せらび
c'est la vie
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みぃ


2004年10月31日(日) 石鹸の話をしている場合ではないので先に人質事件の話をする

以前にも似たような事件が起こった時、ニホンジンの非人情振りに大変驚いたので、今回は傍観を決め込む積りだったのだが、彼方此方のサイトで取り上げているので、ワタシも一応思う事を書いておこうと思う。石鹸の話はまた後日。

紛争中のイラクで、又してもニホンジンの青年が人質に取られ、家族や日本国関係機関の解放への努力も空しく、首を切られて道端で発見されたというニュースが流れてきた。ワタシのサイトは「ブログ」ではないことと特に宣伝をする気が無いこと、更に見知らぬ人と議論をしている暇がない等の理由で、この件について書いているサイトのURLのご紹介は控えるが、しかしワタシがこれは一言述べておかねばと思うに至った原因でもあるので、それぞれ簡単に概要を述べてから私見を述べることにする。

ちなみにご覧になった皆さんのご意見を伺う積りはあるので、あればメールを下すっても構わないのだけれど、技術的にどうやったら「一言述べる欄」やら「掲示板」のようなものをここへ挿入出来るのかが分からないので、今のところメールでしかコミュニケーションが取れないのは残念。

さて、ワタシは今回の人質事件については、ほとほとタイミングの悪い人だと、在る意味気の毒に思うと同時に、なんと頭の悪い二ホンジンだろうと思っている。一体何をしにイラクくんだりまで出掛けて行ったのだろう。国では地震で大変だと言っている時に、人々にさんざん迷惑を掛けて、税金も無駄使いさせて、全く理解に苦しむところである。

今回の件では、同様に考える人々が多いようである。

其の一。とあるサイトでは、ある亜米利加西海岸在住の人がこの青年を「甘えん坊」と切り捨てる。似非ジャーナリストや似非ヴォランティア、または単なる怖いもの見たさの馬鹿者が、危険だから行くなと行っているのにのこのこと出掛けて行くものだから、こうして危ない目に遭うのだと言う。「自分探しの旅」と言う表現は日本で流行っているのかしら?そして今回のこの青年がそれの為に出掛けていたという報道があったのかしら?その辺りがワタシには良く分からないが、兎に角この人が言うには、その「自分探しの旅」は日本でも出来るから、本当の危険を知らない甘えん坊諸氏はくれぐれも日本から出て来ないでくれとの事。

ワタシも国外で暮らす者として概ね賛成なのだが、ワタシの気に入らないのは、この人はこれだけ骨がある事を言う割りに、「議論、討論、論争は一切禁止」と腰抜けなことを、サイトのルールとして設定している点である。

僭越ながら申し上げておくが、大人の会話で奇麗事ばかり並べて済まされるのは、ニホンジン社会だけである。少なくとも欧米の先進国社会では、時事や社会問題について周囲の人々とディスカッション(議論)をするのは、極めて日常的な行為であり、それに参加をしないで居るのは馬鹿か無関心、若しくは非人情と思われる。

日本では余りそういう教育を受けないから、議論=喧嘩と勘違いする輩も多いようだが、喧嘩の如く議論が白熱するのも良くある話であり、まただからと言って、意見が合わぬからお互いを嫌いになってしまうとかもう付き合いを止めるというようなコドモ染みた事にはならないのだから、もう少し議論をする事を楽に考えるべきである。というか少なくとも欧米人はそういう風に考えて議論をしているから、その積りでやらないと付き合いは容易でないということである。

それから「自分探しの旅」というのについてだが、 以前に書いたようにワタシもその昔彼方此方を旅して回ったことがあるから、旅すること自体は大いに結構だと思っている。外国への旅を通して、日本に籠もっていたら恐らく知る由も無かった事、例えば人種差別(自分が差別される側であり得るということ)、貧富の差または富の不均衡(日本の物価を前提にするなら世界は極めて貧乏人だらけであること)、各国の宗教・思想的違い(これは政策、つまり何に金を使うかという方針の違いに顕著に現れるわけだが)、等々を、本からでなく実体験として認識するのは、掛替えの無い人生の肥しになると思うのだけれど、それが日本では一体どういった訳で問題視されるようになってしまったのだろう。

実際、今国外で暮らす多くの人々も、本々はそういう自分探し的考えも多少はあったろうと思われるが、どうだろう。例えば会社が行けと言うから余所の国へ出掛けて来たとか、ダンナが仕事で行くと言うからくっ付いて来たとか、そういうある意味受動的な海外生活者は論外としても、留学や就職や移住の目的で自ら国を出て来た人々の多くは、実際にそうは呼ばなくとも自分探し的要素(例えば将来の職業的学術的成功の為に国外で自分を磨こうとか、自分の精神修養や幸せの為に何かを成し遂げようとかいった意図)を多く含んでいる事は否めないだろう。

そうして積極的に国外へ出掛けて来た人々は、同様の理由で国外に出掛ける若者を果たして責める権利があるのだろうか。こういった事は、広く究極的な言い方をすれば、「自分の人生を如何に生きるか」という自分自身への問いに他ならない。そしてそういう哲学的な認識の傾向を持つ者は、常にそういう自分への問いをし続けて生きている。それ自体は、そういう認識の全く無い凡人と比べれば、余程人間本来の目的を果たしているように思われる。殊に未だ可能性を見定めきれないで居る若者ならば、尚更自分の人生の意味を問わずに居られないものではないだろうか。いや、ワタシがそうだったからね、きっとそうだと思うのよ。

だから今の日本では、ワタシの知らぬ間に「自分探しの旅」という表現が出来上がっていて、そしてそれは非難の対象になっているらしいことが、非常に残念である。旅に出る事自体が非難されるのではなく、それをする個人の資質の問題である事についての認識が深まる事を祈る。

其の二。ある中東方面在住の人が、自分の文化すら満足に知らない若者が、他国へ出掛けてきて何を理解しようというのかと問う。そして例えば卑近なところで、他人に物を聞いて置いて御礼のひとつも言えないような非常識な人間は、自分を探したり他国で何かを成し遂げようとする前に、自分の足元を先ず見ろと言う。

確かにワタシ自身も、知人を介してあれやこれやと質問をしてきた若者達が礼状を寄こさないのに腹を立てた経験がいくつもあるから、確かにさもあらんと思う。しかし、自分がどれだけ自国の文化を知っているかと問われたら、ワタシは答えに窮するだろうとも思う。それに、既に「自分探し」に関連して述べたのと重複するが、外へ出てみて初めて分かる事も沢山ある。現にワタシはその昔自分の祖国が嫌いで仕方が無かったが、おん出てきて暫く経つと、良いところも徐々に見え始め、今では自分が日本人であることを誇りにさえ思う。

ワタシが特に気になったのは、この人が後日のコメントで、日本政府と被害者の家族の対応を「茶番劇」と批判している点である。例えば外務省が、今回の拉致犯人のテロリスト集団について「話の出来る相手ではなかった」とコメントした事について、「お茶飲みながら話し合ってどうするよ?!彼らと通じる言葉はない。ただ行動実行あるのみ」と言う。これはまさにこの度の謂れ無き戦争をおっ始めた某国大統領の台詞そのものであるから、ワタシは苦笑を禁じえない。

そのくせこの人はかの大統領はお嫌いらしく、例えば日本政府がテロリストに屈せず自衛隊の撤退はしないと言った事に「空いた口が塞がらない」と言い、更に亜米利加政府がそれを立派な態度と称したことについて、何かと言うと「テロ」という言葉を操るご都合主義で奇麗事ばかりのかの国に褒められても嬉しくないと一蹴する。

この人はこの地域に長く住んでいるという自負があるようだが、外交や国際政治一般に関しては残念ながら疎いようなので、こういった典型的二ホンジン的コメントが出てきたのだと思う。そして自説に大いなる矛盾が在る事に気付かない辺りが、素人らしくて良いのだけれど、ならば余り大きな事は言わぬが良かろうとワタシは思う。

基本的に現在の日本国政府が取れる手段としては、犯人グループまたは現地の有力者グループや周辺各国との交渉以外に道は無い。いや、日本だけじゃないのよ。どの国の政府もそうなの。交渉以外の手段が取れるのは、既におっ始めちゃってる亜米利加と英吉利くらいしかないのである。今回は展開が非常に速かったので、日本国政府としても恐らく戸惑ったに違いないが、犯人グループとの直接交渉を試みるというのは本来の外交政策いろはの「い」であるから、政府としては当然の事をしたまでであろう。つまりそれだけ今回の相手が、他国の侵入に対して怒っているという事だ。

こういった事は一般人には理解し難いかも知れないが、国際関係はその余りに多くの部分を交渉、ディプロマシーに因っている。だから外交官というのは、どうしてもその様々な政治的人間的資質を問われ、重要な役目を負っているのである。(役所内の腐敗については、別問題である。)

そして国家たるもの、国益を守るのが最重要課題であるから、政策決定者とその仲間たちが重要と判断すれば軍隊も送るしテロリストの要求にも容易に屈しないと公に宣言せねばならない。そして某国の前回の首脳選挙と違って、日本国の首脳とその同僚たち(の多く)は公正なる選挙によって選ばれた人々という事になっているのだから、政策が気に入らないならそうと、次回の選挙に於いて言えばいい。仮に海外に居る為に投票し得ない状況に居る人なら、それはつまり国政参加を放棄し国民としての義務を怠っている結果になる訳だから、国の政策について大っぴらに文句を言うのはお門違いである。

それに、事が収拾不可能なところまで来てしまった現在の中東情勢に於いて、「テロリストと話し合いはしない」などとまるで某大統領のような台詞を吐くこの人は、それでは他に一体どういう方法があると言うのだろうか。しかしこの人のコメントを読む限り、特に替わりの提案は見られない。文句を言うだけなら、幼児でも出来る。

実際他国との協調を抜きにして、日本という国はその存続自体成り立たないのだから、この現実を(この人に限った事ではないが)ご最もな政治批評を展開する二ホンジンの皆さんは、よくよく考えるがいいと思う。この現実と、内外の諸事情とを考慮に入れて、真の政策執行能力の在る首脳を選ばねばならない。

其の三。これは直接この件との関係は不明である上、どこかのサイトで人々が繰り返しコメントしていた中から拾ってきたので誰の言かも不明だが、世の中死にたくなくても死なねばならない人もいるのだから、自分から死を選ぶ人は新潟でもイラクでも行って代わりに死んでやれと言う説がある。この短絡的な一緒くた振りは、自殺願望を持った事が無いから言える事であろう。

凡そ自殺志願者というのは、勿論時代と共にその傾向も違ってくるだろうことは予想も付くけれども、そんな体裁の良い理屈で割り切れる程度の悩み事で死を選ぶことは稀である。自殺志願者の多くは、いくつもの悩み事を抱えていてそれが八方塞に見える時、また誰もその事を理解してくれないように見える時、周りに援助者やその環境が整っていない時、等々の複合で死を選ぶ。これは、その人の生育暦やそれと現在の状況との関連にも因るから、幾ら大変な状況だからと言って必ずしも皆が死のうとするか、一概には言えない。更に、使われる手段はその人の「切羽詰っている度」にも因るから、息の根を確実に止める方法を取るか未遂に終わる作戦に留めるか、等は様々である。

これらは物の本に書いてあることだから、もし疑うならその手の本を探して一度読んでみるといい。何しろ、「誰々と比べて貴方の悩みは大した事が無いから死ぬ必要は無い」などと言って説得を試みても無駄である。そんな事を言われても、それと当人の状況とは全く無関係だから、何の足しにもならないからである。却ってそんな事を言うと、崖っぷちに立つ当人を後押しする結果にもなりかねないから、家族や友人の皆さんは大いに気を付けた方がよろしい。

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恐らく今時のニホンジンは、結局のところバブルな発想から抜けきれないで居ると言う事なのではないだろうか。

これはワタシ個人の説だけれど、戦後の日本は思想面での発達を妨げられ、また自発的に止めてしまった上、その代わりに許されたのは経済発達のみであったので、大々的に経済発展は遂げたものの人々の豊かな生活の基盤になる思想的・観念的発達は疎かにされたまま戦後期を駆け抜けてしまった。だから議論も満足に出来ず、旅に出掛けた先で起こり得る危険をも推し量れない人間の大量生産になってしまったのではないか。

ワタシは「戦後の詰め込み教育」という、批評家たちの格好の餌食になっているお題目自体が問題だとは考えていない。それは寧ろ、社会のほんの断片でしかない。詰め込まれても、それに対応し得る情緒的思想的発達を促す事は出来た筈だと思う。だってワタシだって出来たもの。そして他にも出来た人を何人も知っている。

人間として当たり前の態度とか人間らしい心の反応とか人の痛みや善悪を判るとか、そういうのは勉強させ過ぎるから無くすのではない。親は何をしていたのか。社会は、コミュニティーは何をしていたのか。学校だけがものを教える場ではない。

大人は、その社会的立場が何であれ、また何処にあろうとも、社会に置いて次世代を教育していくという大きな義務を負っている。


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