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2005年05月25日(水) 朗読。


小学校には読み聞かせの会と言うのがあるらしくて 月に2回くらい
子供達に絵本の読み聞かせの時間を設けているらしい。
朗読するのはお母さん、卒業児童の母も可。会員随時募集中。
これはちょっと惹かれた。
でも駄目だ。今の自分にはとても出来ないな。

高校の研修旅行、私たちは日高の少年自然の家と言う所で一泊した。
夜になるとキャンドルサービス、その少し前になって放送部だった私に
先生から一枚の原稿が手渡された。急な事だった「これを読んでくれないかな」
当時、校内放送や高文連などで私が朗読をすると言う事を 知っている先生は
知っていて、それで持って来た話だったんだと思う。
それにしても急。「え〜、うぜ(今風に言うと)」くらいに私は思った。
何これ、面倒、遺書?下読みしろって面倒だよ、一発勝負でおっけ〜だって。
そう言う、今思い出しても青春のクソ生意気で臨んだ原稿は「北大山岳部員の遺書」。

昭和40年、日高山脈縦断中に 雪崩に遭遇して北大山岳部のパーティが
全滅した。雪の中で4日間生きていた沢田と言う24歳の青年が遺書を残した。
私が読んだのは そこから抜粋した物だった。
だが、それがどう言う状況で書かれた物であるかを 私が自分から ちゃんと
調べて知ったのは、その遺書を朗読してから 何年も経ってからの事だった。

ろうそくの明かりが灯る中、度胸だけは良かった私の朗読は一発オーケー。
ただ、同窓生の間からしきりに啜り泣きが漏れるのが何だかな〜とその時は思った。
後に、思い出文集みたいなのが配られて、その遺書に触れられている物が
多いので驚いた。好評〜と私は確かにその時、そう思った。

朗読は難しい。今ならその難しさが良く判る気がする。
山岳部の事を自ら調べ始めた頃から、私の持っていた感受性の表への出方
と言う物が どこか変わった。それは 小さな事でも色々な経験を積むごとに
年々激しくなって行った。
私はとにかく直ぐに泣いてしまう人間になってしまったのである。
詰まらない喧嘩や、ちょっとした揉め事など丸っきり平気になったが
『幸せの王子』を息子に話して聞かせながら泣いてしまう様な親になった。
音楽を聴いても泣く、テレビを見ても泣く。先日は金色のガッシュベルを見て
泣いている息子を見て 泣いてしまった
余りに恥ずかしいから映画はまず、人とは見ません。

この強い感情を 全て読む物に込められてこそ、人の心を打つ朗読が出来るの
だろう。駄々漏れになっていてはお話にならない。だけど多分私は泣きながら
このまま行くのだと思う。読み聞かせの会には 本当に大変惹かれるのだが
「つるの恩返し」でも私は泣いてしまう。声に出したらもう駄目なのだ。
笑える話担当になると言う事も出来るかも知れないが、やはり心を打つ読みを
してみたいのだ。だが、人が泣く前に絶対に自分が泣く事は判っている。
在校生の親として、泣きながら本を読む親と言う事で有名になるのは
やっぱり すさまじく恥ずかしいし。

かつて日高で遺書を読んだ時は、晩生の感受性が傲慢の皮を厚く被っていた。
仲間を想い、親を思う。私の声からでも沢田さんの心を感じ、泣いたと言う
同窓生こそ、正常な感受性を持つ人達だったのだろう。

「せっかく背広も作ったのに、もう駄目だ」
何年も何年も頭から消えないで、結局、自分から「あれは何だったのだ」と
遭難の事実を調べるに至った私の読んだ原稿の最期の一行だ。
この一行は今も忘れない。多分ずっと忘れないだろう。





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