2005年02月19日(土) ひの、関西へ行く。その1(かなりまじめな前編)
書け書け、さもないとピ―――写真を公開するぞゴルァという、女王からのお優しいお言葉のおかげで、もう二週間も経っているのに書かなくちゃいけないみたいです。ひのです。はっきりいってもう記憶が薄いんですが。
ともかく、この日は関西へ行ってきた! 人生初の一人旅ですよ! 万歳!
とりあえず、オフがあったんですよ。大阪でオフるってね。
でね。
私ね、普段は帝國から出ないんですけどね。
秋ぐらいから、すっごい京都に行きたかったんですよ。
……ん? うん。京都だよ。京都に行きたかったの。
というわけで、京都のついでに大阪に行ってきました(何)。
ちなみに、京都には一人で行きたかったんです。別に普段ならさー、誰かとっ捕まえて一緒に旅するさー。でも、今回は、一人で行きたかったのさー。
というわけで一人旅。母上様にはそんなことヒトコトも言わずに一人旅。しかし母上様は放任主義なので何も言わない、ていうか前日の夕飯で「あんた明日ご飯いる?」「いや、前から大阪行く言うてたやん」「あれ、そうだっけ。いってらっしゃい」という適当ぶり。いいよ、説明しないでいいのってラクだもの……。
で。きちんとJRの鈍行時間も調べてあったんですよ。帝國から正味二時間で行ける。うわぁ、意外と近い、京都ー。
案の定寝坊。
いいの。一人だから、自由に、時間なんて変更できるわ……。
名古屋駅で予定より三十分遅い特別快速に乗る。あぁ、米原(滋賀県)が終点じゃない……大垣(岐阜県)止まり……ショック。と思いつつ。一人で座って車窓を楽しむのです! これが一人旅の醍醐味ネ!
――しかし、車窓は別に愛知県だから見慣れた風景だった。
……。言われてみれば、関西なんて何度も行っているのだから、別に目新しいものでもないし……。そうなると、なんだ、一人って非常に暇ではないか。一人旅、早くも苦痛! 眠気が襲ってくる!
しかし、私、負けない。
この旅では|Д`)改稿版(途中まで)を持ってきて見直そうと思っていた!
しかし電車では無理ぽ!
というわけで、私は、必殺アイテム文庫を取り出した。
ドストエフスキー著「罪と罰」……。
いや。
面白いんだよ。
すっげぇ好きなのよ。
でも、眠い時に読むべき本ではなかった。
ひの沈没。気づいたら大垣。大垣で乗換待つこと二十分。もっと乗換の便よくしろよゴルァ。
大垣から米原行きに乗換。また米原で止まらせるノカヨゴルァ。
米原から姫路行き。眠い。もうだめ。車窓がどうした。寝させろゴルァ。
目覚ましをセットし、私は眠りについた。
思えば、この旅の移動は、ほとんど寝ていた。
京都に着く。うわーい、久しぶりの京都駅ー! というわけで一人で地下街へ。いや、一人旅だもんな……。
何を食べよう、と思うところ、一人でも入りやすい京風ラーメン屋。京都ラーメンってどんなんよ? 知らんよ。と、一人でプリンつきラーメンを食す。京都ラーメン、味がねえ……。まじで味がねえ……。京って薄味でしたっけそういえば。でもこんなんうちで食える……。
しかもやはり一人でもくもくご飯はつまらないのだ。私、外食は大体誰かと一緒で、一人ごはんだと早々に席を立ちたくなってしまうのだ。……アレ、私、一人旅向いてねえ!? と思いながらも、カウンターの目の前に座っていた子供とお父さんのほのぼの風景に和みつつ。あなたたちがいてよかったよ……。子供嫌いだけどな。
で。人からお守りもらっていたのでそれを返しに、また再び買いに鈴虫寺に行こうと思っていたので、バスの時間を見るとまだまだ大丈夫そう。なので。
この旅のメイン・東本願寺へ向かう。
……ん? メインだよ、東本願寺が。
いや、我が家の宗派なんですよ、東本願寺。行きたかったの。行きたかったの。行きたかったの!
というわけでいざ東本願寺へ!
大きな門がそびえたっていて。その下で破魔矢を売っていた。アレ、なんでここで? と思いつつ。写真を撮るべきかな、この門。と思いましたが、結果的にはいらないなと思って撮らなかった。心に、とどめておけば、いいんだ。きっと、また、近いうちに行くから。
でも、ここには、たった一人で来たかった。んです。
門の中を覗いたら――工事中だった。あぁ……お寺が……めっちゃ工事中で白い壁に覆われています……。
とぼとぼと横にあった参拝所とやらに上がる。畳部屋になっていまして、コインロッカーがあって、ただで使えるので荷物を預ける。さすがは総本山、むやみやたらに金を取らないな。しかしそこにもお守りを売っていないなぁ。あるのは戒名を生前につけるかどうかの受付みたいなものだけ。どうしてだろう、と、机に置いてあるさまざまなパンフを見ると。
この宗派、お守りを必要としない。
このリーフレットをもらってこなかったなぁ……と今サイトを調べてみたら書いてありました。
自分にとって良いことを追い求め、都合の悪いことを避けようとする、これは人間の性分といっていいでしょう。しかし、良いことだけを追い求める生き方は、必ず悪いことを恐れるようになります。そして悪いことが続くと、自分の人生までも呪ったりするのです。
どのような状況に投げ出されたとしても、自分の人生は誰とも代わることはできません。しかし、それは同時に誰とも代わる必要のない人生なのです。お守りをもたないということは、良し悪しを越えて、現実と向き合っていこうとする生き方の表現なのです。
最後の文だけ引用しましたが。私はこれにああ、と納得したんです。お守りは気休めだとも言っていました。そうだよね。お守りを持っていたって。願いどおりにならなかったらお守りのせいだというの? 違うでしょ? それでどんどん強い効力を持つお守りを買うの? それってどうなの?
というわけで、じゃあ、あの門で売っていた破魔矢はモグリなのか……。そういう類のものは敷地内で一切売っていませんでした。本は売っていましたけど。
いろいろお寺の中を回って。ギャラリーもあったりして。けっこう満喫。
そして、また別のリーフレットを見つけてしまった。
「人は死んだらどうなるの?」
……その上、直後に「亡き人を縁として」を読んでしまったからもうだめだ。人がいなくてよかった。やったら綺麗な近代的なギャラリーの中で、泣いてしまった。そもそも、ここに来た時点で情緒は不安定だったわけなのです。
私は何をしに来たんだろう。こんなとこまで。
父は、一体、どうなったの?
なんか心の中で蹴りをつけるために来たのかもしれない。
そして御影堂や阿弥陀堂というここの本堂なのかなぁ、親鸞上人や阿弥陀如来が祭られているところに行った。まず御影堂。とても広い。広くて暗くて、ぼんやりと大きな仏壇が浮かび上がっていて。ここには私しかいなくて。とても足元が冷たい。板の間は、決して平行ではなくて継ぎ目がはっきりと足から伝わる。とても静かで。一人きり。
宗教の大きさって、こういうことか?
一人でぼんやり突っ立っていたら、何をすればいいのか解らなくなって、もう暗記している東本願寺のお経、正信偈を小声で唱えてみた。
宗教って不思議だ。心が、無になったような、気がした。軽くなるような。
本来は御影堂には親鸞上人がいるのかな、けれど工事中で阿弥陀堂に移動していた。阿弥陀堂には、先客が二人ほどいて、阿弥陀如来の前で合掌していた。私も習って正座して合掌した。大きなところだ。何が大きいのか、阿弥陀堂ももちろん大きいのだけど、この精神が大きい。いや、こんなの、書いたところで解ってもらえるようなものではないのだが。ともかく静けさに包まれていて。こういうのを静謐っていうんだろう。やっぱり、涙が出てきた。私、ここに、ずっと来たかったんだ。ずっと。秋からずっと。
ともかく、凄く、静かな気分で、大らかな気分で、東本願寺を出た。
この宗派でよかった。心から、そう思った。
……すんごく私の小説ちっくになったな。でも、こう思った、気がする(何せもう記憶が(何))。
その1の続きは次の日ー!
