ぶらんこ
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2007年06月13日(水) エンピツ

最近お世話(?)になっているサイトで、こんな言葉があった。
「日本のサイトの場合、視覚に訴えるものが多いが、アメリカサイトは読ませる字中心の方が多い」
大きく頷いた。確かにそうだと思う。

暮らしのなかでも感じる。
例えばレストラン。
メニューを開くと文字がぎっしり詰まっている。
料理の名前の後に「それがどんな食材でどのように料理されてどんな感じで仕上がっているのか」が、文章で綴られている。
ずっと前はそれを読むのがちょっと苦痛だった。「写真はないの?」と。笑
それが今では興味深々に読んでいる。
じっくり読むとわかるのだが、なかなか上手な文章なのだ。食べてみたい、と思わせる表現方法をよく知っているのだと思う。
頼んだ料理がテーブルに運ばれてくる。
見る。
嗅ぐ。
口にする。
「あぁ〜これにして良かった〜〜〜」というときなんか大満足だ。料理にも。それを選んだ自分自身にも。
下手に写真を見て「これだ!」と決めた後、運ばれてきた料理を見て「写真と違う〜〜〜」というのに比べると、数倍、良い。笑

冗談はさておき、文章と写真とでは、『想像力』の拡がりかたが違うのだと思う。(もちろん対象や状況にもよるとは思う)
そして、わたしは文章の世界における「拡がり」が好きだ。
良い悪い、ではなく、「好き」ということ。



文章というものは不思議だ。
こうやってわたしが書いている文章も、読むひとそれぞれで解釈が違う。


これを今、読んでいる「あなた」は、どれくらいいるのだろう?


だいぶ前になるが、エンピツのリスト掲載から登録をはずした。
リスト掲載をはずしたからとて、非公開になっているわけではないので、誰もが閲覧できる。
「秘密の日記」にはなり得ない。
それはそれで良い。と思っている。
リスト掲載をはずした理由も本当のところはよくわからない。
自己防衛も少しはあるのだろうが、素直に言ってしまうと、「特別に拡げる必要もないかな・・・」と思ってのことだった。


リストからはずし、文章を書くことからも少し離れた。
時間とともに、どんどん遠ざかっていった。
またそのうち・・・という気持ちさえも消えていった。


と思っていたのだけれど、最近になって、なぜか「文章」という文字が目に付くようになった。
これがどういうことなのかわからないのだけれど、とりあえずそういった気持ちの変化を書こう、と思った。


エンピツくんとは(半)永久契約なので、こうやってムンカンゲしながらやっていくのだろう。

というわけで。
ここを見てくれている「あなた」。
あなたはわたしのことを「知っている」のかもしれない。「知らない」かもしれない。
わたしもあなたのことを知ってるかもしれないし、知らないかもしれない。
で、わたしが思うに、あなたの読んでいる「わたし」は、「あなた自身」だということ。
あなたの「想像力」ということ。
どんな拙い文章からでも、あなた自身の想像力の翼を思いきり拡げていってくだされば、と願います。




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