気にせずに とか 大らかな気持ちで とか そりゃ それで済むのなら わたしだってそうしたい。
自分自身の考え方とか気持ちの持ち様の問題なら それは確かに有効手段だと思う。
でも自分以外の人間の事についてになると そう簡単にはいかない。 子供とはいえ、当たり前だけど別の人格。
親は関わり、対話することはできても 結局、彼ら自身が 時には回り道をして、時には立ち止まり 迷い、探しながら、気づき、見つけていくしかない。 そして、それは決して無駄なことではないと思うんだ。
親にできることはそれを見守ることじゃないだろうか。
でもこの 見守る というのにはかなりの根気と我慢を必要とする。 また、学校や周囲のオトナの”こうあるべき”が 加えてプレッシャーをかけてくる。
実際、いくらキレイゴトを言われても 現実はそれで済むわけじゃない。
ゆっくりでいいと言った同じ口が 程なく痺れを切らし、そんなことではダメだと駆け足を求めてくる。 この滑稽ですらある矛盾。 話し合い という名の 追い詰め。
今 この国では自分のペースで生きるという 単純なはずのことが とても難しい。
色々あって、でもとにかくこの日々を あっぷあっぷと犬掻きで溺れかけながらも 生き抜かなければならないわけで。
欝の薬は増えた。糖尿の薬も合わせると結構な量になる。 これはもう納得の上で。 でもそのお陰で とにかく こうして生きている。
副作用で不正出血とかしてる。 あまり続いて酷いようなら、また薬の変更とかも 考えないといけないだろう。
トンネルの先はまだまだ見えない。 いくら薬で感覚を麻痺させているといっても きつくないわけじゃない。 薬を飲んでも眠れない日が続く。
どれだけ楽観的に考えたくても、考えられる状態じゃない。 問題は山積みで、どれだけ必死になっても とうに、この手で抱えきれる範囲を越えてる。 誰かの手助けが望めるわけでもない。 ロクに事情も理解していない人間に中途半端に介入されても かえって混乱するばかりだ。
この現状を この毎日を 生きてみて
それでも アノヒトタチは 同じように言えるのだろうか。
気の持ちようだ なんて世迷言が。
生きてますよ。 どれだけズタボロになろうが ぼんやり生きる屍と化そうが
生き抜くことが今の目標です。
--------------------------------------------------
ゆうなぎ
|