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2006年11月14日(火) 昔の風景。


今週はしなければならない事がたくさんあるのだけど
風邪で身体がだるく、ついうたたねしてしまって
予定をこなせなかった。

取り敢えず明日は中央区の病院へ。
タイヤ交換は明後日にしよう。

だらっとしてると、色々な風景が頭に浮かぶ。

私は小樽と言う町で生まれて小学5年までそこで育った。
埠頭のある、坂の多い街。 かつては商業港として栄えた事もあった。

生家は母方祖父母の家だった。幼馴染は何故か全部男の子で
どこの家も 同じくらい貧乏で、子供は割と放ったらかしで 下水に
靴を隠す遊びをやったあと、その靴(汚水のしみこんだやつ)を
そのまま履いて遊ぶ
と言う、そんな感じだった。
自転車も誰のだか判らないボロボロの共有自転車が一台あるきりだったり。

人生ゲームを持ってる子はヒーローだったけど、どことなく本人は
つまはじきにされ、ゲームだけ奪われていたり。
持てる人間の扱いと言うのは往々にしてそんなものである)

一面のたんぽぽ、緑のばった。 おそらく食草が近くにあったのだろう
異常なまでに繁殖していた孔雀蝶。 一度見たら忘れられない蝶だ。
一昨年たまたま我が家の庭に一度だけ飛んで来た。
北海道の物は亜種であり、とりわけ美しいと言う。それらがわんわんと
飛び回っていたシュールレアリスムの絵のような光景。

盆踊りの帰り道、近所の坂を登る。 祖母に手を引かれて。
とても大きい、真っ赤な月が低く出ていて、余りに赤く低い位置に
あるのが怖かった。
その年の盆踊り、祖父はどうしても 祖母と二人で行きたがり私と弟が
一緒であるので不機嫌だったと言う。 私にはそんな記憶はない。
父も母もいないから、幼い兄弟だけにしておくわけにも行かないと言う事で
祖母が祖父を説得したのだと言う。 翌年、祖父が死んだ。

祖父が死んだ時、初めて大阪から祖父の親戚のおじさんが来て
鼻水たらした私たち兄弟に「欲しい物を何でも買ってあげる」
言ってくれたらしい。 私たちは人生ゲームと言ったので、おじさんは
人生ゲームを買ってくれた。
ヨシオおじさんと言う名前を思い出す。 以来、会ってはいない。

貧乏だけど事あるごとに浴衣を着せられた。
近所の高台からみる、花火大会の日まで着せられた。
他の子とは色の違う浴衣。 あとは男の子ばかり。
高い建物が全くないので花火は美しかった。


なくなると言う事はどう言う事なのだろう。
なくなったものはどこへ行ってしまうのだろうか。
みな、どこかにはあるのだろうか。
生きているうちは決して見えない、それだけなのだろうか。








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