ぶらんこ
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2006年03月02日(木) 少年時代

『少年時代の思い出』  〜舟づくり〜

小学校2・3年生の頃の話である。
私の父は、大工であった。
島のカトリック教会を建設していた宮大工のような仕事をしていた。村から村へ材木を舟で運んでいたそうだ。
父は、釣りが好きで休みの日は小舟に乗って子供達を釣りに連れて行ってくれた。
幼稚園の頃、私も一度だけ連れて行ったもらった日のことを鮮明に覚えている。

そんな父が病に倒れ、釣りにいけなくなった頃、兄たちの楽しみは、物をつくったり、自然のなかで遊び回ることだった。
もともと器用だった四男の兄がある日、舟をつくることに挑戦した。
父はそんな兄を黙って見ていた。

それから1ヶ月以上が過ぎた。台風の去った日に兄の小舟は完成した。小学校五年生の兄が一人で挑戦した舟づくりに、私は、驚きながら得意気になったものだ。

いよいよ、浸水式。
風の強い夏の日、兄弟五人で浜に小舟を担いで出かけた。
とにかく重かった。すぐ近くの浜が遠く感じた。まだ台風の影響が残る奄美の海は、荒れ模様。
大人たちが見ると、きっと、「あんな舟が浮かぶはずがない。」と思ったにちがいない。

だが、兄は強行したのである。横波が容赦なくぶつかり、みるみる舟に水が入ってくる。
兄は、二歳の弟を先に乗せ五歳の妹をこれまた担いで舟に乗せた。私と妹は力の限り舟を支えることに精一杯だった。
「いそげ、ちこ!みこ!乗れ!今だ!」
兄の叫びに、「無理でしょう。波で倒れるよ〜。溺れる!こわいよ〜。無理だって!」
「いいから乗れよ。押しながら乗れよ〜。船底がつくと進まないから。気をつけろ!」
真剣そのもの。
「まさか、この舟が進むわけない。沈むに決まっているのにぃー。」
心の中の叫びに風と波は容赦しない。びしょびしょになりながら、私は飛び乗った。その瞬間、「おおぉ〜!」気合いの声。
兄は沖に向かって舟を押しながら飛び乗った。まるで、風と波に立ち向かっていくようだ。
妹たちは怖くて泣いているというのに、兄は喜び叫んでいる。「浮いた!やったぁ!やったぁ〜!」完全におかしい。
同じ舟の中で、拍手。抱きつく。泣く。震える。喜ぶ。
でもそれはほんの一瞬だった。
兄の舟は、水がどんどん入り込み沈んでいった。
二歳の弟は恐怖で私に抱きついたまま。みんな海水浴のようにびしょぬれ。それでも兄は満足の顔。
私たち四人は、風呂桶のようになった小舟に浸かって兄の指示を待つ。
やがて、舟は横波にかぶさり転覆!
今度は海水浴気分になった妹たちがはしゃぎまくる。弟だけは泣きながら私にしがみついたまま。

なんとも不思議な光景であろう。今では考えられない遊びを昔はしていたものだと思う。
大人たちからみれば、無駄な時間と無駄な興味関心かもしれない。でも、無駄がたのしくてしかたなかった。
そして、家族の絆を深めたように思う。


記憶とは不思議なものだ。その後どうしたのか、あの舟はどうなったのか、全く覚えていない。
兄の自慢げな顔と弟の体の感触だけが鮮やかに蘇る。

ほんのり懐かしい少年時代の思い出である。


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姉の書いたもの。
本人の承諾を得て、転載。


ここに登場する「五歳の妹」がわたしである。
自分自身の記憶としては、兄の舟を担いで浜に下りたこと、水が入ってきて心細かったこと、兄の悲しげな顔・・・などがある。
でもそれが自分の記憶そのものなのか、姉たちか語り継がれて、それがわたしの頭のなかで形づくられたものなのか、定かではない。
姉の文章を読んで、正直、羨ましいなぁ・・・と感じている。
姉たちの思い出はわたしのそれよりも父や兄貴達との共有がある。それだけの歴史がある。

でも、それがなんだっていうのだろう。
ただ今思うことは、姉の持っている感性と自分のものとが、限りなく近いものであるということ。
それがとても嬉しい。なぜかわからないけれど、笑いながら涙が出てしまうくらいだ。



少年時代のあの頃の自分たち。
それはかけがえのない素晴らしい宝物。でも、大人になるということはもっともっと素敵なことだと思えてくる。
なんかよくわからん、いろいろなことを、よし、とする「何か」が培われている。
最高なことだ。
感謝!





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