薄雲が広がっていたが概ね晴れ。気温もほぼ猛暑日となる。
湿度が高く非常に蒸し暑いことを「溽暑」と云うのだそうだ。
俳句では晩夏の季語とのこと。またひとつ勉強になった。
教養の無い私のような者はとにかく学ばなければならない。
今朝は胃の調子も良く「さあ月曜日」と職場に向かう。
車を停めるなりみい太親子が駆け寄ってきたが
子猫が一緒に居る限り餌を与えてはならず心が痛む。
みい太に私の言葉が分かるとは思えなかったが
話してみると子猫を何処かに連れて行きまた戻って来る。
餌を食べてからそれを吐き出しているのかもしれないが
その現場を見たことはなく子猫の成長が不思議でならなかった。
母猫の姿は見かけず他の子猫も何処かに消えてしまっている。
死んでしまったのならそれほど憐れなことはなかった。
工場はやっと活気を取り戻し今朝も車検の車が入庫する。
義父も午前中に来客があり待機してくれていた。
はるばる奈良から帰省中の人がお米を大量に買い求めてくれる。
「三原米」はブランド米であり奈良では手に入らないのだそうだ。
その代金を大金であったが即金で支払ってくれておどろく。
もっとおどろいたのはその代金をそのまま私に渡してくれたのだった。
例の新車代の引き落とし日が明日に迫っており窮地に立たされていた。
使い込んでしまった穴埋めにと義父が助けてくれたのである。
それだけではなかった。月末の資金にと不足分も出してくれたのであった。
先日出荷したお米代がもう口座に振り込まれていたのだそうだ。
義父の汗と苦労の賜物である。心苦しさもあるが何と有難いことだろう。
「お米さまさまじゃな」と義父の笑顔に救われたように思った。
それもこれも今年の新米が高値で取引された結果である。
消費者には気の毒だが米農家の苦労はそうして報われるのだった。
そうなれば一粒のお米も無駄にせず大切に食べて貰わねばならない。
食品ロスの問題ももっと深刻に受け止めて欲しいと願う。
戦中戦後の食糧難を経験した人は今となればそう多くはないと思うが
白米が食べられずお芋や南瓜が主食だったことを思い出して欲しい。
日本の米農家の平均年齢は71歳なのだそうだ。
あと10年もすればどうなることだろう。
お米を作る若者が増えるとは思えず高齢者ばかりになるだろう。
日本人の主食でありながら作る農家が消えてしまう可能性もある。
義父は後10年と息込んでいるが無理を強いても後5年が限界だろう。
「しんどい、しんどい」が最近の口癖になっている。
もう直ぐ82歳になるのだ。それは当然のことだろう。
会社設立から32年目となったが義父の援助は初めてのことだった。
母は借金ばかりを重ね今もその返済に追われている。
義父の米作りを嫌い言い争いが絶えなかったことを思い出す。
母は義父の優秀な技術を信じ整備士として仕事を全うして欲しかったのだろう。
私は母とは違い義父の米作りを応援していた。
工場が窮地に立たされたことも何度かあったが
最終的にはいつも義父が助けてくれたのである。
「子供が欲しかった、男の子が欲しかった」
今日はふっとそんなことを口にし寂しそうな顔を見せた義父であった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
橋
今は古びた小さな橋である 川の名は「広見川」 愛媛県へと流れている
橋を渡り切ると角に 魚屋さんがあったのだが 今は仕出し屋さんになっている
母は毎日そこで買物をしていた 「今日は何にしょうかね」と 私はわくわくと嬉しくてならない
宇和島の雑魚天を並べたケースには コロッケもあり私は大好きだった 一個だけねと母が買ってくれたのだ
コロッケを食べながら帰る 母は自転車を押しながら 私は今日の出来事を話した それは楽しいことばかり
橋を渡ると製材所があり 大きな木から山の匂いがする やがて駅が見え始めると 坂道を上りやっと家に帰り着く
台所に立つ母の背中が見えた 弟が甘えてしきりに話し掛けている
父が帰って来ると晩ご飯だった まるで絵のような光景が目に浮かぶ
橋は今もちゃんとあるのだが もう帰る家はなくなってしまった
歩いてみたいといつも思う 川のせせらぎの音がきっと聴こえるだろう
|