とじしろ
2004年05月06日(木) |
クサマトリックス、MoMA展 覚書 |
森美術館。眺め、非常に良し。
クサマトリックス。 失礼な言い方だが、この人が「どこまで」狂っているのかをはっきり正確に知りたいと思う。 「狂う」という言葉はもしかして放送禁止用語っぽいものに該当するのだろうか? しかし他に適切な単語が無い。 「正常でない」という言葉は「正常」という不確実な言葉が入る以上間違いであるし・・・ 何が言いたいのかというと、彼女には「プロデューサー」のような人間がいるのか知りたいのだ。 草間彌生本人が、どこまでを「作品」として作っていて、 どこまでがどうしようもなく溢れてしまった生の「内的吐露」なのか、それを知りたいのだ。 どの作品が「カギカッコ」に入っていて、どの作品が「カギカッコ」に入っていないのか。 ひとつひとつの作品についての「説明」というものがあるのなら(当然あるだろう) 草間彌生本人と「プロデューサー」(もしもいるのなら)、それぞれから是非聞かせてもらいたいと思う。
ひとつ、「宇宙」ってこんな感じか、と思うような、 床がすっぽり抜けて 宙に浮いてしまったかのような感覚を味わえる作品がある。 これは体験すべきと思います。乱歩の鏡に憑かれた男の気持ちがわかる。5/9迄です。急げ ! !
天井と地面に鏡を置き、その間に実際の「物」を配置して無限に続く空間を作りだした作品を見て ああ、「クサマトリックス」だ確かに、と納得した。 私がマトリックス(最初のやつしか観てないし、それで十分だろう)を観たときに思った 「リアルとバーチャルは等価である」という感想を再び思う。 そして、この作品で重要なのは、天井と地面に置いた鏡の間に在る「実際のモノ・物質」ではないかと思う。 ここにそういった「実体として手に触れられる」モノが有ると無いとでは意味がまるで違ってしまうと思う。 三島だったか澁澤だったか、泉鏡花の或る作品を評した際に、 「幻想を描ききるためには『幻想世界にではなく実世界に実際に存在するモノ』の存在が 絶対必要不可欠であり、それが軸であらねばならない」という意味のことを言ったのと同じだ。 わかってくれるだろうか、この書き方で。いや、かつてそれを読んで理解した人には絶対に分かるはず。
MoMA関連展も同時に観てくる。 キリコが二点あった。相変わらず不安感を煽る絵。 キリコの絵の不安感は「影」が作りだしているとすっかり思わされていたのだが (自分で自分を騙していたような感じ)、実際にはそうではないのだと今日初めてはっきり明確に気付いた。 彼の絵に不穏な空気をもたらしているのは影ではなく、「光」の部分だと私は思う。
ピカソはやはりイイ。『窓辺の女』、いい色。ドラマール関連の絵には負けるが。
ハンス・ベルメールのものが一点あった。本物は初めてで感激する。 今までは故・澁澤龍彦 所蔵のもの(レプリカ)しか見たことが無かった。 台座にサインとともに6/8と彫ってあった。8体あるのか。
六本木ヒルズはわかりにくい。その わかりにくさ が建築物的には面白いと私は思うのだけれども 施設利用の利便という点では落第点を付けざるを得ない気がする・・ 地図が好きな私でもかなり困った。リアル・エッシャーかここは、という。 疲れた足と渇いた喉とからっぽの胃には不条理すぎる空間だった。 昼食は旬房(グランドハイアット内)にて。旬のものが揃っている。和牛は炭火焼きが絶品です。 たまにはきちんとしたものをきちんとしたところで食べないとね。 美術関連商品の品ぞろえはとても良い。蜷川実花のマグカップを買ってしまった。 伊藤若冲の便箋まであった。若冲の日本画ってハッキリ言ってパンクだと思う。 まぁ、お金がいくらあっても足りないところです、ここは。
そして、手垢にまみれた村上隆はやっぱり見たくなかった。 いくら本人が商業主義を手玉に取ろうと思っても、大衆の消費力の前には無力だったように思う。 本当に彼が望んだ状況なのだろうか、これは。私にはもう分からない。 あるひとつの意味においては、彼はもうこれより「上」には行けないと思う。 だって、これ以上、何をやらかせるというのだろう。美術界にとってはひとつの大転機ではあったのだ。 アメコミのドット絵をアートに仕立てたリヒテンシュタインくらいのことはやったと思う。
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母の日の贈り物として、母と二人でボディショップのリフレクソロジーへ。
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