今日、大事な友達とけんかした。
こないだも、別の友達(いや、先生というべきか)とけんか?した。
と言うより、私が一方的に傷ついてしまったのだが。
大事な人や、友達に限って、そうなるのかもしれない。 今日の友達は、「あんたは温室で育ったから」と言った。これは たぶん、私がクリスチャンになってからの環境のことを言ってるのだと思う
教会にいると、確かにそのような傾向にあるみたいだ。 特に、私はクリスチャンの人々の中で、ぬくぬくと 耳ざわりの良い言葉ばかり聞いて育ってきたような気がする。 (でも大人になってからクリスチャンになったので、 その前はそうじゃなかったし、クリスチャンになってからも、 結構、厳しい環境にいたこともあるので、そうとばかりはいえないが、 まあ、ここ近年、特にそのような傾向にあったとは言えるだろう)
こないだの人からは「あなたは信仰の基礎が出来てない」と言われた。 今日の人からは「あんたは歌の賜物がない、へただ」と言われた。 今日の人は、普段から私を応援して下さり、「あんたの歌は、 プロとしてみた場合どうかと思うが味があっていい。心があっていい」 などと、ほめてくれる人だったので、「賜物がない、へた」にも、 微妙なその人と私しかわからないニュアンスがあったようだ。 でもあほな私は、そのつど、そういう事を忘れる。 そして、まともに言葉通り受け取り、まともに傷つく。 「賜物なかったら、歌ったらあかんやん」と その人につっかかり、 「そういう事じゃない」と反対に怒られてしまった。
「信仰の基礎」の人も、私を愛して下さり、そして、何か私を見てて、 不安定なところを見抜かれたのか、神様がその人を通して、もっと 神様と私が近く交われるようにと思って、語ってくださったのか わからないが、その時は、ものすごく落ち込んでしまった。
「基礎」って言われてもって思った。もう何年、クリスチャンを やってるんだろう?基礎ってなんだ?とも思った。 なんでそんな事を言われるのか、わからなかった。 でも、今、私はその人の言葉を通して、 もう一度、神様と新しく向き合う事が出来てきたことを感謝している。
確かに、私は、いろんな面において、甘えているところがあるようだ。 クリスチャンの世界だから許される事(そうは思ってはいなかったけど) 信仰の面においても、音楽的な面においても。 でも、神様はこんな未熟な私でも、恵みによって、用いて下さっている。 それはすごい事だなぁと思う。
これからも、その恵みにのっかっていくしかないのだが(−。−”)
そして、奉仕よりビジョンより、なにより、 私は、神様が私との関係を大事にされる方だという事を もう一度、確認する事が出来た。 いろいろ与えられる働きも、神様と一緒にやっていくからこそ 意味があるのだ。それが目的ではないのだ。
私はもしかして、神様をほっといて、自分の奉仕、働きと 勘違いしていたのかもしれない。
神様ごめんなさい。もっと深くあなたと交わる事が出来ますように。 あなたの心がもっとわかりますように。 あなたと心をひとつにして、日々歩む事が出来るように助けて下さい。
人に言われた事も、あなたに聞いて、必要な事を自分の糧にして 不必要な事は捨てていけるように(不必要に傷ついたりした事も) して下さい。
ここ最近の、私のごちゃごちゃした心境を、 ここで、書いてしまった。(・。・)
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