ぶらんこ
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3月になってすぐ、いつも行く窯元へと出かけていった。 5、6年くらい前にこの場所を知り、彼の焼く陶器に魅せられ、機会があれば訪ねている。 この窯元さんはとても素敵だ。作品も、ご主人も。
彼に、以前買った陶器のことを話す。 こんな感じのヤツで、ここがこうなってて、これくらいの大きさで。。。あの形はもう焼いてないんですね・・・みたいなこと。 すると、彼は決まってこう言う。 「思い出せないなぁ。。。」
最初はちょっと驚いてしまった。 「忘れる」なんて!そんなことって! でも本当に彼は覚えていないのだ。おぼろげには思い出したりもするらしい。でも、殆どの場合、まったく思い出せない。
こんなことも言う。 「なんだって、そんなモン、創ったんかなぁ。わからんなぁ。。。」 えぇぇぇぇ??? ・・・思わず笑ってしまうようなお言葉じゃないか。
これが、職人としてどうなのか、或いは芸術家としてどうなのか、素人のわたしには全然わからない。 わからないけれど、でも、もしかしたらそれってすごいことなんじゃないかな・・・、と、最近、思う。
その窯元に行くと、工房の庭先に彼の古い作品が無造作に捨てられている。 もしかしたらそれはオブジェとして配置されているのかもしれない。わからない。 でもどう見ても、捨てたように、置かれたままだ。もちろん、雨ざらしで。 誰かが盗んで行ったとしても、彼は気付かないかもしれない。気付いたとしても、たぶん気にしないだろう。
彼はときどき、古い作品を「くれる」。 「捨てようと思ってたやつだけれど、良かったら持ってって。」と、さらりと言う。 以前どこかのコンクールに提出したようなやつも、いただいてしまったことがある。 「この作品のタイトルは何ですか?」 そのときそう聞いたわたしに、彼はちょっと恥ずかしそうに言った。「タイトルは、言えない。」「無題。なんとでも。」と、笑った。 可笑しくなってわたしも一緒に笑った。なんでもいい、だって。なんてまぁ。。。
古い作品に対する「こだわり」がない。ということ。 こだわらない、というのは、執着がない、ということ。 執着心がない、ということは、自由、ということ。 自由というのは、いつも、常に、新しい、ということ。
わたしは、自分には信念がある、と思っている。(へぼ信念だけれどね) でも、本当はそんなものも要らないような気がしてくる。 「信念」というのは、ある意味「執着」みたいなものでもあるような気がする。 (あ、でも、へぼ信念くらいだったらちょうど良いのかもしれないな。。。。笑)
この数日間、書きたいなぁ・・と思ってたことがいくつかあったのだけれど、今となってはもう書きたくないというか、意味がない、というか。 時間が経つともうどうでも良かったことのような、今このときに書くにはそぐわないような。
しばらくPCが使えなくなって、ちぃっとばかり、いろんなこだわりから解放されたような気がした。 それは、開放、でもあったのだと思う。
日々、へぼ信念をぶち壊せ。 だな。。。
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