ぶらんこ
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2005年08月27日(土) 在宅死

その方は、生きる意志を持っておられた。
まだまだ、生きる。
彼は「死」というものについて考えてはおられなかった。
少なくとも、わたしたちにはそう見えた。
そう見せていた。

奥さまはご主人を送り出すつもりはなかった。
まだまだ、頑張れる。
彼女は彼(彼の魂)がその生を終えようとしているとは思わなかった。
また以前のように元気を取り戻せる。
そんな気持ちで介護されていた。


告知はなされていなかった。
ご本人と奥さまは何も聞かされていない。
それは息子たちによって決められていた。
そのことが良いとか悪いとか、そんな判断は意味をなさない。
与えられた状況のなかで、わたしたちはわたしたちの出来ることを、そのときそのとき、介入していくしかない。


久しぶりに訪問したとき、彼がもう長くはないのが見てとれた。
でも彼はまだ生きる意志を失ってはいなかった。
奥さまもまた、彼を信じていた。
彼は驚くほどの生命力で、意識を保たれていた。
身体を拭き、痰を吸引する。
彼はけして「苦しい」とはおっしゃらない。


彼の額に手を当てて祈る。
奥さまの肩を抱いて祈る。
どうぞおふたりにとってすべてが良いようになりますように。


翌日、状態は尚、悪化していった。
奥さまは彼をほとんどひとりで介護されてきた。
彼はいつも奥さまを「おーい」と呼んでいた。
あれをしろ、これをしろ。
わたしたちが近くにいても、彼は奥さまの姿をいつも探していた。
そんな彼がその朝、奥さまにこう言われたそうだ。
「がんばりぃや」
「もうがんばれん・・・・苦労かけたな」

奥さまが涙ながらにおっしゃる。
そげんこつ言うひとじゃなかった・・・もう充分です。

きっと彼は逝く準備が出来たのだろう。
そしてこの一言によって、奥さまもまた、彼を看取る準備が出来た。


彼はそれからも、その生の灯が消えるまで闘われた。
奥さまずっと、最期まで彼の手を握っておられた。
彼は、家族や親戚に見守られながら、旅立たれた。
・・・なんてしあわせな光景だろう。



この夏、何人もの患者さんが亡くなられた。
それぞれの「死」は、確かな何かを残していく。
別れは辛く悲しいものだけれど、死に関わったひとにはそれ以上の大きな糧となる。



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