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『あなたが最後に父親と会ったのは?』 B.モリソン 中野恵津子 訳 癌に侵されて余命いくばくもない父親を見ながら、その半生を振り返り、当然息子である自分の成長に言及することになる、自伝的小説。ベッドに横たわる父親を看病する現在の話と元気だった頃のいろいろなエピソードが交互に語られる。抜け目ないようでいながら、気の小さい好人物の父親が生き生きと描かれている。しかし、主人公の「私」にとっては、父は常に息子の上に君臨する存在であった。文学肌の「私」は父と正面きっての勝負を挑むことはないまま、時が過ぎ、いまや死の床の父と向き合うしかない。 こういう父子物というのは、西洋の小説には多いような気がして、それを確認するために読了したような感じ。面白くなかったわけではないが、半分も読むと先が見えてきたのも確か。ただ、最後に「愛人」関係にあったかもしれない女性に真偽のほどを確かめようとする辺りには侮れないものを感じた。息子である「私」のエピソードの多くがどこかしら性的な色合いを帯びるのも、あるいはそこにつながって、「男」であることを語るものだろうか。(誤解のないように付け加えれば、主人公も、その家庭も特に乱れているわけではない。) 西洋物にはこういう父子ものが多くないか?『パードレ・パトローネ』のおとっつぁんは凄まじ過ぎたが、『アンジェラの灰』だってアンジェラといいながら、父親の落とす影が大きい。他にもありそうな気がする。うまく思い出せないけれど。とにかく、「男」として競う、というのが西洋の父子関係には足かせのようにつきまとっているのではないか。息子は成長して「男」にならねばならない。そして父親を凌いだときに一人前として認められる、みたいな考え方。父親が死ぬときになって、初めて愛を感じたりしてね。 それに比べ、日本の父子はそもそもライバルたりえないのではなかろうか? 日本の場合は「家」の継承ということで、第1走者から第2走者へ「家」を引き継ぐ物語になってしまうのではなかろうか?仮に父を凌ぐ息子であったとしても、そういうこと(オヤジより立派)ということで、息子がたたえられたりするかなあ・・・?駅伝のように区間新記録として、その代がたたえられることはあるけれど、先代との比較はあまりしないのでは? これからちょっと気にしながら読書しよう。それにしても、国産父子もので、これはっていうの何かありました?宮本輝がなんか父親のことを書いていたような気もするけれど、どんなだったか忘れてしまった。 新潮社 ★★ 今日は久々に読書日記らしくなった。 朝の電車の中に韓国人の若いカップルがいた。女の子が彼氏に甘えて「ナントカカントカっちょ・・・」、「むにゃむにゃッチョ?」と発する語尾の「ちょ」が大変愛らしく響き、聞きほれてしまった。朝鮮国営テレビの女性キャスターもこういうしゃべりができるのかしら。特に「ちょ」がフェードアウトするかのごとく、ため息のように消えていくところ、絶品。
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