ぶらんこ
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 島では、元旦の朝に三献(サンゴン)をいただく。 三献とは島の正月料理。二種類の吸い物(海の幸の雑煮と山の幸のかしわ汁)、それにお刺身だ。 写真は、今年いただいた三献。とりあえずお刺身は形だけ。人数が多くなったので食器もありあわせのものとなった。
ところで、三献をいただく前に、家長からの挨拶がある。 我が家の場合は母だ。 父が亡くなってから、母はずっとこの役を務めている。 今年も、母の挨拶から始まった。
母の言葉をみんなにこにこしながら、でも心内は神妙な気持ちで、聞く。 母はなかなかシャープな女性だ。こういう挨拶をさせると、特にそう感じる。押さえどころが的確。 母の挨拶の次に、今年は東京から来ていた姉家族の家長(義兄)が一言。 新年の挨拶というものは気持ちがひきしまる。言葉にすることで、新たなはじまり、という大きなエネルギーが注ぎ込まれるようだ。
その次に挨拶をしたのがすぐ上の姉の旦那さま。去年のいろんな出来事がみんなの心のなかを巡る。 良い年だったなー。いかんいかん。涙が出そうだ。
格闘していたら、「じゃ、次、どうぞ」と促される。 ん?わたし???
青天の霹靂。
「いや、わたしは家長じゃないよーーーー」 そう言うのに、みんな、わたしを嬉しそうに見ている。 わかっている。このところその役割を担うべく、自分なりに歩いてきたんだった。 そして、そう出来たのは、自分ひとりの力じゃなかった、と・・・あらためて、思う。
「素」という言葉を辞書で調べると「何も加えていない」とか「飾りのない」という風に書かれている。 なるほど・・・。 もしかしたら誰もがそうなのかもしれないけれど、わたしが「素」になるのは、家族といるときだ。 だから、ただ素直に言葉にすれば良いだけだ。 なのに、自分の本当の気持ち、素直な気持ちを、家族に対しあらためて言葉で表現するのは、なかなかもって、照れくさい。 シンプルかつ簡単なことのはずなのに、難しい。
と、いうわけで、小学生低学年のような挨拶になってしまった。 あふれる。こぼれる。笑う。笑う。
みんなで頂いた三献はとぉーっても美味しかった。 次はきっと、島で!
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