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いくらなんでも好きすぎる
8390831(やさぐれおやさい)
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2025年08月28日(木)
映画『赤い糸 輪廻のひみつ』がいくらなんでも好き過ぎる日記

いつの頃からか言われ出した「推しは推せる時に推せ」という言葉がどんどん苦手になってきた。

好きなものや人がいつまでもあるわけではないから後悔しないように好きなものをめいっぱい好きでいようっていうポジティブな好きの肯定の言葉だったのに、なんだか脅しかのように強くなり、時折作り手側がこの言葉を使っていたりするのにはそれは違うだろうと思わざるを得ない。

なくなるかもしれないという焦りや強迫観念から好きでいるわけではない。
来るかもしれないXデーに備えてファンでいるわけではない。

ただ、それでもやっぱり推しを推せる幸せというのがあるのだと今実感している。

それは私が今いちばん推している映画『赤い糸 輪廻のひみつ』が権利上の問題で配信もない販売もない、その上今年の11月をもって上映権が切れるため劇場でも観られなくなるからです。

己の無知ゆえにこの“上映権”というのを今回初めて知りました。
映画に関する権利というと映画館で必ず見させられる映画泥棒でも触れられている“著作権”くらいしか意識したことがなかった。

良い作品があれば配給会社が買い付け、それが映画館でかかり、今の時代なら配信されて、人気があれば円盤化され、公開何周年とかでリバイバル上映もされ…そういうものだと思っていた。
音楽や漫画、小説以上に映画って特に何年経っても愛される作品というのも多い。あとから見て好きになる。そういうことも多い。

当たり前ですが、配信も販売もなく上映もされなくなるということはそれが叶わないということです。
11月までに見られなかった人にはもう届かない。

ジャンルレスごちゃ混ぜ感もありつつ真っ直ぐなラブストーリーでもある本作はどう考えても色んな人にぶっ刺さる可能性がある素晴らしい作品です。

ただそれが届かない。
それが悲しくて悔しくて仕方ない。
私がすごく影響力を持ったインフルエンサーならよかったのに。

もしもこの作品が配信されてたら絶対にいるはずの「めちゃくちゃ面白かった!!何で当時映画館で見なかったんだろう!?大きいスクリーンで見たかったなあ」という人を映画館へ行かせるだけの影響力があればよかった。

自分にとって今年ベストを超えてオールタイムベスト級の『赤い糸 輪廻のひみつ』がもう観られない、それ以上に11月末までに見れなかったひとにはもう届かないということがとにかく悲しくて仕方ない。

こんなことを私が書いたところで何の影響力も意味もないことは分かっているけれど、それでも書かずにはいられないし、もう観れなくなったとしても私は大好きな作品です。






2020年09月02日(水)
休みだから映画館に行く。

数日前から家出た前の通路にGがいる。
死骸だ。

また帰ってきて嫌な気持ちになるのが嫌すぎる。
ティッシュで取って処分した。
それも嫌だったけど帰ってきてまたその姿を見ることを考えたらやって良かった。

外で朝ごはん食べようと思ってたら時間があまりなくなってしまったし、あまりお腹もすいてなかった。
マックでヨーグルトシェイクを買う。
ちょっと溶けてるような感じがして美味しさ半減してる。
残念。
月見パイと月見マフィン食べたいけどまた今度。
とか言ってたら期限終わりそう。
早めに。

映画を見る。
面白いと話題になっていた、ブックスマート。
苦手だなと感じるとこもあり、絶賛は出来ない。
だけど最後のあの感じはめちゃくちゃ好きだし、泣いちゃう。
主役2人の、2人だけが付き合い続ける中で築いてきたあの空気感。
すごく憧れる。
その一方ですごくデリケートな事まで話してしまう、しつこく聞こうとする、ネタにする、あの感じはちょっと苦手に思えて嫌悪。

脇のキャラクターがそれぞれ良かった。

シネ・リーブル梅田があるスカイビル、地下道を通るとすぐに着くということはわかっているのに駅からその地下道への行き方にいつも迷ってる気がする。

JR大阪駅前にもその地下道にもビッグイシューの売り子さんがいた。
地下道は雨も日差しからも身を守れるから良い場所かもしれない。
こういう場所取りってどうやってるのだろう?
ビッグイシューはずっと買ってみたいと思いつつも勇気が出なかった。
コロナがきっかけで通販も始まり、利用して購入してる。
次は売り子さんから買ってみたい。

映画を見終わって窓から外を見たら雨…?
洗濯物干してきたのに!
あんなに晴れてたのに!
天気は簡単に裏切る。




2019年06月09日(日)
また逢う日まで。

ゆずのライブを純粋な気持ちで楽しむことが出来なくなっている。
演出に乗り切れない自分がいることを改めて認識した。

それが前回のアリーナツアーでのこと。
それを経てのドームライブ。
単純にチケットが高いということもあったけれど、そんな気持ちから参加は一度だけにしようと思った。
そんな気持ちがあっても、それでもゆずの唄が好きだから一度だけは参加しようと思った。


諸事情から30分遅れで到着。
飛べない鳥が聞こえてくる。
厚ちゃんの美声を聞きながら走る。
途中係員さんに聞きながら入り口へ向かい、案内してもらう。
スタンド席。
でも見やすくて悪くない場所。

しかし…隣の席の人たちがずっとずっとタンバリン片手にしてて。
あぁ…私はもう無理かもしれないなぁと。
あのグッズのタンバリンのシャンシャンシャンシャンした音が耳障りで仕方ない。

スマホでの撮影OKも、禁止されてるフラッシュや動画撮影する人。
それ以前にライブを見ながら撮影するタイミングを見計らう自分すら鬱陶しく。

ライブでのスマホ写真撮影禁止することについて、今時ナンセンスだとかいう意見もあるだろうけど、私は逆だと思う。
こんな、情報の溢れてる時代だからこそ、限られた人たち限られた空間、その場所でしか、その場所だけで見られる風景、そこに行かなければ見えないもの、触れられないもの、その瞬間だけはそれだけに、なんにも邪魔されずにただただそれと向き合える時間と場所。

私がライブに求めるものはそれなんだ。

それってめちゃくちゃ贅沢なことじゃん?

私はそれを味わいたくてライブに行っているのだ。


ゆずの唄は好きだよ。
ゆずのことは大好きだよ。

でも好きでいるために、今のゆずライブからは離れたほうが良いのかもしれない。

あと、さすがに今回すごく萎えたのが歌わなすぎ&歌わせすぎな点かなぁ。
ライブで会場中が合唱してそれが美しい瞬間ってのもあるけど、何であんなに歌わないのかなとか。
ゆずの歌が聞きたくて行ってるのに、隣の客の歌声とか自分が歌うとかじゃないんだよ。目的は。


今回ライブ会場に遅れたのは電車で向かおうとしたら電車が人身事故のため運休になってしまったからだった。
その事故の詳細は分からないけど、私自身今辛くてしんどくて、一歩間違えればそれは私だったのかもしれないなんて思ったりもする。
それでもそっちに落ちずになんとか重たい気持ちと身体を引きずりながらでも歩いていけるのは、死にたいとどれだけ思ってもやっぱり死ぬのは怖いという当たり前すぎる感情によるストッパーとゆずやいろんなエンターテインメントによる心の糧があるからだ。
 
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
また会おう。