ぶらんこ
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2005年06月09日(木) Allow

昨日こころは水泳だったようだ。
潜水で進むのがすごく巧くなったんだよー、と喜んでいた。
水泳だったの? と、わたし。バスタオルとか、いろいろ持ってってたの? 
失礼だなー、ちゃーんと持ってったよ。だから水泳できたんじゃない。
こころがなんでもない風に答えるので、へぇ。。。と、思う。そっか。ふーん。


考えてみれば、わたしはこころの毎日について、あんまり知らない。
知らない、というか、知ろうともしていない。
今度いついつが何々だってよ。と、言われ、あっそう、わかった。と、答える。
マミィ、何々のことやってくれた?と、言われ、あっやってない、忘れてた。と、答える。
全部が全部、とは言わないが、まぁ大抵いつもそんな感じだ。
本当にぐぅたらだなぁ・・・と、思う。
で、母親がこうだから、娘はその分しっかりと・・・ということもなく、彼女も何かしら忘れがちである。(血は争えない)
実際、先週の水泳では水泳帽を忘れた為に見学を余儀なくされたらしい。(前の晩にわたしがちゃんと出しておいたのにー)
誰のせいでもない。自分の責任だ。
彼女が見学になろうと、それでどれだけ恥ずかしかったり悲しい思いをしようと、わたしは痛くも痒くもない。
こころ自身、その部分(わたしの論点)を知っているので、文句は言わ(え)ない。
忘れたあなたが悪いんでしょ。
そうだよ、でもマミィだって忘れてたでしょ。 程度の(苦渋の)反抗は、あるけれど。



それにしても、いささか自分は放任だなぁ・・・と、思うことがある。
それは、彼女の自立を目指しているからというわけではなく、自己中心的なだけなんじゃないか?と、思うことがある。
ちょっとばかし、反省したりもする。もちょっと気にかけてあげなくちゃ、かなぁ、と。
だから、今回のように(わたしの知らないところで)自分でちゃんと準備していたことを知ると、心から賞賛したくなる。
素直に嬉しい。


今日、心友と長い時間、話をした。彼女と話していると、いつもいろんなことに気付かされる。
彼女はわたしの「ぐうたらさ」を「良い力の抜き方を知ってる」という風に表現してくれた。
とてもありがたい。
でも、そうじゃないと思う。やっぱりぐうたらなだけだと思う。だって、力は抜きっぱなしだもの。

こころを含め、わたしのことを好いてくれる人々は、そんなわたしのぐうたらさがさほど気にならない人たちなのかもしれない。
それだけ、愛情が広くて深いのだ。ありがとう、みんな。


でも、その愛に甘えてばかりじゃ駄目だなぁ・・・と、最近、思う。
じゃぁ何が出来るか、というと。。。。
それは、自分の思うことをやる。心から思うことを、心から行う。そしてそれに責任を持つ。
イコール愛する。ということ。だと思う。
たとえ、馬鹿だとか愚かだとか、或いは優雅だとか言われても(人の見方というものは本当に様々だ)、それはそれで良い。


わたしの基準があり、誰かさんの基準があり。
皆それぞれがそれぞれだ。
わたしは自由でありたい、と願う。
みんな自由であって欲しい、と願う。


そんなことを思いつつ、今日はこころに新しい水泳帽を買ってしまった。しかもなんと、ゴーグルまで!
・・・100円ショップだけどね。




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