ことばとこたまてばこ
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1970年01月18日(日) 蝸牛

「ママ!どうしてあたいは耳が聞こえないの!?」

今日学校で同級生の底意地の悪い馬鹿不細工女があたいに言った。
「その耳につけてるの面白いわね。なんちゅうか未来の携帯電話かしら。時代先取りしてるわね。格好良いね。ほほほほほほほ」手の甲を口にあてて笑うその姿は、子供のくせに大人の真似事をするなんて醜悪だなと思ったけど。実際のところ、その場であたいはそれが悪口だと気づくには少々知恵が足らなかった。
「ああ、この馬鹿不細工女、結構面白いこというでねぇの。これが未来の携帯電話ね。なるほどねぇ。あり得るじゃないの。いいえてみょう、ってゆうのかしら」と思いながら、ほっほっほと静かに笑い返しただけで。


そのことを台所で肉じゃがアスパラ炒めピーマン肉詰めハンバーグを作ってるママに「おもろいこと考えるねっ」と言ってみた。あたしが言い終えるやいなや、ママはしかめっ面をしてすぐにどこかに電話をかけた。その約1時間後、馬鹿不細工女が、これまた顔がそっくりな母親に引き連れられ、ほとんど強引に頭を押しやられてあたしの目の前で謝る図ができていた。
なにがどうしたのか、頭上でママンが向こうの親になにを怒っているのか、何故草津せんべいを彼女の母からもらうのか、いささかの理由もいっさい把握ができなかったうえ、母親に頭を押さえつけられて涙に濡れる彼女の舐めつけるようなじっとりとした上目遣いがどうにも気色悪く、あたいは黙って自分の部屋に戻った。布団に潜り込むと、訳ワカメな現状に至った原因らしき未来の携帯電話を耳ごと引きちぎらんばかりに外して壁に叩きつける。
味覚、触覚、視覚、嗅覚、そして残りの聴覚を補うはずの補聴器は、いともあっさり壊れてポンコツ。



「ママン!どうしてあたいはお耳が聞こえないの!ママンもパパンも聞こえるのにどうしてあたいだけ!」



ママンは生まれつき耳の聞こえぬ哀れな我が娘が泣きながらに訴えるのを聞き、堪えきれず滂沱して。パパンは腕を組んで胡座をかいて座って口を真一文字につぐみ、何か気の利いたことを言えぬものかと思案している模様。でもいくら考えても頭の固いパパには気の利いたことは言えないのですから無理しなくていいよと言いたかったけれど。


正直ぶっちゃけトークです、ここだけのオハナシです。
聞こえなくても別に困ってなかったんですよね、あたい。だいたいにおいて冷静に考えてみれば耳のことであたい自身が騒いだことは一度もなくて、いつだって周りの人たちがけひょんけひょんけひょんと騒いでいただけなのよね。
でもやっぱあたいもまだ子供でしょ、ほら、実際まだ8歳だし。だから周りで騒ぐ大人たちを見ていて、やっぱさね、ねぇ、流されるンよね。だってさ、大人が間違ったことを言うはずかない、って、みんな、小さいうちは思うでしょう。ほんとにねぇ。わからないよねぇ。
だからあたいは言っちゃったの。



「ママン!どうしてあたいはお耳が聞こえないの!ママンもパパンも聞こえるのにどうしてあたいだけ!あたいもみんなと聞こえるようになりたい!シュジュツを受けたい!」



カッチャカチャカ。
手術器具が擦れあう甲高い金物音が記憶の狭間で聞こえる。
でも今あたいは手術台に横たわり麻酔も効いているはず。
だのに聞こえるこの音はなんだろう。
補聴器をつけていた時、給食の時間に2ヶ月に1回の割合で出てくるハンバーグ。それが出る日の昼食は大いに盛り上がっていてまるで喧騒。その支離滅裂な音のみが怒濤のように聞こえる中、ハンバーグを切り分ける時のあたしの左手のフォークと右手のナイフが触れあっていた、あの、音、なの、かしらン。


ずるずると右耳からカタツムリが引きずり出される。
蠕動する真っ赤に染まったそれは老医者の手にもあまるほど巨大でぬらぬらぴちょぴちょライトに照らされて赤黒い色合い。医者はアルミ皿に右カタツムリを置いて今度は左耳のカタツムリを引きずり出そうとする。
相変わらず麻酔は効いてあたしは眠りこけているはずのだけどもなんだかシクシクと右耳が痛がゆい。
やがて左のカタツムリも引きずり出される。ぬぼぽぽん、と小気味よい感触が全身に余すところなく響きわたった。老医者はそれもアルミ皿に置く。


対の赤黒いカタツムリ。
「こりゃあ、右耳のヤツの方がでっけぇのぉ」
手を拭きながらカタツムリを一瞥した老医者が矍鑠とした声で嗤った。


そうだな、あたしは、右耳の方が左よりはちょっとばかり聞こえが良かった。
だから、たぶん、いいえ、きっと、あたいが、生まれてからずっと、右耳のカタツムリは、曖昧模糊とした音でない音ばかり、あるのかないのか、それすらも分からない音ばかりを、余分に吸い込み続けていて、だから、肥っちゃった、のでしょう。
それは、あたいのせいじゃない。あたいのせいじゃない。あたいのせいじゃない。
けどやっぱりあたいのせいなのですよね。カタツムリ、ごめん。


「お嬢ちゃん、もう少しじゃよ。この人工内耳を埋め込めば終わりじゃけぇね」
医者が老人特有のシミの浮く痩せこけた顔を、あたいの空っぽな耳に近づけて囁く。
たぶんこの医者の息はとても臭い。


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