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2002年12月05日(木) 森田 益子さんの話��



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976年10月8日号より)
 差別語うんだ生活実態
 森田 益子さんの話
最近、差別事件の糾弾会が暴力であるかのような日本共産党の差別キャンペーンの前に、本気で糾弾をやることが少なくなったのではないだろうかと心配する。最近のいくつかの差別事件の中で、ある観光旅館に働くおばちゃんがスイカを食べてお腹をこわした人の話を聞いて「私は何を食べても当たらんからうれしい。コジキ腹だから当たらん」と言ったのに対し、「それはコジキ腹ではなく、エタ腹と言うのだ」といった事件があった。私はその糾弾会の席上で行政の人にこう言った。「エタ腹」という差別用語と行政の責任とのかかわりあいをどう感じているかと。
多くの人たちは腹の上に「エタ」がついたから差別だと考えるだろう。そうではない。「エタ腹」といわれるほどの生活実態、社会背景、私たちはやわらかい生菓子を食べたことはなかった。古くなって一つ五銭のが三つ五銭ぐらいになったのを買って食べた、魚でも新しい生きのいい魚はよう買えなかった。そんなものを食べざるをえなかった生きざまがある。地区外の人はおそらく「まあ部落の人はあんな出戻りの菓子や腐りかけた魚を食べても、よう当たらんものよ、あれがエタ腹よ」とその生活実態から「エタ腹」という言葉が出てきたのだ。職安行政に働いている人は、こういう差別用語を生み出すのは自分の行政への取り組み方に責任があるということを反省すべきで、「エタ腹」の用語を糾弾しているのではない、本質に迫るたたかいをやっているのだと説明して初めて、理解された。
皇太子ご夫婦が高知へ来たとき、みな口々に美智子さんが綺麗だといった。専門の美容師をつけ最高の美顔術をし最高の衣類を着けたら誰でも綺麗になる。明日買う米がない。学校へ持たしてやる学用品代がないという時 母親は誰も紅も付けないお化粧もしない。今の日本の社会の中で見るなら化粧している人の方が美しかろう。しかし中国のように美に対する感覚が違うところでは違う。化かす化粧というものが、必ず軽蔑される時代が来る。部落解放の思想はそこまで徹しなければいけないのだ。

五月二十二日の同盟休校は、全国千五百校、十万人を上回る子供達が参加した。二十二日の十日前、孫の一人が「おばあちゃん、ボクが休んで本当に石川君が無罪になるという責任をもてるのか。ほかの人が休まんのになぜボクだけ休まにゃいかんのか、友だちがなくなるから嫌」と泣き出した。全県下を飛び回り、人様の大事な子を休ませないかんと言って来て、自分の孫から抗議を受けた。そこで毛利元就の教訓ではないが、割り箸とトイレットペーパーで、一つ一つの力はいかに弱くとも団結すれば強くなる話をし、なぜ部落の人たちは字が読めないのか、きちんとした職場につけないのか、部落差別の本質の話をし、「土曜日の半日の勉強よりもっと大切な、弱いもの同士が力を出し合って助け合うという教訓を身に付けてほしい。最終的判断はお前にある」と言って、一緒にその日の集会に出た。
二十二日は98%の参加をみることができた。わかるように話してやれば三歳は三歳、六歳は六歳の判断力はある。大人たちが長い間乗り越えられなかったカベを、子供達は自らの力で乗り越えた。このことは私たちに勇気と自信を残した。



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1977年 9月 2日号より)
部落婦人解放の要求は 母のしかばねをこえて
 森田 益子さん

「あんたたちは今誰と交渉しているのかわかっているのか。そういう回答の仕方が差別だ。部落の婦人は差別ゆえ、私の母も祖母も、産後幼児を残して死んだ。日本中の産婦人科を国立病院並に開放しなさい。出産手当二十万円を現金支給しなさい。この請求は部落の女たちがその母の屍を乗り越えての要求ですぞ」
部落解放同盟が厚生大臣宛に出した「厚生省要求白書」に十ヶ月以上たっても応答がないのに対し、八月十、十一日、森田さんは局長、課長を呼びつけ、三日でできる回答を十ヶ月も検討中と騙し続けたのは差別意識と詰め寄った。
8.23最高裁の狭山事件上告棄却に抗議する東京・代々木公園の「中央十万人集会」では、森田さんは若者たちに囲まれて
「嫁も 小学五年.六年の孫も今日この集会に来ています。孫は危ないから外からこの雰囲気だけを感じさせたいと思って連れてきています。明日は狭山の現地調査に参加させます。石川さんの無実を目で見て、体でわからせて、同盟休校が大人の押し付けにならないようにしたいと思いますので。子ども自身が無実を確信するところから強い闘いが生まれるのだと思います」





婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1980年 9月 12日号より)
 どんな子どもに育てるのか

「生活習慣が身についたら、しつけができたら、差別はなくなるんか」。親と保母の集会である親からの発言は大変重たいものであった。生活習慣を確立していく保育のとりくみの中で、「健康で規則正しく生活し基礎学力をつけ、部落から出て行く子ども」では何にもならない。差別から逃げ出すような子どもを育ててくれるな、どんな子に育てるのかをはっきりさせ村中で見守り育てようという親の強い願いがそこにあった。
一九七三年の同保連総会後の実態調査で、多くの「同和」保育所で 厳しい差別の中で教育を奪われ激しい労働を続け子どもを生み育ててきた親たちの生活が、子どもの現状として現れていた。夜更かしや朝食を摂らずに来る子ども、食事の好き嫌いなどが、子どもを遊べぬ子にし、根気がなく体力の弱さに現れてきていた。子どもの基本的な生活習慣、リズムを大切に考え、親自身の生活を変えていくことは、辛いことであるが、「親も辛いががんばろう」という姿が出るまで根気のいる取り組みがされ続けてきたのである。
そうして出された「子どもの二十四時間保育」では、先ず子育ては母親だけかということから父親集会が持たれた。親が受けてきた差別の結果、子どもとの遊びを知らない、どんな絵本を選んでいいかとまどう現実から「絵本を読む会」などが作られた。また地域で受け継がれてきたまつりを教材貸したり、盆踊りを地域のおとしよりに来てもらって習う、子供会や小学校との連携などが取り組まれた。
地域ぐるみで取り組んでいる狭山のたたかいを保育所の子どもの段階でどう一緒に
やっていくか、戦争を憎み平和の大切さをわからせていく保育の実践、親の労働・闘いの姿をしっかり見てわかっていく子どもを育てようという保育の中味を、それぞれの場で実践し、作り上げていった。
「同和」保育の追及する保育は、解放の資質を持つ子どもに育てよう、生きる力をつける学力を身につけさせたい、一番しんどい子どもにまわりの子どもたちが親・保育所とかかわりきっていく、競争主義でなく共存の思想、学力をという集団主義保育であるといえる。


 


婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1980年 7月 11日号より)
 ☆「同和」保育
親と子の生存権かけ保育所要求

 今年の五月、大阪同和保育連絡協議会は、十年の運動の歩み「闘いの炎をひきついで」を出版した。その中に現在の「同和」保育に至るまでの差別の苦しみから立ち上がり、子どもの保育要求の闘いがどれほどの厳しいものであったかがぎっしりとつまっている。
ある地区では一九六二年の調査で一般地区に比べて、乳児死亡率は二倍、出産直前まで労働する母親が八五%、生まれたこどもの育つ実態は、激しい労働と子育ての手立てを奪われた中で特に歩くことの遅れや言葉の遅れが目立ち、それは将来の子どもの成長・発達に大きく影響した。
親が生きるため、子どもが育つため、子守りで学校へ行くことを奪われた兄姉の教育権の保障のため、母親たちの保育所要求運動は熾烈であった。
「あした対市交渉やいうたら、さらの下駄、近所のもんに買うてもらって、電車賃作って行った」「交渉が長引いたら、へっついつぶして釜を質に入れて電車賃を作った」「おむつが足らんで、こしまきはずしておむつにし、一つのコッペパンを子どもに食べさせ、私らは水を飲んで帯で腹しめて座り込んだ」全生活をかけた運動の結果、一つずつ保育所が建てられてきたのである。


 


婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976年 12月 3日号より)
 ☆解放同盟婦人のハンストが教えるもの(1976-12-3)

・・・国民年金の更新手続きをしなかったため、部落の人百数十人が年金がもらえなくなったのです。「更新手続き案内のハガキを各人に出しているから市に責任はないというが、部落の人は差別のため教育が受けられず字が読めずそのハガキが読めない。市はその部落の実態を知りながらそんなことを言うのが許せない」と3日間飲食を断った体とはとうてい思えない希薄で迫る県連婦人部長(天理・中村ハルさん)の顔はたたかう女の真にすばらしい姿でした。・・・女は一晩家を空けることすらまだ大変という状況の中で、家を空けるどころか五日五晩役場前で座り込んでハンストをするということは 命をかけてのことです。女性差別の世の中では考えられないことをものの見事にやってのけた。たたかいのあるところでは女性は解放されていくということの実証でもあります。


 





私たちは多様です。壮年と青年、原住民、地方と都市、労働者と失業者、ホームレス、高齢者、学生、移民、専門家、さまざまな信条・皮膚の色・性的志向の人々からなっています。この多様性は、私たちの強さです。多様な人々と部落解放運動を。

全国水平社は大正十三年の第三回大会に婦人水平社設置の件を満場一致で即座に可決しました。戦後の部落解放同盟婦人部の活躍は、この婦人水平社の闘いを受け継ぐものです。被差別部落の共同保育所と識字学級は、労働婦人である彼女らの、独自の自己解放のたたかいの中から生まれたものです。差別を耐え忍ぶことは、己に暴力を加えていることであり、彼女たちは、自分たち女の解放は、夫の解放、部落解放と共にあることを体で知っていました。

 



 


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