夕べ といっても24時は回ってたけど家に帰った後化粧を落としてたら鼻血が出た。 すぐ止まったけど。
完全に止まるまで寝るわけにはいかないのでぼんやり座ってたんだけど そのとき母の写真を眺めていた。 オットはもう寝ていたので電気をつけないままだったから写真の中の母は見られなかったけれど。
そして先日叔母と電話したときの会話を思い出していた。
先日祖母の7回忌があって父は田舎に帰っていたんだけど弟夫婦と姉夫婦のところに一泊ずつして 初めて語り合ったことなどがあったと 楽しい帰郷だったととても喜んで帰ってきた。
すごくお世話になったので皆にお礼を言っておいてくれと頼まれたので全員に電話したら皆口をそろえて「楽しい時間が過ごせた」と言った。
去年の法事は母もいった。具合の悪い身体を引きずりながら。 癌だとわかっているのに全く母の体調を気遣わない父の弟夫婦に適当な扱いをされひどく憤慨し 帰ってきてから寝込んだ。 そして「絶対許さない」ともともと父の姉妹たちと折り合いの悪かった母は一層彼らを嫌った。
母ともっとも合わなかったのは父の姉夫婦だが、父はこの姉が大好きで姉も父が一番可愛い弟。 年の差がかなりあるので弟といっても身の回りの世話もしてきたこともあり 溺愛 といっても過言ではない。 そしてその夫となったひとも 私の母にとてもつらくあたった。
母は物心ついた頃から私と妹に自分が何をされたか 何を言われたかを繰り返し話した。 私と妹はそれでも伯父夫婦に対して上辺だけは上手に対応してきた。 季節の挨拶 お祝い事のお礼 など いわゆる親戚づきあいというやつ。
父と母は結婚したくて私を作ったのだが 私が生まれたすぐにまだ病院のベッドに臥せっている母に恨み言を言った伯父夫婦。 私という命を消せとせまった伯父夫婦。
私と妹が大人になる頃には母が父を支えているのだと知り親戚たちは母に対しての態度を変えていったが、母は許していなかった。
そういういざこざの全てを子に語った母の気持ち
母が狂う少し前にこの伯父夫婦は見舞いにきた。 母がもう何も食べられない状態になっていると知り泣きながら母の手を握り、母は伯母から届いた誕生日の電報を朦朧としながら1時間かけて眺めていた。 (読もうとしてもモルヒネのせいですぐに寝てしまい ちょっとの文章も繰り返し読み直していた。 多分文章も頭の中で理解することはあまりできていなかったと思う。)
母は最後の最後には彼らを許す と父に言った。 葬儀の後伯父が泣きながら母の弟と私に謝った。 母に申し訳ないことをした と。
私に対しては それで もういいと思った。
だが母が完全に許していないことを知っている。 だから父が新しく買った墓と 自分の実家の墓とで母を分骨すると言ったとき 父を傷つけないやり方で私はそれを回避した。
母には事前に告げずに伯母夫婦が見舞いに来ることを知った頃 さりげなく 今の母はどう思っているのかを問うた時 「あの墓には入らない」 と母は険しい顔で言った。 その頃新しい墓を東京に買っていて、普通に考えればそこに入ると誰もが思う中母は改めて あっちには入らないから と言ったのだ。 父が分骨を言い出すことをわかっていたかのように。
自分の嫁いだ先の墓に入ることを拒否するというのは嫁として最大の復讐だと思う。 あんたらの仕打ちには これで答えます という完全なる拒絶だ。
その集大成が去年の法事での母への扱いだったのに 今年の法事は「Nさん(母)がみんなの和をもう一度つなげてくれたのね」と口々に伯母たちが言うほど楽しかったという。
私が「楽しいことや面白い話を母にしようと思って いないことを思い出す」と言ったらある叔母が「うちの母の時もそうだったのよ」と言った。 といっても祖母はある日突然倒れてそのまま亡くなったのだが。80をいくつも超えて。
私は電話を切った後 悔しさで手が震えた。
奇麗事にするな 母の死をあんたらの何かのきっかけにするな 母は最後の2週間 苦しんで苦しんで 一日一日体が中から壊れていく恐怖におびえて 死んでいった。
私が思い出す母の姿は3月からこっちの苦しい痛いと訴える母 マッサージを喜ぶ母 せめて60まで後2年生きたい と泣く母 おそばを 食べながら 「食べられた」とうれしそうな母
ぜんぶ病院の入院服の母だ 病室でひとりぽっちで朝目が覚めるたびに「今日も生きてた」と安堵する母だ 食べ物を消化しない胃腸を酷使して点滴の抗癌剤に切り替えられないようにと吐きながら食べ物を口に運んだ母だ
笑顔でいつものテニスウェアで 楽しそうな母を真っ先に思い浮かべる日は いつになるのか
夢の中でもいいから 母と 元気な母と会いたい
私は真っ暗闇の中静かに泣きながら 母を恋うていた
chick me
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