読書記録

2007年05月06日(日) 西行            白洲 正子


 このところ 訳もなしに西行にはまっている

この本は作者もあとがきに書いているように紀行文のように思える
西行が放浪した土地に作者も訪れることで、西行の歌に近づこうというのだろう・・できれば私もそうしたいものだ・・

━世の中のありとあらゆるものは、すべて仮の姿であるから、花を歌っても現実の花と思わず、月を詠じても実際には月と思うことなく、ただ縁にしたがい興に乗じて詠んでいるにすぎない。美しい虹がたなびけば、虚空は一瞬にして彩られ、太陽が輝けば、虚空が明るくなるのと一般である。わたしもこの虚空のような心で、何物にもとらわれぬ自由な境地で、さまざまの風情を彩っているといっても、あとには何の痕跡も残さない。それがほんとうの如来の姿というものだ。それ故わたしは一首詠む度に、一体の仏を造る思いをし、一句案じては秘密の真言を唱える心地がしている。わたしは歌によって法を発見することが多い。もしそういう境地に至らずに、みだりに歌を勉強する時は、邪道におちいるであろう。


春ごとの花に心をなぐさめて
六十路あまりの年を経にける


わきて見ん老木は花もあはれなり
今いくたびか春にあふべき


桜の花を友としたのと同じ心で、西行は、ひとり居の寂しさを愛した。
吉野山へ入った後の歌は、一段と風格を高めたようであるが、それは自分自身を深く見つめる暇と余裕を持ったからであろう。人間は孤独に徹した時、はじめて物が見えて来る、人を愛することができる、誰がいったか忘れてしまったが、それはほんとうのことだと思う。











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