たとふれば こころはきみに よりながら

2004年11月26日(金) 10年後に託す

 今月の始め頃、某所で手紙を出した。
 10年後に配達してくれるという手紙だ。
 とりあえず、自分宛にした。

 そのサービスを知って、興味がわいた。
 でも、ちょっとこわさを感じた。
 10年後、自分が生きてる保障なんてどこにもない。
 そういう気持ちが浮かび上がってきた。

 書くときは、何を書こうかという単純な迷いに加えて、自分以外の人が開封するという可能性も考慮しないといけないな、と思った。
 結果、たいしたことは書いてない。
 便箋1枚半ぐらいの「なんじゃこれ?」という文になった。
 
 万が一のことがどうしても頭から離れなくて、半分は家族あての単純なメッセージになった。特に、子どもたちにむけて。

 ただ、一行、自分だけにわかるメッセージを書いた。
 「絵に描いた餅は、食べられましたか?」

 これは、わたしの言ではないけれど、伝え聞いて「いい言葉だなあ」と思って、最近印象に残っている言葉だ。
 普通は食べられない絵の餅。
 でも、「絵」=「夢」で、「食べる」=「実現」の意味なんだろう。
 「そのままでは食べられない」=「実現にむけての努力が必要」。
 生きる上での心構えのようなものが、ぱしっと短く、象徴的に表現されてると感じている。

 その言葉を、10年後の自分に送った。
 本当はもっと具体的な想いや事柄がこめられてる。
 あえて文にできなかった気持ちが・・・。

 10年後を思うとこわかった。
 いつも「8年後の自分を見てみよう」と、自分をはげますこともあるのに。
 具体的に手紙という媒体があると、保障のない未来が具体化された気がしたのだろう。
 けれど、そのこわさから逃れたい気持ちもあって、ふと気づいた。
 10年後はいきなりくるのではなくて、1日1日の積み重ねではないか、と。
 
 こわいと言っても、10年前のわたしは、今のわたしをほとんど想像しなかった。でも、とりあえず、わたしは今、存在してる。
 よくも悪くも積み重ねて、今日まで来た。
 だから、これからの10年も同じだ。1日1日の積み重ねなんだよ、と。

 手紙を出したのが、11月6日。
 まだ、1ヶ月もたってないけど、精一杯過ごせてるかな?
 時々、自分に問うている。
 10年後のわたしが、後悔でいっぱいの人とならぬように、毎日、バトンをわたしたい。
 昨日から今日、今日から明日のわたしへ。


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higurashi

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