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2007年06月12日(火) 秋水と啄木・他 (高橋源一郎『日本文学盛衰史』より)

たかはし げんいちろう (高橋源一郎)公式サイト
http://www.funk.ne.jp/~gen1rou/index.html/
『日本文学盛衰史』より

第13回伊藤整文学賞?受賞(2002)
†
目次
死んだ男 (
ローマ字日記 (石川啄木
ローマ字日記・続
若い詩人たちの肖像 (島崎藤村
若い詩人たちの肖像・続
若い詩人たちの肖像・続々
A LETTER FROM PRISON (石川啄木
A LETTER FROM PRISON・続
……


†
時代閉塞の現状(啄木)

数日前本欄に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住氏の論文は、今日における我々日本の青年の思索的生活の半面――閑却されている半面を比較的明瞭に指摘した点において、注意に値するものであった。けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾が雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検覈がそれに対して加えられずにいるのである。・・・

性急(せっかち)な思想(啄木)

最近数年間の文壇及び思想界の動乱は、それにたずさわった多くの人々の心を、著るしく性急(せっかち)にした。意地の悪い言い方をすれば、今日新聞や雑誌の上でよく見受ける「近代的」という言葉の意味は、「性急(せっかち)なる」という事に過ぎないとも言える。同じ見方から、「我々近代人は」というのを「我々性急(せっかち)な者共は」と解した方がその人の言わんとするところの内容を比較的正確にかつ容易に享入(うけい)れ得る場合が少くない。・・・

(以上は青空文庫にアリ)

A LETTER FROM PRISON (啄木)

島崎 藤村
(青空文庫にアリ)


†






秋水と啄木†
啄木はすでに天才詩人として知られていた。だが、彼が書きたかったのは小説だった。・・・啄木は相変わらず無収入で、下宿代は金田一が払っていた。・・・金田一は、神田の松村書店に国語学とアイヌの文献を除く蔵書の大半を売り払って・・・四〇円になった。その日、鴎外邸へ出かけていた啄木は帰宅しなかった。・・・翌朝・・・金田一は啄木のために、もう一間安いのはないかと尋ねた。・・・その部屋からは九段の鳥居、靖国神社の森、そして富士山が見えた・・・

(『日本文学盛衰史』ローマ字日記 より抜粋)


†

(明治四四年一月)五日、啄木は幸徳の陳情書を写し終えた・・・
一八日、「大逆事件」に判決が下った。・・・
二〇日、・・・啄木は「大逆事件」の記録をひとりで整理していた。・・・
二一日、啄木は前日と同様「大逆事件」関係の記録を整理して過ごした。
二二日、啄木は・・・やはり記録整理に時を費やした。
二三日、啄木は日中、事件の整理をし、写した幸徳秋水の手紙を読んで過ごした。・・・
翌二四日は・・・八時過ぎ、秋水は目隠しをされて絞首台を登った。数え年四一歳であった。・・・
二六日。社からの帰り、やはり啄木は平出修の家を訪ねた。そして、特別裁判一件の書類を読んだ。全七千枚、一七冊。・・・
この後、啄木は二月四日に青山内科病院に入院、ついに病の床から回復することなく翌年の四月に亡くなるのである。深夜、帰宅した啄木は、また秋水たちの手紙を写しはじめた。・・・不意に、啄木は書き写した手紙の一群に表紙とタイトルをつけようと思いついた。少し考えてから、啄木は「A LETTER FROM PRISON 」とタイトルをつけた。そして、写し終えたらこれを・・・漱石に見せようと思った。・・・

(『日本文学盛衰史』A LETTER FROM PRISON より抜粋)






藤村と破戒
†
・・・明治最大の抒情詩人、島崎藤村が詩を捨てたというニュースは一夜のうちに文壇を駆けめぐり・・・明治三七年に書きはじめられた藤村のその小説は「破戒」という題名であった。・・・藤村は借家に自費で付け足した三畳のトタン屋根の書斎でひたすら「破戒」を書き続けた。藤村には「破戒」が持っている、いや持つであろう意味の大きさがわかっていた。・・・

明治三八年一一月二七日夜七時、「破戒」はついに完成した。・・・その中で藤村は三人の子供を失った。・・・漱石は机の上に「坊ちゃん」の完成稿を残したまま日本橋丸善まで本を買いに出かけた。・・・漱石はむさぼるように読んだ。・・・

「破戒読了。明治の小説として後世に伝ふべき名篇也。金色夜叉の如きは二三十年の後は忘れられて然るべきものなり。破戒は然らず。僕多く小説読まず。然し明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思ふ」
それは「破戒」に関するもっとも早く、そしてもっとも正確な批評であった。漱石には「破戒」が明治文学の中でどれほど孤絶した位置にあるか、その価値がどれほどのものであるかはっきりわかっていた。漱石もまた「破戒」と並ぶ明治文学の頂点の一つを書き上げたばかりであった。そして、表面上の違いにもかかわらず「破戒」と「坊ちゃん」はひどく 似通っていたのである。

(『日本文学盛衰史』若い詩人たちの肖像 より抜粋)






秦恒平 講演録

・・・ただ藤村には、死と死骸とをめぐる久しく久しい歴史上の役割分担、その社会的・階層的な世襲の強要、信仰と芸能との不可分であった伝統、まれ人として漂泊した芸能人たちの祝言芸の根のところへは、認識は殆ど及んでいません。・・・

幸徳秋水と「橋のない川」(住井すゑ)


†
「『破戒』のモデル大江礒吉の生涯」
(荒木謙著 解放出版社刊)





2007年06月11日(月) A LETTER FROM PRISON (啄木)��


'V NAROD' SERIES

A LETTER FROM PRISON
(啄木)
この一篇の文章は、幸徳秋水等二六名の無政府主義者に関する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに対する自己の見解を弁明せんがために、明治四三年一二月一八日、幸徳がその担当弁護人たる磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。
 
 初めから終りまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に予期の如き(予期!然り。帝国外務省さへ既に判決以前に於いて、彼等の有罪を予断したる言辞を含む裁判手続説明書を、在外外交家及び国内外字新聞社に配布していたのである)判決を下されたかの事件---あらゆる意味に於いて重大なる事件---の真相を暗示するものは、今や実にただこの零 なる一篇の陳弁書あるのみである。
 
 これの最初の写しは、彼が寒気骨に徹する監房にこれを書いてから一八日目、即ち彼にとって獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であった明治四四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに写し取って置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出来ない。ペンを走らせていると、遠く何処からか歌歌留多の読声が聞こえた。それを打消す若い女の笑声も聞こえた。さうしてそれは予がこれを写し終った後までもまだ聞こえていた。予は遂に彼が嘗て---七年前---「かるたの娯楽」と題する一文を週間平民新聞の新年号に揚げてあったことまでも思ひ出させられた。西川光二郎君---恰(あたか)もその同じ新年号のしかも同じ頁に入社の辞を書いた---から借りて来ていた平民新聞の綴込を開くと、文章は次の言葉を以って結ばれていた。『歌がるたを楽しめる少女よ。我も亦幼時甚だ之を好みて、兄に侍し、姉に従ひて、食と眠りを忘れしこと屡(しばしば)なりき。今や楽しみなし。嗚呼老いけるかな。顧みて憮然之を久しくす』

 しかし彼は老いなかったのである。然り。彼は遂に老いなかったのである。

 文中の句読は謄写の際に予の勝手に施したもの、又或る数箇所に於いて、一見明白なる書違ひ及び仮名づかひは之を正して置いた。

明治四四年五月
H,I,

 


  直接行動の意義

 私はまた今回の検事局及び 審廷の調べに於いて、直接行動てふことが、矢張暴力革命とか、爆弾を用うる暴挙とかいふことと殆ど同義に解せられている観があるのに驚きました。
 直接行動は英語のジレクト・アクションを訳したもので、欧米で一般に労働運動に用うる言葉です。労働組合の職工の中には無政府党もあり、忠君愛国論者もあるので、別に無政府主義者の専有の言葉ではありません。そしてその意味するところは、労働組合全体の利益を増進するのには、議会に御頼み申しても埒が明かぬ、労働者のことは労働者自身で運動せねばならぬ。議員を介する間接運動でなくして、労働者自身が直接に運動しよう、すなわち総代を出さないで自分らで押し出そうというに過ぎないのです。いま少し具体的に言えば、工場の設備を完全にするにも、労働時間を制限するにも、議会に頼んで工場法をこしらえて貰うよりも、直接に工場主に談判する、聞かなければ同盟罷工をやるというので、多くは同盟罷工のことに使われているようです。あるいは非常に不景気、恐慌で餓孚途に横わるというような時には、富豪の家に押入って食品を収用するもよいと論ずる者もある。収用もまた直接行動の一といえぬではない。また革命の際において、議会の決議や協定を待たなくても、労働組合ですべてをやってゆけばよいという論者もある。これも直接行動ともいえるのです。
 しかし、今日直接行動説を賛成したといっても、すべての直接行動、議会を経ざる何事でも賛成したということは言えませぬ。議会を経ないことなら、暴動でも、殺人でも、泥棒でも、詐偽でもみな直接行動ではないかという筆法で論ぜられては間違います。議会は欧米いたるところ腐敗している。中には善良な議員がないでもないが、少数でその説は行われぬ。ゆえに議院をアテにしないで直接行動をやるというので、直接行動なら何でもやるというのではありません。同じく議会を見限って直接行動を賛する人でも、甲は小作人同盟で小作料を値切ることのみやり、乙は職工の同盟罷工のみを賛するというように、その人とその場合とによって目的、手段、方法を異にするのです。ゆえに直接行動をただちに暴力革命なりと解し、直接行動論者たりしということを今回の事件の有力な一原因に加えるのは理由なきことです。






   欧州と日本の政策

 今回の事件の真相と其動機とが何処に在るかはしばらく措き、以上述ぶるが如く、無政府主義の 道は暴力の 道ではありません。欧米でも同主義に対しては甚だしき誤解を抱いています。あるいは知ってことさらに曲解し、ざん誣、中傷していますが、しかし日本や露国のように乱暴な迫害を加え、同主義の自由、権利をすべて剥奪、蹂躙して、その生活の自由まで奪うようなことはまだありません。欧州の各文明国では無政府主義の新聞、雑誌は自由に発行され、その集会は自由に催されています。仏国などには同主義の週刊新聞が七、八種もあり、英国のごとき君主国、日本の同盟国でも、英文や露文やユダヤ語のが発行されています。そしてクロポトキンはロンドンにいて自由にその著述を公にし、現に昨年出した『露国の惨状』の一書は、英国議会の「露国事件調査委員会」から出版いたしました。私の訳した『パンの略取』のごときも、仏語の原書で、英、独、露、伊、西等の諸国語に翻訳され、世界的名著として重んぜられているので、これを乱暴に禁止したのは、文明国中日本と露国のみなのです。
 なるほど、無政府主義は危険だから、同盟して鎮圧しようということを申し出した国もあり、日本にもその交渉があったように聞きましたが、しかし、この提議をするのは大概ドイツとか、イタリアとか、スペインとかで、まず乱暴迫害を無政府主義者に加え、彼らの中に激昂の極多少の乱暴する者あるや、ただちにこれを口実として鎮圧策を講ずるのです。そしてこの列国同盟の鎮圧条約は、しばしば提議されましたが、かつて成立したことはありません。いくら腐敗した世の中でも、とにかく文明の皮を被っている以上、そう人間の思想の自由を蹂躙することはできないはずです。とくに申しますが、日本の同盟国たる英国はいつもこの提議に反対するのです。




   一揆暴動と革命

 単に主権者を更送することを革命と名くる東洋流の思想から推して、強大なる武力、兵刀さへれば何時でも革命を起こし、若しくは成し得るやうに考へ、革命家の一揆暴動なれば総て暴力革命と名くべきものかと察せられます。併し私共の用うる革命てふ語の意義は前申上ぐる通りで、又一揆暴動は文字の如く一揆暴動で、此点は区別しなければなりません。直接行動は英語のジレクト・アクションを訳したもので、欧米で一般に労働運動に用うる言葉です。労働組合の職工の中には無政府党もあり、忠君愛国論者もあるので、別に無政府主義者の専有の言葉ではありません。そしてその意味するところは、労働組合全体の利益を増進するのには、議会に御頼み申しても埒が明かぬ、労働者のことは労働者自身で運動せねばならぬ。議員を介する間接運動でなくして、労働者自身が直接に運動しよう、すなわち総代を出さないで自分らで押し出そうというに過ぎないのです。いま少し具体的に言えば、工場の設備を完全にするにも、労働時間を制限するにも、議会に頼んで工場法をこしらえて貰うよりも、直接に工場主に談判する、聞かなければ同盟罷工をやるというので、多くは同盟罷工のことに使われているようです。あるいは非常に不景気、恐慌で餓孚途に横わるというような時には、富豪の家に押入って食品を収用するもよいと論ずる者もある。収用もまた直接行動の一といえぬではない。また革命の際において、議会の決議や協定を待たなくても、労働組合ですべてをやってゆけばよいという論者もある。これも直接行動ともいえるのです。
 しかし、今日直接行動説を賛成したといっても、すべての直接行動、議会を経ざる何事でも賛成したということは言えませぬ。議会を経ないことなら、暴動でも、殺人でも、泥棒でも、詐偽でもみな直接行動ではないかという筆法で論ぜられては間違います。議会は欧米いたるところ腐敗している。中には善良な議員がないでもないが、少数でその説は行われぬ。ゆえに議院をアテにしないで直接行動をやるというので、直接行動なら何でもやるというのではありません。同じく議会を見限って直接行動を賛する人でも、甲は小作人同盟で小作料を値切ることのみやり、乙は職工の同盟罷工のみを賛するというように、その人とその場合とによって目的、手段、方法を異にするのです。ゆえに直接行動をただちに暴力革命なりと解し、直接行動論者たりしということを今回の事件の有力な一原因に加えるのは理由なきことです。





   聞取所及調書の杜撰

 私共無政府主義者は、平生今の法律裁判てふ制度が完全に人間を審判し得るとは信じないのでしたけれど、今回実地を見聞して更に危険を感じました。私は唯だ自己の運命に満足する考へですから、此点に就いて最早呶々(どど)したくはありませんが、唯だ多数被告の利害に大なる関係があるやうですから、一応申上げたいと思ひます。第一、検事の聴取書なるものは、何と書いてあるか知れたものではありません。私は数十回検事の調べに会いましたが、初め二、三回は聴取書を読み聞かされましたけれど、その後は一切その場で聴取書を作ることもなければ、したがって読み聞かせるなどということもありません。その後予審廷においてときどき、検事の聴取書にはこう書いてあると言われたのを聞くと、ほとんど私の申立と違わぬはないのです。たいてい、検事がこうであろうといった言葉が、私の申立として記されてあるのです。多数の被告についてもみな同様であったろうと思います。そのときにおいて予審判事は聴取書と被告の申立と、いずれに重きを置くでしょうか。実に危険ではありませんか。
 また検事の調べ方についても、常にいわゆる「カマ」をかけるのと、議論で強いることが多いので、このカマを看破する力と、検事と議論を上下し得るだけの口弁を有するにあらざる以上は、たいてい検事の指示するとおりの申立をすることになると思われます。私はこの点について一々例証を挙げ得ますけれど、クダクダしいから申しません。ただ私の例をもって推すに、他のかかる場所になれない地方の青年などに対しては、ことにヒドかったろうと思われます。石巻良夫が、「愚童より宮下の計画を聞けり」との申立をなしたということのごときも、私も当時聞きまして、また愚童をおとしいれんがために奸策を設けたなと思いました。宮下が爆弾製造のことは、愚童、石巻の会見よりはるか後のことですから、そんな談話のあるはずがありません。このことのごときはあまりに明白ですぐ分りますけれど、巧みな「カマ」には何人もかかります。そして「アノ人がそう言えば、ソンナ話があったかも知れません」くらいの申立をすれば、すぐ「ソンナ話がありました」と確言したように記載されて、これがまた他の被告に対する責道具となるようです。こんな次第で、私は検事の聴取書なるものは、ほとんど検事の曲筆舞文、牽強付会ででき上がっているだろうと察します。一読しなければ分りませんが。
 私は予審判事の公平、周到なることを信じます。他の予審判事は知らず、少なくとも私が調べられました潮判事が公平、周到を期せられたことは明白で、私は判事の御調べにほとんど満足しています。
 けれど、いかに判事その人が公平、周到でも、今日の方法制度では完全な調書のできるはずはありません。第一、調書は速記でなく、一通り被告の陳述を聞いたあとで、判事の考えでこれを取捨して問答の文章を作るのですから、申立の大部分が脱することもあれば、言わない言葉が挿入されることもあります。ゆえに被告の言葉を直接聞いた予審判事には被告の心持がよく分っていても、調書の文字となって他人が見れば、その文字次第で大分解釈が違うてまいります。
 第二は、調書訂正の困難です。できた調書を書記が読み聞かせますけれども、長い調べで少しでも頭脳が疲労していれば、早口に読み行く言葉を聞き損じないだけがヤットのことで、少し違ったようだと思っても、咄嗟の間に判断がつきません。それを考えるうちに読声はドンドン進んで行く。何を読まれたか分らずにしまう。そんな次第で数か所十数か所の誤りがあっても、指摘して訂正し得るのは一か所くらいに過ぎないのです。それも文字のない者などは適当な文字が見つからぬ。「こう書いても同じではないか」と言われれば、争うことのできぬのが多かろうと思います。私なども一々添削するわけにもゆかず、大概ならと思ってそのままにした場合が多かったのです。
 第三には、私初め予審の調べに会ったことのない者は、予審は大体の下調べだと思って、さほど重要と感じない。ことに調書の一字、一句がほとんど法律条項の文字のように確定してしまうものと思わないで、いずれ公判があるのだからそのとき訂正すればよいくらいで、強いて争わずに捨ておくのが多いと思います。これは大きな誤りで、今日になって見れば、予審調書の文字ほど大切なものはないのですけれど、法律裁判のことにまったく素人なる多数の被告は、そう考えたろうと察します。こんな次第で予審調書もはなはだ杜撰なものができ上がっています。私は多少文字のことに慣れていてずいぶん訂正もさせました。けれど、それすら多少疲れているときは面倒になって、いずれ公判があるからというのでそのままにいたしたのです。いわんや多数の被告をやです。
 聴取書、調書を杜撰にしたということは、制度のためのみでなく、私どものかかることに無経験なるより生じた不注意の結果でもあるので、私自身は今に至ってその訂正を求めるとか、誤謬を申し立てるとかいうことはいたしませんが、どうかかの気の毒な多数の地方青年のために御含み置きを願いたいと存じます。




 以上、私の申上げて御参考に供したい考への大体です。何分連日の公判で頭脳が疲れている為に、思想が順序よく纏まりません。加ふるに、火のない室で、指先が凍ってしまひ、是まで書く中に筆を三度取落とした位ですから、唯だ冗長になるばかりで、文章も拙く、書体も乱れて、さぞ御読みづらいことでありませう。どうか御諒恕を願ひます。

 兎に角右述べました中に、多少の取るべきあらば、更に之を判官、検事諸公の耳目に達したいと存じます。

 
 明治四三年一二月一八日午後
  
    東京監獄監房にて
                                      幸徳傳次郎
 



2007年06月10日(日) A LETTER FROM PRISON (啄木)��


'V NAROD' SERIES

A LETTER FROM PRISON
(啄木)
この一篇の文章は、幸徳秋水等二六名の無政府主義者に関する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに対する自己の見解を弁明せんがために、明治四三年一二月一八日、幸徳がその担当弁護人たる磯部四郎、花井卓蔵、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。
 
 初めから終りまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に予期の如き(予期!然り。帝国外務省さへ既に判決以前に於いて、彼等の有罪を予断したる言辞を含む裁判手続説明書を、在外外交家及び国内外字新聞社に配布していたのである)判決を下されたかの事件---あらゆる意味に於いて重大なる事件---の真相を暗示するものは、今や実にただこの零 なる一篇の陳弁書あるのみである。
 
 これの最初の写しは、彼が寒気骨に徹する監房にこれを書いてから一八日目、即ち彼にとって獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であった明治四四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに写し取って置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出来ない。ペンを走らせていると、遠く何処からか歌歌留多の読声が聞こえた。それを打消す若い女の笑声も聞こえた。さうしてそれは予がこれを写し終った後までもまだ聞こえていた。予は遂に彼が嘗て---七年前---「かるたの娯楽」と題する一文を週間平民新聞の新年号に揚げてあったことまでも思ひ出させられた。西川光二郎君---恰(あたか)もその同じ新年号のしかも同じ頁に入社の辞を書いた---から借りて来ていた平民新聞の綴込を開くと、文章は次の言葉を以って結ばれていた。『歌がるたを楽しめる少女よ。我も亦幼時甚だ之を好みて、兄に侍し、姉に従ひて、食と眠りを忘れしこと屡(しばしば)なりき。今や楽しみなし。嗚呼老いけるかな。顧みて憮然之を久しくす』

 しかし彼は老いなかったのである。然り。彼は遂に老いなかったのである。

 文中の句読は謄写の際に予の勝手に施したもの、又或る数箇所に於いて、一見明白なる書違ひ及び仮名づかひは之を正して置いた。

明治四四年五月
H,I,

 


 礒部先生、花井、今村両君足下。私共の事件の為に、沢山な御用をなげうち、貴重な時間を潰し、連日御出廷下さる上に、世間からは定めて乱臣賊子の弁護をするとて種々の迫害も来ることでせう。諸君が内外におけるすべての労苦と損害と迷惑とを考えれば、実にお気の毒に堪えません。それにつけてもますます諸君の御侠情を感銘し、厚く御礼申上げます。諸君が内外におけるすべての労苦と損害と迷惑とを考えれば、実にお気の毒に堪えません。それにつけてもますます諸君の御侠情を感銘し、厚く御礼申上げます。
 さて頃来の公判の模様に依りますと、「幸徳が暴力革命を起こし」云々の言葉が、此多数の被告を出した罪案の骨子の一となっているにも拘わらず、検事調べに於いても、 審に於いても、我等無政府主義者が革命に対する見解も、又其運動の性質なども一向明白になっていないで、勝手に憶測され、解釈され、附会されて来た為に、余程事件の真相が誤られはせぬかと危ぶむのです。就いては、一通り其等の点に関する私の考へ及び事実を御参考に供して置きたいと思ひます。




   無政府主義と暗殺

 無政府主義の革命といへば、直ぐ短銃や爆弾で主権者を狙撃する者の如くに解する者が多いのですが、夫(それ)は一般に無政府主義の何者たるかが分かっていない為であります。弁護士諸君にはすでに承知になっているごとく、同主義の学説はほとんど東洋の老荘と同様の一種の哲学で、今日のごとき権力、武力で強制的に統治する制度がなくなって、道徳、仁愛をもって結合せる相互扶助、共同生活の社会を現出するのが、人類社会必然の大勢で、吾人の自由幸福を完くするには、この大勢に従って進歩しなければならないというにあるのです。
 したがって無政府主義者が圧政を憎み、束縛を厭い、同時に暴力を排斥するのは必然の道理で、世にかれらほど自由、平和を好むものはありません。かれらの泰斗と目せらるるクロポトキンのごときも、判官は単に無政府主義者かとお問いになったのみで、やはり乱暴者と思召しておいでかも知れませんが、彼は露国の伯爵で、今年六十九歳の老人、初め軍人となり、のちに科学を研究し、世界第一流の地質学者で、これまで多くの有益な発見をなし、その他哲学、文学の諸学通ぜざるなしです。二十余年前、仏国リヨンの労働者の爆弾騒ぎに関係せる嫌疑で入獄した際、欧州各国の第一流の学者、文士連署して仏国大統領に陳情し、世界の学術のために彼を特赦せんことを乞い、大統領はただちにこれを許しました。その連署者には大英百科全書に執筆せる諸学者もすべてこれに加わり、日本で熟知せらるるスペンサー、ユーゴーもとくに数行を書添えて署名しました。もってその学者としての地位、名声のいかに重きかを知るべしです。そして彼の人格はきわめて高尚で、性質はきわめて温和、親切で、けっして暴力を喜ぶ人ではありません。
 またクロポトキンと名をひとしくしたフランスの故エリゼー・ルクリュス(Ruclus)のごときも地理学の大学者で、仏国は彼がごとき大学者を有することを名誉とし、市会は彼を記念せんがためにパリの一道路に彼の名を命けたくらいです。彼は殺生を厭うのはなはだしきため、ぜんぜん肉食を廃して菜食家となりました。欧米無政府主義者の多くは菜食者です。禽獣をすら殺すに忍びざる者、なんぞ人の解するごとく殺人を喜ぶことがありましょうか。これら首領と目さるる学者のみならず、同主義を奉ずる労働者は、私の見聞したところでも、他の一般労働者に比すれば、読書もし、品行もよく、酒も煙草も呑まぬものが多いのです。彼らはけっして乱暴ではないのであります。
 なるほど無政府主義者中から暗殺者を出したのは事実です。しかしそれは同主義者だから必ず暗殺者だというわけではありません。暗殺者の出るのはひとり無政府主義者のみでなく、国家社会党からも、共和党からも、自由民権論者からも、愛国者からも、勤王家からもたくさん出て居ります。これまで暗殺者といえばたいてい無政府主義のように誣いられて、その数も誇大に吹聴されています。現に露国アレクサンドル二世帝を殺したごときも、無政府党のようにいわれますが、アレは今の政友会の人々と同じ民権自由論者であったのです。実際歴史を調べると、他の諸党派に比して無政府主義者の暗殺がいちばん僅少なので、過去五十年ばかりの間に全世界を通じて、十指にも足るまいと思います。かえりみてかの勤王家、愛国家を見ますれば、同じ五十年間に、世界でなくて、わが日本のみにしてほとんど数十人あるいは数百人を算するではありませんか。 単に暗殺者を出したからとて暗殺主義なりと言わば、勤王論、愛国思想ほど激烈な暗殺主義はないはずであります。
 ゆえに暗殺者の出るのは、その主義の如何に関するものではなくて、その時の特別の事情とその人特有の気質とが相触れてこの行為に立ちいたるのです。たとえば政府が非常な圧制をやり、そのために多数の同志が言論、集会、出版の権利自由を失なえるはもちろん、生活の方法すらも奪わるるとか、あるいは富豪が横暴をきわめたる結果、窮民の飢凍悲惨の状見るに忍びざるとかいうがごときに際して、しかもとうてい合法平和の手段をもってこれに処するの途なきとき、途なきがごとく感ずるの時において、感情熱烈なる青年が暗殺や暴挙に出るのです。これ彼らにとってはほとんど正当防衛ともいうべきです。かの勤王、愛国の志士がときの有司の国家を誤らんとするを見、または自己らの運動に対する迫害急にして他に緩和の法なきのとき、憤慨の極暗殺の手段に出ると同様です。彼らもとより初めから好んで暗殺を目的とも手段ともするものでなく、みな自己の気質と時の事情に駆られてここにいたるのです。そしてその歴史を見れば、初めに暴力を用うるのはむしろ時の政府、有司とか富豪、貴族とかで、民間の志士や労働者は常に彼らの暴力に挑発され、酷虐され窘窮のあまり、やむなくまた暴力をもってこれに対抗するに至るの形跡があるのです。米国大統領マッキンレーの暗殺でも、イタリア王ウンベルトのでも、またスペイン王アルフォンソに爆弾を投じたのでも、みなそれぞれその時に特別な事情があったのですが、あまり長くなるから申しません。
 要するに、暗殺者はその時の事情とその人の気質と相触るる状況如何によっては、いかなる党派からでも出るのです。無政府主義者とは限りません。否、同主義者はみな平和、自由を好むがゆえに、暗殺者を出すことはむしろきわめて少なかったのです。私は今回の事件を審理さるる諸公が「無政府主義者は暗殺者なり」との妄見なからんことを希望に堪えませぬ。





   革命の性質

 爆弾で主権者を狙撃するのでなければ、無政府的革命はドウするのだといふ問題が生ずる。革命の熟語は支那の文字で、支那は甲姓の天子が天命を受けて乙姓の天子に代わるを革命といふのだから、主に主権者とか、天子とかの更送をいふのでせうが、私共の革命はレヴォルーションの訳語で、主権者の変更如何には頓着なく、政治組織、社会組織が根本に変革されねば革命とは申しません。足利が織田になろうが、豊臣が徳川になろうが、同じ武断封建の世ならば革命とは申しません。王政維新は天子は依然たるも革命です。それも天子および薩長氏が徳川氏に代ったがために革命というのではなく、旧来凡百の制度、組織が根底から一変せられたから革命というのです。一千年前の大化の新政のごときも、やはり天皇は依然たるも、また人民の手でなく天皇の手によって成されても、ほとんど革命に近かったと思います。すなわち私どもが革命というのは、甲の主権者が乙の主権者に代るとか、丙の有力な個人もしくは党派が丁の個人もしくは党派に代って政権を握るというのでなく、旧来の制度、組織が朽廃衰弊の極崩壊し去って、新たな社会組織が起り来るの作用をいうので、社会進化の過程の大段落を表示する言葉です。ゆえに厳正な意味においては、革命は自然に起り来るもので、一個人や一党派で起し得るものではありません。
 維新の革命にいたしましても、木戸や西郷や大久保が起したのではなく、徳川氏初年に定めた封建の組織、階級の制度が三百年間の人文の進歩、社会の発達に伴わなくて各方面に朽廃を見、破綻を生じ、自然に傾覆するにいたったのです。この旧制度、旧組織の傾覆の気運が熟しなければ、百の木戸、大久保、西郷でもどうすることもできません。彼らをしていま二十年早く生れしめたならば、やはり吉田松陰などといっしょに馘られるか、なにごともなし得ずに埋木になってしまったでしょう。彼ら幸いにその時に生れてその事に与り、その勢いに乗じたのみで、けっして彼らが起したのではありません。革命の成るのはいつでも水到渠成るのです。
 ゆえに革命をドウして起すか、ドウして行うかなどということは、とうていあらかじめ計画し得べきことではありません。維新の革命でも形勢は時々刻々に変じて、何人も端倪、揣摩し得るものはありませんでした。大政返上の建白で平和に政権が引渡されたかと思うと、伏見、鳥羽の戦争がはじまる。サア開戦だから江戸が大修羅場になるかと思えば勝と西郷とでこの危機をソッとコワしてしまった。まず無事にいったかと思うと、また彰義隊の反抗、奥羽の戦争があるという風である。江戸の引渡しですらも、勝、西郷のごとき人物が双方へ一時に出たからよかったものの、この千載稀な遇合がなかったら、ドンな大乱におちいっていたかも知れぬ。これとうてい人間の予知すべからざるところではありますまいか。さすれば識者、先覚者の予知し得るは、来るべき革命が平和か、戦争か、いかにして成るかの問題ではなくして、ただ現時の制度、組織が、社会、人文の進歩、発達に伴わなくなること、その傾覆と新組織の発生は不可抗の勢いとなること、封建性がダメになれば、その次にはこれと反対の郡県制によらねばならぬこと、専制の次には立憲自由制になるのが自然なることなどで、この理を推して、私どもは、個人競争、財産私有の今日の制度が朽廃し去った後は、共産制がこれに代り、近代国家の圧制は無政府的自由制をもって掃蕩せらるるものと信じ、この革命を期待するのです。
 無政府主義者の革命成るのとき、皇室をドウするかとの問題が先日も出ましたが、それもわれわれが指揮、命令すべきことではありません。皇室みずから決すべき問題です。前にも申すごとく、無政府主義者は武力、権力に強制されない万人自由の社会の実現を望むのです。その社会成るのとき、何人が皇帝をドウするという権力をもち、命令を下し得るものがありましょう。他人の自由を害せざる限り、皇室は自由に、勝手にその尊栄、幸福を保つの途に出で得るので、なんらの束縛を受くべきはずはありません。
 かくてわれわれは、この革命がいかなる事情の下に、いかなる風に成し遂げられるかは分りませんが、とにかく万人の自由、平和のために革命に参加する者は、でき得る限り暴力を伴わないように、多く犠牲を出さぬように努むべきだと考えます。古来の大変革の際に多少の暴力を伴い、多少の犠牲を出さぬはないようですが、しかしかかる衝突は常に大勢に逆行する保守、頑固の徒から企てられるのは事実です。今日ですら人民の自由、平和を願うと称せられている皇室が、そのときにおいてかかる保守、頑固の徒とともに大勢に抗し、暴力を用いらるでしょうか。今日においてこれを想像するのは、寛政頃に元治、慶応の事情を想像するごとく、とうてい不可能のことです。ただ私は、無政府主義の革命とはただちに主権者の狙撃、暗殺を目的とするものなりとの誤解なからんことを望むのみです。



   所謂革命運動

 革命が水到渠成るように自然の勢ひなれば、革命運動の必要はあるまい、然るに現に革命運動がある。革命運動は即ち革命を起こして爆弾を投ぜんとするものではないか、といふ誤解があるやうです。
 無政府主義者が一般に革命運動と称しているのは、すぐ革命を起すことでもなく、暗殺、暴動をやることでもありません。ただ来らんとする革命に参加して応分の力をいたすべき思想、知識を養成し、能力を訓練するすべての運動を称するのです。
新聞、雑誌の発行も、書籍、冊子の著述、頒布も、演説も、集会もみなこの時勢の推移、社会の進化するゆえんの来由と帰趨とを説明し、これに関する知識を養成するのです。そして労働組合を設けて諸種の協同の事業を営むがごときも、また革命の新生活をなし得べき能力を訓練しておくに利益があるのです。しかし日本従来の労働組合運動なるものは、単に眼前労働者階級の利益増進というのみで、遠き将来の革命に対する思想よりせるものはなかったのです。無政府主義もまた労働組合に手をつけたことはありません。
 ゆえにいま一個の青年が、平生革命を主張したとか、革命運動をなしたといっても、ただちに天皇暗殺もしくは暴挙の目的をもって運動せりと解してこれを責めるのは残酷な難題です。私どもの仲間では、無政府主義の学説を講ずるのでも、またこの主義の新聞や引札を配布しているのでも、これを称して革命運動をやってるなどというのは普通のことです。しかしこれは革命を起すということは違います。
 革命が自然に来るのなら、運動は無用のようですが、けっしてそうではありません。もし旧制度、旧組織が衰朽の極に達し、社会が自然に崩壊するとき、いかなる新制度、新組織がこれに代るのが自然の大勢であるかに関して、なんらの思想も知識もなく、これに参加する能力の訓練もなかった日には、その社会は革命の新しい芽を吹くことなくして、旧制度とともに枯死してしまうのです。これに反して知識と能力の準備があれば、元木の枯れた一方から新たな芽が出るのです。ローマ帝国の社会は、その腐敗に任せてなんらの新主義、新運動のなかったために滅亡しました。フランスはブルボン王朝の末年の腐敗がアレほどになりながら、一面ルーソー、ヴォルテール、モンテスキューなどの思想が新生活の準備をしたために、滅亡とならずして革命となり、さらに新しきフランスが生れ出た。日本維新の革命に対してもその以前から準備があった。すなわち勤王思想の伝播です。水戸の大日本史でも、山陽の外史、政記でも、本居、平田の国学も、高山彦九郎の遊説もそれであります。彼らは徳川氏の政権掌握ということが漸次日本国民の生活に適しなくなったことを直覚し、むしろ直感した。彼らはあるいは自覚せず、あるいはおぼろ気に自覚して革命の準備をなしたのです。徳川家瓦解のときは、王政復古に当ってマゴつかないだけの思想、知識がすでに養成せられていた。かくて滅亡とならずして立派な革命は成就せられた。もしこれらの革命運動がその準備をしていなかったなら、当時外人渡来という境遇の大変に会って、危いかな、日本はあるいは今日の朝鮮の運命を見たかも知れませぬ。朝鮮の社会がついに独立を失ったのは、永くその腐敗に任せ、衰朽に任せて、みずから振作し、刷新して新社会、新生活に入る能力、思想のなかったためであると思います。
 人間が活物、社会が活物で、常に変動進歩してやまざる以上、万古不易の制度、組織はあるべきはずがない。かならず時とともに進歩、改新せられねばならぬ。その進歩、改新の小段落が改良あるいは改革で、大段落が革命と名づけられるので、われわれはこの社会の枯死、衰亡を防ぐためには、常に新主義、新思想を鼓吹すること、すなわち革命運動の必要があると信ずるのです。




2007年06月03日(日) 『現代のアイヌ―民族移動のロマン―』(菅原幸助)を読んでの感想(2004年過去ログ�◆�


577. 本、借りてきた! 2004/06/08 (火) 23:45

 先日、「現代のアイヌ −民族移動の大ロマン - 」のご紹介を頂いて以来、いつもの「コダワリ」が頭をもたげてしまい、同書を探してみましたが、近隣では生憎と見つかりませんでした。
 それよりも20年から25年も新しくなりますので、当然「時代の違い」があるとは思いましたが、

  菅原幸助著「『日本人になれない』中国孤児」 遙泉社1989年刊
  菅原幸助著「初年兵と従軍慰安婦」 三一書房 1997年刊
  藤本英夫著「泉 靖一伝」 新潮社 1994年刊

 の三冊を図書館より借りてきました。

 「予断」を持たずに先ず通読をすべきなのですが、凡人の浅ましさから、「人権意識」の形成というか培養というか、そういうことだけをパラパラと拾い読みをしました。

 その中から、菅原、泉ご両名には共通するご体験があることが判りました。
 先ずはその青年期を菅原さんは「満州」、泉さんは「朝鮮」でお過ごしであったこと。
 次いで菅原さんは新聞記者として駐在、和泉さんは大学教授としての学術調査の違いはありますが、ともに「アイヌ」と直接に関わりをお持ちになって居られることです。
 外地での生活体験は、私も拙HP「儲かったですませていたこと」と重なる想いがいたします。

 菅原さんには、自分の本意とは関わりなく満蒙開拓青少年義勇軍などの日本の拓殖・植民政策に乗っていた自分、加えて、姫だるまさんからもご紹介のあったような、関東軍上層部家族の避難行に同行し、不時の匪襲を逃れるためとはいえ、同胞を見捨てた辛い厳しい悔悟などがありました。

 和泉さんには、敗戦直後の混乱の中で結成された「京城内地人世話人会」の依頼・嘱託に拠り、既に活動していた「京城帝国大学医学部」学生による医療救護(38度線付近に迄進出し「赤十字旗」を立て活動していた)に「同」教授らをくわえた京城罹災民救済病院の組織化がありました。この組織は「半島」内に止まらず、移動医療局として引き揚げ船内から上陸地の博多にまで達します。そして財政面も含めて再組織されたのが「在外同胞援護会(外務省の外郭団体)救療部聖福病院」です。
 今、済生会二日市病院の近くに、ただ「仁」と一字だけが彫り込まれた石碑があり、その背面には「堕胎が当時、法律で禁止されていることを知りつつ、職を賭して行った彼らの人道的行為は後世に伝えられるべき・・・」と建立の趣旨が刻まれているそうです。

 また書きます。

578. いまも変わらぬ国民性(1) 2004/06/13 (日) 15:13

 北海道で研究旅行中にその調査対象者から罵声を蒙って、依頼フィールドワークから身を引かれたというお話を識り、そのお人柄を伝える「泉靖一伝」(前掲)の抜き書きをしていて、気づいた話です。
 私の「想い出」と全くと言って良いほど重なる話ですし、今もって日本国内に無しとせぬ話です。(文中の註記は私です)

 先ずは、時代順に「泉靖一伝」から、

 光州学生運動(註:1929.11.3)は、3・1運動(註:1919年)以降最大の国内反日運動であった。(中略)
 事件は朝鮮人女学生を,日本人中学生がからかったのが原因だったが、加害者は日本人であるのに、事件処理にあたった日本人警察官が、いやがらせをみかねて制止に入った朝鮮人中学生を逆に殴ったりした。これを機に、ふだんから鬱積していた反日感情が爆発、(中略)
 事件は翌春までに、小学校から大学まで、「全朝鮮194校、約6万が参加する反日示威」運動となった。
  (中略)
 光州駅前の争乱から1か月後の12月3日、京城でも約二千枚のビラが、市内の大学から中学にまで配られた。そして30校、1万人の学年ゼネストが準備され、計画どおり、・・・・鍾路の、3・1独立運動の聖地、パゴダ公園を中心にして行われた。「日本帝国打倒万歳」、「植民地解放万歳」、「奴隷教育反対」のビラを撒きつつのデモ隊は、警官隊ともみ合い、この日検挙考は3千とも4千とも、また負傷者5百、死者は男女合わせて数十名ともいわれている。

 ちなみに、この事件を明石書店発行の「入門韓国の歴史 −国定韓国中学校国史教科書−」に観ると、

 1929年11月3日、光州で韓日の学年の問に起こった衝突をきっかけに、平素の民族差別に対する怒りと反日感情が爆発し、大規模な反日学生示威が起こった。この学生運動は瞬く間に全国に広がり、各地で多くの学校が抗日示威を展開し、一般国民までもこれに加わった。
 光州学生抗日運動は単純な学生運動ではなく、日帝の民族差別に対する闘争であり、さらには,民族独立闘争の一環として展開された3・1運動後もっとも'大規模な民族運動だった。

 と、あります。

 このような日本人中学生による現地人学生に対する「からかい」「嫌がらせ」は、ほぼ15年後の私にも憶えがあります。
(次へ続けます)

580. いまも変わらぬ国民性(2) 2004/06/13 (日) 15:36

 私は、1942(昭17)年に中学校に入りました。その頃の想い出として、前述の「朝鮮人女学生を日本人中学生がからかった」に重なる話があります。

 当時の奉天市(現瀋陽市)には、男子中学校が2校と工・商の計4校がありました。各校とも下宿や会社の社員子弟学生寮を含めて市内通学生がほとんどでしたが、僅かな汽車通学生がおりました。そして、その多くは市南方にある満鉄機関区・操車場のある街からでした。
 普段の市中では、今と同じく学校間格差が一般にも根強い中で、生徒にも内心にはお互いに張り合う気持ちが渦巻いていたと思うのです。その彼らが、時折(中間・期末試験後が多かった?)連合して、現地人中等学校生を、列車の後部から前部へ追い詰める、「今日は何両目かまでしか出来なかった」というような「遊び」を楽しみ、また、登校後、それを教室で語って、私ども共々に笑いあったものでした。

 はからずも「光州学生運動」の発端を識って、この現地人男子中等学校生らは、他の乗客へ迷惑が波及することを避けるに止まらず、光州の学生と同じように女子学生を固く守っての退避であり、隠忍であったこと、今まで全く考えもしていなかったことに気づき深く恥じ入っています。

 ひるがえって、現今の国内を見回すと、日本と「北朝鮮」との関係が問われる度に、民族学校女子学生のいわれなき被害が報じられます。他方からは「いつまで、何回、謝れば済むのだ」といった声が、庶民間に限らず聞こえて参ります。

 年の所為か、眼が潤んで参ります。一端は終わります。





583. 大変興味深く拝見しています    2004/06/15 (火) 15:49

まいど、消化中レスで申し訳ありません

大変興味深く(と言っては変なのですが)拝見させていただいております。
ワタシが  さんにお尋ねしようとしていることは、もしかしたら「いくつもの『満州』があるんじゃないか」(「負」をふまえつつ)ということかもしれません。『』の部分は、疎開・蒙開拓義勇軍・・・何が最もふさわしいのか、まだわからぬまま埋めています。
人権問題かもしれません。 
これからも、お話をお伺いさせていただきたく存じます。


584. 竹      2004/06/15 (火) 22:21

竹 といえば
若い(乾いてない)と、火にくべると燃えます。
古い(乾いている)と、火にくべると燃えつつも炸裂(破裂音)します。

節

ありがとデス♪




585. 「人に歴史あり」 2004/06/15 (火) 23:33

 いま、NHK・TV に「その時 歴史が動いた」という番組があります。その当初の標題は「人に歴史あり」であったと記憶しています。
私は、菅原幸助さん、泉 靖一さん、金田一京助さん、等の業績に学び、その人となりを識ってゆく中で、そのことを、改めて、強く、感じています。
 私が語る『満州』は、そのような『満州』であり、「いくつもの『満州』があるんじゃないか」のうちの極々小さい部分の、そのまた一つに過ぎない、と、ご理解を願いたく存じます。

 「『負』をふまえつつ」とのお言葉を、私は「新しい歴史」として記述される歴史と、それを批判する主張との間隙を、ご自身で確かめようとのお考えかと拝します。

 と、いたしますと、その体験者・記述者等が何れの視点、即ち、統治面か、経済面か、人権面か、あるいは国際関係からか、さらには、それらが複合的に絡み合っての主張なのか、それらも「人それぞれ」であろうと思惟いたします。姫だるまさんがご紹介下さった、菅原さんのご著書中の引用部分に対して述べた私の疑問も、著者のその後のご著書から「人権意識」変革の過程での記述なのかな?と考えているところです。

 また、私に致しましても拙コーナー「儲かったですませていたこと」は、戦後30年以上、それも「部落差別」に学び始めてやっとの気づきでしたし、前述の「光州学生運動」の発端に重なる中学時代の想い出などを思えば「これが歴史」「これが実態」などと軽々に断じられるものではないと考えます。

 ただ、いずれの国も、自国内の経済的・社会的な矛盾解決の手段として、今も昔も、国民の目を国外へ逸らそうと策すことに変わりはないと、私は断じます。(日本の封建時代における「部落差別」を別としての条件付きですけど)




587. 竹・・・   2004/06/18 (金) 14:32

切り口が新しい!    さん♪

>また、私に致しましても拙コーナー「儲かったですませていたこと」は、戦後30年以上、それも「部落差別」に学び始めてやっとの気づきでしたし・・・

 ワタシ自身は、昭和に、二十四年間ほど在籍していながら、(東京オリンピック開催年に生まれています)昭和史を知らなすぎることを恥ずかしく思ってきました。
敗戦直後のことで、唯一、実母から、学校教科書の墨塗りを消しゴムで(と申しておりました)消す作業が大変だったことは、繰り返し聞いてきたように思いますが、(実母は当時小学校1年生でした)思想、言論の自由が奪われ戦争へ突き進んだプロセスについては、やはり幼少の母は実感がなかったようです。
少なくとも母は、戦争に疲れきっていた、憲法「第九条」を抵抗することなく受け入れた大多数の日本国民=親を見つめてきたような話は、ワタシにしませんでした。

 このたび初めて「光州学生」を見下す行為をはたらいた日本人についてお聞きすることができ、また隣国の「不信感」についての学びを深めることができましたが、これも表現の自由を保障している「憲法」があるからこそということも自分の頭の中では意識し、今後ともぜひお話をお伺いしていきたいと思っている次第です。




588. 憲法「第9条」私見 2004/06/18 (金) 23:03

 ここは一寸違います。

 > 憲法「第九条」を抵抗することなく受け入れた大多数の日本国民

 国会の審議過程において、「戦力」の定義といいますか「自衛権」といいますか、外国からから蒙る不測不時の侵攻に対する問題が論議されています。此に対する吉田首相・金森担当国務大臣の答弁は、「前文」を引用した「国際的信頼関係」を論拠とした「不戦論」でした。
 当時の文部省国定教科書「新しい憲法のはなし」(拙HPに同名のコーナーあり)より引用をします。

 > そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。(註:第9条第1項)

 > もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。(註:第9条第2項)

 当時の書店では、東大の我妻 栄教授の「憲法原論」有斐閣刊は必備図書でした。(←は、なりたてだった「本屋の小僧」の想い出)

 日本教職員組合発足の原点に、「教え子を再び戦場へ送らない」とあります。これは、「予科練」を始めとする「少年兵」、加えては「満蒙開拓青少年義勇隊」への積極的な勧奨への強い反省があったと記憶しております。

 いまの「日本外交」に対しては、こうして私の体験を通してお話ができることを、僅かな慰みとします。

 これからも、宜しくお願いを申し上げます。




589. 補足させていただきます(1) 2004/06/20 (日) 17:54

  「消化不良」を侵してしまわれる前に・・・

 > 異文化との出会いに、菅原さんや さんは戦中、共通して青年らしい強いご関心を示しておられたと感じます。
 > 中国語の位置づけは、時代が悪くても、可能な限りよく生きようという選択肢が 自身に向いているとした、というものではなかったのか

 菅原さんのように日本国内では体験できない大規模農業に志を立て、現地の農業・農作業にも学ぼうとされた(「初年兵と従軍慰安婦」読後感)純粋な青年とは違って、私は、満鉄附属地(駅前)を中心として発達した日本人街(当時の奉天市の日本人は15万人と聞いています)で暮らしていました。従って、私に関する限りは何卒ご放念ください。

 従って、そのような地域に接してくる中国人は日本人相手の商売、野菜の行商人、馬車・荷馬車・人力車の車夫ぐらい、私自身が日常に現地の人に接することは、ほとんどありませんでした。
中学校の外国語は、英語が週8時間に対して、本当に大事にしなければならなかった「支那」語(当時はこのように言っていました。語源は英語の China によることはご承知かと存じます)は1/2年次に限っての2時間に過ぎませんでした。当時は東亜(これも東洋などとは言わなかった)の盟主を自認し、「鬼畜米英」に至る前、すでに総ての他民族を蔑視していたものです。「読本」の外に「文法」「作文」と苦労をさせられた英語も3年次には半減して週4時間となり、4年次には4月早々からの「勤労動員」で一切の教科が受けられなくなりました。

 私が、日本人の奢り・高ぶりを識ったのは、引き揚げてくる前の2年弱を使役として日本人会から派遣され、長春市警察局外事課で書記のような仕事をその都度命じられながら、外国人(多くは日本人)の管理を望見出来たからでした。
 そんな中で、日本語の中国語訳はまだまだ不十分でしたが、中国語の和訳に際しては、その気持ちも伝えられるくらいに成っていたつもりです。

 でも、それらのことを「人権」の目で捉え、考えられるようになったのは、常に申し上げている如くPTA研修部長として、当時沸き起こってきた「同和教育」に関わらざるを得なかったことが、大きな幸いとなっています。

 それがなければ、「悪いことばかりはしていない」という考え方から解き放たれる事はなかったであろうと言えます。


590. 補足させていただきます(2) 2004/06/20 (日) 22:41

   > 満蒙開拓義勇軍(満蒙開拓を夢見て渡満)を戦争協力者と断じたのでは得られないものがあるように感じることは間違っているでしょうか。

 或る集団を色分けする事はそこに属する個人、一人ひとりを色分けしていることに繋がろうかと考えます。
 満蒙開拓青少年義勇軍の発想の第一に日清戦争以来の「日本の生命線」維持の思想があり、その方策の一としての施策であったろう、というのが私の見方です。その背景には、昭和初期に軍部若手将校らにより画策された「昭和維新」、その遠因として農村の疲弊と国内の人口の増加があったと認識をしております。その根本にある問題の解決策としてですね。
 「青少年義勇軍」なり「開拓団」に参加なさった方々、もっと言うならばそれを企画・推進為された方々にすら「大陸侵略」の意図などは全くなかったと、私は断じたいと思います。さらにつけくわえさせていただくなれば、「満蒙開拓史」は、最近私が「アイヌ神謡集」から学んだ「北海道開拓史」に続いて綴られるべき「日本国庶民史」になろうか、と。

 「歴史に『IF』はない」と言われることを承知で言わせて貰うなれば、開戦前の日米折衝で「万里の長城以南から撤兵するならば、満州の日本権益は認める」と言うような提案を米国が為したことがあったとか(?)。

 「世界の警察官」の陰には「石油資本」が潜んでいるかの報道もあります。「大東亜の盟主」を自負した陰に、国民一人ひとりの思い上がり、またそれをことある毎に示威した愚かさが「国策遂行」に力あった、ことに気づいたのは、「部落差別」を学べたからであり、「アイヌ神謡集」に接し得たからでもあります。

 蛇足として付け加えますが、彼ら「青少年義勇軍」の幼さとご理解を頂きますよう、最初にお願いを申しておきます。
 私たちが「勤労動員」で収容された社員寮にも「開拓地」から動員されてきた20人ほどの「青少年義勇軍」が私たちより遅れて入寮してきました。その後、彼らの後から私たちが入浴すると浴室はおろか浴槽までが小便臭いことが二度、三度とありました。それに気づいてからは、退社が彼らより遅れた日には二里(約八キロ米)は有ったろう帰途を駈け通し、幸いに追い越せるとそこから早足に戻ったものでした。

「現代のアイヌ 民族移動のロマン」、神戸中央図書館にあるようです。著者の「人権意識」変革の過程を是非識りたいと考えています。



2007年06月02日(土) 『現代のアイヌ―民族移動のロマン―』(菅原幸助)を読んでの感想(2004年過去ログ� �



541. アイヌ語学習会へのおつきあいどうもありがとうございました   2004/04/08 (木) 23:43

アイヌ語カウントダウンではお世話になりました。
その後、何人かの人に問い合わせ、
アイヌの「解平社」設立に携わった方でご健在の方は
おられないようだとの回答をいただきました。
アイヌ語学習存続と部落問題との接点を
「水平社宣言」の中に見いだそうとしたワタシのしわくは
いっぺんに崩れさったかに見えました。
が、その後の礒部さんサイト等での調べで、
部落解放同盟(戦後の同和対策審議会答申獲得のための行政闘争)と
北海道のアイヌ解放運動に接点があったことなどがわかってきました。
そのことの詳細が、菅原幸助(元朝日新聞記者)の著書
『現代のアイヌ―民族移動のロマン―』(1966 現文社 )に
書かれていることをつきとめました。
が、その本は現在は絶版であることがわかりました。
ただ、著者菅原幸助氏については、・・・本は見つからなかったけれども、著者への関心がそれにもまして深まりました。それこそ、アイヌ語学習継続の理由であるなどとは決して言葉にはできぬまま、とりあえず報告にあがりました。ではでは。




545. 似たような体験,思いから 2004/04/10 (土) 21:45

  菅原幸助さんのご紹介を有難うございます。年齢的にも、体験的にも菅原さんに共感、というよりも親近感を抱きました。

 すでにご承知かと存じますが私も外地で敗戦を迎え、図らずも中国人社会の中で1年有余の仕事を体験し、帰国後30年を経て初めて「あれが侵略であった」と気づかされたのは「同和教育」に接する機会が与えられてからでした。そのことは、幣サイト「儲かったで済ませていたこと」;にて振り返っているところです。

 調べてみましたところ、菅原さんのご著書は数多くあるようですので、そのどれかから新しい視点が授かれるものなればと、またまた、宿題を抱えてしまいました。←愚痴っているのではないですよ!

 それから・・・、

 「水平社宣言」にいう「吾等の為の運動が、何等の有難い効果を齎さなかった事実」「そしてこれ等の人間を勦わるかの如き運動は、かえって多くの兄弟を 堕落させたこと」と、「旧土人保護法」とが私には重なって見えてくるように覚えるのです。

 「被差別地区」内にもあると聞き、「アイヌ」にもなびいている人たちも無きにしもと思われる「寝た子を起こすな論」など、同根の思いを抱いています。

 また、教えて下さい。




546. 菅原幸助さんのことで    2004/04/20 (火) 14:32

2004年3月10日の中国残留孤児訴訟の第7回の口頭弁論(東京地裁第103号法廷)で初の証人尋問が行われ、長い間、残留孤児の支援に当たってきた菅原幸助氏が4時間にわたって、国の責任を告発する陳述を行われました。その模様を、ある党員の方の日記に見つけたので。・・・

・・・人間ってなんだろう
感想がまとまらないまま書いています。またよろしくお願いします。




547. 辛い思いでだけど・・・ 2004/04/20 (火) 23:28

 > 水の補給で停止していた列車が、匪賊の襲撃で急遽出発した時に・・・

 私たちはそのような終戦前の状況を「疎開」といっていました。いわば、「内地」の人々が「空襲」を避けて都市を離れていった「集団疎開」といった感覚ですね。非常にあわただしく急かされる中で、一ヶ月も辛抱をすれば直に帰宅が叶うような思いでした。それほど「関東軍」を信頼し、早期の「反撃」を信じていた、逆に言えば全く「情報」が与えられていなかったと言うことです。ですから、不用意にも僅かな停車時間中に下車するような(例えば幼児の用便とか・・・)行為が見られたわけです。
 8月14日には当時の首都「新京(現長春)」においても「軍官学校(日本の陸軍士官学校にあたる)」を始めとする「決起」が起こっていますから、知らぬは日本人ばかりだったのです。

 想像で語ってはいけないことを承知しながら、私も深夜停車中の真っ暗な車中へソ連兵を先頭に立て押し込んできた現地人に、為す術もなく身を縮めて居る中で「子どもを泣かすな!」という罵声を聞いたことを思い出しながら続けます。

 戦後、一般住民を差し置いて「関東軍」関係の家族が一番先に避難したことが各方面から指摘をされ非難を受け続けていますが、それは必ずしも正鵠を得た見方ではないと考えています。
 当時の日系官吏は、特に私たちが「関東軍官舎」と呼んでいたほど関係者は集団居住をしていました。そしてその家族等にとっては「男の階級」が「地域内の序列」でもありました。(そういった集団を統率するためには軍内での警察権をもつ「憲兵」による指揮が必須だったのであろうと受け止めています。)

 真っ先に運行された疎開列車ですから終戦時には一番遠くまで達していたことは自明のことです。でも、列車の数には限りがあります。一応は安全とする防衛計画線の後方、即ち鴨緑江南岸に達した集団はそこで降ろされました。それらの人々のために「内地」へ移送中の高梁(こうりゃん)も3列車分がそこらに止められたそうです。それからの経緯は藤原てい著「流れる星は生きている」に詳しく記録されています。

 もっと書きたいことはあるのですが、菅原幸助さんのご心情に通じるものが有りすぎますので、ここらまでとさせてください。
 最後に付け加えるとするなれば、たとえ「生命」といえど「多数の安全・保護」のために「少数」は所詮「小の虫」・・・。(ゴメン、字数オーバー)






549. Re.辛い思いでだけど・・・     2004/04/21 (水) 15:51

 お話、聞かせてくださって有り難うございました。本当に。
ワタシは約40年間生きてきて初めて
自分から戦争のことを聞こうとしました。




560.   さんミッケ♪    2004/05/28 (金) 15:46


ここで断ち切らせてしまってはいけないのですね。

被差別という 「課題・条件を共有するものすべて」 がいかに協同し、協調し、調和したかを歴史のなかから取り出す・・・

アイヌ神謡集の企画 始まって約2週間になるのですね。
おやじっちは いつおでかけ予定ですか?





563. いつものことながら・・・ 2004/05/30 (日) 20:22

 元気が出ると「すぐにこれなんだから・・・」と言わないでね。これが私の「学習」なんですから、乞ご容赦。

 > 被差別という 「課題・条件を共有するものすべて」 がいかに協同し、協調し、調和したかを歴史のなかから取り出す・・・

 私はこの文を「『被差別』という課題・条件を共有するものすべて」と読んでしまうのですね。「優勝劣敗」「弱肉強食」を「絶対」の「是」とまではしなくとも、その「社会構造」を意識するしないに関わらず継承をし、ささやかな「幸福感」を味わっている人々の「無関心」を煽ることとなりはしないでしょうか。
 私は少なくとも「『人権』を守るという・・・」と言いたいですし、さらには「『差別を許さぬ』という課題・条件・・・」と強めたいです。
 そのように言うと私の持論「対立の図式」と反するように受け止められるかも知れませぬが、私はまだまだ(私を含めて)「人権」という「概念」をしっかりと身にはつけていないことに気づかず、いわゆる「共同幻想」の中に身を置いているような「疑念」を抱いているのです。

 従って「優勝劣敗」「弱肉強食」という個々の意識が、「被差別」という抗いを「無視」し「蹂躙」をし、「差別」という多数者集団形成に至らしめた「歴史」こそ問うてゆかなければならないと考えているところです。

 ちょっと理屈っぽかったですかな?乞ご判読。



564. いつものことながら Part2 2004/05/30 (日) 20:49

 菅原幸助さんについては、「共通」のというより「共有」できる体験をもつものとしての親近感を抱いてきましたが、解決を図るべき課題としての「人権」意識に若干の相違を感じ始めました。
 その第1は、貝沢 正さんらの活動を「本州の同和対策とアイヌの同化運動が手をつないで前進すべきである」と看ておられるところです。私は貝沢さんのお名前だけは幾度か拝承申していますけれど、未だ浅学にして、お考えを承知いたしてはおりません。しかし「アイヌ」の「人権」を主張なさっておられるお方が、しかも「同和教育」の「共通課題」として問題提起をなされながら「同和対策(教育)」へのご理解はともかくとして「同化運動」を肯定するような訴えをなされるとは考えられないのです。
 ここに菅原さんの「避難行」に対する「被害者意識」のみを観る思いが致します。

 また、「アイヌ」民芸品として一般にもてはやされている「木彫熊」を批判なさる貝沢さんのご主張は判りますが、それを「部落」の伝統工芸になぞらえる見方が貝沢さんのお考えなのかどうか、あるいはそのようなまとめ方をなさった菅原さんのご認識なのか、疑問に思うところがります。

 戦後、二風谷の教育に尽くされた穂坂 徹校長先生のご活動の一端も紹介をされています。あるサイトで戦後における穂坂先生教育実践を窺い、「同和教育」の開拓・先駆者も斯くやと感じ入りましたが、そのようなお方が「アイヌ」の青年たちを先導して渡満なさった意図(『丑松』的?)、そして現地の方々との関係(日本人は白人に対してある種の劣等感を持っていた。その日本人が満州や支那大陸では 中国人に対してある種の優越感を持って彼らを軽蔑していたようです。と、他人事のように述べられたようですが)、など。それらも先生の引き揚げ帰国後の教育実践の中に息づいているのであろうと、思惟し始めています。

 それにしても「元気」と「課題」は「子連れ狼」なのかな?


565. いつものことながら Part3 2004/05/30 (日) 21:00

 さらに、穂坂 徹さんは、
 「アイヌはアメリカのインディアンよりも悪く、黒人問題に近い、深刻な悩みをかかえています。」
 と述べれれていますが、それにはそれなりの経緯があったと理解できます。と言いますのは、明治4年7月、北海道庁はケプロンというアメリカ人を招いて、「合衆国」が没収したインディアンの土地をどのように白人入植者へ分配したか、などの助言を得ているようです。

 下って、昭和15年には「朝鮮総督府」が内務省を通じて「北海道庁」へ「朝鮮人の氏設定に関し参考と致度」「アイヌに氏を設定したる最初の年度及びその経緯事情」の教示を求めています。

 ひるがえって考えてみると、幕末からの近代日本の外地(北海道も終戦までは「大日本帝国憲法」の完全には及ばない外地だった)経営の下敷きとして、「北海道開拓」があったといって良いのでは無かろうかと考えているところです。

 ちょっとした「アレッ」「コレハ」と書き留めたことを、無作為に書きならべてしまいました。「ズレ」を糾していただけると有り難いです。




571. 迂闊でした <(_ _)> 2004/06/03 (木) 23:13

  大部の資料をご紹介下さり、ありがとうございます。

 私の「いつものことながら・・・」に続く「追加」によって、菅原幸助さんのご著書が昭和43年であったことに気づかせていただきました。従って、前述の「いつものことながら・・・」が、時代背景?を抜きにした所感であったことに初めて気づいた次第です。真に迂闊でありました。

 その当時を思い返せば、昭和40年8月に「同和対策審議会答申」が出され、それに基づく「同和対策特別措置法」が公布・施行されたのが、昭和44年7月でした。私が「部落差別」に気づき、「部落問題」を識ろうとし、「同和対策審議会答申」が指摘した「『部落差別』を無くすことは『行政の責任』であり『国民的課題』である」ということを考えるようになるまでには、まだまだ、数年も後のことでした。
 決して己を擁護するつもりはありませんが、私は「部落解放運動」がいわゆる「解同」と「正常化連」に分裂してゆく過程も単に運動の多様化位にしか看ない、というよりもそれを「自然」と観る社会の視点があったような認識も持っております。

 以前にもご紹介したかと憶えるのですが、その当時といっても昭和46年のことですが、「コタンの痕跡」という「旧土人保護法廃止」へ向けた論文集が旭川人権擁護協議会より出ております。この書も敢えて「どちら」かと言えば、「アイヌ」の「同化」は終末に近く「旧法」存続の無意味さを主張しているように私は受け止めます。

 それらに比べるとズーッと新しくなりますが、菅原さんと同じような嘗ての新聞記者が著された「アイヌ民族」と言う書も最近読みました。その書の私なりの読後感、「中正な事実の記述を使命とされてきた新聞記者の著作」が、ご紹介に預かりました「現代のアイヌ −民族移動のロマン−」にも重なって見えて参りました。

 ただ、この元新聞記者のお二人に共通している「社会意識」、「アイヌ」感には次に引用する「偉い」先生方同じ視点があると観ます。

 以下、字数に限りがありますので、別項とさせていただきます。




572. 気がつくままに・・・ 2004/06/03 (木) 23:17

 萱野 茂さん37歳時(註:1978年?)の大学教授との討論をご紹介戴きました。

 > アイヌ文化はいまにして完全に調査しておかないと、
 > 君たちのような若い人たちによってアイヌの文化は消えてしまう。
 > アイヌ文化といっても、これは日本の古い文化の一部だ。
 > 私はアイヌを他民族だとは考えていない。
 > 大和民族のつまり北方文化を調べているのだ。

 この言葉と、金田一京助さんの知里幸恵さんへの語り(註:1918年)が重なって聞こえてきます。
 幸恵さんは尋ねます。「私たちのユーカラにそれほどの値打ちが有るものでしょうか」と。
 金田一さんは答えて言いました。

  「私は、全財産をこれに(註:ユーカラ研究)傾けても、全生涯、
  これに没入しても、惜しいとは思わないんだ。ただし、あなたがた  は、違いますよ。あなたがたは、古い事などには、構い無しに、
  どんどん新しい事を勉強して、後ろ指さされない立派な日本人に
  なって下さい。
   私は、諸君の後から、落ち穂を拾うつもりで、
  これを拾ってゆく。」
 と。

 このように説き聴かされたお二人のその後はみなさまもご承知の通りです。

 でも、研究者の先生がみなさんこのようなお方ばかりでは無かったことも遺されていす。泉 靖一さんの逸話です。調査のために訪れた先で「罵倒」されます。

  「おめえたちは、カラフト・アイヌがどんな苦労をしているか、
  どんな貧乏をしているか、しるめえ。それにのこのこ、
  こんな所まで出かけてきて、おれたちの恥をさらす気か!。
  それとも、おれたちをだしにして金をもうけるきか!。
  博士さまになるきか!。」
 と。
 これ以来、泉さんは「学問」と「ヒューマニズム」の狭間で「フィールドワーク」から退かれてしまわれたそうです。

 「差別」「被差別」「反差別」など、「部落問題」に限らず、いろいろな「人間模様」を識ることができました。



575. 粗い文章で済みません。 2004/06/03 (木) 23:47

 「コタンの青少年を本州の大工場へ」との運動を取り組まれた(いつの頃?)酒折久男さん(三五歳)らのご紹介もありました。

  「『森と湖の祭り』(武田泰淳著)を読んだことがありますか。
   あの小説の中の一節でアイヌ学者が女画家に言う言葉があるんです。
   『アイヌは悲惨な過去をすっかり忘れ、日本の労働者、
   農民としてしっかり生活を築いてゆく。
   その前進に融け込むなら、いまさらアイヌだ、ウタリだとか、
   セクトにかたよらずに未来の幸福を切り開く路へ
   進軍した方がいい』
  とあります。あそこが好きで、何回も読みました。
  ボクの考えていることをそのままに表現しているのです・・・」

 若い木彫師たちのいきざまもご紹介をいただきました。
  「ボクたちはアイヌから逃げ出し 日本人として生きるために
  努力してきたがアイヌを逃げ出すことができないことを悟った。
  それならアイヌを看板にして生きてみよう。
  それも滅亡していく哀れなアイヌでなく、アイヌ芸術を身につけた
  優れたアイヌとして生きていこうと考えたのです。」

  「将来、いや現代の社会にはアイヌ民族は存在しないことに
  なっている。ボクは実在しないアイヌ民族を彫刻の中に求めて
  いこうと思うのです。(以下略)」

 また、菅原さんは別の面からも「同化されてしまうアイヌ」の苦悩を述べておられます。

   ・・・このひとたちはアイヌの団体にも近寄らず
  ウタリの人たちが訪ねていっても冷たく、素知らぬ顔をする。
  それでいてやはり「アイヌである」という宿命からは抜け切れず、
  ひそかにアイヌ厚生事業に資金を贈ったり、ウタリの動向には
  非常に気を配る。
   そうしたアイヌの成功者たちは人知れず陰で苦悩を抱えた生活
  を送っているのである。
  「アイヌを意識して前進するのがいいのか、
   アイヌを忘れて進むのがいいのか。
   成功者たちもやはり悩みはあるのです」
 と。

 私は、ここに「大東亜の盟主」として大陸に渡った日本人の「尊大さ」をみる思いが致します。菅原さんには避難列車の予期せぬ急発進に取り残された「仲間」への想いを、「生活」を奪われ、「人権」をないがしろにされ続けている他者にも広く及ぼして欲しいと願うのです。

 私自身の30数年を顧み、重ね合わせながらの思考、そのあら筋を略記させていただきました。



2007年06月01日(金) 一九六五年六月一日における三井山野炭鉱ガス爆発大惨事

*ニッチツに二審も賠償命令−秩父じん肺訴訟(2001-10-26)
「・・・係争中の北海道石炭じん肺訴訟や三井三池訴訟にも影響を与えるだろう・・・」



六月一日
書籍名 写真万葉録筑豊7
副題 六月一日
著者 (監修)上野英信・趙根在
出版社 葦書房
ジャンル 写真集
発行日 1985.10.5


 批評家で作家の大西巨人氏が、『穴掘りモグラ』(朝日ジャーナル誌一九八六年二月十四十日号、『巨人の未来風考察』朝日新聞社一九八七年三月三十日刊所収)で一九六五年六月一日における三井山野炭鉱ガス爆発大惨事(死者二百三十七人)のことについて触れておられます。

 「穴掘りモグラ」は氏の長編小説『神聖喜劇』の中で、大前田軍曹が鉢田新兵(古河上山田炭鉱坑内夫)に対してあざけりの言葉として使用したものです。それに対し、鉢田新兵が「川筋(遠賀川流域一帯、筑豊炭田)じゃ人殺しはあんまりめずらしゅうもありまっせん。それも人が人を殺すだけじゃのうして、ガス爆発やら出水やら落磐やらなんやらかんやらが、年がら年中バサラカ(おびただしく)人を殺しとります。」とあえて断言する、という場面が出てきます。

 さて、その三井山野炭鉱ガス爆発事件の二年前、一九六三年一月十八日に、福岡県三井三池炭鉱有明坑がガス爆発を起こして八十三名の死者が、前年一九六四年四月二十四日には長崎県の三菱高島炭鉱のガス爆発によって十一名の死者が、続いて五月十七日には北海道の三菱南大夕張炭鉱がガス爆発を起こして死者を六十二名を出すなど、無残な大災害が繰り返されました。



*三井系2社に賠償命令/患者103人に15億円 時効起算点は死亡時認定 三池じん肺で福岡地裁(2001-12-19)

*三井三池炭鉱じん肺訴訟第一審判決 (福岡地裁2003年12月18日判決) 


平成16年4月27日最高裁判所第三小法廷判決・平成13年(受)1760号 判例時報1860号34頁(民集58巻4号登載予定)

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-6/matumoto.htmより

現在の判例の到達点を示すのが、長崎じん肺訴訟最高裁判決である(最判一九九四・二・二二民集四八・二・四四一(11))。
・・・この判決の意義は二つある。ひとつは、退職時説を否定した点である。すなわち、従来の下級審の判決の中には、前述の「債務の同一性の法理」を根拠に、本来の安全配慮義務の履行を請求しうる時、すなわち遅くとも退職時が、安全配慮義務違反を理由とした債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点だとする見解を示すものがあった(13)。しかし、退職時説によれば、退職後、一〇年以上を経てじん肺症が顕在化した場合には、その時点で初めて損害賠償請求権が成立したはずなのに、その賠償請求権が既に時効消滅しているという背理が生ずる。最高裁判決がこのような退職時説を明確に否定したことの意義は大きい。・・・


*原告81人 国と和解 西日本じん肺訴訟(2007/01/23付 西日本新聞朝刊)



 一方で、福岡地裁での「訴訟継続派」に対し行われた三池CO訴訟判決に続いて開延した「家族訴訟」の法廷では、湯地紘一郎裁判長は、三井の過失を認めたものの、「妻の損害」を認めない判決を言い渡しています。

「第三者の不法行為によって身体を侵害された者の配偶者の慰謝料請求は、生命を侵害された場合またはこれに劣らない程度の精神上の苦痛を受けた時に限り認められる。被災原告らの受けた侵害は右の程度に至っているとは言えないから、妻としての慰謝料請求は認められない。」 



*CO裁判のに立ち上がった患者と家族たち
『被告最高裁』(庭山英雄編、共著、技術と人間) 「三井鉱山の罪業---妻たちの叫び」(沢田猛)より(1993年)

松尾薫虹(まつおけいこう)さん

「発作が起こるとですね、うちが主人に馬乗りになって押さえつけておいて、子どもに押入れから布団ば引きずってくるようにいって、二人の子どもと一緒になって、布団ば主人の上にすっぽるかぶせ、“痛い、痛い”といって転げ回る主人から、布団がはがれんように、うちがまた布団の上から馬乗りになって暴れる主人を押さえ込むとです。・・・これが五年半ぐらいは続きました。・・・遺族の人たちにしても、最初は、ほんと寝た切りでも生きててくれさえすれば、・・・もういまは、それがなくなったですねえ・・・」

「三井はこの場で謝罪してください」

「底辺で働く人間に生きていてよかったと思えるような判決を出してください」

「妻の慰謝料が認められず残念の一語に尽きます。炭鉱という職場は特殊な場で、家族の協力なしに労働できない。」

「二〇年闘ってあんな判決ではひどかです。泣き寝入りばしたくなかとですたい。これで原点に立ち返った感じがするとです」

「千葉県に嫁いだ二人の娘は千葉に来るよういうとですたい。しかし私は大牟田生まれの大牟田育ち。ひどか裁判のケリがつくまでは大牟田を去りたくなかです」

「後ろをふりむかんで、前を向いて行くっとです」




*戦後最大の労災 三川鉱爆発 死体搬出後に炭塵落し…会社は人命を軽視 炭鉱事故 現場の証言 作業員の日記 史料集に収録(2007年1月17日掲載)

*三川鉱炭じん爆発事故 初公開文書も収録 「史料集成2期」完成 市立図書館に寄贈 大牟田市
(2007/02/03付 西日本新聞朝刊)

*26人全員を救済 徳島じん肺訴訟、国の責任四たび認定
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=3&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_117506503993&v=&vm=1



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