ぶらんこ
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こころと話していると時々、「それっていつの時代の話?」と聞かれることがある。 いつの時代ったって、もちろんわたしが生きてる時代なのだけれど、彼女にしてみればはるか大昔のことのように思えるらしい。 まぁわたしの場合、正直なところ特殊な環境にあったので、彼女の気持ちがわからなくもない。 が、それを抜きにしたとしても、平成生まれの彼女にとって昭和は想像のものでしかないようだ。 カラーテレビなんて言葉は、わたしの説明を聞いてちょっと間があり、理解した途端に笑い出していた。 ふむ。。。確かに時代の差は<かなり>ある。と、思う。
彼女はわたしの昔話が大好きで、今でもよく話して聞かせる。 島という自然・生活環境に加え、わたしの家庭環境をも織り交ぜて話さなければ、(オチは)なかなか理解できない。 というワケで話は長く大きくなり、彼女にしてみればさながら冒険物語のように聞こえるらしい。 (不本意ながら、オチじゃないところでよく笑い転げたりもしている。)
わたしは、話をしながらあらためて過去のことを思い出している。 思えば遠くへ来たモンだ。。。我ながらこの変化によく付いてきたよなぁ・・・と、思う。 たとえば、我が家に黒い電話が来た日のことを今でも覚えているのだけれど(この話はこころに大ウケだった)、 今では携帯電話なんか持つような身分になった。。。そんなことは夢にも思わなかったよ。ホントに。
そう考えると、現代に生きる老人たちは本当に凄い! と、心から思う。 彼らは大正、昭和、平成、と3つの時代を生きてきた。中には明治を知っている人もおられるだろう。 戦争があり、貧困があり、開発があり、発展があり。。。 昔は川へ行って、手足を使い洗濯していたのが、全自動の洗濯機を使うようになった。 たぶん村長さんとかの家まで行ってラジオを聴いていたのが、今じゃ自分専用のテレビを見ている(かもしれない)。 しかもちっちゃなボタンのついたリモコンなんかを操作したりして。 手で掬ってもらって鍋に入れ持ち帰ったお豆腐は、水漏れなんかあり得ない完璧なパックに入っている。 他にも・・・赤信号で待つとか、白線の内側で順番に電車を待つ、とか。。。
それに個々の経験も含めると、本当に様々なものすごい変化を、受け入れてきたんだなぁ・・と、思う。
身近な例で、こんなことがある。(ちなみにこれはカトリックの話) 全国的なものなのか鹿児島県下のものなのかよくわからないのだが、何年か前に「祈り」の言葉が改正された。 以前の難解な文語体から、現在の言葉に直されたのだという。 確かにわかりやすい。わかりやすいのだけれど、わたしは今だに覚えられない。(覚える気もないけど。) でも、母は新しい祈りをスラスラと唱える。すごいなぁ、、、と感嘆してしまう。
そう言えば、日本の教会は何十年か前まで、ラテン語でミサを行っていた。(それが文語体の日本語に翻訳されたのだった。) いちばん上の兄貴なんか、酔っ払うとラテン語で聖歌を歌ったりする。(かなり面白い。) つまり母は、祈りを、ラテン語、文語体、そして現在の形で唱えることが出来る。 祈りなんて言葉じゃない、と思うのだけれど、言葉に込められる力というものがあることも信じているので、やはり素直に尊敬する。 母も含めて歳を重ねた人というのは、きっと、とても柔軟なんだろうなぁと、思う。
新しいものを取り入れるには古いものを捨てていかねばならない。 程度の差こそあれ、そんなモンだと思う。 もしも捨てきれないのであれば、新しい容器を準備する必要があるだろう。 古い油の入った容器に新しいのを入れる人はいないからね。 増えた写真のためには新しいアルバムを。新しい花を植えるためにはそれなりのスペースを。
たぶん、人も同じなのかな・・・と思う。 新しい自分になるためには、古い自分ではいられない。 新しい自分を受け入れるということは、古い自分を捨ててしまう、ということ。 過去も未来も、今の自分とともにあるのだろうけれど。。。
今日はいちにち雨降りで、そんなことを考えていた。
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