21世紀猫の手日記
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| 2025年12月31日(水) |
かなり心の整理はついた。 |
そ、そう、某老人施設も、消滅していました。よかったー。そこは、もうなんか末期というか。
なんか、妊婦の人が来ていて本人が腹が張って苦しいと椅子の背なかにしがみついているような状態で、患者さんを見ている感じのところでした。休むところはないのかい?と聞くと、ご利用者様が使うから、彼女をベッドに寝せることができない、といわれて、超ーーーーー超超超もやっとした職場です。
いやもう、利用者だろうが、ババアなんざ寝かせなくていい、もう、死ぬんだから(苦笑)ここは地獄の黙示録か、南ベトナム兵の地下基地かと瞑目してしまったのだ。なんつーか、そういう苦しんでいる人がいる状況で、それをみんな見て見ぬふりをして働くんですよ。おかしい。
なんかさ、30過ぎてたってさ、椅子の背なか抱いて両脚広げてる状態でカウンターの中いるって、つらくねぇか?なんか、異常な感じがして嫌でした。彼女が貧乏で出勤しなくてはいけなかったのか、日にちが決まっていたのかはしらんけど、虐待に手を貸しているみたいでいやだった。もうなんか、その人にはそれ以上話しかけられない雰囲気があった……(冷や汗)
そういうくうきも、やめたいなの原因の一つでした。でもそれを、そのとき、父や叔母(父の妹)に言っても多分、理解してもらえなかったろうと思います。弱いとか、理由をつけてやめたがるとか非難されたんじゃないかなーと思う。だから、こっそりなんとかしようとおもいましたね。
入浴介助も最初から最後まで洗う人が一定しない途中で変わる謎システムも、あれ、人手が足りないが故に無理やり回すために余計手をかけて行うやり方だったらしい。なるほどな。事故ギリギリでしたな。
なくなっていてほっとしました。
| 2025年12月20日(土) |
うーん……総合すると……家族について(苦笑) |
おそらく両親は、母が本音を言ったら、父が激怒して離婚とか、実はすでに崩壊する感じだったんだと思う。
それで、もう、なんか、両親とも距離をおいて、感情的な交流はあまりなく、私を育てたのだと思う。だから、私が、幼児のころから当たり前に、血のつながりがあれば、感情的な理解や共感があるだろうと、家族として普通に接しようとすると、非常に空回りをする関係であったと……(苦笑)
自分だけ本気で、家族をやろうとしていたんです。でも、両親ができることは、コントロールや、管理することなんです。それは、情緒的な理解がなくてもできますから、……、いやー残念でしたねーー。
それは、何をやっても、報われないというか、月曜から夜更かし的な表現で「彼らはそんな次元ではいきていない」だったようです。みるな、しゃべるな、考えるなのルール……、ありましたね。本当のことを言ったら消滅する関係だったんです。だから、彼らはわたしが聞いてくれと重要なことをいうとぽかんとしたり、背を向けたりと謎行動をするんです。なぜか理解ができない、理解したら、自分たちの世界が終ってしまうからです。
私は彼らにとって、外の世界からの圧力にもなっていたのです。君たちはおかしいぞ、と。それはもう、理解を拒む存在です。
私はさんざん母親の悪口を書いていますが、基本は、父親が経済的に母親を支配して、大した金もわたさずに、家事をやらせて、自立を阻んだのも原因です。
私はかなり共産党の悪口もいっていますが、母親が党を手伝って、お金をもらったのはいいことだと思いました。長期にわたって、もやっとしていたことが解消しつつあります。なんかこれで、すっきり生きられるんじゃないかな。そんな気がします。でも、困っていた時代が長い、長すぎる。
若いころにカウンセリングをうけたとしても、どれくらい受け入れられたかもわからないけれど、自分と親との関係は、すごく見えにくい管理や心理的な束縛の多い、機能不全家族だったとおもう。しかも、善意のようにみせかけているけれど、結果的にコントロールしないと彼らが不安だったんだろうなと。
でも、自分はかなり一生懸命生きていて、犯罪も犯してないし、それほど、意地悪したりとか、悪いことはしてないので、コントロールしたいのは、親の心の問題だと思います。自分の想定している型からはずれると、不安なんでしょうね。
そうですなぁ。よく、父親から言われたパターンは、自分は他のことをやりたいとおもっている。父から出される選択肢Aが数学のテストで80点以上取るようがんばる、Bが物理で80点以上取る、どちらかをできるように計画を立てるように迫られるわけです。でも自分は国語で80点以上だと思うからCなんですね。cならできるというと、それはダメだといわれる。
AかBどちらかを選べと迫られる。どちらも嫌ですよ。しょうがないからすごく悩む、で時間をかけちゃうと「考えているふりをするな」っていわれてしまう。このパターンがすごく嫌でしたね。逃げ場がない。今思うと脅迫ですね。で嫌々ながらAを選びます。
じゃぁAを選ぶためにどうしたらいいか、時間の使い方を考えろ、と言われます。家に早く帰って来て勉強する。と嫌々言わされます。7時からのテレビを見ないでがんばります。さらに自分で自分の行きにくい環境を選択させるんですね。それを積み重ねると、無理やり言わされているので、頭が働かなくなるんです。
もう、点数が自分の未来とも何ともむすびつかないんですね。ただただ、自分の娘がいい点を取る。それだけです。大人になって自分で資格の勉強をするときに、高校の数学って電気数学だったんだとかきがつきました。
こういう勉強すると、こういう仕事に就けるとか、未来何になりたいとか、子供のうちに全く話し合いのないまま、だととーたるで人生大損よとわかりました。向こうが親子関係と信じてやまなかったものが、実際は厳しい管理でした。そして、なぜかなにをいわれても、ひたすら私が一方的に悪いことになり、彼らの言葉で大体私が傷つくことになった。
これはなかなかの虐待だったんだろうと思います。気持ちや共感がないのは、血がつながっていても、親子関係というにはむずかしい。残念だったなと思う。まだ、祖母のほうが、人間的に情があった。
| 2025年12月13日(土) |
何となく俯瞰できるようになる。 |
また、3週間ほど色々考えていた。なんであんなに両親は、私をコントロールしたがったのか?そして母はなんであんなに怒ってばかりいたのか?父もなぜ共感することがなかったのか?思ったことを総合すると、基本彼らはそんなこと全然大事じゃなかったwwwという結論になりました。
そうなんですよ、いろいろと話し合った結果、まず、昭和ではあったけど、ZAZA家本来の姿は、侍で明治憲法の世界であった。残念ながら、わざわざ東京まで学生運動をやりに行った母の嫁ぐにふさわしい家ではなかった。
教員同士ではあったけれど、思想的に究極に折り合いません。なにしろ爺さんの家を壊したら、刀がいっぱい出てきて、捨てるのに漁船をチャーターwしたってもう、基準がおかしいです。つまり、秘密が多い家だったんです。明治憲法で封建主義、そして産んだ子は女子。……、女の子は家を継がず、嫁に出すものです。立場悪いんですね。
で、爺さんは私に会ったら、割と……刀の持ち方(忘れた)、どうしても間違ってると思ったら戦ってもいいんだぞ、人を切るときは自分も腹を切る覚悟をしろなどと微妙に侍の価値観を教えていたんですね。母にそれを話すと、すんごく嫌な顔をしていました。でも、その、自分の個より大きなものがある、大事なものがあるという価値観があったために、私はあの家で生き残れたのだと思います。
で、父は、じーさんのことをバカにしていたんですね。なにが天皇陛下バンザイだと、……戦後の食糧難や貧困とか、そこそこ体験しているので、そんなもんです。で、パソコンやバイク2台買うけれど、家族全体のことを考えてたわけではないんですね。夫婦で笑いながら話すとか、温かい雰囲気とか一切ないですから。今の時代なら、お互いスマホみてるだけみたいな感じです。実際は本を読んでいましたが。
家の中での私というのは、子供ではあるけれど、感情的な共感や理解がほぼない状態でした。これは寂しかったし、小学校高学年から家を出るまでは、ほぼ母親に病的に怒られまくりだし、父にもびんたされていました。ま、これは、しつけでしょうがないのかもしれないけれど、教員としてはいかがなものか。
で、父と会話はなく、怒るだけなので同居していたのにもかかわらず、中学になるまで名前を知らなかった。(爆笑)基本、父は着るものやお風呂屋ご飯を母に作ってもらったりしていたけれど、自分さえよければそれ以上は気持ちを理解しようという気はそもそもない人だったのではないか?
娘の態度や見かけが悪くて自分の評判が落ちないよう、コントロールするのが大事だったんです。残念ながら、思い出すと、クラブ活動もどれをやるか決められてるんですね。これとこれとこれは絶対ダメって、そこの先生と仲悪いからw。
で、母は結局一番大事なのは、家庭にいつつ政治活動に全力投球だったんです。娘の気持ちより世界平和が大事だったんです。妖精さんがいるかもしれないとかw、子供の気持ちには添えない。ままごと、バービーとか、女性を限定(家事するとか、おしゃれとか外見重要なことなど)するような遊びはNGで、子供相手でもガチでねじ伏せにくるので、もう私がつらい。かわいいという価値観は全否定なので、ほぼ言われていないです。だいたい髪は短くといわれ、三つ編みをやったこともない。
厄介なことに二人の共通点は、私のことを粗末にはあつかわないけど、理解しようとしない。ひたすら、異常にコントロールをして、私が自分の価値観を持つということが嫌だったようです。命令はあるけれど、話し合いは成立しない。で、子供の気持ちを理解する、それは彼らには無理だったと思います。そういうチャンネルがそもそもなかった。
漫研に入って、イラストや漫画を描いたのが唯一の自由だった時期もありました。そのときの会の方々には私はずーっと感謝しています。うまいことかたちにはできないのですが、私はそこがなかったら、そして、高校の時に一人暮らしをするチャンスがなかったら、自傷か自殺か家出か精神疾患か、確実におおごとレベルのことをやらかしていたと思います。
前半は親に理解してもらおうとか、努力をしたけど、やはり、無理。後半は仕事に口出しをされないように、親に内容がわかりにくい仕事や資格をとるなどと、頑張ってみたけど他人を変えるというのは難しいと思いました。感情の理解とか、共感に重きを置かない人達だったんですよ。2人とも。それじゃなければ、大げんかして離婚していると思います。父の金の使い方は、自分が優先でしたから。
構造的にどうあがいても、感性とか、感情が豊かな人が傷つく環境だったと思います。ある意味、虐待ですね。でも、両親にはおそらくそういう意識はない。大事だと思っている。でも、自由意志はほぼ認めないと。……これは、自分、すごく大変な環境だったと思います。もう、あれですよ、生きてるだけで偉いというやつです。
もっといろんなえぴそーどはあるんですけれど、おおまかにそういう感じだったのでは?と思います。先祖もほかの人のプライベートにかかわるようなことをしていたので、やっぱり、よその家より、もともと口に出してはいけないこととかが、多かったんだと思います。
よく考えると、両親の関係も結構特殊な部類だったのでは?とおもいます。家族団らんがほぼないというか…いとこ一家が笑いながら自由に話をするのを見て、自分にはないんだと号泣したくらいですから。
両親は年を取ってから仲良しになって、母も笑うようになりましたが。
| 2025年12月01日(月) |
母親が麻痺ってからの苦しいエピをひとつ。 |
なんか脳がやられて倒れた母は、特養に入った。お見舞いに行くと私とわかるのか笑ってくれた。
しかし、しかしですよ。失語症が入ってうまくしゃべれない母が言った言葉が「総選挙」………。
めちゃくちゃ複雑でしたね。おそらく半側空間無視とか、半身まひとか脳はかなりやられてるんだけど、笑ってくれるのはうれしいけれど、基本的に親子ってつながりは忘れていないんだろうなと思った。ちょっと原始的な意味合いで。
でも、その状態で「総選挙」は、なかなか言わん。友達に言ったら苦笑していた。つまり、心の中で一番大事と考えていたのは、政治活動であって、私との情緒的な共感とかそういうものではなかったんだろうなと思いました。
東京での安保闘争にわざわざ夜汽車に乗って参加したらしいですから、多分、ジャンルが闘士なんですよ。本当はそういう人が、自動車免許ももっていて、もしかすると父より賢かったかもしれない人が、女というだけで結婚して、家事をして、子育てをしなければならない世の中を変えたかったのかもしれません。
そういう、世の中を変えるとか政治活動をする、それが人生の目的でいちばん正しいことだとお母さんが考えていたら、(田嶋洋子みたいなこともかなりいっていましたからね)それは、私との感情の共感なんてゴミみたいなもので、眼中にないですね。そんな幼稚なこと、必要ないですもん。彼女自身が好きな活動ができる環境を整えたら、そりゃあ党活動一直線ですよ。
世界平和に比べたら、娘の調子悪いとか、部屋が一階でやばいだろとか、人の気持ちなんて考えられないよなぁと納得してる。あえてスキンシップをとらなかったとか、興味ないとか……、もはや母がなんか子供を産まないと責められないための、言い訳みたいな人柱みたいな存在だったのかもしれません。
共感するとか話を聞くとか、一緒に子供の未来を話し合うとか、ないw。もうそれは、そういう人たちに、そういう態度を変えてもらえるかもとか……子供は期待を抱いたり無理したり努力したりするけれど、うちはちょっと最初から無理だったのかもなとおもいました。
戦後の食糧難を味わった人たちから見たら、衣食住がちゃんとしていれば、感情的なつながりが薄くても、子供が大事にされているとか、安心できる環境だと感じなくても、虐待にはならないんですよ、きっと。
そう考えると、幼稚園児のころから「なんかさびしいな」って思っていたけど、うん、そういうことなんです。小学生でみたハーロゥのおっぱいでないけど、毛布が巻き付けてある人形にだきつく子ザルの写真見て、自分はこれだ、と思ってた。ミルクが出るはりがね人形より、ふかふかしてあんしんできるところにしがみつきたいのがわかるw。うちは針金のような家庭だったんです。残念ながら。
zaza9013
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