二十四節気の「小満」すべての命が満ち満ちていく頃。
いかにも初夏らしい節気ではないだろうか。
雨の一日となり今も降り続いているがその雨さえも生き生きとしている。
かなりの雨量となり田んぼの水不足は完全に解消されたが
今度は植えたばかりの稲が水没しているのだそうだ。
水の管理は難しくそのまま様子を見るしかないようである。
雨が降らなければ困る。雨が降り過ぎても困るのだった。
稲の成長は早くあと三ヶ月もすればもう稲刈りである。
台風の心配もあり無事に収穫に辿り着くよう願うばかりであった。

午前中に例の大型車のお客さんが来店し義父と今後の策を練る。
やはりエンジン交換しかないようだがお客さんは悩んでいた。
いっそ諦めて中古のダンプを購入しようかとも云う。
そうなればこれまで費やした労賃は水の泡であった。
会社も大損となり取り返しがつかなくなるだろう。
義父はそれを一番に危惧しており必死で修理を勧めていた。
お客さんは70歳を過ぎており一存では決められないとのこと。
後継者の息子さんと相談してからどちらかに決めることになった。
長いこと商売をしていると大きな壁は付き物である。
どうか順調に決着が付くことをひたすら祈るしかない。
事務仕事は決算に向けて少しずつ準備をしているが
4月分の帳尻が合わなかった原因が分かり始めて来た。
車検費用の預り金の記帳ミスのようである。
4月分だけなので直ぐに判明するはずなのだが思うようにいかない。
しばらくは頭を悩ますことになりそうだった。
36年前には経理の「け」の字も知らなかった私である。
そんな私に一から教えてくれたのは母であった。
その当時は今のようにパソコンはなく全て手書きだったのだ。
我ながらよく努力したと思う。それも母あってのことである。
仕事は基本好きであり天職のようにも思っている。
事務畑に種を蒔き今まで育てて来たのだろう。
しかし花畑とは限らない。雑草だってはびこっている。
その雑草を抜くこともせずに費やした歳月であった。
10年後、職を失った私はいったいどうすれば良いのだろう。
最近よくそう考えるようになった。
のっぺらぼうではないが目も口もあるのだろうか。
もしかしたら頭も無くなってしまっているかもしれない。
わずか10年後の未来にもう途方に暮れようとしている。
※以下今朝の詩
小満
しくしくと泣いている いったい何があったのか 空に訊いても応えはない
夏の始まりの雨である 田畑を潤し野に降り注ぐ 恵みの雨なのに違いない
すべての命が輝くころ 誰一人欠けてはならず みなに等しい雨であった
涙であってはならない それが哀しみであるなら 癒される時がきっと来る
止まない雨などないのだ
雨上がりの陽射しを待つ きらきらと輝くいのちに ふさわしい夏が訪れる
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