なか杉こうの日記
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2006年04月16日(日) 「現代おとな考」by鷲田清一氏の記事

4月12日付けの読売新聞に鷲田清一さんという大阪大学の副学長が「現代おとな考」という題できわめてstimulativeなことを書いていた。

それは自分でもつらつら感じていたことに通じる。つまり、あの永田議員でしたっけ、虚偽の追求をしてそれが根拠のないこととわかり謝罪するとき、あの大きな眼を節目がちにして大変すまなかったというような格好をしていたが、そのインタビューの中で、言葉の言い間違いをして、それはとても些細なことだと思うのだが、その時に「あ、いけねえ」とでも言う如く、自分の頬を手のひらでぱし、と打ったのである。

それはいかにも軽軽しく、そうして謝罪している様子が嘘っぽく見えた。それはテレビでタレントが言い間違えをして、自分の頬をぴしゃとたたく、その様子であった。

これは自分が気づいたことであるが、さらにあの東急インの社長、指摘された問題について「ちょっとミスっちゃって・・・」とでも言うような言い訳をしたあと、ものすごく悪びれた様子を見せて謝罪する・・・あの下手な演技。

鷲田さんは、この二人について直接どうこう言っているわけではないが、記事に添えられた写真とともに、こちらには「そうだ、あの人たちのことだ」と思わせる。

つまり、鷲田氏の言葉のなかで私にとって重要に思えたのは、未熟な中にもたとえば繊細さとか敏感さとか才能とか貴重なものがあるけれども、それは世の中の基本的なこと、たとえば「働くこと、調理をすること、修繕をすること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、教えること、話し合いとりきめること、看病すること、介護すること、看取ること」などなどができてあるいはそれをしながら、でこそ、護ることができる・・・と言っているように聞こえた。

その最後のところを引用したい。これは自分のためである。

「これ以上向こうに行くと危ないという感覚、あるいはものごとの軽重の判別、これらをわきまえてはじめて「一人前」である。ひとはもっと「おとな」に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの、「未熟」は、護れない。
われを忘れてなにかに夢中になる、かちっとした意味の枠組みにとらわれていないぶん世界の繊細な変化に深く感応できる、一つのことに集中できないぶん社会が中枢神経としているのとは異なる時間に浸ることができる、世界が脱臼しているぶん「この世界」とは別のありようにふれることができる、そんな、芸術をはじめとする文化のさまざまな可能性を開いてきた「未熟」な感受性を、護ることはできないのである。」

ここで思い出すのは茨木のり子さんの「感受性なんて」という、たしかそんな題の詩である。自分の感受性ぐらい自分でまもれなくてどうするか、というような詩である。

そうなのだ、「芸術をはじめとする文化のさまざまな可能性を開いてきた「未熟」な感受性」という指摘は重要である。しかしそれを護ることができない人がいかに多いことか。

この鷲田清一氏は哲学・倫理学の教授でもあるようだ。著名な人なのだろうか。


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