一平さんの隠し味
尼崎の「グリル一平」のマスターが、カウンター越しに語ります。
目 次|過 去|未 来
その19
クリスマスも近づいたある日・・・ 街中は夜中の1時でも、紙で作った三角帽子をかぶった酔っ払った人達でいっぱいでした。
麻雀屋の足長さんから電話で、出前の器を下げにきてほしいと・・・ 急いで近道の商店街を抜け店に行くと・・・まだお客がいて一人で忙しくしてた・・・
「まいど!一平でーす、皿さげに来ましたー」・・・(何故かオルテガ、がいた!)
足長さんが麻雀台を掃除しながら・・・「温かいコーヒーでも飲んでいき!」・・・ 足長さんのコーヒーは最高に美味しい、こだわりのコーヒーでした。
オルテガ、が私に・・・「正月は田舎に帰るんか?」・・・(いやな予感がした)
「いえ!あのー元旦だけは休ませてもらいます、二日からは普通営業です!」・・・
ほかの車椅子の人たちが・・・「若いうちは苦労せなアカン!頑張りや!」・・・(あ、はい)
すると、オルテガ、が・・・ 「うちの若いもんは、みんな田舎へ帰らした!」・・・(オルテガさんて、ええ人やん!) 「親の気持ちを考えると・・・帰してあげんとな・・・」・・・(ええ人やったんや!)
「ぼく?正月はどっか行くんか」・・・・(ほら!やっぱり、こっちにきた!)
「昼から映画に先輩たちと行きますけど」・・・(オルテガさんが手を止めて、こっちを見てる)
「じゃ!映画が終わったら帰りに事務所に来てや!」・・・「わかったな!」・・・ (ええ!なんで正月そうそう事務所に行かなあかんねん!) 足長さんにコーヒーのお礼を言って表に出たら、夜中の2時!風邪が冷たい! 自転車に乗ろうとスタンドを上げながら、なんとなくパーマ屋さんの方を見たら・・・
見習いのあの子が泣きながら立っていた・・・。 店からほり出されたのか、手に大きなバッグを持って立っていた・・・
「どうしたの・・・」・・・彼女の、ひび割れた手が痛々しかった。
「もう・・・もう・・・丹後に帰りたい!」
次は・・・また・・・近いうちに
その18
高度成長まっただなかの尼崎、今、振り返るに、尼崎らしい尼崎だったような気がします
阪神工業地帯で働く労働者たちは、全国の地方から集まった人たちで溢れ、朝、早くから夜遅くまで、働いて働いて・・・それでも仕事が次から次と、これでもか、これでもかと・・その労働者たちを癒す夜の水商売の人たちも地方から出てきた人で溢れてた・・・
その水商売の人たちの店が開くまでに毎日のように行くのが、パーマ屋さんで、どこの店でも繁盛してましたね、ほとんどのパーマ屋さんは見習いさん不足で、田舎の方へ人手、探しによく行ってましたね、
その子の田舎も丹後の山奥から出て来たと、言ってました・・・二年過ぎ、三年経っても頭を触らしてもらえず、ただ髪を洗うだけの毎日だったようです、洗い方が気に入らないと怒られ、「田舎に帰すよ!」って、怒鳴られてましたね・・・
いつものように朝、お皿をさげに、その店に行くと、小さな缶のメンソレータムを・・
「良かったら使って下さい!ひび割れにいいですよ」・・・・(僕より君やろ!)
「あ、ありがとう!」・・でも君の手も・・・痛いはずなのに・・・
目が疲れてきました、また次の日に・・
その17
公害の街、日本一になったのも,ちょうどこのころで、今はなき阪神工業地帯の全盛期でした、
どこの小学校でも、スモッグ警報というのがあって、それが鳴りだすと、いっせいに、うがいをしてマスクをするんです、子ども達は、ほとんどの子が気管支炎になってましたね、それでも、毎日エントツからは 真っ黒い煙が分厚く空を覆って、昼間でもどんよりとした明るさでした・今の尼崎では想像つきませんね
海と山に囲まれて育った私には、慣れるまで毎日が大変でしたね・・・一年ほどで10キロ痩せてました
見習いさんは毎日、朝7:30頃には入り口の大きな一枚ガラスを丁寧に拭いた、 昨夜の出前の器を下げるのに、いつもその店の前を通ると、白いエプロンして、一生懸命に拭いていた
「おはよー寒いねー」・・・・・・・(いつの間にか、朝の楽しみになってるがな)
一枚ガラスを拭きながら、頭だけ後に向けて、 「おはようございます!皿下げ、大変ですね!」・・(その返事がいまでも頭のどっかにかに残ってます)
とっても印象に残ってるのが見習いさんの(手)で・・・ 毎日、水を扱ってるせいか霜焼けがひどくて、手の甲が幾つも割れてて、そこに、シャンプーの液が 馴染むので、いつも赤くはれ上がってた・・・当時は見習いの給料はなく、小遣いを少々だったとか、
つづき・・・・・です
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