読書記録

2010年09月10日(金) 重源          伊藤 ていじ

 

 本来ならば国がなすべき巨大な事業を、一紙半銭の資金も与えられず、事業費の総額も事業の期間も分からないまま、無名の六一歳から自ら望んで始め、老骨の八六歳に至るまで、痩躯をもって走廻・活動し、最期にはすべての財貨と所領を社会に還元し、私物を残すことなく生涯を燃焼しつくした男。それが重源。同行の集団は個人の次元に解体され、教団も教義も残すことはなかった。

 政府は、ただひとつのものを与えた。源平相争う国土内乱のなかで、「大勧進」という職名だけ。彼は聖なる高僧というよりは、常の衣を墨染めにしただけのしたたかな事業家という方が、より真実に近い。悪徳と美徳の矛盾の仮面をつけながら、それらは表をみせ裏をみせながら地上に落下していった。

・・・・・・・・・・

 こういう彼の姿は、社会からみれば一枚の枯葉や落花のようなものである。善悪を葉や花びらの裏表にして、きらめき翻えりながら落ちていく。地面に落ちれば土に還る。それが人生である。それ以上もそれ以下でもない。


 
 作者には日本の建築史家、工学博士、建築評論家そして作家という肩書きがついているが、やはり建築家として大仏殿を見たときにあの時代でこれだけの大修理を成した重源という人物に興味をもつことはとても自然なことで、清濁併せ持つ重源の物語がとても読み応えのある一冊になった。

 今年 旧暦の俊乗忌に東大寺の俊乗堂にお参りに行った。
ツアー客らしい集団が去ったあとのお堂でじっくり拝見させていただいた御坊の像は、口元がしっかり合わさっていて意思の強さのようなものを感じた。

    俊乗忌 往時を偲ぶ阿弥陀仏












 < 過去  INDEX  未来 >


fuu [MAIL]