「チャイちゃんとフリートークを」より
狭山事件については、「字が書けないので、警察に言われた通りに書いたらそれは自供文だったそうです。しかし警察は、罪を否認する内容だと嘘を言いました」と習いました。また「警察官にも悪い人がいて、この警察官などは最初から犯人を決めていて、字が知らない、書けないに付け込みこんなひどい事を平気でした」と教えられました。当時の私は、その事をそのまま受け入れました。
他のいくつかの冤罪事件についてもこの頃知りました。時代背景から察するに、不当逮捕・裁判だったのかもしれませんが、そうでなかったのかもしれません。逮捕者が同和地区出身者であり、本人が「無実」と主張しただけで、物的証拠はないのですよね。また、あっても捏造かもしれません。と、このように疑惑を持つことは、回想すると差別であるという教え方だったと思います。私は以後、この事件に関しては文献等を読んでいません。
私は「橋のない川」は中学時代に読み、心を惹かれました。その後も後編がでるたびに読みました。作者の死去を悲しく思いました。模索するそれぞれの人物にそれぞれ心乱されました。
ダブルっちBBSより
1159 【Re:狭山事件】
★ 2002/11/14(Thu) 13:36
「石川さんは無実だ!」とかいうゼッケンつけてムラの小学生とかどっさり集まって 小学校まで歩くんです。
闘争の一環・・・だったんでしょうねぇ。効果のほどは不明ですし、やってる本人も意味はようわかってませんでした。小学生でしたし。
さんへ
しばらくネットを離れるということですが、「ダブルっち」のこと忘れないでくださいね。
さて、上記は「狭山事件」をなぜ学習するのかというお話だったと思うのですが
ワタシは大学の部落問題論と、部落研活動の中で「狭山」を知ったのですが、
事件で言われている「疑わしきは被告人の利益に」という証拠重視の精神(理想)と
石川さんの「再審は針の穴をラクダが通るほど難しい」という現実を埋めるには 自分たちは何ができるかをみなで考え、
当時、新証拠と上がっていた「小名木証言」を、自分の大学で教職を取る人や法学部の教員中心に 毎日1人ずつでも説明しにいき 無実の証拠の認知度を高めることだということになり、お互いの空き時間には何とか動けました。
人に説明するには自分が十分な知識を持っていないとできませんよね。もう大学生なので狭山事件の学習は独学でした。
T.T.さんから、今の若い人たちの事件の受け止め方について指摘があったように 意味や目的がわかる年齢になったら、「狭山事件」について 地区の大人たちから たとえ教えすぎと感じられるほど詰め込まれた場合であっても、受け止め方は違ってこなければいけないとワタシは思います。
ダブルっちちゃんの通う同和保育所や児童館では、最近は「狭山事件」を扱っていないということなんです。う〜ん、どうしよう・・・。
期間限定 Uさんのひとりごとから転載
11月8日(金) かるい想像は「偏見」を生む
・・・部落問題を感覚だけでとらえている。運動団体が悪いとか、制度が悪いとか、「同和」は「同化」すれば差別はなくなるとか、立派な?発言を臆面もなく書き綴っている。
確かに「同和対策特別措置法」以後、彼等はそれなりの教育を受ける機会も得られたし、就職差別も極端に減った。社会が門戸を開く状況にあった。それが建前とはいえ、法律がある以上、国も自治体も企業も教育機関も「同和」問題を無視できない時代だったのである。
その中で過ごしてきた人達は無責任な論評を繰り返す事が多い。部落差別に抗してどんな営みがあったか、その歴史性について掘り下げようともしない。まして社会人になってその関わりが皆無に等しいさまが覗えるのである。
ある意味で逃避と同化のなかで想像の世界の傍観者的立場の発言にさえ見える。本名で書く事もないし、都会の真中でゼッケンを付けたこともなかっただろう。会社や自宅周辺で彼等が部落民だとは誰も知らないのだろう。だから気楽に言えるのだろう。社会はそんなに甘くないし、部落差別は薄まりつつあるとはいえ現存しているのである。その事を受け止めて欲しい のである。
しかしながら解放運動への批判は運動団体が自己点検し、悪しき事実に対しての批判を甘んじて受けなければならないのは言うまでもない。
確かに運動の中では制度に依拠しそれが解放運動のすべてと誤解していた人もいる。制度を自分の利害だけでしか考えなかった人もいる。数えるほどであるが利権に手を染めた人もいただろう。しかし大部分の部落大衆は真摯に運動に関わってきたのである。その時代を知っているのはもう50代以上になっている。厳しい生活を強いられながら自力で運動に関わり、子供の為に、孫の為にと必死に働いてきた、何が何でもと頑張って来て今の実態があるのだ、と、運動に関わらなかった若い人達に言いたい。
「同和」教育などについても、そんな事をするから差別が残ってしまう、とさえ言い切っている。「狭山事件」なども所詮他人事になっているし、運動の存在がある意味では迷惑みたいな論評すら見られるのだ。本当は運動の本質も知らずかるい想像で話しているのではないかと思わざるを得ない。体験体感のない中では真実は見えないものらしい。
まして身内のしんどさなんぞ解りはしないのだろう。一人大きくなったとでも思っているのだろうか。 親の心 子知らず なのかもしれない。
誰かがどこかで書いていた。
かるい想像は「偏見」を生む。当らなくともいい、
人をいとおしむ想像力 が欲しい
その通りなのかもしれないとつくづく思う。