今月の始め頃、某所で手紙を出した。 10年後に配達してくれるという手紙だ。 とりあえず、自分宛にした。
そのサービスを知って、興味がわいた。 でも、ちょっとこわさを感じた。 10年後、自分が生きてる保障なんてどこにもない。 そういう気持ちが浮かび上がってきた。
書くときは、何を書こうかという単純な迷いに加えて、自分以外の人が開封するという可能性も考慮しないといけないな、と思った。 結果、たいしたことは書いてない。 便箋1枚半ぐらいの「なんじゃこれ?」という文になった。 万が一のことがどうしても頭から離れなくて、半分は家族あての単純なメッセージになった。特に、子どもたちにむけて。
ただ、一行、自分だけにわかるメッセージを書いた。 「絵に描いた餅は、食べられましたか?」
これは、わたしの言ではないけれど、伝え聞いて「いい言葉だなあ」と思って、最近印象に残っている言葉だ。 普通は食べられない絵の餅。 でも、「絵」=「夢」で、「食べる」=「実現」の意味なんだろう。 「そのままでは食べられない」=「実現にむけての努力が必要」。 生きる上での心構えのようなものが、ぱしっと短く、象徴的に表現されてると感じている。
その言葉を、10年後の自分に送った。 本当はもっと具体的な想いや事柄がこめられてる。 あえて文にできなかった気持ちが・・・。
10年後を思うとこわかった。 いつも「8年後の自分を見てみよう」と、自分をはげますこともあるのに。 具体的に手紙という媒体があると、保障のない未来が具体化された気がしたのだろう。 けれど、そのこわさから逃れたい気持ちもあって、ふと気づいた。 10年後はいきなりくるのではなくて、1日1日の積み重ねではないか、と。 こわいと言っても、10年前のわたしは、今のわたしをほとんど想像しなかった。でも、とりあえず、わたしは今、存在してる。 よくも悪くも積み重ねて、今日まで来た。 だから、これからの10年も同じだ。1日1日の積み重ねなんだよ、と。
手紙を出したのが、11月6日。 まだ、1ヶ月もたってないけど、精一杯過ごせてるかな? 時々、自分に問うている。 10年後のわたしが、後悔でいっぱいの人とならぬように、毎日、バトンをわたしたい。 昨日から今日、今日から明日のわたしへ。
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