| 2007年09月07日(金) |
生きて候 安部 龍太郎 |
倉橋長五郎政重、後の本多政重は 徳川家康の右腕といわれた本多正信の次男に生まれながら、秀忠の近習を斬り殺して出奔し、関ヶ原の合戦では宇喜多秀家軍の先鋒として徳川方と戦っている。 合戦後は秀家の助命に奔走した後、加賀百万石の筆頭家老として前田家に迎えられるのである。 一介の牢人でありながら宇喜多家では二万石、前田家では五万石で召し抱えられたのだから、その実力と人望は他に抜きん出ていたにちがいない。 私はそれを、新渡戸稲造の著わした『武士道』なのではないかと思うのだ。 ただ政重にしてみれば養父が今わの際に言い残した 「命というものは、父母から授かった宝じゃ。その宝を美しく使い切ることこそ、孝道の第一と知れ。行き急いでも、死に急いでもならぬ」との言葉を折に触れ思い出し、武辺者の生き方をまっとうしたいと考えていたのだ。
それにしてもやはり私は信長、秀吉、そして家康のように歴史の一番表舞台に登場する人物には魅力を感じない。 今回の物語では主人公の政重よりも、後に八丈島遠島になった宇喜多秀家のような悲劇な人物にこそ強い思い入れがある。 敗将となった人物は判断を誤ったのではない、それこそ己の命を美しく使い切ったのだ・・と私は思うのだ。
人には分に合った生き方がある。 梅には梅の花が咲き、桃には桃の花が咲く。 分を超えた生き方をすれば、他人(ひと)も自分(われ)も不幸になるばかりだ。
冬の野の高みに咲ける福寿草 間近き春ぞ 風強くとも
花ありて熱き時代は過ぎにけり ただゆくりなく生きて候
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