この連載上で、抽象的な、“詩”のようなカタチで、自分の言葉を表現する事を、僕は好まない。
好き。
大切。
嫌い。
顔も見たくない。
またいつか。
真心を、君に伝えたい。
…。
なんで、気持ちを伝えられないんだろう?
ストレートに嫌いと言われれば、相手は傷つく。
傷つくから何も言わなければ、自分が傷つく。
ソコから先に、進む術を持たない者は、そこで立ち尽くしてしまう。
何もいわずに、何もできずにただ、紙くずのように、風に飲まれていった友が、いったい何人いただろう?
今、僕の書いている文章を、いったい誰が読んでいる?
僕にはそれを知る術はないが、伝える事は出来る。
そして、その言葉の、一番向こう側で、一番伝えたい人は、もしかしたら自分かもしれない。
自分は一番かわいい。
だが、その過程にある第三者、=他者が、必死で足掻き、苦しみ、その事を僕に伝えてきた事は、僕がたとえ死んだとしても、なんとかしたい。
2006年2月24日。
僕はまた、自殺をしてしまった。
いいんです。僕は。
裏切りなんて思う事自体所詮、自己満足なんだから。
そうやって、他人を殺しておいて、何も思わないで平然と、皆に平等に分け与えられたハズの時間を、早送りしていればいいんだ。
罰は必ず下る。
僕の頭の上に。
既に、罰は受けているつもりなんだが、神はまだそれでも足りない様子だ。
神などは存在しない。
自分が神だ。
自分の中の世界では。
しかし他人の世界に入り込んだ瞬間、神は、屑以下の、奴隷以下の、虫ケラになる。
そんな渡世でも、手を差し出してくれる人もいる。
強烈に、ヤクザよりタチは悪いが、僕のために、一緒に血を流してくれている。
だから、僕は死んだ。
死んだけど、また、這い上がろう。と思う。
この目が覚めたら。
矢が尽き、剣が折れ、四肢が千切れようとも、志を同じく、“生きる”事に精一杯死んでもいいと思っている仲間、同士、先輩…。
どうか、後ろは振り向かないで、全力で、本当に、全力で、かっこ悪くてもいいから、走ろう。
応援的な事ではなく、走った先に待っているも物がたとえ絶望だとしてもソレは、生きた証としての絶望。
ましてや、神は、絶望は用意しない。
例えば、メジャーデビューが目標で、それに目掛けて走ったとして、その夢が叶う確証はないし、期待も薄いかもしれない。
だけど、努力して、継続して我慢ができるヤツは、その目標に近いトコロまでは必ず行ける。
それだけは、必ずだ。
仮に、美味しいところだけなにもせずにたやすく手に入れられると思っているやつは、僕の前に来なさい。
闘魂ビンタを食らわしてやる。
そんなバンドなんです、僕が立ち上げた「ドグマ散ル」は。
そして、こんな鬱病でドッペルゲンガーと戦っている僕の周りにいてくれている皆さんに、本当に、真心を伝えたい。
…、そろそろ、意識が強制遮断するようなので、この辺で。
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