人権�牋貽�100質��
〆よろしければ、相互リンクをお願いします。


2007年05月31日(木) 『現代のアイヌ 民族移動の大ロマン 』菅原幸助著


『現代のアイヌ 民族移動の大ロマン』
菅原幸助著(現文社)
一九六八(昭和四三)年二月一九日初版発行

P57〜

アイヌ民族大陸移住計画は順調に進み 穂坂徹先生はコタンの青年たちを連れて昭和一七年に渡満した。
・・・この大計画は終戦でご破算になり、再びコタンに戻ってきた。
しかし戦後の民主教育は穂坂先生に一筋の希望を与えた。差別なき教育が実を結びつつあるからだ。

ある年、奈良市で「同和教育研究全国大会」という大会がひらかれたことがある。穂坂先生は休暇を取り、自費で奈良市まで出かけていった。
本州でおこっている未解放部落の教育問題、同和問題解決のあり方を知りたかったからだ。
穂坂先生は大会に出席して次のように発言した。

日本の同和教育の中で 北海道のアイヌ教育、コタンの青少年問題もいっしょに討論していただきたい。
アイヌはアメリカのインディアンよりも悪く、黒人問題に近い、深刻な悩みをかかえています。
日本人は白人に対してある種の劣等感を持っていた。
その日本人が満州や支那大陸では 中国人に対してある種の優越感を持って彼らを軽蔑していたようです。
敗戦で、すべての外国人に頭が上がらなくなった日本人が アイヌに対してだけはつまらぬ偏見を発揮しているのです。
北海道に住む”日本人”はアイヌに対して特にそうした感情をもっている。
差別、偏見の問題は、アイヌとか黒人に限定されるものでない。
社会のあらゆる差別、偏見による被害をなくすために わたしたちは根強い運動を進めて行こう・・・。

奈良市での大会があってから、本州の同和教育を進めている教育者達と穂坂先生はがっしりと手をつないで、けわしい道を踏み進んでいるのだ。


P211〜

コタンの指導者、貝沢正さん(五三歳)はこのことについて

「本州の部落解放運動を調査してわかったことですが、むかし本州で部落の人たちをエッタと呼んで非常な差別扱いをしていた。
戦争中のことだが、政府は部落民に竹細工とか牛馬の皮の加工など特殊な技術を指導した。
もちろん、部落民救済という名目で行われたことだ。
そして、竹細工の家具、台所用品を売りに歩くと、あのひとはエッタだ、とうしろゆびをさしたものだという。
アイヌの保護政策として、生活館でコタンの青年たちにクマ彫りを指導するのは”エッタの竹細工指導”と同じことではないか。
私たちは本州の部落民が経験した苦しい道を歩かされるのはごめんだ」

と語り、新しい時代の職業指導を望んでいた。

P219

アイヌの組織でもうひとつ、見逃すことのできないことは、
「本州の同和対策とアイヌの同化運動が手をつないで前進すべきである」
という動きがあることだ。
推進者は日高平取町の貝沢正さんを中心にした中年層の人たちである。
貝沢さんたちは秋の仕事が終わると、毎年のように大阪、京都方面にでかけていく。
そこで部落解放運動の進め方を視察し、水平社の運動家たちと会ってアイヌの実情を訴えてきた。
奈良県北葛城郡上牧村に住む元小学校長松浦勇太郎さん(六一歳)らと文通して、どうしたら差別や偏見のない社会をつくることができるか、について熱心に話し合ってきた。

ある年、部落解放全国大会が大阪市で開かれ、貝沢さんたちも招かれて出席した。
「北海道には部落民というのはないが、部落民よりもっと苦しんでいるアイヌがいる。みなさんの運動にアイヌの問題もいっしょに加えてください」
貝沢さんたちはこう訴えて、
人間平等を力説した。



 *1968年の「北海道開拓百年記念」の祝典に際し、その「開拓」史観の賛美およびアイヌの存在の隠蔽を批判する動きが高まった。この頃から1970年代にかけて見られるところの、アイヌの現代史を構成する上での重要な転換の特質のひとつは、民族的尊厳を求めて「発話する」ポジションが多極的な様相を呈するようになることである。

 それが顕在化する大きな要因は、1970年6月の北海道市長会総会での北海道旧土人保護法(以下、旧土法)廃止提案の採択を契機とした同法の存廃をめぐる議論であった。これに対しウタリ協会は、新たな施策を求めていく根拠として存置するという趣旨から廃止反対を総会で決議した。これには、1969年7月の「同和対策事業特別措置法」の公布を受け、対アイヌ施策が同和対策事業と比較して立ち遅れているというウタリ協会側の認識が背景にあった。その後1974年から「ウタリ福祉対策」が実施されたが、同和対策との格差拡大に対する不満は一層強まった。こうした動向はやがて、対アイヌ施策を規定する法律制定に向けた運動の発生源のひとつとなっていく(北海道ウタリ協会 1994:589)。

 しかしその一方で旭川人権擁護委員連合会は、上述の市長会提案を受けて、国民一般からの法的区別の全廃という観点から旧土法撤廃を求める方針を決議した。さらに1972年11月に発足した「旭川アイヌ協議会」が同様の方針を明確にし、ウタリ協会とは異なる方向性が採られることが浮き彫りになった。
 同協議会会長(当時)の門別薫は、「『旧土人保護法』の廃止は経済的援助や物質的な施与などアイヌの貧富問題とは全く別問題であって、あくまでも憲法でいう基本的人権の原点に立たなければならないのである」(門別 1973:2)とこの時期に論じていた。
 門別はこれに続けて、「アイヌ人を主体としたアイヌ史を築き、民族の尊厳を回復するための重要な素地をつくらなければならない」と述べており、彼らの想像する「民族的尊厳の回復」は特別な施策を求めることにはつながらないという認識を示していた(6)。

 こうしたポジションの多極化をさらに進めたのが、アイヌをめぐる諸問題の外縁に位置するさまざまな運動体との連帯である。社会主義運動や部落解放運動との連動は、戦前期からもある程度見られるものである(大阪人権歴史資料館編 1993、小川・山田編 1998)が、北海道ウタリ協会再建後の60年代になると、同和対策事業の法制化をめぐる動向の影響を受けつつ、差別待遇撤廃の観点から部落解放運動への歩み寄りを図る層の動きが起こってくる(菅原1966:219)。

また、1973年5月の北海道中央メーデーにアイヌ有志が「アイヌ民族旗」を掲げて参加したことや、1970年頃からの伊達火力発電所建設の動きに対してウタリ協会伊達支部が(協会本部とは独自に)反対運動を展開するようになったこと(アヌタリアイヌ刊行会 1973a)など、労働運動や環境保護運動などとの新たな連帯の形が生まれてきた。

 さらにこの時期、東京での「ペウレ・ウタリの会」(1965年)や「東京ウタリ会」(1972年:これを前身として1980年に「関東ウタリ会」が設立された)の発足、北海道ウタリ協会石狩支部(のち札幌支部)の設立(1971年)など、都市部におけるアイヌの組織化が進行した。
 また、1973年6月にタブロイド版新聞『アヌタリアイヌ われら人間』が創刊されたことや、同年11月に「ヤイユーカラ・アイヌ民族学会」が設立されたことなど、旧来の運動体の主導によらない多様なムーブメントの簇生が見られるようになった。
 とくにその担い手として、比較的若い年齢層や女性層の参加が顕著になるのもこの時期の新しい傾向である。

 こうした活動の方向性の多様化については、非都市部出身の、しかも場合によってはマジョリティ社会において一定程度の経済力を得ることに「成功」した男性中高年者という人々が中心となって指導的な層を構成していた旧来の組織の主導による運動の主流が、上述の新たな運動群から発話される問題系を十全に掬い切れなかったという点を見なければならない(SIDDLE 1996:172-173)。
事実、1973年7月のウタリ協会総会では、協会名称を「社団法人北海道アイヌ協会」に戻すか否かという問題や、協会の事業を道外在住アイヌにも適用すべきか否かという問題などをめぐって意見の相違が噴出しており(アヌタリアイヌ刊行会 1973c)、とりわけ、広範な民族的連帯を構築しながらアイヌのアイデンティティを強く主張していこうとする層にとって、政治的な問題を回避しようとする協会の福祉団体的な体質は批判の対象となりつつあった。

 もっとも、こうした運動内部のポリティクスをもって、民族的差異を呈示するラディカルと、同化主義的な志向を残す保守的な層との間の相克、などと単純に見なすことはできない(7)。前項で論じたように、当初からアイヌの自己呈示の表象は、「日本国民」という上位のカテゴリーと「アイヌ」という個別的カテゴリーとの間で生まれるねじれを内包したものであった。この時期において現象化した複数の「発話するポジション」の簇生は、いわばそうしたねじれから織りなされたグラデーションの一種であり、個々の運動体は、差異の分断面の在処をめぐってそれぞれが想像する「尊厳」のあり方を志向していたのだと考えられる。




*菅原幸助氏は、14歳で満蒙開拓少年義勇軍に応募して渡満し、軍事訓練と農業の指導を受けていたが、18歳で志願兵となりました。しかし、現地で習得した中国語を活かして憲兵になるようにすすめられ、憲兵隊に入隊した。憲兵としての訓練を受けるのもつかの間、ソ連軍が参戦し、訓練は繰り上げ卒業し、ただちに、新京から避難する列車の護送の任務につきました。このため、軍人でありながら、早期に帰国できたという経歴の人です。

 戦後は、朝日新聞の記者をして、53歳のときから中国残留孤児の問題のボランティアとして活躍し、今回の全国訴訟の実質的指導をしている人です。

 1987(昭和62)年から、中国残留孤児問題全国協議会(孤児全協)の会長もされています。

 満蒙開拓義勇軍、関東軍憲兵という特異な経歴と、新聞記者としての豊富な体験、残留孤児の多くの人との深い交際や、身を挺しての活動に基づく証言は、納得できるものであり、その行動と実践に感動しました。

 どうして現在の孤児の不幸が生じたのか、深く考えさせるものでした。




*鎌倉ユネスコ第二 代理事長・菅原幸助さんに、横浜弁護士会第8回“人権賞”が贈呈された。
同賞は、年一回、人権を守る活動で優れた功績を残した人や団体を表彰するもの。
菅原さんへの授賞理由は中国残 留日本人孤児の日本国籍取得を実現させた実績と、帰国後、国の支援がない ため自立が困難になり厳しい生活を余儀なくされている孤児たちが、政府に 損害賠償を求める集団訴訟を支援しつづけた、その地道な努力と行動力。

過去15年間に菅原さんのお世話で帰国した中国残留孤児は300世帯に及ぶ。
みんな就職させ自立させたつもりだった。が、彼らが定年を迎える段階になって、実際にはその7割が規制の多い僅かな生活保護で暮らさざるを得ない苛酷な現実にあることを知る。10万人の賛同署名を集めての二度にわたる国会請願は不採決に終った。
集団訴訟の弁護士探しを依頼され途方に暮れていた菅原さんの相談相手が鎌倉ユネスコの理事長職をバトンタッチした及川信夫弁護士だった。
及川さんの紹介で小野寺利孝弁護士に出会いそこから輪は広がった。
今、1,262人の原告に対し、183人の弁護団へと発展。
菅原さんを含め、みんな手弁当のボランティアだ。 一人からの出発を決意し踏み出した背景を菅原さんは「私の青春時代の罪ほろぼし」と言う。
親の反対押し切り満蒙開拓を夢見て渡満。農事訓練生としてホームステイした中国人家庭で中国語をマスター。
そこを見込まれ終戦の年3月、憲兵教習隊員にひっぱられた。ほどなく敗戦。関東軍将校や高級官僚の日本帰還任務に追われるなかで見聞した開拓団おんな子供の悲惨。
帰国後は朝日新聞事件記者で鳴らした時期もあったけど、あれが侵略戦争だったと本当に気づいたのは、横浜中華街取材で会った中国人学生との対話から。 53歳、遅い気付きだった、と。
「受賞はもちろんありがたいことだけど、孤児たちが安定した人間らしい暮しができる日が来ない限り、喜ぶわけにはいかない」と語り終えた菅原さん、三年前に病んだ椎間板ヘルニア後遺症で痛む足をかばうかのように、ステッキをつき初冬の街を去って行かれた。その後ろ姿には、2年以内の判決をめざし、勝訴の日まで粘り強く支えていくための全国100万人署名と支援募金運動の重責が懸っていた。



*2004年3月10日(水) 中国残留孤児訴訟、初の証人尋問 菅原幸助氏、国の責任を厳しく告発!

 
  東京地裁第103号法廷にて     スケッチ 大森たけし
            中央、裁判長の前に居るのが菅原氏
 10日、中国残留孤児訴訟の第7回の口頭弁論で初の証人尋問が行われ、長い間、残留孤児の支援に当たってきた菅原幸助氏が4時間にわたって、国の責任をリアルに告発する陳述を行いました。
 私もこの日は、朝9時過ぎから傍聴券を求める列に入り、うまい具合に抽選(最近は籤引きではなくコンピューターで行うとのこと)で当たり、4時間たっぷり傍聴しました。
 菅原氏は、自ら、満蒙開拓義勇軍を志願したこと、軍隊入隊後、憲兵としてソ連参戦・日本敗戦時の高級将校・その家族の避難列車護衛の任務についたこと、また、戦後は、朝日新聞記者として、残留孤児問題を徹底調査したこと、さらにボランティアとして、戸籍上、死亡扱いされた孤児の就籍のために活動したことなどの経験から、国策として、旧満州に、菅原氏をはじめ、大量の国民が送り込まれたこと、ソ連参戦・日本敗戦時にたくさんの民間人、子供たちが置き去りにされたこと、戦後は、残留孤児の引き揚げに日本政府がまったく何もしていなかったこと、戦後、40年も経ってやっと帰国した孤児たちへの国の施策がきわめて貧弱であったことなどをリアルに証言し、私もたいへん感動しました。
 なかでも、避難列車の護衛の時、水の補給で停止していた列車が、匪賊の襲撃で急遽出発した時に、数名の女性、子供たちが乗り遅れ、必死に走って追いすがるのを見捨ててきた時のことを証言する際には、氏は絶句し、最後は「(証言は)もう勘弁してください」と述べたのでした。菅原氏の今日の行動のおそらく原体験とも言えるのではないでしょうか。
 菅原氏の今日の証言は、国のあれこれの言い訳をことごとく打ち破るものでした。
 氏の証言は、午前、午後にわたって行われましたが、その間、昼休みには、厚生労働省前で原告や支援の皆さんによる要請集会も行われました。
 先日の「支援する集い:」で発言していただいた原告団の清水さんが、日本語と中国語の両方でシュプレヒコールの音頭をとりました。



*鮎喰人権サイト「大人の学習会」No.72から

部落史研究の未来

・・・「過去」 では一般に 「謂われのない差別」 という言い方がされたが、それは決定的な間違いであり、部落差別や多様な被差別民に対する差別の 「謂われ」 は確実に存在する。しかし、それは部落のなかにあるのではなく、部落外住民の生活意識のなかに潜んでいる。

・・・教育条件の整備に限っていえば、「課題・条件を共有するものすべて」 を対象とした制度・システムが構築されるべきであり、どのような意味であっても特定の閉ざされた集団 (個人の個別条件、個性によって構成されるのではない集団、たとえば部落出身の児童生徒など) だけを対象とした制度・システムは意味を持たない、と考えなければならない。
・・・新しい高等学校奨学金制度 (奈良県では奈良県高等学校等奨学金制度) の持つ意味は限りなく大きく人権教育のシンボル的意義を持つ・・・

・・・「課題・条件を共有するものすべて」 を対象とした人権教育こそが同和教育が本来めざした 「部落差別をなくす」 ことを実現させうる教育活動ということになり、部落史研究の未来は被差別という 「課題・条件を共有するものすべて」 がいかに協同し、協調し、調和したかを歴史のなかから取り出すことを一つの課題にしなければならない・・・



2007年05月30日(水) 活発な「交易の民」アイヌの歴史(網野善彦著/「日本社会の歴史」上中下)

活発な「交易の民」アイヌの歴史

「日本社会の歴史」上中下(網野善彦著/岩波新書)参照

 「日本」は部族名でも地名でもなく、日の出るところつまり東のほうを意味し、中国大陸を強く意識した国号でした。六八九年、「倭」にかわる国号「日本」、大王にかわる王の称号「天皇」が初めて制度的に定められ、日本国がここに初めて誕生しました。翌六九〇年、天皇持統が即位しました。
 北海道では、八世紀はじめは続縄文文化が終末期にさしかかっており、まもなく擦文文化といわれる文化は海を越えて東北北部に及び、本州からは土師器(はじき)を使う文化が北進し、オホーツク海沿岸にひろがるオホーツク文化も北海道東部に及びつつあり、北海道の社会も新しい文化段階に入ろうとしていました。
 一二世紀になると、アジアのバイキングなどといわれ海獣の狩猟に巧みなオホーツク文化人は、熊を祀るなどののちのアイヌ文化の精神面に強く影響を及ぼしたのであるが、擦文文化人たちとも関係を持ちつつ北海道東部に定着していました。
 北海道南部と東北北部の間には、津軽海峡を通じて人とモノとの交流が非常に活発であり、この頃、この地域の人びとを本州側から「蝦夷(えぞ)」と呼ぶようになっています。
 一三世紀には、夷島(えぞがしま)ともいわれた北海道南部から日本海を通じての海上交通、交易により、北方の産物ー昆布・鮭などが本州・四国・九州にもたらされ、逆に中国大陸の陶磁器や銀貨などが北海道にも大量に流れ込みました。こうしたミナミからの文物の流入の中で、北海道では、北東アジアから道東に入ったオホーツク文化が他の全域を覆う擦文文化に吸収され、サハリン、北東アジアなどとの交流の中で、しだいにアイヌ文化が形成されていきました。

 新たな文化を創り出したアイヌは、土器を用いず、農耕も行わず、狩猟、特に漁労・採集を営みつつ南北に活発な交易を行い、日常用具・食料を入手し、一三世紀後半までにはサハリンに入り、さらに北東アジアのアムール川流域で交易を展開するようになっていきました。

 アイヌの中には、本州人とも言語が通じ、相互に交流を活発に行っている渡島半島の「渡党(わたりとう)」といわれた集団に対し、農耕も知らず、毒矢を使い、狩猟・漁労で生活する日本党(ひのもととう)、唐子党(からことう)などの集団があり、北海道やサハリンの全域にアイヌの独自な社会が形成されつつありました。
 
 そのころ草原の遊牧民モンゴルの王者となったチンギス・ハンは、ユーラシア大陸全域に及ぶ巨大な勢力を形成し、中国大陸はその重圧下に置かれ、その波動に列島社会にも及びました。交易のためにアムール川に入ったアイヌとモンゴルの摩擦から、北方の海の領主安藤氏の中心人物がアイヌと見られる「蝦夷」に殺されました。

 一三世紀後半に入ると、中国大陸からの宋銭が本格的に流通し、陸海交通・交易が活況化し、アイヌも交易の民として、サハリン、アムール川、北東アジアまで活動を展開していました。
 
 一四世紀に入ると、北東アジア、サハリン、北海道、東北北部におけるアイヌの交易活動、および北海道南部、東北北部の海の領主安藤氏を中心とする本州人の会場交易と、北条氏による専制的な海上交通支配の激突である「アイヌの放棄」が起こり、本州の出羽にまで広がりを見せました。列島諸地域がこのような独自な動きを見せ始めたのに対し、鎌倉幕府や東国の王権は弾圧するのみで柔軟な対応ができないまま、次第に行き詰っていったのです。
 
 一五世紀に入ると、北東アジアでは明の力がアムール川下流にまで及ぶ中、アイヌの動きも活発化しました。アイヌは農耕を充実させる方向を捨て、主として交易に従事する道を選択し、その中で新たに「民族」としてみずからを形成する道に進み始めました。そして、東北北部の、北の博多と言い得る有力港であった十三湊(とさみなと)で繁栄していた安藤氏を、北奥羽で勢力を振るう南部氏が攻撃し、この動きは、北東アジアとの交易を活発に行っていたアイヌも巻き込み、一四五七年コシャマインを指導者とするアイヌとのあいだに戦闘が行われました。戦争はコシャマインの戦死によっておさまり、アイヌと本州との間に交易の縄張りについての協定が成立しました。中国製青磁・白磁が膨大に流入した勝山館(かつやまだて)にはアイヌも混住していたと見られ、この時期にはアイヌと本州人、安藤氏との関係は円滑な一面がありました。まさしく列島社会の文明史的・民族史的転換が進行していましたが、それとともに日本国の国制下におかれた社会の中には、さまざまな差別の根が下ろし始めていました。

 一六世紀になると、北海道ではチャシという聖地、砦が、海や川沿い、それを見下ろす丘陵、岬に構築されるようになりました。同じ頃、アイヌの英雄叙事詩『ユーカラ』が成立し、アイヌの「民族的意識」は明らかに強くなりつつありました。背景には、だいぶん以前からアイヌが北東アジア、北海道南部、東北と「交易をする民族」といわれるほどになっていたことがありました。

 しかし一七世紀になると、徳川家康は、松前氏が自らの支配地をなお「日本ではない」と主張していた北海道のアイヌを、「日本国」の支配下に誘引しようとしました。松前氏は日本国の境界の特異な性格を持つ大名という立場を、幕府によって保障されていくことになりました。
 アイヌは一部は松前氏に属した者もありましたが、その後もなお独自な生活秩序を北海道全体で保っており、山丹交易(日本国と北東アジアを結ぶ交易)に積極的にたずさわる活発な商業交易民であったとみられます。ヨーロッパと同じような馬を持っていたことも知られています。

 一七世紀後半になると、公益と漁労の縄張りをめぐる争いを契機に蜂起した、主張シャクシャインに率いられるアイヌ2千人余が、松前氏に鎮圧され、これ以後、アイヌの首長たちはなお独自な地位を保ちつつも、日本国の大名に貢納物を献上することによって、立場を保障されるようになっていきました。
 権力の安定のもと、社会・経済の発展はめざましく、近江や能登の商人は松前領のアイヌとの交易の場、商い場を請け負い、北の産物(昆布、いりこなど)を入手するとともに、アイヌを雇用して大規模な鰊(にしん)漁を行ったりしました。北の産物はこれらの商人により、大坂、薩摩、琉球国、中国大陸にまで大量に運ばれ、こうした商人の北海道進出に伴い、アイヌに対する収奪、圧迫は次第に厳しさを増していきました。

 一八世紀後半に入り、ロシアがカムチャッカを押さえてアイヌと交易を始め、ロシアと日本の間の緊張関係の板ばさみとなったアイヌの立場は次第に低下していきました。一九七八年に起こった日本人に対するクナシリ・メシリのアイヌ放棄で、幕府はアイヌがロシアと結びつくのを警戒して、「蝦夷地」の厳重な防備を実施しました。

 一九世紀後半には、明治政府はロシアと樺太・千島交換条約を結び、千島・北海道のアイヌを日本国の支配化に置きました。しかし、政府はアイヌの独自な縄張り的な土地支配権を私有権として認めず、農業を強制されたアイヌの「民族生活」は決定的に破壊されて行きました。
明治期以降、神話を事実とした荒唐無稽な天皇中心の歴史観の中で、日本人を「血統」の上で天皇につながる優れた「大和民族」であると徹底的に教育で刷り込み、長い歴史と独自の文化を持つアイヌの人びとの固有の言語を否定して日本語の使用を強調し、日本風の姓名を名のらせて戸籍にのせた上で、皇民化を強要したという無神経なやり方は、アイヌの人たちに、はかりしれない苦痛を与えました。 







参考)

・・・昭和三七年一二月、ウレしゅう長の妻でムカワアイヌの最年長者だった板野エサンさんが・・・この”チセゴモリ”を守って死んだ。おそらくコタンでこの奇習を守って死んだのは、これが最後だろう・・・北海道各地から大勢のウタリたちが集まって エサンばあさんの家を焼き払う行事が行われた。・・・テレビや新聞の報道陣が大勢やってきて・・・
「アイヌの伝統とか アイヌ文化だといってお祭り騒ぎをするのです。つまらぬ因習だ。やめてくれればいいのに。あのときはやりきれない気持ちだった・・・」

「・・・コタンのチセがぽつりぽつり消えていったのは こうしたアイヌコタンに悪い因習のようなものがあったことも一つの原因だと思う・・・」
(一八頁)

”チセゴモリ”
「役にたたなくなった老人はひとり山小屋にこもって余生を送り静かに死期を待つ。死後は小屋もろとも焼き払って病魔を退散させる」アイヌコタンの風習

コタンの一部の老人たちは「アイヌがシャモとの生存競争に負けた結果だ。やはりむかしの生活がなつかしい」とあまり喜ばない人もいた。


「コタンの青少年を本州の大工場に送り込もう」運動
酒折久男さん(三五歳)らの青年グループ

「・・・アイヌという言葉に苦しまなくなるためには、自分に勝つことだと思う。・・・アイヌのことを書いた『森と湖の祭り』(武田泰淳著)を読んだことがありますか。あの小説の中の一節でアイヌ学者が女画家に言う言葉があるんです。『アイヌは悲惨な過去をすっかり忘れ、日本の労働者、農民としてしっかり生活を築いてゆく。その前進に融け込むなら、いまさらアイヌだ、ウタリだとか、セクトにかたよらずに未来の幸福を切り開く路へ進軍した方がいい』とあります。あそこが好きで、何回も読みました。ボクの考えていることをそのままに表現しているのです・・・」


貝沢正さん(五二歳)
昭和一二年頃・・・アイヌの苦悩から逃れるために「アイヌ民族の大陸移動」を実行した。
当時 満蒙開拓青年義勇軍、日本農民の満州移民団が 続々と大陸目指して移動していた。
「・・・満州にはおれたちを差別扱いするシャモがいない・・・」
・・・文字通りの「自由な天地」でのびのびした気持ちでクワを振るうことができた。
「・・・終戦で駄目になり 生きて帰るのがやっとでした」
・・・満州での経験を生かして新しい農業経営に取り組んだ・・・

「将来日本のアイヌはどう生きるべきかを検討するため、・・・近いうちにアメリカに旅行してみたい。そしてインディアン(本文のまま)や黒人問題をじっくり調査し、アイヌの進むべき方向をみつけたいものです」


・・・このひとたちはアイヌの団体にも近寄らず ウタリの人たちが訪ねていっても冷たく、素知らぬ顔をする。それでいてやはり「アイヌである」という宿命からは抜け切れず、ひそかにアイヌ厚生事業に資金を贈ったり、ウタリの動向には非常に気を配る。そうしたアイヌの成功者たちは人知れず陰で苦悩を抱えた生活を送っているのである。
「アイヌを意識して前進するのがいいのか、アイヌを忘れて進むのがいいのか。成功者たちもやはり悩みはあるのです」


アイヌ彫刻家 床ヌプリ君(二七歳)
「トンコリをひく女」
「・・・アイヌに伝わってきた彫刻は 抽象と偶像をごっちゃにしたような作品が特徴です。
ボクはそうした昔の彫刻技術と美しさを現代のセンスで磨き上げたい。
アイヌのユーカラや歌、踊りを木彫りの中に表現していきたいのです。
将来、いや現代の社会にはアイヌ民族は存在しないことになっている。
ボクは実在しないアイヌ民族を彫刻の中に求めていこうと思うのです。
ボクの彫った彫り物の中でアイヌたちはユーからを語り、べカンベ祭り(ヒシの実祭り)を踊る。
そして彫刻の中のアイヌが静かにボクたちに話しかけてくる。
ボクはそんな作品をたくさん生んでいきたいと思っている」(一八五頁)
「アイヌの民芸品はアイヌの悲惨な姿を売り物にするのではない。
芸術を売るものだから みんなでアイヌ彫刻を真剣に勉強しよう」

・・・こう呼びかけたヌプリ君に阿寒湖畔のウタリ(同族)たちは・・・さっそく三五人のクマ彫り職人が「工芸品工業組合」を結成して・・・

お弟子さん「ボクたちはアイヌから逃げ出し 日本人として生きるために努力してきたが アイヌを逃げ出すことができないことを悟った。それならアイヌを看板にして生きてみよう。それも滅亡していく哀れなアイヌでなく、アイヌ芸術を身につけた 優れたアイヌとして生きていこうと考えたのです。」



萱野茂さん(三七歳)

「アイヌ、アイヌとバカにしながら 古い先祖のことを掘り返して調べ、どうするのか」
彼は東北大学の教授とやりあった。教授は苦笑しながら受け流して 毎日コタンを歩き回った。萱野さんは夜になると教授の部屋にでかけていって議論した。
「君は若いからそう思うのも無理はない。
しかしアイヌ文化はいまにして完全に調査しておかないと、
君たちのような若い人たちによってアイヌの文化は消えてしまう。
アイヌ文化といっても、これは日本の古い文化の一部だ。
私はアイヌを他民族だとは考えていない。
大和民族のつまり北方文化を調べているのだ」
・・・彼は教授といっしょにアイヌの生活文化を探求することになった。
アイヌは和人(本州人)とどしどし同化してゆくのが当然の道だ。
しかしアイヌをきらうあまり アイヌ自身が自分たちの文化まで忘れ去ろうとするのは正しくない。
母国語のアイヌ語は失ってしまった。
せめて資料として保存することぐらいはアイヌ自身の手でやるべきだ・・・



2007年05月26日(土) 狭山事件の第三次再審請求に一緒にご支援を(子どもたちの心を踏みにじったままではすませないぞ)


「チャイちゃんとフリートークを」より

狭山事件については、「字が書けないので、警察に言われた通りに書いたらそれは自供文だったそうです。しかし警察は、罪を否認する内容だと嘘を言いました」と習いました。また「警察官にも悪い人がいて、この警察官などは最初から犯人を決めていて、字が知らない、書けないに付け込みこんなひどい事を平気でした」と教えられました。当時の私は、その事をそのまま受け入れました。
 他のいくつかの冤罪事件についてもこの頃知りました。時代背景から察するに、不当逮捕・裁判だったのかもしれませんが、そうでなかったのかもしれません。逮捕者が同和地区出身者であり、本人が「無実」と主張しただけで、物的証拠はないのですよね。また、あっても捏造かもしれません。と、このように疑惑を持つことは、回想すると差別であるという教え方だったと思います。私は以後、この事件に関しては文献等を読んでいません。
 私は「橋のない川」は中学時代に読み、心を惹かれました。その後も後編がでるたびに読みました。作者の死去を悲しく思いました。模索するそれぞれの人物にそれぞれ心乱されました。


ダブルっちBBSより

1159 【Re:狭山事件】


★ 2002/11/14(Thu) 13:36


「石川さんは無実だ!」とかいうゼッケンつけてムラの小学生とかどっさり集まって 小学校まで歩くんです。
闘争の一環・・・だったんでしょうねぇ。効果のほどは不明ですし、やってる本人も意味はようわかってませんでした。小学生でしたし。


さんへ

しばらくネットを離れるということですが、「ダブルっち」のこと忘れないでくださいね。
さて、上記は「狭山事件」をなぜ学習するのかというお話だったと思うのですが
ワタシは大学の部落問題論と、部落研活動の中で「狭山」を知ったのですが、
事件で言われている「疑わしきは被告人の利益に」という証拠重視の精神(理想)と
石川さんの「再審は針の穴をラクダが通るほど難しい」という現実を埋めるには 自分たちは何ができるかをみなで考え、
当時、新証拠と上がっていた「小名木証言」を、自分の大学で教職を取る人や法学部の教員中心に 毎日1人ずつでも説明しにいき 無実の証拠の認知度を高めることだということになり、お互いの空き時間には何とか動けました。
 人に説明するには自分が十分な知識を持っていないとできませんよね。もう大学生なので狭山事件の学習は独学でした。

 T.T.さんから、今の若い人たちの事件の受け止め方について指摘があったように 意味や目的がわかる年齢になったら、「狭山事件」について 地区の大人たちから たとえ教えすぎと感じられるほど詰め込まれた場合であっても、受け止め方は違ってこなければいけないとワタシは思います。
 
 ダブルっちちゃんの通う同和保育所や児童館では、最近は「狭山事件」を扱っていないということなんです。う〜ん、どうしよう・・・。




期間限定 Uさんのひとりごとから転載

11月8日(金) かるい想像は「偏見」を生む
 

・・・部落問題を感覚だけでとらえている。運動団体が悪いとか、制度が悪いとか、「同和」は「同化」すれば差別はなくなるとか、立派な?発言を臆面もなく書き綴っている。
 
確かに「同和対策特別措置法」以後、彼等はそれなりの教育を受ける機会も得られたし、就職差別も極端に減った。社会が門戸を開く状況にあった。それが建前とはいえ、法律がある以上、国も自治体も企業も教育機関も「同和」問題を無視できない時代だったのである。

その中で過ごしてきた人達は無責任な論評を繰り返す事が多い。部落差別に抗してどんな営みがあったか、その歴史性について掘り下げようともしない。まして社会人になってその関わりが皆無に等しいさまが覗えるのである。

ある意味で逃避と同化のなかで想像の世界の傍観者的立場の発言にさえ見える。本名で書く事もないし、都会の真中でゼッケンを付けたこともなかっただろう。会社や自宅周辺で彼等が部落民だとは誰も知らないのだろう。だから気楽に言えるのだろう。社会はそんなに甘くないし、部落差別は薄まりつつあるとはいえ現存しているのである。その事を受け止めて欲しい のである。
 

しかしながら解放運動への批判は運動団体が自己点検し、悪しき事実に対しての批判を甘んじて受けなければならないのは言うまでもない。
 確かに運動の中では制度に依拠しそれが解放運動のすべてと誤解していた人もいる。制度を自分の利害だけでしか考えなかった人もいる。数えるほどであるが利権に手を染めた人もいただろう。しかし大部分の部落大衆は真摯に運動に関わってきたのである。その時代を知っているのはもう50代以上になっている。厳しい生活を強いられながら自力で運動に関わり、子供の為に、孫の為にと必死に働いてきた、何が何でもと頑張って来て今の実態があるのだ、と、運動に関わらなかった若い人達に言いたい。

 「同和」教育などについても、そんな事をするから差別が残ってしまう、とさえ言い切っている。「狭山事件」なども所詮他人事になっているし、運動の存在がある意味では迷惑みたいな論評すら見られるのだ。本当は運動の本質も知らずかるい想像で話しているのではないかと思わざるを得ない。体験体感のない中では真実は見えないものらしい。
 まして身内のしんどさなんぞ解りはしないのだろう。一人大きくなったとでも思っているのだろうか。 親の心 子知らず なのかもしれない。

 誰かがどこかで書いていた。
かるい想像は「偏見」を生む。当らなくともいい、人をいとおしむ想像力 が欲しい
 その通りなのかもしれないとつくづく思う。


鮎喰人権サイトより

・・・ボクは、「かつて識字学級で千葉刑務所の石川さんあてに年賀状を出したりしました」 と言いながら、石川さんに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。確かに、学級生は替わり共学者も替わりました。そうした間に、識字学級としての狭山の取り組みが大幅に後退してきたことは否めない事実としてあるのです。
そもそも、ボクが部落解放運動の片隅に身を置くようになったきっかけは1971年2月の東京高裁での狭山公判闘争でした。狭山とであわなかったら今のボクはいないかも知れません。
今一度、初心にかえり、もし今度こういう機会があれば、石川さんとさっちゃんに 「識字学級としてこんな風にやってます」 という報告のできるような取り組みをしなければならないと思いました。ガンバルゾ! ・・・


ラジオ番組『辛 淑 玉のいわせていただきます』6月29日(火)ゲスト:石川早智子さん

早智子さん:私はやっぱり、自分自身の生き方が被差別部落を隠して
生きてきました。私自身も、徳島の被差別部落に生まれたんですけれ
ども、そういう中で部落解放運動、狭山に出会ったんですね。そこで
自分自身が本当にこう生きなおしをした、元気になった。今まで、ふ
るさとを隠すということで汲々としていた私が、ふるさとを隠さない
生き方を選んだ時に聞いた歌が「解放の夕焼け」という歌でした。


本年「部落解放全国青年集会」で実行委員をされる方のメッセージから

岸本真奈美さん
http://www.jttk.zaq.ne.jp/babrk706/ManamiToBobLetter.htm

 ・・・中学生の頃、正しいと思って参加している部落解放運動に時間をとられることがいやで、友達と遊びたい、さぼりたいとよく思いました。
高校生の頃、差別のない暮らしを造る為の仲間を造ろうと躍起になりながら、差別された怒りや憤りを伝えきれないことにいらつきました。
おかしいことをおかしいと言うことは、案外楽ではありません。
被差別部落出身の者であっても、部落解放運動に無関心な人たちも沢山あり、そっちの生き方の方が楽ではないのか、目をつむって歩いていっても誰に文句を言われる筋合いはない、そんな葛藤も多々ありました。
 そんな時、いつも最後に私の心の中に出てくるのは、一度も出合ったことのない、石川一雄さんでした。たったひとりで、檻の中で、独学で文字を学び、訴え続ける石川さんを思うと、結論は出てしまうのです。
 「石川さんは、前を向くしかないんだ。もうしんどい、と思った時点で一生牢屋で過ごす人生が決定する」「牢屋の外にいる私が、何をしんどがっているんだ」
 1981年3月、部落解放運動の中で石川さんのいる千葉刑務所に面会に行きました。私は、19歳でした。「私は1962年生まれです。狭山事件が1963年。私の人生のほとんどすべての時間、石川さんは牢屋の中で闘っておられると、何度励まされたことか分かりません」そんなようなことを話したように思います・・・



“部落の子はいつ部落と出会うのか”HP哲っちゃんランナーズより
http://www4.plala.or.jp/kokoronokinniku/framepage1.htm

 部落の子ども達は、5月23日と10月31日に集団登校をし、学校長に決意文を読み上げる。
 部落青年石川一雄さんが不当逮捕された背景には、深刻な部落差別があった。そして、残念ながら今、現在も部落差別は根絶されてはいない。
 第二の石川さんを作り出さないために、そして獄中で初めて字と出会い無実を訴えるために猛烈な勉強をはじめる石川さんの姿に学ぶためにも部落の子どもたちは、自分の生き方を文章に綴って宣言するのだ。
 しかしこの集団登校も、運動体の学校教育への介入だとか、やらせだとかいう批判が強く、年々下火になってきた。人目につかぬよう、早朝に駆け込んで済ましてしまうところもある。上からの指示だけでしているのなら無意味でしかないが、学校側がきちんと受け止める教育を日ごろから行っていないことへの暗黙の批判でもある。いったい何をやってるの?という周囲の好奇の目にさらされながらの行動には大変な勇気がいるだろう。
 非難の多いこの集団登校の中で、部落の子ども達は何を考えてきたのか、何を訴えてきたのか、形骸化の道をたどりつづける「同和」教育への警鐘としてちょっと振り返ってみたい。もちろん何も出来ていない自分自身への戒めもこめて。

1.「わたしは、ぶらくじんにうまれていやです。」
2. 今ここに、はだかの私がいます。


10・31をきっかけとして、本気で仲間とつながっていくための一つの試み

1.わたしは、ぶらくじんにうまれていやです。

5・23石川一雄さん不当逮捕の日、解放子ども会の子どもたちは、支部長さんの話を聞き、その後で感想文を書いた。中でもA子が書いた感想文は強烈だった。

 「いみがぜんぜんわからなかった。長くてあたまがこんがらがった。はなしもぜんぜんわからなかった。石川さんがかいた文もぜんぜんわからなかった。わたしは、ぶらくじんにうまれていやです。」

 支部長さんの話の中にはやや難しい部分もあったが、子どもたちに一生懸命話しかける姿からきっと何かつかんでくれただろうと思っていたのだが。
 当時、友達づきあいがうまくいかず、落ち着かなかったA子は、原稿用紙を配っても、「わからん。」、「何て書くん。」を連発するばかりだった。支部長の話を簡単に振り返りながら、ぼくも一つの問いを投げかけてみた。
 「みんなは、何で石川さんや部落の事を勉強するん?」と。
 すると、A子はすぐに、
 「部落って何なん。五分で説明して!」
と何度も食い下がってきた。書きたくない作文を何とかして逃れようという計算も働かせていたのだろう。しかし、その執拗さには何か真剣な訴えがこもっているような気もした。
 このややふざけた問いかけの背景には、A子の次のようなつぶやきがあった。

    べんきょう会
 今日、べんきょう会にいった。わたしはべんきょう会はきらいだ。しょうじきいって、なぜわたしが石川さんをたすけなくちゃならないのだろうか。
 もうたすからないのに。(日記より)

ぼくは、もう逃げられないなと思った。本人がいつか自然と気が付くまで、できるだけそっとしておいてあげようという、教師の偽善さや逃げ腰の姿勢を反語的に問われているのだ。A子は言葉は荒いが、感性豊かな子だ。
 五分は無理としても、A子から与えられた課題に全力を傾けて答えていきたい。


「私も一回べんきょう会へ行ってみたいです。」

 さて、A子に、そして3年生のクラスの子どもたちに、どのようにして部落問題を教えようかと思っていたときに、Mという女の子が偶然、解放子ども会について日記に書いてきた。

     ならいごと
 わたしはじゅくには何にもいっていません。なぜかというとならったってべつにどうってことないと思っているからです。でも、バレーはならっています。(省略)Aちゃんたちが行っているべんきょう会って、何をするところかんなあと思います。AちゃんとB君とC君が私たちのクラスでは勉強会に行っています。先生も行っているそうですが、どんなことをしているのですか。わたしも一回行ってみたいです。学校みたいに勉強したりもするけれど、ろうやに入った人のことを話し合ったりもすると、Aちゃんに聞きました。

 ぼくは驚いた。今まで一度も3年生のクラスの中で話題にさえなったことのないことだったから。しかも、ほとんどの子が知っていることに対して。
 せっかくの機会だから、みんなで学習する部落問題のスタートを、「べんきょう会」という教材にしようと思った。

 教材「解放子ども会」を使って

みんなでこの教材を読み進めながら、疑問点を出してもらった。
・身分制度とは?・差別される人をつくりだしてどうするつもりなのか?・部落の人はなぜ差別を受けたのか?・今でも差別は続いているのか?などという質問が出た。これらの問題はあせらずに一つ一つ考えていくことにした。A子はこの勉強のとき、一言も発言しなかった。感想文を読んでみた。

 部落(むら)の子の感想文(抄)

・ぼくたちは石川さんをろうやから出してやる役目があります。そして、さべつのない世の中にしていくために、解放子ども会があるのです。日の出子ども会では、10・31とかするのか知りたいです。さべつをなくすために、がんばりたいです。

・ぼくは解放子ども会に4年間通っているけど、わからないところがいっぱいある。「ぶらく」というのは何なのか。支部長さんはぼくよりレベルが高い。ぼくをレベル4とすると、50くらと思う。ぼくが子ども会に来ている理由は、さべつとかいじめとかを全めつさせられる力をつくるためだ。

 そしてA子は・・・
・わたしはどうして解放子ども会にはいっているのかわかりません。すきではいっているんじゃありません。わたしは入りたくもないし、べんきょうもしたくありません。
 でも、一度入ったらやめられないし、さぼったらお母さんにおこられるからいやです。みんなもすきで入っているわけじゃありません。中学になってもやめられません。だから、むごいです。
 どうしてわたしはぶらくじんに生まれたのかなあ。わたしはすきでぶらくじんになったわけじゃないし、お父さんがぶらくじんだから・・・
 みんなはいいなあ。

 A子の部落認識を、こんな授業では少しも揺さぶってはいないのだ。こんな授業ではA子の心の中に一歩も入れやしないのだ。


2.初めての部落史学習の中から

 10・31ビラ配りをめぐって、クラスで議論した時に、「部落とは何か.誰が作ったのか。なぜ差別されるのか。」という質問が出された。
 解放子ども会のけんじとみゆきは、みんなからの質問に懸命に答えようとしていた。
「お父さんが部落出身だから、将来、差別を受けるかもしれないので、差別をなくすために解放子ども会に入っています。」、「親たちが部落やったから。」という宣言にこちらまで熱くなってきた。
 もう逃げられない。毎年のように起こる中学校での差別発言。腹をくくって取り組まねば。 問題は、差別される側ではなく、差別する側の心の諸相をどれだけ切り広げられるか、それぞれの子が自らの問題としてどれだけとらえうるかである。




本年「部落解放全国青年集会」で実行委員をされる方の言葉の中に
「・・・青年の間でも「狭山」に対する思いはそれぞれです。自分
の親と石川さんの生活が重なって見える青年や、狭山を通して部落
解放運動をますます広げたいという青年などそれぞれです・・・」
とあり、穴が開くほど見つめてしまいました。
「自分の親と石川さんの生活が重なって見える」という青年は、
「事件が自分の地域で起こっていたら、自分の父が逮捕されていたか
もしれない。だから、狭山事件と関わっていこう」と思ったのですね。
それは自分が部落出身者であることもまわりに開示してつながってい
こうとする生き方になりますね。
他方、「狭山を通して部落解放運動をますます広げたい」という青年
も、自分らしい生き方として、解放運動に進む道を選択しつつあるの
ですね。がんばってくださいね。

今日、部落と 部落外の若者文化に 差異はほとんどなくなっており、
部落の青年たちの自分(生き方)探しの問題は、部落外の青年たちの
自分(生き方)探しの問題でもあると思われます。本来生き方は多様
であり そのなかの一つとして解放運動に生きる道もあると思うのです
が、間違ったことを間違っているということは、案外楽ではないです。
そんな時、しんどくても逃げられない(殺人犯という無実の罪をきせら
れたまま、一生を送ることになる)石川さんの存在を知り、牢獄の外に
いる自分は、何をしんどがっているのかと思えば、きっと力が湧いてく
ると思います。

大人たちには、狭山を通じて、自分の生き方を見つめ直してほしいと思います。

かつての同和教育には「部落の誇りを持ち部落差別と闘う子ども・部落民」
という同一の生き方を促してきた側面があったといわれ、そのはねかえり
として、世代間に深い溝が出来ているという報告は確かにあります。

ワタシは溝を作る前に、今現在でも、石川さんのような、「部落の誇りを
持ち部落差別と闘う」生き方以外選べない人がいるのを思い出して欲しい、
決して忘れないで欲しいと思います。

青年たちの世代はそれを知っていくこと、親の世代はそれを伝えて行くこと
で、「差別と闘う」一つの生き方の話は もっとしなやかに受けとめられ、
受け返されていくのではないかと思います。理想論ですが(苦笑)。








2007年05月23日(水) 「犯人は、万年筆とインク消しを持つ人物であり、文字と縁遠い生活をしていた石川さんではない」

(2004-08-08作成資料より)

 狭山事件の100万人署名呼びかけのことが、狭山茶さんの「狭山の風」や、狭山パンフの2004年7月号にも出ていたので、読んでみました。いま焦点となっている第1の点は「抹消文字」「二条線痕」の存在であるとありました。それで、かんちょうさんのサイトの、狭山事件・その真実 見えない手錠を解き放て!〜真実 よりもう少し詳しいPAGE「狭山事件の真実」で確かめてみました。
 まず「二条線」は「万年筆やペンのような、先の割れる筆記用具で書いた」(つまりボールペンでは出ない)証拠で、例の、封筒宛名書きにあった「少時」に「 多数の抹消文字があり、9本の二条線痕がある」(齋藤第5鑑定)。そして「・・・脅迫状の 『少時』 の背景からは、『女』『林』『供』『八』『二』 の5つの漢字が出てきた」「・・・『少』 の背景に31本、『時』の背景に62本の筆圧痕があった」。
抹消文字に関しても「・・・当時、ボールペンインク消しはなかったので、インク消しで消された万年筆の文字のあとと考えられる」また、「万年筆のインクはブルーブラックで、事件当日までYNさんが使っていたライトブルーのインクではなかった」から 東京高裁の”訂正に使用した万年筆は、被害者を殺害した後、奪った万年筆で書き加えたもの”という認定をゆるがす。
以上のようなことから、「犯人は、万年筆とインク消しを持つ人物であり、文字と縁遠い生活をしていた石川さんではない」し、齋藤第5鑑定では、「これは、犯行以前に万年筆で書き、消した文字の痕跡である』と結論づけた」。
そして、斎藤鑑定人だけでなく「41年目の真実」として、当時の埼玉県警の鑑識課員も「抹消文字」の存在を現認していた(斎藤第5鑑定補遺)から、これは斎藤鑑定人の「独断」や「推測」では済まされず、狭山弁護団は、2004年3月23日の特別抗告審で、斎藤鑑定人尋問など事実調べを求め、まさに正念場を迎えるわけですね。また、気づいた点などフォローお願いします。


*100万人署名呼びかけのケイカ・・・



<月刊「狭山差別裁判」367号/2004年7月>
http://www.bll.gr.jp/sayama/syutyo-367.html

「41年目の真実」を広げ、最高裁に公正・公平な裁判―事実調べを求める署名運動を展開しよう



 狭山事件の再審を求める文化人の会は、代表の庭山英雄弁護士をはじめ、ルポライターの鎌田慧さん、作家の灰谷健次郎さんらで最高裁をおとずれ、学者・文化人の署名を提出し、事実調べ―再審開始を強く求めた。

第2次再審請求において元鑑識課員である斎藤保・指紋鑑定士による鑑定などによって石川さんの無実が明らかにされているにもかかわらず、寺尾判決以来30年近く一度も事実調べがおこなわれていないからである。事件発生から41年以上が経過しながら、事実調べも証拠開示も十分におこなわれていないことはあまりに不公平であり、正義に反することを最高裁に強く申し入れたのである。
 狭山弁護団は、この特別抗告審で、斎藤第5鑑定、第5鑑定補遺を最高裁に提出し、鑑定人尋問など事実調べを求めている。
 
 いま焦点となっている第1の点は「抹消文字」「2条線痕」の存在である。

これは犯人が犯行前に万年筆を使用していることを示す事実であるが、犯行前の万年筆使用痕跡は石川さんでは説明がつかない。41年前に「抹消文字」の存在を当時の埼玉県警の鑑識課員も現認していたという斎藤第5鑑定補遺の指摘も重要である。事件当時からこれが問題にされていたら万年筆と無縁だった石川さんがえん罪にまきこまれることはなかったかもしれないからだ。少なくとも「抹消文字」 の存在は斎藤鑑定人の「独断」や「推測」ではすまされない。斎藤さんの鑑定人尋問もおこなわず、この点について何も判断しなかった東京高裁の再審棄却決定も異議申立稟却決定も誤りであることは明らかだ。
「抹消文字・2条線痕」は元鑑識課員という専門家が科学的に明らかにした「41年目の真実」 である。
 
弁護団が、最高裁に公正・公平な判断をせまっているもうひとつの点は「非識字者である石川さんが脅迫状を書いたのではない」ということである。
弁護団は、大阪での識字学級生による脅迫状書き取り実験をもとに、石川さんが非識字者であり、脅迫状を書いていないことを筆記能力の面から明らかにした意見書を昨年も提出した。石川さんが字が書けず、犯人ではないということは41年前に石川さんの父の富造さんや兄の六造さんら家族も訴えたことであり、ルポライターの鎌田慧さんが新刊書で強調していることでもある。弁護団は、当時の石川さんが部落差別の結果、文字を奪われていたこと、脅迫状を書いたことはありえないことをさまざまな角度から明らかにしてきた。石川さんが脅迫状を書いたのではないとする専門家の鑑定書、意見書は21通にものぼる。にもかかわらず一度も鑑定人尋問さえおこなわれていないことは不当であると弁護団は最高裁に今せまっているのである。
この市民常識として理解される「41年目の真実」も広げなければならない。
 
文化人の会では最高裁あての署名を広く全国ですすめることを呼びかけている。
部落解放同盟中央本部では、この署名を10・31にむけて、100万人を目標にとりくむことを決定している。
いま、鎌田慧さんの出版した「狭山事件、石川一雄、41年目の真実」がマスコミでもとりあげられ、ひろく読まれている。狭山事件について、あらたに関心がひろがっている。
23デーのビラ配布や市民集会など各地における地道なとりくみが大きな世論に結びつく絶好のチャンスである。教宣活動とあわせて、全力で署名にとりくもう。


*いま焦点となっている第1の点は「抹消文字」「2条線痕」の存在であるコトカラ・・・



脅迫状及び封筒が作成された経緯
 
脅迫状及び封筒の作成経緯については、石川さんの自白によると、

○ 昭和38年4月28日に自宅で妹の大学ノート1枚を用い、兄の手箱の中にあったボールペンを使って本件脅迫状を作成した。犯行日である同年5月1日午後4時頃から6時頃までの間に、被害者を誘拐した後、殺害した雑木林で、脅迫状の「4月28日」という文字を「五月2日」に、「前の門」という文字を「さのヤ」と、それぞれボールペンで訂正しています。また、封筒に同ボールペンで「中田江さく」と宛名を記入すると共に、被害者の持ち物から取り出した同人の身分証明書を同封等に入れて封印しました。その後同日午後7時30分頃、被害者宅庭に侵入し、本件封筒を同家のガラス戸から差し込み投入するに際し、念のため、その場で封を切って挿入しておいた被害者身分証明書の在中を確かめた後、被害者宅に差し入れたものです。

○ このボールペン書きの事実認定は、後の昭和47年1月の秋谷鑑定(東京高等裁判所が選任依頼した
  筆記用具材質鑑定)を受けて、一部が万年筆又は、ペンで書かれたものと訂正されています。その部分は、脅迫状では、雑木林で訂正した「五月2日」と「さのヤ」であり、封筒では、「少時様」の訂正線と表裏側の「中田江さく」です。

○ そのため、東京高等裁判所は、訂正に使用した万年筆は、被害者を殺害した後、奪った万年筆で書き加えたものとして認定しています




*訂正に使用した万年筆は、被害者を殺害した後、奪った万年筆で書き加えたものデハナイコト・・・



齋藤第2鑑定

 3カ所の「中田江さく」の文字はわずかにジワッとにじんだ状態にあり(万年筆インキはアセトン溶液には溶解しないのに)、これは外側から水がしみ込んで濡れたものと認められる。同様に万年筆等ペンで書かれた「少時」や訂正線にはこのようなにじみはまったく見られない。
 事件翌日なされた指紋検査によって脅迫状・封筒から関係者の指紋が検出されている(警察官と被害者家族のもの、石川さんの指紋はなかった)。

水に濡れた紙からは指紋の検出は不可能であるから、

事件当日、封筒・脅迫状は濡れていなかった。従って、「中田江さく」は犯行前ににじみが存在しており、すでに万年筆によって記載されていたことが推認される。




*2条線痕が現れる筆記用具は、ペン先が割れる万年筆又はインク付けペンデアルトイウコト・・・

*狭山事件当時はまだボールペンインク消しはないコト・・・




斎藤第5鑑定補遺は、事件当時の埼玉県警鑑識課の筆跡鑑定書に、犯人の残した封筒表の「少時様」部分に抹消文字があったので赤外線写真などで検査したと記載されていることを指摘するものである。
 封筒に抹消文字が見られることは斎藤鑑定人が第1鑑定から指摘していたことである。
斎藤鑑定は、狭山事件当時はまだボールペンインク消しはないことから、
抹消文字は万年筆で書かれ、万年筆インク消しで消された痕跡であると指摘した。


*斉藤第5鑑定は、狭山事件で犯人の残した脅迫状の封筒にはっきりと存在する「2条線痕」が万年筆で書かれた痕跡であることを実験と分析によって明らかにした。封筒上に「2条線痕」すなわち犯行前に万年筆で書かれ消された筆圧痕が存在することは、犯人が万年筆および万年筆インク消しを持ち常用していたことを示しており、石川さんではありえないと弁護団は主張している。


 さらに、万年筆によって書かれた抹消文字の存在は、その上に書かれた「少時」が万年筆で書かれていることや、「中田江さく」が犯行前に万年筆で書かれているという斉藤鑑定人のこれまでの指摘をさらに補強する。自白の不自然さ、自白と客観的事実の食い違いからしても、被害者から当日奪った万年筆で封筒・脅迫状を訂正したという確定判決のストーリーも自白の信用性も完全にくずれているというべきであろう。
<月刊「狭山差別裁判」359号/2003年11月>



提出された新証拠のひとつである斎藤第五鑑定は、犯人の残した封筒に「2条線痕」がいくつも存在していることを明確にしたうえで、封筒上のその他の万年筆の痕跡と同様の「平行な二本の線」という特徴を示しており、万年筆で書かれた痕跡であることを明らかにしたものである。斎藤鑑定人は、封筒の『少時』の文字も指紋検出薬のニンヒドリンアセトン溶液にたいする反応から万年筆と鑑定している。また、「中田江さく」文字の水濡れによるにじみからこれを犯行当日以前に万年筆で書かれたものと鑑定している。すなわち、封筒上の万年筆の筆圧痕の存在は万年筆で書いて消すということをくりかえしている真犯人の犯行手順を示しており、これは石川一雄さんとはまったく結びつかない。石川さんの家には万年筆、ましてインク消しなど存在しないし、自白でも、すべて筆記用具はボールペンとなっている。寺尾判決は、被害者の万年筆を雑木林で盗って訂正筆記具に使ったと認定し、この矛盾をごまかそうとしたが、雑木林で犯行後に万年筆を盗ったという認定は自白から見ても、証拠から見ても絶対にありえない。




有罪判決では、「脅迫状封筒の下部宛名『中田江さく』は、犯行後に被害者から奪った万年筆で被告が書いたもの」とされていました。
 これは、(1)犯行前に石川さん周辺に万年筆がなかったこと、(2)石川さんは犯行前に被害者やその家族のことを全く知らなかったこと、(3)石川さんが逮捕された後に石川さんの自白にもとづいて「被害者のものと思われる万年筆」が石川さん宅から発見された(※)、ということから導き出された結論でした。
 したがって判決の論理で言えば、「宛名『中田江さく』が犯行前に書かれることは絶対にあり得ない。なぜなら石川さんが犯人である限りそれは不可能であるから」となります。


※事件発生前には、石川さん宅に万年筆やつけペンはありませんでした。
石川さんがもしそれらを入手し得たとすれば、それは犯行をおこない被害者から取得した以外には考えられません。
そのため、石川さんの逮捕後におこなわれた家宅捜索の結果石川さん宅から被害者のものとされる万年筆が発見されたことが、石川さんの容疑を裏付けるものとして大きな意味を持ちました。
 しかし、よく知られているようにこの家宅捜索で発見された万年筆には以下の重大な疑問がありました。

(1)一度目・二度目の家宅捜索で万年筆は発見されず三度目の捜索でようやく発見された。しかも三度目の捜索で万年筆が発見された場所は一度目・二度目の捜索の際に十分調べられた場所であることが捜査官の証言によって明らかになった

(2)発見された万年筆に入っていたインクは被害者が使っていたものと違っていた

(3)発見された万年筆の中にも外にも被害者や石川さんの指紋が発見されなかった

(4)発見された万年筆が被害者のものとされる根拠は家族の一人が「似ている」と言っているだけで製造番号や保証書で確認されたわけではない



 



「・・・1回目・2回目の捜索で発見されなかった万年筆が、なんと3回目の捜索で発見されたのである。・・・
�。音�間17分・12人、�■音�間8分・14人、��24分・3人・・・さほど広くもない石川さんの自宅の家宅捜索に費やした時間と実行した警官の人数である。�,和疂疆�日の5月23日、�△錬況遑隠呼�、��は6月26日。」

「・・・そして決定的なことに、万年筆のインクはブルーブラックで、事件当日までYNさんが使っていたライトブルーのインクではなかった。」

「・・・『少』 の背景に31本、『時』の背景に62本の筆圧痕があった (第2鑑定より多かった)。しかも、その中に9本の二条線が確認された。
・・・万年筆やペンのような、先の割れる筆記用具で書いた後の 『二条線』になっている。」

「・・・脅迫状の 『少時』 の背景からは、『女』『林』『供』『八』『二』 の5つの漢字が出てきた。

・・・これらの文字も二条線が現れているから万年筆またはペンで書いている。脅迫状にも、万年筆で書かれ、消された文字があったのである。

「・・・当時、ボールペンインク消しはなかったので、インク消しで消された万年筆の文字のあとと考えられる。」

「・・・再度になるが、犯人は、万年筆とインク消しを持つ人物であり、文字と縁遠い生活をしていた石川さんではない。

「・・・『N江さく』 のにじみは水にぬれたからだが(当日は雨)、水にぬれると指紋が検出されない。しかし、指紋は検出されているのだから、・・・


「・・・以上から、齋藤第5鑑定は 封筒の 『少時』 の背後に多数の抹消文字があり、9本の二条線痕がある。これは、犯行以前に万年筆で書き、消した文字の痕跡である』と結論づけた。




「・・・2004年3月23日特別抗告申立補充書をもって、特別抗告審は正念場を迎える。齋藤一連鑑定やその他の鑑定書・意見書などにもかかわらず、この間の一連の裁判所側の棄却決定の理由を見れば、予断を許さないと言わなければならない。
自分に何ができるか、また、何を為さねばならないのか、常に問いながら、石川さんとさっちゃんの闘いに応えていける自分でありたい。

鮎喰(あくい)人権サイトより

 



2007年05月05日(土) 昔遊び/ 『橋のない川』 と 虫貝(バイ)























橋のない川〈一〉

橋のない川〈二〉

橋のない川〈三〉

橋のない川〈四〉

橋のない川〈五〉

橋のない川〈六〉

橋のない川〈七〉



















橋のない川




橋のない川〈一〉

「孝二。これ」
 誠太郎は、握っていた右手を孝二の目の高さで開いた。・・・
“虫貝(ばい)のようだが?”首をかしげる孝二に、誠太郎は笑いかけて、
「これ、鉄虫貝(かなばい)や。こいつ、強いで」・・・
「ふーむ」・・・
「これ、どうしたん?」・・・
「豊さんにもろたんや。大阪では、蝋虫貝(ろうばい)より鉄虫貝がはやってるんやて。こいつは蝋虫貝みたいなもん、一ぺんに負かっしょるで。」
「ほんまけ?」
「ほんまや。嘘や思たら、一ぺん、勝負、いこか。」
 孝二は、部屋のくらがりをさぐっていたが、やがて三つの蝋虫貝を見つけ出した。
 誠太郎は、手早く鉄虫貝に綱を巻いた。・・・
 誠太郎は、威勢よく言って、さっと綱をひいた。孝二も負けずに綱をひく。畳二枚分の板の間の中央、二つの虫貝は、時に近づき、時にはなれ、互いに呼吸をはかるかに見えたが、やがて鉄虫貝は右肩を斜に切りかえて、さっと相手に体当たりだ。
 ごろ、ごろ。蝋虫貝はあえなく二横転。もう死んだように動かない。そのまわりを、鉄虫貝はなおも勝利に酔うて懸け廻る・・・。
「へえー。どんなもんやいうたら、まあ、こんなもんや。ふふふふふ。」・・・
「どうや、もう一ぺん行くか?」
「うん。こんどは、こいつや。」・・・

「もう虫貝はしまいにし。」
 ふでは怒り声を出した。
 孝二は少々ばつが悪く、そっと母から虫貝を受け取ったが、たちまち彼も虫貝の傷に気がついた。
「あっ。この虫貝、けがしとる。」・・・
「この鉄虫貝は、火の中でかんかんと打たれた鉄やさかい、大砲の弾丸みたいに強いのや。孝二、ほしかったらやるで。どや?ほしいけ。」
「いらん。」
 孝二はかぶりを振った。くやしいのと一緒に、孝二は悲しかった。彼の蝋虫貝は生きていた。それは肉の代わりに蝋をつめられてはいたが、しかしそのつやつやしい皮膚に依然として紫色の斑点をとどめ、孝二の巻く生命綱で、よくその生命を吹き返し、時に応じて高く低く歌をうたった。それはまた、うまれて一度も海を見たことのない孝二に、海の話もつたえてくれた。
 海貝の虫貝は、孝二にはかけがえのない遊び友達だったのだ。・・・









「起きよか?」
 誘いかける誠太郎に、孝二は枕元の鉄虫貝を指して、
「兄やん、まだ、それやるのけ?」
「やるとも。こいつで、いっぱい勝ったるネ。」
「・・・ ・・・。」
「みんなの持っとる弱虫の蝋虫貝を、こいつで負かして取ったるネ。」
「かわいそうやで。」
「誰が?負けよる奴か?」
「ちがう。虫貝や。」
「なんで虫貝がかわいそや?」
「人にけんかやらされよるさかいや。」
「・・・ ・・・。」
「虫貝はむりにけんかやらされて、けがしよるネ。」
「ふふふふふ。」
「ほんまやで、兄やん。虫貝は、もうけんかしとうないで言うとる。わし、大きなって、海の方へ行けるようになったら、虫貝をみんな海へほかしたるネ。海は虫貝の家やもの。」・・・

 さて、祖母と母が立ち去るのを待って、誠太郎が言った。
「孝二。あの、お前はんの蝋虫貝な、あれ、早いとこ海へ帰してやったらどうや?」
「海?せやかて、わし、海へはまだまだよう行かん。」
「せやから、わし、ええこと考えたんや。ほら、あの葛城川な。あの川、ずーっと流れて大阪の海へ行くんやで。」
「あ。」・・・
 こんなうれしい事が、こんな楽しい事が、こんな愉快なことが、またとあろうか。
「いつほかそか、兄やん。」
「ほかすときまれば早い方がええ。」
「じゃ、学校へ行きしなか。」
「そうや、せやけど、大橋の上からほかしたらあかぬなア。」
「せやな。あねん高いとこからほかしたら、虫貝は目をまわしよるものな。」
「せやから、川の中へおりて行て、あんじょう、水の中へ入れたらなあかぬ。」・・・
「兄やん、虫貝のことは誰にも言わんとこな。」
「うん。内密や、せやけど孝二、お父ったんはもうみんな聞かはったで。」
「お父ったんは別や。」
「じゃ、早いとこ朝飯食うて、みんなより先に堤にいこ。そうして、海に近いように、出来るだけ川下へ入れたろ」・・・










橋のない川〈三〉

 兵隊さん。バンザーイ。・・・

 さて、大橋を渡り切ろうとして、誠太郎はふと孝二を振り向いた。
「な、孝二。思えばわしら兄弟も大けなったもんや。」・・・
 何を言うつもりかと、孝二は誠太郎を眺めた。・・・
「あははははは」
 笑いながら、孝二はこみ上げる涙と闘った。
「それから、あの虫貝(ばい)や。わしはあれから人間が変った。」
「・・・ ・・・?」
「あの時お前はんは、“虫貝は可哀そうに、人に無理やり喧嘩やらされて怪我しよる。”こない言うたんやで。わしは、ほんまにあれで眼がさめた。とにかく、子供のじぶんは、何かとたのしかったなア。」
「兄やん、これからかて・・・。」
 言いさして孝二は声を呑んだ。
「うん、それはそうやな。」・・・

 水音にも春を含んで、葛城川は豊かに流れてゆく・・・。
 孝二と誠太郎は、やがてその豊かな流れのあとに八木への道を急いだ。
 












橋のない川〈四〉

 豊太は言った。
「あれは小森が火事になる前のことですから、たしか僕が五年生の時のことです。運動場の霜解けを防ぐために、全校生徒で葛城川から砂を運ぶことになりましてね。例によって僕は誠やんといっしょに砂を取っていたところが、ふいに誠やんが“あっ!”と大きな声を出したんです。・・・誠やんは何も言わずに川下に向いて走り出しました。・・・僕はやっとのことで追いついて、“けがはどこや?”とまたしても訊いたところ、誠やんは、“けがはこいつや。”と言うて手をひろげて見せたんです。誠やんが“こいつ”と言うたのは、なんと、一つの蝋虫貝だったんですよ。・・・

 それから誠やんは、どうしてその虫貝が怪我をしたのか話してくれました。僕は、僕が誠やんにやった鉄虫貝のために、孝二君の蝋虫貝が怪我したのがわかってすっかり後悔しましたよ。
 ところで、誠やんは、海に帰してやるつもりで葛城川に流してやった三つの蝋虫貝のうち、一つだけ未だに砂の中にもぐっていたのは、やっぱり怪我しとるせいやから、出来るだけ川下の、水のあるとこに移してやろうと思うて走ってきたんだというんです。だけどこんな事が他の生徒にわかると、あいつ、阿呆かいな、というて嗤われる。嗤われるだけですむならいいが、もしその話が広がって孝二の耳にはいりでもしたら、孝二はどんなに心配するかわからぬ。孝二は、川に流してやった三つの虫貝は、もうちゃんとふるさとの海に戻りついたと思うてるにちがいないさかい。せやから今日の事は絶対に秘密にしてくれ、いや、わかった。必ず秘密にする・・・。と、まあ、こんなわけで僕と誠やんは指切りしたんです。・・・

 ところで、話はこれだけじゃないんです。・・・大鳥校長が早速僕らを見つけてやってきたんです。そして“今頃、のこのこ砂を運んでくるのは、きっと何処かにかくれて遊んどったからだろう。そんな奴は罰に砂山に立っとれ。”と、こうなんです。しかし僕も誠やんもかくれて遊んでいたどころか、その前に三回も砂を運んでいて、他の者より多くても決して少なくはなかったんです。けど、そんなら今まで何処に居たのかろ言われると、一寸困るんです。虫貝のことは飽くまでも秘密にしなければなりませんからね。それで言われるままにおとなしく砂山に立ってたわけです。・・・










 そのうち、虫貝がむりやり人に喧嘩やらされて怪我するように、兵隊も戦争が好きでもないのにむりにやらされて死んだり怪我をしたりする、というような話になりましてね。・・・そしたら誠やんは“兵隊になったら、もう誰にもエッタやのヨツやのとは言われまい。たとい戦争で弾丸の下をくぐらされても、エッタやヨツやて言われるよりまだましや”と、こう言うんです。僕は居たたまれなくなって・・・なんぼ校長がどなったかて、もうおとなしく罰なんか食うてやるもんかと・・・。学校からの帰り道、僕が涙を流して泣いたのは、あとにもさきにもこの時きりです。・・・

 しかし今になって思うと、泣いたその日が僕には一番しあわせだったんです。僕は人間に絶望しそうになると、必ず三つの虫貝を思い出します。いや、そんな時は虫貝が助けにきてくれるんですよ。すると、絶望が希望に変ってきて、僕は人間が好きになり、生きているのがたのしくなるんですよ。・・・

 虫貝の話はぬきにしても、僕は人間の魂のふるさととしてやはり小森にひかれますね。それというのは、人間を人間と思わぬ人間、人間を人間として尊敬することを知らぬ人間のところに、人間の魂が人間の魂らしい美しさで生きているわけがないからです。村上さん式に言うなら、人間に上下、貴賎の別ありと思っている人たちは、鬼に魂をきずつけられた“不具者”なんですよ」・・・

 そのような心の“不具者”には、五本の指が四本に見えても敢えて不思議ではないかもしれぬ。また嬰児に乳をふくませる母親を目前にしても、なお母子の血が冷たいもののように錯覚されるのも無理ないことかもしれぬ。
 それにしても人間の知性とは、そのようにたよりないものなのだろうか。・・・
「あははははは。」
 爆笑して孝二は起き上がった。



 < 一つ前の日記  目次  次へ>


ミンク [MAIL]

My追加