら、私は今度の事件はなかったと思いますよ。
 だから、私は今度の事件は、あの警察の調書から高新の「黒い陽炎」を見てもわかるとおり、日本でも例を見ない重要な事件として、何やら法務省からこう上げないかん事案のようですね。それもモード・アバンセより背任の方の罪が重い。私は大変気の毒に思います。保釈さえきかない。こういう事件、私は日本じゅうにないと思う。その原因があたかも同和対策にあった、部落、これに関係が深いと言われるような総括は私は絶対に承服しがたいのです。何ぼ私んくが貸せ言うてもね、貸したのは行政だと思います。判断の間違うたのは行政だと思います。そうでしょう。強盗でもあるまいし、突きつけちょって判をつかしたのでもあるまいし。責任をね、同和地区の人、部落解放運動に転嫁しないでください。






2002年11月09日(土) 平和9.11

 


 9.11の事件後も反暴力の立場を貫く米国の言語学者ノーム・チョムスキー。彼は歴史的に重要なことは「どこがやられたのか、ということである」とし、犯罪に加担しない方法は「参加しないことである」と言い切りました。これほど、辛らつに世界を見ながら、彼はなおも「この人間社会はよい方向に向かっている。封建制度の時代や、奴隷制度のある時代よりましである」と人間社会の歴史を肯定的に見る視点を持っていることには驚かされます。

 ☆「9.11アメリカに報復する資格はない」(チョムスキー著・文藝春秋)

 米国のグローバライゼーション・プロジェクトには過去数年のうちに抗議活動が裕福な国にも及んだ。テロで全世界的抗議行動は確かに後退させられる。しかし、抵抗なしにそんなことが起きることはないし、短期的にはともかく、成功は疑わしいといえる。
 
 コソボへの介入が「人道的介入」であったか事実検証の問題であり、あらゆる軍事力の行使がこうした言葉で正当化されるというだけの理由によっても、実態が問題である。
 研究書は、犯罪は「人道」の仮面をかぶって行われたといっている。
 正しい言葉は「人道に対する犯罪」であろう。犯罪を処罰するには法がある。犯人を突き止め、責任を問う。だがそれには確かな証拠がいる。そしてそれは危険な質問にドアを開く。

 信じるに足る証拠を出すことは決して簡単なことではない。
 
 記録をきれいにし、米国を無実の傍観者に仕立て上げる努力が始まっている。これは最も初歩的なジャーナリストの基本を冒すものである。

 直後の反応はショック、地獄のおぞましさ、怒り、恐怖、復習欲。だが世論は様々だ。流れに抗する動きもまもなく現れた。主要新聞の論説にもそうした動きが認められる。

 銃口が今までと別な方向に向けられている。西側は敵の選び方において極めて普遍的、世界的。判定基準は服従であり、権力への奉仕であって、宗教の如何ではない。このことを証明する例はほかにも数多くある。

 ほとんどすべての犯罪には、路上の強盗であれ大規模なテロであれ、理由がある。ふつう、我々は理由の中には処置すべき重要なものがあることに気づく。
 犯罪の場合には、スケールがどうであれ適当かつ合法的な対処方法がある。
 これが国家の取るべき手段である。これが筋道というものである。もう一つの道がある。過激な暴力で応じ、暴力の悪循環をエスカレートさせ、更なるテロを起こさせ復習の掛け声を強める道である。この力学はおなじみである。

 政府の広報専門家が「戦争」という曖昧な言葉を「犯罪」というもっと明瞭な言葉よりも好む理由はその辺りにあるのかもしれない。

 大事な基本的質問がいくつかある。
 第1の質問は「われわれが取りうる行動にはどんなものがあり、それぞれの結果はどんなものになりそうか」である。法を遵守するなど。これに対し、現在までのところ、暴力による反発を促す太鼓の響きばかり。
 第2の質問は「なぜ?」である。この問いが真剣に問われることは滅多にない。
 少なくとも暴力のエスカレートではなく、それを減らすことを求めるのであれば、こうした話は新聞の第一面に載るべきなのだ。


私の考えではおそらく、大多数の人は相手構わず打って出て、多くの無実の人々を殺戮することには反対である。しかし主要メディアや知識階層一般が危機に際し権力を支持して勢揃いし大儀のために一般大衆を動員することはよくあることである。・・・このパターンの歴史は古い。
 
 私は一般化を好まないので具体的な例を一つ取り上げよう。・・・数はわかっていないが(多分、何百万)飢えているアフガニスタン人が死ぬことになる、という意味である。彼らはタリバンか?彼らはタリバンの被害者だ。

 テロ事件の実行犯は被害者から目をそむけたがる。

 もう一つの選択肢は、背後にある懸念や苦情を現実的に検討し、それに手当てする一方で、法のルールに従い犯人を処罰する。これの方が遥かに理にかなっている。
 我々が支援する過酷で残虐な政権下の国民を、こうした責任を取らないと言って責めるのはフェアでない。遥かに恵まれた環境下にある我々だってやっていないのだ。
 
 わざとそうするなら別だが、事実を知らぬままでいる必要はない・・・被害者はむろん事実をよく知っているが、彼らを被害者にした国際テロ事件の規模や性格となると、きちんと把握している者は、ほとんどいない。
 
 我々は近年の民衆闘争の教化的効果を過小評価すべきではない。

 歴史的記録こそ圧倒的に重要である。

 「西側式の生き方」については、そこには様々な要素が含まれ、たくさんの非常に賞賛すべきものがあって、イスラム世界において熱心に採用されているものがたくさんある。犯罪的なものもたくさんあり、人類が生き残ることに脅威となっているものさえある。

 封鎖された国境に着いた難民は、罠にかかった動物のように沈黙のうちに死ぬことになる。ほんのわずかだけが、隔絶した山の峠を抜けて逃れることができる。国境の向こうの難民キャンプには記者と救援スタッフが何人かいる。・・・彼らも、我々も、知っているのは彼らは運がよかった、ということだ。逃げることができた少数なのだ・・・そして彼らは、この静かな皆殺しに優しくなってもらいたい、と希望を表現する。

 沈黙の服従を要求する連中は出てくるだろう。しかし、脅かされぬこと、真理と、正直さと、自分がすること、あるいは、し損なうことによる人間への影響を懸念する道を踏み外さないようにすることが重要である。
 
 自明の事実を乗り越え、一つ一つの問いに目を向ける。調べ、行動するために。

チョムスキー インタビュー・講演 http://terasima.gooside.com/
 



2002年11月05日(火) 「部落問題のパラダイム転換」2002


☆「部落問題のパラダイム転換」(野口道彦著・明石書店)☆

 全国水平社が「自ら解放せんとする者の集団運動」を呼びかける人々を「部落民」というカテゴリーでとらえた点は重要である。
 部落と部落外の境界線が流動化していることや、身分・職業・地域の三位一体的な部落がなくなっていることは一定、賛同が得られている。
 一方、「部落民」概念から、血縁的要素、地域的要素を切り離す必要性については疑問視されている。
 「部落民」概念の再定義の必要性の理由は�〆絞未量戯�拠性と恣意性を暴露するため�∈絞未箸瞭�いの主体は誰なのかを再定義するためにある。
 身元調べはきわめてずさんで、かつ水面下で行われるため、誰もが差別・排除される対象になる可能性がある。血縁的・地縁的関係がなくても、間違えられて差別された人が差別と闘う主体となるのは当然である。
 部落民とは、差別されることによって部落民であることを自覚する受動的存在であると共に、差別を跳ね返すために闘う主体として能動的存在である人のことである。
 解放運動や同和教育をする側が、部落民を血縁や地域で安易に定義することによって、「あなたはどのような人を部落民と考えているのですか。何をもってそう考えるのですか。まぜ、その人を排除するのですか」と本来不断に問い続け、無根拠性を明らかにしていくべきことがらに、思考停止をもたらしてきた。
 部落民という言葉は、解放運動や同和教育で使う言葉である。それ以外の文脈で使われると差別的なニュアンスを帯びてしまう。いつ誰がどんな時にでも使っている言葉ではないのは、実態がないからである。つまり、文脈(関係概念)としての部落民が存在するのであって、実態(実体概念)としての部落民が存在するのではない。
 また、同和対策事業が一般対策化され、行政上は部落民(「同和関係者」)を属地・属人的に認定する作業が必要でなくなった。
 これからの解放運動は、地域を基盤とした街づくり運動と、結婚差別・就職差別などの課題別の専門的な解放運動との二方向に分化していくだろうと考えられる。運動の担い手(主体)もおのずと多様になってくるであろう。
 

☆「部落差別のソシオロジー」(八木晃介著・批評社)☆

 「同和教育は物知りを作る教育ではない。知識注入教育は無効である」との言説が広く行き渡っており、それ自体は正当な指摘である一方で、部落問題の概念的知識それ自体もお寒い状態に児童・生徒が放置されている実情があります。いかなる概念の持ち合わせもなく、どのような考察が可能かを考えたとき、ひめだるまは、これは思い上がりに違いないけれども、そういった人たちに同和教育を一から教え直さなければならない焦燥にかられます。

 部落とは何か。部落民とは誰か。かつては自明の理であったこれらの命題が、自明ではなくなってきたので、問われるようになった。
 部落差別と他の差別とを区別するとき、可視的な差異はない、けれども差別は現実には存在しているという。
 ただ、差異が差別の基準になるならば、黒人が白人を差別したり、しょうがい者が健常者を差別してもいいわけです。しかし、「白人差別」とか「健常者差別」とかいうものはない。
 一つの閉じられた社会の中では必ず、人間外の人間に分類した誰かを排除するメカニズムが生まれる。江戸期の日本の特殊事情において、皮膚の色の差異もない特定の日本人集団を追い出すことによって、部落というものは成立し、そうしないと自分のアイデンティティーを保てない。
 差別は格差かというと、行政闘争によって部落外の生活水準を越えた部落もあれば、そうでない部落もある。にもかかわらず差別はなくなっていない。
 人々は解放理論にしらけている。解放奨学金もらって、大学を卒業して、あとは見向きもしない。もったいない。水平社の精神からすれば。
 「自分は自分をどう見ているのか」「他者は自分をどう見ているのか」「他者が自分をどう見ていると思うのか」、この3点が一致しないとアイデンティティーは危機に見舞われる。被差別によって反射的に形成されるアイデンティティーは曖昧になってきている。
 水平社の反差別の言説を大真面目に考える伝統が、部落解放運動には欲しいところ。
 ワタシも変わったけれど、部落とそこに住む人々も変わったと思う。部落外の人たちが「自らの少数者性」をはっきりと感じられる人になりうるかは絶望的です。現実は、少数派が多数派の原理を身につけて、それで多数派と折り合いをつけるところがある。部落民が解放の主体。それ以外の人たちの方が水平社精神に賛同している現実も出てくる。そこから、ワタシは新しい意味での部落民。
 人間には自立の欲求と所属の欲求がある。統合されることを容認するような価値を否定できる文化性を持つことが大事だと思われる。
 パートナーの部落は共同体。割合いやがらないで新参者を受け入れる、自分たちの食い扶持を減らしても。そのような部落と関わっていきたい。
 部落とは、そういう社会的存在ではないか。

 「部落史」の終わり(畑中俊之氏著・かもがわ出版)のP127以下からの引用です。


「人権の歴史とは、このような様々な”集団”の錯綜するなかで、様々な質と量において同質性を強制される現実に対して、”集団”の理不尽さから個の自立と自由を擁護して、個人としての自己決定(実現)の権利をいかにして獲得・発展させるのかという闘いの歴史であった。
 このように、そもそも、人権とは、個人としての自己決定(実現)の権利であったはずである。この基本に立脚して考えたならば、個々人各々に”違う”存在であることはより明瞭になるだろう。人として一人ひとり”違う”ということが基本に置かれてはじめて、個の尊厳が維持されるのである。それを無視して、たとえば、”女だから”、”障害者だから”、”日本人だから”などという同質性が一律に押し付けられること、そのことが人権侵害なのである。”「部落民」だから”ということでの強制も同様の人権侵害であったことは言うまでもない。個としての在り方において、各々が”違う”存在であるという確認に立つことによってはじめて、自立した対等の関係のもとで、人間平等(対等)という理念が生きてくるのである。”違う”ということを個のレベルで確認するからこそ、人間として”違わない”ということが真に言い得るのである。」

 
 "「部落史」の終わり"の「人権観・歴史観・人間観」には 明らかに卑小化解釈がある。というよりは、「この著書が本当にこのような思想的根本に立って書かれているか、誰か検証してください」の方が心情としては近いです。



☆「部落史」の終わり ヒロイヨミ☆

「部落に生まれてきたことの どこが悪い・何が違う」は二つの相反する意味を持っている。「どこが悪い」は「部落に生まれたこと」と「部落に生まれなかったこと」との間には違いがあることを肯定した上での問いかけ(そこに自己のアイデンティティーを求める生き方を象徴した言葉)。「何が違う」は「部落に生まれたこと」と「部落に生まれなかったこと」との間には違いがないことの訴え(そこに違いがあるかのように言われることに対する講義を込めた言葉)。

「部落民」であることを隠すのか、宣言するのかまたは、卑下するのか誇るのかの二者択一の生き方ではなく、「部落民」であることを積極的に否定する生き方というもう一つの選択肢があることを言わなければ成らない。


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