2004年10月05日(火) |
アンパンマン まじめに育児を考える |
「あんぱんまん」 もうすぐ2歳になる姪っ子が電話でそういった。
もちろん自分でかけてきたわけではなく、妹が用があってかけてきて姪に代わったのだ。 「え?」 「あんぱんまん ごにょごにょ」 どうせ妹が言わせてるんだと思ったので(私は丸顔なので妹がよく姪に「あんぱんまんだよー」と言っている)「だめでしょー そんなこといったら」と返事した。 沈黙があって受話器の向こうから妹と母がなにかを取り成している様子がうかがえる。 「おねーちゃん!おねーちゃんのことじゃなくて、アンパンマンをみたよって言ってるだけだって。」 どうやら私に怒られたと思った姪はべそをかきはじめたらしい。 「あれ。じゃーもう一回電話かわって。」 母「電話でないって。いやいやしてるわよ。」
「ちーちゃん(姪 仮名) おばちゃん怒ってないよー。びっくりしたねー ごめんね」聞こえるように大きい声で言う。 母「ちーちゃん、えっちゃん怒ってないってよ。ごめんねーってよ。」 ごそごそごそ 「ぇっちゃん」小さい声で姪の声がした。 妹「遊びにきてねって」 姪「あちょびにきてー。(ぐすぐす)」
「週末行くからね。」週末って意味わかるんだっけ?2歳児って。 妹「えっちゃんに遊びに来てねって」 姪「きてねえ(べそべそ)」
友人たちに聞いても、姉妹の産んだ娘というのは息子よりも親しみが湧くらしい。 同性のきょうだいの同性の子供というのはそういうものだろうか?
写真で見るとわかるが、私の妹の子供時代というのは本当にかわいらしかった。 にーっと笑うとえくぼができて、なくときは目をつぶって少し上を向いてワーンと声をあげるしぐさ。 姉妹喧嘩をしていたときはただの憎たらしい妹なのだが、いま思い出すと すべてが愛らしい。
姪をかわいいと思う気持ちは、妹をかわいいと思う気持ちをよく似ている。
妹にしてみれば「おねえちゃんはいつまでたってもシッカリしてなくて心配」らしいが、私から言わせればシッカリしすぎるとプランがこけたときどうすんだろー、だ。 ふん(負け惜しみ)
で、姪だが、一月に一度行く程度にしか顔を合わせていないものの いつ行ってもベッタリ甘えてくる。
一度むずがって母にむかってワンワン泣いている最中に訪ねたことがあるが、私の顔を見たとたん涙でぐしゃぐしゃの癖に口がふわーっと笑って、よちよちと寄って来た。
心からいとおしい、と強く感じたのはあの時が初めてだ。 もちろん生まれたときや初めて抱っこしたときなど感激したが、私を私と認知して純粋に甘えてくる小さな生き物がこんなにも愛くるしいものかと我ながら驚いた。 親というのはそのいとおしい瞬間を幾度も迎えるから、子供が成長して悪たれついても憎めないものなのだろうか。
そしてそのいとおしい瞬間を噛み締めそこなうと、子を心から慈しむ気持ちが育たないのかもしれない。
子を愛さない親はいない、という。 世の中で起きている色々な罪を見るにつけ、そんな言葉は絵空事のようでもあるが 親は 特に母親というのは 望んで産んだ子を一度も愛さないことはないはずだ。 憎い相手から無理やり作られた子だったとしても、産むことを願ったことさえあればたとえ一瞬でも子を愛する。
その一瞬がどれほど訪れるかによって子供との距離が変わるのではないだろうか。
私の母には、私と妹が世界の全てだった時期があるという。 私たちが幼い頃、知り合いの誰もいない土地に引越し 心打ち解けて話せる相手が皆無だった頃、父も仕事にかまけていた。 当時の母の日記をちらっと見たことがある。手帳へのメモがきだったか。 不安な気持ちで私と妹を抱きしめた とあった。 母は私たちを守ろうとして抱きしめたのではなく、私と妹に抱きすがったのだ。 子供という存在が親にとっての支えになることもある だから親は子を抱きしめ 自分を支えるのだと 書いたのは誰だったか。
親が子を支え 子が親を支える この繰り返しが起きてこそ、母性や父性は育ち 子は親を同じように愛す。 バランスがくずれて平衡が保たれなくなったとき、子は迷い親は恐れる。自分が人の親であるということに。
私は姪の人生に対しての責任はない。 ただひたすらいとおしく、守りたい存在なだけだ。 でも我が子に対してはそうはいかないだろう。
果たして私は 自分の子を ちゃんと 愛せるだろうか?
chick me
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