第一部 修羅を生きる 第二部 非命に死す
桜田門外に倒れた井伊直弼により遣米使節に任命され、咸臨丸で渡米した忠順は、帰国後 攘夷論が主流を占める幕末に、諸外国との交流なくしては、亡国への道を進むしかないとの判断から、古いしきたりを守ろうとする幕閣に立ち向かっていくが、その壁は大きく何度も失職。そして、その度に混沌とする時世においては、上層部の考えも変わり、復帰してきた。新しい時代の流れをなかなか受け入れられない幕閣たちの反対にあいながらも、忠順は広い見識も持って次世代の発展を願い、幕府の終焉を予感しながらも行動していった。 「天下を郡県となし、入札によって選ばれた将軍をもって大統領とする」 そんな理想をいだきながら、これからの時代は自分の邦は自分で守るという強い意識の元で、軍艦も製造することのできる今の横須賀製鉄所の建設に力を注いでいくのだ。
それにしても勝海舟との確執が不謹慎な言い方だが面白い。 小栗が沈めば、勝が浮かぶ。勝が転べば、小栗が起つ。 勝麟太郎義邦とは生涯のライバルだったようだ。
幕末の江戸幕府にいて、大政奉還や諸外国との新しい関係を築いていかなければならなかった激動の時代にあって、将来の日本を見据えた人物がいたのだ。坂本竜馬や西郷吉之助やライバルだった勝海舟なんかに比べると影が薄い印象はあるけれど、もし小栗忠順が斬首されないでいたら、どんな日本に導いてくれただろうか・・という強い思いが残る。
慶応四(1868)年閏四月六日、小栗上野介忠順、非命に死す。 享年四十二歳であった。
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