綿霧岩
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ひとが話すのを聞いていて、すんなりと話が聞こえてくるときと、まったく意味が届いてこなくて、聞いているこちらがものすごく努力しないと言っていることが理解できないときとある。 と言っても、あまりものすごく努力しないので、たいていは単に馬の耳に念仏になるだけである。
聞こえるか聞こえないかの原因は明らかで、話すひとが、実感を伴って言葉を発しているか否かである。 どんなに何気ない一言でも、息のようなものであっても、人が本当にそう思って自然に発した音であれば、それは言葉として意味が伝わると思うのだが、そうではない喋り方をする人もいる。 同じ人でも、言っていることが聞こえるときと聞こえないときと、両方ある人もいる。 それはその人の「本心」モードのときと「本心以外」モードのときとの違いなのだろう。 それは時には「プライヴェート」と「社会」モードの違いであるのかもしれない。
それからまた、演技の上手い人というのもいて、言葉は本心と違うけれど、まるで本心を言っているようにすんなり聞こえる喋り方をする人もいる。 その場ではすんなりとだまされるわけであるが、本心と違う言葉は、聞いたこちらの体のどこかに違和感が残るもので、ずいぶん後になってから遅い頭が気付くこともある。
演技が上手い、で思い出したが、最近思う。俳優におけるいい演技とは仮面をつけることではなくて仮面をはがすことではないかな、と。
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