ぶらんこ
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夏。大好きだった叔父が他界した。 母と一緒に島へ帰ったその晩。 兄家族も集まり、皆で賑やかな食卓を囲んでいるところへの訃報だった。
叔父は母のすぐ下の弟である。十数年前に脳梗塞で倒れ、長い闘病生活を強いられていた。 在宅療養の時期もあったが、この十年は病院や施設を転々としていた。 母は帰島する度に、叔父の元へ見舞いに行った。 言葉を失った叔父はいつもくしゃくしゃな顔をして喜んでくれた。
叔父は漁師だった。 小さな船を持ち、ひとりで沖へ出る。そんな叔父の姿はわたしたち兄弟姉妹にとって頼もしく、尊敬する存在だった。
叔父は、よく夜も更けた頃に我が家へ遊びに来た。もちろんユックラッテ。 わたしたちは叔父のことが大好きだった。なので、叔父が来ると、それがどんなに遅くとも皆で喜んで迎え入れた。 焼酎をついで、叔父の話を聞く。 叔父はせヘ(焼酎)のせいで舌が滑らかになっていて、赤い顔でにこにこしながら色んな話をしてくれた。
どうして叔父のことがあんなに好きだったのだろう・・・と、今になって不思議に思う。 もしかしたら、叔父のことを亡くなった父のように感じていたのかもしれない。 あの頃もしも父がまだ生きていたら・・・どうなっていただろう。 想像できないのは、わたしの記憶に父の姿がほとんど無いからか。
夜中を過ぎると、叔母が叔父を呼びにやってくることがあった。 叔母は「なんでこんな遅くまで」とヤナグリだ。 もちろん叔父はまだ帰りたくない。ユックライだから。 母は叔父をうまくたしなめて帰そうとする。 それでも叔父は何やらわけのわからんことを言いながらもう少し、と居座り、やがて連れて行かれるのだった。
どうしても叔父が動かない時もあった。 そんなときは、「おばー、うじっくゎ、まぁこたちがともして帰るがー」と言って、わたしたちが叔父を連れて帰った。 ある晩、叔父を連れて行くと、ちょうど月下美人が咲き始めたことがあった。 いつもはウトゥマラシャン叔母も、そのときばかりは穏やかだった。 皆一緒に、静かにその月下美人を眺めた。そのときの叔父は、いよいよ優しい顔をしていたように思う。
本当に、叔父は優しい人だった。 いつもにこにこと笑っていて(これは焼酎のせいかもしれないが)、怒っている姿などはまったく記憶にないくらいだ。 周囲の人たちは叔父のことを「もの静かな人」と評していたらしい(お葬式で知った)。 でもわたしたちにとっての叔父は、冗談を交えながら雄弁に夢を物語る人であった。 その違いは、なんだったのだろう? 人は沢山の側面を持つということでもあり、人は人の、ある側面しか見えないもの、ということもであるのか。
叔父のちいさな船で、キョンナやフラの浜へ連れてって貰ったことがある。船でないと行けない、カクレ浜だ。 母はおにぎりを作り、お茶を準備した。 わたしたちは嬉しくて楽しくて。叔父の船は海面に限りなく近く、波打つたびに歓声を上げた。 ポンポンポン・・・軽快な音を立てる叔父の船と、海の彼方に向かって舵を取る叔父の凛々しい姿は、今でも心に強く残っている。
うじっくゎ、うじっくゎ
わたしたちは、うじっくゎのことが大好きだった。 本当に、心から、大好きだった。
うじっくゎがいなくなってしまって、淋しいです。
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