成人って30歳? 40歳?
最近文芸関係の人が書いた文章の中に「30歳成人説」だとか「40歳成人説」などといった文章を良く見かける。これってつまり、「大人になりきれない大人が世の中にたくさんいますよ」ってことなんだろうけど、果たしてそれでいいのだろうか。
塩爺が「大変喜ばしい」とボケて間違えて発表した史上最悪の失業率。特にそのなかでも20代の失業者が大変多いとのこと。一昔前だったら大学でたら就職っていうのが当たり前だったんだろうけど、今はそんなの当たり前でもなんでもない。
おいらの出た法政大学の就職率は確か7割を切っていたと思った。と思ってぐるりとまわりを見渡せば、う〜ん納得。まともに就職してるやつは……見あたらネエじゃないか(おいらも含めてね)。
別に就職しなくても生きていける。バイトの時給はけっこういいし、へたしたら税金やらなんやらで給料から天引きされる「まじめな」同級生よりもポケットに入ってくるお金は多いかもしれない。
30近くになってきて「ちゃんと」就職し奴らが責任ある仕事を始めて、ふと気がついた時にはけっこういい年収で、となりにはおくさんと子供がなんていう様子を見たとき初めて、ソロソロおいらもなんて思う。
20代前半でちゃんと就職し、自分の人生の道筋をつけるのが当たり前だった時代。もうちょっと時間をさかのぼれば、その決断は10代後半でせまられ、さらにその昔は(たとえば戦国時代の武将の嫡男は)10代半ばそれなりの覚悟をしなければならなかった。そういう時代もあったのだ。
今の時代はそうした決断は先延ばしできる。先延ばししてもたいして差し支えのない、そんな時代なのだ。
30代でも40代でも「成人」できればまだいい。へたしたら一生成人しない奴もいるかもしれない。それでも今はいきて行ける。
柴田翔は60年代の学生を描いた「されど我らが日々」のなかで、「我々は老いやすい世代なのだ」という言葉を使った。 日本が現在の繁栄を気づく草創期の学生は、すでに学生時代に成人を迎え、様々な思いを胸に抱き歩みを進めようとしたからこそ、そのつまづきを感じ、それが老いと表現されたのだ。
今の我々は「老い」などという言葉の存在すらも感じることができないかもしれない。幼稚な時間のなかで、ただ遊戯をしているだけだ。
文芸者たちがのんきに「30歳成人説」「40歳成人説」などと唱えている間に、我々の世代は益々幼稚な時代を長く長く引き延ばしっているのではないだろうか。
幼稚のなかから生まれる良さもある。石原慎太郎は「小説は10代のうちに書くべきだ」と言っている。大人になる直前の一瞬の時に生まれる感性は本当に素晴らしいものがある。しかしそれは一瞬だからこそ輝くのであり、その時間をダラダラ過ごすなどということはありえない。ただの幼稚の垂れ流しでしかなくなってしまう。
「戦いはいつも自分のため」(旅立ちの朝) 「未来は自分で開け」(VOICE 明日への滑走路) 高校時代良く鈴木彩子の歌聞いていたな。久々に聞いてみるか。何かに改めて気づくかも。
今日は新宿で2件はしご。そのあと地元でもう1件。酔った勢いで最近思っていることを連ねてみました。 鈴木彩子の歌の詩を最後にもう一つ 「甘えは許されない時、だれにも頼ってはいられない。高いところを飛ぶ鷹は決して群れをなすことはない」(コンクリート)
|