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『ご臨終メディア』
森達也×森巣博の対談。私たちの国のどーしょーもないメディアを語る。
森巣博は例によって煽り役。以前の姜尚中との対談『ナショナリズムの克服』(同じく集英社新書)と同様、これも刺激的だった。(ただし、彼の小説についてはあまり評価しない。)
私は片方の森達也という人についてはあまりしらない。オームのドキュメンタリーを撮った人なのかな。
この二人の話は微妙に噛みあわない。森巣の餌に森が喰いつかないというところか。で、お前はどちらを信頼するか、と問われれば、森のほうが信頼できそう。森巣の饒舌は、おそらく十分計算されたものなのだろうが、うっかりすると絡めとられてしまう。極端な一つの事例を万事に変えるという論法がやや目立つ印象。そこへいくと森のほうは慎重に言葉を選ぶ。
つまりこれは、才気あふれる「評論家」の観察と実際に現場で動いた者との言葉の重みの差だろうか。
ただ、二人共に日本のメディアの現状 − その堕落のさまを鋭く突くことは共通している。そうなんです、おっしゃる通りです。「正義」を振りかざす大新聞や放送局は、みんな彼らのシナリオにある「正義」を報道しているのです。私も日々そう思っています。
ナサケナイデス。でもそれが支持され信じられている国なんです。
報道は事実ではなく、切り取られた風景に過ぎない。切り捨てたものが何なのか。それをいつも忘れないで報道に接することがせめてもの自衛・・・けど、いつまでそれでやっていけるのだろう?
それに、たとえば「被害者の身になって」というようなこと、そんな不可能なこと、やめたらいいのに、と思う。報道に限らず、日常的に私たちは「相手の身」になれると思いすぎてやしないか?だから、何かあると外野の大合唱となる。人の身になれるなんて思いあがりだ。
人の身になんて実はなれっこないのだ。想像してみることは出来ても、それが当たりかどうかは当該の人に確認するまでわからない。まずは自分のことを責任をもって話せるようになること。それが出来ないのに人の分まで話さなくていいよ。
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